垂直落下式妹
Hiroki Maki
広木真紀




34




 血の匂いが色濃く漂う屋上で、澤田武士は星空を見上げていた。満月に近しい楕円形の月と、恐らく最後になるであろう夜空。そういえば、こうして静かに夜空を見上げるのはどれくらいぶりのことであろうか。夜空に抱かれて死ねるなら、それはそれで最高の死かもしれない。
「澤田さん、貴方を死を見過ごす前に、幾つかお訊きしたい事があります」
 赤味掛かったショートヘアが印象的な少女が、武士を見下ろしながら言った。死にかけた男と、大量の出血を目の前にしても涼しい顔で眉1つ動かさない。綺麗な顔をして、なかなか度胸が据わっているようだ。
「死ぬのは貴方の勝手ですが、私たちの質問に応えてからにして下さると助かります」
「天野さん!」
 倉田佐祐理が、険しい表情で美汐の暴言を諌める。だが、美汐はそれを完璧に無視して、横たわる武士を見つめたまま言った。
「貴方は、このまま死なせてくれと言いましたが、吉田卓郎さんはいいんですか? 生徒会の組織構造から考えて、彼だけが貴方の復讐のリストから除外されるとは、ちょっと考え難いのですが」
「ふ、ふふ……」
 武士は笑った。その瞬間、腹筋の収縮で刺激されたのか、刺された右腹部に鋭い痛みが走る。だが、それを無視して武士は声を絞り出した。
「天野さん、っていうんだね。キミは、何でも全部知っているみたいだ」
「全部というわけではありません。全てを知っているなら、こうして貴方に質問することもないでしょう」
 美汐はまったく表情を変えずに言った。
「よぉ、天野が終わったら、たった1つでいいんだ。オレの質問にも応えてくれよな」
 祐一が美汐と肩を並べつつ、武士を見下ろして口を開いた。
「あ、オレは相沢祐一。佐祐理さんの後輩で友達だ。よろしくな。それから、オレもお前をここで死なせてやる方に一票投じるよ。だから、安心していい」
「フフ……面白い、人だね」
 武士は血の泡を唇の端に浮かばせたまま、力なく微笑んで見せた。
「それに、優しい人だ。よろしく、相沢君」
「じゃ、早速質問だ。アンタが死んじまう前にな」
「祐一さんまで――!」武士を抱き上げた恰好のまま、佐祐理が抗議の声を上げる。
「澤田武士さん。まず、最初の質問に応えてください。前年度の生徒会長である、吉田卓郎は殺さなくていいんですか? ある意味、彼を殺さなくては貴方の敵討ちは完了しないと思われるのですが」
「その件なら大丈夫だよ、……天野さん。僕はそこにいる彼らと……契約した。報酬は、僕の死。これで、先生たちが、あの吉田、卓郎を殺して……くれる」
「なるほどな。死んじまっても、望みは叶うわけだ」
 祐一は納得したように頷く。
「じゃあ、次の質問よ」言葉と共に、香里が進み出る。「ああ、私は――」
「知ってるよ……美坂さん、だね。クラスメイト……に、キミのファンが大勢いる」
「そう。迷惑だわ」
 香里はハッとする程に美しい笑顔で言った。だがそれも束の間、真顔に戻ると口調を変えて再び話し出す。
「私が聞きたいのは、この事件の真相よ。貴方が喋るのは大変そうだから、代わりに私が自分の想像したストーリィを話すわ。間違っている部分があったら、訂正して」
「分かった。はじめて、くれ」
「OK」香里は一瞬だけ唇の端を吊り上げた。「まず、貴方は竹下啓太を殺したわね。当初、殺人計画の実行自体は数年先を想定していたと思うんだけど――でも、あなたは予定を繰り上げて、急遽、計画を実行に移すことにした。何故なら、何者かの手によって生徒会関係者である『武田玲子』が殺されるという事件が発覚したからよ」
「あ、なるほどぉ!」
 栞がポンと手を打ちながら、感嘆の声を上げる。
「なんでこの時期に殺しが始まったのか不思議だったんですけど、確かにそれで説明がつきますね。流石、お姉ちゃん」
