TRICKSTER STORY EPISODE 2
Dの微熱
Hiroki Maki
広木真紀




1



 一際強い向かい風が、待望の香りをはらんだまま吹き抜けていった。春の到来を予感させる、少し悪戯な風だ。相沢祐一あいざわゆういちは、この風をもう長いこと待ち望んでいた。周囲を見渡せば、まだ所々に積雪の跡が見受けられる。だが、血をも凍てつかせるような極寒と、迷惑極まりない雪降ろしの時期は既に終わりに近付いているらしい。これで、漸く季節にリズムを狂わされることもなくなると、彼は密かに喜んだ。
 祐一は冬が嫌いである。冬と、それに常に付き纏う白い雪。そして、絶えずその雪に覆われたこの町。 全てが、祐一には忌まわしいものでしかなかった。だが、それはもう過去の話になりつつある。きっと、今年の冬の終わりと共に、全てが変わっていくだろう。詩的な表現をすれば、心の「雪解け」というやつだ。
「どうした、相沢。ニヤニヤ笑って」
 隣を歩く黒髪の少年が、祐一の顔を覗き込むようにして言った。頭の天辺、旋毛の辺りからアンテナのように数本だけピンと髪が立っているのが印象的だ。祐一は、良くこれを『妖怪アンテナ』と言ってからかうものである。
「さては、パーティのことを考えてたな? この果報者め。オレも連れて行け」
 妖怪アンテナの少年は、そう言って胸を肘で小突いてくる。祐一はその腕を軽く払いながら言った。
「馬鹿者。あれは佐祐理さんと仲の良い――言うなれば、身内の人間しか参加できない神聖なパーティなのだ。お前のような育ちの悪い茶ボウズを連れていったら、佐祐理さんの品格が落ちる」
「ちぇ、いいよな。転校してきたばっかで、しかも一学年上の先輩だってのに、お前どうやって倉田先輩と知り合ったんだよ?」
「運命だよ、運命。分かるかね、北川君」祐一は悪戯っぽく笑いながら言った。
「なぁ、オレも連れて行ってくれよ。親友だろ?」
「ええい、お前など知らんわ!」
 諦め悪く縋りついてくるアンテナ少年を無碍むげに振り払いながら、祐一は言った。
「お前は、家でハンバーガーでもかじってろ」
「酷い、あんまりだ。神よ! あなたはこんな不平等を許されるのですか」
 アンテナ少年は、目尻に涙を溜めながら天を振り仰ぐが、もちろん応答はなかった。
 祐一自身は冗談混じりに否定したが、彼とアンテナ少年こと北川潤きたがわじゅんとは、自他共に認める親友といって良い間柄だった。そうでなければ、1ヶ月後には受験生ともなる貴重な春休みに、二人揃って出歩くこともない。まあ、実際は学校で行われた補習授業の帰りなのだが、それでもこれから二人して商店街をブラつこうというのだから同じことである。祐一がこの町に越して来たのが、今年の冬。彼らの出会いからまだ半年と経っていない。祐一にとって、この町での最初の友人が北川だった。

「……なぁ、相沢」
「なんだ。パーティには連れていかんぞ」
 再び肘で小突いてきた北川に、祐一はピシャリと言った。
「いや、あそこ」そう言って、北川は右前方の橋を指差した。「なんかヤバイ雰囲気しないか?」
「ん?」
 北川の示す方向に視線をやると、町を二分する大きな河に架けられた橋の下に、何人かの男たちがたむろしているのが見えた。どうやら、複数の若者のグループが誰かを取り囲んでいるらしい。どうにも、ガラの悪い光景だった。
「喧嘩かな?」
「いや」北川の言葉に首を振りながら、祐一は言った。「ありゃ、ケンカと言うには一方的な感じだな。イジメと言うか、タカリと言うか」
 大方、大人数でカモを取り囲み、金を強請っているか一方的な暴力を振るっているのだろう。まだ暴力沙汰には発展していないようだが、雰囲気は険悪極まりないものだった。遠目で見ていても、事が危険な方向に流れつつあるのが容易に窺えるほどである。
「囲まれてるのは2人。対するのは――10人ぐらいはいるか?」
「ウム。いるな、それくらい。通分すると、5対1だ。人はこれを、多勢に無勢と呼ぶ」
 集団の近くには、いかにも『それ』といった感じの、大型の改造バイクが何台も止められていた。もちろんマフラーは、本来の消音機能を果たしていない。見ただけで『走る騒音』であることが分かる。もしかすると、どこかのグループに属する連中かもしれない。

