Are you ready? Squeeze & Buster,Fox One!!


NO,FATE!
運命じゃないぜ

Hiroki Maki
広木真紀




−神鳴の章−




Piccadilly W1 "Park Lane Hotel"
London U.K.
GMT Mon,24 July 2000 9:38 A.M.

現地時刻 7月24日 月曜日 午前9時38分
ロンドン パークレーン・ホテル


 ロンドンにはもう何度も来ているが、パークレーンのような1泊260£も取られる高級ホテルで夜を明かすのは初めての経験だった。それから、幼馴染を除く女性と別々のベッドとは言え同じ部屋で朝を迎えるのも人生初体験だ。なんとなく新鮮な気分ではある。
 オレが知っているこの国の宿泊施設と言えば、やっぱりB&Bだろう。ベッド・アンド・ブレックファスト。つまり、1泊+朝食がセットになったこの国独特のシステムだ。あとは、ゲストハウスかな。とにかく、料金が安いのが魅力な宿泊施設だ。そういうところでは、宿泊料に翌朝の食事代も含まれていることが常識なんだが、高級ホテルだと違うんだな。今日、佐祐理さんに言われて初めて知った。料金の違いは、住む世界の違いと言換えて良い。なるほど、世界が違えば常識も違ってくる。「全人類に共通する常識なんて無い」ってのがオレの持論だったわけだが、すっかり失念していた。
 ――そうだよな。あらゆる常識に逆らって見せるのがオレのウリだ。オレは常識なんて言葉を易々と使って良いキャラクターじゃないんだった、親父と同じように。

 ベーコンの最後の一切れをフォークで串刺しにしながら、オレはそんなことを考えていた。
 オレが注文したのは、イングリッシュ式のモーニング・セットだ。メニューは目玉焼きにカリカリに焼かれたベーコン、ソーセージにマッシュルーム、それからハッシュドポテトにシリアル、焼きトマト、フライドオニオン・リング、そしてオレンジ・ジュースと食後のコーヒーってところだ。豪勢だろ?  しかも、トーストラックに並べられてる食パンとフルーツ、それにシリアルなんかは取りたい放題になってたりする。これらが5人掛けのラウンド・テーブルに所狭しと置かれているわけだが、これだけ並ぶと流石にテーブルが狭いよな。
 味の方はシリアル(コーンフレーク)がハズレだったが、総じて美味かった。特に良い感じに焼かれたベーコンとハッシュドポテトはオレ好みだった。いやぁ、満足。
 対して隣テーブルの名雪はコンチネンタル式のブレック・ファストを楽しんでいる。このコンチネンタル式ってのは、要するにトーストとティだけの簡単なセットのことだ。イングランドの朝食は、大抵がこのイングリッシュ・ブレックファストかコンチネンタル・ブレックファストに大分される。最近は、コンチネンタルが主流らしいが、オレは母さんや秋子さんに朝食はしっかり採るように躾られているのだ。
 ――それにしても名雪のヤツ、狐色にこんがりと焼かれたトーストに、何がそんなに楽しいのか知らないが、実に嬉しそうな顔で苺ジャムを塗りたくっている。それを口に運ぶ瞬間と、ジャムの甘味が口内に広がった時の世にも幸せそうなあの顔。喉をくすぐられた猫みたいだ。とてもあと半年で高校を卒業する17歳には見えない。
「名雪、美味いか?」訊くまでもないが、訊いてみる。
「きゅ〜ってなっちゃうほど美味しいよ」
「きゅう?」
「きゅ〜、だよ」
 名雪は目をぎゅっと閉じ、拳を握り締めてふるふると震えている。口元にはとても幸せそうな笑みが浮かんでいるから、きっと悦びを表現しているのだろう。感極まってると解釈して良いんだろうか。相変わらず意味の分からん奴だ。
 ――まぁでも、その辺が名雪の魅力なんだろうな。最近、それが分かるような気がしてきた。

「それで祐一さん、今日はどこに連れていってくれるんですか?」
 斜め向かいに座る栞が、いつもの笑顔で言った。
「ん、そうだな……」
 一昨日の夜、ハムステッドで襲撃を受けた時は怯えきっていた栞だが、昨日1日ゆっくりと休んだおかげで元気を取り戻したようだった。姉の香里が、この世に再臨したナイチンゲールのような献身を見せていたし、催眠暗示っていったか、天野が施してくれた治療の効力も大きいだろう。
 これは本人に聞いて確かめたのだが、催眠暗示ってのは精神療法の一種らしい。言語や刺激を理性に訴えることなく受け入れさせることによって、心の治療を行う方法なんだそうだ。相手を催眠状態において、「大丈夫だよ」「怖いことはないよ」という暗示をストレートに植付けてしまうわけだな。日本じゃあまり聞かないが、欧米では結構知られてるらしい。メンタル面での医療や福祉って、日本は遅れてるからなぁ。
「今日はロンドンを出て、ウェールズに行くことになってるだろ? ってことは、あまり欲張れないよな。グループ行動ってのはどうだ? ショッピングに行きたい奴と観光したい奴に分けるとか」
「それ、良いわね」
 名雪と向かい合って座る香里がにっこりと微笑んだ。栞が無事と分かって、彼女も安心したようだ。
 高校のクラスメイトの間では、どこか憂いのある大人びた雰囲気が彼女の魅力だという説もあるが、やっぱり心から笑ってくれる方がオレは良いと思う。オレはそっちの香里の方が好きだし、綺麗だ。
「じゃあ、大きく2つに分けるんですか?」
「そうだな。細分化してもいいと思いますよ」
 問いかけてくる佐祐理さんの言葉に、少し考えてからオレは答えた。そして、頭の中で素早く計算する。
「ショッピングでも、志向によって2つに別けられる。日本人のミーハー観光客が回るような、ガイドブック的コースに行きたいヤツはそっちに行けば良いし」
 たとえば、リージェント・ストリートやナイツブリッジ巡りなんかがそうだな。同時に、オレが死んでも加わりたくないグループだ。退屈だし、馬鹿っぽいし。日本人特有の有名ブランド至上主義も気に食わねぇ。
「逆に玄人志向のヤツは、ノミの市で掘り出し物を探してみるのも良い。同じショッピングでも、素人と玄人じゃ楽しみ方が違うからな」
「うぐぅ。ノミの市ってなに?」
 トーストをうぐうぐ言いながら頬張っていたあゆが、小首を傾げる。
「古物市だ。ロンドンで言えば、ストリート・マーケットだな」
 ロンドンのストリート・マーケットは、ヨーロッパ全体で見ても評判が高い。アンティークは勿論、古着や日用雑貨、様々な小物、もうなんでもある。ブランド大好きの日本人には決して理解できない、本物のショッピングが楽しめる場所だ。店主との駆け引きも面白い。
 ただ、スリも冗談では無く多いし、場所によってはガラクタとしか思えないものを売っているところもある(ブリックレーンとかは超庶民派だから、そう思われやすい)。観光客がいきなり行って楽しめるかどうかは保証の限りじゃない。あそこにあるのは一種の濃厚な文化だ。理解の浅い人間や、懐の狭い人間はその独特の空気に弾かれる。だが、その敷居さえクリアしてしまえば、あれほど中毒性の高い場所も無い。やみつきってやつだ。
 ヨーロッパの人間は、古く使いこまれた物を価値あるものとして永く愛用する。自分に合うと思ったものを、自分の目で見て、自分で選んで、自分で使って、そして自分だけのブランドにしちまうわけだ。だからロンドンでは、自分流のアレンジができるヤツをcoolと見なす。女の子だって、ストリート・マーケットで古い小物やアクセサリィを自分なりにコーディネートして、オリジナルのシックなファッションを楽しむのも割と一般的。無意味に有名ブランド物で固めるような女は、表通りでヴィーナスになれても、1つ入った路地では笑いものだ。

「今日、月曜だろ? マーケットは土日がメインってとこも多いが、コヴェント・ガーデンのアップル・マーケットに行ってみな。ストリートじゃないけど、月曜限定のアンティーク展をやってるはずだぜ。他にも色々と面白いストール(露天)が並んでるし、手作りのものがメインだから世界に1つしかない自分だけの物が買える。見てるだけで楽しいと思うぜ。日本のフリーマーケットとは雰囲気が全然違うから、それを楽しんでくるといい」
「素敵ね。私はそのコースを選ぼうかしら?」
 食後の紅茶を嗜んでいた秋子さんが、嫣然と微笑みながら言った。このパーティの偉大なところは、秋子さんのような聡明な女性が多いということだ。だから、オレは彼女たちとつるむわけだよな。
 まあ、単に『色気より食い気』が先行しているヤツが多いだけって噂もあるけど。あゆなんかは、きっとタイヤキの餡子の種類を理解はしても、グッチとシャネルの違いは理解できないだろう。
「観光のコースはどんなのがお勧め?」名雪が訊いてきた。「初めての外国観光、楽しみだよ」
「そりゃ、色々だ。観光客が良く行くコースもあるし、公園でのんびりする手もある。ブリティッシュ――大英博物館だっけか、あれもあるだろ? 博物館めぐりも面白いぜ。他にも英国風の綺麗な庭園巡りとか、ビートルズ巡り、シャーロック・ホームズ巡り、スポーツ観戦、なんでもござれだよ」
 そしてオレは、少し離れた席で黙々と朝食を平らげている舞に目をやって言った。
「あと、London Zooっていうデカイ動物園なんかもノンビリできて良いよな」

 ――ギュピーン!

