Dの微熱
Hiroki Maki
広木真紀




17



 この街に唯一存在する駅は、市内のほぼ中央に位置しており、そこから東西へ直線状に走る路線が街を「北部」と「南部」に分断していることは、付近住民ならば誰もが知っている事実である。
 また、これと直角に交差するように、大きな河(祐一たちと例の2人組が出会ったあの河だ)が南北を縦に流れていて、今度は市を東西に分割している。鳥瞰してみれば、線路と河が綺麗な十字型に交叉していて、街を4つに区切っていることが分かるだろう。
 この鉄道と二級河川が織り成す巨大なクロスを、それぞれ「X軸・Y軸」と見たて、両軸が交差する点を座標「X=0,Y=0」として考えたとき、祐一たちが取引の場所として賊に指定を受けた倉庫街は、大体「X=-1〜-1.5km,Y=-0.1〜+0.1km」の地点にあった。
 この倉庫街、元々は工場で生産される資材と、森林から伐採された木材を置いておく場所として造られたものらしいが、その機能を果たしていたのは20年も前の話だと言う。
「じゃ、なにか? こんだけ広いってのに、この土地は完全に遊んでるわけか?」
 夜の静寂に包まれた倉庫街に、呆れたような祐一の声が反響した。時刻は20時。既に辺りは夜闇に閉ざされていて、殆ど視界は利かない。うち捨てられたも同然の倉庫街には光源と言えるほどのものも殆どなく、ただ規則正しく並ぶ大型のプレハブ倉庫のシルエットが、暗がりの中、不気味に浮かんで見えるだけだった。
「そうよ。色々と開発案は出たようだけどね。結局、バブル後の不景気もあって全部企画倒れね」
 肩を竦めて、香里は言った。その後を継いで、補足するように美汐が口を開く。
「市が所有している土地なんですが、どうにも活用のしようがないみたいですね。議会も、半ば諦めているのではないですか?」
「確かに、場所が悪いもんなぁ。駅からもメイン・ストリートからも中途半端に遠いし」
 納得したように、祐一は頷く。
「――市の財政も相当苦しいようですし、これだけの広大な土地に手をつける余裕がないのでしょう。下手に扱って失敗すると、取り返しのつかない損失を被る事になりますからね。それに相沢さんの言うように、立地条件も悪いですから民間からの買い手も付かないらしくて。まあ、この辺りまで街の開発が進むのを10年20年という長い目でもって待つしかないでしょう」
「さすが天野だな。そういうオバさんくさいセリフが、さらりと決まってる」
「失礼ですね。せめて『知的な台詞が似合う才女』くらいは言って下さい」
 祐一の非礼にはもう慣れっこなのか、美汐は特に表情を変えることもなく、半ば条件反射のようにそう言い返した。
「……まったく」
 そんな2人のやりとりを黙って聞いていた香里は、溜め息混じりに言った。
「あなたたち、よくこういう状況かでそんな漫才ができるわね。その神経の図太さは、まさしく驚嘆に値するわ。表彰したいくらいよ」
「それは些か酷な誤解と言うものです、美坂先輩。漫才士は相沢さん1人。私は純粋に被害者です」
 さも心外、といった表情で美汐は言った。

