「・・・全然、違うよ・・・」

 弱々しく、かぶりを振るシンジに、

 「・・・」

 三人は言葉も無く、顔を見合わせるのみであった。



 新世紀エヴァンゲリオン if story
  「第壱中学奇譚・完結編」   著 すけっち・ぶっく



 一人、学校を出たアスカは、

 「今にも、走り出しそうな・・・」

 勢いで、ネルフへの道のりを急いでいた。
 アスカが、ネルフへと向かう理由は、ただ一つ。

 (リツコに会って、シンジのことを訊く!)

 このことであった。

 (あたしは、シンジといたいんだ・・・!)

 たとえ、

 (シンジが、どうなろうと・・・)

 たとえ、

 (シンジが、どこへ行こうと・・・)

 アスカは、決意していた。

 (あたしは、ずっとシンジといるんだ・・・!)

 そう、アスカは、思い極めていたのである。





 「・・・そ、そろそろ、俺達も帰ろうか?」

 困ったように、トウジやヒカリと顔を見合わせていたケンスケが、

 「沈んだ空気を・・・」

 払うかのように、陽気な声を上げた。

 「せやな。こうしとっても、しゃあないし」

 応じてトウジも笑顔をつくる。
 そんな二人に、シンジは、ちょっと顔を上げたが、

 「・・・ごめん。僕、これから職員室に用事があるから・・・」

 申し訳無さそうに、再び俯いてしまう。

 「職員室?何でだ?」

 訊ねるケンスケに、

 「あ・・・と。ほら、もうすぐ期末テストでしょ?でも、僕、今日も遅刻
 しちゃったから・・・それで、ね」

 「ふ〜ん・・・」

 なんだか、

 (分かったような、分からないような・・・)

 説明ではあったが、シンジの言わんとするところは、

 (なんとなく・・・)

 頷ける。
 しかし、ヒカリは、

 (なんとなく・・・)

 頷けなかった。

 「・・・ねえ、碇君。テストのことも大事だと思うけど、今日は早く帰って、
 待っててあげたら?」

 あえて、誰を、とは言わないが、

 (アスカの帰りを、待っててあげたら?)

 ヒカリの心遣いが、シンジには分かった。
 シンジは、数瞬、視線をさ迷わせていたが、

 「・・・ううん」

 かぶりを振ると、

 「やっぱり、学校に残るよ・・・頑張るって、決めたし」

 はっきりとした口調で、言った。

 「でも・・・」

 「大丈夫。なるべく早く帰るようにするから」

 「分かった。碇の思うようにしたらええ」

 きっぱりと言いきるシンジに、トウジが頷いた。

 「鈴原・・・」

 「大丈夫や、委員長。碇も、早く帰る言うてることやし・・・せやな?シンジ」

 真っ直ぐに見つめて、名を呼んでくるトウジに、

 「うん」

 シンジは、強く頷く。
 そうしたまま、笑顔を交わす二人に、

 「・・・二人とも、男らしいねえ」

 感に堪えぬ、といった面持ちで、ケンスケがかぶりを振った。

 「あほ!茶化すなや!」

 「もう、ケンスケってば・・・」

 「へへっ」

 三人、顔を見合わせると、

 「にっこりと」

 笑い合う。

 「・・・それなら、下まで一緒に降りようぜ」

 「うん。そうだね」

 「・・・委員長は、どないする?ワシらと一緒に帰るか?」

 にっこりと笑い合う三人を、

 「ぼんやりと・・・」

 見つめていたヒカリは、トウジの声で、

 「え!?あ、わ、私!?」

 はっと、我に返る。
 心なしか、その頬が赤く見えるのは、気のせいであろうか・・・。
 トウジは、それには気づかず、

 「どないする?」

 再び、問うた。

 (できれば、鈴原と一緒に帰りたいけど・・・)

 ヒカリは、ちょっと眉を曇らせると、

 「・・・私は、図書室に用事があるから・・・」

 少し上目遣いに、トウジを見やる。

 「さ、さよか!」

 何故だか、トウジは慌てたように、

 「そんなら、しゃあないわな!じゃ、じゃあ、委員長、また明日!」

 凄まじい速さで、鞄を引っ掴むと、

 「足を縺れさせるように・・・」

 教室を出ていった。
 なにやら、その頬が赤く見えるのは、やはり気のせいなのであろうか・・・。

 「・・・トウジ、どうしちゃったんだろ?」

 呆然として、つぶやくシンジに、

 「・・・ま、トウジだからな」

 ケンスケは、苦笑する。
 続いて、ヒカリに向き直ると、

 「ま、そういうわけだからさ、俺達はこれで帰るよ・・・委員長も、あまり
 遅くならないうちに帰れよ」

 言い置いて、シンジを促す。

 「行こうぜ、碇」

 「うん。あ、洞木さん」

 シンジは、くるりと振り向くと、

 「・・・心配してくれて、ありがとう。洞木さんも、気をつけて帰ってね」

 笑顔で言うと、

 「それじゃあ」

 と、教室を出ていった。

 「あ、うん・・・また明日」

 手を振りつつ、ヒカリは戸口まで歩み寄る。

 (あっ・・・!)

 見れば、トウジが階段の手前に立っているではないか。
 トウジは、ヒカリに気づくと、

 「・・・委員長!気ぃつけて帰ってや!ほな、また明日!」

 言いさして、さっと身を翻す。
 そんなトウジの姿に、ヒカリは、

 「きゅっと・・・」

 胸の前で、両手を組むと、

 「・・・うん。また明日ね・・・すずはら」

 そっと、つぶやいていた。





 アスカは、扉の前に立ち尽くしていた。
 もう、どれくらいになるのであろうか・・・。
 アスカは、無機質な扉を、

 「睨むように・・・」

 見据えたまま、じっと立ち尽くしていた。

 (この扉の向こうに、リツコがいる・・・)

 それは、既に確認してある。
 だが、アスカは未だに扉を叩けずにいた。

 (シンジのこと、リツコに訊くって決めたのに!)

 それなのに、足は床に張り付いたように動かせない。
 腕は、鉛のように重い。

 (・・・決めたのにっ!)

