可能性と云う名の自由は
きっと私の武器になる!



ヒンキイ・ディンキイ
パーリィ・ヴゥ
Hiroki Maki
広木真紀




−煉獄の章−




London Iryo Center
Hendon Way London NW4 3NE U.K.
GMT 21 September 1996 12:46 P.M.

翌日 午後12時46分
ロンドン医療センター


 ――親父は、処置が良かったのか一命を取り留めた。大量出血のため、救急車が着いた頃は既に意識を失っていて、かなり危険な状態にあったそうだが、止血の処理が的確だったおかげで辛うじて助かったという。動脈どころか、手首から腕を丸ごと切り落としたんだ。助かっただけでも幸運だったんだろう。
 倉庫から脱出した後、結局オレたちは近く――と言っても随分歩いたが――にあった民家に助けを求めた。そして、そこの住人に999(警察・消防・救急車を一括する緊急回線)に通報してもらい、レスキューを呼ぶことになったわけだ。
 幸運なことに、そこに住んでいた婆さんが、若い頃に看護婦をやっていた人らしい。出血の酷い親父を見るや、彼女はお湯を沸かし、毛布で親父の身体を温め、止血用のゴムで適切な処置を施してくれた。 救急車が20分かけて来るまでの間、オレに軽食を出してくれたのも彼女だ。
 この事件の1番の功労者は、彼女かもしれない。親父に関して言えば、命の恩人とも言える。
 その親父は、病院に担ぎ込まれた瞬間、問答無用で緊急手術を受けた。聞いた話によると、傷口が信じられないほどズタズタに荒れていて、オペは難航を極めたらしい。医者も、どうやったらあんな切り口になるのかと首を捻っていた。
 切れ味の鈍い刃物のようなもので、何十回と連続して腕を突き刺しまくり、腱や筋、骨を無理矢理に切断すればああいう傷になるかもしれないが――それは数十分間に渡り、発狂するほどの絶え間ない痛みと、激しい出血に耐えなければならないらしい。ある意味、麻酔なしでノコギリ使って切断するより辛いとか。そんな地獄の激痛に意識を保てる人間などいるわけがない、と彼は言っていた。オレもそう思う。
 親父は手術後も昏々と眠り続け、夜が明けて太陽が街の1番高い位置に昇るまで、集中治療室に閉じ込められていた。勿論、意識が戻っても今日から暫くは入院生活を送ることになる。あれだけの無茶をやらかしたんだ。誰がどう見ても、当然の報いというやつだろう。
 それと同時に、何故かオレも入院を迫られることになった。医者が親父ほどの怪我はないが、一応検査をした方がいいというのだ。オレは断ったのだが、血相を変えて駆け付けてきた母さんに命令されて、渋々ではあるが病院に厄介になることになった。







「なあ、先生。オレは怪我してないんだしさ。入院することはないんじゃないの?」
「何を言ってるんですか、君は」
 デスクの上に広げられているカルテに診察結果らしきものを書き込んでいたドクターは、椅子をクルッと反転させるとオレを睨みつけた。
 彼女は、白髪が少し混じった中年の女医さんで、名前はドクター・ヘイスティングス。勿論、日本語を流暢に話す日系人の外科医だ。ただし、生っ粋の日本人じゃないので、喋る日本語はどこか必要以上に丁寧だったりする。
 オレたち家族が贔屓にしているロンドン医療センターは、欧州最大の日系総合医療施設だ。基本的に予約が要るわけだが、とにかく日本人の担当スタッフが24時間体制で対応してくれるから、英語の話せないオレなどには重宝な存在である。
 問題は、ここでは一般診療が行われるだけで、手術などの専門的な治療が必要な場合には地元の医療機関に回されてしまうということ。結局、窓口でしかないわけだから、集中治療室に入らなければならない親父や、入院を迫られているオレは別の病院に移されることになるのだ。従って、今オレ達が世話になっているのは、正確にはロンドン医療センターではなく、そこと提携している名も知れない(調べる暇なんてなかった)地元の結構大きな病院なのである。
「――いいですか、相沢君。君の身体は、君自身が認識している以上に全身ボロボロなのよ。せっかく完治しかけていた肋骨にも、またヒビが入ってるし。新しい切り傷も身体中にできてるし。おまけに、頭部をビール瓶で殴られたですって? 問答無用。精密検査です」
 ドクターはキッパリと断言した。
「大人しく入院して、看護婦さんのお世話になりなさい。外出も禁止。外に出たら君、戻ってこないから」
 有無を言わさぬ口調で、ドクターは畳掛ける。一見、品の良さそうな婦人に見えるものの、これがどうして結構な肝っ玉ドクターなのである。オレはこういうタイプが苦手だ。
「そんな。それに看護婦さんって、オレの担当はクマみたいな顔してる男の看護士じゃんよ」
「じゃあ、20代のナースを担当にしたら大人しく入院する?」
 医者のクセに、恐ろしい取引を持ちかけてくる人だ。流石ベテラン。侮れない。
「その看護婦さん、美人で独身?」
「美人で独身よ」
「じゃあ、する。入院して、甲斐甲斐しく世話してもらう」
「そう。それでは、交渉成立ね。取り合えず、頭部と身体のレントゲン撮って、精密検査。あとは病室で1日安静にしておくこと。いいね?」
「了解」オレは海兵隊の真似をして、ピッと敬礼してみせた。

