来いよ、マフィアのボッチャン。マジでいこうぜ
Come on,wise guy. Get serious or get lost!


NO,FATE!
運命じゃないぜ

Hiroki Maki
広木真紀


この物語は、圧殺の章を読んでいないと完膚なきまでに意味不明です。

−神鳴の章−




GMT San,23 July 2000 04:56 A.M.
15 Oak Hill Way NW7 Hamsted

現地時刻 7月23日 深夜04時56分
ハムステッド 佐祐理の別荘
香里サイド


 それは、壊れたマリオネットのダンスに見えた。
 乾いた銃声と共に、ビクリ、ビクリと跳ね上がる小さな身体。その度に深紅の鮮血が舞い、細かな肉片と共に私たち姉妹の頭上に降り注ぐ。それが目の前の――天野美汐という少女から生み出されているものだとは、到底信じることなどできなかった。

「こふっ……」
 喉の奥から微かに漏れる苦痛の呻き。ポタポタと紅い雫が、埃と木片に塗れた床に落下する。彼女は吊り上げる糸が切れたように、膝からカクリと崩れ落ちた。本当に、壊れた操り人形を見ているようだった。
 ペタリと床に座り込むように腰が落ち、最後にフラフラと上半身が後ろ向きに倒れてくる。ただ震える栞を抱き締めて庇うことしかできない、私のすぐ目の前に。

「ハ……ぅ、」
 口の端から、真っ赤な血の泡が吹き出してくる。とても――それはとても、現実の光景とは思えなかった。きっと、私は夢を見ているに違いない。恐らく、私の肉体はギグが終わった後、その疲れた身体を客室のベッドに横たえているんだわ。コンサートで程好く疲労したから、眠りがいつもより深くて、それで……だから、こんな妙にリアリティな夢を見ている。きっとそう。

 大体、馬鹿げてる。ナンセンスよ。こんな、いきなりワケの分からない連中が別荘を襲ってきて、それで命を狙われて、天野さんが……天野さんが、死ぬだなんて。あり得るわけないもの。ハリウッドのご都合主義の映画だって、もっとマシなシナリオ作るわよ。
 だけど――


「あぁあぁぁぁああああああああっ!!」


 だけど、どうして、獣の咆哮を思わせるこの相沢君の悲鳴は、こんなにも心に痛いんだろう。これが夢なら、どうして血の匂いが止まないんだろう。どうして、こんな破滅的な夢を見ているんだろう。
 もう、何も考えられない。騎兵隊のように銀色の甲冑に身を包んだ男たちが、その狂気の銃口を私たちに向けてきても。感情を爆発させ、怒りに我を失った相沢君が、悲痛な叫び声を上げながらそれに向かって行くのを見ても、私はもう、何も感じることが出来なかった。
「……ァッ!」
 咆哮と共に、一陣の旋風が走る。それは人型をしていた。
 それは正常な思考を一時的に停止させている私にですら、無謀と理解できた。重火器の装備で固めた先頭集団に、まったくの丸腰の青年が正面から突撃していく。現実的に考えて、それは自殺行為にも等しい。
 実際、銀色と狂気の殺戮者たちは、その自殺志願者に向けて即座に銃口を向けた。だが、その顔には動揺と微かな恐怖がちらついている。相手は素手だ。それも、感情を暴走させ心神喪失状態に陥った素人の青二才。だけど、今の相沢祐一には得体の知れない何かが宿っていた。恐らく兵士としての直感が、それを感じ取っているのだろう。
 今の彼は、相沢祐一ではない。それは、ぼんやりとそれを見送る私にでさえ分かっていた。

