垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




12



 6月13日火曜日、午前8時27分。
 いつもなら始業ベルに細心の注意を払いながら、3秒の早業で靴を履き替え、教室までの廊下を全力疾走で駆け抜ける祐一と名雪の2人であったが、その朝は珍しく時間に余裕があった。と言っても、昇降口についた時点で始業時間まであと3分という際どいタイムではあったが、少なくとも走らなくても間に合いそうなタイミングではある。
 名雪と付き合っていると分かるが、これは極めて異例の出来事といっていい。奇跡を持ち出したくなるくらいだ。
「おお、素晴らしい。なんと、歩いて教室まで向かえるぞ!」
 清々しい朝の一時を、余裕を持って過ごせる。祐一はその事実を実感し、感動に打ち震えた。
「ホントだ。今日は、早くついたおー」
 そう言う名雪は、口調からも分かる通りまだ寝ていた。お目目が横線になっていて、見様によってはラヴリィだ。
 今朝の名雪は、どうやら『学校に行く夢』を見ていたようで、祐一が起こしに行った時、彼女は既に制服に着替えて登校のスタンパイを完了していた。勿論、意識は眠ったままだったが。
 このおかげで、毎朝祐一の頭を悩ませている一部の作業は極度に短縮された。これが、今日余裕を持って登校できた理由である。つまり、こんなことでもなければ、彼らは朝の貴重な時間を余裕をもって過ごすことなど出来ないのだ。
「いやあ、今日は良い日になりそうだなぁ」
 祐一は気分良くそう言うと、いつも以上にキビキビとした動作で靴を脱ぎ、ロッカーのドアを開けた。 そして上履きを取り出そうとして――その物体の存在に気付く。
 開けたロッカーの中に、一際輝くようにして鎮座していたのは、白い封筒であった。
 普通ならあり得ない展開に、祐一の心臓はドキンと一拍、やけに大きく高鳴る。
「こっ……これは!」
 ゴクリと喉を鳴らすと、彼は慎重にその封筒に手を伸ばした。
 自分でも指先が微かに震えているのが分かる。
「もしや」という淡い期待が、思春期エイジど真ん中の彼の胸を支配していた。
 胸の鼓動は、先程から早鐘のように忙しく鳴り続けていて息苦しいほどだ。
「これは、まさか、あの、伝説の……」
 手にした封筒は、間近で良く見れば淡い桜色をしていた。宛て先には、パソコンで製作したのか「相沢祐一様」という文字が綺麗にプリントされている。裏返してみると、便箋の封はハートマークのシールでなされていた。差出人の名前はない。
 きっと、この手紙を送ってきたのは、とっても恥かしがり屋さんな女の子に違いない。祐一は早くも断定した。つまりそれは――
「噂に聞くラヴレターに間違いない! ……と言うか、既にそれ以外認めん!!」
「ガブなデターって、なんだお?」
「うおっ」
 突如、横から、目が横線になっている名雪の顔がニュっと突き出されてくる。祐一は慌てて後ずさりつつ、後ろ手にラヴレターを隠した。
「な、なんでもないぞ。うん。そう、これはなんでもないんだ。ああ、そう。アレ。うん。つまり、な? そうそう、だから、ね? うん。ま、そんなわけで。要するに、アレ!」
「何言ってるんだか、さっぱり分からないおー」
「ハッハッハ。他愛もないことさ。こんなことは爽やかに忘れてしまってくれたまえ」
「う〜、なんだか祐一が怪しいお〜」
 水瀬名雪。彼女は、寝ているときの方が洞察力に優れていた。
「さ、遅刻にならない内に早く教室に行こうではないか。親友のナユキヴィッチ君」
 祐一は態とらしい笑顔を張り付けたまま名雪の肩をガシッと掴み、そのまま強引に教室へと連行していった。