「それにしても今日の君、一体どうしたの?」
ふと真顔に戻って、ドクターは心配そうにオレの顔を覗き込んできた。
「えっ?」
 何か見透かされたような気がして、身体が一瞬ビクリと震える。
「確かに言動は何時もと変わらないお調子者のそれだけど、なんとなく今日の君は少しおかしいよ。違和感と言うのかな、そういうのを感じる。どこか元気が無いような。お父上の怪我と何か関係があるのかな」
「気のせいじゃないの、ドクター?」内心の焦りを抑え、平静を装いながら言う。「昨夜は夜遅くまで色々モメごとに巻き込まれてたから寝不足なだけさ。心配ないですよ」
「そう?」
「ああ。そう」
「じゃあ、そういうことにしておこう。早速、君のお世話を担当してくれるナースを呼ぶわ」
 ニッコリと微笑むと、ドクター・ヘイスティングスは看護士詰め所ナース・ステーションまで続くコールボタンを押した。
「ドクター・ヘイスティングスです。グリンバーグを診察室によこして頂戴」

 そして待つこと数分。ノックと共に診察室に姿を現したのは、『小樽』を連想させる肥えた中年の看護婦だった。妊娠しているのではないかと思わせるほど立派な腹部は、ボタンが弾き飛びそうな程に白衣を押し上げている。熟女と言えば聞こえは言いが、熟しきって腐りきった感じは拭えない。化粧も厚いし。しかも、なんか女性って感じがしない。腕なんか、オレの2倍はありそうだ。
「――って、オイ!」
 オレは思わず診察用の椅子を蹴って立ち上がった。一応、イン・ホワイトということで看護婦には間違いないんだろうが、なんだか横にワイド過ぎないか? 明らかに肥満すぎる彼女は、オレより不健康に思える。この場合、自己の体調管理ができない人間に看護任せて大丈夫なのかという、根本的な疑問が脳裏を掠めるのは果たしてオレだけだろうか。
「ドクター、お呼びですか」
「ああ、グリンバーグ。お疲れ様。この子、アナタに任せるから。悪戯好きのやんちゃ坊主よ。しっかりと手厚く面倒見てあげてね。よろしく」
 驚愕するオレを完全に無視して、2人は英語で打ち合わせた。いくらネイティヴじゃないとはいえ、今の彼女たちくらいのやりとりなら聞き取れるのだ。
「さ、相沢君。彼女が君の面倒を見てくれるグリンバーグよ。ベテランで腕は確かだから。たっぷり甘えなさいな。今日の君は、何だかいつもの覇気がないしな」
「なっ! 話が違うぞ、ドクター。20代の美人でフリーな看護婦はどうした」
 罪のない笑顔で、サラリと契約違反的な内容の言葉を告げるドクターにオレは猛然と抗議した。
「あらあら、なにか誤解があったようね。私はこう言ったはずだよ、相沢君。『20代のナースを担当にしたら大人しく入院する?』って。でも、そのナースを『君の担当にしたら』とは一言も言ってない。 そのナースが担当するのは、もっと小さな子供の患者さんなの。君の担当は、そのグリンバーグ。まあ、ちゃんとご希望通りに男から女になったわけだし。妥協なさい。――ね?」
「ね? じゃねー! はかったな、ドクター」
「フッフッフッ。君のお父上がいけないのだよ」
「親父が?」
 あいつ、ドクターに何を吹き込みやがったんだろう。
「――そう」彼女はクスクスと笑いながら頷いた。「以前、君が入院した時にね、君の父親がこうアドバイスしてくれたんです。ウチのドラ息子は美人のお姉さんに弱いから、我が侭を言い出したら、美人のナースを担当にするとか言っておけば、取り合えず大人しくなるでしょうってね?」
「あんの、バカ親父ィ」
 余計なことをしやがって。退院したら復讐してやる。拳を握り締め、歯噛みして悔しがっていると――
「はい、少年。まずはレントゲンをとるよ」
 相撲取りのような看護婦は、オレの襟首を引っ掴み無理矢理にレントゲン室へと連行していくのであった。







