垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




1



 相沢祐一の昼食模様は些か変わっている。
 どう変わっているかといえば、まず場所が奇妙だ。高校生である彼は、当然昼食も学内でとるべきだろう。普通はそう考える。大概の生徒がそうしているように、持ってきた弁当を教室や屋上、中庭などで食べるも良し。食堂にいってランチを注文するも良しである。
 だが、彼は昼休みになると学校を抜け出し、徒歩3分ほどの場所にある児童公園に現れるのだ。そして、この公園で食事をとる。これだけでも、奇妙な話である。
 だが、生憎とそれだけではない。その昼食を共にするメンバーもまた、一風変わっているのだ。
 彼は、女性ばかり(それも飛びきりの美女だ)3人を引き連れて園内に姿を現す。彼女たちは、もちろん祐一と同じ学校の女生徒なのだが、これがまた同級生から下級生まで、見事に統一性がない。しかも、それから更に、生徒ではない部外者が2名ほど現れ、これに合流する。結果的に、合計6人にまでパーティは拡大されるわけだ。ただ弁当を食べるにしては、結構な人数だと言えよう。

「……随分、暑くなってきたわね」
 風に踊る髪を押さえながら、美坂香里は言った。
 6月に入ってから、じっとしていても額に汗が滲んでくるような日が度々訪れるようになってきている。これから梅雨が訪れ、本格的な夏が到来するわけだ。そう考えれば、この不規則的な暑さも、その徴候と考えられた。
「まぁ、暦の上ではもう夏だからな」
 相沢祐一は、燦燦と降り注ぐ日の光に目を細めながら投げやりに言った。
 冬場は雪がメートル単位で降り積もるような極寒の地であるくせ、夏は夏で猛暑の地獄を味合わねばならない。この理不尽に、彼は立腹していた。冬が寒いなら、夏は過ごしやすくて快適。そうストレートに考えてはいけないものなのだろうか。
「ともあれ、外でお昼をいただくには、些か酷な時期になりますね」
 そう呟いたのはグループ中唯一の2年生、天野美汐である。
「そうね。梅雨は雨で外に出られないし。7月になれば暑くなるしで大変ね」
「今から対策を考えておくべきかもしれません」
 そう言って、香里と美汐は頷き合った。
 共に内向思考型。クールな美人タイプと、2人はどこか似通っている部分がそれなりに多く見られる。それ以外にも、身内に色々な問題を抱えていた過去があり、その面で非常に精神が発達しているという点でも両者は共通している。年齢以上に大人とでも言おうか。年不相応な落ち着きを見せる彼女たちは、対等な者同士としてウマが合うらしい。祐一を通して知り合った彼女たちであるが、それなりに上手くやっているようだった。
 もちろん、3ヶ月前――春休み中に、例の『シリウスの瞳盗難事件(シリーズ1作目・Dの微熱)』に共に巻き込まれたということも、2人を強く結びつける切っ掛けとなったに違いない。

「で、名雪はまだ起きないの?」
「ああ。ご覧の通りだ」
 香里の言葉に、祐一は顎で従妹の少女を指した。見れば、青味がかかった長い黒髪が印象的な制服の女の子が、フラフラと夢遊病のように頼りなくさ迷っている。
「くー」
 信じられないことに、彼女の口元からは安らかな寝息が漏れていた。糸の様に細まった目からしても、名雪と呼ばれた彼女が『眠っている』ことは確かなようだ。
「さすが水瀬先輩ですね。寝ながら歩けるとは……。ある意味で、凄すぎます」
 美汐が半ば呆れたような表情で言った。
「ま、佐祐理さんと舞が弁当持って現れる頃には目覚めるさ。特にイチゴの匂いを嗅ぎつければな」
「フフ……。そうね」
 祐一の言葉の意味を誰より良く理解する香里は、フラフラと寝ながら歩く親友を、目を細めて見詰めながら笑った。
「くー。イチゴー? おいしーおー」
 大好物の『イチゴ』の話題に反応したか、名雪が寝ながらムニャムニャと呟く。それを見て、一行はまた声を上げて笑うのだった。