 マズルフラッシュ。
 銀の巨兵たちが構える軍用突撃機関銃が、一斉に火を吹いた。あたりに爆音が連続して響き渡る。勿論、その標的として定められていたのは他ならぬ相沢祐一だった。音速を超えて発射される、絶大な殺傷能力を秘めた弾丸が数百という単位で彼に襲いかかる。
 私は新たにもう1つの死が生産される瞬間を、ただ呆然と見送るしかなかった。それが、美坂香里の精神に致命的かつ絶望的な痛みを与えるものだと知りながら、私はいつもの様にそれをただ見ていることしかできなかった。相沢祐一が死ぬ、その瞬間を――。
 だが、予測され得た悲劇は到来しなかった。相沢祐一は無数の弾丸に肉体を穿たれ、蜂の巣と表現される状況下に陥る筈だった。それは、絶対的な未来だった。しかし、その未来は覆されたのである。
 1番驚いているのは傍観者である我々ではなく、必殺の銃弾を放った彼ら銀の兵士たちだろう。
 アサルト・ライフルやサブマシンガンから発射された銃弾の雨は、少年に届く刹那、忽然と消え去った。いや、正確には消失したわけではない。弾丸が消え去る寸前、周囲に黒い霧のようなものが一時的に発生したのが見えた。その我が目を疑わないのであれば、恐らく鉛の弾丸は一瞬にして粉砕され、鉛粉となって四散したのだろう。
 しかし、あれではまるで、……まるで相沢祐一の存在に怯えた銃弾が、彼に挑むより寧ろ自害を選んだようだ――。

「能力名……」
 血の海に沈み、生死の狭間をさ迷う少女が掠れた声で呟いたような気がした。相沢祐一に絶えず着いて来た、あの存在の名を。数多の少女たちに訪れた、その名。
「奇、跡」
 そして、遂に相沢祐一の初撃が彼らに届いた。高速で繰り出される拳が、銀の男の1人に埋め込まれる。
「グフッ!!」
 音速で発射される拳銃の弾丸さえ軽く跳ね返す銀の装甲。だが、彼の拳はそれを易々と歪曲させ、100kgを優に超えるであろうその巨体を粘土細工のように跳ね飛ばす。それが人間のものとはとても思えない――弾丸のような速度で男の体は宙を滑り、男は壁をブチ抜いて屋外へ消えていった。
 慌てた男たちが、常軌を逸した少年に向けて再び発砲する。だが、相沢祐一が獣のような唸り声と共に腕を一閃させた瞬間、それらの弾丸は突風に煽られた木の葉のように力を失い、見えない何かに翻弄された。軌道は大きく歪められ、尽く相沢祐一から反れていく。
 逆に、一瞬で間合いを詰められた銀の機械人形の顔に、彼の右手が牙を剥いた。まさに『喰らい付く』という表現がピッタリの凶暴性だ。野生の人食い虎が、獲物の頭部を食い千切るような勢いで襲いかかる。ミシミシと骨が軋みを上げる音が、距離のある私の耳にまで届いてきた。
 顔面を鷲掴みにされ、そのまま宙吊りにされた男は懸命にもがいて戒めを解こうとするが、人の領域を逸脱したその圧倒的な力の拘束は破れない。

 仲間を援護しようと残った3人の機械人形たちが少年に発砲するが、その弾丸は彼の一睨みによって宙で動きを止めた。カッと目を細めた瞬間、何十発という弾丸は、目に見えない壁にぶつかったように運動エネルギーを失う。そして数秒のタイムラグを置いて、力尽きたようにパラパラと地面に落下した。無論、相沢祐一に届いた弾丸は1発もない。
 彼はそのまま怒りに任せて吊り上げていた男の身体を投げ捨てた。無造作に腕を払ったに過ぎないが、銀色の巨体は凄まじい速度で吹っ飛んでいく。それは仲間の1人を巻き込み、壁に激突することで漸く止まった。意識を失ったか、或いは絶命したのか、崩れ落ちた男たちはもうピクリとも動かなかった。

「祐一!」
 異変を嗅ぎ付けたのであろう、似たような能力を持つ川澄先輩が駆け付けて来た。彼女は、先行する班に、名雪や倉田先輩と共に所属していた筈。わざわざ危険を承知で戻ってきたのだろうか。普段は表情を欠くその相貌も、今は困惑と驚愕に色濃く彩られている。幼馴染を呼ぶその声音も、かつて聞いたことがない程の声量だった。
 だが、我を忘れた相沢祐一に、彼女の声は届かなかった。彼は一瞬も動きを止めず、残った2人の敵に襲いかかっていく。

 もし彼が我を取り戻し、普段の平静な状態に戻ることがあったとして――
 果たして彼は、今この時の記憶を留めていることだろうか? 自分の行っていることを、覚えているだろうか。答えは否だろう。
 今の相沢祐一は、相沢祐一であって相沢祐一ではない。少なくとも、私は今の彼を知らない。名雪も、秋子さんも、そして恐らくは当の本人さえも、きっと知らない相沢祐一の姿なのだろう。一体、今の相沢祐一は何者なのか。

