垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




11



 翌々日――6月12日月曜日の午後。祐一たち(クラスメイトには、『美坂チーム』と呼ばれている)のいつもの昼食会に、新たなメンバーが2名程加入することになった。1人は、7年の昏睡から目覚めた少女、月宮あゆ。そしてもう1人は、香里の妹で、重病を患い入院生活を続けていた、美坂栞である。
 あゆの方は、祐一や名雪、香里と同じ17歳で、当然、学年も同じだ。だが7年間も眠っていた彼女には、つまり10歳当時の知識しかない。とても高校3年生として飛び入りできる学力はなかった。従って、現在は大検合格を目指して水瀬家で自宅学習中である。
 一方の栞は、香里の妹だけあって平均以上の学力がある。出席日数は足りていなかったらしいが、院内で定期テストは受けていたし、これによって単位も認定されていたから、無事留年なしの2年生として復学できたわけである。晴れて、天野美汐の同級生として肩を並べることができたのだ。
 大体、入院したことのない人間は全然知りもしないが、小児病棟には入院して学校に行けない子供たちのための『院内学校』というものが存在することだってあるのだ。つまり、病院の中にある学校で彼らは勉強ができる。本人のやる気さえあれば、(義務教育期間は特に)そうそう留年などになりはしない。学徒という存在が、そもそも社会から保護を受けるべき存在であるので、探せば救済処置は幾らでもあるものだ。あゆがその内に受けることになるであろう、『大検』もその内の1つと言える。
 そして、往々にして「行きたくても学校に行けない」という子供たちは、学校で同じ年頃の友達と一緒に勉強することに憧れを持っている。
勉強することに餓えている彼らは、統計的に喜んで勉学に勤しむ傾向にあるから、知識の吸収が非常に早く、精神の発達も早い。無駄に学校に行っている連中より、よほど頭も精神も良好なのが現実だ。
 そんなわけだからして、あゆにしても栞にしても、知能偏差値や定期テストの点数では計り知れない「強さ」や「賢さ」を持っている。そして、祐一にしても香里にしても、美汐でさえ、そんな彼女たちに一種の尊敬の念を抱いていたからして、彼らは長期入院少女たちの参入を温かく歓迎した。

「うーむ。しかしなんだな」
 祐一は腕を組んで、一同をグルリと見まわしながら唸った。
「オレだろ、名雪、香里、舞、佐祐理さん、天野、それに新規参入の栞にあゆ。総勢8人か。なんというか、いきなり賑やかさが60%ほど割り増したような気がするな」
 同世代の友達と一緒にいられることが楽しくてたまらないらしく、あゆも栞も、先ほどからキャーキャーと騒ぎまくっている。祐一はそんな彼女たちを半分微笑ましく、そして半分喧しく思いながら眺めていた。
「まあ、いいじゃない」
 妹には甘い香里は、目を細めて栞を見詰めながら言う。
「本人たちにとっては、今のこの時こそが夢にまで見た憧れの瞬間だったんだから」
「……まあな」
「あはは〜。栞さんもあゆさんも、元気になって本当に良かったですね」
 佐祐理は今日も、まるで自分のことの様に喜んでいる。まったくの他人のはずなのに、その人の感情に同調し、同じように喜び哀しむことができる。彼女の最大の弱点であり、最大の良さなのであろう。
「それで――」
 機械的に箸を動かし、機械的にオカズを取り、そして機械的に咀嚼しつつ美汐は言った。
「あゆさんは、これからどうなるんですか?」
「こいつは、暫く自宅学習さ」
 ゴロゴロと甘えてくるあゆの頭に、ポンと手を置くと祐一は言った。栞もあゆも、先ほどから祐一にベッタリとくっついて離れない。これから、ずっと彼と同じ時を過ごせるかと思うと、嬉しくてしょうがないといった様子だ。
「なにせ、九九を覚えたあたりで学力がピタリと停まってるからな」
「それよりも天野さん、一昨日と昨日で色々と面白いことが分かったのよ」
