抵抗は無意味だ。


NO,FATE!
運命じゃないぜ

Hiroki Maki
広木真紀




−神鳴の章−






Wales U.K.
GMT Tues,1 August 2000 14:44 P.M.

現地時刻 08月01日 午後02時44分
ウェールズ 某所


「まったく、貰って3日も経たないうちにメンテの必要が出てくるなんて」
 香里は呆れ声で呟くと、ラップトップ型の端末をテーブルに置き、起動させた。低く控えめな起動音を放つそれは、市販されていない一風代わったデザインのコンピュータだった。テーブルを挟んで向かい側の椅子に座るオレからは、コンフォート・グレイのボディに『Ks』の洒落たロゴが刻まれているのが見える。スイスにある『カストゥール研究所』の頭文字だ。
 その端末は同研から提供された物で、KsX-R『ロマンサー』の定期メンテナンスに最適化された、オリジナルのハードウェアとソフトウェアが搭載されているという代物。メンテだけでなく、専用キットを接続すれば、筋電義手のイメージトレーニングやリハビリにも対応できるらしい。しかも、同研究所のスタッフが趣味でプログラムしたという、オリジナルのチェスやモノポリーまでできる! というから驚きだ。
 至れり尽くせりなのか、シルヴィアのお茶目が他の研究者にまで伝染したのか、微妙な線だ。ちなみに、そこのところはオレと香里と天野の間でカケの対象になっていて、オレは『シルヴィのお茶目伝染説』に10ドルかけている。絶対こっちだよな?
 まあそれはいいとして――いまさら言うまでもないが、KsX-Rも一応は精密機械だ。まだ実用化されたわけではない、実験段階のテクノロジも多用されているって話も聞く。そんなわけで、月に1度はデータ収集と微調整のためにメンテを行わなくちゃいけないらしいのだが、日本に住んでいるオレがその度にスイスまで赴くのは手間だ。そこで香里と天野に1台ずつ渡されたのが、このメンテ用携帯端末というわけ。ハードやソフト、プログラミングなんかにある程度の知識を持つ彼女たちが、今後はカストゥール研のスタッフに代わってKsX-Rの面倒をみてくれることになっている。オレなんかじゃ、チンプンカンプンだからな。マニュアル読むだけで、知恵熱が出る。
「大体、相沢君は使い方が荒すぎるのよ。オーヴァ・テクノロジの粋を結集して作られた超筋電義手を一体なんだと思ってるのかしら」
 香里はまだブチブチ文句を言っている。わりと世話焼きな性格だったりする彼女は、小言を言い出すとなかなか止まらないタイプだ。結構、根に持つしね。
「なんだか、KsXの耐久テストみたいですね」
 香里が広げた端末のコネクタに怪しげなケーブルを接続しながら、ミッシーは苦笑する。
「いやあ、それほどでも」
「誉めてません」
 てっきり賞賛されてるのかと思って照れ笑いを浮かべてしまったが、天野にピシャリと言われてしまった。どうやら、誉められてるんじゃなくて呆れられているみたいだな。いや、薄々そうじゃないかとは思っていたんだが。
「ロマンサー、外した方がいいか?」ミッシーに訊ねる。
「いえ、マニュアルによれば、付けたままでも問題ないようです」
「あ、そう」
 オレはひとつ頷くと、右腕をテーブルの上に置いた。

 ――キースと戦った翌日、オレはロマンサーのメンテを受けることになった。場所はウェールズにあるThuringwethilの隠れ家のひとつで、スイスから戻って以来、天野がひとりで使っている部屋だ。室内には天野とオレ、そして香里、Thuringwethilのスタッフたちがいる。みんな、ロマンサーのメンテに興味があるらしい。特にThuringwethilの連中にとって、シルヴィア・エンクィストの名前は殆ど伝説として認識されているらしく、彼らはその彼女の遺産を一目見ようと見学に来たらしい。意外とミーハーな人たちだ。
「相沢さん、制御パネルのカバーを外しますよ」
「OK。任せるよ」
 KsX-R Romancerには、当たり前の話だが制御用のハードウェアが搭載されている。手首から上の部分にアーモンド型の巨大なカバーがあって、それを外すとTVのリモコンのような制御盤が現れる。そこには沢山のボタンやスイッチ、液晶パネル、外部接続用のコネクタなんかがズラリと並んでいるわけだ。天野はパソコンから伸びるケーブルをそのコネクタの1つに挿し込んだ。
「あぁん、ミッシーったらそんなに乱暴に挿入するなんてっ。コネクタが壊れちゃう。もっと優しくしてよぉう」
「美坂先輩、接続しました」
「ええ、現在こっちの計算機で認識中よ」
 何事もなかったかのように、淡々と作業を進めるふたり。
「……無視かい」

 ドアがノックされた。オレが不本意ながらも作り上げてしまった重苦しい沈黙の中、その音が悲しいほどよく響く。
「あはは〜、メンテナンスは進んでますかー?」
「差し入れだよっ」
 針のむしろ状態のオレに救いの手を差し伸べるかのような笑顔で現れたのは、佐祐理さんと名雪だった。その手には、ジュースやティポット、スコーンなどをのせたトレイがある。そう言えば、もうすぐ午後のティタイムといった時分だ。
「あゆや栞はどうした? いつもなら、ティタイムと聞いた瞬間どこからともなく飛んで現れるってのに」
「ふたりはお昼寝してるよ。いい天気だからね」
 名雪の言うように、確かに今日は晴天に恵まれていた。ウェールズは日本と違って夏の日差しも柔らかく、晴れた日にはとても清々しい麗らかな午後を過ごせる。雪に閉ざされた自然の厳しい北の街からやって来た栞やあゆにとっては、滅多に味わえないポカポカ陽気というわけだ。確かに、芝生に寝転がって雲を眺めながら昼寝もしたくなるだろう。ここは森の中の隠れ家だから、それが安心してできるしな。
「はい、香里。アッサムティだよ」名雪がにこやかにティカップを差し出す。
「ありがと」香里は流れるような手付きでキーボードを叩きながら言った。「今ちょっと手が離せないから、そこに置いておいて」
「――で、どんなもんよ」
 オレは佐祐理さんから受け取ったスプライトを左手に訊ねた。もちろん、ロマンサーの具合のことだ。
「まだスキャニングの途中ですが、今のところ問題個所は見当たらないようですね」
 立ったまま香里の背中越しにモニタを覗き込むミッシーが答えた。端末は1台あれば事足りるらしい。今回は香里のを使っているから、天野のやつは持ち出していない。
「フッ、やはりな。これでも大事に使ってるんだよ。オレは」
「結局、ろまんさーでは1度も殴らなかったもんね、祐一」
 名雪は両手でティカップを包み込み、ふーふーと息を吹きかけながら微笑む。
「それでも、殴り倒されたとき受身を取ったりしたのよ。一応はチェックしておかなくちゃね」
 鋭い一瞥をオレにくれながら、香里が言った。たとえ故障がなくても、問題を起こしたのは事実なんだから、それを忘れるな――と目で語っている。
「でも、よかったね。祐一」
 メンテの風景をぼんやりと眺めながら、何が嬉しいのか名雪が会心の笑顔を見せた。
「なんだよ、やぶから棒に」
「わたしはよく分からないけど、その義手、凄い高性能なんでしょ。高そうだし」
「そうですね。なにせ、世界に1組しかない次世代型の筋電義手ですから」
 佐祐理さんは名雪に同意すると、改めてオレの右腕にその大きな瞳を向けた。
 どうでも良いんだけれど、佐祐理さんの目はパッチリととても大きくて、くりくり良く動く。実にラブリィだ。この世には義手のほかに義眼なるものがあるらしいが、どんな科学で生み出された義眼も、彼女の生まれ持った瞳には敵わないに違いない。
「まあ、そこのところは親父のコネってやつに感謝してるよ」
 親父がシルヴィア・エンクィストと親しい間柄にあったからこそ、オレはこの義手に出会えた。そのことは否定できない。
「ねえ、この腕はもう祐一の思い通りに動くの?」やっぱり名雪は楽しそうだ。
「まあ、大体な。まだ不慣れな分はあるけど」
「凄いんですねえ。リハビリとかは全然しなくて良いんですか?」
「もちろん、良くはありません」
 佐祐理さんの質問に答えたのは、オレではなく天野だった。
「ですが相沢さんは、本来必要なリハビリテイションの過程を省いてしまったのです」
「……まあ、ほら。そこは、実生活の中で慣らしていけばいいわけだから」
「その慣らしとやらが、マフィアとの殴り合いなんですか?」
 慌てて言い繕ってはみたが、相変わらずミッシーは手厳しい。
 でも、彼女の言うことももっともではある。これはカストゥール研のスタッフから聞いた話だが、筋電義手の装着に当たっては、きちんとした手順を踏まなくてはならないらしい。確か、最初は療養中に障害部分の「残存機能の測定」を行ってデータを取る必要があるって聞いた。それで、そのデータを元に、今度は義手に搭載されたプログラムをそれぞれにピッタリと合うようなものに調整するわけだな。
 その後、筋肉を動かす電気信号を上手に発生させるための訓練を、専用のトレーニングキットを使ってやる。そうしてからはじめて義手を実際に装着してみて、イメージ・トレーニングの成果を確認する。最後に仕上げとして社会生活・日常生活に復帰するためのリハビリを行う――ということになるらしい。
「必要な順序立てや常識的な手順を鮮やかに無視して、いきなり結論に飛びつく。まさに相沢君の生きざまそのものが如実に再現されてるわね」
 パソコンに向かったまま、香里がまた酷いことを実にナチュラルに言ってくれる。
「悪かったな、非常識で」

「それはそうと、佐祐理は普通よりちょっと頭の悪い子なので、未だに良く分からないんですが――」
 地元の名門大学として有名な東北技術科学大学に、この春主席で入学した佐祐理さんが言う。
「この義手の動力はどうなってるんですか? 乾電池じゃないとは思うんですけど」
「実は、ゴム動力なんだ。しかも輪ゴム」
「わっ、すごい」
 名雪は爽快なまでに騙されてくれたが、あとの全員はノーリアクションだった。
「系統はふたつあります」香里は、オレの発言を爽やかに無視して言う。
「ひとつは一般の筋電義手と同じような、水素リチウムイオン充電池によるバッテリィ。もうひとつは、ILISシステムによる自家発電です」
 カストゥール研の話だと、一般の義手が使っている水素リチウムイオン電池は毎日充電が必要なんだそうだ。その点、オレは1週間に1度くらいで構わないらしい。なんでかというと、KsXシリーズは、基本的にILISシステムによる自家発電で動力をまかなっているからだそうだ。水素リチウムイオン電池は、『圧殺』『煉獄』『神鳴』などの特殊モードを起動させた時のために用意された、あくまで予備の存在であるらしい。だから、普通の使い方をしていれば、ほとんど電池の電力は使用しないというわけ。
「そのILISシステムによる自家発電というのは?」
 Thuringwethilのスタッフが口を挟んだ。
「相沢君の中には、俗にナノマシンと呼ばれるとても小さな機械が存在しているんですけど、そのひとつひとつが僅かずつエネルギィを生産して、義手に集めるんです。単独では微々たるものですが、数億という単位で集めれば、義手の動力元として機能する規模のものにはなるとか」
「えっ、億? そんなにウジャウジャいるのか?」
 いま明らかにされる驚愕の真実。しかも、あまり気持ちのよい種の話じゃない。
「いるわよ。相沢君の中に住んでいる機械は、原子という小さなレヴェルのもので組みたてられているんだけど、それを造るためには走査型プローブ顕微鏡っていう特殊な装置で、時間とお金をかけてやらなくちゃならないのよ。つまり、大量生産には向かないわけね。だから、適度に自己増殖するように設計されているってわけ」
「細胞分裂みたいな感じか?」
「そう。だから、数億――ひょっとすると数兆って規模にまで増殖しているかもね」
「おいおい」
 他人事だと思って、香里は恐ろしいことをサラリと言う。
「それって、身体に害はないのかな?」
 名雪が心配そうに言った。こいつだけだ、少しでもオレを気遣ってくれるのは。
「どうでしょうね」
 ミッシーは顔色ひとつ変えずに言った。事実をそのままストレートに言葉にする彼女の性格は、ときに結構ありがたいものだったりするのだが、今回のようなケースでは心臓に悪い。
「なんだか、凄く不安になってきたぞ。大丈夫なのか、オレ?」
「仕方がありませんよ。実際にILISと共存している例は、芳樹氏を除いてないわけですし。……でも、この世には好き好んでレスピロサイトという一種のナノマシンを使う人間もいるそうですから。それに、ILISを設計したのは、人類史上最高と謳われた頭脳シルヴィア・エンクィストですしね。大丈夫じゃないでしょうか」
「まあ、とにかく」
 香里が脱線しかけた話の軌道を修正しに入った。
「原子を組み合わせて造られた特殊な微粒機械であるILISシステムは、細胞膜表面を流れる水素イオンを利用して、ATP――アデノシン三リン酸っていう、とても効率のよいエネルギィ・ソースを作り出すんです。それから、加水分解なんかのプロセスを経て生み出されたエネルギィの余剰分を、義手の方に回しているわけですね。ILISシステムは、相沢君の神経パルスの伝達役であるとともに、マクロ的には動力機関でもあるらしいんです」
「自分の体温で充電する時計があるけど、そういう感じかな」
 微かに首を捻りながら、名雪が自信なさそうに言う。
「それを身に着けてる限り、電池の交換とか充電とかしないで半永久的に使えるっていう」
「コンセプトは似たような感じね」
 厳密に言えば少し違うけど、と前置きした上で香里は肯定した。
「はえ〜、やっぱり祐一さんのは凄いんですね」佐祐理さんは感心したように言った。
「そう、凄いんだ」当然、オレは胸を張る。
「凄いのはあなたじゃなくて、開発者だけどね」
 案の定、香里に突っ込まれた。

