垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




9



 まだ6月だというのに、その日はやけに日差しが強かった。17時にもなると、1階の1番西側にある武田玲子の部屋には、強力な西日がさし込んでくる。それに伴って、室内の温度が体感できるほどに上昇していた。開け放した窓の外から、冷たい風が入り込んでこなかったら、きっと汗が滲むような暑さを感じたに違いない。
 リビングを見渡す限り、空調装置が取りつけられていた形跡がなかったことから、家主は7月あたり、絶対にクーラーを購入するハメに陥ったであろうと祐一は予測した。だが、今となってはその予測も虚しいばかりだ。何故なら、その家主である武田玲子は既にこの世の人ではないのである。
「おっ、このTVはなかなかいいじゃないか」
 浴室と洗面台の方を物色していた祐一は、リビングに戻るなり、東側の壁際に置かれていたTVセットに目を付けた。40cmほどの高さがあるドッシリとしたTV台の中には、ヴィデオ・デッキと録画用のVHSが数本。そしてその上に、25型程度のモニタが置かれていた。独り暮しの高校生が所有するには、些か大型と思えるブラウン管だ。
「うーむ。ヴィデオの方も、録画・再生の両用だな。こりゃ、なかなかの逸品だぜ」
 この部屋の中に置かれている全ての家具類は、気に入ったものが貰えるという約束だった。勿論、家電の類いもその中に含まれている。
「おーい、誰かこのTVとヴィデオ、欲しい奴いるか?」
 祐一は部屋中に響き渡る声量で、問いかけた。幸いにも、女性軍は家電の類いには興味がないらしい。首を縦に振る者は誰もいなかった。
「フッフッフ。ならば、こいつはオレが戴こう」
 祐一は屈み込んで、TVセットに視線の高さを合わせながら呟く。
「いやあ、ラッキーだな。TVは何時か自費で買おうと思ってたんだが、タダで手に入っちゃったぜ」
 TV台の小さなガラス戸越しには、まだパッケージを開けていない新品のヴィデオ・テープも横になっている。セットで持って帰れば、即日から役に立ってくれることだろう。
 と、祐一は、ヴィデオのデジタル表示に『予約』の2文字が点灯していることに気付いた。
「予約……?」
 不審に思った祐一は、TV台の中に入っていたマニュアルを引っ張り出し、番組予約に関する操作を簡単に調べてみた。そしてその手順に従って、予約の内容を確認してみる。



1回録画 予約 1

01 チャンネル

 [開始] PM 21:00

 [終了] PM 22:58
6月11日 [日曜日] 3倍モードで録画

 [1]で次の予約 [0]で取り消し [メニュー]で終了



「明日の……9時か。2時間ってことは、映画――日曜洋画劇場か?」
 祐一は立ちあがると、再びリビングに女性陣全員を見渡す。
「なあ、この辺りで1チャンネルっていったら、放送局はどこ?」
 何せ田舎ゆえ、首都圏とは放送局もチャンネルも大きく違うのだ。それ以前に、チャンネルの絶対数が圧倒的に少ない。
「それなら、『TV朝日』系列ですね」即座に佐祐理が応えた。
「テレ朝か。……ってことは、やっぱり洋画だよな」
 一瞬、視線を宙にさ迷わせると、祐一は納得したように1つ頷く。
「サンキュ、佐祐理さん。あ、ついでに明日の洋画、何やるか知ってる?」
「いえ、そこまでは――」
「明日の洋画劇場は、『沈黙の断崖』よ」
 姿は見えないが、玄関の方から香里の声が聞こえてくる。
「栞がTV好きだから。何故かチェックさせられてるのよね」
 溜め息混じりのその声に、祐一は彼女が肩を竦めている様子が克明にイメージできた。
「ありがとう、香里。ついでに、外にいるオバさんに、娘さんがその映画が好きだったかを聞いてきてくれないか。それか、その映画に出演している役者が好きだったとか」
「……良く分からないけど、了解したわ。ちょっと待っていて」
 そして、軽い駆け音が遠ざかっていく。
 3分ほどすると、戻ってきた香里は、直接祐一のいるリビングにやって来た。
「相沢君。聞いてきたわよ」
「おお、サンキュ。それで?」
 祐一はTVに向かって胡座をかいて座ったまま、背後の香里を上目遣いに見上げる。
「彼女、その映画に主演している『スチーブン・セガール』という役者のファンだったそうよ。なんでも、ポニィテールが似合う男性が好みだったとか」
 私には理解できかねる趣味だけどね、と香里は肩を竦める。
「ああ、セガール・ファンね。なるほど。じゃ、その役者目当てで、この映画を録画しようと思ったわけだ」
「なに、何の話?」話の見えない香里が、訝しげな表情で訊いてくる。
「いやな、明日の洋画劇場に予約が入ってたんだな。このヴィデオ」
「録画予約? ……これから自殺しようっていう人間が?」
「そう」祐一は神妙に頷いた。「だから、妙なんだよ」
「まあ、悩む人間も1日中鬱状態にあるってわけじゃないでしょうし、録画の予約をするくらいの気力に恵まれている瞬間だってあるでしょうけど――」
「でも、やっぱ変な感じはするよな」
 祐一は顎に手をやって暫し思考すると、やがてボソリと呟くように言った。
「彼女、本当に自殺だったのかな」