13




「ハッハッハ。クラスメイトの諸君、おはよう!」
 教室のドアを威勢良く開くと、祐一はキラリと無駄に歯を光らせながら言った。クラスの同級生たちは、一体何事かと祐一に視線を集める。
「今日はまた、清々しい朝だね。ごらん、外では小鳥さんたち楽しげにが歌っているよ。ハッハッハ」
「相沢君……どうしたの?」
 ほぼ隣席に位置する香里が、いつもと様子が違う祐一に、怪訝そうな顔をして問いかける。
「やあ、おはよう。香里君、今朝も相変わらず綺麗だね」
「えっ? 香里くん?」
 大衆の面前で、しかも祐一から綺麗などと言って貰った事は1度もない。流石の香里も、狼狽した。だが、そんな香里の微妙な乙女心には全く気付かず、ラヴレターを貰ってご機嫌の祐一は、似非・英国紳士風の微笑を浮かべて続ける。
「ハッハッハ。なんだね、モナミ。君は気付いていなかったのかい」
 祐一はそっと香里に手を伸ばすと、手の甲で優しくウェイヴした艶やかな髪を払い、そしてその頬を包み込むようしてに触れた。
「あ」と、香里は祐一にだけしか分からない微かな吐息を洩らす。
「未だ気付いていないと言うのならば、このジェントル相沢が教えてしんぜよう。君はとても綺麗な女性なのだよ、マドモァゼル。その憂いを湛えた、だが知性の光を放つ瞳。薄桃色の甘い唇、そしてこのシルクの手触りを誇る滑らかな肌」
 祐一はそう言って、香里の頬を愛撫する。また、彼女の唇から熱い吐息が漏れた。
「自信を持ち給い、香里君。このジェントル・相沢には美人の知り合いが大勢いるが、その中でも君は特に美しいのだよ。そう、君は、とても綺麗だ。この私が保証しよう」
 そう言うと、サッと香里から体を離し、祐一は颯爽と自分の席に腰を落とした。
「おいおい、従兄妹のナユキヴィッチくん。いつまで、そこに突っ立っているつもりだい? もうすぐ、先生方がいらっしゃるよ。はやく掛けたまえ。ハッハッハ」
 ラヴレター1通でここまで舞上がれるのだ。祐一も幸せな男である。

「ねえ、名雪。相沢君、一体どうしたの? あの手の病気なら何度かあったけど――今日のアレはちょっとおかしすぎない? ほとんど、人格変わってるわよ」
「私も知らないおー」
 ヒソヒソと小声で語り掛けてくる香里に、名雪は眠ったまま答えた。
「でもきっと、デブなスターのせいだお」
「デブな……スター?」香里は首を捻る。
 試しに、ハリウッド・スターを脳裏に描き、彼らが体重150kgまで太った姿をイメージしてみる。分かったのは、ただ気分が悪くなるといったことだけだった。祐一の変態ぶりの説明にはならない。
「ハッハッハッ、いやいや、どうしてどうして。だ〜っはっはっ! まいったな、こりゃ」
 香里は、自分の席で高笑いを続けながら、何やら怪しい手紙を読んでいる祐一を一瞥し、そして魂が抜け落ちるような深い溜め息を吐いた。