2




 相沢祐一、美坂香里、天野美汐、そして水瀬名雪の4人は、公園に到着すると用意した大きなビニールシートを広げて腰を落ち着けた。
 そこは小さな公園で、滅多に人が訪れることもない穴場とも言える場所だった。児童公園に付きものの遊戯具といえば、古ぼけた木製のシーソーと小さな砂場、滑り台の3つが隅の方に申し訳なく設置されているだけで、ブランコやジャングルジムさえもない。子供がやってきて遊ぶには設備にしても面積にしても、かなり物足りないものがあった。おまけに、ボール遊びを禁止する看板まで立てかけてある。これでは、一体何のために建設された公園だか分かったものではない。
 そんなわけで、時間が時間ということもあり、今日も公園は無人で祐一たちを迎え入れてくれた。と言うより、この公園をささやかな昼食の会場と定めてから早2ヶ月。1度として第3者と出くわしたことはない。もはや我が領地と言った感じで、彼らは躊躇なく公園に入り込むと、木陰となる1番良い場所にレジャー用のビニール・シートを広げて昼食の準備を整え、他愛もない雑談で場を和ませながら6人分の弁当が届けられるまでの暇を潰すのだった。
 暇を潰すといっても、そう長いこと待たされるわけではない。それは、今日も同じらしかった。
 その証拠に、数分待っていると公園の外から、聞きなれたバイクの排気音が近付いてきた。BMWを改造したらしい、黒のサイドカーである。シートに跨るのは、美しい黒髪を風に靡かせる長身の女性。その横の側車には、塔のように高い数重の重箱を抱えた女性が乗っている。
 言わずと知れた川澄舞と、倉田佐祐理である。

「川澄先輩、いつ見ても素敵ですね」
「そうね。長身で、プロポーションも抜群だし。9頭身近くあるんじゃないかしら。750ccの大型に本当に映えているわ。絵になる光景ね」
 美汐と香里は、どこか羨望の眼差しで囁き合った。スーパーモデルも裸足で逃げ出すような肢体と美貌を誇る舞が、颯爽と大型のバイクを駆る姿は、同性の目から見ても恰好良く見えるものらしい。少なくとも美汐と香里には好評のようだった。
 その舞は、軽い身のこなしでバイクから降りると、佐祐理を伴なって一行に合流した。
「あははー。皆さん、お待たせしました。お昼ですよー」
「……うさぎさんもある」
 待ちに待った、昼食となる弁当の到着である。
 今年に入ってから、特別な事情がない限り続いてきたささやかな昼食会。その場に集まった者は、皆この時を楽しみに1日を送っていた。
「いよっ、待ってました。舞、日本一〜!」
「その舞は違う」
 ひやかす祐一の言葉に舞は頬を薄らと紅く染め、照れ隠しにチョップを入れる。
「じゃ、早速いただきましょうか」
 香里が的確な位置に重箱を配置しながら言った。受け皿代わりの蓋と、お茶を入れたコップも行き渡り準備は万端である。
「いただきまーす!」
 食べ物の香りを嗅ぎつけ目を醒ました名雪を含め、6人の声が重なった。
 賑やかで華やかな昼食会の開始である。