 気のせいかもしれないが、舞の目が光ったような気がした。彼女は手にしたナイフとフォークの動きをピタリと止めると、獲物を発見した猛禽のような目付きでオレを見詰めてきた。
「動物園、あるの?」
「あるぜ。その名も、ロンドン動物園。正式名称は、なんつったかな。The Grands of Zoo-logical Society of Londonだったと思うけど。もう200年近い歴史がある、それは凄い動物園だ。もちろん、パンダもいる」
「ぱ、ぱんださん」
 ――あ、また光った。
 聞くところによると、舞は今の街に越してきて以来、街の外に出たことが1度も無いらしいからなあ。“魔”がいるから修学旅行もキャンセルしたっていうし。勿論、街の動物園にはパンダなんていないから、舞はまだ生まれて1度も実物を見たことがない筈だ。そりゃ、目も光ろうものである。
「パンダだけじゃないぜ。陸、海、空、世界中のあらゆる動物が集められてる。つまり、魚もいるんだな。あまりに頑張って動物を集め過ぎたせいで財政難に陥って、少し前に閉鎖されそうになったってのは有名な話さ。で、哀れな動物さんたちはゾウの花子のように処分されそうになった」
『処分』という言葉を発した瞬間、舞が神速で間合いを詰めてきて、オレの喉に魔剣を突き付けた。恐ろしい身のこなしだ。オレにはヤツの動きが見えなかった。かなり距離があった筈なのに。
「動物さん、殺したの」
 舞は、まるでこの世の根源悪を見るような目付きでオレを睨みつける。地獄の底から響いてくるような、感情を押し殺した冷たい声。
「い、いえ。動物様好きの市民たちが『処分とは何事じゃ、コラァ!』といった具合に政府を脅しまして、存続されることになりました。アニマルの皆様もご無事です」
 命の危機に晒されると、祐ちゃんは敬語口調になります。
「なら、いい」
 動物さんが無事と分かって、舞様は満足そうに自分の席に帰っていかれた。
「――でも、今でも金に余裕があるって程じゃないから、あそこも色々と考えてるみたいだぜ。カンパも募集してるし、面白いところでは『養子縁組』制度を導入してるらしい。名乗り出れば、養育費と引き換えに動物のパパやママになれるんだ。安価な昆虫から、養育費の高額なゾウまで色々だけどな」
「あははー、それなら佐祐理も聞いたことありますよ」
 佐祐理さんは、羽が生えたばかりの天使のような笑みで言った。
「パパやママになると、その動物さんの飼育場所に名前が刻まれるんですよね」
「へぇ、面白いこと考えるのね。ヨーロッパって思考が結構ラヴリィだわ」
 博識な香里も、ロンドン動物園のシステムまでは知らなかったらしい。感心したような声を上げる。
「そうなんだよな。舞も動物を養子にすれば、1年の間だけどヤツらのママになれるわけだ。パンダの親になろうものなら、パンダの柵に燦然と『舞ママ』の文字が刻み込まれることになる。更に、入場料も無料になるから年中行きたい放題だし、マニア垂涎ものの園発行アニマル・マガジンも定期的に送られてくるんだ(実話)」
「……っ!!」
 世界最強のアニマルラヴァー(動物愛護者)である彼女には、たまらないものがあったらしい。なにやらイチゴサンデーを頬張った時の名雪のように、悶え始める舞。ヤバイ。ヤツの目が光りまくってるぞ。もはや暴走寸前って感じだ。
 姉さん、やる気です。ヤツは既にやる気満々です。
「祐一、いく。即いく。お母さんになる」
 舞はまた神速で間合いを詰めてくると、胸倉を掴んで無理矢理オレを立たせた。そして例の如く魔剣で脅迫してくる。期待に頬を紅潮させている様は可愛らしくさえあるのだが、喉元に致死性の武器を突きつけられていては、素直に喜べそうも無い。
「待て、落ち着け。今、9時半だろ? まだ開園してない。10時からなんだ」
「その動物園、どこにあるの」
 魔剣の先端がチクリと喉に突き刺さる。
「り、リージェンツ・パークです。ここから北に真っ直ぐです。ホームズのベイカー街の上です」
「……分かった」
 彼女は剣を収めると、再び自分の席に帰っていった。ヤツをここまで駆り立てるとは。さすがパンダパワーは凄い。動物園コースの引率と舞のお守は佐祐理さんに押しつけることにして、オレは別の班に入ろう。
 そう固く誓った、ロンドンのある清々しい朝だった。









GMT Mon,24 July 2000 14:22 P.M.
The London Dungeon
Tooley St. SE1 London U.K.

現地時刻 7月24日 月曜日 午後2時22分
ロンドンブリッジ駅周辺


 オレたちがここ数日間経験したことと、常に誰かから命を狙われる立場にあることを考えれば、「呑気に観光なんてやってる場合か」と誰もが考えるだろう。確かにそれは尤もな見解だ。
 だけど、オレは思うわけだ。テロにしても、脅しにしても、それに屈して何かを譲ってしまったらお終いだと。不幸ってヤツは、こっちが弱気になったからといって容赦してくれるほど甘くはない。譲って退いちまったら、途端に付け込まれる。困難や不幸ってのは、一種の病だ。正面から戦ってやろうっていう強い意思が無いと勝負にすらならない。病は気からと言うように、ポジティブな心こそが大事なんだと思う。

 4年前までのオレなら、こんな考えには及ばなかっただろう。
「なんかあったら、すぐ逃げ出す。3年前も、今も。お前は重いものを背負いそうになったら、直ぐに荷を捨てて逃げ出すやつさ」
 当時のオレに、ある男が投げかけた言葉だ。オレはそれに返す言葉すら持たなかった。何も言い返せないような人間だった。――でも、今は違う。そう思いたい。
 この数年で色々なものを見てきたが、その中で気付いたことがある。本当に凄い奴、本当に強い奴は、どんな状況下にあっても絶対に退かないってことだ。守りに入ることなんか考えない。そもそも「凌ぐ」って概念がないんだな。徹底的に攻めて攻めて、攻めまくる。誰が何と言おうと、どう思おうと関係ない。
 ……Y'sromancerと呼ばれる男が、まさにそうだった。

 そいつには、物心つく前から追いかけていた夢があった。だが、その夢はある事件を切っ掛けに完全に断たれた。人間の手ではどうしても覆させない現実。それは、絶望を意味する筈だった。誰もがそう思った。
 だが、たった2ヵ月後の話だ。やつは新しい夢を見つけて、もう走り出していた。信じられない話だけど、でもこの目で見た本当の話だ。
 正直な話、オレは度肝を抜かれた。そんな人間が存在するだなんて、思いもしなかったからだ。
 でも、知ってしまったからには、そのままではいられない。オレの世界は変わった。何か困難に遭遇するとき、「あいつならどうするだろう?」と考えるようになった。そしてその度に、答えは呆気ないほど簡単に浮かんでくる。「やつなら、退かない」

 だから、オレも退くことをやめた。少なくともそう務めるようになった。
 重いものを背負いそうになったら、直ぐに荷を捨てて逃げ出すやつ。――確かに昔はそうだったかもしれないが、今のオレにはそう簡単に捨てられない荷が出来た。その荷は、既にオレという人間の一部として機能していて、捨てたり、失ったりした時、オレの一部もまた死ぬだろう。その後に残ったオレは、もう相沢祐一じゃない。オレは生涯そのことを悔やむだろうし、自分を許せなくなる。