「そう。私の想像通りなら、武田玲子が殺されたのを知った時、貴方はチャンスだと思った筈よ。今から連続殺人計画を実行に移せば、警察は武田玲子の殺害と事を関連付けて考えるかもしれない。上手くいけば、容疑はその武田玲子殺しの犯人が全て被ってくれる――」
「ですが、それは失敗でしたね。1度立てた計画は、終始貫き通すべきだったんです」
 美汐はキッパリと、そう斬って捨てた。
「澤田さん。貴方は、土壇場でシナリオを修正してしまった。竹下啓太を殺し、下半身を焼くという予定をキャンセルし、密室での首吊りに見せかけることに殺し方を変えてしまったのです。ですが、私に言わせれば、それこそが間違いの元だった」
「天野さんの言う通りよ」香里は低く言った。
「下手にシナリオを弄るから、結果的に、貴方の最初の殺人はチグハグなものになってしまったわ。そして、その右手の包帯。それも誤算の1つよね、多分。その傷は、恐らく竹下さんを気絶させる時、抵抗されてついたものでしょう? 恐らくもみ合いになった時、彼の右手で腕を引っ掛かれた。彼の右手の爪に、貴方の組織――皮膚が残ってしまったんだと思うわ」
「はぇ〜。だから、ああ、だから手首を切断したんですね」佐祐理が目を丸くして驚く。
「そうです。そう考えるのが、1番自然なんです」
 美汐は頷いてそれを肯定した。
「ここに来るまではボンヤリとした想像でしたが、その右腕に巻かれている包帯を見て、確信しました。恐らくそれを解けば、下から大きな『引っ掻き傷』が現れることでしょう」

「その、通りだよ、天野、さん……それに、美坂さん」
 澤田武士は震える声で言った。
「流石は、学年主席だ……そこまで知ってるとは、驚いたよ」
「うぐぅ、痛そうな話だね」あゆは自分の右手を押さえて、小さく震えた。
「1週間も経ってるのに、まだ包帯してるってことは、相当深く抉られたのね。背後から落とそう(失神させよう)としている時に、腕を掻き毟られたってところかしら」
「裸締め……って言うんだ……僕は柔道の黒帯だからね。中学の頃から、やってる……。だから、落とし方も、活の入れ方も……良く知ってる、んだ」
 香里の推測は、武士本人によって肯定された。
「日本の警察の手にかかれば、爪の間に残ったわずかな皮膚組織からでも、様々な情報を割り出すことができる。DNA鑑定だって、可能でしょう。何より、争った形跡があれば、他殺であるとバレてしまう。いずれにせよ、貴方は容疑者にされた時、言い逃れの出来ない証拠が残ることを恐れ――そして仕方なく、手首から下を切断することにした。違うかしら?」
「美坂、さんの言う通りだよ……凄いな、君たちは……怖いくらいだよ」
 香里、美汐、そして祐一の推測は、ここまで完全に的中していたらしい。既に感覚の無くなってきている下半身を引き摺りながら、武士は苦笑を浮かべた。
「最初は、指だけを4本切ろうと……思ったんだが、切断っていう作業は……意外と大変だったんでね……最終的には、手首を斬ることにした」
「――その手首の切断は、澤田さんにとって大きな誤算でした」
 美汐が落ちついた口調で、ゆっくりと語る。
「澤田さんにとっては、これは初めての殺人。相当の不安と緊張、そして恐怖があったことでしょう。そのせいでしょうか、最初に用意していた密室のトリックに固執してしまい、あくまで殺人計画をその通り進めてしまいました。その結果、密室で首吊りという、一見自殺に見えるシチュエーションにありながら、死体の手首が切断されているという、なんとも珍妙な現場が出来あがってしまったのです」
「オレがアンタを疑い出したのは、そのチグハグさがあったからだ」
 美汐に代わって、今度は祐一が推理を披露する。ちょっとした、探偵気取りだ。
「武田玲子が殺人である証拠をオレたちは握っていたが、彼女の殺人の手口は洗練されていたし、もっと上手になされていた。ところが、同一犯人の仕業にしては、竹下啓太殺しの手口はあまりに拙く甘い」
