泣いたって変らない
もう少し あと少し 勇気が欲しい



ヒンキイ・ディンキイ
パーリィ・ヴゥ
Hiroki Maki
広木真紀




−煉獄の章−





 よく覚えていないが、多分、遡れば小学校時代からになるだろう。
 オレは学校が長期休業に入る度、親父と母さんに連れられて、世界を旅してきた。その中心となったのは、経済的に貧しい――貧困国とよばれる東南アジアの国々。タイ、バングラデシュ、ベトナム、フィリピン。まあ、そのあたりだな。それだけじゃなくて、中国やインドにも行ったことがある。勿論、アメリカもな。

 親父はそこで、金を出して音楽を聴くなんて文化を知らない人々の元を訪ね、そしてチェロと歌を聴かせてきた。無論、対価なんて求めない。ただ自分の生み出した旋律にのって、人々がリズムを取り出す。歌い出す。それが、親父の求めていたものだった。UKでのバスキング(路上演奏)だって、その旅に繰り出すための資金稼ぎでしかない。
 メジャー・デビューの話や、レコーディングの話を持ちかけられたって、彼等が見向きもしないのはそのためだ。普通のアーティストにとっては願ってもないビッグ・チャンスかもしれないが、親父と母さんにとってはそんなものには何の価値もない。彼等は大勢の人間に自分のサウンドを聞いて欲しいんじゃないからだ。ただ、自分たちの作り出す音楽で、より大きな感動を生み出したかっただけ。そんな彼等だからこそ、1銭の稼ぎにすらならない連中を相手に音楽を聞かせてきたんだ。

 ある日は、捨てられたストリート・チルドレンたちに。ある時は、スラム(貧民街)に住まう、物乞いたちに。またある時は、貧困に喘ぐ時代に忘れられた農村部の人々に。見知らぬ辺境の村に乗り込んで行っては、親父はイキナリその住人たちに向かって怒鳴りつける。
 音楽を金で買うなんて文化を知りもしない人たちが、親父と母さんの観客。生きることに精一杯で、CDなんて買うことすら出来ない人々が、2人の目標。

「よーし。とりあえずお前ら……このチェロを聴いて、感動しろ!!」
 通じるはずもない日本語で、無茶苦茶な命令をし――そして、突如として、誰も知らないそのライヴは始まる。親父のチェロと、母さんのギター。そして、それに合わせて村中に響き渡る2人の歌。最初は面白半分に集まってきていた人々だが、徐々にその人数が増えていき、やがて村人全員が総出で親父たちを取り囲む。見たこともない巨大な楽器と、それを抱える親父と母さんが珍しくて仕方がないのだ。
 だが始まりはどんな形であるにせよ、やがてその旋律と波動は、聴衆たちを1つの空間に閉じ込める。その心に浸潤していく。今まで知らなかった燻りと衝撃に驚きながらも、たった一曲のメロディを人々は追いかけていく。経験したこともない感情の昂ぶりに、その頬に涙が伝う。そして、そのサウンドは世界を創造する。

 ――親父と母さんは、挑戦し続けてきた。オレは、ずっとその姿を見てきた。何者にも屈さない。誰が何と言おうが関係ない。チャートでトップを取るためでもなく。CDを100万枚売るためではなく。聞く者の心に残り、そして現実に反映する強さを生み出すために。誰も知らない、その向こう側の世界を切り開くために。
 本人たちには、こんなこと言ったことがないが、オレはそんな両親を尊敬している。凄いと思う。だから、「目指すものは?」「夢は?」「越えるべきものは?」と聞かれた時、オレの脳裏には真っ先に1人の男の相貌が浮かぶ。親父だ。
 だがオレは、親父には遠く及ばない男だ。それどころか、親父が命懸けで追っていた夢を、潰してしまった男だ。――そう。オレは2人して倉庫に閉じ込められたあの時、親父が最初からそれを考え、覚悟を決めていたなど、知りもしなかった。知りも、しなかったんだ……。









GMT 20 September 1996 03:46 A.M.