「そんな奴に、オレが理解できるわけがない。お前には分からねェよ、祐一」
 その言葉に、もう少しで返せそうな気がする。
「分かる。今なら、分かる」
 必ずそう言い返せるようになってやる。そのための課題は多い。力を貸してくれる奴は大勢できた。彼女たちに支えてもらいながら、何とかその姿勢を貫ければいいと思う。取り敢えず今は、あらゆる脅威に対して後ろ向きにならないこと。これが肝心だ。常に人生を楽しむよう心掛けないとな。
 まあそういうわけで、狙われているからといって過剰に怯えて生活スタイルを壊すのはマイナスだと思うわけだ。今までとは違う意識を持ちながら、今までと同じ生活を維持する。海外に行けば観光だってするし、ショッピングも楽しむ。それでいいじゃないか――今のオレは、そう思ってる。

「んー、今日は本当に良いお天気だね」
 麗らかな午後、ロンドン・ブリッジ駅構内から外に出ると、夏の日差しを浴びながらあゆは伸びをした。精一杯に身体を伸ばしても、この国の女性の平均身長に及ばないのが何となく微笑ましい。
「あんまり油断しない方が良いぜ。ロンドンは1日の中に四季があるって言われてるし。天気は気まぐれだからな」
 ロンドンの夏の平均気温は、16度。日本のほぼ最北端にある稚内よりも涼しい。だからして、雨が降ってくると肌寒くすら感じることがある。オレがこの国に来るのは殆どが夏休みを利用してのことだったから、この辺のことは色々と経験しているのだ。風邪引いて寝こんだこともあるからなぁ。

「で、これからどこに行くの?」
 香里が言った。全員が似たようなもんだが、ワインレッドのシャツにブラック・ジーンズと非常にシンプルな恰好をしている。しかし、彼女たちの私服姿も見慣れてきたよな。
「本日のラストは、『ロンドン・ダンジョン』で決まりだ。すぐそこだよ」
 本当に駅から目と鼻の先にあるその場所を指差して、オレは言う。
「ガイドブックなんかでも紹介されるような、結構有名なところなんだぜ」

 ――結論から言うと、オレたちのチームは大きく3つに分かれた。アンティークのストール(露天)を身に行ったショッピング組の秋子さんと栞。動物園に行った舞、名雪、佐祐理さん。そして観光組のオレ、あゆ、香里だな。ミッシーはホテルで絶対安静を命じている。ピストルで撃たれたんだから、当然だ。
 勿論、これに合わせて護衛たちも4つに割れた。天野には女性ガードが1人付いてるし、1番危険性の高い舞たちのグループには3人配置された。秋子さんと栞に2人、そしてオレたちに1人。万全とは言い難いが、現状ではベストに近い体勢だろう。
 寧ろ現実的に危険視されるべきは、武闘派動物愛護マフィア(?)の舞、それから猫を目当てに動物園へ乗りこんでいった名雪の2人だ。あいつら、問題起こしてなけりゃ良いけど。

「ねえ、祐一君。ろんどん・だんじょんってどんなところ?」
「その名の示す通りの所だよ。ホラ、あそこ。人が並んでるだろ」
 オレはニヤリと笑って見せる。あゆは気付かなかったが、香里はオレの企みに気付いたようだ。
「人気スポットなんだ」
「え、並ぶのか? オレは待つってのはあんまり好きじゃないんだけどな」
 そう文句を言ったのは、何故かオレたちと行動を共にしているアホ親父だ。忘れていたが、大きなギグを終えたばかりの昨日今日は、Y'sは完全なオフになっているらしい。親父の奴は暇だからと言って、母さんと一緒にオレたちのところにやってきたのである。実に迷惑な話だ。

「嫌なら帰ったって良いんだぜ、親父。別に頼んで一緒に来てもらってるわけじゃないしな」
「誰も嫌だなんて一言も言ってねーだろ」
 親父はガキ並にムキになって言った。そして左のロマンサーを握り固める。
「上等じゃねぇか。やってやるぜ。ロンドン・ダンジョンだろうがマダム・タッソーだろうがオレは負けん」
「なんの勝負だよ」
 時々思うわけだが、オレはどうしてこんなバカ親父の元に産まれてしまったのだろう。母さんは良い母親だけど、親父はちょっとアレだ。

 さっきも言ったが、このロンドン・ダンジョンってのは割と名の知れた観光スポットでもある。親父が口にしていた『マダム・タッソー』の蝋人形館と並んで、有名な蝋人形のアトラクションだ。
 この蝋人形の蝋ってのは、ロウソクの蝋な。これを使って一見して人形とは分からないようなリアルな人体模型を造るわけだ。これがまた良く出来ていて、非常にリアルだから人気が高い。マダム・タッソー蝋人形館には1度行ったことがあるが、女王陛下を筆頭とするロイヤル・ファミリィからマイケル・ジャクソン、シルベスタ・スタローンのようなハリウッド・スター、モーツァルト、千代の富士と、古今東西の有名人が色々といて面白かった。

 じゃあ、ロンドン・ダンジョンにはどんな蝋人形があるかと言えば――そうだな、ヒントは日本のき人形だな。日本にも本当に生きているように見えるほどリアルな人形が存在して、それが『生き人形』って呼ばれるのは知っての通りだ。名人なんかは、人間国宝にも指定されていた筈。
 その生き人形はマダム・タッソー蝋人形館のようにエンタテイメントに良く利用されたそうだが、別の側面でも有名な存在なんだ。つまり、ホラーやスプラッタだな。リアルな人形を利用して、血飛沫の舞うような残酷で凄惨なシチュエーションを再現するわけだ。
 そう、ロンドン・ダンジョンってのは蝋人形で同じことをやっている。ここは一種のオバケ屋敷なんだ。

「そう言えば、一昨日の夜の事件。TVを見てたんだけど、全然ニュースになってなかったわよね」
 あゆの反応が楽しみだと1人でほくそ笑んでいると、香里が思い出したように言った。勿論、一昨日の事件とはサイバードールが襲撃してきたことだろう。既に親父と母さんにも簡単に報告してあるんだが――
「ホテルにあった『タイムズ』にも『ガーディアン』にも『インディペンデント』、それに『デイリィ・テレグラフ』にも少しだって載ってなかったし(いずれも代表的な新聞紙)、ホテルのボーイも聞いたこと無いって」

「私はあまりTVを見ないけれど、確かにそういったニュースは聞かなかったわ。ニュースになっていたら、すぐに連絡をとった筈だもの」
 母さんは言いながら、少し心配そうにオレの腕を撫でた。オレは大丈夫だよと微笑を返す。
 秋子さんや母さんは、同じような人徳を持つことで有名だ。つまり、「この人に迷惑になるようなことや、この人を悲しませるようなことはしたくない」と誰もに思わせる力だ。「どうやってコイツをギャフンと言わせてやろう」と思わせるような、腐れ外道のバカ親父とは正反対。
 きっと、即座に列聖(聖人として認定されること)されてもおかしくない程の慈愛と忍耐強さを彼女たちが兼ね備えているから、そう思えるのだろう。逆に、親父はエクソシストに悪魔として認定されるタイプだ。処刑されてしまえい。

 そんなことを入場待ちの行列に並びながら考えていると――
 ゴビンッ!!
 いきなりクソ親父から頭をブン殴られた。
「ぃいってぇ〜!」
 思わず目玉が零れ落ちてしまうのではないかと心配したくなる程の痛さだ。トレーニングと格闘技の鍛錬を毎日欠かさない親父の一撃は、本当に時々シャレにならない。
「いきなり何しやがる、このクソ親父!!」
「やかましい! なんとなく、今お前を殴っとかないといけないような気がしたんだ!」
 ――なんてワガママな野郎だ。そんな理由で可愛い一人息子の頭に拳を落とすとは。信じられん。

「はぁ〜。あなたたちを見ていると、自分が命狙われてることを忘れそうになるわ」
 香里が魂が抜け落ちるような溜息と共に言った。オレとしては、親父と同列に扱われて非常に納得のいかないものがある。
「でもさ、やっぱアレなんじゃないの。ガトリング砲を撃ちまくった挙句、手榴弾だって好き放題に投げてくれたじゃんよ。それがニュースにもならないってことは――」
「情報操作だろうな」
 オレが最後まで言う前に、ボディガードが言葉を浚っていった。オレたち『観光グループ』に付いた護衛は彼1人。Henry Gibsonという、イングランド特殊部隊のエリートだった人だ。
「財団の十八番さ。なにかあっても、圧力を掛けて揉み消す」