10




 武田玲子は自殺した。警察の発表を信じるなら、それが真実となる。
 彼女の部屋106号室は、どの経路も完全に施錠されていて、ミステリー小説などで良く使われる『密室』の状態にあった。これは一般的に解釈されている範囲では、「犯行を行った人物が、現場となった閉鎖された空間から、犯行前後物理的に侵入・脱出不可能であること」というような意味になるだろうか。とにかく、人が入り込む余地も、逃げ出す余地もない、人類にとっての閉鎖空間。これが犯行現場であった場合、それは密室と定義されるらしい。
 香里は、武田玲子が首を吊っていたというリビングの天井を見上げていた。中央部に、電灯を設置するためのフックのようなものがある。黒光りする大きな金属製のもので、祐一の話によれば、それにロープを通して固定していたらしい。
 リビングの南側には、狭いがベランダのようなものがあり、大きなガラス戸が2枚ついていて、住人はそこから室内外を行き来できるようになっている。祐一がこの部屋を覗き、玲子の死体を発見したのも、そのベランダだ。
 香里はそのガラス戸に近寄って、鍵をチェックしてみた。普通のガラス戸と同じように、爪型の金具を引っ掛けてロックするタイプの鍵だ。ただ、これにはもう1段階のロックが付いていて、つまり、ロックが外れないようにするためのロックが存在していた。非常に小さなレバーを上下するだけの単純な仕掛けだが、確かに部屋の内側からしか操作はできない。
 警察の話では、この2段階のロックいずれもが施錠された状態になっていたというから、ここから誰か出入りし、鍵をかけることは不可能に近いだろう。香里もちょっと考えてみたが、舞が「魔」を召喚してそれに鍵を掛けさせる、というような、俗に言う『超能力』を使った方法くらいしか思いつかなかった。
 まあ、そんな『X−FILE』もどきの可能性は、フォックス・モルダーに任せるとして――現実的に考えれば、やはり複数の小型の機械を組みあわせて、それをラジコンのように操作することで外側からロックをするくらいしか術はなさそうだ。魔法や超能力を使わずとも、科学全盛のこの時代、金と時間さえあれば大抵の奇跡は表現できる。ただひとつ、生命の奇跡を除いては。
「Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic. 」
 香里は唇を斜めにして、呪文のように呟いた。
 これは、Clarke's Third Law――つまり、クラークの第3法則と呼ばれるもので、日本語では『充分に進歩したテクノロジは魔法と区別がつかない』と訳されるのが普通だ。工学系に進んだ人間とSFファンを自称する人間なら、これを知らなければモグリと言えるほど有名な言葉である。
 だが、香里はこの言葉は主体を逆にすべきだと常々考えていた。つまり、『魔法は、充分に進歩したテクノロジと区別がつかない』と改めるべきだ。いや、『魔法は、充分に進歩したテクノロジに過ぎない』が正解により近しいか?