 香里が珍しく、誰にでも分かる笑顔を浮かべて言った。この際、その笑顔の稀少価値で多少の不謹慎さと趣味の悪さは許されるだろう。
「武田玲子が自殺ではないという証拠も出てきたわ」
「そうですか――」
 だが、相変わらず美汐の反応は冷たい。赤の他人の死になど、興味を抱くだけ時間の浪費だとでも思っているような口調だ。
「では、やはりドア・チェーンあたりから細工の痕跡が出てきましたか」
「なぬっ!?」
「天野さん、なんでそれを知ってるの!?」
 仰天する祐一と香里は、箸をピタリと止めて美汐に詰め寄る。
「何故と言われましても……窓は2重構造のロックが掛けてあったわけでしょう? それに玄関のドアにも鍵が掛けられていて、チェーンもされていた。それでも殺人であるとすれば、密室は作られたことになります」
 美汐は、コップのお茶を注ぎながら淡々と語る。
「私は、倉田先輩から聞いた情報を総合して考えたとき、密室を偽装するために1番細工を仕掛けやすいのは、ドア・チェーンだと結論付けていました。チェーンさえ上手く都合すれば、安アパートの鍵ぐらい1分でピッキングできますからね。合い鍵だって容易に作り出せますし」
 自明の理だとでも言わんばかりに、美汐は肩を竦めてみせる。
「――ですから、彼女の死が殺人であったとするならば、チェーンに細工がしてあった確率が1番高いんです。ただ、それだけの推論ですよ。もっとも、細工をするまでもなく、チェーンを外側から開ける道具は幾らでもありますけど。鍵士と呼ばれる専門の職人たちなら、数秒で開けて見せますよ。それが彼等の唯一の取柄ですしね」
 それだけ言うと、話は終わったと言わんばかりにお茶を啜り、美汐は軽く吐息を洩らした。
「うーむ。相変わらず天野は良く分からん凄味があるな」
「同感だわ。あのトリックを見つけて一喜一憂していた自分が虚しくなってきたもの」
 祐一と香里は、顔を見合わせて呆れたように言った。
「ふーん。でも、武田さんのお家でそんなことがあったんだ」
 現場にいた筈の名雪は、今更のように言う。
「私、全然気付かなかったよ」
「お前はずっとグースカ寝てたからな」
「あ、でも、そのことを警察の人に教えてあげれば、今度は殺人事件として捜査してくれるんじゃないかな?」
 パフっと手を打ち合わせて、名雪は嬉しそうに笑った。だが、打ち砕くように美汐は冷たくその可能性を否定する。
「――恐らく、それはないでしょう。警察には学校の上層部が圧力を掛けています。そうでなければ、あんなに簡単に捜査を切り上げて、早々と『自殺』と公式発表しませんよ。彼らはこの件はこのまま忘れ去りたい筈なんです。ですから、我々がどんな状況証拠を集めていっても、揉み消されることになるでしょう」
「じゃあ、このまま武田一家は泣き寝入りか?」憤慨したように語気荒く祐一は言った。
「1つだけ、方法はあるわね。つまり、彼女を殺しましたっていう犯人が名乗り出ることよ。犯人が出てきたとなれば、流石に警察も動かざるを得ないもの」
 香里は冷静にそう分析した。
「で、その犯人って誰よ?」
「恐らく、学校関係者でしょうね」応えたのは美汐だった。「しかも、今回の件には生徒会が深く絡んでいるようです」
「はぇ〜、どうしてそんなことがお分かりになるんですか?」
 佐祐理は大きな目を更に大きくして驚く。
「倉田先輩、貴女の提供して下さった情報が、その推測の根拠です。貴女は武田さんが電話口でこう言っていたと仰いました。
『私、今年、生徒会の事務書記をやることになって、それで、生徒会会館で……』
 彼女のこの一言は、大きな意味を持つと考えられます。彼女は、生徒会会館で何かを見たか、聞いたか、知るかしたのでしょう。そして、そのことに関することを倉田先輩に打ち明けて、相談しようとしていた。話の流れから考えて、まず、そう考えていいと思います。ですが、倉田先輩に会う前に彼女は死んでしまった。もし彼女の死が殺人によるものであり、それが倉田先輩に情報が伝わる前に武田さんを消し、口を封じることを目的としたものであったと仮定するならば――」
