垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




15



「いつになったら帰れるんだろうなぁ……」
 満月の5分の3程度の大きさをした月を見上げながら、祐一はボンヤリと言った。日は当の昔に西の山並みに没し、周囲はすっかりと夜の装いに身を包んでいる。だが、そこに情緒のある静けさはなく、パトカーの天井部に取り付けられた非常灯の赤い光が、周囲の闇を無粋に切り裂いて回っていた。無人であり、立入り禁止区域であるはずの『旧校舎』は、先ほどから鑑識をはじめとする警察関係者たちを飲み込んでは吐き出し、落ち着くことは一瞬たりともない。
「半月でもなければ、満月でもない。かといって、三日月などではあり得ない」
 祐一は疲れ果てた表情で、トロンと月を見上げていた。
「中途半端な月だよなぁ」
「ちなみに、月齢は10.3です」
 頼みもしないのに、美汐がどうでもいい情報を提供してくれる。
「六曜は?」チラと、美汐を一瞥すると祐一は訊いた。
「仏滅です」ニコリともせずに、美汐は即答する。
「……だろうなぁ」祐一は再び視線を月に戻して呟いた。「今日は厄日だもんな」
 時刻は、既に20時を回っていた。最初のパトカーが現場に到着したのは、17時33分。それからというもの、パトカーの数はどんどんと増えていき、今では10台近くが旧校舎の前に停まっている。
 この10年の間、そう大きな犯罪を生み出さなかったこの街では、殺人事件は前代未聞の大事件なのだ。はりきる警察官たちは慌ただしく周囲を駆け回り、鑑識官たちは周囲に存在する埃の1つまで見逃すまいと、床に壁にと張り付いて、良く分からない作業に没頭している。
 そんな人集りの片隅に、くたびれ果てた制服姿の一団があった。今更言うまでもなく、祐一、名雪、香里、舞、佐祐理、栞、あゆ、そして美汐の8人だ。
 同じ事を繰り返し訊いてくる警察官の尋問に何度も付き合い、教師たちには何故旧校舎などにいたのか厳しく追及され、それ以外の時間は「待機していてください」の一言でひたすら放置されてきた彼らの疲労とフラストレーションは、現在、臨界点を突破しかけるまでに高まっている。
「暇だなぁ……」遂に力尽きたか、祐一はガックリと項垂れる。「腹も減ったなぁ」
「まったく。連中ときたら、人の時間をなんだと思ってるのかしら」
 香里もどうやらご立腹の様子だ。
「3時間よ、3時間。それだけあったら、地球を半周できるわよ」
「なあ、かおり〜ん。凄くエッチなことでもして、暇潰さないか? 香里が手伝ってくれるなら、オレ、今すぐエネルギッシュになれそうな気がするんだが」
「独りでやってなさい」香里はツンと顔を逸らす。
「祐一さん! なんで最初にお姉ちゃんを誘うんですか? 私でも良い筈でしょう」
「だって、栞じゃなぁ……」じっと栞の胸部平野を見詰めながら、祐一はぼやく。
「そんなこと言うひと、大っ嫌いですー!」
 フグのようにぷく〜っと頬を膨らませると、栞も姉と同じくツンと顔を逸らしてしまった。
 そして、再び怠惰な沈黙が場を支配する。暫くしてそれを破ったのは、意外にも川澄舞だった。
「……じゃあ、私とシリトリする」
 それは、彼女としては、最終兵器的な提案であった。
「だって、舞じゃなぁ」だが祐一は、経験上、肩を竦めて難色を示す。「すぐ自爆するし」
「自爆しない」ぶっきらぼうに舞は言った。
「あははー。楽しそうですね。佐祐理も混ぜてください。皆でやりましょう」
「ハチミツくまさん」
 何故かとっても元気な佐祐理の提案に、舞はコクリと頷いた。
「それじゃ、舞から順に時計回りでいきましょう! さ、舞。どうぞ〜」
「……ナマケモノさん」
 佐祐理の高らかな宣言と共に、有耶無耶のうちに何故かシリトリ大戦が勃発する。
「えぅ〜、時計回りということは、舞さんの次は私ですか。えーと、うーんと、『の』ですよね。じゃあ、えーとですね、糊!」
 暫く考えると、栞は言った。時計回りと言うことは、彼女から順に、香里、祐一、美汐、あゆ、惰眠を貪っている名雪、そして佐祐理と続くことになる。
「結局、私もやることになるのね。ええと、竜胆」
「あ。次、オレ?」
 ぼーっと月を見上げて呆けていた祐一が、順番を追えた香里に肘で突つかれる。
「リンドウ、だから『う』だよな。……牛」
「神道」表情を変えずに、自分の番が回ってきた瞬間、美汐は言った。
「う、う、うぐぅの『う』だから、えーと……、馬!」
「くー。毬藻だおー」
 あゆが順番を回した瞬間、眠っているはずの名雪が何故か応えた。
「まりも。『も』ですか。あははー、じゃあ佐祐理は、土竜にしますー」
「ラッコさん」
 シリトリの時は、必ず動物の名前しか挙げない舞は、やはり期待に背かず今度も動物で攻める。ちなみに、語尾に必ず「さん」が付けられることについては、決して突っ込んではならないことになっている。彼女のアイデンティティに関わってくる問題なのだ。
「えぅー。……ええと、小包!」
「弥勒菩薩」
「渋い所を攻めてくるなぁ、香里。えっと、『つ』だったか? じゃ、ツバメ」
「メタモルフォーゼ」
「うぐぅ。美汐さん、メルモタホーゼってなに?」
「Metamorphoseです。日本語だと――変態とか変身とかいう意味ですね」
「しかし、最初に回ってきた『め』で、いきなりメタモルフォーゼが出るか、普通?」
 祐一は込み上げてくる笑いを懸命に噛み殺しながら、苦しそうに言う。
「……天野、おまえ女子高校生なんて絶対ウソだろ?」
「放っておいてください」
 憮然とした表情で、美汐は言った。