14



相沢祐一様

 突然、こんな不躾なお手紙を差し上げてごめんなさい。

 どうしても、直接お会いしてお話したいことがあったのですが

 私にはこういった方法しか、思いつきませんでした。

 相沢先輩に、お伝えたいこと……告白したいことがあります。

 勝手ですが、どうかお時間を下さい。

 本日、6月13日の放課後、17時から旧校舎の視聴覚室で

 お待ちしております。

 厚かましいお願いであることは承知していますが、どうかお一

 人でいらしてください。





「……ふぅ」
 もう何度目になるだろうか。祐一は、その手紙を読み返すと学生服の懐に仕舞い込んだ。
 時刻は16時55分。既に放課後だ。約束の時間は17時。もちろん、行くつもりだった。
「しかし、この娘にも困ったものだ。オレには、舞に佐祐理さんに、名雪にあゆに栞に香里に美汐という女性たち(鬼畜)がいるのに」
 低くそう呟き、祐一はフッと寂しげに笑う。
「彼女も、罪な男に恋をしてしまったものだ。ふわ〜っはっはっは!」
 とっても嬉しそうな祐一である。
「オレを『相沢先輩』って呼ぶってことは、下級生だよな。……まさか、天野? いや栞?
 いや、そうじゃなくて、今年入学してきたピカピカの新入生かも知れんな。そう、きっと彼女は、朝の学校、颯爽と駆けこんで来るオレの姿に、一目惚れしたに違いない。
 ああっ。煌く汗が美しいわ、相沢先輩。さぁ、私の全てをメチャクチャに奪って!
 ……とか言われたら、どうしよう。
 いけないよ、君。僕らはまだ、高校生じゃないか。でも、折角だから……もとい、君がそこまで泣いて頼むのなら仕方がない。本当は駄目なんだけど、今回だけ、特別だぞ? ぬわぁ〜んちゃってな! ぬわ〜っはっはっは。オレは強い!」
 旧校舎へと続く中庭の真中で、ダンダンと足を踏み鳴らす祐一。その横を、生徒たちが気味悪げにそそくさと擦り抜けて行く。彼らのその目には、祐一に向けられる憐憫の情が浮かべられていた。
「――さあて。あまり待たせるのも何だ。もうすぐ5時になるし。可愛い後輩の相談に、お兄さん、のりに行っちゃおうかな。それでもって、上手くいけばその柔肌をアレやコレやしちゃったりして。ハッハッハ」
 祐一は、軽い足取りで旧校舎へと歩き出した。
 この旧校舎とは、つまり今では使われなくなった古い校舎のことだ。勿論、好き好んで旧校舎に入り込む人間など滅多にいないから、密会には最適の場所と言えた。
 旧校舎は基本的に封鎖されていて、出入り口は施錠されている。だが、所々に鍵が壊れているドアが存在し、実際はそこから出入りが簡単に出来たりする。これは生徒の間では、周知の事実だ。公然の秘密と言っても良い。
 祐一は、そんな鍵の壊れたドアの1つから、堂々と旧校舎に入り込んでいった。その跳ねるような歩調は、もう殆どスキップに近しい。よほど浮かれているのだろう。そのせいで、彼は自分の後をゾロゾロと尾行して回る、怪しい7人の人影にも全く気付いていなかった。

「うー。祐一、旧校舎に何しに行くんだろう?」――名雪。
「怪しいわね」――香里。
「うぐぅ。暗くて怖いよ」――あゆ。
「あははー。祐一さん、ルンルンですね」――佐祐理。
「……祐一、楽しそう」――舞。
「これは、女性ですね。密会に違いありません」――美汐。
「そんなドラマみたいなことする人、嫌いです」――そして、栞の7名である。
 彼女たちは、昼食会の時も上の空でエヘエヘとだらしなく笑っていた祐一を不審に思い、その行動を具に観察しようと誓い合ったのである。
 そして案の定、放課後になると祐一は怪しさ爆発な雰囲気を纏いつつ、旧校舎へステップを踏みながら入り込んでいくではないか。聡い7人娘たちが、これを見逃すはずもない。
「ええと、視聴覚室は……3階の北側か」
 一端、旧校舎の正面玄関に向かった祐一は、天井部からブラ下がっている館内案内板を見上げて、目的の場所を確認する。それを見る限り、この旧校舎はツインタワーになっているらしい。北側、南側に校舎が並んでいて、スカイロビーで随所から連絡が保たれているようだ。
 指定された『視聴覚室』は、大型のスクリーンと暗室を作り出す装置を持った特別な大部屋で、生徒たちが映像資料などを揃って見るための設備である。これが、3階の北側の棟にあるというわけだ。
「北側と言えば、北川の奴――本当に、何者だったんだろうなぁ」
 そんなことを呟きつつ、祐一は階段を駆け登っていく。
「ま、いっか。所詮、北川だし」