 雑技団の公演をキッチリ最後まで見終えた一行は、その後、雑技団スタッフの顔を確認するため会場を一巡りし、それから倉田佐祐理のマンションを訪れた。そして彼女から『シリウスの瞳』のイミテーションを借り受け、こうして指定された倉庫街へと赴いたわけである。
 ただし、取引の時間は22時。現在が20時を少し回ったところであるから、まだ2時間近くの時間があることになる。
「結局、相沢君が知ってる顔は見つからなかったわね」
 香里は些か残念そうにそう言った。
 17時に公演が終わってから祐一たちは会場を歩き回ったのだが、結局コインロッカーの鍵を落としていった2人組の男の姿は、どちらも発見できなかったのである。
「ま、ある程度は予測してたさ」
 そう言って、祐一は両手を上げると『どうしようもない』というジェスチャーを見せた。
「ロッカーの鍵を持って街中うろつける奴が、舞台に堂々と上がるスター役とも思えないからな。そういう奴は、人目に触れない裏方のスタッフと相場は決まってる。舞台裏とか控え室を覗けたなら、多分お目にかかれたはずなんだがな。ま、無理な話だ」
「ここまで来たんです。現行犯ということで、彼らを捉えられれば問題はないでしょう」
「まあ、そうなるな」
 美汐の言葉に、祐一は頷いて言った。
「――お、25号倉庫。多分、これだぜ」
 足を止めて頭上を見上げる祐一の視線の先には、シャッターの上に『25』とマーキングされた倉庫があった。錆びてあちこちに穴の開いた、古ぼけた倉庫だ。意外に頑丈なシャッターが下りているせいで、どうやら中には入れないようだが、概観からでも充分その広さは窺える。小さ目の体育館くらいの大きさはあるだろう。
「さて、と。後は連中が現れるのを待つだけだが」
 祐一は近くに転がっていたドラム缶にドッカリと腰を落としながら言った。
「天野。帰るなら今の内だぞ。お前は香里以上に無関係なんだ。わざわざ危険に首を突っ込むこともないと思うぞ」
「できるなら私もそうしたいのですが、このまま大人しく帰っても今夜は眠れそうにありません」
 美汐はシレっとそう言ってのけた。案外、3人の中で1番度胸が据わっているのかもしれない。
「それに、ここで相沢さんたちに死なれてしまっては、本当に後味が悪いですからね。どういう結果になるにせよ、最後まで見届けさせてもらいます。勿論、危なくなったら相沢さんを盾にして逃げますけど。その時は、ご協力よろしくお願いします」
「するか!」
「はいはい」
 パンパン、と手を打ちながら香里は言った。
「漫才はその辺にしといて、具体的な策を練りましょう」
 ――そうなのである。ことあるごとに祐一と美汐が掛け合いを始めてしまうおかげで、結局のところ、今の今まで効果的と思われる策は何も浮かび上がっていなかったのである。
「策って言ったって、もうこうなったら正攻法しかないんじゃないの?」
 祐一がやる気のない口調で言った。
「ダイヤ(偽)と北川を交換して、速攻でバックレる。これしかないだろう」
「ダイヤを渡せば、素直に連中が北川君を返すと思う?」
「それに、逃げると言っても彼らが退路を塞いで来ることは目に見えています。私たちを逃がせば、そのまま警察に直行することは目に見えているわけですから」
 香里と美汐が、そろって祐一を攻撃した。だが勿論、これは建設的な意味合いを持つ、いわゆるアンチ・テーゼと言うやつだ。彼女たちは一連のプロセスから、持ちあがった策が弁証法的発展を遂げてくれることを期待していた。
「ま、いいんじゃないの? 出たとこ勝負で。一応さ、オレたちにも何枚かカードはあるわけだし」
どこか余裕のある祐一の言葉に、香里は怪訝そうな顔をながら小首を捻る。
「そう言えば相沢君、イミテーションを借りに行く時、あたしたちと別行動とってたわよね。しかも2時間も。何やってたの?」
「ん。まぁ、色々と布石を打っておいた。やっぱ、オレたちだけじゃ数が少ないからな」
 雑技団のテントを出た後、ディナー・タイムで賑わうファミリーレストランに香里と美汐を残し、祐一と舞は姿を消していた。
 祐一はその時、『イミテーションを借りに行く』とだけ言い残していたが、それだけにしては2時間は掛かり過ぎである。30分置きに定時連絡を入れてくれたから、香里たちも心配せずに彼らの帰りを待つことができたが、それでも何をしていたかは気になると言うものだ。しかも、帰ってきたのは祐一1人で、舞の姿は何処にもなかったときている。香里が不審な顔をするのも無理はなかった。

