Zone 5! Romancing Solid Canon,Fox Three!!


NO,FATE!
運命じゃないぜ

Hiroki Maki
広木真紀




−神鳴の章−





GMT Fri,29 July 2000 24:59 P.M.
Labo Kastool
Zürich Swwitzerland

現地時刻 7月29日 午前00時59分


 チューリッヒの夜は、ロンドンと比較して星空が綺麗だった。トラムが発展しているせいで、乗用車の交通量が少なく排気ガスの排出量が軽減されているためだろう。スイスでも指折りの大都市でありながら、さすがに上手く自然と付き合っている。東京だと光化学スモッグのせいでこうはいかないからな。
 夜空の眺めは、そこに住まう人間がどれだけ自然を敬っているかを示すバロメータだ。天野風にいうと、天壌無窮の理をどれだけ知っているかってことになるわけだな。その点、チューリッヒ延いてはスイスってところは、かなりの高水準を維持していると言えるだろう。
 そんなことを思いながら、オレは備え付けのドリンク・バーから冷えたダイエット・コークのビンを取り出した。栓を抜いて2つのオールドファッション・グラスに注ぎ、それを持ってホテルの最上階から迫り出した瀟洒なバルコニーに向かう。外に通じるガラス張りのドアは開かれていて、穏やかな夜風が白いレースのカーテンを柔らかく揺らしていた。
 バルコニーのでると、そこには先客がいた。親父だ。奴はこちらに背を向けて、中央広場越しにチューリッヒの旧市街を眺めている。
「ほい。飲むだろ」
「おう、悪いな」
 右手に持ったコークのグラスを差し出すと、親父は薄く笑ってそれを受け取った。そしてドッシリとした石造りの白い手摺にそれを置くと、再び視線を遠くに戻す。
「結構、いい夜じゃん」オレは親父の横に並び、優しく吹いてくる夜風に目を細めた。
「隣りにいるのがお前じゃなくて、夏夜子かマリアだったら言うことなしだがな」
「そりゃ、お互い様だろ」思わず肩を竦めてしまう。「オレも天野や香里といたかったさ」
「――確かにな」親父は苦笑し、小さく肩を揺すった。
 どうやら、オレたちはカストゥール研にVIP待遇で迎え入れられていたらしい。彼らが手配してくれたホテルは、中央広場の4つ星ホテルのスウィートだった。天野と香里、そして母さんが1部屋、その隣りにオレと親父という組み合わせだ。

「なあ、親父」
「ん?」親父は顔を動かさずに答えた。
「シルヴィア・エンクィストってどんな人だった?」
 オレは夜の闇よりも黒い自分の右腕に視線を落としながら、訊いた。
「シルヴィアは凄い奴だった」
 親父は手摺からグラスを持ち上げると、コークを一口飲んだ。クラックド・アイスが硬質な音を奏でて揺れる。
「初めてあいつとあったのは、もう20年近く前のことだ。お前より2、3歳上だったかな。学生の頃だったと思う」
 ならば、随分と古い付き合いになる。そうコメントすると、親父は小さく頷いた。
「――当時のオレは、既に日本や外国でも結構名の知れたチェリストになっていた。日本じゃあまり馴染みの世界だから知ってる奴は少なかっただろうが、マスコミにもそれなりに騒がれたもんさ。『将来を嘱望される若手有望株筆頭』とか、『日本の若き天才チェリスト』とか、そんなありきたりな感じでな」
 なぜそんな昔のことを持ち出したのかは知らないが、その話なら聞いた事がある。親父は、本当に優秀なチェロの演奏者だったらしい。自ら作曲も手掛け、その方面でもなかなかの評価を得ていたとか。本人も世界最高の座を目指してたみたいだし、世界からもそれを認められようとしていた。まさに日の出の勢いってやつだった頃だろう。
「コンサートなんかにも、ちょくちょく招待されるようになってな。海外の有名ホールでも公演できるくらいになってた」
「そりゃ大したもんだよ。そこまで成功するにはどんなに努力しても、才能とラックに恵まれないと駄目なもんだろう。それがあったってことだからな」
「まあな」親父は低く言った。だが言葉とは裏腹に、ちっともそれを誇っているような節はない。「確かに最初はそれなりに嬉しかったような気がするよ。でもオレはそのことで自分の音楽性ってのかね、手前のチェロに疑問を持ち始めていた」
「なんで? 世界の一流ホールで満員の観客からスタンディング・オヴェイションを受けることもできたんだろ。順風満帆、最高の栄誉ってやつじゃないのか?」

「それが気に食わなかったんだよ」
 親父は一瞬オレと目を合わせると、軽く笑った。まるで、ガキの頃の自分の悪戯を思い出して、それを懐かしんでいるような表情だ。
「タキシードやイヴニング・ドレスめかしこんだ連中を立たせて、拍手させたところでな」
「分からないな。認められたってことだろう」
「オレが欲しいのは、そんなもんじゃねーって思い始めたんだよ。……前に話したろ。オレは本で『セロ弾きのゴルジュ』ってのを読んで、チェロをはじめた。そのことを思い出したんだ」
 それを言うなら『チェロ弾きのゴーシュ』だが、指摘したところで親父は覚えないだろう。これまでもそうだった。きっと、これからもそうに違いない。
「ゴルジュの観客は、病気の動物たちだった。サウンドで、奴らの病気を治したんだ。もちろん、金なんて取らない。聞きたい奴が、自由にゴルジュの周りに集まってきた。オレはその話を見て、チェロ弾きになろうってガキの頃に決めたんだ」
「ああ、そう言ってたな」
 オレは手の中でグラスを弄びながら言った。ひんやりと冷たい感覚を、右手は正確に伝えてくれる。
「それがオレの原点あり、同時に目指していたものだったはずだった。チェロだけじゃない、ヴァイオリンだってそうだ。ありゃ、もともとは庶民の楽器だった。貧乏人が、楽しく踊るための音楽を奏でるために生み出されたものだった。着飾った金持ちから、高い報酬もらって巨大ホールで演奏するための道具じゃない。芸術じゃない、その日笑うための物だったんだよ」
 親父は「分かるか」とでも言いたげに、小さく首を傾げて見せるとオレを一瞥した。

「金なんざ、食えるだけ集まりゃ充分だ。名声なんざいらねえ。コンクールでグランプリとったって、誰も嬉しくない。オレが欲しいのは、まだ誰も経験したことがない種の感動なんだ。オレはオレのチェロで、オレにしか出来ない世界を作りたかった。
 貧民街に行ってさ、焚き火囲んでるホームレスと一緒に歌いながらチェロ弾いてた時が一番楽しかった。オレのチェロに合わせて、辛そうに生活してる奴らが笑いながら踊り出すのを見るのが、オレは好きだった。手前のチェロは、そのためにあるんじゃねーのかって思ったんだ。
 みんなは一流ホールで、タキシードの連中からスタンディング・オヴェイションを貰うのを目指してりゃ良い。でも、オレがそいつらと一緒でなけりゃならない理由なんて微塵もない。賞だの何だのを貰いまくって、小金持ちに成り下がった頃、オレは突然そのことに気付いた」
 ――分かるような気がする。
 エルキュール・ポワロみたいな口髭はやした美食家が舌鼓打つご馳走より、オレは部活で腹へって帰ったときに食うカレーライスの方が好きだ。受験勉強で夜中に小腹をすかせた時、誰もいない居間でかき込む一杯のお茶漬けが最高だと思う。ブランドのスーツめかしこんでキャビアやフォアグラ食うより、佐祐理さんの弁当を舞と奪い合いながら食うほうが、オレはいい。
 まあ、親父とオレとでは話のレヴェルが全然違うような気がしないでもないが。

「ま、そういうわけでオレは外に出た。チェロかついで世界を回った。あてなんてなかった。金出してクラシック聴くなんて生活を知らない貧乏人が、オレの観客だった」
「へえ」
 それは初めて聞く話だ。親父が若い頃そんなことをやっていたとは。しかも、オレと歳もそんなに違わない頃に。――たいした度胸と行動力だ。オレにはちょっと真似できないかもしれない。
「だが、当然そういう貧乏人が相手だと、稼ぎが少ない。スウェーデンの田舎を回っていた頃、オレの路銀はとうとう尽きた。で、腹へってぶっ倒れそうになった時に会ったのが――」
「もしかして、シルヴィア・エンクィストか?」
「そうだ」親父は笑う。「一曲弾くから、気に入ったら晩飯奢ってくれって言った」
「滅茶苦茶な出会いだな、おい」
「あいつはスウェーデンの古い貴族の末裔でさ、大富豪の箱入り娘だったわけよ。お前の知り合いで言うと、あの倉田とかいう嬢ちゃんみたいな感じだ。だから、オレみたいな奴が珍しかったらしい」
 そう言えば、箱入り娘の初恋の相手はアウトローっぽいどこぞの馬の骨と相場は決まっている。特に、栞が好んで見るようなドラマじゃそうだ。
「一曲オレのチェロを聞き終えたシルヴィアの奴は、オレをリムジンに乗せて自宅に連れて帰った。チェロが気に入ったから、自分の家でメシを食わせるとか言ってな。で、連れていかれた自宅ってのが、またドでかい豪邸だったんだよ。オレに与えられた客室も、個人じゃなくて家族単位で使うような広さがあった」
「それからどうなったんだ?」
「なんだか良く分からないうちに、オレはあいつの屋敷に居候することになった。部屋はやるから、自分の家だと思って自由にして良いとかなんとか」
「はじめて会った外国人相手にか?」
 ちょっと理解できない感覚だ。自分の街で怪しげなチェロ弾きと出会って、「一曲弾くから、気に入ったらメシ奢ってくれ」なんて言われたら、オレならどうするかねえ……。
 可愛い女の子だったら、家に連れて帰って贅をつくしたディナーでもてなすけど、汚い男だったらキン肉バスターでマットに沈めちまうかもな。思わず。

「で、本当に居候することになったのか?」
「うむ」親父は頷いた。「結局、1年半くらいシルヴィアと暮らしたかな。ロンドンで、夏夜子と会うまで」
「シルヴィアとはどんな関係だったんだ?」
 1年半も居候していたなら、それなりの発展はあったことだろう。親父は異性を惹きつける魅力があったとか、母さんや秋子さんも言ってたし。――オレは信じられないけど。
「シルヴィアが子供を産んで、それが切っ掛けで死んじまったって話を聞いた時、もしかしてオレの子供じゃねーだろうな? ……なんて思わされたくらいの仲ではあったな。ま、良く考えたら計算が合わないんだけど」
 中世の面影を色濃く残す旧市街を見詰めていた親父は、首を捻ると隣りのオレと視線を合わせた。
「シルヴィアとは色んな話をして、色んなことをした。シルヴィアは自分の才能を、世界を相手に試してみたいと言っていた。今まで誰も考えなかったものを創って、誰も信じなかったことを現実にしたいって。オレはチェロで、あいつは機械工学で。どっちが先に、自分の生き方を極めらめるか勝負しましょう――なんて、笑いながら言ってた」
 やり方は違っても、どうやら親父と彼女の目指す方向は同じだったらしい。ふたりが互いに惹かれ合ったとするならば、だからこそだろう。親父や母さんはいつもそうだが、そいつと付き合っていくことで自分を高められるような相手を友人に選ぶ。だから、親父たちの周囲には常にとんでもない奴らばかりが集っているわけだ。
 本当に強いやつは、いつも自分より強いやつを探して、そいつと戦いたがっている。だから、最強に近い連中はおのずと1ヶ所に集まってくる。今、その中心で1つの柱として機能しているのがエンクィスト財団であり、シルヴィア・エンクィストであり、ワイズロマンサーズなのだろう。オレは今、その遥かな高みを麓から見上げている。

「シルヴィアの凄さは、実際に会って、目を合わせて話してみればすぐに分かる。あいつの生き方を見てれば、良く分かるよ」
 親父は身体を反転させ、背中をバルコニーの手摺に寄りかからせた。そして夜空を見上げる。オレのに良く似た黒髪が、夏風に吹かれて柔らかくそよいだ。
「オレはあいつと過ごした日々の中で、色んなことを覚えた。シルヴィアから教えられたこととか、気付かされたこととかは沢山あって、それは確実にオレを変えた。そして、今のオレがあるわけだ。
 たとえあいつがこの世からいなくなったとしても、シルヴィアの残した影響力はオレの中で存在し続ける。オレが自分の人生でそれを活かそうとする限り、シルヴィアはまだ続く。それが、オレとシルヴィアの間にあったものの全てだ。――だから、祐一。あいつがどんな人間だったかを知りたいなら、これからオレが何をするかをしっかり見てろ。そして考えろ。それが、シルヴィア・エンクィストだ」
 その言葉は、一種の衝撃だった。そんなこと、今まで思いもしなかったからだ。今までの自分の世界には全くなかった考え方だ。
「そんな考え方も、あるんだな……」
 その人との出会いから学んだことや覚えたことを以って、死者を語る。
 それはこの世を去った友人たちの分の誇りを、背負うことに他ならない。彼らが偉大な存在であればあるほど、親父の双肩にかけられる重圧は尋常なものではなくなっていくだろう。自分を欺いたり、己を恥じたりするような行為をとれば、それは即座に彼らの魂を辱める行為に繋がる。
 でも、だからこそかもしれない。親父が揺るがないのは、自分の背負っているものに責任を持っているから。その重さをちゃんと理解しているから。だから、好い加減な生き方なんてしないんだろう。できないんだ。