 祐一はそこで言葉を切ると、今わの際に立つ澤田武士を見下ろす。
「だから、オレは思ったんだよ。最初に見つかった武田玲子の殺しは、『プロの仕業』ではないか。竹下啓太の殺しは、それに便乗した初犯の『シロウトの仕業』なんじゃないかってな」
「そうです。武田玲子殺しを含む全ての事件が、単独の犯人のよる連続殺人だと考えるから混乱するんです。犯人が複数、動機も複数、事件も複数。2つの事件か絡まりあったものだと考えなければ、論理的な推論は生まれません」
 美汐は静かに言った。
「で、でもですね。武田玲子さんを殺したのは、じゃあ誰なんですか? 澤田さんじゃ、ないんですよね」
 栞が大きな目をクリクリさせながら、小首を傾げる。
「それについては――」
 そう言って、香里は沈黙を守って彫像のように立ち尽くしている2人を一瞥する。
 そこには、ジョージ・クーパーと江口素子の姿があった。
「彼らに訊いてみるのね」
「私たちも、武田玲子殺しの犯人に関しては、『澤田さん以外の何者か』ということ以外、全く分かっていなかったんです。少なくとも、ここに来るまでは」
 そう言って、美汐は微妙に肩を竦めた。
「想像でしかありませんが、彼らは例の北川さんとも関連があるかもしれません。北川さんが消えてから、入れ替わるように彼らが新任の教師として現れた。タイミングが揃いすぎています。正体が割れて日本にいられなくなった彼に代わり、そこの2名が新エージェントとして送り込まれてきたという大胆な予測も、あながち否定は出来ませんね」
「……お前たち、何処まで知っている」
 クーパーが青い目を鋭く細めて、美汐を睨みつけた。
「その台詞は、彼との関連性を肯定するものと解釈できますが?」
 美汐は1歩動じない。その視線を涼しい顔で受け止めて見せる。
「――貴方たちをこの場で皆殺しにすることだって、可能なのよ?」
 観念したのか、江口素子の仮面が剥がれ落ちる。口調にも表情にも、既に優しい女性教師の面影は微塵も残っていない。
「我々に深入りしすぎて、生きていられるとでも思っているのかしら。少年探偵気取りもいいけれど、命を縮める結果になるわよ」
「そう粋がらないでよ、先生」祐一は余裕の笑みを浮かべながら言った。「条件が揃えば、アンタたちを見逃してやっても良いとオレは思ってる。武田玲子を殺ったことに関しては、カナリ頭にきてるけどな」
「まあ、先生がたのことは後で詳しく伺うことにしまして――」
 そう言ってクーパーと江口を一瞥すると、美汐は再び澤田武士に視線を戻した。
「今は、澤田さんが優先です。亡くなってしまうまでに色々と聞きたいですからね」
「そうね。じゃあ、話を再開しましょう」
 美汐と同じように、極めて合理的な性格をしている香里は言った。もっとも、香里は表面的にそう装っている――というのが本当のところなのだが。
 栞の件からも分かる通り、彼女はどうしようもない感情から、非論理的な行動に走る傾向すらあるのだ。それが自滅へ向かうと知りながら。

「澤田君。貴方は、竹下啓太を――恐らく、お姉さんの件をネタに呼び出し、そして殺した。そして手首を切断し、旧校舎の視聴覚室を利用して首吊り自殺に見せかける偽装をしたのね。それから、竹下啓太の携帯電話の番号を控えておき、相沢君のロッカーに偽のラヴレターを入れて、死体を発見させるように導いた。これは、第3者に無理矢理ドアを開けさせて、現場が『密室』であることを強烈にアピールするためだったと思うわ。そのために、ラヴレターを利用し相沢君をおびき寄せ、そして彼が視聴覚室に現れたタイミングを狙って、竹下啓太の死体に入れてある携帯電話に電話をかけた。そのコール音を聞かせれば、相沢君が興味を持つと思ったからでしょう?」
「その通りだ。全く……その通りだよ」