「……あ、そうだ。イミテーション以外にも色々持ってきたんだよ。1度家にも寄って来たしな」
 そう言って、祐一は足元に置いていた怪しげなリュックサックを漁り出す。
「家に寄ったって、水瀬家よね?」
「おお」ゴソゴソと中身を弄りつつ、背を向けたまま祐一は答えた。
「その時、10時10分になったら警察に通報するように秋子さんに頼んでおいたぜ。家の中は、連中が盗聴機しかけてる可能性があるからな。ちゃんと、トイレに連れ込んで」
「なるほど。まず絶対と言って良いほど、一般家庭のトイレは完全な個室ですからね。2人以上が入る確率がない場所に、盗聴機をしかけるバカはいません」
「いるとすれば、盗聴する目的が違う変態くらいね」
 軽い口調で、香里は美汐の言葉を補足するように言った。
「ま、そんなわけでリミットは10時10分だ。警察が通報を受けて駆け付けるまでの時間を5分と見ても、10時15分。これまでに、北川をこちら側に戻しておく必要がある。とにかく、北川さえ確保できれば、殆どこっちの勝ちだ。後は警察に任せればいい」
「その時間までに北川君を取り返して、しかも私たちが安全でいればいいわけね?」
「そうなるようですね」香里の言葉に、美汐は頷いた。
「そうだ、これを渡しとかないと。――香里、天野」
 大きなリュックを漁っていた祐一は、立ち上がると彼女たちに奇妙な黒のシャツを差し出した。
「これを服の下に着てくれ」
「何なの、これ」
 香里は何となく受け取ってしまったその黒シャツを広げてみる。厚手の長袖シャツで、良く観察すると、馴染みのない不思議な素材でできているようだった。所々に奇妙な膨らみがあるのも特徴である。伸縮が自由な感じで、身に纏えば肌にピッタリと張り付くような、タイトなシャツとして見えるだろう。
「これを着るの?」
「ああ。それは、何故か秋子さんが持ってた。身の安全を守ってくれる、一種の保険だそうだ」
「秋子さんが?」
 香里と名雪は親友だ。当然、香里は幾度となく水瀬家に招待された経験を持っているし、泊まったこともある。水瀬家の家主である秋子とは、既に顔見知りの間柄だった。
「――相沢さん。その秋子さんという方、失礼ですがご職業は何を?」
 渡されたシャツをボンヤリと見詰めながら、美汐は訊いた。
「さあ。オレも良くは知らないんだ」祐一は首を捻る。「名雪も知らないらしいしな。謎だ」
「そうですか」
 そう言って、美汐は尚もシャツを丹念に観察している。ドライな彼女にしては、奇妙なほどの執着だった。
「何か気になることでもあるのか?」
 何時になく歯切れの悪い美汐に、祐一は不思議そうな顔をして言った。
「いえ。特に問題はありません」そう答えると、美汐は再び沈黙した。
「ふーん。良く分からんが、相変わらず変なやつだな。ミッシーは」
「相沢さんには負けますよ。それから、私はミッシーではなく天野美汐です」
 それだけ言うと、美汐は祐一から香里に視線を移した。
「……美坂先輩。これはありがたく使わせていただく事にしましょう。厚意で渡してくださったものですし。何か、意味があるのでしょうから」
「そうね。じゃ、向こうの倉庫の影あたりで着替えましょう」
「ええっ! ここで着るんじゃないのか?」
 心底驚いたように、祐一は叫んだ。
「当たり前でしょ。そんなことしたら、綺麗な体で帰れそうにないもの」
「男はみんなケダモノですからね」
 つれない言葉を残すと、香里と美汐は祐一を置き去りにしてさっさと倉庫の影へと消えていった。
「言っておくけど、覗いたら殺すからね。相沢君」
「滅殺です」
 1人取り残された祐一に、彼女たちの冷たい声だけが聞こえてくる。
「あんまりと言えばあんまりだ……」
 ガックリと崩れ落ち、熱い涙を流す祐一であった。