3




「へぇ。じゃ、オレは放課後、その佐祐理さんの友達――武田って子の家に付き合えばいいんですね」
「はい。是非」
 食後、すっかり満腹となった祐一がお茶を啜りながら言うと、佐祐理は元気に頷いた。
「武田さんって、もしかして生徒会の?」
 祐一のクラスの学級委員長を努める香里は、その名に聞き覚えがあるらしかった。級長として、生徒会の定例議会に度々出席しているためだろう。
「ええ、その武田さんですよ」佐祐理はにこやかに言った。
「佐祐理がいた頃は事務書記長の補佐をやっていたみたいですけど――」
「今年の春からは、事務書記長をやってますよ。彼女」
 1度覚えた名前と顔は忘れないという、実に便利な頭脳を持つ香里は言った。
 彼女は学年主席であり、学級委員長を務めるという典型的な秀才タイプだ。そこに特級の美女というオマケも付く。天にニ物、三物を与えられた稀有の女性であった。
「その事務書記長って偉いのか?」
 祐一は大した関心も持たずに、ノホホンとした表情で聞いた。
「幹部よ。事実上、生徒会のNo.2ね。事務書記っていうのは、要するに生徒会運営上の全ての事務を総括する要職よ。事務書記長はそのトップで、総責任者。会長、会計、事務書記。この生徒会3本柱の一角ね」
  香里は一端言葉を切り、皆が話に付いてきているかを確認すると、再び口を開いた。
「生徒会関連の書類は、最終的に全て事務書記長が取り仕切ることになるわ。生徒会としての印璽を握ってるのも、事務書記長と言えるわね。実際は、ここから更に生徒会長に書類は行くわけだけど、事務書記長と会長の決定が食い違うことは事実上あり得ないから。まあ、総理みたいなものだと思えばいいかしらね。それ故、ウチの学校の生徒会じゃかなりの実権と発言力を持つ仕組みになってるわ。会長が擁立されてたりすると、事務書記長による傀儡政権が成立することも過去あり得たらしいから、やりようによってはトップにもなれるポジションだわ」
「ふーん。そりゃ、大物だ」
 気のない声で、祐一は呟いた。彼にとっては、誰の手に覇権が握られていようが、どうでも良いことらしい。
「そうなんです。大物さんなんです」
 対照的に、佐祐理は何故か嬉しそうだ。彼女は何でもないことを、心から楽しめる人だ。それはある意味で、偉大な能力なのかもしれない。少なくとも、祐一はその笑顔を見て度々そう思う。

「――しかし、その我が校のVIPが倉田さんに何のお話しなんでしょう。倉田さんとはそう親しい間柄ではなかったのでしょう? それに、倉田さんも川澄先輩も、既に卒業なさっていますし。接点が無いように思われますが?」
 美汐の疑問ももっともだった。卒業生に現職の生徒会役員がコンタクトを取る必然がない。しかも佐祐理とその武田という事務書記長の間柄は、顔見知り程度であったというから尚更だ。
「さあなぁ。佐祐理さんは、生徒会に目をつけられてたみたいだけど」
 祐一は、過去のいざこざを思い起こしながら言った。
「さすがに卒業した佐祐理さんの影響力を頼ってくるほど、奴らも浅ましくないだろうからなぁ」
 佐祐理の父親は地元の代議士であり、祐一たちの通う高校にも多額の寄付を収めていた。そのため、その愛娘である佐祐理の存在は、生徒会の自治にも非常な影響力を持っていたのである。
 そんな政治的な理由で、生徒会は佐祐理に注目していたわけだが、肝心の佐祐理自身はそんな裏事情になどサッパリ関心を持たない人間だった。彼女にとって、権益や利権の維持拡大など何の価値もない。
 佐祐理はただ、舞や祐一と楽しく学園生活を送ることができれば、それ以外に望むことはなかったのである。
「ま、行ってみれば分かるだろ。大物のお嬢さんのことだ。チェスの相手が欲しかった、とか。そんなところじゃないの?」
「相沢君。あなた、生徒会に妙な偏見もってない?」
 祐一のあまりに適当な言いぶりに、香里は鋭く目を細めて言った。
「オレは生徒会に属して、権力の甘い汁を啜ろうなんて考えてる奴らが嫌いなだけさ。大体、ウチの学校はなんであんなに生徒会が異様な力を持ってるんだ? おかしいって」
「確かに。我が校のシステムは、独特と言えば独特ですね」
 お茶を一口含み、舌を湿らせると美汐は言った。
「……聞くところによると、創立当初、学校に大型の寄付金を納めていた所の子供が、初代生徒会を構成していたようです。学校としても、寄付金を納めてくれる家の子供を無碍に扱うわけにはいきませんから、彼らにはそれなりの権力と自由を保障していたようですね。つまり、生徒会に所属しいることがある種のステータス・シンボルであり、生徒会そのものがそういった事情の都合の良い隠れ蓑であった歴史があるようです」