 それを証明するように、現代人なら、魔法が生み出したような不思議な出来事に遭遇しても、きっとこう言って驚いて見せるだろう。
「うわあ、凄い! 一体、どんな技術なんだろう?」
 ――つまり、そういうことだ。この世紀末を生きる(先進国の)現代人にとって、既に魔法の存在はこの世にあり得ない。全ては、魔法のように見せかけられた、だがあくまで解析可能な科学技術なのである。可愛げがないこと、この上ない。既に彼らにとって、魔法が存在していられる時代は終わった。これが駆逐され、技術が幻想に追いついたのである。
 有史以来、人間はこの世で起こり得る全ての現象が、「タネなしマジック」ではなく「タネありマジック」であるということをあらゆる角度から証明するためだけに、涙ぐましい努力を続けてきたわけだ。なんとも、泣けてくる話ではないか。
 そして、この密室を作り出した魔法も、幾つかの小さな機械を用いることで、実は『タネありマジック』であったことを証明できる。香里はそう考えた。
 つまり、機械を無線などで操作して鍵を内側から掛けさせるのだ。後は、その機械をエアコン用の取りつけ口か、トイレの窓から回収すれば良い。機械自体は、それなりの工作技術と知識があれば作り出すことは不可能ではないだろう。
 ただ、ネックとなるのは、その機械の回収だ。エアコンの取り付け口は少し小さすぎるし、トイレの窓にしても距離がありすぎる。
「ああ、CCDみたいな小型カメラを搭載した、小さなラジコンを別に運搬装置として用意すれば、この点もクリアできないこともないか……。次点として、訓練した小型犬なんかに運ばせるってのもラヴリィね」
 香里は唇だけでそう呟いてみる。
 カメラ搭載のラジコンに部屋の映像を発信させ、それで周囲の状況を確認しながら走らせる。カメラとバッテリーの重量でかなり車体が重くなりそうだが、絶対に無理というわけではない。
 だがどうしても、苦しいように思えた。部屋には段差があるし、トイレにはドアがある。エアコンの取りつけ口にも金属製の薄い蓋が付いている。まあ、これらの問題は、予め犯人が開けておくなどしてクリアできるが、それよりもっと際どいのは、リスクが大きすぎるという点だ。どう考えても、不確定要素が大きすぎる。途中でどんなトラブルが発生するか、分かったものではない。この部屋に実際やってきて、何度もシミュレートなり練習するなりできるわけでもないし、ぶっつけ本番でそんな芸当を試そう等と考えるのは、かなり大胆――もしくは馬鹿だ。
 部屋を走らせている途中で、車が糸クズを巻き込み、動かなくなったら? そもそも、回路に不具合が発生して、装置が作動しなくなったら? 犯人は、『鍵かけマシーン』という思いきりダイレクトな証拠を残したまま、逃走しなければならなくなる。幾ら精巧な機械でも、現場に残してしまえば科学捜査の前ではすぐにバレるだろう。密室のトリックは解き明かされ、即座に殺人の可能性を嗅ぎつけられるわけだ。これは、明らかに危険過ぎる。自分が犯人なら、この手は使わない。香里はそう結論付けた。もっと安全で、もっと確実な密室を作り出す手段など、他に幾らでもあるだろうからだ。