「そっか。バラされちゃ困る情報を持ってる生徒会の連中が、関係している確率が高いな」
「あ! もしかして、北川君が私たちの学校に入り込んでいたことにも、関係してるのかしら?」
 香里が思い出したように言った。
「彼が何者だったのか知らないけど、この学校に用事があったと考えるのはそう不自然ではないわ。そして、その学校の裏側には、人を殺してでも守らなきゃならないような何かがあるわけでしょう?」
「まだ、そうと決まったわけではありませんけどね」美汐は言った。「ですが、確かにその考え方は自然です。確証は何もありませんが、全てが繋がっている可能性は否定できないでしょう」
「生徒会会館か……」
 祐一は、異様にセキュリティが厳しいという噂の会館を脳裏に描きながら呟く。
「確かに、あの場所には色々と不審な点が多いのよ。特に、あの異様なまでに厳しいセキュリティ」
 学級委員長として、生徒会の定例議会に度々参加している香里は、その辺りの事情に1番詳しい。佐祐理も何かと生徒会とは関わる機会が多かった生徒だが、結局、1度も生徒会の役員として働いたことはない。彼女はあくまでも象徴として扱われるマスコット的存在であり、それ故に生徒会の内部事情に精通しているとまではいかないのだ。
「生徒会会館って、そんなに警備が厳しいの?」名雪が不思議そうに訊く。
「厳しいなんてものじゃないわよ。あの物々しさときたら、大使館並みだと思うわ」
「確かに」美汐は軽く頷いて、香里の言葉を肯定した。
「外から見た限りでも、赤外線やら監視カメラやらと、なかなかの物を揃えているようでした。シロウトの侵入は、まず不可能とみていいでしょうね」
 彼らの学校の生徒会会館は、学校の裏手に構える5階建てのインテリジェント・ビル風の建物だ。香里や美汐の言う通り、厳重なセキュリティ・システムの警戒網に守られており、しかも何十人という民間警備会社のスタッフが常時巡回警備を行っている。
「出入りに関しても、原則として生徒会関係者にしか立ち入りは許されていないわ。入るときも、入り口に張り付いている警備員に申し出て、入館申請書に署名することで漸く『セキュリティ・カード』を渡してもらえるのよ。勿論、その際は学生証の提示を絶対に要求させれるわ」
「くぁ〜、そりゃ凄いな」
 少なくとも、学校の一生徒会の拠点としてはあまりに仰々しい。過剰とも思えてくる話だ。
「そうやって、誰が、何時、どんな目的で入館し、どのくらいの時間留まったのか、いつ会館を出たのかキッチリと管理されてるってわけよ。しかも、一般の生徒会役員が渡される『セキュリティ・カード』のレベルは1。つまり、会館の1階フロアしか自由に動き回ることができないの」
 香里は半ば呆れ顔で、肩を竦めて見せる。確かに、そこまでされては、逆に滑稽に見えてくるものだ。
「館内にあるドアは全て強固な電子ロックが施されていて、セキュリティ・カードを読み込ませることで、はじめて開閉できるシステムになっているわ。駅の自動改札みたいなものね。例外は、多分トイレが唯一でしょうね。それ以外は、ありとあらゆるドアにロックが仕掛けられているの。もちろん、上の階に登る階段もロックの掛かった分厚いドアで守られているわ。1階から2階へ行く階段を利用するためには、『レベル2』のカードを使ってそのドアを開けなくちゃならない。同じように2階から3階へ行くには『レベル3』、3階から4階へは『レベル4』のカードが必要になってくるわ。特にレベル4以上――4階から上のフロアは完全に謎の領域になっていて、学長や理事会の人間、生徒会でも会長クラスの上層部しか出入りできないことになってるの」
「それはちょっと異常ですね。その4階以上のフロアには一体何があるんでしょうか。……わ、なんだか、ドラマみたいでドキドキしてきました」
 気付くと、あゆと一緒に園内をパタパタと走り回っていた筈の栞が、何時の間にか会話の輪の中に入り込んできていた。