 8人も個性的なキャラクターが揃うと、シリトリという単純な遊びにしても面白く盛り上がってしまう。祐一たち自身がそのことを1番良く知っているからこそ、他人が入り込めないような強い繋がりを、彼らは生み出しているのだろう。
 そんなわけで、他愛もないシリトリ大会が俄かに盛り上がってきた頃、警官たちの輪の中から、責任者らしき私服の男が近付いてきた。
「あのー、すみません。この中に倉田佐祐理さんはおられますか」
 40代後半だろうか。皺の目立つスーツを着た、大柄で声の低い男だ。この場を仕切っているのがこの彼だとすれば、警部以上の位にある刑事であるはずだ。
「佐祐理は私ですけど」
 昼食会でいつも使っているビニール・シートの上に形成された輪の中から、佐祐理が名乗り出る。
「ああ、貴女が倉田先生の娘さんですね」
 そう言うと、刑事は佐祐理に営業スマイルを向ける。
「お引止めして申し訳ありませんでした。倉田さんは、お帰りになっていただいて構いません」
 その、瞬間だった。祐一たちは、信じられない光景を目の当たりにしていた。
 いつも穏やかな微笑を湛えている佐祐理が――あの倉田佐祐理が、怒りも露に刑事を睨みつけているのだ。
「……それは、どういうことですか」
 温度を感じさせない冷たい声で、彼女は言った。それが、どんな時も優しく笑っている佐祐理の声だとは、俄かには受け入れ難い。
「私の父が倉田圭一郎だから、ですか。政治的に警察組織に影響力を持つ男を父に持つから、私だけが優先して開放されるのですか」
「いえ、それは――」
「刑事さん」鼻白む刑事に、1歩踏み出すと佐祐理は言った。「社会の実状がどうだかは知りません。世間の仕組みにも興味はありません。ですが、どうか言葉には気をつけて下さい。今後、友人たちが侮辱されたと私に解釈させた時、貴方は私を敵に回すことになりますよ? 倉田圭一郎は関係ありません。これは、私個人としての忠告です。参考にして下さい」
 そう言い放つと、話は終わったとばかりに踵を返し、佐祐理は輪の中に戻った。
「あ、あの……分かりました」
 慌てた刑事は、冷や汗を流しながら掠れた声で言った。
「今日のところは、皆さんお帰りなっていただいて構いません。ですが、後日捜査の方にご協力いただくことになるかと思いますので……その点だけは宜しくお願い致します」
「最初からそう言っていただけると良かったんですよ」
 佐祐理はニッコリと笑って言った。
「では、佐祐理たちは失礼することにしますね。さあ、皆さん。お家に帰りましょう」
 それは勿論、何時もの花咲くような彼女の笑顔だった。