「それはそうと……」
 カップを上品にトレイに戻しながら、佐祐理さんが話題を変える。
「実は、皆さんにお報せしておくことがあるんですよー」
 その一言で、全員の視線が佐祐理さんに集まった。椅子が人数分ないので、彼女はミッシーの使っているベッドにちょこんと腰を落としている。どこに腰掛けていようとも品のある人だよな。
「実は先程、日本にいる父から電話がありまして」
「あ、もしかしてこの前、サイババさんたちに別荘を壊されちゃったことがバレちゃったのかな?」
 ――名雪、連中は『サイババ』じゃなくて『サイバー』だ。Cyber Dolls。
「実はそうなんですよー。困ったことになりました」
 全然困ったようには見えない笑顔で、佐祐理さんはあはは〜と笑う。オレなら、こんな天使のような笑顔を見せられたら何でも許すね。別荘の1つや2つ、サイババにでもユリ・ゲラーにでも好きだけくれてやるさ。
「それで、お父様はなんと?」天野が訊く。流石に心配そうだ。
「ええ、かなり心配しているようでした。それで、詳しい話を聞きたいから、至急こちらに戻って来いと」
「まあ、当然と言えば当然の展開よね」香里はそう言ってクールに肩を竦めて見せた。
 確かに香里の言う通りだよな。娘がイングランド旅行に行ったのは良いが、泊まっていたはずの別荘が『サイババ人形』とかいう連中に襲撃されて一夜にして地上から消滅しました――なんて情報を耳にすれば、どんな父親でも髪の毛が抜け落ちるほど心配するに違いない。それ以前に、そもそも襲撃者の『サイババ人形』ってのは何者なのか、オレなら気になって夜も眠れないね。従って、佐祐理さんの親父さんが彼女を日本に呼び戻そうとしたことに関しては、すごく納得できる。
「それで、佐祐理さんはどうするつもりなの?」
「はい、帰ります」彼女は即答した。「お父様から借りていた別荘を消滅させてしまった以上、佐祐理にはその義務がありますから」
 ――まあ、消滅させたのはサイババたちなんだけどね。でも、そのことを馬鹿正直に話すわけにもいかないだろう。そんなことをすれば、親父さんまでこのヤバイ話に巻き込むことになるだろうからな。本気でサイババの神秘に全ての責任をなすりつけたいところだ。「サイババです。アフロヘアのサイババが突然現れて、別荘を一夜のうちに消し去ったのです! しかも浮いてました!」とかな。
「帰るっていつ?」名雪が小さく首を傾げる。
「連絡によると、鷹山さんは明日になれば用事を終えて戻られるそうです。ですから明日合流して、明後日の便で戻ろうかと。今、チケットを手配してもらっています」
「明後日ねえ。急な話だな。――で、オレたちはどうなるの?」
「できれば、アナタたちにも戻ってもらいたいわ」
 答えたのは佐祐理さんではなく、Thuringwethilの女性スタッフだった。異能者の護衛として、最近新しく加わった内のひとりだ。彼女もとても日本語が堪能らしい。
「戦力を分散したくないから。移動はできるだけ纏まって、迅速に行いたいの」
「うー、残念だよ」
 初めての海外旅行がこんな形で中断されるのだ。名雪が眉をしかめるのも仕方ないことだろう。
「また来年、ご招待しますから」佐祐理さんが慰めるように言った。「今度はオーストラリアなんてどうですか? カンガルーとかコアラさんとかいますよ」
「ネコさんはっ!?」
 くわっと目を見開いて、名雪が鋭く問う。
「猫は日本にいるだろーが」
 オレを含めたほぼ全員が突っ込んだ。

「相沢君、もう良いわよ。チェックは終わったわ」
 香里がモニタから目を外し、オレに向かって言った。
「で、どうだったんだ?」
「オール・グリーン。故障個所はなしよ。今回は、メンテナンスの必要はなかったわ」
「良かったですね、相沢さん」美汐がアップルジュースを飲みながら、微かに笑う。
「だから言っただろう。あの程度の衝撃じゃ壊れやしないって」
 あれくらいで故障するようじゃ、親父のKsX-Lは年中修理リペアに出突っ張りだ。
「それを判断するのは、あなたじゃなくて」香里はラップトップを畳みながら言う。「データよ」
「はいはい。……まったく、香里は口うるさいんだから」
「何か言った?」凍てつくような視線で睨まれた。――怖い。
「まあ何にしても、使うタイミングって言うのかな。そういうのは掴めた気がするよ」
 少なくとも今後は、この腕を無闇に乱用して無用の負担をかけるようなことも無くなるだろう。そういう意味においても、キースとの一戦は良い経験になったと思う。
「ケンカには使わないってこと?」名雪が問いかけてくる。
「まあ、そんなとこかな。最初は、この腕はもうオレの一部なんだから、自分の使いたいように使って良いんだって思ってたよ。でも、自分の持ってる力だからって本当に無節操に使って良いのかなって改めて考えてみると、どうもそれも違うような気がしてきてさ」
 普通の人間が相手なら、KsX-R "Romancer"の使い手となった今、オレと互角以上に渡り合えるヤツはそういないだろう。神鳴モードを起動して、ちょっと触れば巨大レスラーだってKOできるし、出力を最大にすれば殺すことだってできる。でも、そんな風に勝つことが絶対的に約束されたケンカは、もうケンカとは呼べない気がしないでもない。
 誰も勝てない、誰もまともに戦えない。そんな存在になってしまった人間がその力を思うがままに振りかざせば――それは暴君の誕生になる。常にオレが勝者で、ルールで、正義ってことになってしまう。だけどそれは、良く考えてみれば軽蔑していたはずのキースが求めていた物に他ならないんだよな。
「なんか、それってズルいことのような気がするんだ。ルールの裏側で上手いことやってるって言うのかな。法の抜け穴みたいなのを利用して、小汚い手で金儲けしてる詐欺師みたいな感じだ。ルールに反してなけりゃそれで良いってわけじゃなくてさ。ルールがどうなっていようと、自分は自分だって胸を張れるようなやりかたで勝ちたいだろ。同じ勝ち組に入るにしたってさ」
「つまり、インサイダー取引みたいなものだと?」
 天野が静かに問いかけてくる。
「インサイダー取引?」
「株の反則ワザのことですよ」経済学部の佐祐理さんが、らしいところを見せる。「内部情報を知っている人に『あの会社は儲かるよ』とかいう秘密の事情をコッソリ教えてもらって、株を売買するんです。……でも、それって皆は知らない裏情報ですよね? しかも、内部から漏れたものですから絶対に確実ですし。だから、その情報を持っていれば自分ひとりだけ、絶対に得をすることになります。大金を儲けられるんですよ」
「――それって八百長っていうか、反則なんじゃないの?」
「ええ、ですから不公正取引として規制されています。つまり、犯罪ですね」天野が言った。
「ああ、だったらそんな感じかもしれない」
 そうだな。その内部情報の絶対性をロマンサーの絶対性に置き換えてしまえば、当て嵌まるような気がする。自分だけが特別な情報を握っていて、大金を稼げることが確実な状態。自分だけが特別な右腕を持っていて、確実に勝てる勝負。似てるもんな。
「まあ要するにさ、この腕の力はオレが自分で『使わなきゃ』って思ったときにだけ使うもんだと思うんだよな」
「じゃあ、もしサイババさんとか、武器を持ってる人が相手だったら?」
 名雪が身を乗り出して訊いてくる。なかなか良い質問かもしれない。
「その時は使うよ。もちろん」
 オレは即答した。昨日、寝る前に同じことを自問したから、答えはもう言葉にしてある。
「そうじゃないと、今度は逆の意味でオレがズルっぽいだろう。ホラ、相手はロマンサーみたいな特別な力を持ってる人間で、それを活かして仕掛けて来るわけだからさ。オレも出し惜しみなんかしてないで、自分の持ってるもんを全部出し切って相手するべきだと思うんだよ。相手が、自分の特別な部分に誇りを持ってるなら尚更そうだよな。……なんか、ムチャクチャか? オレの言ってること」
「いいんじゃないかな」名雪はにっこりと笑う。「祐一がそう決めたなら、それが1番だと思うよ」
 その右手は祐一のなんだから、と彼女は締めくくった。
 名雪の言葉はいつも計算なんてものの入らない、純粋で単純なものだ。ときどき、こいつ本当に考えてから言ってるのか? なんて疑うこともあるけど、本音からストレートに出されたものであるからこそ、逆に真理に近いものであったりもする。
 その右腕は祐一のなんだから、か。
「そうだな」
 その通りだ。他の誰でもない、これはオレの右腕で――オレがY'sromancerなんだから。





GMT Wed,2 August 2000 13:47 P.M.
Stonehenge Salisbury U.K.