「私立の学校も、結局は商売。金が全てってことか。腐ってるなぁ」
 深い溜め息を吐きながら、祐一は呆れたように言った。
「少なくとも、学校経営者――理事会の構成員たちにとってはそうなのでしょう。そして、学園の運営方針を取りしきっているのは彼らです。結局、歯車にしか過ぎない一教員が哲学や誇りを持っていたとしても、現実の前では何の力も持たないということです。そして、同じことが一般の生徒にも言えるのでしょう」
 美汐は諦観しきったようにそう言った。それは正論であったし、少なくとも反論できるような要素はない。
「ま、難しい話はそれぐらいにしてだな。結論として、オレは生徒会が嫌いってことで宜しく頼むわ」
 そこで言葉を切ると、祐一は思い出したように言った。
「あ、でも香里は別だぞ。生徒会に出入りしてるってだけで、香里のことを嫌いになったり、蔑んだりはしないから」
「当たり前よ」香里は素っ気無くそう言った。「それは差別なんだから」
「……じゃあ、取り合えず放課後にまた落ち合うということで。佐祐理さんたちは、いつ頃大学の講義が終わるんですか?」
「佐祐理も舞も、祐一さんの学校が放課後になるより前に終わりますよ。ですから、舞と一緒にお迎えに来ます」
 空になった弁当箱を手際良く片付けると、佐祐理は言った。
「……祐一は、わたしの後ろに乗る」
 恐らくバイクのことを言っているのだろう。舞は素っ気無くそう言った。
「そうだな。じゃ、そうして貰おう」

「では、放課後。校門の前でお待ちしていますからー」
 終始笑顔のままで、佐祐理は去っていった。2人を乗せた黒のBMWが、ビッグバイク特有の排気音を放ちながら遠ざかっていく。
 佐祐理が、大学入学祝いと誕生日のプレゼントとして舞に送ったものだというが、今では2人の足として大活躍しているようだ。
「しかし、あんな高級車をポンと友達に買ってやれるなんて、さすが富豪は違うな」
 舞と佐祐理の後ろ姿を見送りながら、祐一は感心したように言った。
 そんな祐一の肩が、後方からポンと叩かれる。振り向くと香里が神妙な顔をして立っていた。
「どうした、香里」
「相沢君。ちょっと話があるの。少し付き合ってくれる?」
「ん、ああ。それは構わんが……」