Hendon Way London NW4 3NE U.K.
21 September 1996 22:19 P.M.

同日 午後22時19分
同院


 ――病院の夜は静かだ。戦場を除けば、あの世に1番近い場所なのだから、それも当然かもしれない。癒すため、治すための場所とは言え、全ての人間が快方に向かうわけではないんだ。皮肉な話だが、でもそれが現実。人は傷付くし、死にもする。それに抗うことはできるが、逃れることは誰にも出来ない。
 病院には、入院患者なら誰でも認める欠点が、大きくみっつある。ひとつ、退屈。ふたつ、メシが少ない上に味気ない。そしてみっつ目が、消灯時間が早すぎることだ。
 この消灯時間が早いというのは、万国共通らしい。ロンドン医療センターに紹介されたこの病院でも、御多分に漏れず消灯は22時30分と早い。今時、小学生でもこんな時間に眠るやつなんざいやしないのに。
「なあ、看護婦さん」
「やだねぇ、グリンバーグって呼んでおくれよう!」
 ケラケラと景気の良い笑い声と共に、ズバシッと背中を叩かれる。凄まじいパワーだ。きっと、背中には巨大な紅葉がクッキリと出来上がっているに違いない。
「ゲホゲホッ」
 思わず咳き込む。目尻に涙が滲んでくるのを感じながら、恨めし気に看護婦のオバちゃんを睨み上げるが、本人は全くオレの視線に気付いてもいない。こういう得な性格をしていたら、オレも悩まずに済むだろうか。
「あ、あのさ。消灯時間は過ぎちまったけど、親父の様子見てきても良いかな?」
「オヤ、ジ?」
「ああ、父親のこと。ファザー、もしくはパパ。分かるか、オバちゃん」
 彼女は生っ粋のイングランド人で、日本語は後から習得したらしい。そのため、常用的な言葉でないと意味を解さないこともしばしばだ。
「Oh、父親。――ダメダメ。それはダメ」
 グリンバーグは、贅肉に覆われて殆ど判別できない首をパタパタと左右した。
「消灯時間だし、面会時間もずっと前に終わってる」
「いや、そこを何とか頼みたいんだよ。親父、もう集中治療室も出たし意識も戻ったらしいからさ。 一言、その、挨拶しときたいしさ」
 確かに、あの倉庫にオレたちを閉じ込めたのはキース・マクノートンの一味だ。そしてオレと親父の腕に手枷を嵌め、身動きを封じた状態で時限爆弾を置いていったのも奴ら。だが、そもそも奴らに捕らえられることになったのは、オレに力が無かったせいだ。弱いくせに――無力なくせに、自分の力量も把握せず出過ぎた真似をした結果がこれだ。だから、たとえ間接的にせよ、親父の左手を奪ってしまったのはオレだという解釈が成り立つ。こればかりは、幾ら言訳しても駄目だ。母さんにも「自分を責めるな」と、親父本人にも「お前には関係ない」と言われたけど。そんなの何の慰めにもならない。
 現に今、オレは自責の念に苛まれている。あれが自分のせいだと、自ら認めている。どんな言葉で自分を正当化してみても、これから逃れることは出来ない。だからオレには……どうしても1つだけ、やらなくちゃならないことがある。
「――じゃあ、大人しくしてるんだよ。また明日、念のために検査するから」
「はいはい」
「2時間置きに見回りが来るんだから、起き出して夜遊びに行ってもバレるんだからね」
「はいはい」
 だが勿論のこと、オレは看護婦に念を押されたくらいで大人しく寝るような良い子じゃなかった。グリンバーグだかハンバーグだかしらないが、ワイドな看護婦がその巨体を揺らして部屋を出ていくと、オレは暫く時間を空けてからコッソリと廊下へ出た。
 1度見舞いに来てくれた母さんの話によると、親父は既に意識を取り戻して一般病棟に移ったらしい。だとすれば、面会のチャンスはある。この際、母さんが一緒でも構うまい。オレは謝らなきゃならない。親父に一言謝らなくちゃならないんだ。
 たとえ、直接的な責任はないとしても、親父が左腕を失わざるを得ない窮地に追い込まれた責任の一端を、オレは担うべきなのだから。