 視聴覚室はすぐに見つかった。旧校舎は、使われなくなったとは言え、それは一昨年からのことだという。まだ校内には電気が通っているらしいし、埃が薄らと積もっている以外は、そんなに錆びれた雰囲気はない。内部は薄暗かったが、それでもドアプレートの文字を読めるくらいの明るさはあった。
「ここか」
 祐一は、ドアの上部についているプレートに『視聴覚室』と書かれているのを今一度確認し、深呼吸をした。腕時計を見れば、時刻は17時02分。2分の遅刻だが、まあ許される範囲内だろう。
「それでは、失礼しま――」
 抑えきれない笑顔と共に祐一はドアを開こうとするが、ガツン、と抵抗がくる。もう1度手に力を込めるが、やはりドアはスライドしてくれず、鈍い衝撃を腕に伝えてきた。どうやら、鍵が掛かっているらしい。
 視聴覚室は、ちょっと特別な構造になっているらしく、今祐一が前にしているドアしか入り口はない。そして、ドア以外には内部と通じる連絡口はなく、窓の類いもついていなかった。この校舎は、その構造上、教室の入り口ドアがある壁を挟んで、廊下の片側と教室内部の向かい側にしか窓はついていないのだ。要するに、ドアがついている壁には、窓の類いは一切ついていないことになる。
「おっかしいな。ドアに鍵かかってたら、待ち合わせも何もできないじゃんよ」
 それでも諦め悪く、何度かドアを開けようと試みつつ祐一は呟いた。だが何度チャレンジしても、ドアは開かない。ここにきて、祐一ははじめて貰ったラヴレターが悪戯であった可能性に思い至った。
「そう言えば、ラヴレターをパソコンでプリントアウトするっていうのも、ちょっと変だよな」
 恋文とは、古今東西、『ハートを込めた手書きのものを送るべし』と決められている節がある。あまりに字が下手ならパソコンを使うことも考えられるが、それでも無機質な感覚と愛想のなさは拭いきれない。下手でも良いから、手書きが良いという人間も多いだろう。
 オレはもしかして、とんでもないドッキリに引っ掛かったのかもしれない――。
 祐一が落胆と共にそう悟ろうとした瞬間である。視聴覚室のドア越しに、携帯電話の着信音と思われる電子音が聞こえてきた。鍵の掛かった目の前のドアの向こう側から、である。
「あれ?」
 携帯電話が鳴るということは、室内に誰かいるということだ。やはり、悪戯ではなかったのか。訝しげ表情をしながら、祐一は首を捻る。
「おーい。誰かいるのか〜?」
 少し考えた後、祐一は声を張り上げながらドアをドンドンと叩いてみた。
 恥かしがり屋の彼女は、誰にも邪魔されないよう、祐一が来るまで念の為にドアに鍵を掛けて待っていたのかもしれない。外側からロックの開け閉めを行うには鍵が必要だが、内側からなら、ロックは手動で操作できる。無理な推測ではなかった。
「おーい。いるのか〜? 携帯電話がなってるぞ。相沢先輩が来たんだぞ。開けてくれー」
 更にドアを拳で殴りつけて呼びかけるが、一向にレスポンスは返らない。携帯電話の着信音も、未だに鳴り続けていた。
「おい、もしかして寝てるのか? だったら、眠ってる場合じゃねぇぞ。起きろー!」
 声量を上げ、祐一はしつこく呼びかけを続ける。このまま帰っても良いが、それだと、どうもスッキリしない。携帯が鳴っているということは、誰かが向こう側にいる筈なのだ。ドアの向こう側にいる人物の正体を突き止めない限り、もはや祐一の気は収まらなかった。
「くら〜! 呼び出しておいて放置とは何事か。開けろったら、開けろーっ」
 痺れを切らしたのか、遂にゲシゲシとドアを蹴り出す祐一。

「うぐぅ〜! 祐一君、乱暴にしたらダメだよ」
 するとそこへ、何故かあゆが駆け寄ってきた。いや、彼女だけではない。その後から、名雪や香里たちまでやってくる。
「なんだ、あゆ。それに、名雪たちまで。何でこんなところにいるんだよ?」
「それはこっちの台詞よ、相沢君。旧校舎のこんな所で、一体何してるの?」
 香里は祐一の言葉が終わらないうちに、冷たく言った。
「ここは立ち入り禁止の筈よ。しかも、ドアを叩いたり蹴ったり。何のつもりかしら」
「そうだよ、祐一。立入り禁止っていうのはね、入っちゃダメってことなんだよ?」
「アホ」祐一は呆れたように名雪に言い返す。「お前に言われなくても、そんなこと知ってるよ」
「では、何のために立入り禁止区域で、こんな奇行を演じていたのですか?」
 相変わらずのクールヴォイスで、美汐が追求する。
「奇行って……」鼻白む祐一は、女性軍から視線を反らす。
「ホラ、聞こえるだろ。視聴覚室の中で携帯の着信音が鳴ってる。でも、このドア、鍵がかかって開かないんだ。変だと思わないか?」
「はぇ〜。言われてみれば、そんな音が微かに聞こえますね。ね、舞?」
「ハチミツくまさん。確かに、聞こえる」
 佐祐理と舞がいつものコンビネーションを発揮して、仲良く頷き合った。
「だから、この音の正体を確かめようと思ったわけだよ。携帯が鳴ってるってことは、誰かが室内にいるってことだろ? まあ、携帯を忘れていったのかもしれないが、でもそれだと鍵が掛かってるのはちょっとおかしい。それに、オレはわざわざこの部屋指定で、呼び出されたんだからな」
「呼び出された? 誰にですか」
 怪訝そうな表情をする栞に、観念した祐一は懐から出した例の手紙を渡してやる。
「拝見します」と言って栞がその便箋を広げると、女性軍は揃ってそれを覗き込んだ。
「え〜っと、なになに……相沢祐一様。突然、こんな不躾なお手紙を差し上げてごめんなさい。どうしても、直接お会いしてお話したいことがあったのですが――って、何ですかこれは〜っ!」