 ぎりりと、歯を食いしばる。

 (・・・シンジと、いるって!)

 爪が、掌に食い込むほどに、拳を強く握り締める。

 (・・・いっしょに、いるんだって!)

 肩が、震える。

 (・・・決めたのに!)

 強く、シンジを想う。

 (・・・シンジ!)

 シンジが、笑っている。

 (・・・シンジ!)

 シンジが、困っている。

 (・・・シンジ!)

 シンジが、真剣に考えている。

 (・・・シンジ!)

 シンジが、おどおどしている。

 (・・・シンジ!)

 シンジが、ため息をついている。

 (・・・シンジ!)

 シンジが、優しく、

 (・・・シンジっ!)

 微笑んでいる。

 「大丈夫だよ、アスカ」

 ふと、シンジの声が、

 (聞こえたような・・・)

 気がした。

 (・・・うん。そうだね、シンジ)

 アスカは、ゆっくりと手を広げる。

 (大丈夫だよね。あたし達は・・・)

 一つ、深呼吸をする。

 (ずっと・・・いっしょだよね)

 すっと、腕を上げて、扉の横にあるインターホンを押した。

 「・・・どなた?」

 ややあってから、スピーカーから赤木リツコの声が聞こえてきた。

 「リツコ?アスカだけど、ちょっといい?」

 「・・・入りなさい」

 その声と共に、扉のロックが外れた。

 「お邪魔するわね」

 言い置いて、中へと入る。
 リツコは、一旦、机の上の端末を眠らせると、

 「・・・それで、何の用かしら?」

 アスカへと、向き直る。

 「あのね・・・」

 言葉が、続かない。

 「あの・・・ね・・・」

 いぶかしげに、リツコが眉をひそめた。
 珍しく言い淀むアスカに、

 「ま、とりあえず、座りなさい」

 傍らに置いてあるソファを指し示す。

 「・・・で、いったい何の用なのかしら?」

 自らもアスカの対面へと座を占めると、改めて、問うた。
 しかし、アスカは、俯いたまま答えようとはしない。
 リツコは、一つ息をつくと、

 「アスカ?私は、閑じゃないのよ?」

 素っ気無く、告げる。

 「・・・」

 しかし、アスカは答えない。

 「・・・話にならないわね」

 一つ、かぶりを振ってソファを立ち上がる。

 「アスカ、用が無いなら・・・」

 「まって!」

 帰りなさい、と言いかけたリツコに、アスカが顔を上げる。

 「・・・!」

 思わず、リツコは息を飲んだ。
 アスカの潤みきった瞳が、

 (ひどく・・・)

 揺れているではないか。
 見上げた顔が、

 (ひどく・・・)

 切羽詰まっているではないか。

 (いったい、何が・・・)

 リツコには、

 (思い当たる節が・・・)

 まったく、無い。
 とりあえず、座り直すと、

 「・・・アスカ、どうしたの?今日のあなた、変よ?」

 穏やかに、問うた。
 再び、アスカは俯いてしまった。

 (・・・へえ)

 内心、リツコは、ひどく驚いていた。
 なにしろ、このようなアスカは、

 (初めて見る・・・)

 のである。
 俯いたまま、黙り込んでしまったアスカを、リツコは何も言わずに見つめていた。
 時が、過ぎる。
 少しずつ、だが、確実に時が、過ぎる。

 「あの、ね」

 俯いたままのアスカが、ぽつりと漏らす。
 リツコは、何も言わない。

 「・・・あの、し、シンジのこと、なんだけど・・・」

 ようやくに、吐き出された言葉に、

 (・・・なんですって?)

 リツコは、呆然としてしまった。
 思わず、

 「・・・シンジ君のこと?」

 確認するように、問い返す。

 「・・・うん。シンジの、こと」

 ぽつり、ぽつりと漏らすアスカに、

 (訊ねる相手を間違えてるわよ・・・)

 我知らず、こめかみを押さえてしまう。
 どう考えても、

 (私は、中学生の恋愛相談を受けるような柄じゃ・・・)

 無いとしか、思えないではないか。

 「・・・あのね、アスカ。そういったことは、マヤにでも・・・」

 この時のリツコの脳裏には、

 「何故か・・・」

 ミサトの面影は、まったく浮かばなかった。
 だが、

 「マヤじゃ、駄目なの!」

 アスカは、激しくかぶりを振った。

 「リツコに、直接訊きたいの!」

 きっ、と面を上げる。

 「直接・・・?」

 もはや、リツコには、

 (アスカが、何を言っているのか・・・)

 ちっとも、分からなかった。

 「アスカ?私に、いったい何を・・・」

 訊きたいのか、と言いさして、リツコは、はっとした。

 (まさか、この娘・・・!)

 じっと、アスカを見つめる。

 (私とシンジ君が、つき合っているとか思っているんじゃないでしょうね!?)

 このことであった。
 同時に、

 「何故か・・・」

 瞬時に、ミサトの面影が脳裏に浮かぶ。
 再び、こめかみを押さえたリツコに、

 「・・・お願い!教えて、リツコ!」

 アスカが、言葉を重ねる。

 「シンジの再検査の結果!あたしに教えて!」

 ひたむきな瞳を向けてくるアスカに、

 「・・・は?」

 不覚にも、リツコには、そんな言葉しか返せなかった。

 「・・・シンジ君の、再検査?」

 不覚にも、リツコは、呆然と訊き返す。

 「とぼけないで!」

 無論の事、リツコには、

 (とぼけるつもりなんて・・・)

 毛の先程も、無い。

 「お願い、リツコ!・・・教えて・・・!」

 両の手を、きつく握り締め、

 「ふりしぼるように・・・」

 声を出すアスカに、リツコは、

 「アスカ・・・シンジ君から、聞いてないの?」

 「あいつは・・・何でも無かったって・・・」

 「そう」

 静かに、ソファの背もたれに身を預ける。

 (まったく、あの子は・・・)

 軽く、かぶりを振る。

 (本当なら、ミサトのするべきことだけど・・・)