現地時刻 8月2日 午後1時47分
ソルズベリィ地方 ストーンヘンジ


 世界的に有名な遺跡と聞いて、1番最初にストーンヘンジを思い浮かべるヤツは多いだろう。歴史の教科書にだって出てくるから、子供にだってお馴染み。イースター島のモアイ像と並び、意図の良く掴めない巨石の集合体が整列していることで有名な遺跡だ。
 協議の結果、この夏の旅におけるオレたちの最後の観光地は、このストーンヘンジということに相成った。夏休みはまだ8月を丸ごと残しているわけなんだが、スポンサーの佐祐理さんの(それとThuringwethilの)意向で、明日になればオレたちは日本に戻らなければならない。つまり今日が、観光に時間を割ける事実上最後の日程となるわけだ。
 まあ仕方ないよな。佐祐理さんは、親父さんが所有しているハムステッドの別荘を丸ごと失ったことに関して、色々と日本にいる家族に説明しなくちゃならないわけだし。Thuringwethilにしたところで、オレたちを護衛することになった以上、保安上の問題をこまごまと考えなくちゃならない。いつまでも観光客でいるより、地元に戻ってしっかり守ってもらった方が安全に決まっている。本人は至って平気そうにしているが、オレは撃たれた天野の身体も心配だ。
 栞やあゆなんかは残念がるかと思ったが、意外と反発の声はなかった。思えばオレの両親と会って、ロックのライヴなんか初体験して、更にはサイバードールとかいう変態に襲われて殺されかけ、かと思えばオレやあゆがマフィアにさらわれて――と、相当のハードスケジュールだったからな。そうこうしているうちにオレも18歳の誕生日を迎えたし、なんか右腕がなくなって義手をつけることになったし。生まれて初めての海外旅行になる美坂姉妹やあゆ、名雪なんかは疲れたことだろう。たまに忘れちまうけど、彼女たちもティーンの女の子なんだから。

 まあ、そんなわけでオレたちは最後の観光地に選んだストーンヘンジ遺跡にやってきた。ウェールズを出てロンドンに入り、車を西へ走らせること約2時間。ここまで来ると、建物より緑の方が割合が大きくなる。周囲を見渡せば、長閑な田舎の風景がパノラマで広がっている感じだ。
 日本とイングランドとの決定的な違いと言えば、やはりこの自然の有無の差だろう。大都市ロンドンにだって、ちょっと歩けば信じられない程に大きな自然公園がある。東京だとこうはいかない。イングランド人は歴史的に緑を大切にする人種なのだ。日本の緑は、ある意味で免罪符的にしか機能していない。同じ緑でも思想と重さが全然違うわけだ。
 エントランスで1人4£払ってゲートを通過、道路下のトンネルを潜る。目の前に開けた野原がストーンヘンジだ。オレがここに来たのは2回目かな。最初に来たのはもう10年は前の話だから、あんまり詳しいことは覚えていない。オレの忘れっぽさは周知の事実だ。あまり威張れたことではないけど。
 案内書を参照するに、このストーンヘンジはイングランドの先史時代遺跡であるらしい。紀元前3000年頃からあったって話だから、凄い歴史だ。だって5000年だぜ? ――と言うことは、あれだ。ジーザスが水をワインに変えていた頃も、ゲルマン民族が大移動していた頃も、麻呂が眉毛を丸くしていた頃も、チンギス・ハンがモンゴル統一した頃も、ジャンヌ・ダルクが処刑された頃も、秋子さんが産まれた頃も、第1次世界大戦が起こった頃も、日本が名ばかりの民主主義制を採用し始めた頃も、ずーっとここに立ってたんだ。そう考えると、とてつもないよな。この遺跡は、その人類の歴史をずっとここで見てきたのだから。

「祐一さん?」
「はい?」
 気付くと背後に穏やかな微笑を浮かべた秋子さんが立っていた。彼女は女神のような朗らかさでニコニコとオレを見詰めている。こっちまで楽しくなるような笑顔だった。次の彼女の言葉を聞くまでは。
「時系列に歴史を並べていたのに、どうして……どうして私の誕生が、第1次大戦より前に列挙されているのかしら?」
「はうぁ!」
 なんか知らんが、バレてる。
「か、香里君。今、僕は何か口に出して喋っていたかなぁ」
 取り敢えず、近くを歩いている香里君に確認してみる。
「いいえ。なんか考え事をしているように見えたけど、何も口走ってはいなかったわよ」
「そうかい。ありがとう」
 これで無意識のうちに考えていることを口に出していたわけではない、ということは証明された。だとしたら、この人は何故オレの考えていることが分かったのだろう。もしかして、この人も隠れ異能者なのかっ。恐る恐る、秋子さんに視線を戻す。
「はうぁっ!」
 彼女は変わらぬ笑顔でまだオレを見詰めていた。
「祐一さん」
「は、はひっ!」オレは思わず直立不動の構えで応えていた。
「ここに来る前、新作のジャムが出来上がったんですけど、帰国したら試してみてくれるかしら?」
 ジャム! あのオレンジ色のヤツか。
「それだけは勘弁して下さい」
「祐一さん」秋子さんは何事も無かったかのように言った。
「ここに来る前、新作のジャムが出来上がったんですけど、帰国したら試してみてくれるかしら?」
「……はい。喜んでいただきます」
 口元に無理矢理にでも微笑を浮かべて、オレはそう言うしかなかった。

「それにしても、ヨーロッパって意外と田舎なんですねぇ」
 栞が周囲をキョロキョロと見回しながら言った。
「イギリスと言えば、ヒゲの紳士がタキシードを着て、馬車でパカパカ移動するものだと思ってました」
 何世紀イメージだ、それは。確かに、Royal Opera Houseみたいなところに行くと、栞の言うような英国紳士風のオッサンとか華やかなイヴニング・ドレスに身を包んだ貴婦人とかも見られるかもしれないけど、馬車――馬車なんかがパカパカ走ってるところなんて、特例を除いてオレはあまり見たこと無いぞ。いや、場所によっては今でも意外に見かけたりもするんだが、あれが一般の交通手段として普通に走っていたのは、多分シャーロック・ホームズの時代。19世紀の話だろう。言うまでも無いが、栞のイメージはドラマや映画に依存しすぎている。
 そんなこんなで、ボディガードを含めてゾロゾロと固まって歩いていると、ミッシーのやつが何やら難しい顔をして虚空を睨み付けているのに気付いた。
「なにやってんだ、あいつ?」
 せっかく遺跡見物にきたというのに、石を見ずに空気を見るとは何事だろうか。なにか考えごとをしているのか、それとも密かな悩みごとがあるのか、或いはストーンヘンジに挑戦しているのか。いずれにしても、ここは頼りになる優しい先輩として声をかけてやるべきだろう。
「天野、どうした。何か悩み事か」
「はい?」声をかけると、天野はようやくオレの存在に気が付いて顔を上げた。
「いいとも、何でも相談するが良いさ。オレの胸はいつだってお前のために開かれているぞ。さあ、気がね無く素肌のお前で飛びこんで来い。カマーン、ムィッスィー!」
 そう言って、オレはパンと手を打ち、両手を広げた。もちろん、爽やかで頼れる先輩を演出するために、オプションとして歯も光らせる。……だというのに、
「いえ、少し困ったことになったなと思いまして」
 と、天野は実に素っ気無い。もうちょっと、こう『はいっ。私の全てを受け入れて……そしてメチャクチャにしてください!』とかなんとか、服を脱ぎ捨てながら言えないものだろうか。
 言えないだろうな、やっぱり。天野がそんなこと言い出したら、まず脳を疑う必要がある。
「まあ、いいや。それで一体なにが困ったんだ。忘れ物でもしたのか」
「いえ、私の忘れ物ではなく、たぶん、彼らの忘れ物なのでしょう」
「はあ?」
 天野は珍しく表情を険しくしたりしているが、言葉の内容はまったく理解できない。
「悪い予感はしていたんです。やるなら標的が海外にいる内の方がいいでしょうし」
 まったく会話になっていないどころか、ついにはピタリと足を止めて、奇妙なことを呟きだす始末。確かにミッシーはミステリアスな雰囲気がウリのオバさん風味女子高生だが、今回ばかりは何が言いたいのかサッパリ分からない。そもそも、彼女は必要最低限、或いは必要なことさえ口にはしないような人間だ。当然、何を考えているのかは極めて計り難いんだよな。
「なにがどうしたって言うんだ。大宇宙の意思と交信中か? それともストーンヘンジに巣くう地縛霊と会話中とかか?」
 だが、答えたのは天野本人ではなく舞だった。
「……どうせ逃げられないなら、周りに迷惑が掛からないところの方がいい」
 不思議なことに、舞はミッシーの言葉の意味を理解しているらしく、更に輪を掛けて意味不明なことを口走る。これは、あれだろうか。女だけにしか分からない秘密の暗号とか。
「流石に川澄嬢は勘が良いな。場所を移動しよう」
 そう低く言うと、Thuringwethilの異能者たちは頷き合った。
 訂正。どうやらこれは、能力者たちだけに分かる秘密の暗号らしい。察するに、彼等は何かを感じ取ったようだ。それが何なのかは、ごく普通の人間代表たるオレには分からない。しかし、1番最初に反応したのはミッシーだ。ミッシーはオバさんライクな普通の人間の筈だが、なんで異能者たちと同じ反応を見せたんだろう。ミステリィだ。ミッスィーミステリィだ。
 まあ、あれだ。最近は全ての不思議現象に「天野だから」という一言で説明が付いてしまう傾向にあるような気がしないでもないんだが。
「一体、何事っスか」
「離れるのは危険だ。ついて来てくれ」
 オレの質問には答えず、異能者のガードたちは大股で歩いて行く。オレたちは慌ててその後を追った。
「祐一、何なの? 喫茶店でも見つけたのかな」
 全く状況を理解していない名雪が、能天気きわまりない口調で問いかけてきた。
「安心しろ、名雪。いちごサンデーの甘味とは、多分、まるっきり正反対の展開になりそうだ」
「がっかりだよ」

 元々、華やかな繁華街とは言い難い一帯だが、オレたちが足を踏み入れたのは更に寂れた一角だった。どこかの農場で使っている肥料庫だろうか。あまり熱心に手入れされているとは思えない――というか、無造作に伸び放題になっている草原に、プレハブの錆付いた大きな倉庫がポツリと1軒あるだけで、周囲に目新しいものは無い。勿論、何処に行っても顔を合わせるハメになる日本人観光客の姿も見当たらなかった。
「君たちは、ここに隠れていろ」
 オレたちをそのプレハブ倉庫の物影に引き摺りこむと、能力者の護衛は言った。そして、オレたちと同じ側にいる護衛に向けて低い声を投げる。
「ラルフ、相手は3人だ。多分なんとかなるだろうが、ヤバくなったら逃げろ」
「ああ。狙撃くらいなら手伝える。援護が要る時は合図してくれ」
 能力者のボディガード7人は、オレたちを残すと草原へと歩いていった。ここなら、何が起こっても周囲には被害が出ない。無論、目撃者を生むこともないだろう。彼等はそれを計算して、この場所を選んだわけだ。
 護衛たちは「相手は3人」と言っていた。この3人、恐らくオレたちを狙って来た財団の刺客といったところだろうな。傍にいる皆の緊張感が伝わってくる。舞の殺気が膨れ上がっていくのも分かった。だが、オレには敵と思われる3つの気配を察知することはできない。それが何だか悔しかった。
「居るんだろう、出て来いよ」
 ガードの1人が、英語で呟く。あんな声量で、相手に届くのだろうか。
 風が一帯を吹き抜け、辺りに広がる緑が揺れた。草の仄かな香りが漂ってくる。こっちは風上。もし、ドラマや映画が正しいなら、連中の潜んでいる方向はその真逆――この風の向かう方だ。
「来たぞ」
 傍らのアメリカ人護衛が囁いた。その視線はまさに風下の方角ある。彼に倣って目を凝らすと、数十メートル先に3つ人影が見えた。この距離だと、分かるのはヤツ等がサイバードールじゃないってことだけだ。連中だったら、身体中を金属のヨロイみたいなもので覆っているから、遠目にもすぐに分かるはずだからな。
 いや、ちょっと待った。そんなことより、3人の頭上に浮かんでいる、あの巨大な黒い影。人なんかより何倍も大きな塊。
「うぐぅ、祐一君。あれってもしかして……」
 その答えは、最も確実な方法で齎された。
 突如、耳を劈く爆発音と共に大地が震撼する。凄まじい縦揺れが足を伝って、腹のそこに響き渡った。それとほぼ同時、海に高層ビルを投げ込んだかのように、水飛沫にも似た土砂が空高く舞い上がる。それはオレたちが隠れたプレハブ付近まで飛来し、頭上に降り注いだ。女性たちが高い悲鳴を上げる。周囲には砂煙が蔓延して視界が利かない。突然の大音響に鼓膜がダメージを受けて、キーンという甲高い音が脳内に反響していた。
 土の雨と、砂埃の霧が完全に収まるまでには実に数分単位の時間が必要だった。漸く目を開けられるようになった時、最初に目に飛びこんできたのは大地に突き刺さった巨大な岩だった。ラグビーボールのような楕円形をした岩の塊で、長さは5メートルはある。重量は何十、何百トンという単位だろう。敵は、あれを――あんな代物をPK−STサイコキネシスで持ち上げて投げやがったんだ。