「この考え方はな、当のシルヴィアが教えてくれたんだぜ?」
 親父は、こっちが何を考えているのかお見通しらしい。黙り込んでるオレを見て、やつは楽しそうに笑う。
「あいつは言ってたよ。今ある科学技術や知識は、先人たちが自分の生涯をかけて生み出してきたものだって。彼らはその発見や開発に全てを捧げてきて、私たちはその先人たちに力を貸してもらわないと何もできない。だから、科学者としてその偉大な先人たちに誇れるような行いを心掛けたいんだって。
 死んでいった人たちの技術や知識の力を借りるなら、彼らに顔向けできないようなことは出来ない。同じ科学者として、胸を張れることをしたい。自分も誰かの力になれるような何かを残したい。そして、いつか先人たちの列に加わる時、自分は笑っていたいって」
 自分の面倒だけで精一杯のオレには、死んでいった人間に対することまで考えが回らない。そんな余裕はない。だけど、シルヴィア・エンクィストは違ったらしい。
「シルヴィアからその言葉を聞いた時、ああ、こいつは凄い奴だなって思った。だから、こいつの側にいて、こいつがどんな生き方をするのか見てみたいと思ったんだ。オレにそう思わせるような奴だったんだ、シルヴィアは。――そして、思っていたように色んなことをオレに教えてくれた」
「そうして作られたのが、今の親父か?」
「そうだ」親父は力強く頷く。「オレはそれでできている」

 はあ、と感嘆の吐息を漏らしながら星空を見上げる。
 なんだか感覚が麻痺してしまうほど巨大なものを見せつけられた気分だ。本来なら、それと比較した時の自分の小ささを恥じたり悔いたりするものなんだろうが、ここまで格が違ってくるともはや爽快ですらある。
「まったく、この世にはとんでもない奴がいるもんだ。およびもつかねえよ」
 驚愕を通り越して呆れてさえいるオレは、思わず笑ってしまった。
 シルヴィアの思想や生き方が、正しいのか間違ってるのかは知らない。きっと、万人に受け入れられる種のものではないんだろうし、別に全人類が模範としなければならないものでもない。でもやっぱり、オレの目には凄いことのように思えるわけで。その時点で、オレは負けてるんだと思う。
 認めるにせよ、反論するにせよ、それに関する自分の考えをオレはまだ持っていないんだから。
「まあ、確かにお前には10年早いよな」
 親父はあっさり言うと、グラスの中のコークを氷ごと飲み干した。そして、口に含んだ氷をガリガリと噛み砕く。
「お前なんかじゃ、シルヴィアには一生追いつけないかもな。実に無理っぽい。お前、何かあるとすぐ逃げるし。状況が悪くなると諦めるし。挙句、すぐ泣くし」
「言いたい放題だな、オイ」
 オレは親父を睨みつける。が、やつは涼しい顔だ。

「まあ、お前は取り敢えず、これを片付けて来い」
 そう言うと、親父はジーンズのポケットをごそごそと漁り、クシャクシャになった紙切れをオレに差し出した。2つ折りにされている小さなものだ。何かのメモだろうか。
「なんだ、これ?」
 思わず受け取ってしまいながら訊く。広げて中身を見てみると、太い黒字のサインペンのようなもので、日時と住所のようなものが記してあった。日付は明後日、時間は午後3時。住所は恐らくロンドンの何処かだろう。いずれにも、特に心当たりはない。
「わけが分からん。何なんだよ、これは」
「その日その場所に、キース・マクノートンを呼び出しておいた」
「えっ」
 高圧電流を流されたように、オレの身体はビクンと強く跳ね上がった。様々な意味で、その名がオレにもたらした影響は大きい。精神が忘れようとしても、身体は正直だ。
「自分の中に、正面から向き合えないような憂いは残すな。克服できなくてもいい、少なくとも逃げるな。そんなんじゃ、いつまで経ってもオレたちの元には辿り着けねェぞ。立ち向かって、戦え。勝てるか、負けるかじゃない。逃げずに戦ったことが、自分の自信と誇りになるんだ。――祐一、ケリつけてこい」
 キースと戦う……?
 オレが、キース・マクノートンと。今度は、自分から。
「怖いか?」親父は見透かしたように言う。「それは当たり前の感情だ。オレだって不安や恐怖を感じることはあるからな。お前にそれがあったとしても不思議はない」
「親父にも?」
「オレは誰かに似たような生き方なんてしたくなかった。オレにしかできない生き方をしたかった。だから人とは違うルールを通して、違う世界を生きてきた。……でもな、人とは違う生き方をするってのは、それなりにシンドイもんだ。お前にはまだ分からねーかもしれないけどな。色んなプレッシャーもかかってくる。そんな中で何かに不安を感じることは少なくない。こりゃヤバイな、と思わされることもある」
 親父は視線を夜空に向けたまま続けた。
「だけど、オレはそれを克服してきた。強いってのは恐怖を感じないことじゃない。恐怖を感じた時、それを克服できるってことだ……って思っていたからな。その意味で、オレの人生ってやつは、まさしくBite on the bulletってやつの連続だった。きっとこれからもそうだろう」
 バイト・オン・ザ・ブレット。この国に来てから、もう何度その言葉を胸のうちで唱えただろう。困難を行くこと。恐怖を耐えしのぐこと。敢然と立ち向かうこと。――それが、バイト・オン・ザ・ブレットという言葉に込められた意味だ。
 オレは胸から下げた歪な弾丸を思わず握り締めた。
「生きてりゃ壁にぶつかることはあるだよろうよ。不安にもなるだろうし、何かを怖いと思うこともあるだろうさ。でも、お前もオレと同じだ。誰かに似たような生き方なんかじゃ満足できないはず。だったら、貫けよ。ぶち抜いてやれ。それが弾丸ってもんだろ」
 今のお前なら、ちょっとは分かるんじゃないか? そう言って、親父は笑った。







GMT Fri,28 July 2000 23:42 P.M.
Chocolate house Glasgow Scotland U.K.

現地時刻 7月28日 午後11時42分
スコットランド 「チョコレイト・ハウス」グラスゴー支部


 記憶中枢に致命的な問題を抱えた者でもない限り、人間は生涯において忘れ得ない瞬間を体験することが往々にしてある。刹那の出来事であったにも関わらず、それは文字通り脳に焼き付けられ、人は事あるごとにその光景を脳裏に思い浮かべるようになる。
 呆然とした表情でモニタを見詰めている三十六手を見れば、彼女が今まさにその瞬間を迎えていることは容易に窺えた。かく言うオレとて、そうだ。自分が目撃しているこの光景を、忘れることができそうにない。オレの傍らに立つ頓破ルンファーもそうだろう。
 オレたち皇聖五歌仙は、チョコレイトハウス・グラスゴー支部内の第4モニター室に閉じ篭っている。目的は、屋外を主な舞台として繰り広げられている異能者同士の戦闘を、映像資料として残すことだ。基地内のあちこちに仕掛けられたカメラやセンサーなどを通して、様々な戦闘データがここに集まってくる。そうして蓄積された数多の情報は、今後の研究や戦闘において大いに役立てられることだろう。

 そんな第4モニター室のメインスクリーンに、今、ひとりの異能者の姿が投影されている。
 戦場の熱風に踊る長いプラチナ・ブロンド。右がゴールド、左がエメラルド・グリーンと片方ずつ色の違うオッド・アイ。計算されたトレーニングで完全に体型と機能をコントロールされた肉体を、素材の知れないタイトな黒の戦闘用スーツで包み込んでいる兵士である。
 ――女だ。黒衣の女。人種は分からないが、肌は白人のそれだ。骨格からいって、恐らく北欧系だろう。
 オレたちは、その女に視線を奪われていた。何故か。その女が目を疑うほどの化物だったからだ。
 左手に青白く輝く刃を持つ、巨大な死神の鎌を構え――黒衣の女は戦場を駆ける。その戦闘能力は、オレたちが認識しているPSYMASTERSの規格を大きく逸脱していた。
 Aランクの異能者で構成された、スコットランド最強の小隊『ハイランダー』の隊員たちでさえ、何の抵抗も許されなかった。張り巡らした防御結界ごと、女はハイランダーたちを葬っていく。4人の身体が死鎌で両断されるまでに、2秒を要さなかった。

「オレたちは現実の光景を目撃しているのか?」
 ルンファーが唖然とした表情で呟く。
「計器に異常は見られない」
 同じ疑問を感じていたオレは、既に4度そのことを確認していた。結果は、オールグリーン。計器やシステムには一切の異常はない。オレたちが見ているのは現実に起こっている出来事だ。
「……なんなの、あの女」
 三十六手の声は震えていた。いや、声だけではない。その身体も痙攣するように小刻みに震えている。そして己を省みた時、自分の身体も三十六手と同様の反応を示していることをオレは発見した。
 この得体の知れない震え、平常心を乱すこの心理。――これが、恐怖というものなのか?
「ハイランダーはAランク能力者だけで構成されてるんでしょう。砕破、あなたならシールドで防御に回ったハイランダー3人を一撃で倒せる?」
「まさか。――不可能だ」オレは即答した。
「フォールディング・ソリッド・カノンでも?」
 三十六手が名付けた、オレの持つ最大出力の攻撃能力。だが、それでも答えは変わらない。
「不可能だ」
 ハイランダーは、全員がAランク。つまり、オレと同格だ。だが鷹山の言ったように、絶対的な戦闘経験が奴らには欠けている。その意味で、オレは奴らの上を行っていると考えて良いだろう。
 そうなると、時間をかければ個々撃破することは可能かもしれない。――だが、一撃で3人のAランクPSYMASTERSを殲滅することは、オレには不可能だ。相手が防御に回っていたとしたら尚更である。本気で守りに入った同格の敵を倒すのは、極めて困難な仕事だ。

「砕破だけじゃない。この世の誰にも不可能なはずだ。3人を同時に相手にして勝利するとなると、ランクで言えば2つ分は上位でなければ難しいだろう。Cランクが3人なら、Aランクでないと。Aランクが相手なら、AAAランクでないとな」
 スクリーンから片時も目を離さず、頓破は言った。
「だが、相手が完全に防御に回っているという条件下で、それでなお一撃で仕留めるとなれば、3ランクから5ランクは上位でないと難しい。相手がAランク3人なら……そう、最低でもSランクかそれ以上。
 この世界にはSランクの能力者とているかもしれないが、それでも難しい。ゾディアック・ブレイヴの幹部も、アルカナ・フォースの連中とてあんな芸当が可能だとはオレには思えない。世界に、あの女と同じことが出来る生物は存在し得ないだろう」
 アルカナ・フォースは、世界各国の部隊から選抜され構成される、エンクィスト財団最強の部隊だ。財団幹部会直属の小隊で、構成員をはじめとする詳細はその一切が極秘事項として扱われている。隊員のランクは平均でAAA以上だとか。アジア最強と言われるオレから見ても遠い世界だ。
「以上の条件から、オレはあの女の正体を特定できるように思える」
「――まさか!」三十六手の顔から、血の気が失せた。

「見ろ」戦場に異変が起こった。「奴が動いた」
 それは、VTRの一時停止画像を見せられているような光景だった。時が凍てつき、その全てが運動を停止している。風の流れが滞り、夜の闇にそよいでいた緑葉が揺れた状態のままで動きを止めていた。それだけではない。爆破され黒煙を上げながら燃え上がる施設の炎は、揺らめくのを忘れたかのように凝固している。
 人間も同様だ。迷彩服を着込んだ兵士たちもマネキンのように硬直、サブマシンガンで周囲にばら撒かれた数千発の9mmパラベラム弾も、その全てが宙でピタリと運動を止めていた。――戦場で戦う全ての兵士と異能者たちが、ジオラマに置かれたフィギュアになってしまったように凍り付いている。まるで世界の全てが、ぶちまけられた液体窒素で急速冷凍されてしまったかのようだ。
「なに、これ」
 三十六手は目を見開きながら、スクリーンに顔を近づけた。
「時が、止まった……?」
 確かにそう見えるが、全ての運動エネルギーが世界から失われたわけではない。
「よく見ろ、唯一あの女だけは動いている」
 スクリーンでそのポイントを指差すと、三十六手とルンファーは即座にそこに視線を寄せた。
 変化の概念が失われた世界で、唯一運動する存在がスクリーン越しに確認できる。あの黒衣の女だ。彼女は左手に死鎌を構え、戦場を高速で駆け巡る。その凄まじい速度は、残像や斜線でしか追いかけられない。そして奴は、人形のように固められた敵兵士を、その巨大な鎌で両断していく。
 殺されゆく兵士たちは、自分がいつ、誰に、どのようにして殺されたのかを認識することすらなく、死神に魂を奪われるように死んでいく。相手の姿すら見ることなく、突然に。
 再び時が動き出した時、もう戦場に立っている兵士は誰もいなかった。
「広域の空間全てに作用する、『PK−MT』および『PK−LT』の超大規模発動か? 或いは、一定空間内の全構成粒子を操作しているのか。それとも本当に時間に干渉しているのか――」
 ルンファーが掠れた声で呟いた。その額には、脂汗が滲んでいる。
「いずれにしても化物だな、奴は。あんな現象を引き起こすPSIなど聞いたことがあるか?」
 ……あるわけがない。