 リツコは、そっとため息をつくと、

 「分かりました。言うわね」

 アスカを見つめる。
 アスカは、かたずを飲んで、リツコを見つめ返す。

 「シンジ君の再検査の結果・・・」

 「・・・」

 「軽度、つまりは軽い程度の、過労と診断されました」

 極めて事務的に事実を述べるリツコに、

 「・・・か、ろう?」

 アスカは、呆然としてつぶやいた。

 「そうよ・・・本当は、シンジ君が自分で言うからって言っていたのに・・・」

 言いさして、リツコは眉間を指で、もみほぐす。

 「それなのに、何でも無いだなんて・・・やっぱり、シンジ君はシンジ君て、こと
 かしらね」

 ため息をついた。

 「・・・よ、かった・・・」

 「・・・あのねえ、アスカ。たとえ軽い過労でも、これは困ったこと・・・」

 明後日の方を向いていたリツコが、アスカの言葉に振り向いて、

 「っ!」

 絶句していた。

 「・・・よかったよぅ・・・」

 アスカは、泣いていた。
 胸の前で、手を組み合わせるようにして、

 「・・・ほんとに、よかったよぅ・・・」

 肩を震わせて、ぽろぽろと涙をこぼす。

 「・・・よかったよぅ・・・シンジぃ・・・」

 次から次へと、こぼれ落ちる涙をぬぐおうともせず、

 「・・・よかったよぅ・・・」

 アスカは、泣いていた。
 そんなアスカに、

 (・・・今日は、ため息をついてばっかりね・・・)

 リツコは、ため息をついて立ち上がると、珈琲カップを二つ、棚から取り出した。
 そのカップに、先程、淹れておいた珈琲を、静かに注ぎ込む。
 リツコ自身の物には、無論の事、何も入れない。
 アスカの物には、ちょいと多めのミルクに砂糖を少し。
 これを、丁寧に掻き回しておいて、

 「何も言わずに・・・」

 未だに、しゃくりあげているアスカの前へと置いた。
 リツコはソファに座ると、自ら淹れた珈琲を一口、含む。

 (・・・ん。まあまあ、ね)

 一人うなずきつつ、もう一口。
 軽く目を閉じて、口に含む珈琲を、

 「ゆっくりと・・・」

 味わう。
 かたり、と音がしたので、リツコが目を開けてみると・・・、

 「・・・」

 まだ少し、涙をこぼしながらも、カップを両手に持って、

 「じっと・・・」

 表面を見つめるアスカの姿が、目に映る。
 その様子にリツコは、くすりと微笑うと、再び、まぶたを閉じる。
 しばらくは、二人共に黙ったままであった。
 ただ静かに珈琲を口に含む。

 「落ち着いた?」

 「・・・うん」

 「そう。良かったわね」

 一つ、頷くと、

 「さて、と・・・アスカ。シンジ君のことだけど」

 かたりと、カップを置いた。
 アスカが泣き腫らした目を、ちょっと上げる。

 「確かに、昨日の検査では過労と診断された訳だけど、これは決して最良の
 結果ではないの。分かるわね?」

 こくりと、頷く。

 「過労と言えば大したことは無さそうだけど、実際には馬鹿には出来ないもの
 なのよ。過労が元で、命を落とした人が過去には何人もいるのは厳然たる事実
 ですからね」

 命を落とす、というくだりで、アスカの肩が、ぴくりと跳ねる。

 「まあ、シンジ君の場合は軽度だから心配はいらないけれど・・・」

 ほうっと、肩から力が抜けた。

 「でも、シンジ君が過労と診断されたことが、そもそも問題なのよ」

 リツコはカップを取ると、一口含み、

 「いい?シンジ君は中学生なのよ?にも拘らず、数値に出てしまう程の疲労を
 彼は溜めこんでいたの・・・実際、あと二、三ヶ月も気づかずにいたら、彼、
 間違いなく倒れていたわよ?」

 「・・・」

 「それに、シンジ君はエヴァのパイロットでもあるのよ?使徒が襲撃してきて、
 いざ戦闘の段になって、過労で倒れたから出撃できません!だなんて、笑い話
 にもならないわよ」

 また、一口含む。

 「それも、作戦部長であるミサトが保護者であるにも拘らずにね・・・今回の
 ことは、ちょっとした問題にもなっているのよ」

 事実、葛城ミサトは今回の件について、

 「訓告、及び、減棒三ヶ月」

 に、処せられている。
 リツコは、ため息をつくと、

 「このことは、ミサトから話があると思うけど、この際だから言っておくわね。
 あなた達、シンジ君に頼りすぎよ」

 「・・・」

 「ミサトに白状させて、こっちが驚いたわよ。炊事、洗濯、掃除は言うに及ばず、
 買い物、家計の管理、ミサトに至ってはマッサージまでさせていたらしいじゃない」

 「うそ!?」

 初耳であった。

 「女性二人が中学生の男の子に、完全に生活管理されているだなんて・・・呆れる
 を通り越して、情けなくなったわよ」

 「・・・」

 「だからね、アスカ。いきなり分担しろとは言わないわ。でも、せめてシンジ君の
 手伝いをしてあげなさい」

 「手伝い・・・?」

 「そう。例えば、買い物の時、少しでも荷物を持ってあげるとか、食事の用意の時
 には、お皿を並べる。あと、後片付けを手伝うとか、掃除の時には、作業がしやすい
 ように散らかっている物を片付けるとか・・・考えれば、いくらでもあるでしょう?」

 「・・・でも」

 「でも、どうしたの?」

 「あたし、今までも何度か手伝おうとしたんだけど・・・」

 「・・・したんだけど?」

 何故だか、

 (嫌な予感が・・・)

 脳裏をよぎる。

 「いっつも、ミサトが茶化したり、からかったりで・・・そしたら、あたし恥ずかしく
 なっちゃって、シンジのこと怒鳴ったり、叩いたりしちゃって・・・ほんとは、そんな
 こと、したくないのに・・・」

 すっかり、しょげかえってしまったアスカが、力無く語るのに、

 (ミサト・・・あなたって娘は・・・)

 リツコの頬とこめかみは、完全に引き攣っていた。
 この時ばかりは、

 (本気で・・・)

 保護者の選定を、

 (やり直そうかしら・・・?)