 戦闘は既に始まっていた。それに気がついたのは、ガードの1人が吹っ飛ばされてプレハブ倉庫の壁に叩き付けられたからだった。彼の身体は矢のような速度で飛んできて、オレたちの鼻先を掠めて倉庫の側壁に激突した。再び、女の子たちが悲鳴を上げる。
「ぐふ……っ」
 飛ばされてきたガードは、全身をPSIの皮膜で繭のように覆って受身を取ったらしい。口から一筋血を流している以外、目立った外傷は無い。普通の人間ならまず確実に死んでいただろうから、これは不幸中の幸いと言えるだろう。オレじゃなくて本当に良かった。
「大丈夫か?」人間のガードたちが駆け寄る。
「オレたちが足止め、する。逃げろ。財団は……とてつも、ない奴らを送り込んできやがった。俺たちだけじゃ、歯が、たたない」
 豪快に拉げた壁から這い出てきた能力者は、荒い息のまま搾り出すような声で告げた。
「くそっ!」
 状況は、一体どうなってる。目を改めて開けた野原に向けると、そこでは人間の次元を超えた戦闘が熾烈を極めていた。1番目を引くのは、敵の1人。黒髪の女だ。あの顔には見覚えがある。オレの高校に潜入していた女教師だ。
「江口先生……」香里が半ば呆然と呟いた。
 江口素子。可愛い顔立ちをした若い教師で、生徒たちにも人気があった。だけど、学校で連続殺人事件が起こった後、忽然とその姿を消している。そう言えばあの女、事件に1枚噛んでたんだよな。恐らく、実行犯のひとりとして。
 香里や天野は、日本にいられなくなった北川と入れ替わるように現れたことを考慮して、両者の関連性を疑っていたわけだが――なるほど、さすが我らのデュアル・ブレイン。ビンゴだったってわけだ。彼女はエンクィスト財団のエージェントで、しかも異能者だって筋書きらしい。確かに、話は合う。
「信じられないよ。祐一たちが悪い人だったって言ってたけど、私、なんとなくそうは思えなかったのに」
 そう言えば、名雪は江口教諭の裏の顔を直接は知らない。だが、今の彼女の姿を見れば、否応無くそれを認めないわけにはいかないだろう。彼女は、財団の異能者部隊Holy Orderの一員なんだ。

 江口素子――もちろん偽名だろう――は、その黒髪を靡かせて戦場に君臨していた。異様なのは、その髪の長さだ。もともと腰の辺りまで伸びていたストレートのロングヘアが、今は5メートルくらいにまで伸び、まるでその1本1本が個別の意思と生命を持っているかのように蠢いている。伝説のメデューサは髪の毛が蛇だったというが、それを連想させる光景だ。
「なんですかあれは……」
 驚愕に目を見開く栞が、掠れた声で言った。
「恐らく、PK‐LTの一種だろう」ボディガードは目を細めて、低く答える。
「えるてぃ?」
「サイコキネシスは『静止した物体』『運動する物体』『有機体』と、その影響を及ぼす対象によって大きく3つに分類される。その内、有機体に影響を及ぼすサイコキネシスのことを超心理学の学術用語ではPK‐LTと呼ぶ」
「1番有名なのは、傷を治すという効果ですね。それとか、相手の心臓を止めてみたり。PK‐LTは、3種のサイコキネシスのうちでも、最も高度なものだと言われているものです」
 ボディガードの言葉を継ぐように、天野が言った。
「おそらく、彼女は自分の頭髪に何らかの力を付与して、それを自在に操る能力を有しているんでしょう。髪の毛を一時的に伸ばし、更にサイコキネシスの膜で覆って強度を高め、1本1本を鞭のようにして操る。相当に訓練を積んだんでしょうね。生まれ持っての才能もあるでしょうが、あそこまで自在に操れるようになれるには、かなりの努力が必要だったはずです」
 なるほど。天野の知識は、超心理学の分野にまで及ぶらしい。

「五歌仙――あれは『皇聖五歌仙』だ。間違い無い。髪の長い女は『ウィアード・テイル』の三十六手。今まで殆ど表には出てこなかった、アジア最強の1人だ」
 飛ばされてきた異能者ガードは、まだ立ち上がることが出来ない。膝をガックリと追ったまま、荒い息で戦況を見詰めている。口の端から流れ落ちる鮮血の量を考えるに、恐らく内臓を傷めたんだろう。アバラも何本かもっていかれているかもしれない。オレも経験があるが、あれは辛いんだよな。呼吸が上手くできないんだ。
「恐らく、他の2人も五歌仙のメンバーだと思う。あの小隊は、全員がBランク以上の能力者だ。Cレヴェルの俺たちじゃ、どう足掻いても……」
 戦場では激しい戦闘が続いていたが、敵の圧倒的優勢は揺るがないようだ。7対3と数の上ではこちらに分がある筈なのに、押しているのは五歌仙とかいう連中の方。今、ここに居るガードの他に、あと2人が強烈な攻撃を受けて大地に転がっている。
「江口だけじゃないわね」
 睨みつけるような視線で敵を見詰めながら、香里が言った。
「あとの2人にも見覚えがあるわよ。1人は英会話担当のJ.クーパー。もう1人は、私たちのクラスメイトとして振舞ってたあの男だわ!」
「クーパー先生……北川君」
 名雪は更に驚いたようだった。無理もない。顔見知りが3人、話に聞いていたこととはいえ、自分の命を狙う敵として現実に目の前に姿を現したのだから。それも何の予告も無しに。

「佐祐理、絶対に出てきたらダメ」
 突然、佐祐理さんの両肩に手を置くと、舞は険しい表情で囁きかけた。そして次の瞬間、誰にも止める暇を与えずに戦場へ飛び出していく。
「馬鹿な、戻れ!」膝を付いた異能者は叫ぶが、その手は宙をさ迷った。「財団が認定した君のランクはC+だぞ! 俺たちと変わらないんだ」
「いや、財団もおたくらも川澄舞って娘を知らないんだ」
 彼女の背を見送りながら、オレは確信を込めて言った。
「確かに奴らの尺度じゃ、舞の遣う『魔』はC+程度かもしれない。でも、奴が見た『魔』は1体だけだろ。しかも、あの偽の北川が『シリウスの瞳』のイミテーションをまんまと持ち去っていった時に1度見たっきり」
「どういうことだね?」
「待っていたぞ、Mai Kawasumi!」
 戦場に踊り出た舞を見て、五歌仙の男は微笑を浮かべた。英語の担当教師をしていた、クーパーだ。まあ、北川を名乗っていた奴がそうだったように偽名なんだろうけどな。
「チョコレイト・ハウスと財団幹部会は、貴様の特異な能力に関心を抱いている」
「……魔ッ!」
 舞が鋭く叫ぶと、それは突然に現れた。空気が爆ぜて、不可視の鬼神は現臨する。ズンッ! と大地に重い物が降り立つ音と共に草原の緑が薙ぎ倒され、大型の獣の足型がクッキリと刻み込まれた。
「そうだ。その力だ」クーパーは唇の端を吊り上げた。
「いえ、待って!」
 江口――サンセイリュウの声を切っ掛けに、五歌仙たちの目が舞の周囲に集中する。その重量感のある着地音が、想定していた単独のものに終わらず、連続して起こったからだ。
 佐祐理さんのダイヤ『シリウスの瞳』を巡った事件で、舞は確かに『魔』の力を披露した。北川の偽者も、それを見たはずだ。そしてそれを全てだと思った。それが間違いの始まりだ。
 あの時に舞が呼び寄せた『魔』は1体のみ。それで充分だったからだ。舞はオレと違って、やたらと力を振りまわすような馬鹿とは違うってことを、奴らは知らない。それを示すように、落下音と共に大地に刻みつけられる召喚の証は――5つ。
 今はじめて、舞の使役する魔が財団の前に全騎召喚された。

「結局、あいつらは舞のことを何にも分かっちゃいないのさ」
 自分だけがアイツを分かってる。分かってやれる。何だか、そのことがとても嬉しく思えた。自然に口元が緩み、微笑が浮かぶ。
「まさか……」
 ボディガードたちは目を見開いて舞を凝視している。五歌仙の奴らも同じらしい。だけど、オレに言わせれば驚くのはまだ早過ぎる。本当に凄いのは、『魔』を使えることじゃない。『魔』の数なんかじゃないってことをオレは知ってる。
「そんな馬鹿な。具象思念体を同時に5つも生み出せる能力者など、未だに確認されていない筈だ」
「いますよ、あそこに。それに、生み出すだけじゃない。5体を同時に操作できる。オレはその光景をこの目で見てきた。あいつはオレみたいな半端なヤツとは違う。本物の戦士なんだ。甘く見るな」
 オレのその言葉に、護衛たちは沈黙した。そして、改めて驚愕と期待の眼差しを舞に向ける。
 C+って言ってたかな。まあ、なんでもいいや。あいつを過小評価したことを、人々はきっと後悔するだろう。良い薬だな、エンクィスト財団。お前らは今日、あいつの本当の凄味を刻んで帰ることになる。――舞に無事に帰して貰えたら、な。
「誰がアジア最強かは知らないけど、あいつならそれを引っ繰り返すさ」

 舞が呼び出した5体の『魔』は北川を名乗っていた奴に向かっていった。そして、舞本体は江口――いや、サイセイリュウとかいう女と対峙する。自然、英語教師だった奴にThuringwethilの全員が向かうことになった。戦況は一転だ。
 或いは、不可視の敵を相手にした経験がないのかもしれない。『魔』を相手にする偽北川はかなり慎重に間合いを計っているようだった。両者の戦況は膠着状態といったところだ。逆に、舞と三十六手の激突は、はやくも熾烈を極めていた。
『ウィアード・テイル』と呼ばれていた、有効半径は5メートルに及ぼうかという三十六手の黒髪が、鎌首をもたげた毒蛇のように続々と舞へ襲い掛かっていく。舞は敵の周囲を、目視で捉えるのが困難なほどの速度で高速旋回しつつ、それを躱していた。
 PK(サイコキネシス)を付与されて伸縮し、それぞれが独立した動きを見せるという『ウィアード・テイル』は、まるでハリネズミの針のようにほぼ360度全域に展開している。本当にそれぞれが個別の意思と生を持っているかのように、それは風もないのに怪しく蠢いていた。その異様は群生するニシキヘビのようにも見えるし、20本を超えるムチの束のようにも見える。それらが唸りを上げて舞に襲い掛かるたびに、バチンという火花が弾けるような破裂音が周囲に響き渡った。あんなの食らったら、痛いどころの騒ぎじゃ済まないだろう。
「熟練した使い手が操る鞭は、その先端が音速を超える速度で繰り出される」
 呆然と異能者たちの戦闘を見つめながら、震えるような声でガードの一人が言った。
「あのバチンという破裂音は、振るわれた鞭が音速を超える時に発生する音だ。ギネスブックにも、一定時間内に何回あの音を出せるかを競う記録があるが……当然のことながら、音速を超える鞭の動きなど人間が捕らえることなど不可能だ。まして数十本の鞭を連続して生身の人間が躱すなどあり得ることではない」
 音速と言えば、ピストルの弾もそうだ。あれも発射された瞬間の速度――つまり初速は音速を超えるという話を聞いたことがある。つまり、音を超えた領域で運動する物体を躱すというアクションは、発射された拳銃の弾丸をヒラリと避けて見せるに匹敵するあり得ないものだということだ。
「でも、舞はそれをやってる」
 オレは漸く、彼女がどれだけのことをやらかしているのかに気が付いた。
「これがPSYMASTERか」
 愕然として、彼は呟いた。その気持ちは、少しだけ分かる。
「住む世界が、我々とはあまりに違いすぎる」