「オレは行くけど……相沢、お前はどうする?」
「どうするって、お前そんな物持ってどうするつもりよ?」
 見ると、どこから拾ってきたのか、北川はガッシリとした長め棒を手に持っていた。馴染ませているのか、何度か素振りをしている。
「棒さえ持たせりゃ、シロウトが5〜6人いたところで敵じゃないからな。知らないだろうが、『短棒術のジュンちゃん』と呼ばれた伝説の剣士とは、このオレのことよ」
 ビシッと親指を突き出し、ムダに爽やかな笑みを浮かべると北川は言った。どうでもいいが、棒を使った時点でそれは剣士ではない。
「へぇ〜。お前、短棒術なんてやってたんだ。珍しいなぁ。短棒術ったら、アレだろ。戸のつっかえ棒とか、その辺りに転がっている木の枝やらを使うっていう節操のない護身系のヤツ。貧乏くさい北川のためにあるような棒術だよな」
「ほっとけ」
「短棒術って、剣術(小太刀)とか体術を組み合わせたような戦い方をするって聞いたことあるけど、実物みるのは初めてだなぁ。なに、この辺にそれ系の道場とかあんの?」
「と言うより、なんでお前はそこまで詳しいんだ。経験者か? それともコアな棒術ファンか?」
 意外な博識ぶりを見せる祐一に、逆に北川は脅かされたようだった。そんな反応に、祐一は困ったように肩を竦める。
「どっちかというと、後者かな。親父がそういうの好きなんだ。だから、色々無駄なウンチクを聞かされて育ったんだよ。危うく、オレもやらされるところだった」
「ふーん。ま、いっか。とにかく、お前も来るんだな?」
「おお。行く行く。実戦の中で生まれた本物の『短棒術』が拝めるなんざ、そうそうないからな」
 祐一は嬉しそうに頷いた。
「なんだよ、嬉しそうな顔して。なんだかんだ言って、親父さんの趣味継いでんじゃないのか?」
「それを言ってくれるな。オレは暴力は嫌いだが、手に汗握る格闘戦は好きなんだよ」

 だが、事態は意外な方向に展開していった。事が暴力沙汰に発展したというまでは予想内であったが、問題はその結果だ。祐一と北川が現場に辿りついた頃には、殆ど決着はついていたのである。しかも、状況が一転した形で。
 つまり、助ける予定であった2人組の方が、自分たちを取り囲んでいたグループの男たちを圧倒し始めたのだ。結果的に、10人程度いた若者の集団は、その殆どが河原に倒れていた。言うまでもなく、祐一たちが手助けをする必要性は最早ない。
「へぇ、これは意外な展開ですな。解説の北川さん」
「そうですねぇ。あの2人の男、一見ただのオッサンにしか見えませんが――動きはどう見てもシロウトのそれではありませんね。実況の相沢さん」
 2人はお馬鹿なやり取りを続けながらも、一団に歩みより、真剣な眼差しでその揉め事の行方を見詰めていた。背中をお互いに守り合うように構えた2人の男が、襲いかかってくる何人もの敵を流れるような動作で倒していく。その様は壮観だった。
「空手系じゃねェよな。中国拳法か?」
「多分、そうだろうな。ブルース・リーみたいな戦い方だ。ちょっと違うけど」
「と言うことは、ジークンドーか。おお、凄いぜ」
 既に完全な『観戦モード』に移行した祐一と北川は、迫力ある格闘戦をヤンヤの大喝采で見守る。だが、戦っている壮年の男2人組は、祐一たちを観戦者だとは思わなかったらしい。自分たちを取り囲んでいたチンピラたちを全員片付けると、鋭い眼光もそのままに祐一と北川の方へ歩み寄ってくる。もちろん、ファイティング・ポーズで固められた両腕の構えは解かれていない。