18




 ――2時間後、午後10時。約束の時間が訪れると、何処からともなく、漆黒の大きなワゴン車が祐一と香里の前にその姿を現した。外出前には必ず電話の時報案内で時間を正確に合わせる香里の腕時計は、ジャスト22時00分を示している。つまり、彼らの行動には1分の狂いもなかった。少なくとも、約束の時間に7分遅刻して現れた今日の祐一よりは好感が持てる。日本人の最も素晴らしく、同時に頭痛を感じるほど愚かな特徴といえば、時間に正確なところだ。となると、賊たちは、意外と親日家なのかもしれない。
「やっぱ、連中なんだろうな」
「そうでしょうね。倉庫街にドライブにきた一般人なんてオチだったら、本気で笑うわ」
 ふと気を抜けば、夜の闇に紛れ見失ってしまいそうな色の車体をじっと見詰めたまま、祐一と香里は囁き合う。口は相変わらず軽いものの、両者とも緊張の面持ちは隠しきれずにいた。最悪、自分の命に関わってくるのだ。それも無理はなかった。
 2人が見守る中、ライトも付けずに現れた黒いワゴンは、軽い軋みをあげて25号倉庫の手前で停車した。
 美汐には、念ために9時を回ったあたりから物陰に身を潜めてもらっている。指定されたのは、祐一と香里の2人だけだ。余計な悶着を避けるための処置である。
「あー、胸がドキドキしてきた」
 祐一は、片手で胸を押さえながら言った。だが、相変わらず視線は一瞬たりともワゴンから外されることは無い。
「あたしもよ」
「苦しくないか? だったら遠慮無く言ってくれ。何時でも揉んだり擦ったりしてやるからな」
「警察呼ぶわよ」
「警察なら、もう呼んだよ」
 確認せずとも、自分が極度の緊張状態にあることに祐一は気付いていた。自然と、鼓動と呼吸が早くなる。
 やがてエンジン音がパッタリと止み、徐にドアが重さを感じさせない微音と共に開かれた。緊迫した空気の中、車内から最初に降り立ったのは、ロープで両腕を拘束された北川だった。祐一は思わず彼の名を叫びそうになったが、グッと堪える。
 ここでペースを乱せば負けだ。そう自分に言い聞かせ、気を落ち着かせる。そして油断なく周囲に視線を走らせた。相手がワゴンに乗り込んでいるだけとは限らない。夜の暗がりに紛れ込み、何処からか自分たちを狙っている可能性もある。
 1番簡単なのは、ダイヤを確認した後、狙撃で自分たちを撃ち殺すことだ。サプレッサ(消音装置)を付けた狙撃銃ならば、銃声を発することなく、容易に標的を仕留める事ができる。