「――ッ!」
 その時、戦場に驚愕と恐怖が交じり合うような悲鳴が響き渡った。その声の主は、三十六手と呼ばれる鞭使いの女だ。見ると、彼女と戦う舞の手に光り輝く一振りの長剣が握られていた。そして宙を舞い、風に流されていくサラサラとした黒い糸の群れ。
 守りに回っていた舞が、攻勢に出たのだ。魔剣を呼び出し、そして恐らく斬ったのだろう。風に飛ばされていった黒い糸のようなものは――
「私のウィアード・テイルを斬った!?」
 三十六手のその声には、明らかに怯えるような色が見え隠れしていた。
「はッ!」
 攻めに転じた舞は、襲い来るウィアード・テイルを凄まじい身のこなしで回避しつつ、急速に間合いを詰める。そしてその薄桃色の唇の隙間から凛とした気合の声が漏れた瞬間、彼女は魔剣を一閃した。
「キャアッ」
 ガードのために周囲に展開された『ウィアード・テイル』ごと、魔剣は敵の本体を切り裂いた。三十六手の口から、明らかに苦悶のものと分かる悲鳴が零れる。
「強い……!」
 全ての人間が、舞の戦闘能力に目を奪われていた。無理もない。財団が舞に下した評価はC+。そのC+がBランクを超えるサイマスターを翻弄しているのだから。
 誰もがようやく、財団の過ちに気付きはじめた。その認識は正しい。人はついつい『魔』という派手で強力な能力に思考を奪われて惑わされる。でも、舞の本当の武器は魔なんかじゃないんだ。
「あなた、ただの思念獣使いじゃないわね!?」
 痛撃を受けた三十六手は、大きく後ろに跳んで舞との間合いを取ると苦々しく言った。見れば、彼女の胸元に朱色の筋ができている。血の跡だろう。右胸の服は切り裂かれ、彼女の白い胸の膨らみが露になっていた。むう、惜しい。この距離だと、良く見えんではないか! せっかくのお宝が惜しげもなく晒されているというのに!
「それに、思念体だけじゃない。C+なんてものじゃないわ」
「そうさ。舞の本物の武器は彼女自身の強さだ。魔なんかじゃない」
 沈黙を守ったまま剣を構える舞に代わり、オレは言った。
「舞は複数の魔を同時に相手にして、しかも勝てる」
「まさか――」
 信じられないといった顔で、ボディガードたちは首を左右する。彼らもまた、財団と同じように舞を過小評価していた人間のひとりなのだ。
「あいつは、もう10年も前の話になるかな。自分でも知らない間に『魔』を生み出してしまったんだ。そして、その『魔』と戦い続けてきた」
 ……オレのせいで。
「彼女は、それが自分の力から生まれたものだなんて知らなかったから、『魔』を敵だと認識して、それを倒すためにひたすら戦ってきた。今年、オレと一緒に決着をつけるその日まで、10年もの間ずっとね」
 舞は今、18歳。10年前と言えばまだ年齢は一桁だ。ティーンにも満たない頃から、彼女は財団がC+と評価してきた魔との戦闘を繰り広げてきたことになる。

「10年前だって? まだ年端もいかない子供じゃないか」
 ボディガードたちは、呆然とした表情で呻く。
 信じられない気持ちは分かる。オレも実際に見ていなければ、信じなかっただろう。他ならぬ舞の口から聞かされたのでなければ、俄かには信用しなかったに違いない。でも、これは事実だ。
「あいつはバナナも切れないような鈍ら剣を手に、夜な夜な戦ってきたのさ。嘘じゃない」
「しかし、C+と言えば武装した特殊部隊の兵士2、3人分に匹敵する戦闘能力だ。そんな化物を相手に8歳の少女が――」
「最初は敗走が続いただろう。大きな怪我もあったって話だ。死にかけたことも指折りで数えられない程あったんじゃないかな。現に、舞の白い肌には無数の小さな傷跡が残ってた。今は彼女の能力で消えてきてるけど、魔との戦闘が進行形で続いていた時は、癒える前に新しい傷ができるような状況だったって聞く」
 最初は日本刀を使ってたんだっけな。10歳にも満たない少女が、重たい真剣をどこからか見つけ出したとして、満足に持ち上げることすら叶わなかったに違いない。それを自在に操るようになるまで、どれほどの鍛錬が必要だっだろう? きっと血豆ができるまで振り続けて、それでも振って振って振り抜いて、豆が潰れてグチャグチャになって……。そうして手の皮膚がガチガチ固まってなお、彼女は振り続けたのだろう。
 剣を振れるだけじゃ殺し合いを生き抜けない。敵に怯えずに向き合えるようになるまでに、彼女は一体どれほどの時を要しただろう。目に見えない敵の気配を察知できるようになるまでに、どれほどの敗戦を重ねただろう。一撃必殺の『魔』の猛攻を凌ぐ技量を培うまでにいかほどの労苦があっただろう。
 川澄舞という少女は、死と向かい合わせた戦場に向かう度に、想像を絶する努力と鍛錬を続けてきたに違いない。

 そのことは、剣を構える舞の姿そのものが如実に語っていた。
 たとえば、日本の『剣道』の構えでは、左足は完全にかかとを上げて浮かせる。だけど、舞は真剣で戦ってきた剣士だ。彼女の基本スタイルは、左かかとを地に付ける。かかとを浮かせると足元が安定しないから、重い真剣を持った時、重心が狂ってしまうと舞本人が語ってくれたことがある。だから、足を地面に下ろす方が実戦的だと。
 また、日本剣道では晴眼(正眼)、上段、下段、脇構え、八相の5つの構え方があり、現代ではもっぱら剣を身体の正面中段に構える正眼が採用されている。だが、舞に言わせればこれも実戦向きではないらしい。竹刀や木刀を使ったスポーツならそれで良い。だが、真剣を用いた実戦では正眼はそんなに使えないとのことだ。
「正眼は攻めにも守りにも転じられる万能型。でもそれは、攻めるにせよ守るにせよ、余分な付加動作が必要になるということ」
 たとえば斬り下ろす場合、正眼だと振り上げ、それから振り下ろさなくてはならない。魔を相手にする時、その余分な動きは致命的な隙になる。ならば、最初から振り上げていた方が確実に速い。それが、舞の出した結論だった。
「死合と試合は違う。ルールに守られた戦いなんてない」
 これは、魔と戦うために舞に剣の稽古を付けてもらった時に聞いたことだ。
「祐一は、時代劇の見過ぎ。死合では、正眼に構える方が少なかったと聞く。西洋では、そもそも剣を身体の前に出す構えは存在すらしない」
 舞は恐らく、多くの剣術の要素を取り入れ、そして実戦に向かないものを排除していきながら独自のスタイルを作り上げたのだろう。より実戦向きに。より殺陣向きに。
 ――あいつは学校ではなく、殺し合いの中で育った。川澄舞というのは、そういう女性だ。

「オレも魔と戦った経験があるから知ってる。あの一撃は、まさに必殺だ。見えないところから、まともに食らえば即死の破壊力を秘めた一撃が降ってくる。生きるか死ぬかの真剣勝負だ。ガキの喧嘩やルールに守られた格闘技とはわけが違う」
 今でも思い出す度に身震いしてしまう。もし舞が一緒でなかったら、オレは確実に殺されていた筈だ。
「戦闘のプロフェッショナルとして、実際の死線を潜ってきたアナタたちなら分かるはずだ。10歳にも満たない少女が、そんな戦場に放り出されて生き抜いてこられたのがどれほどのことか」
「それは……」
 彼らは沈黙した。手練であればあるほど、その重みを強く理解できるに違いない。
「誰も頼れない。死にかけても誰も助けてはくれない。あいつは大のおとなでも1日として絶えられないような孤独とプレッシャーを抱えて、多分この世の誰よりも多くの修羅場を潜ってきた。ずっと自分よりも何倍も大きくて巨大な、しかも不可視の敵を相手に回して生き抜いてきたんだ。
 だから断言できる。川澄舞を超える戦闘のプロフェッショナルは存在しない。あいつは、我流だとか正規の訓練を積んでいないとか、そんなレヴェルの話を超越した場所に立ってるのさ。ガキの頃から負ければ死ぬって戦いを繰り広げて、今日まで生き抜いてきた女だぜ。そんな奴に、いったい誰が勝てるって言うんだよ?」
 誰よりオレは、あいつの傍にいてそれを見てきた。財団より、佐祐理さんより、実の家族より、オレは舞のことを知っている筈だ。だから、確信している。
「――悲しいけど、あいつは強いんだ」

「もう分かったはず。あなたに私は殺せない」
 胸の傷跡を押さえ荒い息を吐く三十六手に、舞は剣を突き付けて言った。
「このまま去るもよし、あくまで抗うもよし……その場合の無事は保証できないけど」
「くっ! 甘く見ないで!」
 三十六手のウィアード・テイルが蠢き、そして一斉に舞に襲いかかる。だが、舞はそれを完全に予測していた。襲い来る全ての鞭を回避し、そして斬る。彼女の名のように舞うような動きだった。
 目に見えない敵と互角以上に戦うためには、目に頼らず気配と流れで全てを見通す能力と、相手の攻撃や動きを的確に予測する能力が必要とされる。そして、それを命を賭けた実践の中で、極限の位まで高めたのが川澄舞だ。故に彼女は、普通の人間が捕らえきれない音速を超える攻撃も、見えない目で感じて、見えない力で読む。だからそれを躱せる。斬れる。
「あぅっ!」
 敵のお株を奪うように、右足を鞭のごとく撓らせた舞の蹴りが三十六手のヒットした。脇腹を抉られた彼女は、苦痛の悲鳴を上げて後ろ向きに倒れた。
 そこに、とどめの魔剣が襲いかかる。
「砕破ッ。助けて、砕破っ!」
「チィ」
 両腕で我が身を庇いつつ三十六手が叫ぶと、砕破と呼ばれた男がフォローに入った。奴は舞の呼び出した魔を5体を一気に蹴散らし、何とか舞と三十六手との間に割り込むことに成功した。剃刀のように鋭いハイキックを放ち、舞を牽制する。
 凄いヤツだ。舞の『魔』を、もう見切ったらしい。5体も同時に相手にしながら、味方のサポートにまで回れるなんて並じゃない。あの舞でさえ、1度に戦った魔の最高記録は3体だっていうのに。
 でも、流れがコッチに傾きかけてるのは間違いない。畳み掛けるなら、今だろう。
「よし、ほんじゃオレも行くか」
「えぇっ?」
 場に居合わせる全員が、揃って素っ頓狂な声を上げた。オマケに目を見開き、口をアングリと開け、まるで金星人でも見るような目付きでオレを凝視している。実に心外だ。
 舞が夜の学校で戦ってた時から、オレはあいつのパートナーだったんだぜ? まあ、オレが勝手にそう思ってただけだけど。でも、舞のアシストくらいはできる! ……かもしれない。それに、オレには新しい右手がある。今こそ、こいつを役立てる時だ。迷わずに。
「お前たちは、ここに隠れてろ。出てくると危ないから」
 オレは左手をあゆに、右手を名雪の頭にのせて微笑みかけた。
「祐一だって危ないよ! あの人たち、川澄先輩と同じ――超能力が使えるみたいだし」
「ああ、そのことに関しては心配するな」
 オレは泣きそうな顔をしている幼馴染みたちに、意図的に作り上げた笑みを見せた。そして、新しく手に入れた右の黒手を翳す。
「オレのこいつは、超能力よりスゲェぞ」
 スイスのカストゥール研究所が製作した、第3世代型・超筋電義手。偉大なる天才シルヴィア・エンクィストの遺産。今はオレの右腕となった、科学の力が与えた特殊能力を持つこのナックルは、半端なPSIなら簡単に凌駕してしまう程の潜在能力を秘める。開発コンセプトは、『生の腕を切り落としてでも欲しくなる義手』。それがこの腕――
「ワイズロマンサー、モード『圧殺』!」
 オレは叫ぶと、高速戦闘が繰り広げられる闘いの舞台へと駆け出した。視線の先には、舞と互角の肉弾戦闘を繰り広げる黒髪の男。かつてオレたちが友人だと認識していた男。
「BITE THE……」
 オレの声門パターンを認識し、最終安全装置が解除される。そして、ガキンと硬い金属音が響き、右腕が微妙に変形した。最高握力686kgを誇る、ロマンサー第1機能の発動だ。
 他のヤツには目もくれない。反撃の隙も、認識の機会も与えない。弾丸の様に一気に間合いを詰め、握り締めた圧殺の右腕を、渾身の力で――
「BULLET!」
 叩きつける!
 強烈な、まさに圧殺の手応え。十字に合わせたガードの骨を粉砕する感触。腕で防御されたものの、686kgを誇る握力と、無重力合金のスペックは伊達じゃない。スレッジ・ハンマーで思いっきりぶん殴られたような衝撃と圧力を受け、ヤツの体はガードの体勢のまま数メートル吹っ飛ぶ。
「チィッ……!」
 だが、流石は高度な戦闘訓練を受けた兵士だ。空中で巧みにバランスを取り、砂埃を豪快に巻き上げながらもヤツは見事な着地を決めた。そして即座に、体に覚えさせたファイティング・ポーズを取り、2撃目を牽制してくる。完全に不意をついたはずなのに、初撃をガードされた上に、連続攻撃に入ることを許さない。――なるほど、こいつは本物だ。舞と互角にやり合えるだけのことはある。
「完全に入ったと思ったのに、まさかあのタイミングと間合いでガードするとはな。……やるじゃねェか」
「貴様――」
 黒髪の少年は、オレを睨みつける。視線に殺傷能力があれば、即死は免れないであろう程の鋭さだ。
「でも、手応えは充分過ぎたぜ。『圧殺』の一撃を正面から受け止めたんだ。骨が砕ける手応えが伝わってきた。もう、その両腕は使いモンにならないはずだ」
「確かにこの破壊力、人間の叩き出せるものではない」
 ヤツはその黒い瞳で、砕けて変形した自分の左腕を見詰める。
「貴様もその女と同じ能力者か」