 ルンファーの言うように、時空間を操るサイキックの存在など財団すら知らないはずだ。
 空間内に存在する全ての物体、動体、生体、エネルギィのあらゆる変化を操作する。そんな兵士を敵に回しては、戦える術など人類にはない。どんなにデータを集めても、それは明らかだ。
 どう戦う? どう対処する? どんな対策を立てられる?
「少なくとも、あれが人間だとは誰も思わないだろう」
 これだけの情報と条件が揃えば、あの女の正体は容易に想像できる。
「あの黒衣の兵士こそ、この世の頂点に君臨する最強の異能者に違いあるまい」
「じゃあ、あれが認識コード『DEATH=REBIRTH』……!?」
 スクリーンの中の女を見詰めながら、三十六手は掠れる声でその名を唱えた。
「恐らくな」
 ある日、財団の施設が何者かによって襲撃されるという事件が起こった。AAランクの異能者で構成されたチームを中心に、駐屯していた守備隊202名は全滅。全ての設備、データは完全に破壊されるか奪われており、実験体として確保されていた子供たちも忽然と消えていたという。
   調査隊を驚かせたのは、なによりAA級を含む異能者202名が皆殺しにされていた点だ。財団は様々な調査の結果、なんらかの大量殺戮兵器が用いられたものと考え、これに死神を意味する『DEATH=REBIRTH』という認識コードを付けた。つまり202名の異能者を全滅させたのは、Thuringwethilが独自に開発した生物兵器か化学兵器の類の仕業であるという結論を出したわけだ。
 そのDEATH=REBIRTHが、たったひとりのサイマスターではないかという疑いが出てきた時、世界は震撼した。財団は恐慌状態に陥ったといっても良い。かつて、AAランクを含む202人もの異能者を、皆殺しに出来た生物など存在しなかったからだ。
 死神を見た者は生きて帰らない――。ひとりの目撃者が、死ぬ間際に「DEATH=REBIRTHは人間だった」という言葉を音声通信で残した以外、奴がどんな存在であるかを確認できるような資料は残っていない。画像も、音声も、映像も、そして目撃者も。

「オレたちは、とてつもない幸運に恵まれたのかもしれないな。死神を見て、まだ生きていられる」
 そして、彼女の射るような両眼が、スクリーン越しにこちらを見詰め返してきた。オレたちと視線が交錯する。隣りで、三十六手がビクリと身体を震わせるのが分かった。
 死神は真っ直ぐにこちらを見据えたまま、カメラに向かって右手の人差し指を立てて見せた。それがクイッと前後に倒される。オレたちの存在に気が付いているらしい。
「オレたちを挑発しているのか、あの女は」
「でしょうね」
 三十六手とルンファーの相貌には、恐怖が色濃く浮かんでいる。オレたちは、訓練によって幾つかの感情を排除できるように作られた。恐怖も、切り捨てられた感情の1つだ。――その筈だった。
「砕破、どうするの?」
 三十六手は、平常心と作戦上必要な精神的余裕をなくしている。今、戦場に向かわせるのは危険だ。どの道、財団の危機管理用マニュアルに従えば、オレたちがとるべき選択は1つしかない。
「逃げるぞ。この基地は破棄だ。死神が出てきた以上、もはやグラスゴー支部を防衛する手立てはない」







GMT sat,30 July 2000 14:51 P.M.
Wales U.K.

現地時刻 7月30日 午後03時51分
ウェールズ


 森と古城の国。確かに、ウェールズはそんな二つ名を冠するに相応しい土地だった。鮮やかな深緑の木の葉を持つ森林を分け入り、もう何時間車を走らせたことだろう。木々の隙間からさしこむ柔らかい日差しを見詰めていると、何だか気分が落ち着く。窓を全開し、半ば外に身を乗り出すようにして風を浴びる。オレは随分とそうして、ワゴン車の微かな振動に身を委ねていた。
 やがて視界が開け、木々に囲まれた小規模な広場に出た。太い丸太を無造作に組み合わせて建造したように見えるバンガローが2つ隣接して建っている。ちょっとしたキャンプ場のような所だ。車はそこで停まった。
「着いたんですか?」後部座席から香里が顔を覗かせて、運転席の男に訊いた。
「はい。お疲れさまでした」
 助手席に座るオレの隣りでステアリングを握っているのは、恐らく20代半ばくらいだと思われる若い白人だった。性別は男。金髪碧眼の結構なハンサムで、良く笑う温厚そうな人だ。
 彼は反財団派の武闘集団『Thuringwethil』のスタッフで、スイスのカストゥール研から戻ったオレをヒースロー空港で出迎え、名雪たちが逗留しているここまで連れて来てくれた。名前は――聞いたはずたけど忘れてしまった。正式に組織から出向してきた能力者で、これから日本に戻ってもオレたちの側で色々と面倒を見てくれる予定だという。
「ミスター・アイザワたちには、しばらくここで皆さんと一緒に留まっていただきます」
「だから、オレのことは祐一で良いって」
 まるでオレのことをプリンス・オブ・ウェールズのように扱う彼に、思わず苦笑してしまう。育ちが悪い人間だからして、オレはあまり丁寧に扱われるのに慣れていない。どうもこう、くすぐったいんだよな。ミスターとかサーとか言われると。
「分かりました、祐一」
 彼は多くの女性を魅了できるであろう、とても清々しい微笑を浮かべた。オレも無意味に歯を光らせることができるという素晴らしいテクニックを持っているが、流石に彼の笑顔には負ける。この男を相手に回して『甘いマスク合戦』をやろうものなら、オレのセコンドは第1ラウンドから早速タオルを投げこむ用意をしておかなくちゃならないだろう。
 顔で相手を選ぶタイプではないミッシーや舞は大丈夫だろうが、栞なんかは結構キャーキャー言いそうだよな。ドラマの主人公みたいで格好良いです、とか。羨ましい話だ。オレも1度で良いから、女の子にキャーキャー言われてみたいもんだよ。実際言われてみると鬱陶しいものなんだろうけど。その辺は複雑な男心ってやつだ。

 助手席から降りて広場に目をやると、まさにそのキャーキャー言いそうな少女、美坂栞の姿が見えた。2つのバンガローの間には、木の切株や丸太などの自然の素材を利用して作った大きなテーブルや腰掛けなどがあるのだが、彼女は、どうやらその長テーブルに食器を並べているようだ。もうすぐ午後3時だ。天気も良いし、外でティ・タイムと洒落こむつもりなのだろう。
「あ、祐一さんです」
 目ざとくオレを発見した栞は、パタパタと元気に駆け寄ってきた。
「祐一さん、おかりなさい。ついでにお姉ちゃんたちも」
「おう。久しぶりだな、栞」
 実際は2日程度しか離れていなかったわけだが、なんだか栞の声を聞くのが本当に久しぶりのことのように思えた。
「ついで扱いとは酷いものね」
「美坂先輩はまだ良いほうですよ。私に至っては、名前すら出てませんから」
 オレに続いてワゴンから降りてきた香里と天野が顔を見合わせる。
「あれ、祐一さんのご両親はどうしたんですか?」
 にこにこと笑っていた栞は、親父たちの姿が無いことに気付きキョロキョロと辺りを見回した。
「ロンドンで別れたわ。仕事もあるでしょうし、彼らには彼らの生活があるのよ」
 香里がいつも妹に向ける、優しく教え諭すような口調で言った。
「むー、もっとお話したかったです。お姉ちゃんたちだけ一緒にいて、ズルイです」
「また会えるさ」むくれる栞の頭に手を乗せる。「オレたちが日本に戻る時は見送りに来るだろうし、年明けには1度戻ってくるっていってたしな」

「あっ、これ!」
 栞はようやくオレの右腕の存在に気付いたらしい。
「ロマンサーですね。祐一さんのお父さんと同じです」
「おう、Romancer-KsX 2.82――通称ワイズロマンサーだ」
 オレは右拳を固めて、ガッツポーズを作った。鏡のように艶やかな黒い無重力合金が、夏の日差しを反射して煌く。栞の目は、その右腕に釘付けだった。
「ちゃんと貰えたんですね。凄いですぅ」
 栞はくりくりとした大きな目を見開いて、ロマンサーに顔を寄せた。そんな妹を、香里は微笑ましく見守っている。姉に妹がおちょくられているシーンは良く見るが、基本的に美坂姉妹はとても仲が良い。
「触っても大丈夫ですか?」
「好きなだけ触っていいぞ。美少女とのスキンシップを嫌がる男なんてそうはいない」
 もっとも、ロマンサーはスキン(皮膚)に覆われてはいないけど。
「私、美少女ですか?」少し顔を赤らめて、栞は上目遣いに訊いてくる。
「もしその自覚がないなら、この世から美少女を自認してる娘は大勢消えうせなきゃならないだろうよ。オレの知る限り、お前は相当のもんなんだぞ。なあ、香里?」
「なんであたしに訊くのよ」香里は曖昧な微笑を浮かべた。「そういうことは、専ら異性が評価するものなんでしょう?」
「まあ、そうかもしれないけど」
「良く分からないけど、なんだかとっても嬉しいです」
 オレの右手を両手で包み込むようにして握り締めると、栞は満面の笑みを浮かべた。






 山小屋だかバンガローだかは知らないが、とにかくオレたちがウェールズにいる間の仮住まいとなった丸太小屋は、2階建ての結構大きなものだった。1階の大部分は共同生活空間で、ダイニングキッチンと水洗トイレ、そしてシャワールームなどが完備されていた。まだ新しい建物らしく、どの部屋も爽やかな木の香りが漂っている。オレはそれを感じた瞬間、この小屋がとても気に入ったものだ。
 それから、2階。完全な個室ブロックとなっているこのフロアには、合計6つの寝室があり、1部屋に2つずつのベッドが完備されていた。つまり12人の人間が不自由なく暮らせる、非常に大きな生活空間が確保されているわけだ。もはや小屋というレヴェルを超えているかもしれないな。これは。
 オレは、寝室ひとつを1人で独占できることになった。部屋の数が多いので、こういう贅沢も可能なわけだ。流石はThuringwethil、いい物件を紹介してくれたものである。
「あーっ、祐一さん!」
 荷物を置いて1階に下りると、キッチンでサンドウィッチを作っていた佐祐理さんとエンカウント(遭遇)した。銀色のトレイの上には、新鮮なトマトやレタスを贅沢に使った美味そうなクラブ・ハウス・サンドウィッチがのっている。どうやらそれを外のテーブルに持っていこうとしていたところらしい。
「祐一さん、お帰りなさい。旅はどうでした?」
「良い旅だったよ。スイスは本当に綺麗なところだ。今度は一緒に行こうな、佐祐理さん」
「はい」
 満面の笑みを湛えて頷く彼女のスキをついて、クラブ・ハウス・サンドを1つチョロまかす。3段重ねのそれはボリューム満点で、小腹の空いたオレには最高の代物だった。レタスのシャキシャキとした歯ごたえとトマトの甘酸っぱさ、ハムの香り、それにマヨネーズの味。どれをとっても文句のつけようがない。