16



 美坂チーム。一般に、そう呼ばれている香里、祐一、名雪の変人トリオに加え、2年生コンビの美汐と栞。それから仲良し大学生タッグの舞、佐祐理組。そして、フリーランスのあゆ。この8名を、今後、便宜的に『AMSコネクション』と呼称することにしよう。
 ちなみにAMSの『A』は「Aizawa=祐一」「AYU=あゆ」を。『M』は、「Misio=美汐」「Misaka=香里」「Mai=舞」「Minase=名雪」を意味し、『S』は同様に「Sayuri=佐祐理」「Siori=栞」を意味する。
 ――さて、このAMSコネクション。学校組織に所属していない月宮あゆを除き、全員が、事件翌日からの1週間に及ぶ『自宅謹慎処分』を食らっていた。言い方を変えれば、ズバリ『停学』である。
 その理由についてであるが、表向きは、立入り禁止となっていた旧校舎に無断侵入し、騒動の発端となったことに対する責任を追求されたという形になってはいたが……実際は、事件の第1発見者である彼らが学校に来ることによって、生徒たちの間で騒ぎが拡大することを恐れた、学校側の予防処置であった。
 学校側としては、世間体や体面を考えると、事件に関する情報は生徒たちにも一般にも出来るだけ伏せておきたい。何とか穏便に事を処理したいという思惑がある。だが、AMSコネクションは、武田玲子の死体を発見し、続いて竹下啓太(手首なし男)という元生徒会役員の死体をまたまた発見した連中の集団だ。つまり、事の真相を知っている。そんな彼らが事件の翌日から堂々と登校し、クラスメイトたちにベラベラと事件のことを喋り出しては、情報の隠蔽も侭ならない。そんなわけで、「取り合えず1週間は学校を休んで、お家で大人しくしていて下さい」――と学校側に頭を下げて頼まれたというのが、実際のところである。
 よって、停学処分とはいっても書類上はきちんと出席扱いにされ、内申点にも全く影響しない。社会人でいうなら、有給休暇といったところだろう。失うもののない、公式な休暇を彼らは手に入れたのである。当然、祐一などは飛びあがってこれを歓迎した。
「いやあ、オレたちってラッキーだよなぁ」
「どこがですか!」
 満面の笑みを浮かべる祐一に対し、栞は即座に抗議の声を上げた。
「やっと学校にいけるようになったと思ったら、いきなり停学なんて酷すぎます! しかも1週間もだなんて。こんなの、人類の敵です!」
 場所は、水瀬家リビング。降って湧いた休暇を有意義に使うため、AMSコネクションは泊まり込みで作戦会議を開くことにしていた。その第1夜の会場に選ばれたのが、名雪の実家である水瀬家である。
 ちなみに、2日目から最終日までは佐祐理のマンションが会場に指定されている。彼女の所有する億ションは空きが10部屋以上もあり、AMSの拠点となるにうってつけの、まさにベスト・プレイスなのだ。
「お待たせしました〜」
 祐一と栞がギャースカと場を盛り上げていると、頬をピンク色に上気させた佐祐理と舞が、リビングに入ってきた。
 夕食後、AMSコネクションは順にシャワーを浴びることになったのだが、その順番の最後が彼女たちであった。その2人が加わったことにより、AMSコネクション全員と水瀬家の家主である秋子を加えた総勢9名が、このリビングに終結したことになる。
 各々はTVと向かい合わせた4人がけのソファ、食卓の周囲を囲む6つの椅子、それにカーペットの上と、思い思いの場所に座り込む。こうまで美女・美少女が面子を揃えると、祐一の目にも流石に盛観であった。
 自分の周囲にはこれだけの絆が存在し、そしてその内の幾つかには恋愛的な要素も浅からず関わっているのだ。彼は改めて、己の幸福を再認識した。