 ざっと目を通した彼女たちは、読み終えると顔を上げてギロっと祐一を睨みつけた。
「うぐぅ。これって……ラブレター?」
「なるほど。それで、今日は異様なまでに機嫌が良かったのね」
 冷たい視線で祐一を苛みながら、香里は言った。
 本当なら更に、「名雪のおバカ! デブなスターじゃなくて、ラブなレターじゃないのよ」と激しく突っ込みたいところであるが、どうせ本人キッパリ覚えていないだろうから、泣く泣く断念する。
「い、いや。断ろうと思ってたんだぜ。ホント」
 2、3歩ジリジリと後退しながら、祐一は慌てて弁解した。
「それにさ、今問題となってるのは、その手紙じゃなくてこの部屋の向こう側でなってる携帯電話だろ? な? そうだよな?」
「むむぅ。やむをえないです。取り合えず、今は誤魔化されてあげましょう」
 栞は口をへの字に曲げて、そう言った。元が中学生のように愛らしい彼女の場合、きつい美人タイプの姉とは違って、怒った顔をしてもそんなに怖くはない。
「ですが、この件に関しては後でキッチリ釈明していただきますからね、祐一さん」
「は、はい。分かりました……」
 逆らったら、7人の女たちから狩られる。そう直感した祐一は、直立不動の構えでコクコクと頷いた。
「まあ、確かに鍵が掛かった部屋の向こうから、リアルタイムに携帯の着信音が聞こえてくるっていうのは奇妙よね」
 1つ頷くと、香里は言った。
「OK、分かったわ。私、事情を話してここの鍵を借りてくる。だから、ちょっと待ってて。特に相沢君。短気起こして、ドアを蹴破ったりしないようにね」
「分かってるよ……」祐一に釘を刺すと、香里は踵を返して走り去っていった。

 それから待つこと約10分。
漸く説得に成功したのか、廊下の向こう側から、渋る男の手を引っ張るようにして香里が帰って来た。
「お待たせ」
 戻った香里はそう言って笑って見せると、引っ張ってきた男性教諭に視線を移す。祐一たちの去年のクラス担任であった、石橋だった。
「さ、石橋先生。お願いします」
「あ、ああ。しかし、なんで……倉田君に、川澄。お前たちは確か去年卒業したはずじゃ」