「お姉ちゃんが入手できるセキュリティ・カードのレベルは幾つなんですか?」
「もちろん、レベル1どまりよ」香里は即答した。「私は学級委員長をやってるだけですもの。末端も末端ですからね」
「じゃあ、殺された――と思われる武田玲子ってのは?」祐一が訊いた。
「去年までは、レベル2だったはずよ。事務書記長・補佐っていうのは、結構地位も高いし。今年、晴れて事務書記長に就任してからは、レベル3のカードを持っていた筈。生徒会でもトップ3の重役だから。このクラスになると、カードを常に携帯していることが許されるわ。一般の役員みたく、入り口での手続きでカードをその度に発行してもらわずに済むってわけね」
「うぐぅ……。難しくて、ボクには全然分からないよ」
 あゆが悲しそうに言った。
「心配するな」そんなあゆの頭を撫でながら、祐一は優しい笑顔で彼女を励ます。
「あゆには、最初から1ミリたりとも期待してないから」
「うぐぅ……なんか、フォローになってない気がするのは、気のせいかな」
「――学校組織というのは、社会的に最も堅く閉鎖された空間の1つです」
 あゆと祐一の会話を全く無視して、美汐は言った。
「考えてみれば、これほど特殊な世界もありません。一種の治外法権とも言えるでしょう。よほどしっかりした証拠に基づく汚職の類いが発覚しない限り、警察は公に出入りすることすらできませんし、学校法人として法的にも様々な面で優遇されます。そして理事会は『校則』という独自の法とシステムを作りだし、生徒たちを管理することが可能なのです。その気になれば、あたかも神のように振る舞うことすら可能でしょう」
 祐一には美汐が何を言いたいのか分からなかったが、佐祐理と香里には分かったようだ。その証拠に、佐祐理が少し真剣な表情で口を開く。
「法的に保護されていて、しかも警察その他の捜査の手も事実上入らないことになっている。それに文部省も、教育委員会も、余程のことがないかぎり学校の自治権を尊重する意向で運営されていますから……つまり、犯罪を行うには絶好の閉鎖空間なんですね」
「その通りです」
 生徒が期待通りの成績をとってくれた、といった表情で美汐は頷いた。
「特に、その犯罪を行っている者たちが学校運営者であり、上層部がグルになってそれを隠蔽しようとすれば、まず外部にバレる心配はありません。学校――とくに、私立の学校ほど犯罪向きの空間はあり得ないのではないでしょうか」
「つまり、天野はウチの学校が何かデカイ犯罪に手を染めてると。それでもって、その首謀者は生徒会を含む学校運営者の上層部だと言いたいわけだな?」
「そういう邪推もできる、ということです」
 美汐はチラと祐一を一瞥する。だが、すぐに手元の紙コップに視線を戻した。
「武田さんの死が、殺人であると仮定した時、やはりこれに生徒会が絡んでいる確率は高いですし、それに警察が圧力を受けて捜査を打ち切ったように見えることからも、それが可能な権力者がこの件に絡んでいると考えることができます。そうなると、『生徒会+理事会』が裏で暗躍している――という仮説が、観測された事象を上手く説明しているように見えてくるのです」
「なるほど。論理的な分析ね。少なくとも、現時点で明らかにされている仮説の中では最も説得力があるわ」
 香里は美汐に同調して、頷いて見せた。
「でも、これ以上この件を調べるのは、ほぼ不可能よ。警察は動かないでしょうし、私たちが独自にやるにしても、糸口がないわ」
「確かになぁ。武田玲子が殺された原因が『生徒会会館』にあるとしても、事務書記長が出入りできる3階以上にその秘密があるわけだろ?」
 祐一は顎に手を当てて、思考しながら言った。
「ところが、会館はセキュリティが厳しくて、忍び込むことができない」
「えぅ〜。八方塞ですね」栞は困ったように呟いた。
「そうですね。困りましたねえ」そう言う佐祐理の笑顔は、ちっとも困っているようには見えない。