「おい、相沢。お前の目付きが悪いから、オレたちまで敵だと認識されたらしいぞ」
「バカ言うな、北川。お前が棒なんて物騒な武器を持ってるから、敵だと思われるんだ」
 互いに罪を擦り付け合いながら、醜い争いを繰り広げる祐一と北川。だが、そんな減らず口も長くは続かなかった。相手の二人組が、無言で間合いを詰めると、いきなり殴りかかってきたのである。
「ちょっと待て! 相沢はともかく、少なくともオレは敵じゃないぞ」
「そうだ。武器を所持しているのは北川であって、オレは無実だ! 話せば分かる。人類皆兄弟。僕と君とは友達じゃないか。フレンド、フレンド」
 なんとか穏便に事を済まそうとするが、相手は取り合うつもりはないらしい。矢継ぎ早に手刀と蹴りを繰り出し、祐一と北川に襲いかかる。そこに一切の加減は存在しなかった。

「くっ! この……っ」
「ダメだ。こいつら、オレたちとフレンド・シップを育むつもりはないらしい」
 祐一と北川は思わず悪態を吐いた。それほどに、相手の実力は極めて高い。戦ってみると、よりそれを実感できた。これは相当な使い手である。
「だから、オレは善意の第3者だってのに。お前ら、人の話を少しは聞け!」
 だが、そんな祐一の叫びを完全無視して、視界の外側から撓る鞭のように襲ってくる、軌道の低い右のローキック。これを足を曲げてガードした瞬間、今度は左の正拳突きが顎を狙って繰り出される。祐一はこれに素早く反応し、なんとか後ろに体を引いて回避するが、相手はそれを既に読んでいた。引いた分の間合いを神速で詰め、渾身のボディーブローが放たれる。
「グ……ゥッ!!」
 思わず、噛み締めた歯の隙間から、呻きが漏れた。なんとか腕でガードを取るものの、防御の上からでもかなりのダメージがある。一瞬、骨が軋むのが分かる程の威力だった。
 相手は30代と思われる、細身ながら鍛え込まれた体躯を持つ男だ。体捌きに無駄がなく、動きが極度に洗練されていて、攻撃のコンビネーションも練り込まれている。反撃の隙さえありはしなかった。

――何者だ、こいつら。本気で強ぇ。
 祐一も、それなりに腕に自信はあった。といっても、『〜流柔術』だの『〜合気道』だのを幼少の頃より嗜んでいた、などと言う都合の良い過去はない。小学生の頃に柔道を齧ったことはあるが、経験と胸を張れるほどのものではなかった。
 そもそも、『格闘技をやっていれば、喧嘩が強いという』という理論は、あまりに短絡的だ。格闘技も真面目に打ち込み、「極めよう」という心意気で、毎日欠かさず、しかも何年にも渡る長い間トレーニングを続けなければ、ちょっと喧嘩慣れした体格の良い人間に負けることだってある。格闘技の経験を設定に持ち出せばキャラクターが強くても良いというのは、物語の中だけで成立する話だ。現実世界で、それは何の免罪符にもならない。
 それは別にしても、祐一はただ、中学時代に良く喧嘩に巻き込まれた経験があるというだけだった。目付きが悪く、態度も横柄な彼は色々と喧嘩を売られやすい体質をしているのだ。だから、殆ど毎日誰かと殴り合いをやっていた時期があった。しかもその中で、祐一はカナリ強い部類にはあった。と言うより、1対1では殆ど負けた経験がない。ヤバいと判断したら逃げることも学んでいたからだ。
 運動神経と反応速度には自信があるし、加えて喧嘩のノウハウも知り尽くしている。場数も相当踏んで来たと言っていいだろう。だが、それで正規の訓練を受けたプロに勝てるほど、格闘は甘くない。
 まず、我流の――特に喧嘩殺法は、ディフェンスが弱い。つまり、防御が下手なのだ。攻める分は申し分なくても、一端攻め込まれると案外脆い。相手の利に適った流れるようなコンビネーションに、まずそれが露呈されつつあった。最初は上手くガードしていたが、時を追うに連れ、良い打撃を食らう数が徐々に増えてきている。