 消灯された薄暗い廊下を、オレは非常灯の明かりだけを頼りにさ迷い歩く。勿論、なるべく気配を殺して、巡回の看護士にも細心の注意を払いながら行かなければならない。彼等に見つかったら、強制的に病室に送還されるであろう事は明白だ。よほどのことがない限り、消灯時間後は自分の病室から出ることは基本的に禁止されているからだ。
 まるでゴースト・タウンにでも迷い込んだような不気味さを感じながら、オレは一路、親父が入室しているであろう病室を目指す。あいつは我が侭な性格をしている挙句、協調性というものに欠けているから、きっと個室に泊まっているに違いない。そうアタリをつけたオレは、個室が並ぶ廊下をしらみ潰しに探すことにした。
 数ある病室の中から、親父の入った部屋を見つけ出すのは困難を極めるだろうと考えていたのだが、その予測に反して、幸いにも目的の部屋は簡単に見つかった。案の定、親父の病室は小さいが個室だった。ドアプレートに「相沢芳樹」と漢字で記されている。そんなに氾濫しているような名前じゃない。しかもここはイギリスだ。恐らく間違いない。
 ――しかし、なんて言えばいいんだろう。オレは改めて苦悩した。
 一体、どんな顔をすればいいんだろうか。果たして親父はどんな反応を示すだろうか。様々な不安と想いが脳裏を過ぎり、急に動悸が激しくなっていく。
 目的の部屋はとっくに見つかっているというのに、オレはそのドアを前にして、ただ佇んでいるしかなかった。ノブに手をやるまでに、恐ろしいくらいの勇気と度胸を要求される。
 30年以上、まさに命懸けで追ってきた男の――その全てを奪ってしまったオレ。そのオレを、夢破れた男はどんな顔で、どんな姿で、どう迎え入れるのだろう。想像もつかない。
 だが、ドアの前で立ち竦んでいたところで何が変わることもないのも確かだ。オレは深呼吸し腹を括ると、意を決してドアに手を伸ばした。指先が、銀色に鈍く光る冷たいノブに触れる。その、瞬間だった。壁1枚隔てた向こう側から、話し声が聞こえてきた。母さんと、親父の声だ。