「でも学校も、これで2年連続で自殺者を出したわけですから、困ってると思いますよー」
「えっ?」その思いがけない情報に、祐一は目を見開く。「2年連続って、去年も自殺者が出たのか?」
「そうですよー。澤田紀子さわだのりこさんという佐祐理の同級生が、学校の屋上から飛び降りたんです」
 佐祐理は、当時のことを思い出したのか、一瞬その柳眉を顰めた。
「そういえば、澤田さんも生徒会の役員さんでしたね」
「思い出しました。確か、彼女は『風紀委員長』でしたよね。どうして忘れてたのかしら」
 香里が微かな困惑の表情で言う。
「風紀委員長はセキュリティ・レベルも2だし、そんなに要職というわけでもないから、今回の武田さんの死とは別件だと思うけど」
「2年連続、生徒会関係者が自殺。しかも、一件は恐らく殺人。おいおい。こいつはちょっと穏やかじゃないぜ? 天野は知らなかったのか?」
「私は、他人の死については『人口問題が1人分解決された』くらいにしか思いませんから。誰かが死ぬことに、特別興味は覚えません」
 要するに、そんなニュース自体に関心がなかったということだろう。
「大体、『殺人』という定義が曖昧過ぎます。戦争でお国のために敵兵士を殺すのが許されるのに、何故、私欲のために他人を殺すのが許されないのですか? 私は前々から疑問に思ってたんですが、誰も答えを教えてくれないんです」
「え、でも、それは……」反論しようとする栞だが、上手く言葉にできない。
「日本に原爆を落としたアメリカ軍の兵士は、『原爆で戦争を終わらせ、これ以上の犠牲者を出さずに済んだ』ということで、半世紀経った今でも、英雄とされています。
 凄い話ですよね。爆弾落として何百万もの人間を虐殺し、都市を1つ滅ぼしたというのに、彼らは勲章を貰って、週末になるとサイン会を開き、会いに来た人々と笑顔で握手を交わすんです」
 その美汐の思考は、祐一のそれに極めて近しいものだった。だから彼は、黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
「ですがどうでしょう。たとえば、私の家族が殺されたとします。それで、私はその犯人に復讐を企てる。そして、殺してしまうわけです。すると、何とも不思議なことに、これが犯罪になってしまう。これは一体、どういうマジックなんでしょうか。もはや、理解不能です」
 その美汐の言いように、祐一は誰も気付かれないように苦笑した。
「そして、裁判官たちは言うわけですよ。『いかなる理由であろうと、殺人は許されない』。……ね、このあたり考えてみると面白いでしょう。それとも、そう思うのは私だけでしょうか?」
「いえ、天野さんだけじゃありませんよ」佐祐理が神妙な顔つきで言った。「佐祐理は、“One murder makes a villain; millions a hero. Numbers sanctify.”というような皮肉を聞いたことがあります」
「――1947年の映画、殺人狂時代(Monsieur Verdoux)の中の台詞ですね」
 香里が補足するように告げた。
「日本語に訳せば、『1人の殺人は悪漢を、百万の殺人は英雄を生む。数量が事を神聖化するのである』というような意味になるかしら。チャールズ・チャップリンの有名な文句だわ」
 なにやら、和やかな昼食会のムードが、一転して重苦しい沈黙に支配されていった。周囲の空気が、どんよりと淀んだ黒雲に姿を変えてしまったかのようだ。誰もが口を閉ざし、その空気を払拭できない。この雰囲気形成に多大な影響を齎した美汐も、生憎と破壊はできても再構築には向かないキャラクターだ。
 だが、何事にもトリックスターは存在する。その重々しい沈黙を破ったのは、ひとり黙々と弁当を食べていた舞の一言だった。
「でも、このままじゃ、あのおばさんが可哀相……」
 ポツリ、呟くように彼女は言った。