「それより、名乗れよ。お前」
 舞とオレに正面から対峙し、ヤツは自分に勝機がないことを悟っているはずだ。そうなると、ヤツはどうでるか。プロである以上、恐らく退くだろうが――そんなことを計算しながら、オレはヤツとの間合いを計る。
「ぶん殴る前に、名前くらいは聞いといてやる。お前が以前名乗っていた『北川潤』は偽名だろ。と言うより、お前は北川の偽物だ。オレたちは、本物の北川を知ったからな。だから訊く。お前の本当の名前は、なんなんだ?」
「――名などない」ヤツは即答した。「生まれた時から、オレに名前はない」
「へぇ。不便なやつだな」
「だが任務を得た今は、コードネームを与えられている」
 名前のない男か。ちょっと想像がつかない。孤児だったのだろうか。あの鷹山さんもチョコレイト・ハウスの人間だったっていうが、ちゃんと名前があるし。となると、こいつは鷹山さんみたいに『異能者狩り』で捕獲された子供じゃなくて、サイマスターの遺伝子プールから人工的に作られたハイブリッドなのかもしれない。
「コードネーム砕破サイファ。それが、オレの名だ」
「砕破――」
 サイファ、か。聞き覚えがある。オレたちが財団に狙われていることを護衛たちに初めて告げられた時、彼らの口から出てきた名前だ。極東で最も恐るべきサイマスター。鷹山さんとも互角に戦えるって云う、アジア最強のホーリィ・オーダーって話だったよな、確か。そうか、こいつが……。
「OK、砕破。覚えたぜ」
「記憶する必要はない。お前は、ここで不慮の事故に遭う。そして、死ぬ。それがシナリオだ」
「やってみろよ!」
 返答の暇を与えず、オレは再び地を蹴った。砕破も機敏に反応し、真正面からそれに応じる。ヤツがどんなPKを持ってるのかは知らないが、それを発動させる前に間合いを詰めて、最初の一撃を決める。先手必勝。単純だが、もっとも効果的な戦術だ。
「死んでも恨むな、砕破さんよォ!」

神鳴モードELECTRIFICATION

 シルヴィアの囁きと共にロマンサーが再び変形し、バチバチと閃光を散らしながら青白く発光する。稲妻を纏ったようなこの腕は、もはやスタンガンなど相手にならないほどの超高圧電流を生み出している。絶縁破壊を起こし、電気を通さないはずの空気を切り裂いて雷のように相手に突き刺さる。拳がじかに触れずとも、掠っただけで感電するその威力は、最大で体感電圧121万ボルト。『圧殺』『煉獄』『神鳴』。ロマンサー3形態の内で、最強の殺傷能力を持つのが、この神鳴モードだ。
「BUST YOU UP!」
「オオオォッ!」
 インパクトの瞬間、視界を貫くような閃光が周囲を覆い尽くした。慌てて目を閉じるが、瞼越しに強烈なフラッシュが突き刺さってくる。太陽でも落ちてきたみたいだ。世界が真っ白に染まって、一瞬ではあるけど視覚を完全に殺された。
「くっ、なんだ」
 ロマンサーはまるで分厚い鋼鉄の壁を思いきりブン殴ったかのような、鈍い痺れを伝えてくる。かつて感じたことのない、強烈な手応えだ。何かにヒットしたことは間違いないが――
 閃光に焼かれた視界が漸く回復する。恐る恐る目を開いたオレは、信じられないものを目撃することになった。
「……ッ!?」
 ロマンサーは確かに砕破にヒットしていた。だが、ダメージは与えられていない。何故なら、正面から受け止められていたからだ。奴の左脚に。
「そうか。KsXシリーズR型」
 砕破は鋭く目を細めて言った。
「カストゥール研の偏屈科学者どもめ、頑なに守り通していたシルヴィア・エンクィストの遺産を貴様などに与えたというのか」
「お前、この腕を知ってるのか」
 くそっ、まったく。一体なにがどうなってやがるんだ。なんでコイツ神鳴のロマンサーを食らってピンピンしてやがる。それにロマンサーを受け止めたあの左足、なんか光ってないか?

「相沢祐一、貴様は一体何者だ」
「オレはオレだ。世界で2番目のY'sromancer、相沢祐一。それ以外の何者でもない」
「Y's……Romancer」
 砕破はその一言一言を噛締めるようにして呟いた。そして、オレを睨みつける。
「かつて何人をも受け入れなかったILISシステムが、よもや貴様などを認めるとはな」
「開発者の意思を受け継ぐナノマシン、か。きっと、シルヴィアって人は変わり者が好きだったんだろうよ。ILISは揃いも揃ってYの遺伝子を選んだんだからな」
「――なるほど。良かろう、ワイズロマンサー」
 砕破は薄く笑った。
「ILISに主と選ばれた事実に敬意を表し、全力を以って貴様の存在を抹殺する」
「オレはこんなところで死ぬ気なんざ更々なくてね。悪いけど、全力で抵抗させてもらう」
「やめておけ。抵抗は無意味だ」
 その言葉がオレに届いた瞬間、砕破は動いた。鋭く間合いを詰め、そして左足を軽く振り上げる。側頭部を狙った緩いハイキックだ。倒すつもりはなく、牽制程度。当てるだけといった感じの蹴りだ。
「結果だけを求めて抵抗するわけじゃねーんだ、オレは」
 オレは余裕を持って、それをロマンサーでガードする。だが次の瞬間、オレの身体は宙に浮き上がっていた。
「な……ッ!」
 まるで爆発に巻きこまれでもしたかのように弾け飛ぶロマンサー。凄まじい衝撃と振動がストレートにオレを襲った。撫でる程度の軽いハイキックだった筈なのに、その威力でガードごと身体を持っていかれる。浮き上がった状態でなんとか姿勢を制御し着地に成功するが、オレは一瞬で全身に汗を滴らせていた。
 何が起こった――?
「何を驚いている。お前が相手にしているのはPSYMASTERだぞ」
 砕破は呆然としているオレを嘲笑うように言った。
「今のは、じゃあ」
 こいつの能力か……? いや、そうとしか考えられない。ガードに使ったのがロマンサーだから助かったものの、生身の右腕だったら骨折どころか腕が消し飛んでいただろう。暴走する車に正面から衝突されたような、とてつもなく重い衝撃だった。60キロあるオレの体を浮かせ、吹き飛ばしたんだからな。恐らくインパクト時の衝撃瞬間最大値は数トンに及んだ筈だ。しかも、軽く出しただけなのに。

「相沢君、逃げろ。そいつは君の敵う相手じゃない!」
 視界の外から、ボディガードの声が飛んでくる。残念ながら、振り向いて声の主を確かめるような余裕はないが、方向からいって敵と交戦中の能力を持った護衛らしかった。
「そいつの武器は、強力なPSIでコーティングした左足だ。Left Leg of Darkness。通称LOD。PSIのシールドを張れない君が食らえば、掠っただけでも即死するぞ!」
 ――それを早く言え。
「どうした、ワイズロマンサー。顔色が悪いぞ」
 蒼白になっているのだろう、オレの反応を見て砕破は嘲笑った。
「うるせェ!」
 オレはさっきの一撃とボディガードの言葉で、漸く自分が何者を敵に廻しているのかを理解した。こいつは本物のバケモノなんだ。人間の手ではどうすることもできない、悪夢の顕現。闇の左脚。それが、コードネーム砕破。こいつだ。
 相手の強さを正確に認識できるのも、また強さ。今まで会った中でオレより強い奴なんかワンサカいたけど、どんなに実力差があったところで、そいつの強さがどのくらいの位置にあるのかは分かった。自分の力と、相手の力の差がどれくらい離れているのか認識できた。
 だけど、こいつは違う。どれくらい強いのかさえ分からない。どれくらい凄いのか、理解を超えてる。かつて、オレにそう思わせたのはただ1人、川澄舞だけだった。だけど、砕破――こいつは舞と同じだ。オレの持ってるモノサシじゃ計りきれない。桁と次元が違いすぎて、奴がどれくらいデカイのかさえ分からない。底が、見えねェんだ――。
「そうか、これが……」
 あのキース・マクノートンが子供に見えるほど、こいつは世界が違う。
 これが、何かの頂点を極めようとする者の世界。最強の住む世界。
「これが大海ってやつかい。噂の」
 馬鹿みたいに広いこの世界最大の大陸で、コイツより強い奴はただ1人としていない。その意味。
 こいつの上は、アジア大陸に存在しない。それが最強。オール・オーヴァ・ジ・エイジア。
 その座に君臨し続ける男が、今オレの目の前にいる――
 凄い。ちょっと待て。これは、凄いことになってるぞ。オレは今、とてつもない所に足突っ込もうとしている。