「どうして、オレだったんだよ」
 掠れた声で認める武士に、祐一が憮然とした表情で追求する。
「他の奴でも良かっただろう? お前の偽ラヴレターのせいで、オレは酷い目にあったんだぜ」
「君は……プレイボーイで有名だから、ね。美少女とは、片っ端から仲良くなる……そんな噂を聞いた。だから、ラヴレターを出せば、確実に引っ掛かると思ったんだ」
 そう言って、武士は薄く笑った。
「それ、に、君は活発で、好奇心が強い性格をしているとも、聞いていた。転校生だというのに、すぐに学年の話題に……上るような人物だ、疑う要素はない。君は、利用するには……うってつけの、人物像だった」
「うぐぅ。祐一君、見抜かれてるね」あゆがここぞとばかりに言う。
「ほっとけ」
「密室のトリックについて聞かせてくれるかしら?」香里が言った。「パターンがあり過ぎたから、その辺は良く考えてなかったんだけど。あの、スロープを利用したのかしら? それとも、何かのギミックを使ったの?」
「ご想像通り、スロープを使った。あの視聴覚室は、映画館のように、席が階段状になっている。つまり、部屋の奥ほど床が高い。中央は緩い階段に……なってるけど、両脇の通路は、車椅子用に……平らな坂道になってるんだ」
 そこで言葉を切り、武士は何度か荒く息を吐いた。もう、喋るのも一苦労らしい。佐祐理はその様子を心配そうに見守る。だが、もう止めようとはしなかった。
「ビーチボールの中に水をためて、それを冷凍庫に入れると……大きな氷のボールが出来る。ビーチボールのビニールを破れば、それは純粋な氷の大玉に、なる仕組みさ。それに糸をつけて……鍵と結びつける。後は、氷のストッパーとそのボールを教室の1番後……つまり、坂の頂上に備えつけてやれば良い。ストッパーがまず溶けて、ボールは坂を転がり出す。すると糸が引っ張られて、ロックが、降りる」
「ああ、なるほど!」栞が感心したように唸った。「ナイス・アイディアですね」
「ボールは坂を転がり、糸を巻きつけて、1番下の壁にぶつかり……止まる。糸は残るが、氷が溶ければ仕掛けは失われ、トリックは分からなくなる。廃墟になった教室、しかもあの部屋の床は絨毯だ。糸クズくらいでは……不審に思われないと思った。簡単に説明すれば、あの密室のトリックはそういった感じのものだったよ」
「なるほどね。まあ、仮説の1つにはあったやり方だわ」
 香里はそう言って、大きく頷いた。
「殺したのは11日。相沢君にラヴレターを渡して、死体を発見させたのは13日。1日のブランクがあったのは、その大きな氷の玉が確実に溶けて蒸発するのを待っていたのね」
「ああ」武士は苦しそうに唸った。「武田玲子という生徒が殺されて、このトリックを考えてから……約、1週間。僕は、何度も……旧校舎に赴き、氷のボールを……幾つも使って、実験を繰り返した。比重の軽い氷の玉でも、重いロックを引っ張って落とせるように、ロックのスライド部分を、あまくするよう、調整したり……色々とね」
「そのように綿密に計算し、実験を繰り返していたからこそ、死体の手首を切断しなければならない事態に陥ったことは、貴方を慌てさせたわけですね」
 美汐がゆっくりと訊いた。だが、それは質問というよりも、確認の意味合いが強かったのかもしれない。
「納得できる心理状態よね」香里は美汐と頷き合った。
「練習を重ね、それなりの自信があったからこそ、不測の事態に動転し、混乱し、自分でも無茶苦茶な行動をとってしまう。実際、あなたはそうだった。だから、手首を切った以上、効力を発揮しない密室の偽装などを敢えてやってしまったわけよね」

「それで、え〜と。話は変わりますが、小田桐英之さん――つまり、弟の方を殺したのは何故ですか? あなたは、前年度の3役を殺害することが目的だったわけでしょう」