「あーっ! めっ。めーですよ祐一さん」
 佐祐理さんは子供を叱る母親のような顔で、オレの肩をポコポコと叩いた。意外かもしれないが、佐祐理さんの躾は結構厳しいのだ。
「つまみ食いなんて、お行儀が悪いです」
「ゴメン、ゴメン。おわびにこのトレイはオレが運ぶから」
「向こうのテーブルについた時には、トレイの上には何も残ってなかった――なんてことになりませんか?」
「ならない、ならない」思わず苦笑する。オレは佐祐理さんとのこういうやり取りがとても好きだ。だから叱られると分かっていて、ワザと悪戯をしてしまう。彼女もそのことを良く知っているから、最後は笑って許してくれるのだ。佐祐理さんはきっといい母親になる。
「あ、そう言えば舞は?」
「舞は森に行きました。鳥さんと遊んでくるとか言ってましたよ」
 小学生か、あいつは。……いや、だが舞なら鳥と会話くらいはできるかもしれん。自分の手にとまった小鳥を相手に、ぴよぴよ言いながら謎の会話をする舞の姿を想像して、オレは思わず吹き出した。大いにあり得そうだ。
「これからティ・タイムなんだろ。呼び戻した方が良いんじゃない?」
「そうですね。仲間ハズレにすると、舞にチョップされちゃうかもしれませんから」
 佐祐理さんは嫣然と微笑む。やっぱり、作り物じゃない自然な笑顔は見ていて気分が良い。それにこっちの方が綺麗だ。佐祐理さんはよく自分の気持ちを隠すために仮面のように笑顔を見せるけど、オレはそれがあまり好きじゃない。
「飲み物は何があるかな。できたら、冷たいジュースかアイスコーヒーが欲しいところだけど」
「はい。祐一さんがカバさんのようにがぶ飲みしてもなくならないくらいの飲み物を用意しておきます」
「よろしく頼みますよ」
 オレは言い残すと、約束を果たすべくクラブ・ハウス・サンドのトレイを受けとって外に運んだ。準備は順調に進んでいるようで、丸太をダイナミックに使ったテーブルの周囲には既に殆どのメンバーが集っていた。いないのは森にいっている舞とキッチンの佐祐理さんくらいか。

「あ、祐一。おかえり」
 スコーンやビスケットをのせた銀色の皿を並べていた名雪が、咲くような笑顔を見せてくれた。
「おう、元気だったか名雪」
「うん。わたしはいつも元気だよ」
「寝坊して秋子さんやみんなに迷惑かけなかったか?」
「うー」途端に、名雪は困ったように眉根を寄せた。分りやすい奴だ。
「どうやら思い当たることがあるみたいだな」
 苦笑しながらも、ちょっと意地悪く言ってやる。
「そんな名雪君にはペナルティだ。舞が森に遊びにいってるらしい。その辺にいるだろうから探して連れてきてくれ。早く来ないと、佐祐理さんのお手製クラブ・ハウス・サンドがなくなるぞってな。そう言えば、やつは文字通り飛んでくると思うから」
 ――果たして、舞は期待通りカッ飛んで戻ってきた。陸上部であるはずの名雪が引き離されるほどの速度だ。よほどサンドウィッチを食いたかったのだろう。まったく、AMS最強のプロポーションを誇るくせして色気より食い気が先行しがちな奴だ。それが舞らしいと言えば舞らしいところなんだけど。
「お帰りなさい、祐一さん。スイスはどうでしたか?」
「良い旅でしたよ」秋子さんとも挨拶を交わす。「新しい右手も手に入りましたし」
 オレのその言葉に、彼女はにっこりと微笑んだ。秋子さんには今回の件で色々と迷惑をかけてしまった。トータルで考えると、オレはこの人に一生かかっても返せないくらいの大きなカリがあるのではないだろうか。
「それはそうと、ここに並べてあるお菓子は秋子さんが作ったんですか?」
 丸太の大テーブルには、既に手作りケーキやサンドウィッチなどが色鮮やかに並べられていた。オレが目をつけたのは、キツネ色に焼かれた美味しそうなチーズケーキだ。記憶が確かなら、これは秋子さんの十八番だったはず。甘さ控えめの大人向けチーズケーキで、底に敷かれているビスケットを砕いて作った層の歯ごたえが素晴らしい逸品だ。
「ええ、そうですよ。大体は私と倉田さんが作ったものです」
 それは楽しみだ。






 ――こっちに来てから、もはや恒例となりつつある午後のティ・タイムは終始和やかに行われた。Thuringwethilから出向してきた7人のエージェントたちも、オレたちとの親睦を深めるために参加してくれたし、オレの新しい右腕の披露もその場でなされた。
 特にロマンサーの存在は、このお茶会のメインを飾る出し物になった。既に詳しいことを知っている香里と天野を除く全員が強い関心を示したせいだ。見なれない者には、生身の腕のようにリアルに動く義手の存在が珍しくて仕方が無いらしい。フォークはきちんと持てるのか、卵を割らずに掴むことはできるのか、物に触ったときはどのように感じるのかなど、彼女たちは色々な質問をぶつけてきた。それに答えてきたマネージャーの香里くんは、好奇心旺盛な生徒たちの質問攻めにちょっとお疲れ気味のようだ。オレの隣りで、コッソリと溜息なんか吐いている。……あとで肩でも揉んでやろう。
「あ、そうそう。ロマンサーで思い出した。佐祐理さん、ちょっと相談があるんだけど」
「はい?」
 舞のティカップに紅茶を注いでやっていた佐祐理さんは、柔らかい微笑と共に顔を上げた。
「いやさ、このロマンサーのことなんだけど――1ヶ月に1回はメンテナンスをした方が良いらしいんだよ。色々とデータも向こうの研究所に送らないといけないし、一応精密機械だしさ」
「ええ、はい。そうですね」
「でさ、そのメンテナンスに色々と機材が必要なんだよね。カストゥール研の所長さんが日本にそれを送ってくれるって言ってたんだけど、それを佐祐理さんのところに置かせて貰いたいんだ」
 今ではAMSマンションと呼び親しまれている佐祐理さんと舞のマンションは、オレたちパーティの拠点でもある。カフェテリアにホームシアター、巨大な図書室と色々な設備も整っていて、放課後になるとちょくちょく寄らせてもらっている。特に香里と美汐は珍しい文献を漁れたり、無料でスーパーコンピュータを弄れるとあって頻繁に出入りしているようだ。
「ほら、佐祐理さんがオレにくれたデカイ部屋があったでしょ。あそこを、ロマンサーのメンテ専用ルームにさせてもらえないかなーなんて思ってさ」
「あははーっ、あの部屋は祐一さんのものなんですから好きに使っちゃってください」
 太っ腹な佐祐理さんは、普通に考えれば億の値がつく部屋を丸ごと1個オレにプレゼントしてくれていた。恐ろしい話だが、同様に名雪や香里たちも自分の部屋を譲渡されている。彼女たちは高校生にして、永遠に住居に困らないという保証を手にしているのだ。冷静に考えると、とんでもない話だよな。
「でも、そうですねえ。そういうことでしたら、新しく専用のお部屋を作りましょう。屋上に空いているスペースがありますから、そこにちょっとした小屋を立てて、機材はまとめてそこに運び込むといいと思いますよーっ」
 またブルジョワなことを簡単に言い出す佐祐理さん。彼女のマンションの屋上には、露天風呂とデカイ大浴場があったりする。確かにその隣りには空いているスペースがあって、オレたちは時々そこでバーベキュー・パーティなんかを開いていた。

「でも、そのメンテナンスって誰がやるんですか? 研究者さんが日本に来てくれるとか」
 はぐはぐと小さな口で一生懸命にサンドウィッチを頬張っていた栞が、小さく首を傾げながら言った。確かにもっともな疑問である。
「それに関しては、あたしと天野さんに一任されているわ」
 答えたのは香里だ。
「と言っても、あたしたちにできるのは本当に簡単な手入れだけだけどね。まあ、それに関することは色々とレクチャーしてもらってきたから。相沢君が無茶をやってロマンサーを大破させたりしない限りは、あたしたちでも充分に役に立てるはずよ」
「はは……大事に扱うよ。うん」
 鋭い牽制を受けて、オレは慌ててそう言った。
「まあ、明日はちょっと酷使することになるかもしれないけどな」
「え、明日って何かあるの?」
 クラッカーに大好物のイチゴジャムをのせながら、名雪が怪訝そうな表情で言った。
「ああ。明日、あのキース・マクノートンと会うつもりなんだ」
「キース・マクノートン?」
 名雪はキョトンとした表情で、隣りの席のあゆと顔を合わせた。聞き覚えはあるが、誰だったか思い出せないといった感じだ。
「ちょっと、それってあなたを拉致して、爆弾と一緒にあの倉庫に閉じ込めたマフィアじゃない」
 柳眉をしかめて、香里は言った。心なしか、語気が荒い。
「あ、そうだ。ボクたちをさらった金髪の人!」
 香里の言葉であゆや名雪もようやくキースのことを思い出したらしい。大きな目を更に大きく見開いて、驚愕の声を上げる。
「相沢さん、正気ですか?」
 美汐までが、渋谷で発見したホタルを見るような目でオレを見詰めてくる。そんなに驚くようなことだろうか? ……まあ、驚くことだよな。オレも実際、親父からこの話を持ちかけられた時は仰天したし。

「祐一、会ってどうするの」
 皿に乗っている食料を片っ端から食いまくっていた舞が、はじめて手を止めて言葉を発した。その目は鋭い。なにしろ、相手はあのキース・マクノートン。オレたち親子が片腕を失う切っ掛けを作った張本人だ。無理もない。
「会って、戦う」
「――戦う?」香里は肩眉を吊り上げた。「殴り合いでもするつもりなの」
「ああ。平たく言えばケンカだ」
「うぐぅ、どうしてケンカなんてするの」
「そうです。暴力なんて間違ってます。時代は対話です。愛です。愛と対話による解決です」
 あゆと栞は口々にバイオレス・スタイルを否定してくる。まあ、気持ちは分からないでもない。
「だけどなあ……。他人に苦痛を与えて、そいつが苦しむさまを見るのが3度のメシより大好きって奴だぜ? そんな人間を相手に、愛と対話による解決が期待できると思うか?」
「やってみないと分からないじゃないですか」
 栞は拳を握り締めて力説する。確かに『やってみないと分からない』ってのはオレの信条なんだが、それも場合によりけりだ。
「愛と対話じゃ、無くなった腕は元には戻らないよ」
「確かにね」香里は首肯する。そして、オレと視線を合わせて言った。「でも暴力でも戻らない」
「そうだな。だけどこれはオレの問題だ。悪いけど、最終的な決定はオレの意思でさせてもらう」
「それは勿論ですが、では何故、そのことを私たちに?」
 こんなときでも、天野の表情は変わらない。だが明らかに興味は持っているようだ。最近、それがわかるようになってきた。
「オレたちはパーティだ。オレの生き方に大きく関わるような問題は、できれば共有してほしい。明日キースと暴力で激突するっていう考え方に変わりは無いが、それを見届けたいならそうしてくれていいと思ってさ」
「うー。わたしには良く分からないよ」
 名雪は眉をハの字にして、唸った。
「分からなくて良いのよ。こういう時の男って、どうしようもない馬鹿なんだから」
 香里は諦観しきった顔で、軽く肩を竦めた。さすが、学年主席。こういうことも、良く分かっていらっしゃる。
「――本当、手の施しようのない馬鹿よね」







GMT Sun,31 July 2000 16:14 P.M.
London U.K.

7月31日 日曜日 午後04時14分
イングランド ロンドン北部


 翌日の午後4時過ぎ、オレはThuringwethilの護衛が運転してくれるワゴン車の助手席に乗っていた。後部座席には秋子さんを除くAMSのメンバー、つまり名雪、あゆ、舞、佐祐理さん、天野、そして美坂姉妹が陣取っている。結局、彼女たちは一部始終を見届けることに決めたらしい。パーティの一員として、オレがキース・マクノートンと並々ならぬ因縁を持っていることを知っているためだろう。今度のことは、将来の相沢祐一を占う上でもかなり重要な要素となってくる。それを彼女たちが見逃すはずはない。
 車は既にウェールズを出て、イングランド北部に入っていた。もうすぐ、佐祐理さんの別荘があったハムステッドを通過するといった辺りだ。約束の場所までは、もう1時間もかからないだろう。そのことを思うと、流石に緊張してきた。
 その時、備え付けの自動車電話からコール音が鳴りだした。このワゴンはThuringwethilのスタッフによって色々とカスタマイズされていて、コンピュータのようなものやレーダーらしきもの、専用電話や無線機の類がゴテゴテと積みこまれていたりする。聞くところによると、タイヤもガラスも対弾仕様の特注品らしい。マシンガンで襲撃を受けても安心だと、エージェントは笑っていたものだ。
「はい、こちら相沢」
 運転手に断ると、オレは受話器を取り上げた。
「ギブソンです」外国人特有の訛りがある日本語だ。「一通り調べましたが、特に問題はないようです。待ち伏せやトラップ、狙撃などの準備は見当たりません。オール・グリーンです」
「それで、奴は?」
「キース・マクノートンはまだ到着していません。引き続き、調査を続行します」
「そうですか。ちょっと安心した。どうもありがとう」
 オレは受話器を置いた。
「祐一、誰から?」後の席から、名雪が問いかけてくる。
「偵察に出てくれた、佐祐理さんのボディガードからだ。今のところ異常はないってさ」