「隠蔽工作、ですか」
 香里は重い声と表情で言った。
「君たちの国の政治家はそれが下手だが、財団は上手い。奴らはもう何世紀にも渡って、様々な方面に根を張り巡らせてきた。奴らはそうやって社会に浸透し、不可分の存在となっている。Too big to fairというわけだな。潰そうと思ってそう簡単に潰せる相手じゃない」
「ふーむ、Engqist Foundationか。そんな話はローザっていう知り合いから聞いたことはあったが」
 親父は顎に手をやって、珍しく難しい表情をしている。そう言えば、いつか話してたな。親父にはICPOに知り合いがいるとかなんとか。と言うことは、インターポールも一応は財団の存在を知っているってワケか。

「祐一、でかした! なかなか面白い奴らを敵に回したな」
 全く理解に苦しむが、息子が世界最大の勢力を誇る組織を敵に回し、しかも現実に命を狙われていると知って親父はとても嬉しそうだ。
「そうさ、敵は強ければ強いほど燃える。そして、そいつをブッ潰す。それが自信になるし、誇りになるんだ。お前に1番欠けてるもんだ。良い機会だぜ」
「だから、オレが潰すとかそういうことを考えられる相手じゃないんだって。親父、ちゃんと話聞いてたか?」
「バカ、潰せそうにないと誰もが思ってるのを潰すから凄いんだ。そんなことやってみろ、一生偉そうにできるぞ」

 そうなんだよなぁ。親父のヤツは、誰もが実現不可能だと思っていることに挑戦するのが生き甲斐なんだ。誰もが信じないことをやってのけて、連中の驚いた顔をみるのが楽しくて仕方が無いらしい。
 皆が奇跡を信じなければ、やつは奇跡を起こす。皆が「腕が無くなったんなら、あいつは終わりだ」と思うなら、即座に復活して見せる。それが相沢芳樹の生き方なんだ。迷惑極まりないことに。
「分からないか? もしそいつらに勝てたら、もう何を敵に回しても余裕でいられるってことだ。この世に怖いもの無しだぜ、スゲェ! くわ〜、オレも混ざりてぇなあ」
 やはり親父はとても楽しそうだ。おかしい。完璧におかしいよ、この人。イカレてる。普通じゃない。

「あの、Mr.Aizawa」
 その親父に、遠慮がちな表情でボディガードは声をかけた。丁寧で完璧な発音の日本語だ。
「ん、オレのことか?」
 親父はロマンサーで器用に自分を指差して見せる。本当、あれって人間の手と全く同じように、気味が悪いほどリアルに動くよな。仕組みは知らんが、相当凄い奴が作ったんだろう。
「はい。先日お会いした時からずっと思っていたんですが、その義手はもしかしてカストゥール研究所の『KsX-Romancer』シリーズの試作品ではありませんか?」

「おお、良く知ってるな。こいつを正式名称で呼ぶ奴には久しぶりに会ったぜ」
 親父は、古い友人と街角でバッタリ20年ぶりの再会を果たしたような笑顔で言った。
「やはり……まさかとは思っていたが」
 あれ、なんか護衛の人の様子が変だ。なんか、幽霊でも見てるような呆然とした顔をしている。しかも顔面蒼白で凄い汗だ。
「オレの知り合いにシルヴィアって科学者がいてな、そいつが何とかって画期的なシステムを組み込んで発明したとか言ってたぞ。これはアイツに貰ったんだ。オレなら使いこなせるだろうからとか言って。それがどうかしたか?」

「シルヴィア!!」
 その名が親父の口から出た瞬間、護衛は今度こそ劇的な反応を見せた。「あした世界が終わる」と聞かされても普通はここまで驚かないだろうと思わせるほどの仰天ぶりだ。
「あなたは、あのシルヴィア・エンクィストと知り合いだったのですか!?」
「ずっとファースト・ネームで呼んでたからなぁ。ファミリィ・ネームは覚えてないけど、確かそんな名前だったな。スウェーデンに一人旅に出た頃に知り合ったんだ」
 親父はその頃を思い出したか、嬉しそうに笑う。
「あいつ、オレに惚れてたんだぜ。良い奴だったからなぁ。夏夜子と会わなかったら、きっとオレの相棒になってたのはアイツだっただろう。シルヴィアは夏夜子の次に好きだ」

「ちょっと待ってくれ」
 オレはどうしても聞き捨てならない単語を耳にして、思わず会話に割り込んだ。
「シルヴィア・エンクィストって言ったよな。エンクィスト。こりゃ、偶然か?」
「あ。そう言えば、そのエンクィスト財団とやらと同じだな」
 アホ親父は今気付いたように言う。いや、絶対オレに言われて初めて気付きやがったんだ。
「シルヴィア・エンクィストは、エンクィスト財団を創設し初代財団代表を務めた『エンクィスト公爵家』の当主でした」
「ええっ!?」
 衝撃が走る。驚愕に思わず叫び声を上げたオレたちは、ロンドン・ダンジョンの周囲の人々の視線を引き付けてしまった。だが、それどころの話じゃない。今のオレたちは、それが何であれ『エンクィスト』という言葉に世界で1番敏感になっているんだ。

「そう言えば、あいつ金持ちだったよな。高そうな車を貰ったこともあるし。1年ぐらいアイツの屋敷に居候してたけど、メイドが何人もいた凄いところだったぞ。メシも豪華だったし」
「信じられない」呆然と首を左右しながら、香里は言った。
「おじさま、エンクィスト財団の話を聞いてもその女性のこと思い出さなかったんですか?」
「おう。スポーンと忘れてた」
 こういう奴だ。親父はこういう奴なんだ……。オレは香里に同情した。普通の神経で付き合いきれる奴じゃないんだよ。母さんや秋子さんクラスの人じゃないと、こいつの相手は務まらない。

「で、シルヴィアの奴は元気かい? 今、なにやってるんだ?」
 親父は陽気に訊ねたが、護衛は顔を伏せたまま首を左右するだけだった。
「――亡くなりました。今年の1月に」
 掠れた声でそう告げる。
「えっ、死んだ!?」
 オレたちも勿論驚いたが、親父が受けた衝撃はその非では無かっただろう。良く分からないが、もしかしたら2人は恋人だったのかもしれないし。
「なんで? あいつ、だって、オレと同じぐらいの歳だったろ?」

「娘さんの出産の時に身体を崩されて――元々、あまり身体の丈夫な方ではありませんでしたから」
「そうか。あいつ、子供産んだのか」
 親父は少し沈黙した後、ゆっくりと自分の左腕に視線を落とした。
「この腕、あいつの形見になっちまったな」
「シルヴィア・エンクィストは死後、伝説的存在となっています」
 護衛はまるで自分の死んだ母親のことを語るような口調で言った。
「何故なら、彼女が1万6千枚に及ぶ工学論文「半有機分子集積体による生体エネルギーの波動変換、その展望と基礎理論」を残して逝ったことが分かったからです。現在、『シルヴィア・レポート』の通称で呼ばれる極秘文書がそれです」

「それは?」
 香里は様々な意味でそれに興味を持ったらしかった。オレとしては、タイトルを聞いた時点で「ごめんなさい」と謝りたくなるんだが。
「マイクロ・マシンとかナノ・マシンといった存在をご存知ですか?」
「Nano-machineは、K・エリック・ドレクスラーが提唱した機械ですね。ナノメートル(1ミリメートルの百万分の1)の単位で大きさが測定される程度の小型機械の総称だわ」
 高卒の筈だが、母さんはとても博識だ。彼女に学歴の概念は通用しない。それは親父にも言える。相沢ファミリィ全体に通じる特徴の1つだ。

「生物に近い仕組みを使って周囲の環境からエネルギーを得つつ、あらかじめプログラムされた単純な動作を行うんですよね。生物の遺伝子内において、DNAやRNAを転写、操作する酵素は自然が生み出したナノマシンと言えるかも。将来的には、色んな病気への対抗、生活の補助、肉体機能の強化、それにミクロレヴェルでの人体のケアといった、生命へのダイレクトアプローチ手段として期待されているって聞くわ」
 香里が補足するように言った。
 なるほどな。要するにアシモフの考えた「ミクロの決死圏」を小型ロボットでやってしまおうっていう発想だな。