1996年 9月20日 深夜3時46分

起爆装置作動まで、あと――

00:58:33



「……1時間、切ったな」
 壁に寄り掛かりダラリと腰掛けたまま、オレは低く言った。
 デジタル時計が示す、起爆装置作動時刻までのタイム・リミットは、58分。この1時間半の間、あれやこれやとジタバタ足掻いてみたが、出来ることなどそう多くはない。分かりきっていたことだが、結局その全ては徒労に終わっていた。
 もう、ジョークを飛ばす余裕もない。オレも親父も、力任せに手枷を外そうと暴れまわったため、カナリの体力を消耗している。オマケに無茶をやったせいで、手首の皮膚が切れてオレも親父も腕から血を流している始末だ。
 だが、そんなことは問題にもならなかった。あと1時間足らずで、時限式の起爆装置が作動し11キロの『C4プラスティック爆弾』が大爆発を起こす。そうなれば、倉庫もろともオレたちはこの世から消し飛ぶだろう。――そして今や、それは必定の未来に思えた。

「クソッ! どうすりゃ良いんだ!! どうすれば、この手枷を外せる!? 鎖を千切れる!?」
 忌々しい手首の戒めを冷たい床に叩きつけて、オレは吼えた。だが鈍い音を立てるだけで、手枷はビクともしない。それどころか、また手首の傷を悪化させるだけだ。
「……落ちつけ、祐一」
「落ちつけだ!? この状況でどう落ちつけって言うんだよ!?」
 人の心理っていうのは、微妙なものだ。残り時間が1時間以上あった時は、まだ幾分余裕があった。ジョークを言い合う精神的余裕もあった。だがデジタル時計の60分単位の表示がゼロを刻み、遂に残り時間が1時間を切った瞬間、オレの中で何かが崩壊した。
 もしかすると、これが『緊張の糸が切れた』という状態なのかもしれない。自分が徐々にヒステリックになっていくのが実感できるが、それを食い止めることができない。1度暴走してしまった精神は、崖を転がり落ちていく小石のように、加速度を増して止まることはないのだ。

「まあ、確かにオレも正直参ってるよ……」
 親父は壁に寄り掛かったまま天井を見上げ、深く溜息を吐く。
「まさか街のガキどもが、マクノートン家のシンジケートと繋がってたとはな。確かに、あれだけの組織がバックについてりゃ、人殺しだろうが何だろうが、ガキが調子にのって無茶やらかすのも頷けるってもんだ。そこは、オレとしても計算外だったよ」
 マクノートン……。今のオレは、恐らく世界中の誰よりもその名に敏感になっているだろう。勿論、親父の口から漏れたその言葉にも、オレは反応した。
「親父、もしかしてキース・マクノートンのこと知ってるのか?」

「……ああ。知ってる。ちょっとでもこの国の裏事情を聞き齧ってる人間なら、誰でもマクノートンの名は知ってるさ。イタリア風に言えば、巨大なマフィア的組織ってとこだからな。主に扱ってるのは、南米から密輸してくる麻薬。それから、武器の売買だな」
「そんなに凄いのか。マクノートン一家ってのは」
 どうやら、あのキースとかいう奴の親父は、オレが想像していたよりも遥かに格上の悪党らしい。
「イングランドじゃ、多分最強のワルだろうな。ガキどもが言ってたのは、ウソじゃない。政府の高官から、軍、警察、司法。各方面に色々なコネを持ってるらしいからな。確かにマクノートンの首領の1人息子じゃ、この国にいる限り空き放題やれるだろう」
「……どうして、一介のチェロ弾きに過ぎない親父がそんなことを知ってる」

「一介のチェロ弾きとは無礼な。チェロ弾きはとっても凄いんだぞ。恰好良いんだ。偉大なるチェロ弾きをバカにすると、ブッ飛ばすぞ!」
「はいはい。分かったから、理由を言え。何で親父がそんな裏事情を知ってるんだ。そう言えばアンタ、軍用プラスティック爆弾のことも知ってたな。なんでだよ?」
「ウム。実は――」親父は自由な方の右手を顎に当て、ボンヤリと宙を見上げる。
「何年前かな。オーストリアでコンサートやった時に、えらくオレのサウンドに惚れ込んでくれた奴がいてな。そいつがそういう話に詳しい商売やってたんだよ。――で、色々話してる内に結構仲良くなってな。色々と犯罪界の裏事情なんかを、酒の肴に聞かせてもらうことがあったわけだ。勿論、オレは引き換えにチェロの話しを色々聞かせてやったぞ」

「酒の肴に、犯罪界の裏事情を――か?」
 まさに、『類は友を呼ぶ』。昔の人は、上手いこと言ったものだ。親父はまさにそれを体で示す男で、世界中に変な知り合いが大勢いる。
「何者だ、そいつ。名前は?」
「ローザ・ラヴロック。ICPOってところで働いてる警察官なんだと」
「ICPO? 聞いたことあるな。確かそれって、銭形のとっつぁん(ルパン)が所属してる『インターポール』ってヤツのことじゃなかったか?」