「祐一と香里はおはなし? じゃ、私たちは先に学校に帰ってるよ」
 とても17歳の高校3年生とは思えない、どこか甘ったるいような口調で水瀬名雪は言った。
 昼食をお腹一杯食べて、また眠くなったらしい。1日の大半を寝て過ごす彼女だ。無理もなかった。
「それでは、私も失礼します」
 軽く会釈すると、美汐も名雪に合わせるように足早にその場を去っていった。
 そして無人の児童公園に祐一と香里の2人が残される。
「それで、話って?」
 暫しの沈黙を置くと、祐一は改めて香里と向き合って言った。だが聞くまでもなく、話の内容には見当がついていた。香里と2人きりで話すような話題といえば、心当たりは1つしかない。
 そして香里の口から出た言葉は、まさに祐一の予測通りのものだった。
「……栞が復学するわ。あの子、退院して学校に通えるようになるの」
 香里の口元には、祐一以外には誰も知らない種の微笑が浮かんでいた。目尻には薄らとだが、涙が浮かんでいるようにも見える。
「そうか。良かったな、香里。これで、栞の長年の夢も叶う」
「あなたのおかげよ。相沢君。全部、あなたのおかげだわ」
 一言一言を噛み締めるように、香里はゆっくりと言った。彼女がこれほどまでに感情を露にして言葉を発する機会はそうない。重病と戦っていた妹のことを話す時以外は、こんな香里は見られないのだ。
「オレは医者と同じだ。人を救う力なんて、何もない。ただ、最高の状態を作り上げるだけ。舞台を整えて、患者やその家族がもっとも効率的に戦えるようにサポートするだけだ。病を癒したのは、栞自身の治癒能力さ。誰のお陰でもない。あいつ自身が死に至る病に打ち勝ったんだ。香里がオレに感謝する必要なんてない。ただ、栞の勝利を姉として祝福すればいい」
「――違うわ」
 香里は微笑みながら、ゆっくりと首を左右した。
「もし病が気から癒せるのならば、その気をくれたのは間違いなくあなた。私たちは絶望していた。栞も私も、両親も、全員がもう栞のことをどこかで諦めていた。私たちが最後まで諦めることなく戦えたのは、あなたがいたからよ。あなたが、もう1度私と栞を姉妹にしてくれた……」

 祐一の記憶によれば、『MDS』というのが、香里の妹――美坂栞の患っていた病の名だった。場合によっては死に至る重い病で、栞も実際、助からないだろうと医者に宣告されるに至った程だった。
 だが、生存確率数%の臨床的な治療を見事成功させ、栞は完治に至ろうとしていた。香里の話を聞いた限りでは、予後は順調で、もう時期復学できるまでに回復しているようだ。
「本当にありがとう。あなたにはどんなに感謝してもしたりないわ」
「だから、そんなのいいんだってば。オレは、オレなりにしたいことをしただけだから。感謝するなら、全力を尽くしてくれた医師団と神にでも――」
「とても嬉しいの。だから、これは……」
 その言葉と共に、祐一の視界一杯に香里が広がった。頬をしなかやな両手で優しく包み込まれ、そして唇が柔らかな感触を感じ取る。どこか桜を連想させる、ほのかに甘い香里の味がした。
 ささやかだが、心からの感謝と想いを込めた深い口付け。
「私の感謝の気持ち」
 頬を紅潮させ、恥ずかしそうに少し俯きながら、祐一を解放すると香里は言った。
「ファースト・キスよ」
「香里……」
 虚を突かれた祐一は、半ば呆然としながら呟いた。
「もちろん、こんなことで借りが返せただなんて思ってないわ。今後、私が力になれること、あなたの助けになれることがあったら言って。全力を尽くすわ。相沢君が望むなら、私の一生を奉げてもいい」
「そんな大袈裟な」
 苦笑しかけた祐一だったが、その動作は途中で凍りついた。香里は本気だったのだ。
 彼女にとって、妹栞の命はそれだけの価値があった。そして、その妹と再び同じ時を過ごせる未来は、何にも勝る幸福だったのである。
 妹の事となると、美坂香里の人は変わる。まさに命懸けでそのために尽くそうとする。今、香里の中では、相沢祐一の存在は美坂姉妹の永遠の大恩人として登録されているのだ。
「じゃ、これからもずっと……オレと仲良くしてくれるか?」
 その言葉に、香里は満面の笑みを浮かべて言った。
「もちろんよ」