「石橋先生。今はそんなことはどうでもいいでしょう」首を捻る石橋を、優等生の香里は睨みつける。
「室内で、携帯が鳴っているのが分かりませんか? 現状で優先すべき問題はこちらにあるはずです」
「う、うむ。確かに聞こえるな。変ではある。分かった、鍵を開けてみよう」
 石橋は、気圧されたように何度か頷いて見せた。
 実はこの学校において、香里の発言力は意外と大きい。特に教師たちには多大な影響力を持つ。それは一重に、彼女が学校始まって以来の優秀な生徒であるからだ。
 彼女が各教科の担当教師よりも高度な知識を持っていることは、全校の人間が知っている。それを証明するように、入学以来、彼女は全てのテストで常にパーフェクトな答案を提出してきた。野球で言えば、パーフェクト・ゲーム。1人のランナーも許さない、完全試合のペースだ。
 勿論これは、学校始まって以来の快挙である。当然、教師たちはこの優秀な生徒の将来に大いなる期待を寄せているわけだ。だからこそ、彼女には多少の我が侭が許されるという特権が与えられていた。
「しかし、妙だな。基本的に、旧校舎の教室には鍵は掛けられていない筈なんだが……一体、誰がどうやって閉めたんだろう?」
「中に入り込んだ人がいて、内側から鍵をかけて閉じ篭もっているんですよ。だから、今携帯が鳴ってるんじゃないんですか?」香里は呆れ混じりにそう言った。
「む、なるほど。そうか」石橋は納得したように頷く。「――よし、開いたぞ」
 その言葉と共に、ガチンという意外と大きな音を立てて、ロックが解除された。  ドアをスライドさせて開き、最初に中に入り込んだのは鍵を開けた石橋だった。次いで香里、祐一、名雪と続く。
「はぇ〜、真っ暗ですね」
 最後に室内に足を踏み入れた佐祐理が、感心したように小さな叫びを上げた。彼女の言う通り、視聴覚室はかなり精度の高い暗室となっていた。
 その主たる原因は、入り口向かって正面に並んでいる窓が、遮光用の黒いブラインドで塞がれているせいだ。この窓が自然の唯一の光源だからして、ここを封じられると視聴覚室には光が入り込む余地がなくなる。これは視聴覚室だけが持つ特別な装備で、映画館が上映の際、室内の照明を落とし周囲を真っ暗にするのと、意図するところは同じだ。
「旧校舎って、電気通ってるんですよね?」
「ん、ああ」祐一の問いに、石橋は頷く。「屋上に、自家発電機があるからな。少しなら、使えるはずだ」
「じゃ、誰か電気をつけてくれよ」祐一は、勝手を知っている女子たちに頼んだ。
「このままじゃ、暗くて殆ど何も見えない」
「あははー。佐祐理は、どこにスイッチがあるか知ってますよー」
 かつてこの部屋を利用した経験を持つ佐祐理が、明るい声を上げた。
「え〜っと、確か……あ。これです。えいっ」
 可愛らしい掛け声とともに、天井の蛍光灯が瞬き出した。そして、数度の点滅を繰り返し、やがて安定した光を室内に提供する。
 50人は収容できるであろう、普通の教室の1.5倍はある大きなスペース。高い天井に、ズラリと並んだ緩い階段式の座席と机。向かい側には、一面に窓が並んでいるらしいが、予想していた通り黒いプラインドが降ろされていて、日の光が僅かな隙間から微かに入り込んでいるのが分かる。鬱積した埃の匂いが、淀んでいた空気と共に彼らの元に流れてきた。
「う、うわああああっっ!!」
 突如、先頭を切って部屋に入り込んでいた石橋が、悲鳴を上げて後退りした。そして混乱のあまり足を縺れさせた彼は、そのまま後側に倒れ込み、尻餅をついた。だが体は移動しても、その視線は部屋の中央部に固定されたままピクリとも動かない。
 そこには、ひとりの男性の姿があった。
 ただし、位置が随分と高い。目線を上げないと、ダラリと下がった2本の足しか視界に納まらない程だ。そしてその足は、地面から数十cmもの高さまで浮き上がっていた。
 幾何学的な模様の入ったグリーンの長袖シャツに、白いズボン。ガックリと項垂れているせいで表情を窺うことは出来ないが、それでも直感的に1つの事だけは分かる。
 つまり、彼は既に生きていない。
 首に巻きついた黒いビニール状の紐と、明らかに生者のものとは異なった肌の色がそれを如実に語っていた。

「名雪、あゆっ、見るな!」
 祐一は慌てて彼女たちを胸に抱きしめた。そうすることで、彼女たちの目を塞ぐ。その隣では同じように、香里が妹の顔を自分の胸の谷間に埋め込んでいた。
「むぐぐ……お姉ちゃん、苦しぃですう」
 豊満な胸の双丘に窒息させられ、栞はバタバタともがくが、それでも香里は妹を離さなかった。
「た、たけ……竹下!!」
 ガクガクと顎を震わせながら、掠れた声で石橋が叫ぶ。
「竹下さん――ああ。確かに。あれは、竹下さんです」
 佐祐理も石橋の言葉で思い至ったのか、慌てて頷きながらそう言った。
「竹下? 佐祐理さん、誰なの、それ。知り合い?」
「え、ええ」
 祐一に聞かれて一瞬ビクッと体を震わせたが、佐祐理は何とか笑顔を作ってそう応えた。
「佐祐理の同級生で……、そう。去年、生徒会の『事務書記長』をなさっていた方です」
「事務書記長!」祐一は目を見開いた。
「それって、あの武田玲子がやってた事務書記長か?」
「はい。その事務書記長さんです。去年3年生だった竹下さんが前任の事務書記長でした。当時2年生だった武田さんは、その補佐をされていたわけです」
「マジかよ……」