 相手はキース・マクノートンだ。恐らく今日の呼び出しに応じはするだろうが、正面から正々堂々とやってくるとは限らない。待ち合わせの場所に先にやってきて罠を張って待ってるかもしれないし、拳銃やマシンガンで武装した部下を何人も連れてくるかもしれない。その危険性を考慮して、プロの特殊部隊である佐祐理さんのガードが先行して偵察をしてくれているのだ。
 今の報告によると、キースはまだやってきていないらしい。約束の時間は、今日の17:00ジャスト。まだ半時間以上の余裕があるから、それも不思議はない。
「キースは来ると思いますか?」
 オレは隣りの運転席でステアリングを握る護衛に問いかけた。ラルフ・リチャードソン、佐祐理さんに雇われて専属ボディガードを務めていたベテランだ。鷹山さんの留守の間、チームの指揮をとって『サイバー・ドール』の襲撃からオレたちを守ってくれた人でもある。
「シロウトの君にここまでナメられたんだ。必ず姿を見せるだろう」
 彼はイースター島のモアイ像みたいに厳つい顔を前に向けたまま、重々しく言った。その低く深みのあるバリトンには、人に有無を言わせない強力な説得力のようなものがある。
「すみません、オレのわがままにつき合わせちゃって」
「やはり君も日本人だな」彼は一瞬だけオレを見ると、小さく口元を綻ばせた。「日本人はこういう時、必ず『すみません』と謝るが、我々は逆に『ありがとう』と言う。協力してくれたことに感謝していることを示すためだ。――同じことでも、謝罪されるより感謝の言葉を投げかけられる方が嬉しいだろう」
「なるほど」
 オレは首肯した。確かに相沢祐一は日本生まれの日本人だけど、海外の考え方に共感を覚えることもある。だから、オレは笑顔で言いなおした。
「オレのわがままに付き合ってくれてありがとう、ラルフ」
「気にするな、相棒。俺もハイスクール時代は、君と負けないくらいの大バカだった」
 そう言って、彼は上機嫌で笑う。ハッ、道理で話の分かるおっさんだと思った。
「バカってのは、それが許される若いうちに思いっきりやっておくもんだ」
「それは名案だ」
 オレたちは顔を合わせて笑い合う。――まあ、オレは人の親になっても、ガキみたいに年中バカやってる男をひとり知ってるけどな。

 そうこうしているうち、ワゴンはロンドン中心部に入った。親父が待ち合わせの場所として指定したのは、マクノートンと裏で繋がっているらしい『ホルキナ・コネクション』という地元企業の本社ビル屋上だった。シティと呼ばれる一帯の東端に高く聳え立っている高層ビルで、遠くからでも良く目立つ。
 街の中でも相当高い場所にあるから、狙撃の恐れが小さいのがメリットだ。少なくともボディガードたちはそう言っていたし、恐らく親父もその辺を計算したんだろうと思われる。それにしたって相手の懐に飛び込むという不利には変わりないが、マクノートン側もこっちに強力な戦力が付いていることは知っている筈だ。なにせ、拠点の1つを襲撃され瞬く間に占拠されたのは数日前の話だからな。オレも奴が怖いが、向こうもこっちを少なからず恐れているはず。完全にこっちだけが不利というわけでもない。
「でもなぁ」
 ……いかん。少し笑って緊張がほぐれてきたと思ったが、またドキドキしてきた。なにせ、相手がマフィアとなると揉めごと起こすのも命懸けだからな。相手があのキースとなれば、尚更だ。オレや親父は、あいつが他人の命を奪うことに何の躊躇いも覚えない人間であることを良く知っている。まさに、その身を以って。
「硬くなるな。程よい緊張は起爆剤にもなるが、緊張のし過ぎは実力の発揮を抑えるマイナスの要因になる。リラックスしろ」
「それは分かってるんだけど――」
 口で言うのは簡単だ。だが、リラックスしろと言われて、本当にリラックスできるなら誰も苦労はしない。せっかくのボディガードの助言だが、今回だけはあまり力になりそうもなかった。なんにせよ、これはオレの問題なんだしな。

 突然、また電話が鳴りだした。神経が過敏になっていたのか、思わずビクリと飛び跳ねてしまう。
「はい、こちら相沢」
 ともすれば震え出しそうな手で受話器を取る。喉から搾り出した声は、自分でも滑稽に思えるほど硬いものだった。もうガチガチらしい。
「こちらギブソン。キース・マクノートンが『ホルキナ・コネクション』本社ビルに現れました。正面玄関で、リムジンから降りたところです」
 ――キース。やっぱり来たか。
「了解、それで奴はひとりですか?」
「いえ、ボディガードと思われるスーツの男がひとり付いています。フリッツと呼ばれていた、あの大男です。現在のところは、他に誰かを連れているというような様子は窺えません」
「分かりました。ありがとう。こちらも、もうじきそちらに到着します」
「気を付けて。こちらは所定の位置でスタンバイしています」
 受話器をフックに戻す。顎を上げて深く息を吐き出した。もう、あと戻りはできない。
 フロントウィンドウに眼を戻せば、シティに林立するビルの谷間にホルキナ・コネクションの銀色の威容がチラチラと窺える。もう数分で到着するだろう。

「あの……祐一さん」後から佐祐理さんが遠慮がちに声をかけてきた。
「どうしても――その、本当にやらなくてはならないんですか?」
 暴力や殴り合いなどから1番程遠い世界に生きるお嬢さまだ。今からオレがやろうとしていることに意義を見出せないのも仕方がない。
「あのね、佐祐理さん」
 オレは頭の中で言葉を探しながら、後ろに首を捻って彼女と視線を合わせた。
「世の中には、佐祐理さんのように上手に社会と付き合っていける人間ばかりがいるわけじゃないんですよ。オレみたいに、どのシステムに属しても異分子として見られるような奴もいる。そういう人間にとって、世界ってのはとても生きにくい場所だ。自分を貫こうとすれば、それを潰そうという圧力が四方八方からかかってくる。それと折り合いつけることも、妥協することも、なあなあでやっていこともできない不器用な人間は――ある意味、こういうやり方でしか自分を主張できないんだ」
 オレは心配そうな顔を覗かせる佐祐理さんを一瞥すると、歪に微笑んで見せた。それが、今のオレにできる精一杯の笑顔だった。
「キースとオレは、その面でちょっとだけ似ている。オレは幸運なことに、佐祐理さんや他の皆のような理解者に恵まれることができた。システムから見れば半端者かもしれないけど、でも自分を受け入れてくれる人がいる。――でも多分、キースにはそれがないんだ。何百人っていう部下を従えていても、あいつは孤独なんだろう。人との人との繋がりが希薄だから、他人の気持ちを想像したり思い遣ったりすることもできない。その能力に欠けているんじゃなくて、その能力を開発する機会に恵まれなかったんだ」
 オレはそれを、とても哀れなことだと思う。
 不意に、腕を切断して倉庫から抜け出した時のことを思い出した。あの時、オレは気絶したあゆの身体を抱えて一生懸命に歩いた。切り落とした右腕からの出血は酷くて、体温は低下していく一方。寒くて溜まらなくて、夏なのに凍えてしまいそうだった。そんな時、抱きかかえた月宮あゆの存在を、オレはとても温かく感じたものだ。
 朦朧として、全ての事柄がボンヤリと霞んだようにリアリティを欠いた世界の中、それだけが確かなものだった。ああ、人間ってこんなに重たくて、こんなにあったかいものなんだなって、強く実感することができた。
 恐らく、キースはそんな風に人間を感じたことがないのだろう。誰かを温かいと思ったことがないのだろう。誰かに愛情を感じたことがないと言い換えてもいい。そしてそれが、本質的には似通っている相沢祐一とキース・マクノートンを別つ決定的な要素だ。
 そしてオレは、それをこの勝負で明らかにしたいと願っている。僅かだけど、決定的に異なるその点が、今の相沢祐一にとって掛け替えの無いものだと証明するために。他の誰でもなく、自分自身に思い知らせるために。

「――着いたぞ。ホルキナ・コネクション本社ビルだ」
 護衛が右手をステアリングから離し、サイドブレーキを引き上げた。エンジンが止まる。助手席から降りると、眼前には天を突くような銀色の高層ビルが聳え立っていた。
 この1番高い場所で、キース・マクノートンがオレを待っている。
「祐一……」
 後部座席から降りてきた名雪が、傍らに寄り添うようにして近付いてきた。改めて表情を窺うまでもなく、彼女が極めて大きな不安を感じていることが声音から感じ取れた。無論、同種の不安と緊張がオレの中にもある。
「心配するな、名雪。別にオレは死にに来たわけじゃない」
 それは名雪を安心させるだけでなく、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「それに、ロマンサーもあるからな。マフィアの坊ちゃんなんかに、もう負けやしないよ」
 これ以上彼女たちに引き止められてしまうと、本当に逃げ出したくなってしまう。そうなる前に、まだ何か言いたげな8人の少女たちを引き連れ、オレはホルキナ・コネンションの正面玄関に向かった。そして白い大理石の柱で支えられた片流れの小屋根を潜り、曇り1つない大きなガラスの自動ドアの前に立つ。滑るようにそれが開くと、そこには2メートル近い身長を誇る巨漢が待ち構えていた。
 見覚えがあるどころじゃない。こいつとは拳を合わせた経験もある。キースがフリッツの名で呼んでいた、奴の専属ボディガードだ。
「Mr. Aizawa?」
「Yes. 」

「We're ready for you.」
 知ってるよ。だけど、なにやら棘のある言い方だ。オレが後から到着したことが気に入らないのだろうか。チャレンジャーは、チャンピオンの到着を先にリングインして待っておけってことか?
「He is waiting for you in the top. you'll just follow me.」
 クマのように巨大な男は、そう言うとさっさと歩き始めた。凄い大股だから、オレや名雪たちは小走りであとを追わなければならなかった。もっとも、それもエレベータに着くまでの話だ。
 全員が乗りこむと、軽い浮遊感を伴ってエレベータは上昇をはじめる。10人もの人間が乗りこんでいるというのに、その場には終始沈黙が垂れこめていた。
 やがてフロアのカウントが屋上に到着したことを示した時、音も無く扉は開かれた。高鳴る心臓を宥めすかし、唾を飲みこむとオレは1歩を踏み出す。非常階段と合流する小さな踊り場から外へ続くドアを開くと、そこには荒れ狂うような風の吹きぬけるルーフトップ・フロアが広がっていた。中央には橙色のラインで巨大な新円が描かれていて、その中央にはHの文字が刻まれている。ヘリポートだ。
 その中心――こちらに背を向けて、南を流れる雄大なライン川を見下ろす男は、いた。長いブロンドが激しい煽ち風を受け、まるで命を宿した独自の生物のようになびき蠢く。
 キース。キース・マクノートン。
 思えば、ワイズロマンサーにまつわる全ては、ある意味でこの男との邂逅から始まった。奴の存在が相沢の人間たちを変えた。もしかすると4年前にはじめて顔を合わせたその瞬間から、オレたちはこうして対峙することを運命付けられていたのかもしれない。

「Here it comes.」
 オレの到来を気取ったか、奴はゆっくりと振り向いた。碧眼が射抜くような鋭さを伴ってオレに向けられる。視線が交差した。
「――お前たちは、ここで待っていてくれ」
 名雪たちに言い残すと、オレは前進した。1歩ずつヘリポートへと歩み寄っていく。奴は唇の端を吊り上げたまま、獲物を狙う肉食獣のように目を爛々と輝かせてオレの一挙手一投足に注目している。
You'd better be ready for this.
 その距離、約5メートルといったところか。オレは奴と正面から向き合うと、右の拳――ロマンサーを突き出して宣言した。
Hmm, tell me boy...
 キースは面白そうに笑い、懐からハンドガンを取り出した。そして、それを手の中で転がすように弄びながら、オレに余裕の笑みを投げかける。だが、オレは動じなかった。もし奴の銃がこっちに向けられたら、影にスタンバイしている護衛たちが何らかの行動に出てオレを守ってくれるはずだからだ。
「Is there a good reason why I just kept you alive?」
「No.」

 顔に似合わずお優しい質問だな、キース。お前がオレを殺さずにいる理由か。そんなもの、あるわけないよな。訊くまでもなく。
「OK. No guns.」
 そう言うと、キースは銃を投げ捨てた。その黒いプラスティック・フレームはコマの様に回転しながら、屋上の床を滑っていく。そして遠く離れたどこかの溝にはまったらしく、その姿を消した。
 決着は拳で――か。上等だ。







GMT Sun,31 July 2000 17:00 P.M.
London U.K.