 そう、リツコは思っていた。
 先程は、

 「お願い、リツコぉ〜!私、いいお姉さんになるから、それだけは勘弁してよぉ〜」

 などと、涙目で言うものだから、つい、

 「冗談よ」

 などと、言ってしまったが、こうなると、

 (冗談事では・・・)

 無いではないか。

 (ミサト・・・疲労だけでなく、心労までさせて、どうするのよ・・・)

 頭が、痛い。
 ともあれ、今は目の前で肩を落としているアスカを、何とかせねばなるまい。

 「・・・アスカ。ミサトの言うことなんて、ほっときなさいな」

 「・・・でも」

 「恥ずかしい?」

 俯きながら、こくりと頷くアスカに、

 (アスカも女の子なのね・・・)

 リツコは、自然に微笑みを浮かべていた。

 「・・・恥ずかしいことなんて、ないのよ」

 「・・・え?」

 「シンジ君のこと、大事なんでしょう?」

 「・・・うん」

 「シンジ君のこと、離したくないんでしょう?」

 「・・・うん」

 「だったら、胸を張りなさい」

 「え・・・?」

 「シンジ君のことを大切に想う気持ちが、胸の中に確かにあるんでしょう?・・・
 それとも、無いの?」

 「ある!あるもん!」

 「だったら、胸を張りなさい。いい、アスカ。人を好きになる、というのはロジック
 じゃ、無いのよ?相手が、どんな人でも好きになる時は、好きになってしまうものなの
 ・・・たとえ、その人が、どんなに情けなくて、頼りない男の子でも、ね」

 揶揄するかのようなリツコの台詞に、

 「情けなくなんかない!」

 アスカは、叫んでいた。

 「シンジは、情けなくなんかないもん!あたし、あたし、ちゃんと知ってるもん!」

 「だったら、いいじゃない」

 リツコは、微笑んでいた。

 「アスカは、ちゃんとシンジ君のことを知っているんでしょ?だったら、恥ずかしい
 ことなんて、何も無いはずよ。たとえ、誰が知らなくても、あなたは、あなただけは、
 シンジ君のことを、ちゃんと知っているんだから」

 リツコは、真っ直ぐにアスカの瞳を見つめる。

 「だから、胸を張りなさい。シンジ君を本当に想うのなら、ちゃんと胸を張りなさい」

 「リツコ・・・」

 アスカは、呆然とリツコを見やっていたが・・・、

 「うん・・・うんっ!」

 真っ直ぐにリツコを見つめ返すと、強く頷いた。

 「・・・そっかぁ・・・そっかぁ・・・」

 胸を押さえるようして、つぶやくアスカに、

 (・・・泣いてたカラスが、なんとやら、ね)

 リツコは、一つ、息をつく。

 「・・・それじゃ、アスカ。もう用は済んだわね」

 「・・・うん」

 「じゃ、今日のところは、これで帰りなさい。さっきも言ったけど、私は閑じゃない
 のだから」

 素っ気無くソファを立つリツコに、

 「分かった。帰るわね」

 素直にアスカもソファから立ち上がる。
 鞄を手にして扉に向かいかけて、ふと、足を止める。

 「・・・あのね、リツコ」

 「何?まだ、何かあるの?」

 「うん・・・あのね」

 「・・・早く言いなさいな」

 「・・・今日は、どうもありがとう!」

 アスカは、それだけ言うと、さっと身を翻して部屋を駆け出していった。
 そんなアスカを、

 「驚いたように・・・」

 見送っていたが、

 (・・・我ながら、柄にも無いことをしたものね・・・)

 かぶりを振りつつ、端末へと向かう。

 (でも・・・)

 既に、冷たくなってしまった珈琲カップを手に取ると、

 「たまには、いいか・・・ね、母さん」

 つぶやいて、残りの珈琲を一気に煽る。
 冷たく、苦い珈琲が、

 「何故だか・・・」

 妙に、美味かった。





 「あら?アスカじゃない。どしたの、こんなところで」

 弾むような足取りで、ゲートへと急いでいたアスカを、

 「疲れたような・・・」

 表情のミサトが、呼び止めた。
 アスカは振り返ると、

 「ちょっと、用事があってね。今、帰るとこよ」

 言い置いて、再び、歩き出す。
 すると、ミサトが、

 「ああ、待ってアスカ。せっかくだから一緒に帰りましょ」

 再び、呼び止める。

 「一緒に?・・・あんた仕事はどうすんのよ?まだ、五時前よ?」

 眉をひそめるアスカに、

 「大丈夫よ。五時前ったって、もう十分前じゃない。それに今日は、ちょっと大事な
 話があるのよね〜」

 いつになく真剣な表情のミサトに、

 (・・・シンジのことね)

 アスカは、すぐさま見当をつける。

 「・・・ま、あたしは別にいいわよ」

 断る理由は、特に無い。
 それに、

 (ミサトの車の方が、早く帰れるだろうし・・・)

 このことであった。

 「そ?それじゃ、帰りましょ」

 アスカとミサトは、連れ立って歩き始めた。
 しかし、

 「話がある」

 と、言いながら、ミサトは何もしゃべろうとは、しない。
 そして、アスカもまた、無言であった。
 アスカは、考えていた。

 (・・・リツコには、ああ言ったけど、やっぱりいきなり手伝うなんて言ったら
 シンジが変に思うわよね)

 足元を見つめて、思索にふける。

 (せめて、きっかけがあればなあ・・・きっかけ、きっかけ・・・)

 うろうろと、視線をさ迷わせる。

 (きっかけ・・・きっかけ・・・!そうだ!)

 きらり、と瞳が輝いた。

 (音楽室のピアノだ!)

 ぱあっと、輝くような笑顔になる。

 (屋上で、シンジと二人で・・・そしたら、あの二人のように・・・)

 ほんのりと、頬が染まっていく。

 (・・・もぉ・・・シンジの、ばかぁ・・・)

 うっとりと、宙を見つめるアスカに、

 (どうしちゃったのかしら・・・?)

