ある初夏の日
季節は夏に入る一歩手前、初夏。
こうして四季がめぐってくるようになってからかなりの時間が経つ。
でもこうしてはっきりと四季を感じるようになったのはここ数年の事だ。
以前は緩やかだった四季の巡りも、今ではまるで季節が足音を立てながら過ぎ去って行く。
昔は一年中、同じ種類の服を持っていれば良かったが今ではその季節毎の服を用意しなくてはならない。
夫は面倒になったとぶつぶつ漏らしていたが、あたしは季節毎に服が選べるし、何より景色が素晴らしいのでそれほど嫌いではない。
そんな初夏の日差しがあたしの背中を照らしている。
強くもなく、弱くもない、ちょうどいい感じの日差しがあたしの背中を暖めている。
日の光があたしの自慢の紅茶色の髪を照らし、綺麗な光を反射させている。
窓際は暖かくて気持ちいいのだが、さすがに光のせいで手元が見ずらいので少し前へと移動する。
兆度手元が影になって少しは見やすくなった。
時間を見ると時計は丁度2時を指している。
「んんっ」
あたしは声を漏らしながら思いきり体を伸ばす。
かれこれ一時間近くこうしているのでさすがに疲れてくる。
あたしは今、編み物をしている。
ちょっと見ただけではこれがなんであるのかは分からない。
まだ編み始めたばかりだから当然といえば当然なのだが。
大体の大きさで編んでいるけどこの大きさはとても小さいものだ。
完成しても私の掌の中にすっぽりと収まるくらいのサイズだろう。
出来あがりが楽しみだ。
最も出来あがってもこれの出番となるのはしばらく先のことになるだろう。
あたしは少しずつ、毛糸を編みこんで行く。
まだ編み物は始めたばかりなので、それほど手馴れていないあたしはゆっくりと毛糸を編みこんで行く。
他の人から見ればいらいらしてしまうようかな速度かもしれない。
少し前のあたしなら間違いなくキレてしまったことだろう。
でも今のあたしは違う。
ゆっくりと流れるこの時をあたしはじっくり楽しんでいる。
視線を一旦手元から目の前のキッチンの方に移す。
キッチンの方では夫がエプロンを書けたまま食器を洗っていた。
妙に似合うその姿にあたしは口元を僅かに緩ませる。
少し前まではキッチンにいるのはあたしのはずだったのだ。
結婚前までは夫が台所に立つ方が多かった。
けど結婚してからはあたしもなるべくキッチンに立つようになった。
料理を作って、愛する夫が笑顔で食べてくれる。
そして家を出るときは弁当を作ってあげる。
食べてくれる時の笑顔。
弁当を受け取る時の笑顔。
その笑顔が見たくてあたしはどんどん料理をするようになった。
でも最近はキッチンにさえ立たせてくれない。
適度な運動はしたほうが良いと言われているのにもかかわらず夫はあたしに家事仕事をさせてくれないのだ。
全く、心配性にも困ったものだ。
でもこうして夫の背中姿をじっくり見ることが出来るからそれも悪くないかな、と思う。
結局結婚以前の生活に戻ってしまった。
そしてあたしは視線を背中から手元へと移す。
「あっ」
あたしは小さな声をあげる。
そしてゆっくりと自分のお腹を摩る。
愛しい物を撫でるように、何度も何度も摩る。
摩る毎にあたしの心に満ちてくるのは例えようもない幸せ、そして感謝。
あたしとシンジ、そしてこの子がいてくれる事に対する。
そして少しでも早くこの幸せを伝えたくて目の前で皿洗いをしている夫を呼ぶ。
「ねぇ、アナタ、アナタ」
皿の音にかき消されているのか、それとも聞こえない振りをしているのか、夫はこちらの方に振り向こうとはしない。
あたしはこの呼び方が好きなのでこう呼ぶ事があるのだが夫はあまり好きではないようだ。
以前もこうして呼んで返事してくれなかった時があった。
「なんで?」
とあたしが聞くと夫は恥ずかしそうに頭を掻きながら
「実感ないんだよね。
その呼び方で呼ばれるの慣れていないし」
と言っていた。
その事を思い出したあたしはくすりと笑った。
ホント、夫らしいと思う。
ちょっと直して欲しいとは思うがそれが夫の魅力なのだと思う。
だからあたしはいつもの呼び方で呼ぶことにした。
「ねぇ、シンジ」
そう言った途端、シンジは皿洗いを止め、手を付近でふきながら近付いてくる。
声の大きさ自体はさっきと同じくらいなのに即座に反応したシンジが面白くてあたしは声をあげてけらけらと笑う。
呼ばれたのに笑われているのでシンジは何が何だかわからないようだ。
頭の上に?マークを浮かべながら首をかしげている。
「ねぇ、なんなんだよ?」
若干、不快そうな声でを混じらせながらシンジがそう言う。
あたしはその声を聞いて笑うのを止めると再び自分のお腹を摩りながら視線をお腹に移す。
「お腹・・・・・」
「え?」
「赤ちゃん・・・・・お腹蹴ったの」
ゆっくりとお腹を摩りながら出来るだけ優しい声であたしはそう口にする。
「えっ!ホント?」
シンジは一気に顔をほころばせてあたしのお腹に耳を当てる。
「ちょっと待って・・・・・」