「――おう、それそれ。日本では『国際刑事警察機構』なんて呼ばれてるらしいぞ。彼女は、そのICPOの『法規・調査部』に所属してる特別捜査官の1人だって話だ。要するに、国際的な犯罪を専門に扱う警察官なわけだな。聞くところによると、結構なエリートらしいから、そのうち局長とかになるかもしれんぞ」
 世界を興行(?)して回っている関係で、親父は各国に知り合いが多い。中には、驚く程のビッグネームなんかも含まれていることがある。
「そのローザって人、女か?」
「ウム。実際に裸にして確かめた事はないが、彼女はどう見ても女だ」
「美人か?」
「おう。凄い美人だぞ。ま、オレの夏夜子には1歩譲るがな。フッ……。機会があれば、今度紹介してやるよ。あの娘、日本語も達者だから色々話を聴いてみるといい。自分の知らない世界で生きてる人間との出会いは、良い意味で刺激になるぞ」

 実際、数年後にオレは、そのローザ・ラヴロックその人と会う機会に恵まれることになるのだが、その時彼女から受けた簡単なレクチャーによると、インターポールってのは『総会』『執行委員会』『事務総局』『国家中央事務局』の4大機関で構成されているらしい。
 彼女が所属している法規・調査部は、『事務総局』に属する4つの局の1つで、実際に国際犯罪に対する調査・捜査等を行う、言わば第一線。その捜査対象は実に多岐に渡り、麻薬や絵画等の美術品の密輸阻止・追跡、国際犯罪者の捜索・手配、無差別テロ組織への警戒、国外逃亡者の追跡等が挙げられるという。

「ヨーロッパじゃ、特に美術品の密輸出入が盛んだし、宗教がらみのテロリズムも多い。それに、麻薬や武器の売買の取り締まりと阻止もインターポールの仕事だ。そういうわけだからして、彼女の口からイングランド最凶のシンジケート、『マクノートン』の名前は幾度も聞いたってわけだな。因みに、オレの爆弾に関する知識も、実は彼女からの受け売りだったりする」
「イングランド最凶のシンジケートか」
 じゃあ、あのキース・マクノートンに借りを返そうと思えば、その裏社会のドンを相手にしなくちゃならないことになるな。現実的に考えて、今のオレにそれだけの力は、とてもじゃないがありはしない。いや、そんなことを考える以前に……
 両手を掲げる。ジャラリと鎖がなる。この、右の手首にガッチリと嵌め込まれた忌々しい手枷を何とかしないことには、借りを返す返さない以前にここで御陀仏だ。そしてその死は、オレの完全な敗北を意味することになるのだろう。

「冗談じゃねえ」
「ん?」親父が訝しげにオレの顔を見る。
「こんなところで死んでたまるか。オレはあの本物のドラ息子に、まだ教えてやってねェぞ。オレたちは、命を掛けたゲームをやってるんだ。負けた時は、死ぬ覚悟でやらなきゃならねェ。高みで見物してる奴らを引き摺り下ろして、そいつを骨身に染み込ませてやる」
「――そうだな。お前の言うことにも一理ある」
 親父は、コクリと頷いた。この辺の考え方は、親子だけあってオレたちには共通する部分がある。要するに、オレも親父も極度の“負けず嫌い”なのだ。

「命の遣り取りには、当然それなりのリスクが付き纏う。命懸けの覚悟がいる。それを連中に教育してやらねばならん。もう、命を抵当に入れたゲームは、あいつ等の手ではじめられたわけだからな」
「ああ。それに、オレは腕と肋骨を折られたカリも、まだ返してない」
「オレには、夏夜子だっているしな。確かに、ここでは死ねない」
 そう言うと、親父は何か暫く考え込んでいる様子だった。腕を組み、ジッと薄暗い倉庫内の虚空を睨みつけたまま、微動だにしない。こういう時の親父には、近寄り難い雰囲気がある。ただ見守るしかないのだ。
 会話が途切れると、夜の静寂が痛烈なほどに感じられる。ここには、本当にオレと親父しかいないのだと、弥が上にも思い知らされた。

「なあ、あの爆弾の箱を何とか手繰り寄せて、その中のC4とやらを使って、この鎖を切れないかな?」
「無茶言うな。時限式の他に、振動や光に反応する起爆装置も搭載してたらどうする? 下手に箱を動かしたり、開けたりしただけでドカンだぞ。それに第一、どうやって爆破するんだ」
「火を着ければいいんじゃないか?」
「その火はどこにある。オレはライターなんぞ持ってないぜ?」
 そう言えば、オレも親父も煙草は吸わない。ライターもマッチも持っている筈がなかった。
「それに、TNTや高性能爆薬ってのは、密封していない状態で点火しても、爆発しないで濃い煙を出して燃えるだけだってローザが言ってたぞ」