「悪……配掛けて」
「心……いで。貴方と祐……事に帰ってく、だけで充分よ」
 どうやら、母さんはまだ親父の病室にいて、2人は何かを話しているらしい。ドア越しで、しかも夜分と言うことで彼らも声を潜めているから、断片的にしか聞こえてこない。オレは音声をもっとクリアに拾おうと、耳を張りつけるようにドアに近付いた。
「何があったのか、聞かないのか?」
「聞くべきことがあれば、貴方は自分から話してくれるはずでしょう」
「……ああ。その通りだな」
 親父は暫く間を取ると、再び喋り出した。今度は、完全にその声を聞き取れる。
「すまん、この手だ。もう、オレはチェロを持てない」
「――そうね」
 2人は感情の起伏を感じさせない淡々とした口調で、言葉を交し合う。
「こうなることが分かっていて、オレは腕を切った。つまり、お前との約束を反故にすることになると知りながら、裏切りに走ったことになる」
「……そう」
「すまん。お前に約束したのに、守れなくなっちまった」親父の声のトーンが落ちる。
「大事な、約束だったのに」
 ――約束? 親父と母さんとの間に、そんなに大切な約束があったと言うのだろうか。
 2人の会話の内容から察するに、それは親父のチェロに関するものだったと考えることもできる。オレは暫く自分の記憶を探ってみた。2人の間で交わされた約束。もしかすると、オレもどこかで耳にしたことがあるかもしれない。
 いや。実際、オレは耳にしていた。それに該当するような情報を記憶の中から見つけ出すのは、オレにとって容易な作業だった。そう。それは、親父と母さんの馴れ初めの話だ。
 詳しくは聞いていないが、親父は母さんにプロポーズする時、「いつか世界の誰も知らない音の世界を、自分のチェロで生み出す。そして、それを一番最初に母さんに捧げる」と、そう誓約したという。そして、母さんはそれを受けた。2人は出会ったその日――ギターとチェロで旋律を互いに交換し合い、そして結ばれたという。

「オレはガキの頃から、ずっとチェロを弾いてきた。誰も知らない音を作り出すことだけを目標に生きてきた。それは今も変わらない」
 親父はポツポツと呟くように語る。
「だが、オレはもうチェロを弾けなくなっちまった」
「ええ。貴方がどれだけ自分の夢にかけていたか、私は知っているわ」
「オレは、かつて誰も辿り着けなかった領域に上り詰めることができるって信じてた。オレならできる。オレにしかできない。オレにはその実力があるし、それだけの強い意思があるって。それにかける想いの強さだけなら、誰にも負けねェって。そう、確信していた」
 ――それは、確かに誰もが認める事実だった。親父は取り憑かれた様にチェロに没頭し、そしてその名声は国内でも高まっていった。子供の頃から、天才チェリストとして将来を嘱望されていたと聞く。人格面ではともかく、ことチェロを弾くことにかけては技術もハートも、親父に敵うやつなんていやしなかった。
「だけど、もうダメだ。腕が無いんじゃ、もう無理だ。チェロで望んでいた音を出すことはできない」
「そうね」
 再び沈黙。喉を掻き毟りたくなるような、沈黙。
 忌まわしい自分の鼓動が、やけに大きく聞こえる。息苦しい。上手く呼吸ができない。オレにとって、今の彼等の沈黙は、耐え難い痛みを伴う拷問にも等しかった。
「――すまない、夏夜子」
 感情の篭らないその声と共に、衣擦れの音がした。親父がシーツを握り締めたのか、それとも母さんに対して頭を垂れたのか、オレには判別がつかない。
「オレは……チェリスト相沢芳樹は、終わった」
 その言葉の衝撃は、物理的な破壊力すら伴っているように錯覚された。頭部を鈍器で打たれたような、痛烈な一撃。思わず意識を手放してしまいそうな程のショックに、オレの視界は暗転する。
 これが、絶望なのだろうか。これが、絶望というものなのか。