「相沢さん、美坂先輩。ちょっと」
 気が付くと、ブラ下がっている死体のすぐ隣で美汐が手招きしている。目と鼻の先で死んだ男が宙吊りになっているというのに、彼女は普段と見事なまでに変わらない。それどころか、散歩に誘うような気軽さで祐一たちを呼んでいた。
「うぐ、うぐぅ〜。こわいよーこわいよー」
 対照的に、あゆは酷く怯えていた。祐一の胸に顔を埋めて震えている。
「うわぁ。また人が死んでるよ。凄いねー」
 名雪には余裕がありそうだった。いつもの間延びした口調で「凄いねー」と言われても、全然凄そうには思えない。
「名雪、オレはちょっと様子を調べてくるから。お前は、あゆを頼む。出来れば、外に出ていてくれ」
 祐一はエグエグ泣いているあゆの頭を優しく撫でながら、名雪に言った。
「うん。分かったよ。さ、いこ。あゆちゃん」
 名雪は頷いてそれに応えると、あゆに優しく微笑みかける。無理をしている様子はなく、素の笑顔だ。流石、このあたりは『スーパー・ウーマン=水瀬秋子』の遺伝子を継いでいるだけのことはある。祐一は苦笑した。
「お姉ちゃん、私も大丈夫です」
 栞は漸く、姉の胸から逃れるとゼェゼェと息を乱しながら言った。相当苦しかったらしい。
「私は長い間、世界で1番死に近い場所にいたんです。これについては、人並み以上に考えてますから。今更、うろたえたりはしませんよ」
 そう言って、ニッコリと笑って見せる。
「そう?」それでも香里は心配そうだった。「……じゃあ、外で名雪やあゆちゃんたちと一緒にいてくれる? 現場はなるべく保存しておきたいの」
「はい。分かりました」
 栞は素直に頷くと、名雪たちの後を追って視聴覚室から出ていった。その後姿をジッと見送ると、香里はへたり込んでいる石橋に視線を移した。そして溜め息を吐くと、呆れた顔で口を開く。
「石橋先生。そんなところで何をやっているんです? そんな所で座り込まれていると邪魔ですから、栞たちと一緒に外に出ていて下さい。それから、私の携帯電話を貸してあげますから。震えてる暇があったら、警察を呼んでおいて下さいね」
 そう言って、香里は自分の携帯をズイっと差し出す。
「ああ、それから――できればカメラを急いで持って来て下さい。なければ、学校の向かいのコンビニで使い捨てのを買ってきて下さると助かります」
「か、カメラ? ……え、なんでだ?」
「決まっているでしょう、現場の写真を撮っておくんですよ。さ、急いでください!」
「あ、ああ。わかっ、分かった」
 コクコクと慌てて頷くと、石橋は腰を抜かしたまま、カサカサとゴキブリのように部屋を出ていった。結果として、室内には美汐、香里、祐一、そして舞&佐祐理が残ることになる。