 ――クッ……。やられる。
 身を屈め、両手でガードを作りながら後退する祐一は、反撃の機会をずっと窺っていたが、相手はまるで隙を見せてはくれなかった。単純な格闘戦では勝てない。これは既に歴然としていた。そして祐一は、こういう相手に勝つための手段が1つしかないことを知っていた。
 つまり、奇策だ。
 相手を、その得意とする土壌から引き摺り下ろして、なんとか対等に勝負できるパターンに持ち込む。 祐一に勝利の確率があるとすれば、その戦法くらいしかあるまい。
 ――こいつは、強すぎる。多分、自分の戦い方で負けたことがねェ。つまり、『立ち技』で今までの戦い全てに勝ってきた筈だ。
 ボクサーにパンチ合戦を挑んでは負ける。これは当然だ。だから、ボクシングには無い『蹴り』を使い、組んでからの『投げ技』で挑む。この思想が、奇策の根底にはある。言うなれば、チェスボードをヒックリ返すような戦法だ。相手が知らないルールを持ち込める。それが喧嘩の醍醐味とも言える。そして、祐一はその駆け引きが何より好きな男であった。
 ――そんなヤツは、押し倒された経験が圧倒的に少ないもんだ。何より、拳法使いは寝技を知らない。
 祐一は如何にも『意識朦朧』といったフラフラの状態を演出し、そして故意に、顔面を覆っていたガードを下げた。それに伴なって「狙ってください」と言わんばかりに、一瞬ではあるが上段がガラ空きになる。経験者は本能的にその隙を逃がすことが出来ない。祐一の頭目掛けて、必殺のハイキックが放たれた。突きよりも蹴りの方が破壊力は大きい。中国拳法系は、特に蹴りが好きだ。決めは1番自信のある『蹴り技』でくる。祐一の予測通りだった。
 ルール無しの格闘戦で高い蹴りを放つのは、一種の賭けだ。2本足の生物が、1本足になる瞬間。狙われた時、もっとも地面に倒されやすい形だからだ。

「オオッ!」
 祐一は側頭部を刈るようなその蹴りをガードしつつ、そのまま相手に体当たりを仕掛けた。全体重をかけた肉弾攻撃に、男は咄嗟に対応しきれない。祐一と男は、縺れ合うようにして倒れ込んだ。
「拳法の試合じゃ、オレはあんたに絶対勝てねェよ。……でも、喧嘩ならそうでもないぜ。覚えとけ。喧嘩じゃな、腰より高く足を上げるのはタブーだ。こうやって、押し倒される可能性が高いんだよ。寝技に自信がねェヤツは、特に気をつけな!」
 ――日本古来の『柔術』をベースとした格闘術が、なぜ世界で最強の座にあるか。それは、倒して馬乗りになった時点で勝負が決まるということを、戦場の中で知ったからだ。柔術や相撲は、戦場で生まれた格闘術。相撲にしても、柔道にしても、相手を転ばせたら勝ちだというのは、つまり敵を倒してしまえば絶対的な勝利が戦場では成立するという、普遍の事実から来ている。
「相沢、大丈夫か」
 気付くと、近くに北川が近寄ってきていた。捨て身の体当たりを成功させたのは良いが、祐一も打撃でのダメージを貰いすぎていたらしい。直ぐに攻撃には移れず、朦朧としていた。
「あ、あいつらは?」
 慌てて相手の姿を探すと、一方的に仕掛けてきた男2人組は、何やら良く分からない言葉を交わし合いながら走って逃げていくところだった。その後ろ姿は、かなり小さくなりつつある。今から追いつくのは至難と思われた。もちろんそれ以前に、追い掛ける理由も気力も祐一には残されていない。どの道、黙って見送るしかなかった。

「くそっ、勝ち逃げかよ!」荒い呼吸を必死で整えながら、祐一は言った。「折角、反撃の糸口が掴めたと思ったのに」
「すまん。オレが手間取ったせいだ。棒持ってたのに、倒すのに時間がかかった。あいつら、とんでもなく腕が立つ連中だぜ。その辺のチンピラなんぞとは比較にならない」
 事実、周囲には彼らが倒していった若い男たちが大勢倒れていた。10人近いグループを、たった2人で潰したのだ。それだけでも、対したものである。
「第1ラウンドは完敗ってとこか。くそっ」
 負けず嫌いの祐一は、敗北を大いに悔しがっていた。
「なぁ、相沢。あいつら何者だろう? 最後、なんか喋ってたけど日本語じゃなかった」
「ああ。目も切れ長でちょっと変わってたしな。中国人とか、その辺りじゃないか?」
「少林寺から遠征でもしてきたってか?」
「そんなところだろ」
 まだ敗戦のショックが大きいのか、祐一は深深と溜め息を吐きながら言った。顔にも何発か打撃を受けたらしく、唇が切れて血が流れている。そんな祐一の顔を見て、「明日が見物だな」と北川は密かに思った。これだけ派手にやられれば、恐らく翌日は大袈裟に腫れ上がってしまうものだろう。
「しかし、相沢。お前、強いじゃないか。あいつら、明らかにかなりの経験者だぜ。大会でもあったら、全国レベルでも優勝候補には入る。そんな奴らと、第1ラウンドは取られたとは言え、結構渡り合ってたじゃないか。素手ならオレより強いかも」
「勝てなきゃいっしょだろ? 喧嘩は結果だぜ」
 肩を竦めて、祐一は言った。そして、どこか諦観したような口調で続けた。
「ま、喧嘩なんざ、幾ら強くても意味無いがな。『強さの伴なわない正義に意味はない』とか、どっかの馬鹿な格闘家が言ってたような気がするが、ピストル持てば、世界最強の格闘家も子供に殺されちまうのが現実だ。強いに越したことはないが、あんまり意味はないよな」