4




 腹の奥底に直接響くような重低音と振動は、徐々に静まりやがて完全に消えた。
 川澄舞はその余韻を最後まで堪能すると、キーを抜き取りロックをかけた。
そして、確認の意味も含めて周囲に再度視線を巡らせる。
 そこは大学の裏手にある、1人暮しの学生を明らかな顧客層とした閑静なアパート群であった。若者好きしそうな、欧米風のデザインをしたカラフルでモダンな建物が、辺り一帯に林立している。その中に、コンフォート・グレーの外壁を持つ、洒落た感じの4階建てアパートが、舞の視界に収められた。
『メイプル・グランハイツ』。昨夜、武田玲子から送られてきたFAXが指定した建物である。つまり、彼女の自宅だ。
「……祐一、着いた。放してくれないと、降りられない」
 腰に巻き付けれた男の手に、舞は少し困ったような顔をして言った。
 サイドカーには佐祐理が乗っているから、必然的に祐一は舞の後ろに跨ることになる。そのため、彼は舞に体を密着させて安全を確保しなければならないのだ。少なくとも、バイクが走っている間は。
「ああ、この柔らかな肢体の感触と、黒髪から漂う甘い香りがたまらない……」
 だが、祐一は舞の声を全く無視して、彼女のお腹をサワサワと怪しく擦りつつ、ほのかに香る甘い芳香を胸一杯に堪能する。途端に舞は紅くなって、祐一の頭にチョップの連打をポカポカと叩き込んだ。
「祐一のスケベ」
 ポカポカ!
「わかった。わかったから、止めてくれ」
「あははー。舞と祐一さんは、相変わらず仲良しですねー。羨ましいです」
 ジャレ合う2人を眩しそうに見詰めながら、心底楽しそうに佐祐理は笑った。何が幸せかと問われれば、こんな何でもない一瞬から、3人の仲の良さがうかがえる時だ。
 時刻は17時を少し回った頃。放課後になり祐一が開放されると、舞と佐祐理は彼を校門前で手際良く拾い、約束通り指定されたこの住所へやってきたのであった。
 約束したのは佐祐理1人であるが、結局は仲良しの祐一と舞を含めた3人で武田玲子と会うことになった。迷惑かもしれないが、3人は家族以上の付き合いだ。どうせ話題を共有することになるのだから、ある意味で合理的とも言える。
「でも、オレ舞に抱きついてるの好きだぜ。変な意味抜きでさ。舞の体は雰囲気が優しいんだ。だから、引っ付いてると凄く落ち着く。不思議だけどな」
「……そう? 私には良く分からない」
 祐一に誉められたと解釈したのか、はたまた単に恥ずかしかったのか、舞はポッと頬を染めてぶっきらぼうにそう言った。一見クールで冷酷そうにも見える彼女だが、その実、誰にも負けない照れ屋である。いつも佐祐理や祐一にからかわれては、真っ赤になってチョップを入れる。そんな外見や雰囲気とのギャップが、彼女の大きな魅力の1つでもあった。

「さあ、舞に祐一さん。武田さんがお待ちかねですよ。早速会いに行きましょう」
「そうだな」
 佐祐理の声に、祐一は素直に頷いた。ここに来た本来の目的はそれなのだ。アパートの前で舞とジャレ合っていても仕方がない。
「住所は間違ってないよな?」
「はい。間違いないですよー。確かにここです。メイプル・グランハイツの106号室。1階の1番奥のお部屋みたいですね」
 佐祐理は、FAXに描かれた地図と住所を確認しながら言った。
 アパートの種類から言っても、また、周りの状況から判断しても、武田玲子は1人暮しのようだった。大学生ならまだしも、高校生でありながら女性の1人暮しはある意味で珍しいのかもしれない。祐一たちはそんなことを考えながら、アパートの正面玄関を潜り106号室に向かった。
 玄関オートロックではなく、また常駐する管理人の存在もなかった。それ故、出入り自体は自由にできる。3人は遠慮なく内部に入り込み、『武田』の表札がかかっている1番奥の部屋の呼び鈴を鳴らした。
「1人暮しの女の子が住むには、ちょっとセキュリティ的に頼りないところだよな」
 チャイムを押し、住人の反応を待ちながら祐一は呟いた。
「確かにそうかもしれませんね。誰でも簡単に出入りできるのは、ちょっと怖いことです」
 キョロキョロと周囲を見回しながら、佐祐理は言った。
「でも、佐祐理は舞がいれば安心ですよ。舞はとっても強いですから」
「違いない」舞の人類の規格を大きく逸脱した戦闘能力を知る祐一は、思わず苦笑した。