「えっ、火じゃ爆発しないのか?」
 では、どうやって爆破させるんだろう。ダイナマイトなんかとは勝手が違うのか?
「特殊部隊が使うプロの爆薬だからな。感度が低くて、安全性が高くないとだめなんだと。衝撃とか摩擦なんかにも強くて、ハンマーで思いきり叩いても爆発しないそうな。それでいて、水中でも使えるっていうから、毒性を除けば万能だよな」
 親父は皮肉交じりに肩を竦める。
「爆発させるには、専用の発火装置がいるらしいぜ。電流流したときの熱で爆破するヤツと、雷管のついた信管を使うやつの2通りあるって言ってた」
 どの道、シロウトが一朝一夕に扱える程、甘いシロモノじゃないってことか。こういう時、ハリウッド映画の主人公なら簡単に爆弾とか使ってるんだけどな――。

「ま、しょうがないから、最後の秘密兵器を出すかな……?」
 考えが纏まったのか、親父は組んでいた腕を解くと呟いた。
「残り時間、あと45分。脱出して、それからここを離れる時間を考えると妥当なところだろう」
「オイ、ちょっと待て。なんだ、その秘密兵器ってのは?」
「昔から言うだろう、備えあれば怪我一生」
「それを言うなら、『備えあれば憂いなし』だ。馬鹿オヤジ」
 親父はそんなオレの突っ込みを完全に無視して、右の靴を脱いだ。カジュアルな、黒の革靴だ。何をするつもりかと見守っていると、それから靴敷きを取り出す。全く意味が分からない。

「何のつもりだ?」
 親父の奇行の意図が掴めず、オレは小首を傾げて問う。
「オレはさ、サインとかしないけど、ローザは良い奴だから特別にサインをくれてやったんだ。実は、その時にローザにお返しのプレゼントに、色んなスパイグッズを貰ったんだよな。その1つが、こいつだ。これは、東西冷戦時代に間諜の連中が使ってたアイテムらしいぜ」
「だから一体何のことだよ?」
 それに答える代わりに、親父は靴敷きの中から銀色をした小振りのナイフを取り出した。フォークとセットになっている、食事用のナイフよりも細くて短い。そのフォルムも、どちらかというと外科用のメスに近しい代物だった。だが鋭い光を放つそれは、充分に研磨されているらしく、切れ味は抜群に良さそうに見える。

「護身用ナイフだ。靴敷きの中に、斜めに刺し込む様にして収納できる」
 キラリとナイフを翳して見せる。良く磨かれた銀色の刀身は、まるで鏡のようだ。
「ベルトに仕込むタイプの工具セットも貰ったんだが――あれは重いから、いつもは着けてないんだ。あれなら、この手枷の鍵も外せるかもしれないんだがなあ」
「で、でかしたぞ、親父! そいつでなら、なんとかこの鎖を壊せるかもしれない」
「ウム。こいつは、チタン製だからな。結構丈夫だ。この鎖はかなり太いが、時間を掛ければ何とかなるかもしれない……ような気がする」
 絶望の闇に沈みかけていたオレたちに指し込む、一条の光。これぞまさに曙光。なんとか目処が立ってきた感じだ。オレたちはガハハと機嫌良く笑い合う。

「ようし、親父。もう時間がない。……早速、やっておしまいっ!!」
「おうッ!!」









GMT 20 September 1996 04:03 A.M.

1996年 9月20日 深夜4時03分

起爆装置作動まで、あと――

00:41:37



 ギィン――ッ!!

 薄暗い倉庫内に火花が上がり、瞬間的に辺りを眩く照らし出した。金属と金属の激突によって生じる、一種剣戟の音にも似た響きが断続的に続き渡る。もしこの試みが成功すれば、命を抵当に入れたこのゲームに勝利することができる。淡い期待を胸に、オレはそれを瞬きするのも忘れて見入っていた。

「はぁ……はぁ……」
 親父は肩で荒い息をしながら、ナイフを握った右腕で額の汗を拭う。鋼鉄の鎖を相手に、渾身の力で幾度と無くナイフを叩きつけるという純粋な力作業の連続は、思ったより体力を消耗するものらしい。
「くそっ、硬いな――こいつは」
 成人男性の人差し指ほどの太さがある、2本の鉄の紐で編み込まれた頑丈極まりない鎖。チタン製のナイフを以ってしても、これを叩き壊すのは容易ではない。事実、親父の度重なる挑戦を受けても、掠り傷をつけるのがやっとだ。
「先にナイフの方がやられちまうぜ」