同日 午後05時00分
イングランド ロンドン


「キース……。会いたいと思ってた、お前に」
 正直、オレの心のどこかでは、今でもこの場から立ち去りたいと願う部分が存在している。奴から受けた肋骨や腕をはじめ全身数カ所の骨折、打撲は数え切れない。以前戦った時に受けた恐怖が、まだ消えていないんだ。それは一種のトラウマとして、オレの心に焼き付いている。
 だからこそ、オレはそれを何とかしなくちゃならない。腹の中に向き合えない何かを残したまま、ワイズロマンサーは名乗れない。今日が、その時なんだ。オレが今、そう決めた。だから、それは覆らない。
「あの時、オレはアンタに殺されかけた。アンタは化物のように恐ろしくて、強くて、残忍だった。アンタが恐ろしかったよ。2度と会うまいと思ってた――」
 死ぬ寸前まで完膚なきまでに叩きのめされた相手と対峙し、再戦に挑むには強い精神力が要る。震え出す体と、心の奥底から湧き上がってくる恐怖を、力尽くで捻じ伏せることができるような意志の力だ。雪に閉ざされたあの街に帰るまで、オレにはそれが無かった。それを克服しようだなんて考えたことすらなかった。
「でも今は違う」ロマンサーの拳を固める。「アンタと戦いたい。そして勝ちたい。お前と戦うことが、命と引き換えの賭けだって知ってるけど」
「What are you talking about?」
 オレの日本語を解せないキースは、眉間に皺を寄せて怪訝そうな顔をする。――いや、言語だけじゃない。オレの考え方自体、アンタには理解できないだろうさ。それが生んだ僅かだけど、でも今この場では決定的に作用する、オレとお前の差ってやつを教えてやるよ、キース坊ちゃん。

「Keith. It's about time we met. This clown is going to show you his bag of tricks!」
「Heh! It's more than your face that makes people laugh.」

 キースは薄く笑いながら肩を竦めた。そして真顔に戻ると続ける。
「Why do you do it, jap? You never have a chance.」
「Funny. One objection is not the end of the world. 」

 唇の端を持ち上げると、トントンとその場で軽くステップを踏みながら身体を揺らす。大切なのは、リズム。絶対に狂わない何かを、常に自分の中で意識し続けることだ。
「The only way of finding the limits of the possible is by going beyond them into the impossible, pal.」
 第1ラウンドはお前のもんでいいよ、キース。だから、再開しよう。4年越しの第2ラウンドだ。
「Come on, wise guy. Get serious or get lost!」
 キースを挑発し、構える。今のオレに、もう気負いはない。
「Scientists announced yesterday that life actually originated on the ocean floor. And the Mafia announced that's also where life ends.」
 キースも同様に構え、オレと正面から対峙する。奴のポーズは、完全なボクシングスタイルだった。
「First crush...then sink. deep...deep.」

 ――ボクシングか、厄介だな。4年前は気付く余裕すらなく潰されたけど、道理で強いわけだ。
 ストリート・ファイトにおいて、拳闘の技術は大きな武器になる。何も知らない奴は、蹴りも無いし下半身への攻撃もルール上存在しないボクシングの攻略は簡単だと思うかもしれないが、どうしてどうして。中学の時、ボクシング齧ってるって奴と喧嘩したことがあるけど、ケチョンケチョンに叩きのめされそうになって、慌ててトンズラした経験がある。ボクサーに死角はそうそう無い。
 オレの見たところによると、ボクサーの戦いの影で大きく物を言ってくるのは、多分『間合い』の取り合いだと思う。派手な撃ち合いやコンビネーションも確かにそうなんだが、奴らは相手との距離を大事にする。距離によってパンチのタイミングや威力が変わってくるし、制限される。間合いを制することで、相手のパンチを封じることが可能――恐らく、そういう考え方があるんじゃないかな。いや、ただの勘なんだけど。
 問題はこいつがどれくらいの経験と力を持っているかだけど、もしライセンスを所持しているようならばオレが奇策を凝らしても勝つのは不可能だ。相当にド汚い手でも使わない限り。
 オレが勝てる唯一の方法があるとすれば、それは超近接戦闘に持ち込む事だろう。ガキの頃、少しだけど柔道をやっていた経験があるからだ。ボクシングで言えばクリンチ、つまりゼロ距離の組み合いに持っていけばオレの勝ちだ。投げて倒してしまえば、関節も多分簡単に取れるだろうし、絞め落とすことも難しくないだろう。
 あとは、蹴りだな。思いっきり屈みこんでパンチを牽制しつつローキックで下半身を攻めまくる。ボクサーは腰から下の打撃に関する防御の方法をまるで知らない。昔、レスラーがヘヴィ級のプロボクサー相手に使った戦法と同じ思想だ。
 ――だけど、それもこれもオレが普通の人間だったらの仮定。今のオレは普通じゃない。
「キース!」
 オレは1歩踏み込んだ。奴のステップが、カウンターを想定したそれに変わる。
 無駄だよ、キース。たとえプロのボクサーでも、今のオレなら一撃で倒せるんだ。オレにはそのための力がある。

神鳴モードELECTRIFICATION

 ガキンと金属質な音と共に、ロマンサーがそのフォルムを微妙に変える。基本3形態の内、まさに必殺のストッピングパワーを誇る『神鳴モード』の起動だ。ナックルの部分に、一時的にではあるが超高圧電流を流すこのモードは、スタンガンのように空気の絶縁破壊すら齎し破裂音を伴って青白い稲妻を纏う。体感瞬間最大電圧は、121万ボルト。スーパーヘヴィ級のレスラーでも一撃でKOする威力だ。――これさえあれば、勝てる。
 オレは拳に力を込めた。もうどんな奴にも負けない。この新しい右腕は人を超えた力をオレに齎すだろう。圧殺し、炎に包み、稲妻で黒焦げにする。何も恐れるものは無い。相沢祐一を敵に廻したことを後悔するがいいさ。オレの強さをその身に刻んで、テメエの身の程を知れ。
「Bust you up!!」
 ゾクゾクと震えにも似た快感がオレの体を駆け抜ける。念願の力を手にした人間が、誰でも感じる高揚感だ。少年野球で初めてレギュラーを勝ち取った時。学校のテストで1人だけ満点を取った時。女の子に好きだと言われた時。名門校の受験に成功した時。部活の県大会で頂点を極め、全国へのキップを手にした時。
 ――人間は自分の価値や力を証明して見せたとき、言い知れない悦びを覚える。夢が叶おうとした瞬間、震えるような戦慄を覚える。同じことだ。
 オレは力を手にした。どんな敵でも一撃で倒せる力だ。これがあれば、オレは無敵なんだ。誰もオレに敵わない。4年前、オレを滅多打ちにしてくれた男にだって勝てる。一瞬で、一撃で。
 オレは強くなった。力を手に入れたんだ。

 でも、その力が悲しくて、泣いているあの子を見た。

「――ッ!?
 青白い閃光を纏った神鳴の拳を叩き込もうとした瞬間、脳裏にそれが閃いた。
 刹那だけど、でも神鳴の閃光よりもずっと眩く。それは確かに、オレの頭の中に甦った。
 そして思い出す。懐かしい日向の香り。夏の麦隴。鮮やかに、その金色の光景が眼前に広がった。
 いつか彼女と出逢った時の、懐かしい黄金の海。幼い日のオレが迷い込んだ時、そこには1人の少女がいた。

 “あたしには不思議な力があるの……”

 彼女はひとりで泣いていた。
 黒髪の小さな女の子。あたまにウサギの頭飾りをつけて。
 金色の穂の海の中で、零れた涙が風に舞う。
 ――あたしとおかあさんは、どこにいってもいじめられるようになった。『あくまの親子』だと呼ばれて、いやがらせをうけた。いつまでたっても、そんな暮らしはかわらず、あたしは自分のしでかしたことを思いだし、かなしくなった。
 ぜんぶ、この力のせいだ。
 でもこの力は、おかあさんを助けるためのものだったから、わるく思ってはいけない。

 “泣かないで”

 そう、願う。
 舞を悲しませる『力』なんて、無かったら良かったのにね。
 あの頃のオレは、心からそう思ったはずなのに。
 ――彼女は剣にすがっていた。人が持つ力の象徴だ。それを操り、人が持つべきでない力を断ち切りたかった。そう望んでいた。それがどれだけ根深く、臓腑をも絡め取った茨でも、構わず食いちぎりたかったのだ。心の臓ごと。それほどに忌むべき力。それが彼女にはあった。
 人を超えた力を持つことの意味。異能者に生まれついたが故の哀しみ。心優しい彼女は、その悲しさとか辛さとか、全部知っていて――だから泣いていたのに。
 幼い頃のオレは、そんな彼女の助けになれたら、と思っていたのに。
 彼女を泣かせる力の存在を、子供心に憎んでさえいた筈なのに。

 “自分の力、好きになれるかもしれない”

「オレは……」
 オレは、知ってたはずだ――。幼い日の彼女から、確かに学んでいた筈だ。
 なのに鏡を覗き込めば、きっと今のオレは、力の本当の意味も知らずにそれを振りかざして有頂天になってる、無様で滑稽な笑みを浮かべているんだろう。キースと同じように。自分の力を振りかざして、他人を傷付けることを快楽とする、あの銀色の傭兵たちのように。
 苦悩する彼女のことも、彼女から教えて貰った大切なことも、全部忘れて。ただ異能の魔力に呑みこまれて、それに酔いしれる最も醜いと思っていた微笑をオレはきっと、浮かべているんだろう。

 “祐一といたらね、あたし……自分の力、好きになれるかもしれない”

「オレは――」
 オレは、一体なにをやろうとしていたんだろう。1番大事なことも忘れて。こんなことも忘れきって。口先で恰好良い言葉ばかり並べて、一体なにをしでかそうとしていた?
 敬愛する人々と過ごした掛け替えのない日々の中で、訓を受けたはず。それは、彼らが幾多の苦難と悲哀の末に、オレに伝えてくれたことだ。なのに――命懸けで守らなきゃいけないそれを、オレは自分で地面に叩き付けて踏み躙っていたんじゃないか? この世で最も尊いものに、泥を塗り付けようとしていたんじゃないのか?
 本当に大事なことを、なんもかんもあっさり忘れて、それで何がワイズロマンサーだ。なにが新しい力だ。こんなの、ただの道化でしかない。違うか?
 クソッ……なにやってんだ、オレは。
「祐一ッ!」
 悲鳴にも似た彼女の声。次の瞬間、腹に何かが埋め込まれた。次いで左頬に焼け付くような衝撃。地震でも起こったかのように世界が横に大きくぶれて、そのままバランスを失う。気付くとオレは後ろ向きに、地に横たわっていた。
「なにを呆けている。仕掛けてきたのは貴様の方じゃないのか。それとも殴られたいだけか?」
 嘲るような、耳障りなキースの声が降ってくる。
 でも、今はそんなことどうでも良かった。敵はもうあいつじゃない。オレはアイツと向き合う以前に、既に負けてたわけだ。最初から勝負にもなってなかった。本当、最低だ。
「……ん、なんだ。貴様、泣いてるのか? ハハ、傑作だ。ガキの頃と変わらないな日本人」

「祐一! まだ終わってない」
 彼女の声が聞こえる。麦畑で泣いていた、あの時の小さな女の子の面影はもうないけど。ふたりで鬼ごっこをして遊んだ時の、溢れるような笑顔はもうないけど。でも、心は変わらず今でも本当に優しい子で。オレは今更ながらに、自分が彼女から如何に多くの大きなものを学び取っていたかを知る。
 それは、掛替えの無いものだ。血と絆の中から生み出された、訓。
 こうしてブッ倒されるまで、自分でも知らない内に裏切ろうとしていたけど。でも、彼女と出会えたこと。彼女から学んだこと。そして彼女自身。それら全ては、オレの誇りとなるべきものだ。今のオレを構成する全て。これを以って、今この瞬間のオレは成り立つ。違うか、Y'sromancer。
「まだ何も終わってない! 祐一の魔はまだそこにいる」
 そうだ。これは“魔”だ。オレが生み出した、オレの“魔”。彼女はそれを克服して、自分の力として受け入れた。オレはその手伝いをすることができた。今度はオレが、手前の“魔”をどうにかして見せる番だってことだろう。
「――テメエもたまには役に立つんだな、キース・マクノートン」
 口元の血と、悔恨の涙を拭いながらオレは笑う。
「What?」
「幾らトサカにきても、幾ら自分が憎らしくても、自分で自分は殴れないからな」
 顎はガクガクするし、ダメージは大き過ぎたみたいだけど、オレは寸でのところで己が過ちに気付いた。
「そうだ、その通りだよ。力ってのは、何の覚悟も無い奴がヘラヘラ笑って使って良いようなもんじゃない。人の痛みから学習できないやつが持っていいもんじゃない。おかげで開眼した」
 右の黒手を握り締める。自分に言い聞かせる。誓う。
 舞が背負っていたもの。力を持つということ。今になって、その本当の意味が――分かった。
 キースじゃない。コイツごときじゃない。あくまで敵は自分自身。……オレの魔、か。
「今日こそ、ブッ潰す」







GMT Sun,31 July 2000 17:09 P.M.
London U.K.