 ワゴンに全部で何人が乗り込んでいるかは不明だったが、少なくとも北川を小突きながら降車した男が3人、祐一たちと対峙するようにして立った。彼らの手には既にナイフが握られていて、その内の1本は鋭く北川の首筋に付きつけられていた。
「北川君、無事?」
「……ああ。少なくても、死んではいないよ。もっとも、後3分持続するかは分からないが」
「それだけ言えれば、上等だよ」
 取り合えず、最悪の事態は避けられたことを知り、祐一は無意識に唇だけで笑った。
 どうやら、北川は人質に捕らえられている間にも、暴力の類いは受けなかったらしい。多少その表情には疲労の色が浮かんでいるが、それ以外には特に問題となる部分はない。最悪、既に殺されていることも想定していた祐一と香里にとっては、もっとも望ましい展開である。
それもこれも、ここから生きて帰ることができれば――という前提があっての話であるが。
「あんたら、日本語は喋れるんだよな」
 距離にして、約10メートル。対峙する3人の男たちに向けて、祐一は声を張り上げた。
「ダイヤなら……シリウスの瞳は、ここに持ってきたぜ」
 祐一は、ポケットから佐祐理から借りてきたイミテーションを取りだし、男たちに見せつけながら言った。
「約束通り、取引と行こうぜ。別にオレはこのダイヤには興味が無い。北川と交換だ。ただし、死体じゃ駄目だぜ。五体満足、生きたままでな。そうすれば、これはお前たちに渡す。後は好きにすればいいさ」
 車の外に下りたのは、犯人グループの内の3人。手には、それぞれに殺傷能力を充分に秘めた大型ナイフ。ワゴンには、普通に考えても8人は乗り込める。ということは、この3人を上手く捌いても、最大で後5人を相手にしなければならない。祐一は、そのあたりのことを計算しながら、油断無く敵を睨みつけていた。
「いいだろう。ダイヤとこの男、交換する」
 降車した3人の内、1人がそう言った。どこか訛りのある日本語。低く癖のある声。祐一と香里は、それに聞き覚えのあった。祐一は、電話で連絡を受け取ったとき。香里は、ナイフで脅されたとき。それぞれこの声を耳にしたのである。
「――ダイヤをこちらに投げろ」
「いや。北川を放せ。そっちが先だ」
 祐一は、ドラマで展開されるような台詞をワザと選んで言った。
「ダイヤが先だ。従わなければ、こいつの耳を切り落とす」
 言葉と共に、北川に付きつけられたナイフの角度が鋭くなる。両腕を背中に回され、しかもロープのようなものでガッチリと拘束されている北川は、それに抵抗することができない。
「確かに、香里が人質に取られているなら、オレはお前の言葉に素直に従っただろう」
 そう目を閉じて静かに言うと、次の瞬間、祐一はカッと目を見開いた。
「だが! 北川は男だ! 別に顔に一生消えない傷が1つ2つ残ったところで、何も困りはしない。いや、その傷こそまさしく男――否、漢の勲章! 違うか、北川」
「お、おうよ! 男、北川潤。耳の1つや2つで脅しに屈しはしないぜ」
「おお、北川。お前ってやつは!」
 青春ど真ん中ストレートな展開に、祐一の心は熱く揺さぶられる。
「ちくしょう、涙のヤツ」
 ホロホロと零れ落ちる友情(偽)の涙に、彼はスッカリ酔いしれていた。
「どうでもいいけど、北川君。声、震えてるわよ? それに、膝もガクガクしてるし」
 香里が冷静に突っ込んだ。
「なっ、何を言うんだ、美坂! これは……む、むちゃ震いさ」
「舌回ってないわよ。武者震い、でしょ?」
 だが、相手はそんな彼らの冗談が通じるような相手ではなかった。
「ダイヤ渡せ。でなければ、殺す」
 鈍く冷たく輝くナイフが一閃され、北川の頬が切り裂かれる。夜の闇の中でも、宙に鮮血が舞ったのが分かった。更に別の男が、北川の腹部に強烈なボディブローを叩き込む。
「ぐふ……ッ!」
 身を折る北川の口から、思わず呻きが漏れた。更に、もう1発。そして、続けざまに強烈な右の蹴りがねじり込まれた。
「ぐ、カハッ!!」
 ガックリと崩れ落ち様とする北川を、男たちは強引に立たせ、きつく締め上げた。
「次は、喉を斬る」
 言葉と共に、スッとナイフが北川の首筋に付きつけられる。
「待て!」たまらず、祐一は叫んだ。「……分かった。ダイヤは渡す」
 連中は本気だ。祐一は即座にそう悟った。減らず口が通用するほど、甘い連中ではない。これ以上相手を刺激すれば、彼らは躊躇無く北川を殺すだろう。彼らが身に纏う殺気が、それを雄弁に物語っていた。
「妙な真似はするな。ダイヤを、ゆっくりこちらに投げろ」
 釣り目の男は、冷たい声でそう言った。祐一はそれに神妙な顔で頷いて見せた。そして一呼吸置き、ダイヤをアンダースローの体勢からゆっくりと投げ放った。71カラット(14.2グラム)、フローレス、Dカラー、トリプルエクセレントの奇跡が、月光を浴び微かな煌きを放ちながら、大きな放物線を描く。そして、それが――川澄舞、発進の合図だった。

『オレが相手にダイヤを――ダイヤのイミテーションを、だな。とにかく、そいつを渡した瞬間が、勝負だ。奴らが本物かどうかを鑑定する前に、ひと暴れしてしてくれ。方法は何でも構わない。北川を救出するだけの隙を作ってくれればいい。頼んだぞ』