 ピンポーン

「……出ないな」
 1分ほど待っても、武田玲子は出てこなかった。祐一は小首を捻ると、もう1度インターフォンの呼び出しボタンを押しながら言った。
「寝てるのかもしれない」
 ボソっと舞は言うが、祐一はそれを笑って否定した。
「自分で客人を招き寄せて、その時間に眠っちまうほど無作法な人間でもないだろう。ま、名雪ならやりかねないけどな。こと寝ることにかけては、あいつは人類の例外だし」
 祐一の脳裏に、毎日18時間は眠らないと寝不足と体調不良を訴え出す、脅威の少女が浮かび上がる。
 モデルのようなスタイルをしながら、大男にも負けない豪腕を誇る舞も異常体質と言えるだろうが、放っておくと何時までも眠りつづける名雪のネボスケぶりも、充分に異常体質で通じるものがある。

 ピンポーン、ピンポーン……

「しかし、おかしいな。全然反応がないぜ?」
 幾ら待っても出てこない住人に、痺れを切らしたのかボタンを連打しつつ祐一は呟く。
 佐祐理の話だと、武田玲子は切羽詰まった様子で自分の家に来るように懇願していたらしい。そんな人間が、来客の有無に鈍感になれるはずがない。チャイムが鳴った瞬間、飛びついてくるくらいで普通なのではあるまいか?
「ちょっと、佐祐理さん。ノックでもしながら、呼びかけてもらえませんか。オレだと向こうも警戒するかもしれませんから」
 そう言って、祐一はドアの前のスペースを開けて、佐祐理に譲る。
「分かりました」
 佐祐理は1歩進み出ると、上品にドアをノックしながら武田玲子の名を何度か呼んだ。静まり返ったアパートの廊下に、佐祐理の声とドアを叩く甲高い音が響き渡る。
 結局、何度呼びかけを繰り返しても反応は返らなかった。
「妙ですね。お留守なんでしょうか?」
「そうかもしれませんね。ちょっと買い物に出てるとか」
「そうだと良いんですが、なんだか嫌な予感がします」
 珍しく眉根を寄せて、戸惑ったような表情をしながら佐祐理は言った。
「胸騒ぎというか、とても奇妙な雰囲気で、佐祐理はちょっと怖いです」
 不安そうに胸元で手を組み、己を見えない敵から庇うようにして佐祐理は呟く。
「……昨夜の佐祐理の話だと、電話の相手は『家から出るのが怖い』と言っていたらしい。それなのに、約束の時間になってから買い物に行くのはおかしい」
 舞も心なしか表情を険しくして言った。
「それホントか、舞?」祐一が確認すると、舞はコクリと頷いた。
「確かに、舞の言うようなことを、武田さんは仰ってました。何かに怯えている様子でしたし。それを考えると、気軽に外出するというのはあり得ない行動なのかもしれません」
 舞の言葉を補足するように、佐祐理が付け加えた。
「んー、じゃあどうするかな。とりあえず、佐祐理さんは近くの公衆電話から彼女に電話を入れてみてくれますか? 電話になら気付くかもしれませんし。確か、FAXって、送ると番号も一緒に相手側に伝わるんですよね」
「はい。それは構いませんが、祐一さんは?」
「オレは、裏手に回って部屋の中を覗いてみます。ここは幸い1階ですから。上手くいけば、中の様子が分かるかもしれません。まだカーテンを閉め切る時間でもないですし」
「私も、祐一と一緒に行く」
 舞は祐一の服の袖をツンツンと引っ張ると、そう言った。
「舞はここで留守番だ。もしかしたら、突然彼女がドアを開けるかもしれないし。
 外出から帰って来るかもしれないだろ?」