「私は学が無いから、難しいことは何も分からない。何も知らない」
 唐突に母さんの囁くような声が、聞こえてきた。
 それを切っ掛けに、ハッと我に返る。世界が色を取り戻した。
「でも、私は1つだけ、自分にとって1番大切な真実の法則を知っている。ねえ、忘れないで……」
 そして彼女は、まるで自然の摂理を語るような口調で言った。
「愛してるわ」
 親父が、声にならない声で驚愕しているのが分かった。
 相沢夏夜子は確かに賢者ではない。大学には進学しなかったと言うし、自身が言うように学も無いのだろう。だけど、彼女の素朴な何気ない一言は、だからこそ賢者の一言よりも重みを持つことがある。
 相手への影響力だとか、その言葉の効力だとか、心理的な意味合いだとか、そんなことは一切お構いなしに掛けられる、計算の無い心からの一言。母さんの言葉は、心にとても正直だ。
「終わっただなんて言葉、あなたらしくないわ。あなたに相応しくない。夫須美ふすみ夏夜子は、誰よりも強くて真っ直ぐなあなたに惹かれて、相沢夏夜子になったわ。私をがっかりさせないで。――あなたは、まだ何も終わってなどいない」
 母さんの声は、とても優しかった。オレの脳裏に、生まれて初めて、慈愛という言葉を浮かべさせる力を有していた。そして相沢夏夜子は続ける。
「確かにチェロは、あなたの自慢の決め球だったかもしれれない。あなたは不運にも、今回の件でそれを失ってしまった。でも、それだけのこと。カーブが駄目ならシュートを、フォークを、スライダーを。投げられる球種は他に幾らでもある筈よ。何も終わってなどいない。何よりあなたは、誰にも負けない強力な決め球を、その精神に宿している。それは、とても真っ直ぐで、純粋で、力強い。あなたにとって、最高の武器だわ」
 親父は静かにその言葉に耳を傾けているようだった。きっとそんな親父に、母さんはとても柔らかな微笑で語りかけているのだろう。
「Bite on the bullet。今、あなたが創っている新曲のタイトル。それが全てじゃないかしら。立ち向かうこと。困難に負けず挑み続けること。ここの困難を克服したあなただからこそ、この歌に心が篭るんじゃないかしら。そしてそんなあなたが歌うからこそ、この歌には意味が出てくるんじゃないかしら」
「バイト・オン・ザ・ブレット、か」
「そうよ、Bite on the bullet。私のパートの歌詞を忘れた?『可能性という名の自由は、きっと武器になる』――あなたにはまだ、その可能性がある筈よ。大丈夫、まだ頑張れる。私はあなたをずっと見てきたわ。だから、知っているの。負けたと諦めるまで、あなたに敗北はあり得ない。何故なら、あなたは相沢芳樹。私が伴侶に選んだ、地上ただ1人の人間です」
「……ああ」
 暫くの沈黙の後、親父は言った。その口調に、もはや憂いはない。憎たらしいほど自信たっぷりの、いつもの親父の声だった。
「そうだ。その通りさ、夏夜子」
 相貌を黙視できずとも、それは容易に予想できた。今、相沢芳樹は笑っているはずだ。自分の死を目前にしてさえ消えることがなかった、不敵な微笑だ。
「チェリストとしての可能性は途絶えた。だが、オレが途絶えたわけじゃない。この世には命懸けで追う価値があるものなんざ、何処にだって転がってる。チェロの音だけが、サウンドじゃないさ。チェロでなきゃ、オレを表現できないわけでもない」
「ええ、その通りよ」力強く、母さんは言った。
「腕が1本しかなくても奏でられる楽器はある。いや、1本もなくたって、ステップ1つでもサウンドは生み出せるからな。首が吹っ飛んだって、腕も足もブッ千切れたって、心臓が鳴ってればそれがビートだ。考えてみれば、なんでもありだな」
「そうよ。それに、あなたにはまだ声がある。自分の肉体から生み出せるサウンド、歌だってあるのよ。――私は常々思っていたわ。チェリストとしてだけでなく、あなたはヴォーカリストとしてもこの世で最高のヒトなんだって」
「だからまだ……」
 2人の声が、重なる。
「オレは、なにも終わってなどいない」
「貴方は、なにも終わってなどいない」

 まざまざと、思い知る。見せ付けられる。
 これが。
 これが、強さというものかと。
 あまりに遠い。あまりに高い。眼前に聳え立つ、頂を覗うことすら適わない余りの高み。その頂点にある強者達を前にして、高峰に怖気付き、歩み登ろうとさえしない男に一体何ができようか。
 視界が涙で滲む。オレはただ、嗚咽を必死に堪えながら、その場に崩れ落ちることしかできなかった。




to be continued...
←B A C K |  N E X T→



INDEX → 目次に戻ります
HOME → 著者のウェブサイト


I N D E X H O M E

inserted by FC2 system