「祐一、もういい。もういい! もう、終わった」
 気付くと、動いている敵の姿はもう無かった。全部で4体。粉砕された装甲の破片を散乱させ、彼等は全員が血の海に沈んでいる。そして、天から最後の1体が降ってきた。それは轟音と共に地面に激突して沈黙する。
 頭上を見上げれば天井の一部が崩れ落ち、白々と明け始めたハムステッドの空が覗いていた。恐らく、少年に頭上高く放り投げられ、天井を破って舞い上がり、そして落下してきたのだろう。

「ウオォォオォォォオオオォッ!!」
 もう倒すべき敵はいない。それでも相沢君は泣きながら叫んでいた。焦点を失ったその目は、悲しく宙をさ迷っている。
「祐一。もう大丈夫だから。もう、終わったから……」
 暴れる彼の身体を川澄先輩は後ろから抱き締めて、必死に抑えつけようとしていた。

「……ゥッ……ウァ……」
 川澄先輩の必死の呼びかけが届いたのだろうか、風船から空気が抜けて萎びていくように、相沢祐一の身体が徐々にその力を失っていく。そのままガックリと彼は地に崩れ落ちた。興奮状態や心神喪失状態にあった者が、鎮静剤を投与されると似たような反応を示す。まるで取りついていた悪魔が払われたように、彼らは突然大人しくなり眠りに就くのだ。

「祐一、大丈夫」
 力尽きたような少年の身体を抱き支えながら、川澄先輩は彼に呼び掛ける。
「……ぅ、あ……」
 それに反応して微かな呻き声を上げると、彼は次の瞬間、いきなり覚醒した。バッと顔を上げると、忙しなく周囲に視線を走らせ、彼女の姿を探す。
「舞、オレは……! 天野はどうなった!? 天野!」
 彼は自分の身体を拘束する川澄先輩を振り払い、必死の形相でこちらに駆け寄ってきた。倒れた天野美汐の身体は、私たち姉妹の目の前に倒れている。血溜まりの中に。

「どけ! どいてくれ! 天野に触るな!!」
 相沢君より早く駆け付け、天野さんの様子を見ようとしていた護衛たちを彼は怒鳴り声と共に払った。
 戦場で多くの戦友を看取ってきたのだろう。彼等の目に、天野美汐が受けた十発を超える弾丸のいずれもが致命傷となるに充分であることは歴然としていたに違いない。もはや手当てをしたところで手遅れと判断した彼等は、少年に大人しく彼女を譲った。

「天野! 天野、しっかりしてくれ」
 相沢君は、彼女の傍らに駆け寄ると優しく彼女を抱き起こした。
「……ぁ……相、沢さん」
 奇跡的に、彼女はまだ生きていた。普通、心臓を打たれれば即死か持ち堪えても直ぐに力尽きる。十発以上の弾丸をまともに食らいながら、それでなお未だに意識を保っていられるのは、だから奇跡としか言い様がなかった。

「よし、生きてるな。心配するな。直ぐに病院に連れていってやるから!」
「必要、ありません。自分の……身体のこと、くらい……自分で、分かります」
 喉の奥から漸く搾り出すようにして、彼女は言葉を紡ぐ。肺をやられているのだろう、時々声が正確な音にならずにヒューヒューと抜けていく。
「馬鹿言うな! お前は助かる!! 絶対だ」
「相沢さん、……泣いて、る、んですか」
 止めど無く溢れ出すその涙は、ポタポタと彼女の頬に零れ落ち、こびり付いた鮮血を洗い流していく。
「私の、ためにナミ、ダを……流してくれ、ているの……です、ね」
「幾らでも泣く。幾らでも流す。だから死ぬな。頼む。お願いだ。死なないでくれ!」
 相沢君は彼女を抱きながら、懇願する。

「厭んだよ。もう、自分の好きな奴がいなくなっていくの。真琴1人だって、耐え切れないのに。お前なら分かるだろ。厭なんだ。耐えられないんだよ、もう、お前までいなくなったら。ずっと大切にするって誓ってたのに……」
「わた、しは……相沢さんの、大切なヒト、なのです……か」
「当たり前だ。当たり前だろが! だからいなくならないでくれ。オレのこと、全部やるから。オレの持ってる物全部やるから。だから」
 遂に、彼から嗚咽が漏れ出した。私は、駆け寄り私たち姉妹の安否を気遣うボディガードの言葉を聞き流しながら、その光景を見詰めていた。