「それにしても、また密室で首吊り? やれやれね。相沢君、貴方これで2度目でしょう。呪われてるんじゃなくて?」
「どうかな。本当に呪われてるなら、今頃ここにブラ下がってるんじゃないか?」
 祐一と香里は、美汐が呼んでいる死体の側に歩み寄っていく。佐祐理と舞もそれに無言で倣った。
「――で、天野。どうしたんだ、何か見つけたのか?」
「はい。彼の右手を見てください」そう言って、美汐は竹下の死体を視線で示した。
 言われた通り、祐一たちは彼の右手に視線を向ける。次の瞬間、舞と美汐を除いて全員がハッと息を呑んだ。
 竹下の右手は、手首から下がなかった。切断されているのである。
「くぁ〜、気持ち……わりぃ」
 祐一は慌てて目を逸らしたが、胸の奥底から沸いてくる吐き気は抑えきれない。腐乱が進んでいるのか、近付くと強烈な匂いがすることもあって、祐一の気分は既に最悪だった。
 あゆや名雪と一緒に、外で待機しているべきだった。そう後悔するが、後の祭だ。
「左手は無事なんです。ですが、ご覧のように右手の手首から先がありません。しかも、これは最近になって切断された後ですよ」
「あら、本当ね。肉やら骨やらが丸見えだわ」
 信じられないことに、美汐と香里は竹下の死体に更に近付き、切断面をジックリと観察していた。香里は腐乱臭を遮蔽するため口元を白いハンカチで覆っているが、美汐に至っては平気な顔をしている。
「見てください。この切り口、凹凸が激しくてメチャクチャに荒れています。どう見ても、病院で外科的な処置を受けて切断を行ったとは思えませんね」
「ええ、そうね。切断面のこの荒れ方から察するに、多分、ノコギリのようなものを使ったんじゃないかしら? こう、骨ごとゴリゴリと削り斬ったって感じだわ」
 言いながら、香里は目に見えない鋸を動かすジェスチャーをする。
「でも、嬉しいわぁ。死体を、しかも肉体の切断面付きのをこの目で観察できるなんて」
「ええ。医大生でも、ノコギリで切断した肉体など滅多にお目にかかれないでしょうからね。しかも、事件がらみですよ。奇跡的な幸運と言って過言ではありません」
 美汐と香里は、何故かウットリと幸せそうだった。とびきりの美人であるにも関わらず、彼女たちに一切浮いた話が聞かれないのも、これで頷ける。2人は確実に変だ。飛びきりにおかしい。祐一は確信した。

「しかし、こうなるとどうかしら。自殺とは考え難いわね」
「そうですね」美汐は小さく頷く。「ここで切断したにしては、血痕が少なすぎますし、それに肝心の切り落とした手首以下の部分がありません。と言うことは、手首は別の場所で切り落としたということです。それから移動して、わざわざここで首を吊って自殺。――ちょっと考え難いですよね」
「ところでよ、携帯の音。何時の間にか、消えてるよな」
 スプラッタな話から話題を一刻も早く逸らしたい祐一は、吐き気を堪えながら何とか口を開いた。
「そうですね」美汐が頷く。「最初の悲鳴が上がってから直ぐに消えましたよ」
「そうね。あゆちゃんや石橋先生が悲鳴を上げるものだから有耶無耶になったけど、確かにそのタイミングで消えたわ」
 香里もキチンと確認していたらしい。この辺り、彼女たちは非常に頼りになる。
「――さて、もう出ましょう」
 香里は、皆を振りかえって言った。
「死体には触らないほうが良いし、現場はなるべく保存しておいた方が良いわ。あとは警察に任せましょう。これ以上ここにいても、分かることは何もないわ」
「そうですね」佐祐理は、香里に賛成らしい。「私たちも外で警察を待ちましょう」

 揃って視聴覚室を出ると、あゆが再び祐一に抱きついてきた。普段なら避けるところだが、今回ばかりは優しく抱きとめてやる。赤ちゃんのように柔らかい彼女の髪の毛を、祐一はゆっくりと撫でてやった。
 そうして暫くすると、あゆも落ち着いたのか、涙で塗れた顔を上げて弱々しい笑みを見せてくれる。
 因みに、混乱で思考が上手く働かない石橋に命じて、コンビニで買ってこさせた『使い捨てカメラ』を受け取ると、香里は美汐を伴って再び視聴覚室に戻り、現場の写真撮影をはじめていた。
 どうせ警察は何も教えてくれないだろうから、あらかじめ現場の情報を出来る限り抑えておくのだそうだ。流石の祐一でも、もはや彼女たちには付いて行けない。
 やがて、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。石橋が、香里の言いつけ通り通報してくれたのだろう。
 しかし、この3ヶ月で、このサイレンを聞くのは何度目になるだろうか。
「……ったく。こいつはちょっと、ヘヴィ過ぎるぜ」
 溜め息と共に、祐一は呟いた。




to be continued...
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