 栞が恐る恐るといった様子で、問いかける。相手が殺人犯となると、たとえ重傷を負っているのが分かっていても、気後れしてしまうものらしい。
「彼は……憎むべき、小田桐孝之の弟だった……からね」
 目を閉じて、深く深呼吸をしてから彼は言った。
「それに、あの腐敗した生徒会の会計長の座を……兄から継いでいたし、なにより、孝之から……相談を受けていた、可能性が高い。竹下が殺された、時点で、孝之は僕が復讐を始めたことに……薄々気付いていた筈だ。もし、孝之が弟に、そのことを相談していたら……」
「小田桐英之は、貴方が犯人であることを知ったことになる――」
 香里が言葉尻を拾い上げて言った。
「ああ……その、通りさ。でも、罪悪感は……微塵も、なかった。できるなら、新旧構わず、生徒会関係者を皆殺しにしたかった……くらいだからね」
 そういって、武士は喉だけで笑う。
「――分かったわ。ありがとう。私の質問は、以上よ」
 そう言って、香里は武士を見下ろし、微笑みかけた。
「不明瞭だった部分は、1つを除いて全て解明されたわ」
「残った、1つというのは……動機、だろう?」
 ニヤリと、脂汗に塗れた顔を綻ばせる武士。
「復讐さ……それ以外になにがある!」
「うぐ」
 あゆは、その声にビクリと体を硬直させた。少年の目は、死に瀕した人間のものとは思えないほど、強烈な感情を語っている。異様にギラついたその瞳は、あゆを竦ませるには充分過ぎる鋭さを持っていた。
「復讐。――貴方のお姉さん、紀子さんの自殺のことですね」美汐が問いかける。
「ああ。紀子は……確かに、自殺だったさ。だが、生徒会の連中に……吉田、竹下、小田桐の奴らに脅迫されて、そこまで、追い込まれたのさ。連中は、直接手を下していないだけ……紀子を殺したことに、変わりはない」
「一体、何があったんですか?」
 栞が香里の背後に隠れながら、顔だけ覗かせる。
「その、お姉さんは何故、生徒会の人に脅迫を受けたんですか? それに、死にたくなるほどの脅迫って――」
「良くは、知らない。紀子は、コンピュータが得意だった。生徒会のサーバに問題が生じたときも、業者に頼むのが面倒だと、度々、呼び出されてメンテを頼まれていた。多分、紀子は、それが切っ掛けで、何かを知ったんだろう。いつだったか、『メイン・サーバにアクセスできるかもしれないから、生徒会の謎に迫ってみる』というようなことを、紀子は……言っていたから」
 目を閉じたまま、武士はゆっくりと語った。
「それが、生徒会の奴らに、バレ……たんだ。紀子が、そのことで、どんな仕打ちを受けたかは、彼女の名誉のためにも、言わない。だけど、僕は、その脅迫の事実を証明する、証拠を発見、した時……一瞬で、奴らへの復讐を、決意した。奴らを殺す。皆殺しにしてやるって、ね」
「死体の下半身を焼いたのも、その出来事に関係があるんですか?」
 栞が再び遠慮がちに問う。
「ああ……」武士は頷いた。「紀子のためにも、死体は、ああして辱めて、やりたかった」
 訪れた沈黙に、武士は、ゆっくりとその目蓋を開く。
 高く星空を見上げる彼の目尻から、透明な雫が溢れ出し、そしてその横顔を伝っていった。
「どう思われても、構わないが、僕と、紀子は……姉弟であり、恋人でもあった。僕らは、血の繋がった家族としても、そして異性としても、互いを想いあっていた。彼女を、抱いた事だって、ある。紀子は、僕の、宝物だった。唯一の、最高の理解者だった……」
 武士は包帯に巻かれた右腕をヨロヨロと上げ、その掌で目を優しく覆った。
「その、紀子を……あいつらは、奪った。なのに、奴らは生きていて、のうのうと日常を謳歌している。許せる、はずが……ゆるせる、はずがなかった。地獄の果てまでも、追い詰めて、この手で、生まれてきたことを後悔させ、そして、殺してやろうと思った……」