 ミサトは、言葉も無く、見つめるのみであった。





 ちょうど、その頃・・・。

 (・・・あ、もうこんな時間)

 図書室で、一人、机に向かっていたヒカリは、シャープペンシルを置くと、

 「・・・ん」

 大きく背を伸ばす。
 元々、ヒカリは図書室に、

 「本を返しに・・・」

 来たのであるが、期末テストも近いことであるし、

 (少し勉強していこう・・・)

 と、そのまま机に向かっていたのである。

 (そろそろ、帰ろうかな)

 文房具をまとめて鞄に仕舞うと、ヒカリは席を立った。
 時刻は、午後五時。
 ちょうど、図書室が閉められる時刻である。

 (さ、帰ろう)

 一人、廊下を歩き出す。
 そのまま階段を降りようとして、

 (・・・あれ?)

 ふと、足を止める。

 (何かが・・・)

 聞こえるではないか。

 (ま、まさか・・・)

 じっと、立ち竦むヒカリの耳に、

 (う、うそでしょ?)

 本当に、かすかな調べが聞こえてくるではないか。
 慌てて周りを見回してみても、

 (だ、誰もいないの!?)

 そこには、ヒカリ一人しかいない。
 転瞬、

 (きゃああああああああああああ!)

 心の内で絶叫しつつ、ヒカリは階段を、

 「凄まじいまでの速さで・・・」

 駆け降りていった。





 「ああああ、アスカ!?でたでたでたのぉっ!」

 凄まじいまでの声量に、アスカは携帯電話を耳から遠ざけていた。
 軽い耳鳴りに、

 「・・・何よ、もう!」

 かぶりを振ると、

 「ちょっと、いきなり何よ!あんた誰よ!」

 送話口に向かって怒鳴りつける。
 隣にいたミサトの耳が鳴った。
 電話の向こうの相手も同様のようで、

 「・・・アスカ、耳、痛い・・・」

 ぽつりと、言った。

 「・・・その声はヒカリね?いったい、何よ?」

 何事も無かったかのように、アスカは問うた。

 「そ、そう!でたのよ!でたの!」

 再び、取り乱したようにして、ヒカリが叫んだ。

 「でた?でたって、まさか!?」

 「音楽室の方から、何か聞こえてくるのよぉ!」

 「ほんとに、ほんとなのね!ヒカリ、今どこにいるの!?」

 「学校の昇降口の前よぉ!」

 「すぐ行くわ!・・・たぶん」

 「た、たぶんって、アス」

 皆まで言わせず、アスカは電話を切った。

 (ヒカリには、悪いけど・・・)

 アスカにしてみれば、正に千載一遇、願ってもみない、

 (・・・ちゃぁ〜んす!)

 なのである。
 すぐさま、短縮ダイヤルを押して、

 (シンジの携帯を・・・)

 呼び出そうとした。
 ところが・・・、

 (・・・なんで、出ないのよ!)

 虚しく呼び出し音が響くのみであった。
 続いて、葛城家の電話にかける。
 ところが・・・、

 「は〜い!葛城で〜す!ところがどっこい悪いんだけど、今、留守にしてるのよね〜。
 だ・か・ら、用件のある人は発信音の後に、メッセージを入れてねん!折り返し、私の
 方からサービスしちゃうわよん!じゃね〜ん!」

 発信音が、虚しく鳴り響く。

 「ミサト・・・あんたばか?」

 つぶやいて、電話を切った。

 「ちょっと、アスカ。何で、私が馬鹿なのよ」

 アスカのつぶやきを聞き咎めたミサトが、文句を言った。

 「なんでって・・・」

 そこまで言いかけて、はたとしてアスカは口を噤んでいた。

 (そっか!ミサトに、シンジの居場所を検索させればいいんだ!)

 このことであった。

 「ミサト!・・・」

 言いさして、再び、口を噤んでしまう。

 (・・・シンジが電話に出ないのは、疲れて居眠りをしてるからだとしたら・・・)

 このことであった。
 もし、シンジが眠りについているとすれば、

 (もう少し、寝かせておいてあげたい・・・)

 なのである。

 (・・・でも・・・)

 アスカは、数瞬、迷う。
 そして・・・、

 (今日は、仕方ないかぁ・・・)

 ふぅ、とため息をついた。
 考えてみれば、ミサトもいれば、ヒカリもいる。

 (シンジと二人きりになるのは・・・)

 ちょいと、無理というものでは無かろうか。
 アスカは、そう判断を下した。
 とはいえ、

 (・・・ヒカリを放っておくわけには、いかないわね!)

 きりりと、表情を引き締めると、

 「ミサト!急いで学校へ向かうわよ!」

 言うやいなや、アスカは駐車場へと駆け出していた。

 「ちょ、ちょっとアスカ!?どうしたのよ、いったい!」

 慌ててミサトも後を追う。

 「いいから早く!事情は、後で説明するから!」

 後ろも振りかえらず、アスカは全力で走っていった。





 それから、十五分後。

 「あ、アスカ?」

 爆音高らかに、砂煙と共に現われたミサトのルノーを見たヒカリが、

 「怯えたように・・・」

 つぶやいた。
 ヒカリが怯えるのも無理は無い。
 どこの世界に、校門から侵入して、グラウンドを突っきり、あまつさえ、

 「スピンターンをかましつつ・・・」

 昇降口に、車を横付けする保護者がいるのであろうか?
 怯えたままのヒカリが見つめていると、

 「・・・気持ち悪い」

 がちゃり、とドアを開けてアスカが、

 「真っ青な・・・」

 顔で、這いずり出てきた。
 続いて、

 「洞木さん、無事!?」

 ミサトが、颯爽と現われる。
 ヒカリは、アスカに駆け寄りつつ、

 「わ、私は、全然大丈夫ですけど・・・」

 アスカに、肩を貸した。
 どちらかと言うと、アスカの方が、

 (ちっとも、無事じゃないように・・・)

 見える。
 事実、無事ではなかった。
 流石のアスカも、

 (細い路地を、ドリフトで直角に曲がった時は・・・)