 香里は思考を続けながら、今度は寝室に向かった。そこは畳敷きの和室になっていて、奥に木製のベッドが置かれていた。そして今、そこには「くー」と安らかな寝息を立てて、名雪が横たわっている。
「……この子、何しに来たのかしら?」
 どうも姿が見えないと思えば、さっそく他人のベッドで惰眠を貪っていたわけだ。その腕には、貰うことにしたのか、タヌキの大きなぬいぐるみが抱かれている。玲子もあれを抱いて、毎晩寝たのだろうか――いや、いまどきヌイグルミを抱いて寝る高校生など、名雪以外にはいそうもない。
 香里は軽く頭を振ると、思考を切り替えた。そして、この部屋についている窓の存在に注目する。ここにも2枚のガラスで構成される、何の変哲もない窓がついていて、事件当時、鍵が掛けられていたことが警察によって確認されている。ロックの機構もベランダのものとほぼ同じで、しかも、ここには外側から鉄格子が嵌め込まれているというオマケも付いていた。勿論、それなりの道具を使えばこれは比較的簡単に外せる類いのものだが、抑止力には十分なる。
 窓の大きさ自体は、充分に人間が出入りできるサイズであるから、この格子さえ外してしまえば、犯人の侵入も脱出も可能だ。だが、この窓はマンションの各部屋のドアが並ぶ廊下側にあり、人目に付きやすい。格子を外しているところ、窓の鍵を開けようとしているところ、部屋に侵入しようとしているところ。どのシーンも、バッチリと誰かに目撃される可能性が大だ。リスクは大きい。しかも、警察が調べた限り、この格子が外された形跡は全くない。
「ここは、シロよね」
 そう呟くと、香里は諦めて次に玄関に向かうことにした。
「――あら、鷹山さん」
 玄関には先客がいた。180cmに及ぶその長身から一目で分かる通り、それは佐祐理の運転手である鷹山小次郎であった。小次郎という名の、女性である。
「こんなところで何を?」
「美坂さんですか」鷹山は表情を変えずに振り向くと、香里を見下ろした。「貴女は、ここをどう思われますか?」
「え、どうって……」質問の意味と意図が掴めない香里は、逆に問い返す。
「観察してみて分かったのですが、もし偽装のつもりがあるならば、この『密室』には欠陥があります」
 鷹山は、決まりきった方程式の解でも告げるような口調で言った。驚いたのは香里である。
「えっ、トリックでも見つけたんですか?」
「さあ。トリックかどうかは知りませんが」鷹山は、視線でドアのチェーンを示しながら続ける。「これを調べてみることをお薦めします」
 そして、彼女は狭い玄関から身を引き、ドアの前のスペースを香里に譲った。
「ドアのチェーンですか?」そう言いつつ、香里はそれを手にとって見る。
 祐一によれば(詳しい密室の状況など、一般に報道されるわけがない)、玲子の自殺死体が発見されたとき、このドアには鍵か掛けられており、警察が管理人から鍵を借りてきて開けてみると、今度は更にチェーンが掛けられていたという。警察がそのチェーンをペンチで切り、中に入っていったのを祐一、舞、佐祐理の3人は目撃している。
 その報告から容易に予測できる通り、香里が手に取ったチェーンは2本に分断されていた。勿論、警察がこの部屋に入り込むときに自ら切断したものだ。1本は、ドアの取っ手部分の上からブラ下がっており、もう一方は、チェーンの留め金の方にブラ下がっている。既に、ドア・チェーンとしては全く機能しない、無残な姿だ。
「その、長い方。ドア側についているチェーンです。それを良く観察してみて下さい」
 背後からの鷹山の指示に従い、香里は開け放たれたドアから入り込む落陽の光を利用して、それをじっくりと観察した。
 このアパートのドア・チェーンは、その名の通り無骨な『鎖』をそのまま使用したもので、輪の1つ1つが結構大きく、銀色に鈍く光っているのが分かる。だが観察するうち、その鎖の輪の1つが、微妙に他とは異なっていることに気付いた。良く見詰めて、手触りを確認しなければ分からないが、確かにどこかが違う。しかも鎖の輪の全体がおかしいのではなく、違和感を感じるのはその内の4分の1ほど。極小さな部分だ。
「この輪の一部分だけ……材質が違う?」
「――パテです」背後から、鷹山が短く指摘した。
「パテ?」香里はその鎖を手に持ったまま、振り向いて問う。「それは?」
「接合剤の一種です。日本語で言えば――確か、『糊粉』。亜鉛華などを油ワニスなどで練って、ペースト状にしたものです。接合や亀裂の補填・充填などが主な用途でしょうか。工作、模型などにも使われます」
 全く表情を変えず、彼女は言った。
「それは、金属補強材を含んだ鉄材用強力『エポキシパテ』でしょう」
「エポキシ……ああ、エポキシ樹脂を使ってるんですね。接合剤として使うということは、主剤と硬化剤を混ぜるのかしら。そして化学反応で硬化する……」