同日 午後05時09分
イングランド ロンドン


 思いきり重心を下げて、地を這うようなローキックを放つ。鞭の様に上手く撓ってくれた右足が、巻きつく様に奴の膝にヒットした。その手応えを確認した瞬間、素早く後ろに跳ねて間合いを取る。ノーダメージを装ってはいるが、その膝には既に10発を優に超える蹴りが当たっている。ダメージは確実に蓄積されている筈だし、その証拠にキースのステップは既にリズムを崩されて緩慢になってきていた。
「クッ……!」
 もう、ロマンサーには頼らない。オレは手を完全にガードに回し、身体を低く屈めて低い蹴りを主体に戦う戦術を取っていた。最初に貰った強烈なボディとフック分は既に取り戻している筈だ。現在の所、流れはオレ。勝負のポイントはイーヴンといったところだ。
 キースは完全に攻め倦んでいる。神鳴のロマンサーを見てから、この義手の存在を警戒しているんだ。この腕が電撃を流せるスタンガンのようなものだと知ったから、迂闊に突っ込んではこれない。奴はカウンターを警戒しなくてはならないし、そもそも生身の拳での一撃を金属製の義手で受け止められたら、逆にダメージは自分に返ってくることを知っているからだ。
 技術は完全に向こうが上だが、ロマンサーという抑止力が上手く作用して戦局はオレ優位に傾いている。もしオレの右腕がロマンサーでなければ、こうはいってなかった筈だ。今頃、完膚なきまでに叩きのめされてKOされていると考えるべきだろう。あくまで忘れちゃならない。確かに齧った程度の柔道の経験があるとはいえ、基本的に相沢祐一は戦闘の素人なんだ。

「どうした。その右腕は使わないのか?」
 焦りからか、それともまだ余裕があるところを見せたいのか、キースは挑発してくる。
 オレは応える代わりに、再びローキックを放った。それをガードさせ、再び右を振り上げて今度はミドルキック。完全に下半身に意識を向けていたキースは、不意を突かれたせいで反応を遅らせる。だが、そこは流石に格闘技の経験者。辛うじて腕のガードで受け止めてみせた。反動を利用して、オレたちは再び間合いを取る。この応酬がもう随分と続いていた。
 幸いなことに、キースにプロのライセンスを取れるほどの腕は無い。だが、アマの試合でもあれば良いセンまで勝ち残れるであろうだけの実力はあるだろう。微妙なところだ。
 懐に飛びこんで、組み合いの勝負に持ち込みたい。だが、奴もそれは警戒している筈だ。ボクサーは組み付かれるのを1番嫌がる。打てるパンチは制限されてくるし、ルールの無いストリートの勝負だと頭突きや膝蹴りを使われて相手に有利に働くからだ。
 ローキックを全く捌けないところを見ると、奴は徹底したボクサースタイルの人間らしい。あくまで自分の土壌で戦うことを守ろうとする種のファイターだ。ペースに持ちこめれば強いが、相手のペースに飲まれると案外脆いと見た。

「――ッ!」
 キースが飛びこんできた。速い!
 脇を絞めてガードを固めた体勢のまま、頭から突っ込んでくる。慌てて引くが、奴の方がスピードで勝っていた。思考の隙を突かれるような恰好で、反応が遅れたせいだ。
 繰り出される左のストレートは辛うじてガード。だが、カミソリのような右のフックに反応できない。こいつは鋭い――!
「ァッ!」
 左頬を灼熱感が襲う。世界が引っ繰り返ったかのような振動が、脳を襲った。
 更に鼻面にインパクト。顔面が仰け反る。鼻血か、視界が紅く染まった。そしてコンビネーションのラスト、強烈な右のボディブローが繰り出される。ダメージで視界を奪われていたオレにはそれが見えない。ただ、臓器が逆流して口から飛び出しそうな感覚と共にそれを悟るしか無かった。
「グ……ゥア……ガハッ」
 気が狂いそうな程に強烈な嘔吐感がオレを襲う。頭はガンガンと内側から割れてしまいそうに痛い。凄まじい衝撃だ。普通じゃねェ。
「キャ――ッ! 祐一、祐一ィ」
 悲鳴が上がるが、脳まで届かない。思考の停止。膝から崩れ落ちたオレは、ただ胃液を吐きながら周囲をのたうちまわった。
 クソッ、これがキャリアとテクの差か。ヤベェ……。
 一向に引く気配のない痛みに翻弄されながらも、視界の端に斜線が見えたような気がして咄嗟に腕で頭部を庇う。完全に無意識の行動だった。結果的に、それが幸いする。
「チィッ!」
 右腕――超硬度を誇るロマンサーに鈍い衝撃が伝わってきた。ダウンしたオレに追い討ちを掛けようと、キースは顔面目掛けて蹴りを放ってきたのだ。運の良いことに、ヒット確実と高を括っていた奴は、鋼鉄よりも固いロマンサーに足を打ち付けることになった。舌打ちと共に、奴が離れていくのが分かる。
「クゥ……ゥ、ッ」
 力を込めるたびにガクガクと痙攣する膝を叱咤しながら、オレは何とか立ち上がった。キースは少し間合いを取って、右足の脛の辺りに手をやっている。折れてはいないようだが、かなり痛むようだ。

「ペッ」
 吐き出した唾は、完全に鮮血の紅に染まっていた。ダメージじゃ、こっちも負けてない。
 だが、幾らアマチュア・レヴェルとはいえ、経験のあるボクサーのパンチをまともに食らって立ち上がれたってことは、やはり奴がロマンサーの防御とカウンターを恐れて、もう1歩踏み込めなかったことを意味する。微妙にミートポイントがずれて、クリーンヒットはしても当たりがどこか浅かったというわけだ。やはり、抑止力とはいえロマンサーに頼らずして奴には勝てないか――。
 まあ、それでもいいさ。結果的に助けられても、精神はそれに依存しない。それが、ロマンサーの主として求められる資格だ。これからこの超筋電義手が齎す超人的な力を行使するには、その心構えと覚悟が絶対に必要とされてくるんだ。
 この戦闘の中で、オレはそのことを学んだ。それは、殴られて血ヘド吐くに値する掛け替えのないものだ。だから、もし同じチャンスに恵まれた時、オレは躊躇いなく同じ道を選ぶだろう。
 そんな風に思えるようになっただけなのに、不思議なもんだ。ただ向き合うだけで、プレッシャーに潰されそうな敵だったあいつが――眼前に聳える要塞のような強固な存在に見えていたキースが、今ではただの人間に見える。そんなに高い壁じゃない。もう1人のロマンサーを追うほどの道じゃねェ。
「キイィスッ」
 全力で正面から向かう。もう手の届かない相手じゃない。オレはやれる筈だ。
「Bullet!!」
 繰り出したのは左。躱されたが、奴のカウンターのフックはロマンサーでガードした。一瞬の痛みに奴が動きを止めた瞬間、身体ごとぶつかる。この間合いだ、狙ってたのは。

 縺れ合うような形で懐に入り込むと、オレは右手で奥襟おくえりを、左手で奴の服の右肘部分を掴んだ。そのまま押し倒すような勢いを利用して、右足で奴の左足を内側からる。少し形は崩れたが、タイミングはピシャリ。――くらえ、大内刈り!
「ぐはっ!?
 はじめてだろ、組み合った状態で相手を背中から叩き落すことだけを考えた格闘技ってのは。クリンチから漸く始まるこの戦法は、オレの国で生まれたんだ。
 受身さえ知らないキースは、後頭部から真後ろに倒れこんだ。その上に覆い被さるようにして、オレも続く。柔道の技が決まったというよりは、勢いに任せて倒れこんだといった感じだ。
 だが倒れることを想定していなかったキースと、倒れることを前提としていたオレとでは立ち直るまでに掛かる時間が違う。勿論、逸早く次のアクションに移れたのはオレの方だった。
 倒れた瞬間の衝撃は、キースの意識を一瞬ではあるが吹っ飛ばしている。その隙に乗じて、オレはヤツの身体に馬乗りになり顔面目掛けて左の拳を繰り出した。
「グフッ!」
 鈍い手応えが伝わってくる。完全な一撃がヤツの口元にヒットした証だ。同時に鋭い痛みが拳を襲った。多分、歯を掠めた時に痛めたんだろうが、そんなことはどうでも良い。2発、3発とヤツの顔面に拳を落とす。そして後ろに転がるようにしてヤツから離れ、再び間合いを取った。
「ハァ、ハァッ……」
 胸が苦しい。何時の間にか、オレは肩を揺らして喘ぎを洩らすほどに疲労していた。体力はもう限界を超えようとしている。膝に力が入らねェ。
 オレは基礎体力が無い。殴る蹴るといった格闘には凄まじい体力が要求されるものだ。毎日、地道に訓練して充分な体力造りをしていて始めて長期戦というものに挑める。逆に体力の無い素人は、呆れるほど呆気なく体力を失ってしまうもんなんだよな。今のオレのように。
 もうそんなに長くは持たない。次で、ケリを着ける。色んな物に、ケリ着けないと。

 ――キース。キース・マクノートン。
 さっき気付いた。お前は相沢祐一なんだ。オレの、過去の象徴。
 自己への嫌悪、自己への欺瞞、克服すべき弱さ、甘え、悔恨、それに後悔。そんな諸々の物が具現化した、言ってしまえば“魔”みたいなもんなんだよな。悪いけど、勝手にそう見立てさせてもらう。
 だから、お前はオレの敵であって、でも本質的には敵じゃない。超えるべきは、お前に重ねた過去のオレそのものなんだ。それ故にこそ、この再戦には相沢祐一にとって充分過ぎる意義がある。
 オレはもう前のオレとは違う。色んな人に会って、その人たちとの暮らしの中で色んなことを身につけた。色んな種の強さを見た。教えを受けた。キース・マクノートン。お前に分かるか?
 彼等は別に、オレに何かを伝えようと思ってその道を選んだわけじゃない。でも、その生き方からオレは勝手に色んな事を学ばせてもらったつもりだ。それは血の訓となって、今の相沢祐一を形作っている。それが、オレの最大の武器ブレット
 本当の力ってのは――本当の強さってのは、こういうもののことを言うんだって分かった。だから、オレは死んでもその教えを裏切りたくない。
 マクノートン一家は、この街で最も強大な勢力かもしれない。キース、お前のバックにはきっと何百何千っていう部下が付いてるんだろう。でも、オレの後ろには偉大なシルヴィア・エンクィストがいる。親父や母さんから受け継いだものを背負ってる。馬鹿やりそうな時には、叱ってくれる舞がいる。名雪が、あゆが、栞が、香里が、天野が、真琴がいる。
 お前にどれだけの権力があるかは知らねェ。それでどれだけ人に恐れられてるかは知らねェ。
 でもな、キース。
「バックのデカさなら、オレの方が上だ!」

 全体重を乗せた右足を1歩踏み出す。踏み込む。身体を巨大なバネに見立て、限界まで捻る。
 渾身の力を込めて。全ての力を託して。これが、最後の弾丸。ラスト・ブレット。
 そして、始まりの弾丸。世界に名乗りをあげる、第2のロマンサーズ・ブレット。
 BITE ON THE……
「左!?」
 どこかで誰かが囁く声。
 ――そう、左。オレは何より、自分に証明してやらなくちゃならない。勝つのは、ギミック付きの玩具なんかじゃない。相沢祐一本人なんだと。だから、あくまで拘らせてもらう。
 オレは不器用で、百聞は一見にしかずを地で行くような大馬鹿だから。だから、こんなことでしか自分を納得させられない。こうでもしなくちゃ、信じられない。不器用は、不器用なりにやるしかないんだ。
 過去キースに勝つのは義手の力じゃない。オレなんだと。オレの手なんだと。この世の誰より、自分自身に示すために。ちゃんと見てろよ、相沢祐一。オレはお前のために戦ってんだ。キッチリ刻んどけ。
「祐一、いけーっ!」
 名雪のその声で、膝を震わせながら何とか立ちあがるキースは、漸く背後で攻撃モーションに入ったオレの存在に気付く。でも、もう遅ぇ。この圧殺の弾丸は、躱せない。
Bloody hell貴様ごときに……」

 勝てるか負けるかじゃない。逃げずに戦ったことが、自分の自信と誇りになるんだ。
 お前もオレと同じだ。誰かに似たような生き方なんかじゃ満足できないはず。
 だったら貫けよ。ぶち抜いてやれ。それが――

「それが弾丸ってもんだろ!」










 後に列強の兵共と肩を並べ、世界の頂点を争う者としてその名を馳せる黒手の男がいる。
 彼がPSYMASTERとして初めて経験した戦闘が、何の能力も持たない単なる人間相手の、極めて原始的なベアナックル(素手での殴り合い)であったことを知る者は少ない。
 だが、彼の傍らに生涯付き添った8人の女性たちの記憶に、それは鮮烈に焼き付けられた。
 忘れ得ぬ衝撃と共に――。


 相沢祐一
 2000年07月31日、PSYMASTERとして初の戦闘を経験
 戦闘開始より12分46秒 その渾身の左拳を以って――

 Keith McNaughton 打破。












GMT Sun,31 July 2000 17:13 P.M.
London U.K.