「さて――」
 全員が揃ったところで祐一は立ちあがると、8人の女性陣に視線を巡らせながら言った。
「秋子さんへの状況説明もかねて、これを機会に情報を一端整理してみよう」
 AMSコネクションは、『相沢祐一』という少年を中心として形成されている。相沢コネクションと言い換えても良いほどだ。
 だからこそ、こう言った時、祐一は全員を纏めるようなポジションにあった。実質的なリーダーは香里と美汐のブレイン・コンビなのであろうが、祐一には彼女たちにはない、象徴的な役割がある。
「進行役は、香里と美汐。2人で頼む。他のみんなは、彼女たちの話のサポートだ。自分の持ってる情報を随時提示して、話に肉付けしていってくれ。発言は、佐祐理さんがパソコン上で速記して、データとして纏めてくれる手筈になってるから」
 祐一の言う通り、佐祐理はライトグレーのカーペットの中央に置かれたガラス張りのテーブルの上で、ノート型のパソコンをスタンバイさせている。
「――じゃあ、はじめましょう」
 4人がけのソファの中央に優雅に腰掛けた香里が、静かに口を開いた。因みに、彼女の右手側には妹の栞。そして左手には、名雪とあゆが座っている。
「まずは、時系列に沿って私たちの観測した情報を整理していきましょう」
「うぐぅ」あゆが早速困った顔をして唸った。「じけーれつ……ってなに?」
「英語で言えば、time seriesになりますね」
 応えたのは、美汐だった。
「つまり、ある現象の時間的変化を連続的に、もしくは一定間隔をおいて不連続に観測して得た値の系列を意味します」
「うぐぅ、わかんないよ」
「美坂先輩の言葉は……そうですね。簡単に言えば、『私たちが見たり聞いたりしてきたことを、時間の流れの順に沿って整理していこう』ということです」
「うぐ。今度は、なんとか分かった……のかな?」
「さて。じゃあ、いいかしら? 現時点で、我々が問題とすべき事件は、3つ起こっているわ。まずは、1年前に起こった『澤田紀子』の自殺ね」
 香里は事務的に言った。同時に、カタカタと佐祐理がキーボードを打つ連続音が響く。その整えられた細い指先が流れるようにキーボードの上を滑り、信じられないような速度で文字を入力していった。
「彼女、澤田紀子は去年の9月、屋上から飛び降りて自殺した。もちろん警察もそれなりに捜査して、これが自殺であると認めたらしいわ。遺書の類いは見つからなかったけど、彼女に近しい級友が、その当時、彼女が何かに悩んでいたようだったと証言しているらしいの。これは、図書館で調べたら新聞に載ってたわ。小さい記事だったけどね」
「なるほど。で、他に、この澤田紀子の自殺に関する情報を持っているやつはいないか?」
 香里が一端口を閉ざすと、祐一がグルリと一同を見回して問いかける。
 こうして香里と美汐が話の道筋と骨格を形成し、皆でこれに肉付けしていく。それが、祐一の考えたやり方だった。
「澤田さんのことなら、少し知ってます。佐祐理の同級生でした。クラスも同じだったんですよ」
 佐祐理は、自らの証言をタイプしながら言う。
「もちろん、顔も知っていますし、お話をしたことも少ないですがあります。亡くなった当時、彼女は生徒会に所属していて、風紀委員長を務めていらっしゃいました」
 そして佐祐理は自宅から持ってきた荷物の山から、1冊の分厚い冊子を取り出して皆の前に出す。
「これは、佐祐理の卒業アルバムです。澤田さんも載ってますから、興味のある方はお顔を確認してみて下さい」
「ほほう。これが、澤田ノリピーか」
 祐一はズイッと身を乗り出して、テーブルに開かれたアルバムを覗き込んだ。そこには、ぎこちない微笑を浮かべた眼鏡の少女が写っていた。肩まで伸びたおかっぱに近い黒髪を、左右に分けて縛っている。特徴らしい特徴のない、どこにでもいる純朴そうな娘だった。風紀委員長と聞いて、一般の生徒が思い浮かべるお堅いイメージにピッタリな容姿とも言えた。
「それから、確か、澤田さんには弟さんがいらっしゃいましたよ」
 全員が一通り写真を眺め終わるのを待ってから、佐祐理は言った。
「お姉さんの1つ年下でしたから、祐一さんたちの同級生ですね。もちろん同じ学校の生徒で、去年は風紀委員の一員としてお姉さんの紀子さんをサポートしてました。名前は、確か『武士』と書いてタケシさんだったと思います」