そう言ってあたしは一度シンジを自分のお腹から遠ざけると自分の服を捲り上げ、大きくなったお腹をシンジに見せる。
そしてシンジはあたしのお腹にゆっくりと耳を当てる。
シンジのひんやりとした耳の感触がお腹を伝わってくる。
「「あっ・・・・」」
今度は二人同時に声をあげる。
「今、蹴ったね?」
シンジは顔を緩ませながら嬉しそうな声でゆっくりとそう言った。
「うん・・・・」
そう、頷くあたしは幸せが広がっていくようだった。
そしてシンジが再びあたしのお腹に耳を当てる。
そんなシンジの姿がどこか滑稽であたしは口元を緩ませながらシンジの柔らかい黒髪をなでる。
とん・・・とん・・・とん・・・
私達の赤ちゃんがあたしのお腹を蹴飛ばしている。
おそらく耳を当てているシンジにもこの音が聞こえているはずだ。
早く出たい、早く出たい。
と、あたかも主張しているような感じだ。
そしてあたしはゆっくりとお腹を、赤ちゃんを摩る。
「焦らなくていいのよ。
ゆっくりでいいの。
あなたは私達の宝なんだから。
もう少し、ここでゆっくりしてね。
ここでもう少しゆっくりして大きくなったら私達にあなたの笑顔を見せてちょうだい。
だからね、焦らなくていいのよ」
それだけ口にするとあたしの声が聞こえたのか、赤ちゃんがお腹を蹴る音がぴたりと止んだ。
「でも早くみたいな、この子の笑顔」
シンジはお腹に耳を当てた状態でそう言う。
「ばぁか、アナタがそう言うからこの子が焦っちゃうのよ。
・・・・・・・でも、そうね。
あっ、そう言えばさ。
決めてくれた?
この子の名前」
シンジはお腹から頭を離すと自信無さそうに頭を掻きながらあたしに向きあう。
「うん、一応は・・・・・」
「何よ、頼りないわね」
「だってさ、名前って言ったら一生モノだろう?
そう思うとなかなか決められなくてさ・・・・」
そんなシンジの顔を見てあたしはくすりと笑う。
「そう言う所、アナタらしいわ」
「そうかな?」
「そうよ。
それで、名前なんて言うの?」
「いいよ、ええと名前はね―」
私達の子供が生まれるまでもうすぐだ。
もうすぐ私の中の小さな命が産声を上げる。
あたしはその日を指折り数えながら待っていた。
あたしの周りも中も幸せで満ちていた。
この幸せをあたしはどう例えればいいのだろう?
あたしはこの幸せを涙が出るほどに噛み締めていた。
それは、ある初夏の日の出来事。
ごく平凡な毎日の、ある一日の出来事―
終
皆さん、はじめまして。
さくぎんと申します。
ちょっと遅いですが開設記念という事でSSを送らせていただきました。
う〜ん、しかしオチ無し、のSSですね。
まぁ、読んでいただいた後に、ほんわか幸せ〜になっていただけたらなと思います。
最近の私には珍しくこの程度でまとめられて良かったです。
しかし、これはLASなのでしょうか?
お約束していたSSがこんな物になってしまって・・・・シンクロウさんすいません。
今回はお読み頂きありがとうございました。
ではまた!
さくぎん
さくぎんさんの「ある初夏の日」でした!(^^)。いやぁ、遂にさくぎんさんの作品を頂いてしまいました。くぅぅ!感謝感激!そして、今作も素晴らしいのなんの!シンジと結婚して妊娠しているアスカ。シンジの優しさに毎日触れていて、月日と共にだいぶ角が丸くなった様子が冒頭の見事な情景描写で伝わってきますよね。午後の純白の陽の光りが差し込む窓際で編み物をするアスカ。穏やかで、平穏な時間の流れの素晴らしさが目に浮かぶようです。うーーん、絶妙!この辺りの筆さばきから醸し出される、さくぎんさんワールドが、物語の流れを一層流麗に美しく引き立たせていますよね。
そしてそして、ラストでなにげなく書かれている名台詞!
>あたしはこの幸せを涙が出るほどに噛み締めていた。
>それは、ある初夏の日の出来事。
>ごく平凡な毎日の、ある一日の出来事―
そうなんです!幸せはごく平凡な日常の中に埋もれているものなんですね。何トンもの泥の中に埋もれている小さな小さなダイヤを、ざるでこして行って見つけた時の、至上の嬉しさ。これが幸せなんですね。うーーん、素晴らしい!さくぎんさんの作品は、名台詞の宝庫です(^^)。
そして中でも特にジーンと来たのが、アスカの「アナタ」ですね。アナタと呼んでも振り向かないシンジが、今も変わらない2人の愛の形を象徴していますよね。やはり、結婚しても子供が出来ても、「シンジとアスカ」に変わりは無いのだと思います。確かに、少年時代の頃と比べられないほど親密になった2人ですが、やはり紛れもない「シンジとアスカ」なんですね。この作品を通して、改めてそんな事を思い起こさせて頂きました(^^)。
さくぎんさん、この度は本当に素晴らしい作品をご投稿して下さり、ありがとうございました!もうシンクロウは幸せ一杯で打ち震えております。ご覧になった皆様も、是非とも是非とも、さくぎんさんにご感想を送りましょう!たった一言の感想が、このような素晴らしい名作を生み出す、大きな力になるのです。ですので、是非ともご感想をよろしくお願いします!w(_
_)w