同日 午後05時13分
イングランド ロンドン


 何もかもが緩慢に見えた。
 宙を舞う血飛沫。
 キースの顔面に突き刺さった左拳。弾丸に見立てたそれを、渾身の力で振り抜く。
 まるでスローモーションを見るように、キースの巨体が弾き飛んでいった。
「ハァ……ハァッ……」
 爆発しそうな鼓動をなんとか宥めすかし、宙を仰いで喘ぐ。
 重い落下音と共に大地に伏した男は、意識を失いもうピクリとも動かない。
 オレの、勝ちだ。
「It's...It's lack of faith that makes people afraid of meeting challenges, and I belive in myself. 」
 喋る度に、口の中に血の味が広がった。
「分かる、か? こんな、大層なビックリ義手に頼ってるようじゃ駄目なんだよ。お前を潰したのは武器の性能じゃない。Y'sromancerは右腕なんかじゃない――」
 聞こえちゃいないだろうが、それでも言っておきたかった。主人公は敵に勝った時、陳腐な勝ち台詞をはかなくちゃならないと、相場は決まってるしな。
「I'm a "Y'sromancer". No one can tie me down. Save it in your mind, wise guy. 」

 クラッ……
 ――あ、もう駄目だ。
 力尽きて、オレは膝から崩れ落ちた。尻餅を付くように、地面にへたり込む。
「祐一!」
 オレの身体を心配したのか、それとも勝利を祝福しに来てくれたのか名雪たちが駆け寄ってきた。
「ハハ。勝ったぜ、みんな。ちゃんと見てたか? 見事なKOシーンだったろ」
 ああ、情けない。掲げたVサインは、なんともヘロヘロだった。
「Hey, Y'sromancer. Congratulations on the good work!」
 香里がとびきりの笑顔と共に、掌を差し伸べてきた。勿論、オレはそれに笑顔とタッチを返す。
「Thanks, pal.」
「なかなか良いファイトだったわよ、相沢君。ストリート・ファイトなんて初めて見たわ」
「だったら、その気持ちはチップで表してくれよ」
 差し出した掌を別の意味で叩かれる。
「うぐぅ、祐一君だいじょうぶ?」
 痛みを感じてるのはオレの筈なのに、何故かあゆは涙ぐんでいる。妙な話だ。
「ボクシング経験者にパンチ貰ったんだぜ。大丈夫なわけないだろが」
 息も絶え絶えに、オレは何とかそう返した。
「あー、なんかアゴが変だ。ガクガクする」
「まったく。男ってこうでもしなければケジメもつけられないのかしら」
 呆れたように言うと、香里はポケットから何やらコンパクトのようなものを取り出した。そしてそれを開くと、ピラピラとした薄っぺらいセロファンのようなものを2枚ほど取り出す。
「ほら、相沢君。これを奥歯で噛んでみて。左右1枚ずつ」
「ん、なんだか良く分からんが……」
 まあ、香里が無意味なことをやるとも思えないし。何らかの意味があるんだろう。怪訝に思いながらも、言われた通りに薄紙を奥歯で噛締める。そしてそれを香里に返した。

「あ、これはあからさまね」
 手元に返されたセロファンを一瞥すると、香里は即座に言った。
「下顎が少し左方向にズレてるわ。パンチを受けた時の衝撃のせいね、きっと。後で病院に行きなさい。矯正して貰えるから」
「はぅ。また病院送りかよ……」
 なんか、この島にくる度に病院に足を運んでいるような気がするが、これは果たして気のせいなのだろうか。
「あ〜悪い、みんな。ちょっと舞と話があるんだ」
 オレは地べたにへたり込んだまま言った。舞と目を合わせながら続ける。
「少しだけで良いんだ。舞と2人きりにしてくれないか……」
「分かりました。車で待ってます」
 オバさんっぽいってのは、裏を返せば結構気が利くということ。天野は物分かり良く、皆を誘導してくれる。
「仕方ないわね。じゃあ先に行ってるけど、2人きりだからってエロガッパなことしちゃ駄目よ。相沢君」
「香里くん。キミはオレを何だと思ってるんだね?」
 あんまりなことを言い捨ててスタスタと去っていく香里の背に、オレはなんとか言い返した。だけど、それが彼女の耳に届いたかは微妙な距離だ。

 彼女たちの姿が見えなくなると、改めて舞と向き合った。彼女は最初からオレにしか興味が無いらしく、じっとオレを観察していたらしい。視線を向けると、直ぐに目が合った。
「舞、ありがとう」
 何だか急に恥ずかしくなり、オレはそんなことしか言えなかった。
「私は何もしてない。戦って、勝ったのは祐一」
 なぜ礼を言われたのか理解しきれないのだろう。少し怪訝そうな顔をして、舞は言った。
「そうじゃないんだ。オレとして勝てたのは、絶対に舞のおかげなんだ。お前と出会って、お前から色んなことを教えられてなかったら、この勝利はあり得なかった。……だから、ありがとう」
「祐一が何を言っているのか、私には分からない」
 彼女は困惑している様子だった。まあ、無理もないだろう。オレは一から説明することにした。
『ロマンサー』と云う特別な力を手に入れて、有頂天になっていたこと。
『ロマンサー』の力を、まるで自分が勝ち取った強さであるように錯覚していたこと。
 ある意味で人間を超える力を手にしたことに、言い知れぬ高揚感を感じてしまったこと。
 そして、その力を何も考えずに行使し、キースに勝とうと考えていたこと。
 今考えると、それは父親が築き上げた権力の上に胡座をかき、その力を行使して粋がっていたキースと同じ種の思考だった。オレは、キースを蔑みながらキースと同じ人間に成り下がるところだったのだ。手にした力の魔力に魅入られて。
「でも、ロマンサーで奴に最初の一撃を叩きこもうとした時、舞のことを思い出した。普通とは違う力と子供の頃から付き合ってきて、そのせいで迫害されて辛い目にあってきたお前のこと。舞の泣き顔が、こう、いきなり頭の中に浮かんできた」
 舞はオレの要領を得ない話を、黙って聞いてくれていた。
「ショックだった。オレは人を超えた力がもたらす不幸とか、悲しさとか、そう云うことをお前から学んでいた筈なのに。それを哀しんで泣いている舞の姿を見て、知っていた筈なのに。オレは力を手に入れたことで浮かれて、調子に乗って、自分がまるで超人にでもなったみたいに勘違いして、そのことを忘れてしまってたみたい……なんだよな」
 オレは、舞の教えを裏切るところだった。そして、それはオレが最も恥ずべきと認識している行為だ。彼女との絆に泥を塗るに等しい、最低の姿勢だ。もう、彼女を好きだとか大切だとか言えなくなるところだった。

「ごめん。ホント、ごめんな。舞」
 オレは座ったまま頭を下げた。
「祐一は、少しの間、見失ってただけ」舞は言ってくれた。
「忘れていたわけじゃない。見失っていて、でも思い出した。だからそれで良い」
「――舞」
 オレは彼女の手を取って、その限りなく黒に近い深緑の瞳を覗き込んだ。
「オレはお前がいなかったら、きっと力に魅入られて帰ってこられなかっただろう。あのままロマンサーを使って、奴を倒して、それで第2の奴に成り代わっていたんじゃないかと思う。そうならずに済んだのは、間違いなく舞のおかげなんだ。だから、感謝してる。心からありがとう、舞」
 オレのその言葉に、舞は漸く微笑んでくれた。そして、オレの頭を軽く撫でる。
「祐一は、よくやった。私は、信じていたから」
「力に呑まれるってのは、ああいうことだったんだな。オレは絶対そんな風にはならないって思ってたのに、危うくその実例になってしまうところだった。……本当に怖いのは、呑まれているとき自分でその自覚がないことなのかもな」
 不意に、4年前の親父の言葉が脳裏に甦った。あいつが腕を切断することになる少し前、ハンドバッグ泥棒を追ってキースの部下たちと一戦交えた時のことだ。

「数が揃えば有利になるのは当然。でも、お前ら自身が強くなったわけじゃないんだぜ? そこのところを、キッチリ理解して欲しいもんだよな。拳銃持って、ナイフ持って、挙句数を集めて、それで強くなったつもりか? そりゃ、勘違いだぜ。ボウズ」
 力に飲まれたらお終い。武器を持っていると、それを使いたくなるのが人情。拳銃を持ったら、強くなったように錯覚してしまうのが人の性とも言える。――だけど、本当に強いというのは、力に飲み込まれないこと。使い方を誤らないことだと。親父はそんな主旨のことを言っていたような気がする。
 ナイフ持っていても、ピストル持っていても、敢えてそれを戦闘に用いない勇気。だが、使わなければならない時は躊躇せずに使い、そして他人を傷付ける覚悟を持つこと。そして自分がつけた相手の傷は、キッチリ背負うということ。武器を使って良い条件は、武器を持った自分を意志の力でコントロールできるという自分に対する保証だ。

 そうだ。親父の言葉にも、ヒントはあったんだ。あいつは、オレが今日にして漸く辿り着いた場所に既に到達していて、今はずっとその上にいる。認めるのは癪だけど、やっぱり奴は凄い男だ。とても適わない。でも、いつか……いつか、オレもあの高みに。本物のY'sromancerと肩を並べられる存在になりたい。
 目の前に目指すべき高みがあるのは、心が弾むものだ。その背を押してくれる、舞のような人もオレは持っている。最高の気分だった。
「オレの右腕は、何かを掴んだのかもしれない」
 ロマンサーと云う名の黒い拳を握り固める。切り放たれ、見えない何かを掴みに行ったオレのあの右腕が、今なにかを掴んだ手応えを伝えてくる。そして今日、オレは本当の意味で川澄舞という人間を理解したのかもしれない。
 これまでのオレには無理だったかもしれないけど、今からのオレなら、彼女の異能者としての部分を含めて抱きとめることが出来るような気がする。一緒にやっていける。
「舞、オレさ」
 その処女雪のように白く汚れない肌に、果たして義手という無骨な存在で触れて良いものか。オレは少し躊躇した後、結局彼女の頬に右手で触れた。
「今なら言えるよ。お前のこと、本当に好きだ。敬愛してる。心から必要としてる」
 その告白に、舞は少し驚いたようだった。でも、いつもの様に頬を染めることはない。

「だから、いつもオレの傍にいて、またオレを助けてくれないか。オレも独りじゃそんなに強いわけじゃないし。また今日みたいに道を外しかけることがあるかも知れない。そんな時、過ちを犯していると思ったら、オレを止めてほしい。正しい方向に、導いて欲しい。
 オレは馬鹿だから、1度何かを決めてしまったら、もう後は何も考えずにそれに向かって突っ走るような生き方しか出来ないと思うんだ。周りの都合なんか考えずに、自分勝手にさ。だから時々、自分が本当に正しいのか不安になることがある。このまま進むと、取り返しのつかない過ちを犯してしまうんじゃないかって。でも、動き出さなきゃ何も変えられないから、行くしかない。……だから、もしオレの行いが間違っていると思ったら、その時はオレを迷いなく止めてくれ。諌めてやってくれ。叱ってやってくれ。舞ならそれが出来ると思うから。舞になら、それを任せられると思うから」
 そういう意味で、彼女はオレなんかよりずっと強い人だ。そしてそんな彼女が傍にいてくれることこそが、Y'sromancerを支える強さの1つだと思う。相沢芳樹に相沢夏夜子がいるように。
「ずっと傍で見張っててくれ。このままずっと今のままでオレの――」
 その言葉を皆まで言わせず、舞は小さく首を左右した。
「祐一、それは言うまでもない」
 そして、こちらを見詰めたままオレの肩に手を置くと、柔らかく微笑みながら囁いた。
「――この世界の空のどこからでも、月は見える。それは当たり前のことかも知れないけれど、私はこの国に来てそのことを確認できたことが嬉しかった。月はいつもそこにある。それと同じこと。
 祐一、私を探して。必要な時はいつでも。私を探して。私はいつもそこにある。当たり前だけれど、嬉しいこと。月と同じ。どこにも行かない。何もよりも確かな約束

「舞……」
「祐一のことは好きだから」
 舞はゆっくりと噛締めるように続ける。かつて、決して口にしようとしなかったその言葉も、今は躊躇わずに。彼女はオレを真っ直ぐに見詰めて、言ってくれた。
「いつまでもずっと好きだから。春の日も、夏の日も、秋の日も、冬の日も。ずっと私の思い出が、佐祐理や祐一と共にありますように」
 胸が詰まった。嬉しかった。目頭が熱くなるほどに、オレはその言葉が嬉しかった。かつてのオレならここまで想えたかどうかは分からない。でも、今のオレにその言葉はとても重く響いた。
「――ありがとう、本当に」
 だから彼女を抱き締めて、自らの意思で行う初めての口付けを、彼女に捧げた。
 血の味が伴う彼女にとって初めてのそれが、拒まれることなく静かに受け入れられたことをオレはまた喜んだ。





to be continued...
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脱稿:2002/07/18 16:21:58
改訂:2002/12/17 19:17:14

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