「オレ、お前がいなくなったら……、2度と会えなくなるなんてさ」
 相沢君は、血塗れの彼女を泣きながら抱き締めた。
「もう、ちょっと、そんなの耐えられないから」
「相沢さん……」
 抱き締められた時、一瞬だけ苦痛の表情を見せたが、彼女はそれでも微笑んだ。
「殿方にそこ、まで、慕われて、しまうとは……。女、冥利に尽きると云う、ものです。これは、責任を……取って貰わなければいけ、ませんね」
 途中、何度も咳き込みながらも、彼女は何とかそう言いのけた。
「そうだ。ちゃんと、責任取らせろ!」

「相沢さ、ん。1つ、お願いがあり、ます」
「なんだ!?」
「せめて、私の意識が、消えてしまう……前に、1度で良い、美汐、と」
 そしてまた、彼女は激しく咳き込む。口元から鮮血が零れた。
「オイ、もう喋るな」
「他の方は、みん、な名前で呼んでいるのに……私だけ、苗字とは、酷な話です」

「分かった。美汐、今度からは名前で呼ぶから。だから、死ぬな。な!?」
「相沢さん……」
 最後に、彼女はかつて見たことが無いほど、穏やかな微笑を見せた。
「ありがとう……ござい、ま……」
 そして、彼女はその動きを止めた。唐突に訪れる、完全な沈黙。
 コトリ……
 抱き上げた相沢君の腕の中、彼女の身体から力が消失する。その白くて細い腕がダラリと垂れ下がった。

「おい、天野?」
 蒼白になった相沢君は、慌てて彼女の身体を揺する。だがそれは、もう2度と動くことは無かった。
「冗談だろ? おい、天野」
 何度も、何度もその身体を揺する。でも、現実は変わらない。
「分かった、美汐って名前で呼ばないと返事しないつもりだな? オイ、美汐。ふざけてないで起きろ」
 だが、彼女から返事が返ることは無かった。その灯火は、もう消えてしまったから。

「天野ォ―――ッ!!」

 うそ、よね……?
 だって、そんな、あり得ない。夢ならば、もうこれ以上の演出なんて必要無い。だからもう、目覚めさせて欲しい。そしてやっぱり夢だったと、思い知らせてほしい。
 でも、現実と云うのはいつも残酷で。こんな時のあたしの願いは、いつも叶えられることはなくて。私はやっぱり、奇跡を起こす力など持っていない。奇跡は、起こらないから奇跡。

 この世には、私たちを陥れようと虎視眈々と機会を窺っている明確な悪意があって。それらは予告も無しに、人が良さそうな顔をしてやってくる。いつだって、非日常は何の理由付けすら必要なく、私たちの前に顕在化するのだ。栞がいわれの無い病で命を狙われたように。天野美汐が心臓を撃ち抜かれたように。人が絶望の淵に追い込まれるのに、理由など必要無い。
 だけど、神よ。あなたがもし実在するならば、あまりに、これはあまりに――






「ああ、忘れるところでした」
 ムクリ。突如、天野さんは身体を起こした。





死んでないし!?





「相沢さん、今のは正式な求婚ですよね? でしたら、こちらの書類に――」
 なんだか矢鱈と元気な手振りで懐を漁り、1枚の書類を取り出す。
「必要事項を記入の上、署名捺印をお願いします」
 バサリと広げられたその紙には、『婚姻届』の3文字が。しかも、天野さんの欄は記入済み。
「あま、の……?」
「あら、穴が開いてますね」
 まさに、起き上がった死体でも見たかのように呆ける相沢君を尻目に、天野さんは勝手に話を進める。
「どうやら、銃弾を受けて破れてしまったようです」

「天野さん、ちょっと失礼」
 私は栞をボディガードに預けると、彼女の傍らに屈みその服の胸元を開いた。弾丸で穴だらけになった上着の下。この人、もしかして――
「防弾、チョッキ……だな」
 後ろから見ていたボディガードの1人が、呆然と呟く。

「な、なぬ〜〜〜ッ!?」
 相沢君が素っ頓狂な叫びを上げる。まあ、それも無理はないけど。
「おい、天野。これは一体どういうことだ!?」
「どういうことだと言われましても、こういう、ことですが」
 命に別状はないらしいが、それでも喋り難そうにしている。天野さんがダメージを負って立てないのは、どうやら演技ではないようだ。