「やっと分かったようだな、素人」
 砕破が再び動いた。いや、気が付いた時には、動いていた。
「どこを見ている、ワイズロマンサー」
 その音声は背後から発せられていた。視覚から奴の姿が消えた瞬間、既に後ろに回りこまれていたのだ。そのことを理解は出来ても、認識と反応が追いつかない。それは人間という生物が可能とする運動能力を完全に超越していたからだ。
「クッ!」
 慌てて身体を反転させつつ間合いを取ろうとするが、それより早く胸倉を掴み上げられる。そのまま、赤子でも持ち上げるように奴はオレを吊り上げた。左腕1本で。
 瞬間的に脳裏に過ったのは、2つの思いだった。1つは呼吸が苦しいという本能的な思考。もう1つは何故、圧殺の一撃でへし折った筈の左手がもう使えるのかという疑問だった。
「不思議に思っているようだな、ワイズロマンサー」
 さっきからワイズロマンサー、ワイズロマンサーと、こいつは執拗なまでにその呼称を多用してくる。その声音には明らかに皮肉と嘲笑が含まれていた。オレには過ぎた玩具だとでも思っているんだろう。
「俺はPSYMASTERだ。超能力者を意味する『サイキック』や『エスパー』という既存の用語があるにも関わらず、こう呼ばれる。何故だか分かるか?」
 殆ど呼吸の出来ない体勢のまま固定されているオレは、なんとか戒めを解こうともがくが奴の万力のような力は少しも緩まない。脳に送られる酸素の絶対量が不足して、気が遠くなりそうだ。
「俺たちPSYMASTERが通常の異能者たちと差別化されるのは、軍事的・戦闘的な意味合いでその能力を特化しているからだ。俺たちの力はただ能力が使える馬鹿とは違って、合理的に訓練され強化されている。生身の人間では到達できなかった領域に君臨する、兵士を超えた兵士として機能するために」
 砕破はそこまで言うと、オレを無造作に放り投げた。オレ自身がそのことを理解したのは、視界が何度も反転した挙句、壮絶な衝撃を伴って地面に落下した後のことだった。
「たった1人で如何なる戦闘においても勝利を収めることができる兵士。その成立には大きく3つの絶対条件のクリアが要求される。1つは、あらゆる防御を無効化する強大な攻撃力を持つこと。1つは、あらゆる攻撃を無効化する極めて強大な防衛力を持つこと。そして1つは、あらゆる損傷ダメージを無効化する自己修復能力を持つこと」
「ガハッ……ゴホ、ゴホッ!」
 ガキの頃に柔道の経験があったおかげで身体が無意識に受身を取ってくれたようだったが、衝撃を完全に相殺してくれるだけの効果はなかった。背中を強かに打ちつけたオレは、跪いたまま激しく咳き込むしかない。
「ここにいる全員がそうだ。Holy Orderの隊員は全員が、ある一定以上でその3点をクリアしている。俺は三十六手のように他人の傷を癒す力は持ち合わせないが――自分の傷なら己の能力で癒せる」
 骨折を、治したってのか? このおしゃべりは、そのための時間稼ぎだったわけか。
「さあ、死ぬ準備はできたか」
 砕破から発せられるのは、本物の殺気だった。何の覚悟も持たないガキが、ナイフや銃を持っただけでは決して生まれない圧力。人を殺すことの意味を知り、それでなお相手を殺すことを厭わない真の暗殺者がはじめて纏える殺気だ。
「信念を持って拳を固めれば、必ず勝利できるとでも思っているのか? 自分には無限の可能性がある。奇跡は起こせる。強い意思さえあれば、不可能などない。世界を変えられる、と。そう思っているのか、ワイズロマンサー」
 砕破は静かに歩を進め、オレとの距離を縮めながら言った。
「それは社会との距離感を曖昧にしか認識できぬ幼子の勘違いだ。大海を知れ、井の中の蛙」
「……そんな悟ったような正論は聞き飽きたってんだよ、砕破。お前に聞かされなくても、教科書みればそいつは執拗なまでに書いてある。なんかを諦めた負け犬にマイクを向けりゃ、必ずそういうコメントを吐いてくれる」
 オレはコイツに勝てない。足元にも及ばない。でも。
「大海に出てもキッチリ通用する蛙だっているんだぜ、諦観屋のニイちゃん。井の中から這い出たやつが、みんな波にさらわれちまうんだったら――世界はどうやって変わって来たんよ?」
「お前が変えるとでも言うのか?」
 足を止めると、砕破は目を細めてオレを見下ろした。距離は約4メートルってとこか。
 オレは震える膝を叱咤しながら立ち上がり、奴と対峙した。
「オレには無理かもな。無理なんだろう。その可能性の方が高い。圧倒的だ」
 認めるさ。オレは弱い。お前や親父を見てきたから、絶望したくなるほどそれを実感している。それこそ、もう立ち上がる気も失せるくらいに。
 相沢芳樹、相沢夏夜子、水瀬秋子、シルヴィア・エンクィスト、鷹山小次郎、澤田武士、川澄舞、そして砕破。色んなヤツに出会って、この世にはとてつもないバケモンがそこらじゅうにウジャウジャ蠢いてるんだって知った。
「でもな、オレはオレを変えたぞ。少なくとも、オレはオレの世界は変えた。負け癖も、陳腐な常識も、甘さも、嫌いな自分を克服してきたつもりだ。舞の力を借りて、力の受け止め方も学んだ。オレは、少しずつだけど自分が変わってきたことを実感してる。去年のオレより、今のオレの方が強いって胸張って言える」
 その事実をはじめて自分の中に見つけたとき――嬉しかった。ただ嬉しかった。
 オレは生きてることを、喜べた。これから、もっと自分を誇れるような人間になれるんじゃないかって、希望を持てた。世界が自由に見えた。
「だから、オレはこれからもそれを繰り返す。死ぬまで繰り返す。……財団はオレを殺そうってんだろう? だったら、逆らわせてもらう。お前たちに狙われて無事でいられたヤツがかつて1人もいないって言うんなら、オレたちがその最初の1人になる」
 そう思って、その通りに生きてりゃ、世界はダメでも、いい女の心ひとつくらいなら動かせる。そしてそれは、時に世界を動かすことより――
「そうだ。それは時に、世界を動かすことよりデッカイ偉業だったりするんだ」
 それが、この右腕に関わる全ての人たちが共有する、オレたちワイズロマンサーの哲学だ。

 正論大好き人間、どっかで聞いたような台詞をまるで自分の格言のように吐く人間、使い古された言葉で自分の弱さを合理化しようとする人間。たとえ奴等の言葉に真実が含まれていようと、それに人の心を動かすだけの力はない。
 決めつけんなよ。オレとアンタは違うかもしれない。アンタに教訓垂れて貰わなくたって、全ては結果が教えてくれる。オレは、その結果が出るまで好きなようにさせてもらうさ。諦めた言い訳をゴチャゴチャ抜かすだけの奴は黙ってろ。黙って見てろよ。
 コイツの言う通りなんだ。社会に出てみて現実の厳しさを認識し、萎縮する。世界の大きさを知って自分の無力を痛感し、自己評価が矮小化しちまう。それから現実に妥協して、折り合いつけて生きていくようになるわけだ。でも、そんなことは放っておいても誰かがやる。誰でもやる。
 誰も往き着いたことのない場所を目指すなら、何かを変えようとするなら――妥協とか諦観とかは他の誰かに任せておいて、自分はその上をいかなくちゃならない。
 オレが掴みたいのは、それなんだよ。サイファ。それなんだ。
「砕破さんよ、お前がオレの現実なんだろ? 壁であって、世界なわけだ」
 右手を固めて、それを突き出す。この世で最高だって思える女が、今、オレが何をするか見てるんだ。あの世でシルヴィアだって見てるだろうさ。無様な格好なんか見せられるかよ。オレは……
「だったら教えてくれよ。証明してみろ。オレが所詮はお山の大将だって、な」
 オレはY'sromancerになったんだから。
「自分は特別か? 自分だけは例外か? 自分は物語の主役か? その根拠はどこにある。お前の認識の甘さは無様を通り越して哀れだな、相沢祐一。望み通り、教えてやろう。だが、その結果を教訓とする機会は無い。お前が踏み込んだ世界で出る結果とは、死以外にないからな」
「今日は良く喋るじゃねェか」
 ――いくぜ、世界。今日のチャレンジャーは、果てしなく諦めが悪いぞ。
「煉獄のォ!」





GMT Wed,2 August 2000 14:09 P.M.
Stonehenge Salisbury U.K.

同日 午後02時09分
同所


 エンクィスト財団とは、中世欧州の王侯貴族を発祥とする世界最大規模の権力者集団である。その至上目的は、自らの既得権の維持拡大。地球圏の覇権掌握。
 夢物語にさえ聞こえるそんな噂は、耳にしたことがあった。そして、彼らが異能を持つ者に強い関心を示し、長年に渡って研究を進めてきたことも知っていた。その研究対象として、我々『葛葉』一族に関心を示したこともあったという。実際、財団が1980年代後半に行った世界規模の『異能者狩り』において、自衛のために戦った同族もいると伝え聞く。しかし――
「聞いてはいたのですが、人間もここまで力を高めることができるのですね」
 私は今更ながらに驚かされていた。これが1000年、2000年前の古代人だというなら、まだ分かる。金や科学ではなく、神や自然が摂理であった時代。その頃を生きた人類は、まだある意味で純粋な生物だったからだ。
「美汐ちゃん、あの人たち本当に人間なのかな?」
 あゆさんは小さく身体を震わせながら、怯えたように言った。確かに、そう思う気持ちは分からないでもない。科学全盛のこの時代、よほどの物好きでなければ超能力の存在など信じはしないものだ。それなのに今、眼前に繰り広げられるこの光景には――そういった常識を根底から覆すような要素ばかりが含まれている。
「外見だけは、あのサイバードールとかいう人たちに比べて随分と人間らしいのですけどね。中身はそうでもないようです」
 川澄先輩、それに続く相沢さんの投入で一旦は形成を逆転したように見えた戦況だったが、結局それも束の間のことだった。特に実戦慣れしていない相沢さんと、アジア最強の小隊からすればグレードの落ちるThuringwethilたちが、川澄先輩の足を引っ張る格好になってしまっている。なにより、コードネーム砕破が強過ぎた。
「怪物ですか、あのひとは……」
 ――確かに。よもやこの時代で、第三階梯にまで上り詰めた人の子の姿を見られようとは。多少、驚いた。財団とやらも、この数百年、無駄に遊んでいたわけではないらしい。
 本人の言葉通り、葛葉も少なからず驚いたようだ。私がコメントを求めない限り、あまり自分からは口を開かない彼女だけれど、今回ばかりは自発的にそう零したほどである。
 PSIの強度自体もそうだが、戦闘におけるセンスやイマジネーションが違い過ぎる。見ていても、その動きは一際目立った。天賦の才を持つ上に、相当の専門的な鍛錬を積んだのだろう。今の相沢さんなどで、相手が務まるような男ではない。彼はまさしく暴力の化身だった。葛葉の目を借りずとも、そのことがありありと知れる。
「どうですか、葛葉。相沢さんたちは勝てるでしょうか」
 周囲の人たちに気取られないよう、そっと問いかける。
 ――至難でしょう。恐らくは、無理ではあるまいか。あの砕破という少年は止められれまい。
 葛葉をしてそう言わしめるほど、コードネーム砕破の動きは常軌を逸していた。川澄先輩の相手をする三十六手をフォローしつつ、圧倒的な力量の差で相沢さんを追い詰めていく。同時に、Thuringwethilのエージェントたちも確実に仕留めていっているのだから驚きだ。
 もう相沢さんは勘定に入っていないと考えて良い。事実上、川澄先輩が砕破と三十六手の2人を相手にしている状態だ。

「どうした、Thuringwethil。その程度で財団を潰せるつもりか?」
 残りのひとり、クーパーと呼ばれていた男をThuringwethilのスタッフが全員で食い止めている。しかし、それもいつまで持つか……。
「私たちがJ.クーパーと認識していたあの男、何者なんですか?」
 鋭く目を細めて戦況を見詰めていた美坂先輩が、傍らのボディガードに問いかけた。
「五歌仙の一員で、恐らく『久留頓破』と呼ばれる異能者ね。通称、ルンファー」
 アメリカ人の女性ガードが応える。その視線は、真っ直ぐに件の男に向けられていた。
「ルンファー?」
「五歌仙は、その名の通り5名の強力なサイマスターで構成されているらしいの。コードネーム砕破、三十六手、頓破、撃砕、天掌。それぞれが1個小隊に値するほどの戦力を有するため、五歌仙は個別に違う任務を与えられることが常だそうよ。こんな風に、3人ものメンバーが一堂に会することは稀なはず」
 彼女は視線を戦場に固定したまま、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「私たちは運が良いのか、それとも悪いのか」
 そのコードネーム・ルンファーは、6人のサイマスターを一手に引き受けて戦っていた。もともと地力で勝る上、ときおり砕破のフォローが入ることもあって、互角以上に戦っている。
「あの男のPK-STは、砕破に次ぐ出力を記録するという。最初に大岩を投げてよこしたのはルンファーだ」
 片膝をつき、荒い息を必死に整えようとしながら、Thuringwethilの能力者は言った。彼としては一刻も早く戦線に戻って、味方を加勢したいのだろう。でも、今はそれができる状態ではない。
「私もあいつのPK-STにやられた。近付いた瞬間、見えない巨大な手で身体を鷲掴みにされ、そのまま投げ飛ばされた感じだ。抵抗する間もない」
 そして彼は実際、とても人間の身体とは思えないような勢いで弾き飛ばされ、一直線にこのプレハブの建物に突き刺さったものだ。生身の人間なら、今ごろ原型を留めな押し潰された肉塊に成り果てていたことだろう。彼はPKの場を咄嗟に展開し、激突寸前に自分の身体を守ったわけだが、それでもその時に受けたダメージはまだ大きく残っている。

 ゴォッ! ゴオォ……ン!