 目前に、「死」を見たのである。
 それには、おかまいなしに、

 「・・・音楽室は、確か五階だったわね・・・」

 ミサトは、不敵に微笑むと、懐から愛銃、

 「H&K モデル・USP」

 を、引き抜くと、妙に馴れた手つきで、弾倉を抜いて、

 (弾は、あるわね・・・)

 再び、弾倉を銃に叩きこみ、遊底を引き、初弾を薬室へと送り込む。
 それを見たヒカリの怯えは、如何なもので、あったであろうか・・・。

 「行くわよ!」

 勇ましい声も高らかに、土足のまま、ミサトは校舎に突撃していった。
 慌てて、青い顔の二人が、後を追う。
 それこそ、

 「あっ」

 と、いう間に五階へとたどり着いたミサトが、耳をすませる。

 (・・・確かに、聞こえるわね・・・)

 かすか、ではあるが、注意して聴くと確かに音がするではないか。

 「か、葛城さん・・・待って下さい・・・」

 肩で、息をつきながらヒカリが階段を昇ってきた。
 アスカの顔は、まだ少し青い。
 そんな二人を見たミサトは、

 「・・・な〜に?二人とも青い顔しちゃってえ。怖いの〜?」

 緊張を解かせようと、悪戯っぽく言った。
 無論、彼女に悪気は無い。

 「・・・いいから、ちょっと待ちなさいよ・・・」

 ようやくに、アスカが口を開いた。
 何度か、深呼吸を繰り返して気分を落ち着ける。
 そして、耳をすませてみると・・・、

 (・・・確かに、何か聞こえるわね)

 心霊現象が苦手なはずのアスカが、何故か冷静に確認する。
 と、同時に、

 (・・・あれ?)

 アスカは、何かを感じていた。
 とことこと、音楽室の前までやって来て、

 (・・・やっぱり)

 アスカは、得心したように頷いた。
 その様子を見ていたミサトとヒカリが、

 「アスカ?」

 いぶかしげに訊ねるのに、

 「いいから」

 それだけ言うと、目を閉じて、

 「かすかな調べに・・・」

 耳を傾ける。

 (・・・綺麗な、音色・・・)

 優しく、切なく、暖かく、そして、儚い音色が、アスカの耳に響き渡る。

 (気持ちが・・・)

 優しくなるような、

 (心が・・・)

 暖かくなるような、

 (胸が・・・)

 熱くなるような、

 (あいつを・・・)

 抱きしめたくなるような・・・。
 そんな音色がアスカの元へと、確かに届く。
 やがて静かに、音色は、消える。
 その瞬間、

 「やっぱり、いけてるじゃない!」

 アスカは、ぱちぱちと手を打っていた。
 驚いて目を見張るミサトとヒカリを尻目に、がらりと音楽室の扉を開ける。

 「・・・アスカ!?」

 その、音楽室の中から聞こえてきた声に、

 (う、うそ!?)

 ミサトとヒカリは、慌てて中を覗き込んだ。

 「あ・・・ミサトさんに、洞木さんも・・・」

 そこには、灯油式のランプを前にして、

 「チェロを抱えた・・・」

 シンジが、一人、座っていた。

 「ど、どうしたのさ、皆して・・・」

 ちょっと、ばつが悪そうに言うシンジに、

 「それは、こっちの台詞よ!あんたこそ、こんなカーテン閉めきった薄っ暗い
 ところで、何やってんのよ!」

 アスカは、びしりと指を突きつける。

 「え・・・何って、チェロ弾いてるんだけど・・・」

 「ぶっとばすわよ?」

 「お、怒んないでよ」

 「・・・んで?何してたの?」

 「・・・チェロの練習をしてたんだよ」

 観念したかのように、シンジが、ぽつりとつぶやいた。

 「練習?なんで、わざわざ音楽室で練習するのよ?家でやればいいじゃない」

 そうすれば、

 (シンジのチェロ、いっぱい聴けたのに・・・)

 アスカは、思う。

 「でも、アスカの邪魔、したくなかったから・・・」

 「邪魔?なんで?あたし、シンジのチェロ、うるさいなんて言った?」

 身に憶えが無いながらも、アスカは焦ったように記憶を辿る。

 「ち、違うよ!そうじゃなくて」

 「・・・じゃあ、なんで?」

 慌てて否定するシンジの姿に、ほっとしつつ、アスカは訊ねる。

 「だって、期末テストが近いだろ?だから、アスカの勉強の邪魔はしたくなかった
 んだよ」

 「・・・あんたばかぁ!?このあたしが、今更なんの勉強するってぇのよ!」

 それはそうだ、とミサトとヒカリは頷いた。

 「・・・だって、アスカ、日本語の勉強してるでしょ?最近」

 意外といえば、あまりにも意外なシンジの言葉に、

 「な、なんで、あんたがそのこと知ってんのよ!?まさか、部屋を覗いてたんじゃ
 ないでしょうね!」

 拳を握り締め、みるみるうちに殺気が膨らんでいく。
 ・・・ように、ミサトとヒカリには見えた。
 ところが、である。

 (・・・もう、シンジのばか!覗くくらいなら、入ってきなさいよね!)

 実際は、そうでも無かった。
 しかし、そこは碇シンジ、である。

 「ち、違うよ!そんなことしてないよ!」

 本気になって、否定する。
 事実、シンジがアスカの部屋を、

 「覗き見したことは・・・」

 まったく、無いことである。

 「・・・なら、なんで知ってるのよ?」

 様々な理由から、ちょっと口を尖らせるアスカに、

 「だって、それくらい分かるよ」

 シンジは、微笑んだ。

 「・・・だって、僕達は、いっしょに暮らしてるんだよ?」

 ちょっと目を細めて、アスカを見やる。

 「・・・いっしょに生活して、毎日アスカのこと、見てるんだよ?・・・それぐらい、
 分かるよ・・・」

 穏やかなシンジの言葉に、

 「・・・私、分かんなかった・・・」

 ぼそりと、つぶやいたミサトの言葉を、ヒカリは、

 (聞かなかった・・・)