「でもお前、いつの間に防弾チョッキなんざ――」
「相沢さんに様子を見てくるよう指示した時、着替えると言ったでしょう」
 状況が掴めず混乱する相沢君をよそに、彼女は事も無げに応える。
「……あっ!?」

「わ、わかった。でも、天野は?」
「私はこれでも女性なんですよ。着替えや準備というものがあります」
「着替えって、お前」

 どうやら思い当たる節があったらしい。相沢君はハッと目を見開いて小さな叫びを上げる。
「じゃ、あの時、この事態を予測して防弾チョッキなんか着てたのか!?」
「備えあれば憂いなし、というやつです」
 サラリと天野さんは言う。まったく、この人には本当に適わないわ。役者が違うって感じ。
「ちょっと待て。そもそも、なんでお前が防弾着なんか持ってるんだよ?」
 それもあるけれど、寧ろ何故に『婚姻届』を常時携帯しているのかを私は問いたい。

「何を言ってるんです。相沢さんがくれたんでしょう」
「はぁ? オレがやった……?」
 相沢君は小首を捻って不思議がるが、私はその瞬間、思い出した。
「そうか、あの時ね。あの、ダイヤモンド泥棒の時、相沢君が秋子さんに渡されたとか言って持ってきた」

「そうだ、これを渡しとかないと。……香里、天野、これを服の下に着てくれ」
「これを着るの?」
「ああ。それは、何故か秋子さんが持ってた。身の安全を守ってくれる一種の保険だそうだ」
「秋子さんが……?」
「――相沢さん。その秋子さんという方、失礼ですがご職業は何を?」
「さあ。オレも良くは知らないんだ。名雪も知らないらしいしな。謎だ」

「そうです。あの黒いシャツ。繊維の質を見た瞬間、それが防弾用の装備だと私は気付きました。だから秋子さんの職業が気になったわけなんですけどね」
「でも、お前……血が出てるじゃないか。怪我もしてるし、口からも血吐いてたし」
「当たり前です。彼等が撃って来たのが、拳銃の弾丸を発射するサブマシンガンじゃなければ死んでましたよ。このチョッキは、9mm弾を止めるのが精々のようですしね。それに、たとえ防げたにしても着弾時の衝撃は殺しきれません。肋骨を何本かやられたようです。それは、吐血もするというものですよ」
 確かにね。十何発も弾丸を正面から食らえば、内臓が圧迫されてカナリのダメージを負う筈。と言うより、幾ら防弾装備で固めていたとは言え10発以上の弾丸を受けて、それだけで済むものだろうか? 科学的に思考して疑問に思うが、しかし科学的に思考するなら観測によって得られた現象の証明を受け入れなくてはならない。

「骨が折れちまったのか!? 大丈夫なのか、美汐。苦しいか?」
 本当に怪我をしていると分かった瞬間、相沢君はまた慌て出した。慈しむように彼女の背をさする。
 それが単に友人のものとしてか、異性として、女性としてのものなのかは知らないが、相沢君は本当に天野さんを大切に想っているのが良く分かる。それこそ、宝物みたいに。

「命に、別状はないでしょう……。ただ、袖の部分に防弾効果は無かったので、2発程いただいてしまい、ました。おかげで右は肩から指先にかけての感覚があり、ません」
 天野さんは苦しそうに言った。肋骨をやられた多くの場合、呼吸が難しくなる。息を吸い吐きするだけで激痛が走るのだ。彼女も似たような苦痛に苛まされているのだろう。いや、殺傷能力が低いオーソドックスな拳銃弾とはいえ、それを10発以上その身に受けたのだ。ああして意識を保ち、言葉を紡ぐことができるだけで、彼女が超人的な精神力を持つ女性であることが証明される。

「天野……」
 相沢君はまた泣きそうな顔で、彼女の頬を撫でた。命に別状がないのが分かって安心した反面、彼女が重傷を負ったことが心配でたまらないのだろう。相沢君は、本当に天野さんを想っているようだ。
「天野、すぐに病院に連れていってやるからな。苦しいだろうけど、もう少し頑張ってくれな」
「問題ありません。弾は全部貫通していますから」
 アクション映画で人間が撃たれるシーンを良く見かけるけど、実際に銃撃を受けた場合、飛び散るのは血だけじゃない。弾丸に抉られた細かい肉の塊が弾け飛ぶことだってある。ピストルの弾の多くは、人体を撃ち抜くことではなく破壊することに重点を置くからだ。