 ナイフを貸してもらい作業を交代してやりたいところだが、生憎とオレは左腕を派手に骨折していて力仕事はこなせない。無理を承知で、親父に全てを頼るしかなかった。オレの身体ってやつは、何時だってそうだ。本当に動かなきゃならない時には、全く役に立ってくれない。
「――ふぅ」
 滴る汗を拭いながら、親父はデジタル表示に目を向ける。C4が収められた木箱の上で、生涯最後の瞬間までを律儀にカウント・ダウンしてくれるそれは、オレたちに残された時間が39分であることを報せてくれていた。この数字が00:00:00を刻んだ時、オレと親父は死ぬ。

「どうする、親父……もう時間がない」
「ああ」
 親父も分かっているらしい。たとえ、残り時間が40分ではなく4時間であったとしても、手にしたナイフで枷を断つことはできないと。現実的に考えれば、今の作業を中断し別の活路を見出すしか、オレたちに生き残りの術はない。だが、別の活路なんてどこにある――?
 作業を行なっていないオレの額にさえ、脂汗が滲んでいた。冷静に状況を分析してみれば、結論は既に出ている。即ち、『オレたちは逃げられない』。どう考えても、残り40を切った今から、オレたちを呪縛している鋼鉄の手枷を破壊し倉庫から首尾良く脱出することは不可能だ。

「くそっ! こんなところで死ぬのかよ! どうにもならないのかよ、畜生!!」
 そんなことをしても状況は変わらない、そう分かっていても止められなかった。オレは手枷の嵌め込まれた右腕を、何度も倉庫の冷たい床に叩きつけた。その度にジャラジャラと耳障りな音を立てて鎖が鳴り、手枷が皮膚を激しく擦り、既に血に染まっている手首付近の傷口を広げていく。
「なんで、こんなことになったんだ。オレが何したって言うんだよ!? なんでだ!?」
 ヒステリックに叫びつつガシガシと鎖を踏みつけるが、度重なるナイフの猛攻を完全に凌いできた鎖が、そんなことで根を上げる筈もない。
「厭だ……死にたく……死にたくねェよ……」
 全身から、力が抜けていく。オレはこの時、もう完全に諦めていた。どう考えたところで、もう助かる術などないのだ。少なくとも、絶望の余り可能性を模索する気力すらなかった。ただ弛緩したように項垂れ、自分を襲ったこの突然の理不尽に怒り、嘆くしかない。視界が、涙で滲み始めた。

 親父は、さっきから何も言わない。恐慌状態にあるオレにも全く反応を示さず、ただ放心したようにボンヤリと宙を眺めている。随分と離れたところにある鉄格子付きの窓越しに、月を眺めているらしい。
 何事にも不屈。限りなく諦めの悪い男である親父も、流石に努力を放棄したのだろうか。その顔には、焦りもなかったが希望の光も見受けられなかった。
「夏夜子と、約束したんだけどな……」
 誰に聞かせるでもなく、親父はポツリと言った。硬い床に座り込んだまま、壁に寄りかかり視線を宙にさ迷わせる。その相貌からは、親父が何を考えているのかを窺い知ることはできない。

「演じたい役割と、演じられる役割ってのは違うってことか。たとえ、その資格があったとしても」
 気でも触れたのか。オレには、親父が何を言っているのか全く分からなかった。起爆装置作動までのタイムリミットは、あと31分。今こうしている間にも、その瞬間は刻一刻と近付いていると言うのに、親父はまるで時が止まってしまったかのように、奇妙に静かだった。
「理不尽って言えば、理不尽な話しだが……ま、しょうがないんだろうな。きっと」
 そう言って、親父はフッと自嘲的に笑った。だが次の瞬間、その相貌が突如、引き締まる。
 口元には、憎らしいほどに余裕タップリの不敵な微笑。そして、揺るぎ無い意志の力を感じさせる、黒く鋭い眼。それは、いつもの親父の顔だった――。

「よし、祐一」
 親父は突然オレに顔を向けると、宣言した。
「もう、この辺で良いだろう。ゲームは終わりだ」
「……えっ?」

「――そろそろ、この物騒な倉庫から出るぞ」








to be continued...
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脱稿:2001/11/03 08:15:33

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