「ああ、彼なら私も知ってるわ。澤田武士。確か、工学科の2組だったと思うわ。確かに、去年までは生徒会で風紀委員をやっていたわね。でも今年になって、生徒会からは抜けているわ。今では、風紀委員もやってないわね」
 学級委員長として、毎月行われる定例議会に顔を出している香里は、生徒会の内部事情に明るい。AMSの中でも、貴重な情報源だ。
「因みに、風紀委員長が持てる生徒会会館のセキュリティ・カードのレベルは2。つまり、1〜2階までを自由に出歩ける権限を持っているわ。その下の単なる風紀委員はレベル1。学級委員長の私と同じ程度ね。まあ、風紀委員は各学年に3人ずつ、合計9人もいるから」
「ああ、それから――」佐祐理が思い出したように言った。
「澤田紀子さんは、コンピュータがとても得意でした。ハードにもソフトにも強かったように思います。生徒会の端末に問題が生じると、彼女が真っ先に面倒を見ていましたね。確認したわけではありませんが、ハッカーとしての腕も相当なものだったと思います」
「えっ。ハッカーって、コンピュータで悪いことする人でしょ? コンピュータに入り込んで、大事なデータを壊しちゃったりするって聞いたよ。澤田さんって風紀委員長だったのに、そんないけないことしてたの?」
 名雪が、いつものフワフワとした口調で言った。
「――いえ、ハッカーは一概に悪者とは限りません」
 小さく首を左右しながら、美汐が言った。
「この『ハッカー』という呼称は、元々は好意的な意味で使われていたんです。コンピュータ・ネットワークに関連する、高度な技術を持つ技術者たちへの尊称であったとも言えます。ところが、このハッカーと言う呼称を誤って使用し、一般にマイナスのイメージを植え付けた犯罪者が現れました」
「マスコミね?」
 香里が鋭く指摘すると、美汐はそれを頷いて肯定した。
「その通りです。マスコミのせいで、ハッカーはいきなり悪人にされてしまいました。私は、ハッカーの技術を利用して犯罪行為を行う者は、クラッカーと呼ぶべきだと主張します」
「なるほど……澤田ノリピーは、パソコンに精通していた、と。まあ、役に立つかどうかは分からんが――佐祐理さん。一応、データとして記録しておいて下さい」
 祐一は、眉間の辺りを指先でトントンと軽く叩きながら纏めた。
「それで、他にノリピー関連の情報はないか?」
 祐一はグルリと全員の顔を見まわし、反応がないのをまってから、香里と美汐に目で合図を送った。
「OK。じゃあ次に進みましょう」
 祐一のアイコンタクトに1つ頷くと、香里が再び口を開いた。
「澤田紀子の自殺から1年と3ヶ月飛んで、今年――2000年の6月4日、日曜日。2つ目の事件が起きたわ。この日の深夜に倉田先輩、川澄先輩の家に電話が掛かってきた。相手は武田玲子。それから4時間後、日付が変わって6月5日の午前3時頃、彼女は自宅で首を吊って死んだ。この時刻は、警察の検死の結果だから信用して良いでしょう」
「佐祐理と舞のお家の電話は、お仕事の都合もあって、通話は全て録音されるようになっていますー」
 にこにこと朗らかな笑顔で佐祐理は言った。シャワーを浴びたばかりで未だ乾ききらぬ濡れた髪の色っぽさと、少女のようなあどけない笑顔。対照的な魅力を不思議と兼ね備える彼女は、本当に稀有の存在であろう。
「今日は、その通話の録音記録を持ってきているので皆さん、聞いてください」
 そう言うと、佐祐理は手元のノートパソコンを操作し始めた。コンパクトで可愛らしいデザインのマウスを掴み、くりくりと上手に動かす。あゆや栞はその様子を、不思議そうな表情で見詰めていた。
 15インチサイズであろうか、佐祐理のパソコンの鮮やかな液晶モニタには、デスクトップ画面が表示されていて、沢山のショートカット・アイコンが並んでいる。その1つに『TEL.mp3』という名のファイルがあった。佐祐理はそれをシングル・クリックして、展開させる。
 どうやら、MP3という音楽用のファイルとして、通話記録のデータをデジタル処理してきたらしい。すぐにMP3のプレイヤーが起動し、内臓のスピーカから音声が聞こえてきた。