「そのナノマシンを、実用レヴェルまで高めたのです。偉大なるシルヴィアは」
 護衛の口調は、神の教えを説く神父のようだ。
「彼女は人間の精神に感応するという、極めて特異な性質を持つナノマシンの開発に成功しました。観念的、概念的な存在であった人間の『精神エネルギー』に反応し、それを物理エネルギーに変換してしまう力を持つという、信じ難いナノマシンです」
「そんな、それこそSF小説じゃあるまいし……」
 リアリストの香里は、俄かには信じ難いらしい。そんな彼女の言葉を無視して、護衛は続ける。
「シルヴィアはそのナノマシンを『ILIS』と名付け、それに関する基礎理論と将来的な展望をレポートに纏めました」

「それが、さっき言っていた『シルヴィア・レポート』なんですか?」
「その通りです」
 母さんの言葉に、護衛は頷いた。
「うぐぅ……。祐一君、みんながなに話してるのか分かる?」
「安心しろ、友よ。オレにも既に何が何だかサッパリ分からん」
 オレとあゆは、固い友情の証にガッチリと握手を交わした。

「Mr.Aizawa、あなたがシルヴィアから受け継いだその『KsX-Romancer』は、彼女が生み出したナノマシン『ILIS』が組みこまれた唯一にして最後の存在なのです」
「こいつが、か?」
 親父は不思議そうに自分の左手を見詰めた。
「でも、その『シルヴィア・レポート』とやらを見れば、ナノマシンの作り方が分かるんじゃないんですか?」
 オレは素朴な疑問をそのまま口にした。香里をはじめとする皆も頷いている。
「シルヴィア・レポートは、高度に暗号化された挙句、幾つかのプロテクトが掛けられているんです。ですからその存在自体は知られていても、解読に至ったものはありません」

「なんか、財団が興味を持ちそうな話ですね。そのナノマシンは、シルヴィア女史が独自に研究したもので、財団はタッチしていないんでしょう?」
 香里のその目の付け所は実に面白かった。確かに超能力やら異能者やらに興味を持つなら、実用レヴェルのナノマシンに興味を示しても可笑しくない。用途はそれこそ様々だから経済的にも凄い力になるだろうし、肉体を強化できるならサイバードールなんかが使いそうだ。軍事利用もできるかも。
「財団は今、血眼になってシルヴィアが隠したプロテクトを解除するキィを探し、暗号を解読しようとしています。いや、財団だけじゃない。各国の諜報機関が1番関心を抱いているのが『シルヴィア・レポート』なんです。このレポートを最初に解読した者は、次代の地球圏を掌握する力を手に入れるだろうというのが世界の統一された見解です」

「オイオイ、何やら燃える展開になってきたな」
 親父がハリキリ出した。こいつを暴走させると危険だ。――だが、その親父を見てオレはあることに気付いた。みんな、根本的なところを見失ってないか?
「だったら、親父をフン捕まえて、ロマンサーを奪っちまえば良い。親父の義手の中には、そのナノマシンの雛型が組みこまれてるんだろう? レポート解読しなくても、現物を手に入れて解析しちまえば良いじゃんよ」
「それは――」
 盲点を突かれて、香里は少し驚いたようだ。
「そうね。相沢君のくせに、侮れないわ」
「うぐぅ、なんだか良く分からないけど、祐一君、凄いよ!」
 あゆもオレを湛えてくれるが、状況を理解していない彼女に誉められてもイマイチ嬉しくない。

「それは不可能です。ILISは一種の意思を持つそうです。彼女(ILISは女性名)は主を選びます。シルヴィアが選ぶであろう人間にしか機能しないようにプログラムされているという話です。そして、一旦登録されると主の意思に感応しなければプログラムは起動しない」
 ダメだ。難しくて、ボディガードが何を言っているのか、サッパリ理解できない。
「つまり、1度おじさまの物になってしまったら、もうおじさま抜きではILISはILISたり得ないと云うことですか?」
「そう考えてもらって問題無いと思う」
 香里の言葉を護衛は肯定した。そして、自分もILISを完全に理解しているとは言い難いのですがと付け加えた。

「もはや、『ILIS』の機密を知る人間は、シルヴィアの弟子である『カストゥール研』の幹部くらいしかいません。それと、Mr.Aizawaのものと対になる右のRomancerを除いては」
「財団がその研究所を襲撃する心配はないんですか?」
 母さんが訊いた。オレも同じ質問をしようとしたが、先を越された恰好だ。
「あります。ですから、我々『Thuringwethil』のPSYMASTERSが24時間態勢で研究所と研究者たちを守っています。Aランク以上の能力者で固めていますから、財団のHoly Orderでもアメリカの特殊部隊でも簡単には陥とせないでしょう」

「そうか。オレの義手って、わりと凄いんだな。まぁ、便利だし触ったものの手触りとかまで伝わってくるから、変に良く出来てると思ってたが。流石はシルヴィアだ」
「偉大なるシルヴィア・エンクィストは、自分のナノマシンが身体に障害を持った人や、今まででは治療できなかった病人の役に立つことを願って、『ILIS』を開発したそうです」
 ボディガードは、まるで女神の化身を見るような目付きで親父のロマンサーを見詰めた。
「――きっと、とても優しい人だったのね。最初に義手という福祉機器にそれを導入したことからも、それは如実に窺えるわ。ハンデで苦しむ人たちのハンデを取り除くために。その人たちの笑顔のために。流石は、私の伴侶に『好きだ』と言わせるだけの女性だわ」
 母さんは慈しむような微笑を浮かべて言った。

「ですが、聡明なシルヴィアは『ILIS』が軍事利用された時の脅威を危惧しておられたそうです。人間の生命力をエネルギィ変換できるということは、大きな武器となります。能力を持たない普通の人間が、PSYMASTERになれる可能性が出てくるのです」
「そうか。なるほどな」
 それで合点がいった。財団の狙いはそこにあるわけだ。
「親父の義手のように、福祉や医療にも確かに使える。世界に革命を齎すほどの画期的なものになるだろうから、ライセンス製にでもして売り出せば巨額の富を生み出す。――でもそれ以外に、軍事利用もできる。普通の人間を一種の超能力者にしちまえるかもしれないわけだ。怪我しても、ナノマシンが治癒してくれる。遺伝子レヴェルで肉体を強化してくれる。生命エネルギーを武器に使える。そんな兵士だけで構成された軍隊が出来あがるってわけだな?」

「それは極めて極端な例だし、そう簡単に上手くいくかは分からないが、そういう可能性も否定できないということだ。だから、シルヴィア・エンクィストは自分の研究成果を封印した。簡単には人手に渡らないように」
「なるほど。原爆作った連中のように、単なる発明馬鹿じゃなかったってわけか」
 確かにな。視野の狭い奴や、物事の本質を見ぬく目を持っていない奴は、親父に認められない。本当に頭が良くて優しい人だったからこそ、親父に気に入られたんだ。そのシルヴィアって人は。
 そういう意味で、親父が『好き』と判断するか『嫌いだ』と切って捨てるかは、その人物の本質を見抜く上での1つの判断材料にもなる。アホで馬鹿で腐れ外道だけど、人を見る目だけは確かだからな、親父は。

「それにしても、親父」
 オレは奴を睨みつけた。そうしたくなる気持ちは、誰もが分かってくれるだろう。
「なんだかんだと言って、結局アンタも財団と1枚噛んでたわけじゃねェか。しかも、考えようによってはオレたちなんかより断然ディープにさ」
「うむ、何だか知らんがそのようだ」
 親父は厳粛に頷いた。流石にちょっと驚いてるんだろう。
「いいね、面白くなってきた。オレ好みの展開だぜ、これは」

「力と力は惹かれ合う。力は力を呼び寄せる。そして、力は悲劇を呼び寄せる」
 ボディガードは険しい表情で呟く。
「至るところで君たちは財団と関連している。まるで何か巨大な意思が作用しているように、財団と惹かれ合っている。俺たちの知らないところで、何かが起こり始めているのかもしれない――」
 その言葉には、奇妙な説得力があった。









GMT Mon,24 July 2000 15:01 P.M.
The London Dungeon
Tooley St. SE1 London U.K.