「それに、先ほども言いました通り、病院に行く必要はありません。私の身体は……特別なんです。自分のことは、自分で1番、良く分かって、います……。そもそも、葛葉が『今、忙しい』などと言って面倒がらずに出てくれ、ば、あんな弾丸など……」
「馬鹿言うな! ピストルで撃たれて平気な奴がいるかよ!」
 相沢君は身動きできない天野さんをまた抱き締めた。
「頼むよ。お願いだから、もうこれ以上心配させないでくれ。好きな奴が目の前で怪我して倒れてるってのに、何もしないでいられるわけないだろ。お前が大事なんだ。銀行の預金残高よりお前が大事なんだよ。なくしたくない」

「幾らなんですか、……残高」
「264円だ。カードじゃおろせねーんだ」
 相沢君は泣いた。ある日は名雪にイチゴサンデーをたかられ、またある日は栞にアイスをたかられ、またある日は月宮さんにタイヤキをたかられ、またある日は川澄先輩に牛丼をたかられ。挙句、預金残高は小学生の小遣い以下ともなれば泣きたくもなるだろう。
「でも心配するな。郵便局の口座には幾らか残ってた筈だ。挙式の頭金くらいにはなる」
 相沢君は恋人がするように、天野さんの髪を何度も優しく撫でた。

「幾ら残ってるんですか、郵便局の方は」
「600円くらいだ。結局、カードじゃおろせねーんだ」
 因みに、それでは結婚費用の頭金にもならない。ミニ四駆(玩具のミニカー)だって買えないだろう。
「なんだか、私も泣きたくなってきました――」
 天野さんは微笑んだ。きっと私が彼女と同じ立場にあっても、同じように笑ったと思う。相沢祐一は相変わらずだけれど、彼が腕の中の人を本当に大切に想っているのが誰にでも分かるから。恐らく今の天野さんは、言葉にできないほどの幸福を感じているだろう。彼女だって、女の子だから。だから今、天野美汐と云う少女は、泣いてしまうほど嬉しいに違いない。

「それにしても、オレのミッシーをこんなにしやがって。奴等、絶対許せねえ」
 相沢君は天野さんの唇の血を、人差し指で拭いながら言った。吐き捨てるような厳しい口調だ。
「……あれ、そう言えば奴等はどうした。サイバードールは?」
 今更のように相沢君は周囲に視線を走らせる。そして、完全に伸されて地に横たわっている彼等を見て目を丸く見開いた。どうやら、先の暴走時の記憶は完全にフッ飛んでいるらしい。
「全滅か? 舞がやっつけたのか?」

 川澄先輩は、敢えて否定も肯定もしなかった。問いかける相沢君を見詰めたまま、複雑な表情を見せている。不意に視線を感じてその方向を見てみると、天野さんが人差し指を唇に当てて合図を送っていた。暴走のことは、相沢君には内緒にしておけということだろう。意図は分からないが、聡明な天野さんの判断だ。私は従うことに異論は無い。川澄先輩も、私と同じ結論に至ったらしい。
「さすが舞だな。魔剣の効果か」
 沈黙を肯定と受け取ったか、相沢君は勝手に自分なりの事実で事象を説明してしまったようだ。

「取り込み中のところ悪いが、問題無ければ予定通りここを離れましょう。まさかとは思うけど、他にも刺客がいる可能性もある。先行した班も、殆どがもう地下通路に入ったそうだし。こういう時だからこそ、当初の予定は崩さない方が良いわ」
 2階から降りて来た女性の護衛が言った。その背後で、もう1人の屈強な男が射殺された仲間の遺体を肩に担ぎ上げている。彼等は同僚を失った痛みを、少なくとも表には出していなかった。
「それに、申し訳ないが今彼女を999に任せるわけにはいかない」
 この国におけるスリーナインは、すなわちレスキューを意味する。消防、救急などを一括したナンバーだ。

「何故だ! 早く病院に連れていかないと、天野の命に関わる」
 納得のいかない相沢君は、天野さんを抱き上げた恰好のままボディガードたちに食らいついた。
「冷静になれ、少年。相手はプロだ。任務が失敗したとなれば、諦めるか第2の手段に訴えるかに素早く戦術を変えてくる。もし第2の手段を選択するとなれば、真っ先にマークされるのが病院だ。救急に任せて病院に運び込めば、狙ってくださいと獲物を提供することになる」