佐祐理 『ご無沙汰してます。武田さん、お元気ですかー?』
玲子 『――倉田さん。突然、ごめんなさい。もう、わたし、どうしていいのか分からなくて』
佐祐理 『武田さん? どうしたんですか、武田さん。何かあったんですか? 佐祐理が力になれることなら、なんでもしますから、話して下さいませんか』
玲子 『あ、あの、はい。ごめんなさい』

佐祐理 『落ち着いてください、武田さん。何があったんですか?』
玲子 『その……私、今年、生徒会の事務書記をやることになって、それで、生徒会会館で――それで、わたし、とんでもないことになって。だから、もう、それで……わたし、もう倉田さんくらいしか思いつかなくて。
 その、だから、電話じゃ言えないけど……明日、わたし、自宅で待ってます。ずっと待ってますから、だから、来てください。そしたら、全部お話ししますから。私、怖くて。お願いします。……助けて下さい。お願いです、倉田さん』
佐祐理 『分かりました。なんだか良く分からないですけど、明日お宅にうかがえばいいんですね?』
玲子 『はい。お願いします。助けて下さい。わたし、もう、家から出るのが怖くて。だから――』
佐祐理 『分かりました。必ずうかがいますから。でも、佐祐理は武田さんのお宅を知らないんですけど』

玲子 『――あ! それは、あの……えっと、倉田さん、FAXはありますか?』
佐祐理 『FAXならありますよー。ナンバーは、電話番号と同じです』
玲子 『分かりました。それなら、これから住所と地図を書いて送りますから』
佐祐理 『あ、それならOKですよー。明日も学校があるので、それが終わってから――多分、16時以降ということになると思いますが、構いませんか?』
玲子 『はい。お願いします』

佐祐理 『では、そういうことで。ちゃんと行きますから、安心してくださいねー。佐祐理がお役に立てるかは分かりませんけど、約束はきちんと守りますから』
玲子 『はい。お願いします。それじゃ、明日、必ず来てください。私、ずっと待ってますから……』



 そこで、通話記録は終わっていた。
「佐祐理と武田玲子さんとの電話でのお話は、以上で全てになります」
 画面から目を離すと、皆の顔を見回しながら佐祐理は言った。
「念の為に、もう1度繰り返しますねー」
 そして、同じ内容の通話記録が再びスピーカーから流された。

「なるほど――」
 全てを聞き終えると、美汐がゆっくりと洩らした。
「これは参考になります。やはり、生徒会と生徒会会館の存在が、彼女の悩み事に大きく関わっていたのではないかという考えに、確信が持てる内容ですね」
「確かに、そうですね」そう言って、栞は美汐のコメントに賛同の意を示した。「相当怖がっていましたから、自分が命を狙われるくらい重大な秘密を握っているのだ、という自覚があったのかもしれません。……えぅ〜。なんだか、怖いですねぇ」
 自分を抱きしめるようにして栞は小さく身を震わせた。
「それで、武田玲子に関する詳しい情報は? 誰か知らないか」祐一が全員に向けて問う。
「改めて挙げるようなことは無いんじゃないかしら」香里が言った。「結構明るい感じの娘だったことくらいしか、私も印象には残ってないわね。去年――2年生の時、事務書記長・補佐を務めていて、今年3年生になってから事務書記長に。セキュリティ・レベル3の権限を持っていた筈よ」
「先程から何度か出てきているけれど、そのセキュリティ・レベルというものには、どれくらいの意味があるのかしら?」
 今まで一言も喋らず、静かにAMS内の話に耳を傾けていた水瀬秋子が口を開いた。
 外見は20代前半といったところか。どう見ても女子大生くらいの名雪の姉にしか見えないが、驚くべきことに彼女は名雪の実母である。勿論、生みの親だ。
「セキュリティ・レベルは、そのまま生徒会での権力の大きさとして見ることが出来ます。実際には、生徒会会館の内部をうろつける範囲がこれで決まってきますし、生徒会のデータベースにもそれだけ深いレベルでアクセスできることになります」
 質問を予測していたのかもしれないと思わせるほど、香里は手際良く解説した。
「生徒会のデータベースには、学校運営上の殆ど全ての情報が登録されていると思われます。生徒の成績や家庭環境、誰の親がどれくらい学校に寄付金を納めているか。また、生徒だけでなく教員の個人情報、恐らく月給がいくらであるかまで分かると思います。そして、生徒会長が持つ『レベル4』クラスとなると、こういった情報や生徒会の内部資料を完全に閲覧できると言われています」
「なるほど。徹底しているのね」
 秋子は少し考えるような仕種を見せるが、すぐに香里に微笑んで見せた。
「ありがとう、美坂さん。良く分かったわ」
「オーケー。他に質問がある人はいないか?」祐一が言った。「無いな? じゃ、香里。続けてくれ」
「分かったわ」香里は頷くと、再び語り始めた。
「武田玲子さんが無くなったのが、6月の4日。その翌日、6月5日に、彼女の自宅アパートで遺体発見。見つけたのは、相沢君、倉田・川澄両先輩の3人。ここまでは、いいわね?
 問題となるのは、次よ。警察は彼女の死を自殺と断定したけれど、これは多分誤りであることが、現在までの私たち独自の調査で分かっているの」
 そう言うと、香里はポケットから小さなビニールの袋を取り出して掲げ上げた。大きさはMD程度。上部にチャックのようなものがついているヤツだ。そして、その中には小さな金属のカケラのようなものが収められていた。
「これは、エポキシパテという一種の接合剤よ」
 そう言うと彼女は、隣の栞から順にそのサンプルを回すようにジェスチャーで指示した。
「香里さん。コレ、触っても大丈夫なの?」
 クリクリとした大きな目を更に見開いて、サンプルを観察しながらあゆは言った。
「どうぞ。触って構わないわ」
 許可を得たあゆは、早速、右手の人差し指と親指でそれを摘んでみる。鉛筆のお尻についている、小さな消しゴム程度の大きさしかないにも関わらず、それはとても硬かった。
「うぐぅ、鉄みたいに、とっても硬いよ」
「倉田先輩のボディガードである鷹山さんという方に、それを詳しく調べて貰ったわ。冗談かもしれないけど、彼女、海外の特殊部隊にいたことがあるそうで、なんだかやたらと詳しかったのよ。で訊いてみたんだけど、それはエンジニア専用の『高性能エポキシパテ』だそうよ。金属補強材を含んだ鉄材用のパテで、主な用途は、鉄製パイプや鋳物の割れの補修、それから鉄製の模型のオリジナル部品を作る時なんかにも使われるらしいわ」
 香里は、次々とリレーされていくパテのサンプルを見詰めながら続けた。
「そのパテは接着後、大体5〜10分で硬化がはじまり、金属のように硬くなるわ。硬化後の色は、黒色。それは銀色をしているから、塗料を使って着色したものと思われるわ」
「前にちょっと聞いたが、チェーンを使った密室トリックにこれを使ったってことか?」
 祐一が回されてきたサンプルを、蛍光灯にかざしながら訊いた。
「そうよ。犯人は、それを使って武田さんを殺し――密室を作り上げたんだと思うわ。少なくとも私と鷹山さんの見解は、その方向で一致をみてる。チェーンさえどうにかすれば、ドアの鍵自体は問題にならないわけだからね」
「つまりチェーンの一部を切除し、それを再び接合させるために、この特殊なパテを使ったというわけですか」
 美汐がサンプルを覗きこみながら確認するように問う。
「なんとも稚拙な手ですね。チェーンを使うなら、他に幾らでもスマートな手はあるでしょうに。確かに遠目には分かり難いかもしれませんが、警察がそのつもりで調べれば5秒でバレますよ?」