現地時刻 7月24日 月曜日 午後3時1分
ロンドン・ダンジョン


 ロンドン・ダンジョンの前になぜ行列ができて、しかも入場までに30分は並ぶことを強いられるのか。それには勿論のことだが理由がある。ひとつは、ここがガイドブックでも紹介される人気のスポットであること。更に今が観光シーズン真っ盛りであるということだ。1番込み合う時期に、1番込み合う場所にやってきたのだから、ある意味当然だ。遊園地だって、1番人気のジェットコースターの前には常に長蛇の列ができる。それと同じことだ。
 だが1番の原因は、入り口付近で、入場者ごとに記念写真の撮影を無理矢理させられるからだとオレは密かに考えている。ようやく行列の先頭に踊り出たと思ったら、いきなり「何人だ?」と聞かれ撮影用のセットに連行される。そしてオレは有無を言わさず断頭台の処刑セットに首を突っ込む羽目になり、斧を持った死刑執行人の姿が妙に似合う香里と親父に挟まれて、無様な姿を写真に撮られているわけだ。いちいちポーズなんかも取らせるものだから、時間がかかって仕方が無い。

「みじめだ。惨め過ぎる……」
 何が悲しくて、こんなところまできて処刑台に掴まって殺されかけてるところを激写されなければならないんだろう。呪われているとしか思えない。
「ぷくく、良い恰好だな祐一君。とっても似合ってるぜ」
 そんなオレを実に嬉しそうな顔で見下ろしている親父の顔がまた腹ただしい。むしろ処刑されるべきはこいつではあるまいか。なにかが間違っている。

 この苦行としか思えない記念撮影から開放されると、ようやくチケット売場だ。チケットは£8.95。学割で1ポンド安くなる。これを人数分購入すると、ついにアトラクションに挑むことになる。さーて、ここからは月宮うぐぅ君の動向に注目だ。どんなリアクションを見せてくれることやら、今から楽しみである。
 ロンドン・ダンジョンってのは、国鉄高架線下の約3000m2の敷地内に、イングランド中世時代の歴史的な出来事を等身大のリアルな蝋人形で再現している場所だ。数字からも分かるように中はけっこう広くて、壁際にいくつも小部屋が並び、暗闇の中に様々なホラー顔負けの怖さ爆発なアトラクションが浮かび上がる。
 なんて言うのかな、とにかく血生臭いんだよな。昔は『基本的人権の尊重』だとかいう甘ったれた概念も無かったから人間のやることもえげつなくて、中世の拷問や虐殺の模様を再現しているところなんかは特に酷い。「この世で最も残酷になれるのは、人間自身である」というような格言を誰もが思い付いてしまえるほどだ。

 他にも色々あるんだぜ? 生きるために強盗殺人を繰り返して、殺した人間の肉を食って生活してたっていうスコットランドの一家の食事模様だろ、麻酔無しのノコギリで散髪屋と洗濯女がケガ人の足を切断するっていう当時の手術風景だろ、それから内臓をもぎ取って体を4つに切断するっていうゴトリー・ブッチャーなる処刑の様子。出口付近には、あの有名なジャック・ザ・リッパー(切り裂きジャック)のコーナーもある。他にも断頭、投石、火炙り、手足の切断、ありとあらゆる処刑と拷問の光景とそれに使われた道具も実物が展示されてるし。
 うーん、こうして見るとあれだな。実際に行われていた、現実に存在したというリアリティも含めて下手なホラーハウスなんざより数倍は強烈かもしれない。

 辺りには中世時代の格好をしたスタッフが動き回っていて、各コーナーでは芝居掛かった講釈を述べている。もちろん英語だ。各国の言葉で状況を説明しているプレートもあるんだが、なぜか日本語はない。ま、オレは1度来た時に母さんに大方説明して貰ったから、大体は説明されなくてもわかる。
 でも、アトラクションは遊園地みたいに所々新しくなってるみたいだな。オレが昔来た時は1666年のロンドン大火災の超リアルなアトラクションがメインだったんだが、それが無くなってる。

 ――と、そうだ。アトラクションを楽しんでる場合じゃない。あゆだよ、あゆ。オレはあいつの反応を楽しみにわざわざ大嫌いな行列に並んでまでここに来たんだ。いかん、目先の楽しみに目を奪われて本来の目的を忘れるところだった。
 オレは慌てて暗い周囲に視線を凝らし、うぐぅを捜索した。まあ、あいつはチビっこくて目立つ羽リュックを背負っているから、探せばいつだってすぐに見つかる。ある意味で特徴と識別点の塊みたいなやつだからな。
 御多分に漏れず、やっぱりあゆあゆはすぐに見つかった。溺れる人間が救命用具にしがみつくようにして母さんの服の裾を握っている彼女は、「うぐぅ、うぐぅ」言いながら目に涙を溜めている。飽きれるくらいに予想通りのリアクションを見せてくれる奴だ。入る間際から嫌な予感を感じて身を縮めていたが、今は更に小さくなって丸くなったリスみたいだ。

「よっ、あゆあゆ。楽しんでるか!?」
 目論みが成功して上機嫌なオレは、にこやかにあゆに歩み寄った。
「ちっとも楽しくなんかないよ」
 あゆは小刻みに震えつつ、周囲をオドオドと見回しながら言った。
「うぐぅ、ボクが暗いところが嫌いで、怖いのが苦手だって知ってるのにこんな所に連れてくるなんて、祐一君いじわるだよ!」
「まぁ、そう言うなよ。あゆ、オレはお前の怖がりな性格を治すために、敢えて茨の道をいかせておるのだ。言わば、これは愛の鞭である。あゆよ、その弱点を克服し1番星になれ!」
 断っておくが、今のオレは自分でも自分が何を言っているのかサッパリ分からない。

「うぐぅ、怖いよう。怖いよぅ」
 ははは……。怖がってる、怖がってる。これだけ怖がってくれると、ここのアトラクションの設計者も喜ぶことであろう。
「あゆよ、今お前は人間1人を幸せにしたぞ」
「うぐ、何がなんだか良く分からないけど、ボクは全然しあわせなんかじゃないよ」
 それにしても、困って小さく丸まったあゆって、なんか小動物みたいで可愛いんだよな。反応が面白くて、ついつい苛めてしまいたくなるのはオレだけでは無い筈だ。

 そうこうしている内に、オレたちは『ウォーター・スライダー』のアトラクションに差し掛かった。展開としては、何やら悪者を演じさせられている客が裁判で有罪判決を食らい、牢屋に放りこまれるといったシナリオらしい。で、牢屋に団体で放りこまれると、そこにはディズニーランドの『スプラッシュ・マウンテン』みたいなボートが待っているというわけだ。
「これから、貴様らに刑を執行する!」とかいった感じのことを英語で言われ(なんとか分かった)、オレたちはその怪しげなボートに乗り込む。それからゆっくりとボートは動き出し、最終的には高低差を利用して後ろへストーンと落とされた。銃で撃たれたっぽい演出だ。

「なんだか、遊園地に来たみたいだわ」
 船着場に到着した時、香里が言った。どうやら彼女もそれなりに楽しんでくれているようだ。
 意外な話だが、彼女はこういう派手なアトラクションが結構好きみたいだ。もしかすると、栞のこともあって遊園地なんかに行くことがあまり無かったのかもしれない。――だとすると、普通の子供には当たり前のことも彼女には新鮮で珍しく見えるといったこともあり得る。

「う、うぐぅ〜〜っ!!」
 突如、誰が聞いても明らかなあゆの悲鳴が響き渡った。どうやら、船着き場で悪魔の扮装をしたスタッフに脅かされたらしい。このロンドン・ダンジョンは一種のオバケ屋敷だからして、そういう連中が所々にいる。客を威嚇してヒヤリとさせるのが彼らの仕事だ。だが、あゆのリアクションがあまりに素敵過ぎたせいだろう、気をよくしたスタッフは逃げるあゆを追っかけてまで仕事に熱中している。よほど良い反応を見せてくれたことが嬉しかったのだろう、サービスのつもりなのだろうが――
「あら、あゆちゃん、行っちゃったわよ?」
 あゆはキャーキャー良いながら、目を固く閉じて走り去ってしまった。恐怖が許容限界量を超えてしまったんだろう。どうやら出口の方向に向かっていったようだが、1人にするとちょっと不安だ。