 その言葉が終わった瞬間、澤田武士は激しく咳き込んだ。喉の奥から、逆流した血が吐き出される。 もう、彼にその瞬間が訪れるのは間近であると、誰もが理解できた。
「動機はと訊かれれば、それが、すべてさ」
「そうか――」
 暫くの沈黙の後、祐一は酷く低い声でそう呟いた。
「なあ、さっきも言ったが……」
 祐一は佐祐理の隣、武士の直ぐ傍らまで歩み寄って、片膝を付く。そして死に逝く少年の目を間近に覗き込みながら、言った。
「オレにもたった1つだけ、アンタに訊きたいことがあるんだ。正直、事件の真相や動機なんかより、オレはそれだけを聞きたかった」
「ああ……なに、かな、?」
 武士は右手を降ろし、ゆっくりと祐一に視線を向けて、見上げる。
「復讐ってさ――」
 祐一は、真正面から武士と視線を合わせた。
「なあ、復讐するってさ、どんな気分だ?」
「祐一さん!?」
 あまりに無神経と思われる質問に、佐祐理は「信じられない」といった表情で祐一を見上げた。だが、それを完全に無視して、祐一は尚も続ける。
「今のお前は、満たされているか。たった1つの想いを貫くために生きるってのは、どんな気分だ。そして復讐を遂げた時、人は何を想うんだ」
 そう言うと、祐一は武士の瞳をジッと見詰めた。そこに浮かび上がっては消える、僅かな感情の色さえ見逃さないように。
「オレは何より、そいつを知りたいよ」

 武士がまた、激しく嘔吐する。再び鮮血が舞い、屋上の冷たいコンクリートの床に点々と張りついた。
「澤田さん! 澤田さん、大丈夫ですか!? もう、これ以上は……」
 表情を変えて必死に武士に言い募る佐祐理であったが、当の本人がそれを片手を上げて制する。
「最高さ」
 暫くすると武士は、満面の笑みを浮かべて祐一に言った。それは歳相応にあどけない、17歳の少年の笑顔だった。
「今、僕は最高に、満たされている。紀子の仇を、討てた喜びに、満ち、溢れている」
「そうか」
 祐一は、そう言うと破願した。武士と同じ、爽快な笑みである。
「そいつは、良かったじゃないか」
 祐一は、笑ったまま目を細めて武士を見下ろす。そして、まるで10年来の友人を見送るように言った。
「それなら、安心して死ねるよな」
「ああ。その、通りだ……」
 武士は笑みを返すと、再び眠るように目蓋を閉じた。その声はもう、緩やかに屋上を駆け抜けて行く風にさえ、掻き消されてしまう程にか細く弱い。彼の命の灯火が、今、まさに消えていこうとしているのは、誰の目にも明白だった。
「お前は良くやったよ、澤田武士。お前と、お前の好きだった女のために。社会は知った顔で『間違ってる』と言うだろうけど、お前はたとえ誰に何と言われようとも、自分の出来る事を命がけでやり遂げた。きっと、姉さんも喜んでるさ」
 祐一は、そう言ってやった。
「さあ、もう逝けよ。あの世で待ってる、お前の女神に宜しく伝えてくれ」
「ああ、ありが、とう」
 少年は力無く微笑む。その細い目から、再び透明な涙が伝っていった。
「僕は全ての責務を、果たした……。これで、安心して、紀子の……け、る……」
 それが、澤田武士――最期の言葉だった。
「いつか、また会おう。お前みたいな奴は正直、嫌いじゃない」
 祐一はゆっくりと立ちあがり、そして武士を見下ろす。丸顔の温厚そうな少年の顔には、穏やかな微笑が浮かんでいた。
「今度会う時は、お互い、酒も飲める歳になってるよな。だから、出来ない相談があっても、安心だ。2人で1杯やろうぜ」
 祐一は、薄い唇を微かに綻ばせた。
「――ブルームーンを、奢るよ」







to be continued...
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脱稿:2001/09/02 06:59:03


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