 倉庫の屋根から全てを観察していた舞は、祐一の要請通り行動を開始した。精神を即座に統一し、普段は自らの奥底に堅く封印してある『チカラ』を開放する。祐一との7年ぶりの再会の切っ掛けともなった事件で、遂に制御することができるようになった、恐るべき特殊能力だ。
 母を救うために授かったこの力を、彼女はかつて否定したこともある。憎んだこともある。だが今は、我が身に宿ったこの力を、大切な友人たちの為に役立てられることが喜ばしい。
 孤独や偏見といった、『能力故の哀しみ』を――苦難の果てに見出すことのできた『能力故の誇り』は、遥かに上回る。
 舞は、封じられたインナースペースの最深層にコンタクトし、自らが“魔”と名付けたそれを発動・召喚する。恐るべき力だが――もう、心配ない。時にこの力を使っても構わないと思えるほど、大切なものができた。だから、怯えることなんて何1つありはしない。佐祐理と祐一と、3人で学んだことだ。

“この力は、今ではもう、私の誇りだから”

 ――だから舞は、微笑を浮かべた。




19




 突如、祐一たちから約10メートルほど隔てて止められた黒いワゴンを中心として、不可視の嵐が巻き起こった。
 舞の使役する五体の“魔”は、全く目に見えない。しかも、舞とほぼ互角の超人的な戦闘能力を秘めていて、おまけにすこぶるタフだ。
 そんな最悪の条件を揃えたバケモノが、破滅のダンスを踊り始めたのである。事情を知らない人間が、手に負えるものではない。
「うわぁぁぁぁッ!」
 言語ベースは各国で様々に違えど、悲鳴は万国共通だ。大振動とともに、見えない力で段階的に叩き潰されていくワゴンから、中国人たちが大声で叫びながら這い出してくる。もはや、取引どころの騒ぎではない。
 五感の内、最大の情報量を常に受け入れる『視覚』。これを奪われたとき、人間は最も大きな混乱に見舞われるものだ。インヴィジブル・ワンが巻き起こす、絶望的な破壊の衝撃に男たちはパニック状態に陥っていた。
「す、凄い……!」
 一方、事前にその情報を入手していた香里も、その信じられない光景に呆然と立ち尽くしていた。
 暴れまわる不可視の巨人たちに、屈強な男たちが人形のように振りまわされ、小型のバス程の大きさがあるワゴンも、既に原型を留めないまでにグシャグシャに潰されている。しかも相手が目に見えないだけあって、襲われるほうは何の手出しもできない。その豪腕に殴られ地面を這う男で、辺りには小山ができつつあった。
「なるほど、まさかとは思いましたが、本当にあるものなんですね」
 遠くのドラム缶の陰から、コッソリと取引の模様を覗き見ていた美汐も、感心したように呟いていた。
「一種の催眠効果かとも思っていたのですが、それもこれで否定されますか。ということは、精神に直接投影されるゴーストといった、心霊現象に関わる存在でもありませんね。そうでなければ、人間が傷付くことはあっても、車といった意識を持たない物質が、物理的な影響を受けるわけがありませんから」
 美汐は顎に手をやって、その柳眉を微かに顰めながら言った。彼女のこういった表情は、見様によっては悩ましげにも見えてセクシーだ。少なくとも、男達の8割はそう評価するに違いない。
「となると――やはり陰陽道の“式”に近しい性質を持った、思念体と解釈すべきでしょうか? いえ、ゴースト自体も精神に直接投影されるばかりとは立証されていないわけですから、ここで結論を急いでも仕方ありませんね」
 実を言えば、美汐の実家は、陰陽道の要素を取り入れた神道――土御門流に近しい性質を持つ神社であったりする。そして一人娘である彼女は、幼少の頃より巫女として、次期神主としての教育を受けてきたのだ。それ故、元の素質に加え鍛錬を積んだ彼女の霊格は、かなり高い。その系統の知識も充分にあった。