「しょうがないな。母さん、オレちょっと行って捕まえとくから。出口で合流しよう」
「ええ、お願いね」
 母さんと頷き合うと、オレはあゆを追って出口方向に向かった。走り出すとすぐに辺りの風景が変わり、19世紀のロンドンに迷い込むことになった。ちょうど百年前の世界だな。
 ロンドンは名探偵――オレから言わせりゃ、迷探偵だが――シャーロック・ホームズの故郷でも知られていて、19世紀って言えば彼がまさに現役で活躍していた時代だ。
 そしてそれは同時に、切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーが連続猟奇殺人を繰り返していた時期でもある。シャーロックとジャックの活躍していた時期はピタリと合致していて、一部のシャーロキアン(ホームズの熱狂的ファン)の間では「どうしてホームズは、ジャック・ザ・リッパーの事件を捜査しなかったのか?」という話題で一時期盛り上がったらしい。

 そこは犯罪史上最大の謎とされている、その『ジャック・ザ・リッパー』の世界を再現したセットだった。奴はホワイト・チャペルだったかな、日本で言えば歌舞伎町のようなところを徘徊し、娼婦ばかりを狙ってナイフで人間を斬り殺しまくってた変わった趣味の持ち主だ。そんなに人を斬りたきゃ、外科医になればよかったものを。そうすりゃ、合法的に人を切り裂けるし他人からは感謝される。
 このアトラクションには、実際に奴の被害者となってしまった娼婦たちの無残な様子を模した蝋人形が並べられていて、さらに当時の新聞記事や現場写真、被害者の写真などがスライドで次々と上映されていた。それをバックにして、妙なコスチュームを身に纏ったオッサンが、シェイクスピア劇を見ているような朗々とした口調で色々なことを解説している。喋り方が独特だし、元々英語に堪能というわけではないからオレにはサッパリ意味がわからない。
 結局、問題は「切り裂きジャックは誰だったのか?」といった内容になってくるのだろうが、オレの抱えている今の命題は「あゆは一体どこにいってしまったのか?」だ。

「ったく、一体どこまで逃げたんだ。アイツは」
 食い逃げの時に思い知ったが、運動神経は皆無と言って過言でないまでに欠落してるくせ、逃げ足だけは驚異的に速いからな。
『ジャック・ザ・リッパー』のスライド・ショウを抜けると、もうダンジョンの出口だ。ここまでの順路で見つけられなかったってことは、要するに外に出ちまったってことだろうな、やっぱり。
「手間かけさせやがって、本当に」
 そんなに怖かったのか? ちょっと気の毒な気もしてきた。まだ震えてたら、抱き締めて安心させてやろう。ここに連れてきたのはオレだから、責任はある。

 出口付近では怪しい土産物やグッズ、それに入り口の断頭台で強引に撮らされてしまった例の写真を販売していた。値段は£3.99か。日本円に換算すると8百円くらいか? 誰が買うかよ。――でも、親父の奴はわざわざ買って、あとでオレに見せびらかすんだろうな。容易に予想がつく。あいつの性格の悪さは、イヤと言うほど知ってるからな。
 そんなことを思いながら、オレはあゆを探して周囲に視線を巡らせた。出口のところにカフェテリアがあるんだが、ここも一応覗くとしよう。あんな拷問模様やスプラッター顔負けの残虐シーンを見た後に食欲があるものなのか? ――誰もがそう思うだろうが、いるんだよな。前に来た時、まさに親父の奴は「そういや、腹減ったな」とか言ってスパゲティをガバガバ食ってた。だけど、あゆがそうだとは思わない。案の定、カフェテリアに彼女の姿は見当たらなかった。

「おーい、あゆ〜」
 ダンジョンを後にすると、通りに出る。早く見つけないとマズイかもな。ここは人が山ほどいるロンドンだ。迷子になられたら、まず見つからない。
 本格的に心配しかけた時、ロンドン・ダンジョンが面するトゥーリィ・ストリートのテムズ河サイド一角で、「うぐぅうぐぅ」言っているあゆを発見。彼女はこちらに背中を向けて、独りでしくしくと泣いていた。その背中のリュックの羽アクセサリが、頼りなく揺れている。

 そんなあゆの後姿に、小学生の頃、飼育委員の当番で面倒を見ていたネズミのことを思い出した。ある冬の日、飼育箱の中を覗くとネズミは丸くなって震えていた。その時はあまり気にしなかったんだが、次の日に担任の教師からネズミが死んでしまったことを聞いた時は、何故だかとても悲しかったもんだ。10年経った今でも覚えているということは、オレにとってあの記憶はとても大切なものなんだろう。今のあゆの姿を見ていると、あの時のネズミのことが脳裏に甦る。なんだか胸の締め付けられる光景だ。

「あゆ……」
 歩みよって背後から肩を叩くと、あゆは振り返って涙に塗れた顔を上げた。
「うぐぅ、祐一くん」
 飛び込むように抱きついてくるが、さすがに今回ばかりは躱す気は起こらない。オレはあゆの小さな体を抱きとめた。あの時のネズミと同じように――そして、いつか拾ってきた子狐と同じように、あゆはとても小さくて温かくて、ふわふわしていた。
 果たしてあの時のオレは、ネズミが死んだことを正しく認識していたんだろうか? ――この体温を感じていると、不意に思う。オレが子供心に悲しみ喪失感を覚えたのは、ネズミの死そのものに対してではなくて、手に乗せるとあんなにフワフワしていて温かかったネズミが冷たく静かになってしまったからじゃないだろうか。もう、2度とあの温かさに触れられないと思ったからじゃないだろうか。
「あゆ、もう大丈夫だ」
 何故だか良く分からない感情が高まって、オレはあゆを抱き締める腕に力を込めた。人間は『幸せ』とかいう良く分からないものを追い求めるものだが、それは実のところ信じられないくらい近くにあって、実に単純な形をしているのかもしれない。
「怖かったか、あゆ」
「死んじゃうかと思ったよ」
 あゆはポロポロと零れる涙を、一生懸命に拭いながら言った。こいつは戸籍上は17歳だが、身体はどう見てもそれより3歳分は幼い。そして心は更にそれより3歳分幼い。たまに忘れそうになるが、こいつは7年間も眠っていたんだ。誰が忘れても、あゆにとってその事実は重要だ。
「あゆ、良いことを教えてやる」
 オレは膝を軽く曲げると、俯いて泣いているあゆと視線の高さを合わせて言った。
「いいか、世の中にはオバケと同じくらいか、それよりももっと怖いものが沢山あって、時々オレたちを苛めにくる」
 例えば7年前、それはあゆの元にも既に訪れている。そして彼女を深い眠りに就かせた。同じように栞の元にも訪れ、彼女に死の病を与えた。名雪の元にはオレという名の悪夢が訪れ、彼女を苛ませた。舞の元にも、それから多分――佐祐理さんの元にもそれは行ったようだ。4年前は親父のところに来て、左腕を奪っていった。悪夢や恐怖はどこにでも潜んでいる。
「だけど、怖いからって今のあゆみたいに逃げちゃダメだ。奴らは相手が逃げると喜んで追いかけてくる」
「うぐ、犬さん、みたいに?」
 嗚咽まじりにあゆは言った。そう言えば、こいつはガキの頃から野良犬に追いかけられるのも得意だった。タイヤキ屋の親父に追いかけられるのと同じくらいに。
「そうだな、犬みたいなもんだ。連中は、逃げれば逃げるほど逆に元気になって追いかけてくるだろう?」
 オレの言葉に、あゆは頷いた。
「だから、逃げたらダメだ。そうじゃなくて、追っ払う方法をかんがえなくちゃな」
「どうすればいいの?」
 迷子がママの居所を問うような目付きで、あゆは訊いてきた。

「1番手っ取り早いのは、どんなオバケや犬や怖いものが来ても平気になるように強くなることだ。だけど、それは簡単にはいかないし時間がかかる。だから、神はそのために『友達』という考え方を人間に与えてくれた」
 誰も信じてはくれないがオレの母親は敬虔なカトリック教徒で、オレは彼女に育てられたせいで少なからずその影響を受けている。
「怖い時は友達と一緒にいれば良いんだ。誰かと一緒だと、1人じゃ行けないような怖い所にも行けるだろう? 暗い所だって安心だ」
 あゆはコクリと頷いた。
「オレとあゆは友達だ。だから、大変なことになったら別々に逃げるんじゃなくて、一緒に居ればいい。あゆが犬に追いかけられた時、オレが追い払ってやっただろう? それと一緒さ」
「祐一くんが助けてくれるの?」
「お前ひとりじゃどうしようもなくなった時はな。頑張ればどうにか出来そうな時は、簡単に人に頼っちゃダメだ。大変なのはみんな同じ、あゆだけじゃないから。――でも、自分だけじゃどうにもならないと思ったら、人に力を借りるのも大切なことだ。友達ってのは、そういう時に頼りになる奴のことを言うのさ。あゆにはそういう人が一杯いるだろう」
「……うん」
 少し考えると、あゆは言った。きっと、その頭の中で危急の際に力添えしてくれる人物を列挙していたのだろう。水瀬家の家族を始め、それはAMSのメンバーやオレの両親などにまで広がった筈だ。中には付合い始めて日の浅い奴もいるが、オレたちがクリアしてきた難題の山は並じゃない。その中で培われた絆は、とても強固なものであると信じられる。