 ――なるほど。彼等はこういう時、そういう思考をするわけだ。
 確かに、怪我人が出れば病院に担ぎ込むのが普通の対応だ。それを見越して、病院をマークするのは確かに妥当な処置と言えるだろう。護衛たちの指摘は論理的で説得力がある。
「でもだな」だが、相沢祐一は理屈が通用する相手ではなかった。
 ロジカルでないというのは時として彼の大きな魅力となるが、この場合は致命的な短所として作用する。
 頭に血が上りやすい彼は、こういう時他人を巻き込んで事態を深刻化させる危険因子を孕んだ男だ。リーダーとしては些か資質に欠けると言わざるを得ない。だからこそ、私や天野さんのようなブレインが必要となるわけだけれど……

「ボディガードの方々の言う通りです」
 相沢君を諭すような口調で諌めたのは、他ならぬ天野さん本人だった。彼女は必死に自力でバランスを保とうとしながら、笑みを浮かべて見せる。
「何度も言いますが、私は大丈夫です。傷の治りが早い体質をしていますから。幸い、弾は貫通しています。安静にしていれば、自然治癒しますから」
「馬鹿言うな!」相沢君は取り合わない。「銃創を放置しておいたら悪化するだけだぞ」
 この場合、相沢君の方が常識的には正しい。ただし、天野さんが何の論理的・科学的根拠もないことを断言口調で言い切るとは思えないのも確かだ。彼女には常識では測れない何かがあるのかもしれない。

「祐一、彼女の言う通りにした方がいい」
 相沢君の背後から天野さんの顔を覗き込みつつ、川澄先輩が言った。良く分からないが、先輩と天野さんとの間には奇妙な信頼関係のようなものがあるみたいだ。
「お願いします、相沢さん。今は、私の言うことを信じてください」
 そう言えば、天野さんの口調が徐々に滑らかになってきているような気がするのは気のせいだろうか。先程までは呼吸をするにも難儀そうにしていたのに、今はその様子もない。顔からも苦しげな色が消えている。

「……分かった。ただし、少しでも悪化するような様子があれば、即座に病院に連れていくからな」
 渋々と言った様子で、相沢君は納得する。それだけ天野さんの容態が心配なのだろう。防弾装備を身に付けていたとは言え、3発も肩を撃ち抜かれているし出血も――
 そこまで考えて、私は驚愕した。相沢君に俗に言うお姫様だっこで抱きかかえられる彼女の肩。その出血が止まっているのだ。私は我が目を疑った。あれだけ流れていた血がもう引いてる。あれは、医学的に正しい止血処置をしなければ止まらない種の傷なのに。どうして?

 いや、この場合は快方に向かっているわけだからして、あたしは喜ぶべきなのかもしれない。だけど、それにしたって医学的見地からあり得ない事実だ。
 科学的に説明できない事実がそこにあるなら、考えられ得るパターンは3つ。観測が間違っていたか、結論に至るまでの仮説が誤っていたか、或いはそれが従来の科学法則に当て嵌まらない何かであるかだ。
 天野さんは一体、どれに当て嵌まるのだろう。……川澄先輩も、このことに気付いたからこそ、天野さんに逸早く賛同の意を示したのだろうか?
 いいえ、ちょっと待って。観測が間違っていた場合を除いては、天野さんが人間であることを否定する仮説に行きついてしまう。それこそあり得ないことだ。宇宙人じゃあるまいし。
 私は、何だか混乱してきていた。

 遠くから、レスキューのものだろうサイレンが聞こえてきた。銃声と爆音を聞きつけた付近住民が通報999したんでしょうね。イングランドのレスキューは結構レスポンスが遅いって聞くけれど、確かに襲撃を受け始めてから結構時間が経っている。
「さあ、警察がくると厄介だ。見つかる前に脱出しよう」護衛の1人が言った。
 この別荘は倉田家所有のものだからして、後で何らかの形を以って取調べを受けることになるかもしれないけれど、今は確かに勘弁してもらいところ。サイバードールとの関連を聞かれるだなんて考えただけでも頭痛がしてくる。態勢を整えて、口裏を合わせることを考えても今は退いた方が賢明かもしれない。
 全員が頷き合うと、私たちは倉田先輩たちの後を追って地下道へ向かった。





to be continued...
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脱稿:2002/05/17

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