 ことにした。

 「・・・ば、ばかっ!いきなり、なに言ってんのよ・・・!」

 慌てて、そっぽを向いたアスカに、

 「ご、ごめん。え、えっと・・・僕、なんか変なこと言った?」

 シンジは、困ったように頭を掻いた。
 そんなシンジの姿に、

 (・・・もう、ばかなんだから・・・)

 くすり、とアスカは笑う。

 「・・・でも、なんでまた、チェロの練習なんか始めたのよ?」

 そのアスカの問いかけに、シンジは今度こそ、

 「困ったように・・・」

 表情を曇らせた。
 それを見て取ったアスカが、

 「見逃すわけが・・・」

 無い、のである。

 「・・・んで?なんで、練習なんて始めたのよ?」

 「い、言わなきゃ、だめ?」

 アスカは、言葉も無く、にこりと微笑んでみせた。

 「わ、分かったよ、言うよ・・・」

 がっくりと、シンジはうな垂れた。
 一つ、ため息をつくと、訥々と話し始めた。

 「・・・あのね。実は、この前ミサトさんにね、アスカの誕生日のこと、聞いたんだ。
 ・・・それで」

 「・・・それで?」

 「え、えっと・・・この前、初めて僕のチェロを聴いてくれた時のこと、覚えてる?」

 「・・・うん」

 アスカは、そっと唇に指を触れる。

 「・・・その時、さ。アスカ、拍手して言ってくれたでしょ?なかなか、いけてる
 じゃないって、さ」

 シンジは、そっとチェロを抱き締める。

 「・・・嬉しかったぁ・・・初めてだったんだ。僕のチェロを誉めてくれたのは、
 アスカが、初めてだったんだ・・・」

 「・・・シンジ」

 「・・・あの時、僕、言ったでしょ?誰も何も言わなかったからだって、さ」

 それは、アスカが、

 「何で、止めなかったのよ?」

 と、シンジに訊ねた時の、答えであった。
 無論の事、アスカは、ちゃんと憶えている。

 「誰もね、何も言ってくれなかったんだ・・・上手いだとか、下手だとか・・・
 続けろとか、止めろとか・・・本当に、何も言ってくれなかったんだ・・・」

 シンジの瞳が、翳る。

 「でも、アスカが拍手してくれて・・・いけてるじゃないって言ってくれて・・・
 僕、本当に嬉しかったんだ・・・アスカが誉めてくれて、嬉しかったんだ・・・」

 本当に、嬉しそうに微笑むシンジの姿に、

 (・・・シンジ・・・)

 アスカの胸が、鳴った。

 「だからね、もう一度、アスカに聴いて欲しくって・・・アスカの誕生日に、
 アスカの生まれた日に、僕のチェロを、ただ、聴いて欲しくって・・・」

 シンジは、アスカを見つめた。
 アスカも、また、シンジを見つめていた。

 「・・・でも、何でカーテンを閉めて練習してたの?・・・ランプまで用意して」

 アスカの背後から、ミサトが問いかけるのに、

 「あ、それは・・・」

 シンジは、ミサトに視線を向けた。
 同時に、アスカの刺すような視線も向けられる。

 「ほら、誕生日の時って、ケーキにロウソクを立てるじゃないですか。それで、火を
 吹き消す前に、一曲、聴いてもらいたいなって思って・・・」

 照れくさそうに頭を掻くと、

 「そういう雰囲気で練習したいなって思って、それでランプを用意したんです・・・
 ロウソクだと、ちょっと危ないですから」

 にっこりと、微笑む。

 「あ・・・ね、ねえ、碇君。一週間ぐらい前に、図書室で見てたのは・・・」

 この際、疑問に思ったことは、

 (何でも、訊いちゃおう・・・)

 と、ヒカリはシンジに訊ねてみた。

 「・・・ああ。あの時、見ていたのは、これだよ」

 シンジは、目の前にある楽譜を指し示す。

 「出来れば、誕生日まで内緒にしておきたかったから・・・ごめんね、洞木さん」

 「え!?い、いや、別に謝ってもらうことじゃないから、いいんだけど・・・」

 申し訳なさそうに謝るシンジに、ヒカリは慌ててしまった。
 シンジは、改めてアスカを見やり、

 「・・・でも、内緒にしてたせいで、アスカにも心配かけちゃったかな・・・?
 ごめんね、アスカ」

 「・・・まったく、もう」

 頭を下げるシンジに、アスカは、ため息をついた。

 (・・・もう。ほんとに、ばかなんだから・・・)

 アスカは、シンジに歩み寄ると、近くの席に腰を降ろした。

 「・・・アスカ?」

 「・・・いいから、一曲、聴かせてよ」

 「え?」

 「もう一度、なんてケチくさいこと言うんじゃないわよ・・・あんたが弾いてくれる
 なら、いつだって、何度でも聴いてあげるから、さ」

 「えっと・・・出来れば、誕生日まで待って欲しいんだけど・・・」

 「やだ」

 「や、やだって・・・あと、四日だけだよ?」

 「やだ」

 「・・・そんなぁ・・・」

 困ったように、肩を落とすシンジに、

 「・・・仕方ないわねぇ。じゃあ、今日聴かせてくれたら、四日まで我慢してあげる
 ってのは、どう?」

 「どう?って・・・今日聴かせたら、練習する時間が三日間だけってことになっちゃう
 よう・・・」

 「なに情けないこと言ってんのよ!昔から言うでしょうが・・・男子、三日会わざらば、
 割腹して見よ・・・ってね!」

 「・・・アスカ。それを言うなら、刮目して見よ、だよ・・・」

 「う、うっさいわね!・・・まだ、ことわざまでは手がまわんないのよ!」

 「だったら、無理して使わなければいいのに・・・」

 「うっさい!うっさい!うっさぁ〜いっ!」

 ぶんぶんと、激しくかぶりを振ると、

 「いいから!あんたは黙ってチェロを弾けばいいの!」

 びしりと、シンジを指差した。

 「もう・・・しょうがないなあ・・・」

 ため息をつくシンジに、

 「・・・大丈夫よ。あんただったら三日どころか、一日で何とかしちゃうわよ」

 ちょっと、微笑んでみせる。

 (あたしは・・・知ってるんだからね・・・)