「ふーん。暴力が嫌いって言ってたのも、まんざら嘘じゃないみたいだな」
「おお。本気だぜ」祐一は、何故か胸を張ってそう言った。
「好きな子を守りたい、とかいって格闘技習うやつとかいるけど。オレから言わせりゃ、バカだ。弱い奴のすることだぜ。オレが欲しいのはそんなもんじゃねェ。オレが欲しい強さってのは、負けて落ち込んで、奪われて、メチャクチャにされちまった自分や他人をどうにかできるだけの力だからな。……人は死ぬし、傷付くし、悲しむんだ。誰も、これを避けることはできない。そんな時、オレは役に立てると嬉しいんだ」
 喧嘩が強くて、『香里』の心が救えたか?『あゆ』の外傷を癒せたか?『佐祐理』さんの心を救えたか?『栞』の病を治せたか?
 不幸は起こる。生きている限り、心は必ず傷付く。何かに悲しむことは、避けられない。むしろ、これらの負の要素を否定してはならないと祐一は考えている。それを受け入れて、それでも幸せを力尽くでも勝ち取るだけの力。それが、彼の求める強さだ。暴力で解決できることも数多くあるが、それで救えないものもまた多い。

「……あれ、これなんだ?」
 ふと、足元にキーホルダーのようなものが落ちていることに、祐一は気付いた。摘み上げてみると、どうやらコイン・ロッカーの鍵らしい。銀色の小さな鍵に、「357」という数字が彫り込んである、緑色をした円形のプラスティック・プレートがついたものだ。
「そりゃ多分、駅のロッカーのキィだな」
 北川が、鍵に付いているプラスティックの部分を見て言った。
「相沢とやりあった、あの中国人だか韓国人だかが落として行ったんじゃないか? お前がタックル仕掛けて、ダウンさせた時にポケットから落ちたとか。そんなパターンだろ」
「あいつらの物ってことか」
「どうする? 警察に拾得物として届けるか?」
 北川がお人好しを発揮して言う。だが、祐一は軽く首を振った。
「うーむ。なんか、悔しいから貰っとこう。警察に持って行っても説明に困るしな。もしかすると、これをネタに再戦を要求できるかも知れん」
「お前、意外と諦めが悪いタイプなんだな」
 北川は半ば呆れたような口調で言った。
「北川、お前はいいよ。1発も貰わずにスッキリ勝てたんだからな。だが、オレはバシバシ殴られた挙げ句、これから反撃開始ってとこで逃げられたんだぞ? 納得いかねーって。殴られ損だぜ。このままじゃ、スッキリしないんだよ」
 拾ったロッカーの鍵をポケットに押し込みながら、祐一は憮然とした表情で言った。
「たとえるなら、とびきりの美少女とチューする寸前で、夢から醒めた気分だ」
「なるほどな、それは分かりやすい。悔しさと口惜しさか実感として理解できる」
 北川は大袈裟に頷くと、妙な力を込めて言った。
「だろ? あと5分。いや、せめて1ラウンド、3分待ってくれれば! 思わず、そう思わずにはいられない悔しさだ」
「分かる。分かるぞ、同志よ」
「おお、分かってくれるか、北川よ」
 ――結局、祐一のポケットに押し込まれたこのロッカーの鍵が、思わぬ騒動へと事を発展させていく。 そのせいで、彼とその友人たちは後に多大な被害を被ることになるのであるが……
 祐一自身は、まだそのことを知らない。




to be continued...
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