「私もそう思うわ」香里は素直にそれを認めた。
「恐らく、その仕掛けを作った人間は、バレてもいいつもりでパテなんかを使ったんでしょうね。誰かが警察に圧力をかけることを、事前に知っていたんだと思うわ。チェーンが調べられないことも、恐らく計算していたんでしょう」
「なるほど。それならば、何とか頷けます」
「とにかく、チェーンさえ何とかクリアすれば合い鍵だって簡単に作れるわ。それがなくても、鷹山さんは針金のような2本のピッキング・ツールを使って、たった20秒で開錠してみせてくれたけどね。私の目の前で」
「へぇ。あの、ノッポの美人さん只者じゃないとは思ってたが――バケモンだな」
「あはは〜。祐一さん、それはちょっと酷いですよ」
 呆れたように呟く祐一に、雇用主の佐祐理はニッコリと笑ってみせた。
「鷹山さんはとっても良い方なんですよ?」
「はぁ、まあ……確かに」
「ちょっと不器用な性格の方ですが、優しい人です。ちなみに、彼女が英国の特殊部隊にいたというのは本当の話ですよ。元は、フランスの外国人部隊の出身だそうです。詳しくは知らないのですが、確かかつて『CRAP』と呼ばれていた部隊のトップエリートだったそうです。それからどういう経緯を辿ったかは知りませんが、2年前までSASというところで、特殊工作の技術教官をしていたと聞いてます」
「――それ、本当ですか? 女性でありながら、CRAPに?」
 信じられないことに、美汐が目を丸くしていた。こうして、彼女があからさまな驚愕の表情を見せるのは異例のことだ。
「だとしたら、彼女は本物のバケモノですね」
「なんだ、それ。天野、知ってるのか?」訝しげな表情をして、祐一が訊く。
「現在はGCPと呼ばれている、フランスの特殊部隊ですよ」美汐は即座にそう応えた。
「外人部隊の第2空挺連隊所属で、定数90名のエリート部隊です。SAS並みに選抜試験が厳しく、27kgの背嚢を背負って、ピレネー山脈の強行軍・単独踏破をはじめとする厳しいコースをクリアしなければならないそうです。この選抜コースで過去何人も死者が出ているとか。人類の女性がクリアするのは極めて難しいと思うのですが……」
「えぅ〜! 27キロの荷物を背負って、ピレネー山脈を渡るんですか。そんな試験、人類の敵です。……というか、普通、死にますよ?」
「うぐぅ。ボクなら、持ち上げる前に潰れちゃうよ」
 AMS最貧弱コンビの栞&あゆが、ヒソヒソと囁き合う。
「入隊後の訓練も、死ぬほど厳しいらしいですよ。特に、『捕虜生活』を実体験する訓練」
 美汐はそんな栞とあゆにズイっと顔を寄せると、怪談を語るような口調で言った。
「これは、通常の射撃演習の最中に突如待ち伏せ攻撃を受け、したたか殴られた挙句、地下牢へ放り込まれるという形で始まり、目隠し状態で脱出しなければならないと聞きます。脱出に失敗して捕まってしまうと、再び殴打され、尋問を受けるんだとか。……ここまでくると、確かに人類の規格外といった連中でなければ務まりませんね」
「オイオイ、その話マジかよ?」
「大マジです」驚く祐一に、美汐はキッパリとそう言った。
「ぐっは〜! 鷹山小次郎、恐るべし。絶対に怒らせないようにしないとな」
「そうね」香里も頷く。そして口調を変えて、再び口を開いた。「話がズレたわ。元に戻しましょう」
 だがそれに応えたのは、「くー」という名雪が寝息だった。
 ふと壁掛け時計を見上げれば、時刻は既に23時を回っている。名雪にとっては、完膚なきまでにパーフェクトな真夜中であった。こうなると、朝が訪れるまでは、たとえ世界が滅びても起きる事はないだろう。
「……はは。どうやら、今日はここでお開きみたいだな」
 従兄妹の寝顔を見て、祐一は苦笑する。
「えぅー。そうですね。ここ数日、色々とあったので私も疲れました」
 退院、復学、死体発見、そして停学処分と、目まぐるしい環境の変化にみまわれてきた栞には、確かに若干の疲労が見受けられる。
「栞がそう言うんなら、しょうがないわ」やはり、妹には甘くなってしまう香里である。
 話にストップをかけるのが、名雪のダウンだけであったら、彼女は断固として会議の続行を主張した筈だ。
「では、皆さん。部屋割りを決めましょう」
 流れるような動作で椅子から立ちあがると、秋子が微笑と共に提案した。
「9人ですからね。客間になってる和室に3人は入るとして――名雪の部屋に本人を含めて2人。あゆが使ってる部屋(元真琴の部屋)に2人。これで、7人。あとは、オレの部屋と秋子さんの部屋しかないが……」
 祐一が指折り考えていると、居間の隅に設置してある電話が不意に鳴り出した。夜の静けさも手伝って、それは何時もよりも随分とけたたましく響き渡る。
「あらあら、こんな夜分にどなたでしょう」
 秋子は頬に片手を沿えて呟くと、パタパタと電話に駆け寄り受話器を取る。そして時間をわきまえぬ些か非礼とも言える相手にも、いつもと変わらぬ穏やかな声で応対に出た。
「はい。水瀬です……あら、姉さん」
「なぬっ!?」秋子の言葉に、祐一は敏感に反応した。
「えぅ〜、秋子さんのお姉さんってことは――」
「祐一さんのお母様ですか?」
 栞と佐祐理が顔を見合わせる。
「うぐぅ! ゆ、祐一くんってお母さんとかいたんだ」
 あゆは、実に失礼な驚き方をしていた。
「当たり前だ」祐一は憮然として言う。「いくらオレでも、桃から生まれてくるほど器用じゃない」
「いえ、相沢君ならやりかねないわ」
「――激しく同感です」
 香里と美汐は、あゆに輪をかけて失礼なことを言いつつ頷き合っていた。