 渋々頷く舞を残し、祐一は早速アパートの裏手に回った。
 携帯電話を持たない佐祐理は、公衆電話を探して外に走っていく。
 佐祐理ではないが、祐一も何か不穏な空気を察知していた。何か良くないことが起こりそうな気がする。あるいは、もう起こっているのかもしれない。
 アパートの反対側には、大抵の場合物干し用のバルコニーがついている。この『メイプル・グランハイツ』もそれは同じだった。だが、同じようなアパートが隣接しているせいで日当たりが悪く、またスペースも狭い。
「くあ〜、カビ臭いな」
 日中かなり気温が上がったにも関わらず、日陰になっている裏手はヒンヤリとしていた。いかにも雑菌とカビが繁殖しそうな場所である。
 祐一はその陰湿な雰囲気に顔を顰めながら、106号室のバルコニーの手摺りに手をかけ、1度周囲を確認してからそれを乗り越えた。
 バルコニーに降りてみると、予想に反して、薄いオレンジ色のカーテンがガラス戸を覆っていることが分かった。念のために戸を開けてみようと試みたが、案の定鍵はシッカリとかけられている。流石にこのあたりは1人暮しらしき女性である。
「この、カーテンの隙間から、なんとか見えないものか……」
 覗きという、チョッピリ背徳の香りのする行いに胸をドキドキさせながら、祐一は苦心してカーテンの合わせ目にできた微かな隙間に目を凝らす。どうやら、そこはリヴィングルームらしかった。電気がついておらず、カーテンも閉め切られているせいで薄暗いが、大きめのTVや食卓らしきものが配置されていること、アパートの間取りを考えてもまず間違いない。
 2人がけの可愛いデザインをしたソファ、それから書棚のようなものもある。全体的にシンプルに纏まっている、整理整頓の行き届いた綺麗な部屋だった。
 そんな中にあって、むしろ異様と思われるのが部屋の中央、床にひっくり返った木製の椅子と、そして、天井からブラ下げられた巨大な――

「……ッ!?」
 そのシルエットを見て、祐一は戦慄した。
 感電したかのようにビクッと大きく体を震わせ、跳ねるようにガラス戸から飛び退く。
 全身の毛穴が開き、冷たい汗が流れていった。
 一瞬の出来事であるにもかかわらず、心臓が早鐘の様に忙しく打ち、全力疾走後の様に呼吸が酷く乱れている。
 最初、サンド・バッグかとも思ったそれは、人の形をしていた。セミロングの黒髪に、ほっそりとした2本の腕。もし生きていたなら魅力を感じたであろう、スカートから伸びる形の良い白い足。
 だがそれは、明らかに地に付いていない。フワフワと宙に浮いているように、つま先から床まで数十センチの開きがある。
 その床には、小さな水たまりが出来ていた。祐一は直感した。それは、排泄物だ。
 そして、傍らで倒れている木製の椅子は、踏み台。
 天井からぶら下がる少女の体は、死体。
「ウソだろ……?」
 だが、それは手の込んだ悪戯でも、もちろん冗談でもなかった。もし悪戯なら、肩が錨型になる筈だ。偽の首吊りは、ワキの下にロープを通すのが一般的である。そうすると、どうしてもそのロープに肩が押し上げられるようにして、不自然に上がってしまうのだ。
 だが、目の前でブラ下がっている少女の肩は、萎むように落ち込んでいた。なで肩である。
 更に床にぶちまけられた排泄物。これも、その首吊りがリアルなものであることを証明していた。首を吊った場合、死後の弛緩した体からは様々なものが漏れ出す。首吊りはドラマのそれとは違って、綺麗には終わらない。
 悪戯でここまでするとは思えなかった。つまり、祐一は本物を目撃しているのだ。
「冗談じゃねえよ……」
 状況を見ても、祐一とガラス戸1枚隔てて向かい合う少女は、この部屋の住人と見て間違いなさそうだった。
 それは、武田玲子の死体だった。



to be continued...
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