「そうです」
 鷹山は注意していないと分からないくらい微かに頷き、そして香里に歩み寄っていく。そしてスーツの懐から、明らかに軍用と思われる、巨大なナイフを取り出した。
「エポキシパテは、主剤と硬化剤を同量練り合わせ硬化させる、粘土状のパテです。一般ではスティック状にして販売されているケースが多く、C4のように、必要な分をナイフで切り分けて使います」
「C4……軍事用のプラスティック爆弾ですね」
 香里はこの鷹山という女性を、気に入り始めていた。棒状の何かをナイフで切り取って使う。その喩えに、プラスティック爆弾を持ってくるそのセンス。嫌いになれるわけがない。
「硬化時間は6時間〜24時間程度。美坂さんの仰る通り、化学反応で硬化しますので、意図的にこれを促進させることも可能です。また、粘土状なので盛り付けが楽にでき、傷消し作業よりも自作パーツの成形に向いていることも、特徴と言えば特徴でしょう。
 プラパテやポリエステルパテと違い、薄め液などを使用しても溶けないため、粘度の調整は熱を加える――普通は、手で練ることで行います。硬化後の剛性はかなり高く、金属のような硬さを持つというのも、大きな特徴です」
 そう解説しつつ、彼女はナイフの背に付いている『栓抜き』のような形状をした部分を、香里の持っていた鎖に当てる。そして、パテと思われる部分にそれを固定して、梃子の原理を利用し、渾身の力を込めた。一瞬後、ゴキッという骨の折れるような音ともに、その問題の部分が弾け飛んだ。恐るべき怪力である。
「パテにも色々な種類のものがあります。固まれば、木材と全く見分けがつかなくなるような物。そして、金属と同等の剛性を持つようになる物。つまり、エポキシパテがそうです。このエポキシパテに、隠蔽力の強い金属色――メタリック・シルバーのスプレーを吹きつければ、一見した限りでは周囲の金属と識別点を見出せないまでに、近しく偽装することも可能です」
 講義を続けながら鷹山は玄関に落ちたパテを拾い、香里の掌に乗せてやった。それは、くすんだ銀色をしていた。
「パテを外した鎖の輪が『C型』になってる」
 そして、試しにその失われてしまった部分を潜らせて、チェーンを分解してみようとすると――まるで知恵の輪が解けるように、チェーンは見事に外れてしまった。
「これって……」
 つまり、パテで誤魔化されていた部分は、ちょうど鎖の取り外しが可能な大きさのブランクであったわけだ。
「要するに、こういうことですよね? まず、鎖の輪の一部分を予め切り取っておく。『O型』から『C型』になるように一部を切除するわけですね。そして外に出て、ドアの外から分断しておいたチェーンを繋ぎ合わせ、『C型』になってしまった鎖の輪を『O型』に戻すために、エポキシパテのようなものを使う。硬化するまでは、6時間程度は絶対にかかるんですか?」
「いえ。それは、平均値です。種類によっては、15〜30分程度で固まるものもあります。私が知る限り、一般で手に入るエポキシパテの最短硬化時間は5分ですね。まあ、それでもパフ研磨や塗料の加工が可能になるまでは、1時間程度は要するでしょうが」
 ニコリともせずに、鷹山は応えた。
「そうですか。ともかく、パテが硬化するのを待って、後はその補填の後が目立たないよう、チェーンの元の色に似た塗料をさっと吹きかけておく。この作業に、大体どれくらいの時間が掛かるものでしょうか?」
「パテが硬化するまでの時間を抜きにすれば、パテを予め練って、形をある程度整えてきたと仮定すると――私なら、3分でできます。もっとも、練習すれば誰でも10分と掛からずできるようになるでしょう。塗料とパテ、セットで買っても上手く行けば10ドル程度で購入できますから。練習も簡単です」
「たった10分で……凄い。それくらいなら、誰にも怪しまれることなく作業ができるかもしれない。現実的ですね」
「私もそう思います」俄かに興奮し始めた香里とは対照的に、鷹山は相変わらずの口調で言う。
「この件は、明らかに殺人でしょう。この部屋の主――武田玲子でしたか。彼女がわざわざ鎖を切断して、それをパテを使って補填し、そして首を吊って自殺した。ありえないことではありませんが、何者かが彼女を殺した後、閉鎖空間を作り出すためにこの偽装を行ったと考えた方が、論理としては自然ですし説得力があるように思えます」
「確かに。これは、彼女の死が自殺でないという強力な説得力になりますね。つまり、これで『エポキシパテ』の用途がもう1つ加わることになる」
 香里は唇を斜めにして言った。
「チェーンのトリックを使った、密室の偽装」






to be continued...
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