「おい、北川! 今のうちだ」
 すっかり舞の放った“魔”に気をとられていた美汐は、その声にハッと我に返った。どうやら祐一はこのドサクサに紛れて、北川という男の救出に成功しつつあるらしい。美汐は自分も手伝おうかと一瞬考えたが、ここまで混乱して尚、男達は銃器を取り出す気配がない。つまり、ピストルの類いは持っていないということだ。
 予想以上に、舞の思念獣の戦闘能力も高いようだし、ここは引っ込んで置くのが無難であると彼女は判断した。どうせ、協力を要請したところで“葛葉”も関わるのは嫌がることだろう。
 いや、それ以前に、彼らの方から美汐の方へ近付いてくる。彼女はその目的を逸早く予測し、与っていた祐一のバッグを漁り始めた。
「怪我は無いか、北川」
「おお。その心配は全然ない。ちょっと、腹減ったけどな」
 祐一は、北川を庇うように肩を支えてやりながら、美汐が隠れている物陰にやってきた。
「天野、オレのリュックサックの中に――」
「ナイフ、ですね。どうぞ」
 スッと差し出されたナイフを見て、祐一は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて礼を言った。そして受け取ったナイフで、北川の腕を背中で縛り付けているロープを切り落とす。頑丈なロープできつく固められていたが、何度かナイフで斬りつけるとそれはバサリと地面に落ちた。
「ふぃ〜っ。助かったぜ」
 戒めを解かれた手首の辺りを扱きながら、北川は言った。
「世話かけたな、相沢。それに、見知らぬお嬢さん」
「本当だぜ。あれ程注意しろって言っておいたのに。この大ボケ」
「いや〜、スマン」
「なにやってるの。用が済んだのなら、さっさと逃げるわよ。連中が体勢を整える前に」
 何時の間にやって来たのか、背後から香里が冷静に指摘した。もっともな言い分である。祐一は頷いて同意を示すと景気良く言った。
「よし。それじゃ、さっさとバックレるか!」
「あ、ちょっと待て」駆け出そうとする祐一を、北川が制止する。
「ダイヤのイミテーションはどうするんだ? あれって借り物なんだろう」
「まあ、それはそうだが――」
 確かに、『シリウスの瞳』もそのイミテーションも、佐祐理からの借り物だ。しかも如何に偽物とは言え、人造宝石であるキュービックジルコニアを使ったイミテーションは、結構値が張るシロモノだという話である。だが、あまり長くこの場に残るのも危険だ。一刻も早く立ち去ったことが良いのも事実である。祐一がどうしたものか、決めかねていると
「オレ、取ってくるぜ!」
 と北川は言い残し、返事も待たずにまた混乱の渦の中に向かって行った。止める間もない。彼の姿は、すぐに暴れまわる“魔”とパニックを起こした10人近い男たちの戦場のような騒ぎの中に消えさった。潰されたワゴンが炎上しだしたせいで、辺りは更なる混乱の最中にあった。
 そんな北川の後姿を、香里と美汐は何故か一際鋭い視線で見送っていた。
「おーい、舞! ごくろうさん。もう良いぜ。逃げるぞ」
 そんな香里たちには気付かず、祐一は倉庫の屋根に上がっている舞を見上げ、陽気に叫んだ。その声に、舞はひょっこりと屋上から顔を覗かせる。
「ハチミツくまさん。 今、降りる」
 そう囁くように言うと、そのまま彼女は5メートルはあろうかという高さからヒラリと飛び降り、体重を感じさせない軽やかな着地を決めた。もはや人間業ではない。
「――屋根の上から、赤く点滅してる光を見た」
 唖然としている3人をよそに、舞はいつものマイペースな口調で言った。
「多分、警察がここに近付いている」
 舞がそう告げると、それを待っていたかのように微かなサイレンの音が、夜風に乗って聞こえてきた。 それも複数重なって聞こえることから、結構な規模の警察隊が駆けつけてくれているらしい。
「本当だ。秋子さんが頼んでた通り通報してくれたらしいな」
 祐一は、安堵の表情でそう言った。
「これで事件も解決だぜ」
 だが、香里は彼ほど容易に、楽観的な思考に身を委ねる気にはなれずにいた。祐一は、あの違和感に気が付かなかったのか。
「そうだと……いいわね」
 頼りなく呟く香里の表情は、煌煌と燃え上がる炎に照らし出されているせいだろうか――
 どこか不穏なものを感じさせるのであった。






to be continued...
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