 想いを込めて、シンジを見つめる。

 「・・・うん。分かったよ、アスカ」

 シンジもまた、アスカを見つめて、強く頷く。
 ゆっくりと、深く呼吸をする。
 再び、息を吸い込み・・・、

 (・・・)

 弓を、弦に当てて、

 「・・・あ、でも」

 シンジは、声を上げた。
 思わず、アスカが

 「かくん」

 と、つんのめる。

 「・・・もう!今度は何よ?」

 「ねえ、アスカ。そろそろ帰らないと晩御飯、ずい分遅くなっちゃうよ?」

 シンジが訊ねるのに、アスカは、ぐるりと首を廻すと、

 「ミサト、ちょっとくらい御飯が遅くなってもいいでしょ?」

 ぎろり、と睨む。

 「え、ええ。別に構わないわよ」

 「だって、シンジ」

 「・・・すみません、ミサトさん」

 一言謝ると、シンジは弓を取り直す。
 ゆっくりと、深く呼吸をする。
 再び、息を吸い込み・・・、

 (・・・)

 弓を、弦に当てて、

 (・・・アスカ・・・)

 弾いた。

 (・・・綺麗な、音色・・・)

 緩やかに、低弦の調べが、音楽室に満ち満ちていく。

 「・・・葛城さん」

 ヒカリが、そっとミサトの上着を引いた。
 ミサトは、はっと我に返ると、

 「・・・そうね」

 小さく頷いて、ヒカリと共に音楽室を後にした。





 「・・・それにしても、碇君だったんですね。音楽室のピアノの正体」

 校舎を出たヒカリが、ミサトに話しかけた。

 「でも、碇君はチェロを弾いていたのに、何でピアノが鳴るってことになっちゃった
 んでしょう?」

 「それはきっと、あれね」

 ミサトは、大きく伸びをしながら、

 「音楽室は、基本的に防音でしょ?それで音色が、よく聞こえなかったこと・・・
 そして、音楽室のピアノが鳴るっていうのは、学校の怪談の定番でしょ?」

 「はい。そうですね」

 「その先入観が、音楽室から何か聞こえてくる、イコール、ピアノが勝手に鳴って
 いる、ってなことになっちゃった訳ねぇ〜」

 「・・・なるほど・・・」

 納得したように、何度も頷くヒカリから視線を逸らすと、

 「・・・私、やっぱ保護者失格なのかな〜」

 寂しそうに、つぶやいた。

 「・・・そんなことないですよ」

 ヒカリは、ミサトに微笑みを向ける。

 「でも、私は何にも知らなかったし・・・」

 「それは、しょうがないですよ。だって・・・」

 「・・・だって?」

 「あの二人は、七不思議みたいなものですから」

 ヒカリの言葉に、ミサトは、きょとんとして、

 「・・・七不思議?」

 「はい。だってウチの学校で、あの二人以上に不思議なことなんて、たぶん、
 ありませんよ?」

 「・・・はぁ〜、七不思議、ねえ・・・」

 これまた、納得したように何度も頷くと、

 「・・・洞木さん、上手いこと言うわね」

 にっこりと、微笑んだ。

 「・・・それじゃ、私、これで帰りますね」

 「あ、送っていくわよん」

 「え・・・で、でも」

 出来れば、

 (臨死体験は・・・)

 したくは、無い。

 「いーから、いーから・・・それに、ちょっち歩きたい気分なのよね〜」

 ミサトがウィンクするのに、ほっとしつつ、

 「・・・そうですね。私で良ければ、お付き合いします」

 ヒカリは、ミサトの横に並んで歩き出した。
 日が傾き、夕日に照らされた二人の影が、長く伸びる。
 緩やかに、夜の帳が降りていく、その空に、

 「優しく、切なく、暖かく、そして、儚い音色が・・・」

 融け込むように、消えていく。





 あとがき
 ここまで、この話にお付き合い下さった皆様、ありがとうございます。
 すけっち・ぶっくです。
 さて、ようやく終了しました、小生からのクリスマスプレゼントであります、
 アスカさん誕生日記念の短編「第壱中学奇譚」、いかがでしたでしょうか?
 ・・・しかし、当初の予定に比べると、とんでもないぐらいの長さになって
 しまいました。
 ・・・データが重くって、皆様にご迷惑をおかけして、本当に申し訳無いです。
 なにはともあれ、「前編・後編・完結編」と、お付き合い下さいまして、本当に
 ありがとうございました。
 ・・・それでは、今宵はこの辺りで失礼を。
                     2000年12月30日 すけっち・ぶっく


すけっち・ぶっくさんの「第壱中学奇譚・完結編」でした〜〜!

リツコ「・・・で、シンジ君とアスカを気遣って先に帰って来たってワケね。」
ミサト「そうよん。私ってば気が利くなぁ、コンチクショウ♪」
リツコ「なに言ってんの。気を利かせたのは洞木さんでしょう。」
ミサト「イイのイイの。それもこれも、私の華麗なるドライビングテクニックがなければ成さ
    れなかったコトなんだからさっ。」
リツコ「アスカに臨死体験させといてよく言うわね。第一、オバケ相手に拳銃が効くワケない
    でしょうに。」
ミサト「な、なははは。アレは、時の勢いってヤツでまぁ、その、ノリよ、ノリ。」
リツコ「・・・・・。公共の場での銃器物乱用。減俸4ヶ月ね。」
ミサト「ええーーーーーーーっ!!!」
リツコ「少しは反省なさい。」
ミサト「そんなぁーーー・・・。はぁ・・・。」
プシューーー。
アスカ「たっだいまぁーーーーっ。」
リツコ「あっ、おかえり。どうだった?アスカ。シンジ君と2人きりの演奏会は。」
アスカ「うふうふうふうふ・・・、えへえへえへえへ・・・(*^^*)。」
リツコ「アスカ?」
アスカ「んん〜?なにぃぃぃ〜?えへへへへへぇ〜〜・・・。」
リツコ「ダメね、これは(汗)。余程嬉しかったみたいね・・・。」

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