 暫くすると、何事か話し込むんでいた秋子が、受話器から顔を離して祐一を呼ぶ。
「祐一さん。お電話です。姉さんから」
「えっ、オレですか?」
 祐一はちょっと驚いた素振りを見せながらも、慌てて駆け寄っていく。そして軽く頭を下げて秋子から受話器を受け取った。
「……なんだよ、母さん」
 照れているのか、祐一の態度は滑稽な程ぶっきらぼうなものだった。そんな彼が可笑しくて、少女たちは互いに顔を見合わせてクスクスと笑う。
「コラ、そこ。なに笑ってるんだ?……あ、いや。コッチの話」
 一瞬祐一は彼女たちを睨むが、慌てて受話器の向こうの母親に意識を戻す。
「いや、だからね。そっちは昼かもしれないけど、こっちは真夜中なんだってば。……はぁ。『あら、まあ』じゃないよ、まったく」
 祐一は絶えずそんな様子で母親と久しぶりの会話を続けると、5分ほど経ってから受話器をフックに戻し、皆の輪の中に戻ってきた。そんな彼に、さっそく少女たちの無遠慮な質問の嵐が飛び交う。
「ねえねえ、祐一君のお母さんってどんな人?」
「あ、それ、私も興味がありますぅ」
 あゆと栞が、先陣を切ってズイっと祐一に詰め寄った。
「いや、どんな人って言われてもなあ」
 ミーハー根性による完全な包囲網に取り囲まれて、祐一は鼻白む。まるでスキャンダルを暴かれ、報道陣の質問攻めにあう落ち目のアイドルのようだった。
「イメージするのは簡単だよ。秋子さんが、もう1人増えたと思えばいい。ちょっと、名雪風の天然ボケが入ってはいるが、それ以外は双子のようにソックリだから」
「ふぇ〜。凄い方なんですねぇ」
 佐祐理が複雑な感想を述べる。確かに、水瀬秋子が2人並んでいるところを想像すると、色々な意味で凄いことになるかもしれない。それはみんな同じ思いなのか、少女たちは一瞬黙り込む。
 しかし、次の瞬間にはまた質問ラッシュが始まった。こういう時の女の子の勢いは凄い。流石の祐一とて、捌ききれない凄まじさだ。
「ねえ、相沢君のご両親って、確かイングランドにいるって話よね?」
「ああ、そうだ。良く知ってるな、香里」
「じゃあじゃあ、向こうでどんなお仕事をされてるんですか?」間髪いれず、栞が訊く。
「ミュージシャンだよ。親父は昔、チェロで世界を目指してたんだ。それがポシャって、今は何故か歌手をやってる。バンド組んで、UKでデビューが決まったんだ」
「なるほど。それで、イギリスに引っ越されたんですね。それで、そのバンドというのは? 私たちが知っているものでしょうか」
 美汐も、祐一のプライベートには少なからず興味があるらしい。その姿勢は、いつも以上に積極的だった。
「ああ、えーとだな。メジャーかどうかは知らないが、最近はそこそこ売れてるらしいぞ」
 困ったような表情で、祐一は応える。
「日本じゃ流石にまだ知名度は低いんだが、『ワイズロマンサー』っていうロックっぽいバンドなんだ。  親父がヴォーカルで、母さんがギターをやってる。知らないだろ?」
「ワイズロマンサー!?」その名が出た瞬間、美坂姉妹は素っ頓狂な叫びを上げた。
「うそ……」
「えぅ〜! ワイズロマンサーって言ったら、今、イギリスの一部で注目を集めてる新人アーティストじゃないですか」
「そ、そうなの?」
 くわっと目を見開いて詰め寄ってくる姉妹に気圧されて、祐一は2、3歩後退する。
「はぇ〜。祐一さんのご両親は凄いんですねぇ。ね、舞」
「……ハチミツくまさん」
 佐祐理も舞も、流石にロックは聞かないらしく、ワイズロマンサーの名に聞き覚えはないようだった。しかし、俄然ハリキリ出した美坂姉妹の余波を受けて、なんだかワケも分からず興奮しつつある。祐一にとっては迷惑な話だった。
「うぐぅ。ボク、それ知らないよ」
「知らなくても仕方がありませんよ」悲しそうに呟くあゆを、栞が慰める。
「彼らは、完全なライヴ・バンドなんです。既に何曲も曲を発表しているんですが、1枚もCDにしていないんですね。それ故に、知らない人は全く知らないんですよ。日本でもまだまだマイナーです」
「でもその分、彼らを支えているファンは熱狂的なのよね。確か今までに4回、ライヴの模様がTVで放送されて、日本にも衛星中継されたのよ。私と栞は、病院で一緒にそれを偶然見て、気に入ったの」
 香里は、珍しく興奮に頬を紅潮させていた。
「基本はロックなんだけど、私は彼らのバラードが気に入っているの。ヴォーカルの歌い方が別人のように、ガラッと変わるのよね。すごくメロディアスで、高音がとても綺麗なの。……まさか、相沢君のご両親だったとは」
「あの、皆、そろそろ寝るのでは……」祐一は、恐る恐る進言してみるが、
「そんな場合ですかっ!」栞に一喝される。
「それより祐一さん、ご両親のお話、ジックリと聞かせてください! 電話で何をお話してたんですか」
「それは、私も興味あるわね」
「あははー。佐祐理も聞かせて欲しいです」
「……ハチミツくまさん」
「そういうことでしたら、私も是非知りたいです」
「うぐぅ。ボクも」
 栞に続き、香里、佐祐理、舞、美汐、そしてあゆにまで迫られる祐一は、助けを求めて秋子に視線を送るが、彼女はニコニコと楽しげに微笑んでそれを見守っているだけだった。どうやら、止めてくれるつもりはないらしい。
 ――彼は、観念した。
「いや、あの。夏休みに遊びに来ないかって。電話の内容は要約すればそれだけでして」
「ええっ! 遊びに来ないかって、イギリスにですかっ?」
「まあまあ、栞。ちょっと落ちつけ」
 口元を引き攣らせながら祐一は諭すが、勿論、エンジン全開の彼女たちは、そんなことでは収まらない。
「これが落ちついていられるか〜っ、です!」
「……うぐぅ。ボク、海外旅行って行ったことないんだ」
「いいわね。じゃあ、皆でお邪魔するっていうのはどう」
「いい! いいですよ、お姉ちゃん。それ、ナイスです!」
 栞は、すでに人格が変わっていた。そこには、つい半年前までベッドで寝たきりの生活を続けていた、薄幸の病弱少女の面影はない。
「えぅ〜、楽しみですねぇ。今年の夏休みは、イギリスでバカンス。しかも、ワイズロマンサー=祐一さんのご両親にお会いできるわけですね」
「いや、誰もまだ行くとは一言も――」
「ええい! ちょっと祐一さんは黙っててください。今、良いとこなんです!」
「は、はひ……」
 祐一は思った。今夜は、果たして眠らせてもらえるのだろうか。
 そして、神に問い掛けた。本気になった女の子には、絶対に逆らえないものなのか……と。
 全てを諦めた祐一は、カーテンの隙間から、夜空に瞬く星を見ていた。









to be continued...
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