 舞が悲しい話を極度に苦手としているのは有名な話だ。現に、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしている。だが、ぐしゅぐしゅと涙を堪えながら、彼女は続けた。まるで宇宙の摂理を語るように。
「やさしいお母さんは、悲しませたら駄目」
 ――舞がこんな反応を示すのには、理由がある。彼女は幼い頃、最愛の母を亡くしているのだ。そして、彼女は独りぼっちになった。孤独な日々が、10年も続いた。その事実を知っているからこそ、一同の間に、彼女の言葉は何より重く響き渡った。
 娘の玲子を失った武田博子の哀しげな表情は、この場にいる殆どの人間が目撃している。確かに、玲子が殺されたというのに、犯人が捕まらないままこの件が闇に葬られてしまうのは博子婦人にとってあまりに酷な展開だ。
 婦人の穏やかで優しい人柄に触れた祐一たちは、何とか彼女の力になってやりたいと思う。犯人が捕まったからといって娘の玲子が還えってくるわけではないが、それでも幾許かの救いにはなるだろう。
 ――正直、祐一は人を殺すことが罪だとは思っていない。人の歴史は戦いの歴史。つまり、殺人によって自分たちの世界は築かれてきた。チャップリンの格言にもあるように、「1人殺せば殺人者。100万人殺せば英雄」、それが現実なのだ。
 そう、美汐の指摘は正しい。戦争で何百という人間を殺し、戦果を挙げた人間は英雄として称えられてきた。だからこそ、言える。殺人=悪という図式は幻想であり欺瞞なのだ。自分を正義だと盲信する人間にとっては、自らが掲げる目標を達成するのは神の行いにも等しい崇高な任務となる。だからこそ、その任務を完遂するためならば、いかなる行為も手段も正当化されてしまうわけだ。
 それに、どうだろう。資本主義を、「富を他者から搾取するシステム」と考えれば、貧富の差を生み、貧困国を作り、そして飢餓者を生み出しているのは、自分たち先進国に生きる人間だという解釈も成り立つ。輸入した食物の3割以上が、残飯として処理されている日本の現状を果たして何人が把握していることだろう。その残飯として捨てる分の余剰な食料を、貧困国に回していれば、一体これまでに何億人の餓死者の命が救われたであろう。
 どんなに綺麗ごとを並べてみても、社会で生きるということは、どこかで誰かを殺しているということだ。食料を手にしているということは、どこかの誰かから食料を奪い取ったということ。つまり、穿った見方をすれば、生存者=殺人者の図式も成り立つ。
 そして、それは摂理だろう。殺人は、自然が認めた合法的な行為であり権利なのだ。
 だが、同時にこうも思う。共感の能力を持つ人間として生まれてきたならば、その殺人には責任を持つべきだと。オレは気高く生きる。だから、オレの命の礎となるために、お前は死んでくれ。そう胸を張って、誰かを殺せる人間であるべきだ。それは、人間だけができることなのだから。
 だから、殺人者は玲子の死が齎した悲劇に対し、責任を負わねばならない。彼女を殺害し、その母・博子を悲しませたのならば、その心の傷を癒すべきだ。それが出来ないというのならば、祐一はその殺人を容認しない。誇りなき殺人者、覚悟なき殺人者――即ち、犯人を許さないだろう。
「……ったく、しょうがねぇな」
 暫しの間、場を支配していた重苦しい沈黙を払うように、祐一は呟いた。
 だが、その面倒そうな口調とは裏腹に、口元には不敵ともとれる微笑が浮かんでいる。
「あ、祐一。やる気になったんだ」
 誰よりも1番長く祐一を見詰めてきた名雪が、嬉しそうに言う。
「まあ、展開上しかたないだろう」
 そうしてまた、彼は鋭利に唇の端を持ち上げる。
「気のいいオバちゃんの可愛い一人娘を、覚悟も無しに殺しちまうような奴にさ。警察がやらねえってんなら、オレたちで教えてやろうぜ。誰かのお宝を奪うってことには――、重すぎるリスクが付き纏うってよ」






to be continued...
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