「怖いからって逃げばっかじゃ、いつか追い詰められるぞ。世の中、出口までの順路が示してある親切なダンジョンばかりじゃないからな。オレも香里も、親父や母さんだって一緒にいたんだから頼れば良かったんだ」
 そこで言葉を区切ると、オレはあゆと視線を合わせたまま唇の端を意図的に吊り上げて見せた。
「オレだった迷わず香里に助けを求めて、怖い物を見ないで済むように胸の谷間に顔を埋めさせてもらうね」
「もう、祐一くんはいつも結局はエッチなことばっかりだよ」
 あゆは笑いながら言った。まったく、単純な奴だ。さっきまで泣いてたのに。

「さて、それじゃ皆のところに戻ろうぜ」
 オレはあゆの頭にポンと手を置いて言った。あゆはオレたちの中で1番背が低い。この前栞が「1センチ成長して、158センチになったんですぅ!」とか狂気乱舞してたから、あゆはそれ以下ということになる。オレの胸くらいまでしか届かないものだから、実に手を置きやすいポジションに頭がくるのだ。
「うぐぅ……ボクが勝手に出てきちゃったから、みんな怒ってるかな?」
「いや、心配はしてたけど怒ってはなかったぞ」
 本人は自覚していないが、月宮あゆってキャラクターはどうやっても憎めないものだ。ドジやらかしても、ヘマしでかしても、大抵のことなら笑って許せてしまう。碁石のように固く焦げたクッキーを食わされるのだけは勘弁だけどな。あゆはなかなか料理の腕が上達しないのだ。
「時間的にもちょうど良いんじゃないかな。そろそろ、親父や香里たちも全部見終わって出てくる頃だろう」
 オレはあゆの背に手を添えると、ロンドン・ダンジョンに戻るために通りに戻った。
 今オレたちがいるのはテムズ河の南側、サザークと呼ばれる一帯にある『トゥーリィ・ストリート』。名前だけなら日本人にも有名な『タワー・ブリッジ』や『ロンドン橋』のすぐ近くにある大通りだ。特別行政区シティの真向かいだけあって、非常にモダンで綺麗なところ。テムズ河の豊かな流れの対岸には、ロンドン塔が聳えているし、西に行けばシェイクスピア・グローブ劇場が、東に行けば昔盗品が売られていたことから『どろぼう市』とも呼ばれていたらしい、有名なアンティーク・マーケットがある。どれも歩いてすぐに行ける距離だ。
 この一帯は基本的に近代的でファッショナブルなんだよな。タワーブリッジやロンドン橋が傍にあることからも予想がつくように、夜になればイルミネーションに彩られてかなりロマンティックな雰囲気になる。栞あたりを連れてくると「ドラマみたいですぅ」とか言って大喜びするだろう。勿論、通りを行き交う人の波も多い。

 ――そんな中、その姿を見つけられたのは本当に偶然だったんだろうか。何か運命めいたものさえ感じてしまう、驚くべき再会。その瞬間、オレはまさしく戦慄した。
「祐一くん、どうかしたの?」
 急に一切の動作を凍て付かせてしまったオレを、あゆが怪訝そうな顔で見上げてくる。だが、オレはそれどころじゃなかった。
 あれから4年。背も伸びているし、顔付きも変わっている。だけど、忘れるわけが無い、身間違えるわけがない。あの金髪、オレを殴りつけたあの拳、口元に張りついた下卑た笑み。あいつだけは、絶対に何があろうと見逃さない。見逃すわけにはいかないんだ。

 ――ゾワリ、全身に電撃にも似た痺れが全身を駆け抜ける。身体中の血が騒いで、煮え立ちそうだ。
「あの野郎、あの野郎! あの野郎だッ!!」
 自分の最も奥の方で、何かの回路にスイッチが入ったのが自覚できた。それは物凄い速さで相沢祐一の神経回路に伝わっていき、連鎖的に爆発を起こしていく。激情は瞬く間に炎となって、オレを内から支配した。
 そして今、理性、本能、感情、欲望、混沌。オレの中のあらゆる声が告げていた。間違い無い、奴だ。そして命じる。奴だけは、あの野郎だけは――!!
「キィイィィスッ!!」
 Keith McNaughton。
 それは4年前、左手を奪い去ることでチェリスト相沢芳樹を殺した男の名だった。





to be continued...
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脱稿:2002/06/13


今回、なんか読み難くなかったですか? テンポが悪いっていうか。
なんだか、凄く調子が悪い。原因に気付いた読者は指摘して下さい。
――圧縮版にする時には、加筆・修正しますので取り敢えず暫定版ということで。


巻末資料



 今回、第23話で登場した『シルヴィア・レポート』は、実はY'sromancersシリーズを超えて多くの物語で重要視されるアイテムです。既に垂直落下式妹でも『シルヴィア・レポート』のことが言及されており、これが第1シーズン『Dの微熱』からシリーズの裏側でストーリィに大きく関わってきたことが示唆されています。
 また、Y'sromancersの18年後の未来を描いたオリジナル小説『HEARTFUL BIND(公開終了)』では、シルヴィア・エンクィストの娘であるエアリス・エンクィストが『ILIS』を更に改良しており、これが世界に浸透した状態で物語が進行します。そしてヒロインの1人シャルーエルフィは、このナノマシンの恩恵を受けて「喋る猫」として登場し、シルヴィア・レポートを解読したエンクィスト財団と熾烈な戦いを繰り広げます。
 また、HEARTFUL BINDにはリリア・シグルドリーヴァも登場していますし、鷹山小次郎は現役を退いているかもしれませんが、Y'sromancerはまだ三十代後半。能力名奇跡を操るThuringwethilの強力な戦士として名前くらいは登場するでしょう。
 以下で、作品群『TRICKSTER STORY』シリーズの繋がりについて簡単に説明しています。以下のような流れで物語同士は繋がっており、大きな流れを汲むというわけです。分岐とあるのは、並列世界――パラレル・ワールドが存在すると考えてもらえると分かり易いでしょう。
 一応、時系列順に並んでいますが、Y'sでのリリアの言葉からも分かるように、正確には「DARC中世編」→「DARC現世編」→「愛のブロックサイン」→クレスが転生、リリアがそれを追う→「Y'sromancers」→「HEARTFUL BIND」と流れていきます。




TRICKSTER STORY
TRICKSTER STORY EPISODE 1
DARC
−全てを凌駕するもの−
中世編

(1400年前半)
|
TRICKSTER STORY EPISODE 2
Y'sromancers
(1999年〜2000年)
Real bout Y'sromancers
(2000年〜)
分岐1
(DARCルート)
分岐2
(H.B.ルート)
DARC 現世編
(2018年〜)
TRICKSTER STORY EPISODE 3
HEARTFUL BIND
(2018年〜)



TRICKSTER STORY EPISODE 4
愛のブロックサイン
(2070年前後)
そう、孤独にやられちまうぜ
(2100年前後)
TRICKSTER STORY EPISODE 5
TRICKSTER STORY EPISODE 6
0318252205
※注1: 全作品通しての主人公はクレス・シグルドリーヴァ。
作品ごとの主人公は、
『DARC』=アランソン候ジャン2世
『Y'sromancers』=相沢祐一
『そう、孤独にやられちまうぜ』=碇シンジ
※注2: 全作品通してのヒロインはリリア・シグルドリーヴァ。
作品ごとのヒロインは、
『DARC』=ラ・ピュセル
『Y'sromancers』=原作ヒロインズ
『愛のブロックサイン』=ククリ・シグルドリーヴァ。
『そう、孤独にやられちまうぜ』=綾波レイ、アスカ・ラングレー



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