 戦場に大口径の銃弾の発射音が木霊した。ルンファーと戦うThuringwethilのスタッフたちが、ハンドガンを一斉に構えて発射したのだ。セミ・オートマティックの弾丸が尽きるまで、とどまることなく連射が続く。だが、彼らが期待したであろう効果はなかった。
 ――自らの周囲に、強力な理力の断層を形成している。あの程度の火器は通用すまい。
 葛葉が冷静に指摘する通り、全ての弾丸はルンファーに届く前に、見えない壁に弾かれて方向を変えたり、停止したりしてしまっている。ハムステッドで私たちを襲ったサイバードールは、全身を特殊合金の装甲で固めていたけれど、ルンファーの場合はそれよりも更に強力な不可視の装甲で、全身を守っているわけだ。こうなってくると、同じくらいの力を秘めたPKで、彼の作り出しているエネルギーの断層を打ち破るしか手立てはない。
「ですが、それを彼らに期待するのは些か酷というものです」
 またひとり、ルンファーの生み出す見えざる手がThuringwethilのひとりを捉えた。捕獲された男は、全身を拘束されたまま徐々に宙に持ち上げられていく。自由になる首と膝から下だけを必死にバタつかせてもがくが、彼を縛りつける何かはビクともしない。その異様なさまは、本当に不可視の巨人の手によって、人形が鷲掴みにされているようにも見えた。
「――死ね」
 その低い声と共に、Thuringwethilの隊員の身体は爆発したように弾け飛んだ。血飛沫が舞いあがり、砕けた朱色の肉片が周囲に四散する。そして上半身を失った身体は、ようやく縛めから開放されて地に落ちた。残された下半身は、しばらくビクビクと痙攣していたが、それもすぐに収まる。死体は自らが作り出した血溜りに沈んでしまったかのように、一切の動きを止めた。
「イヤァーッ」
 水瀬先輩たちが両手で顔を覆いながら、甲高い悲鳴を上げた。無理もない。彼女たちにとって、人の死とは極めて遠い世界の出来事にしか過ぎなかったのだから。
「グレェン! ……おのれッ」
 仲間を殺されたThuringwethilのスタッフは、歯を食いしばり憤怒の表情を浮かべて立ち上がろうとしている。でも、ルンファーに投げ飛ばされた時のダメージが抜けていない。すぐに片膝を折って、大地に崩れ落ちてしまった。
「しかし、今のは一体どうなったんですか? 上半身が内側から爆発したように見えましたが」
 葛葉に問う。返答はすぐに返った。
 ――理力の塊を、圧縮した状態で相手の身体に送り込んだのでしょう。そうしてから、圧縮を解いたのだと思われる。
「そうすると、抑えこまれていたエネルギーは、外側に広がろうとしますよね」
 ――明察。結果、爆発的な勢いで拡散するエネルギーを抑えきれず、相手の身体は内側から破裂する。体内に埋め込まれた爆発物が起爆したように。
「怖いですね。選べるのなら、ああいう死に方は避けたいものです」
 これで、戦線を離脱したのは4名。ひとりは私たちの側で崩れ落ち、ひとりはたった今殺され、あとの2人はルンファーに倒されて昏倒している。残ったのは、同Thuringwethilの3名と川澄先輩、相沢さんを含めた5人しかいない。戦況は益々こちらの不利に傾きつつあった。

 特にルンファーを相手にするThuringwethilも危ないが、それより先に決着がつきそうな組み合わせは、ワイズロマンサー対砕破のカードだった。倒せないまでも、癖のあるウィアード・テイルで三十六手が川澄先輩を足止めし、その間に砕破が相沢さんを滅多打ちにするという作戦らしい。川澄先輩がフォローに回れないから、どうしようもない。先程から途切れることのない連続攻撃を繰り出され、相沢さんは防戦一方の展開に持ちこまれていた。
 恐らく、砕破がその気なら、今すぐにでも相沢さんを仕留めることは可能だろう。コンビネーションなど考えずとも、一撃で敵に致命傷を与えることができるはずだ。相沢さんと砕破との間には、それだけの力の差が確実にある。だけど、砕破はその力量差を時間をかけて充分に証明してから、相手を殺す方法を選んだようだ。
 前回、日本で自分の任務を妨害されたことがそれだけの痛手だったのだろうか、砕破はその冷徹な装いからは意外に思えるほど、ワイズロマンサーの存在を意識しているように見える。
 ――しかし、それもここまでにするつもりらしい。
 葛葉の言葉通り、戦いの方向を決定付ける一撃が、遂に相沢さんを捉えた。
「グフゥッ!」
 砕破の突き刺さすような右足が、彼の腹部に埋め込まれる。低い呻き声と共に相沢さんは後方に飛ばされ、豪快に背中から地に叩きつけられた。受身を取った気配はない。蹴りだけでなく、地面に叩きつけられた時の衝撃だけでもかなり危険なものになっただろう。
「祐一!」
 川澄先輩が、いつもの彼女からは想像できないような声量で叫びを上げた。だけど、その声はもう届いていない。あの蹴りは、まともに入った。肋骨も何本か持っていかれただろうし、下手をすると内臓が破裂しているかもしれない。意識を失っただろうから、もう相沢さんは立ち上がれないはず。
 ――だが、幸いかも知れない。あのまま倒れていれば、少なくともしばらくは殺されずに済む。
 葛葉は、こんなときにでも憎らしいまでに冷静だった。でも、言うことには一理ある。あれがもし左足だったなら、相沢さんの胴体は消し飛んでいたかもしれない。絶対に即死だっただろう。
 あの人は充分過ぎるほど戦った。歴戦の兵士を相手に、あれだけ立ち回ることができたなら御の字。どうかそのまま眠っていて欲しい。そう思ったのだが……
「えっ」
 思わず目を瞬いた。信じられないことに、相沢さんは立ち上ろうとしている。あの蹴りを受けてダメージが無かったとは思えない。重傷のはずなのに。いや、それ以前に本来ならもう意識を失っているはず。立てるはずが無い。
「あのバカ、こんな時まで意地張って」
 そうは言う美坂先輩の目は、真っ赤になっていた。
「何度立ちあがったって同じよ。砕破は強いんだからね」
 三十六手が勝ち誇ったように言い放つ。
「それで、私のことを助けてくれるんだから」
「祐一くんだって強いもん! 銀色の人たちをひとりでやっつけちゃったんだから!」
 対抗するようにあゆさんが叫んだ。彼女は気を失っていたため、実際に能力名「奇跡」の発動も、それによって相沢さんがサイバードールを倒すシーンも目撃していないはずだ。でも、話として彼女もそのことを聞き知っている。
「そ、そうです。祐一さんには、良く分からないけど奇跡の力があるんです。今はまだだけど、ピンチになったらきっと発動されて、あんな人たちなんかチョチョイのチョイでやっつけてくれます!」
 栞さんのその言葉に後押しされたように、相沢さんが攻勢に出た。矢継ぎ早に拳を繰り出し、砕破の形成を崩す。そして――

超臨界モードLIMIT BREAK

「アアァァアアッ!」
 シルヴィア・エンクィストの囁きと共に、渾身の右が繰り出された。稲妻のような閃光を纏い、同時に烈火に包まれたように真っ赤に発光した右腕。噂には聞いていた、恐らくあれが『瘴烟直列煉獄』形態だろう。圧殺、煉獄、神鳴の3モードを同時に発動させ、更に『リミット・ブレイク』の宣言通り、ILISシステムの最終安全装置を解除して暴走を引き起こす。使用者にも何が起こるか分からないとされている、実験段階の仮搭載モードだ。
 流石の砕破も、倒したはずの相手がしかけてくる突然の猛攻に虚を付かれたようだった。僅かにだが、戸惑いのようなものが見られる。マグレでも良い。それに乗じて、これで決められれば――
「チィッ!」
 ミシッという、何かが軋むような嫌な音がした。同時に、砕破がよろめくように数歩後退する。相沢さんの一撃を正面から受けたのだろう。歯を食いしばり、苦痛に顔を歪めている。
「入った……!?」
 ――いや、防がれた。
 淡い期待も、葛葉によって即座に打ち砕かれた。
 ――終わった。少年の完敗だ。
 その宣言に応じるように、砕破の左足が相沢さんの右側頭部を完璧に捉えた。鈍い破裂音と共に、相沢さんの身体がマネキンのように宙を舞う。そして危険な角度で頭から落ちた。砂煙が濛々と周囲に立ち込める。
「……ッ!」
「祐一さんっ!」
 絶望の悲鳴が幾つも同時に発せられた。誰もが半狂乱になって相沢さんの名を叫んでいる。最後に決まったのは、極めて強力なPKでコーティングされた左脚――通称『L.O.D.』だった。そのハイキックを頭部にまともに貰っては、どう考えたところで助からない。全員が、それを知っていた。
 でも、大丈夫。相沢さんには、まだ能力名「奇跡」がある。恐らくは『頻発性自発的念動』の亜種。本人が半ば無意識に発動させる、彼固有のパラノーマル・フェノメナ(特殊能力)だ。
 あれが目覚めてくれれば、まだ大丈夫。きっと、なんとかなる。なんとかしてくれる。早鐘のように打ち出す鼓動を誤魔化すように、自分自身に何度も言い聞かせた。
 だが、それを完全に否定する一言が、自らの内からもたらされた。
 ――美汐、それはない。最初に起き上がった時、既にその奇跡は発動されていた。
「……ッ!」
 その一言に、全身が総毛だった。背中を冷たい汗が伝っていく。
「うそ……嘘です!」
 ――事実です。
 全身が弛緩して、その場に崩れ落ちそうになる。自分の中で何かが壊れたような、死んだような、そんな感じがした。鈍器で殴られでもしたかのように、思考が停止する。もう、何も考えられなかった。
 ――生命反応が検地できることから見て、幸いにも即死は免れたらしい。恐らく、無意識のうちに潜在能力を働かせて衝撃を最小限に抑えたのでしょう。だが、それにしたところで、あの少年が立ち上がることはもうあり得……
 葛葉の言葉が遮られたのは、言下にそれが現実によって否定されたからだった。砂塵の中、目を凝らす。誰もが驚愕する中、相沢祐一は顔を鮮血で真っ赤に染めながら、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「う……そ」
「祐一」
 三十六手も川澄先輩も、その動きを止めて目を見張っている。だけど最も強い衝撃を受けたのは、他ならぬコードネーム砕破だっただろう。
「貴様」切れ長の目を更に細めながら、彼は呻くように呟く。「どういうことだ」
「なに驚いているんだよ」
 フラフラと覚束ない足取りで、だが相沢さんは微かに笑っていた。
「お前が相手にしているのはY'sromancerだぞ」
 意識が、ある……!
 なにより私と葛葉を驚かせたのは、彼が言葉を紡いだことだ。相沢祐一として。
 ハムステッドで潜在能力が発動されたとき、彼は一種の心神喪失状態にあった。驚異的な運動能力や反応速度を見せたものの、その間に自分が何をしたのか記憶さえしていなかった。全てが終わった後、自分で倒したサイバードールの姿を見て、それを川澄先輩がやったものだと思いこんでいたほどである。なのに今、彼ははっきりと自分の意識を保ったまま、自分の力を使いこなしている。
「トランス状態にもなく、心神を喪失しているわけでもなく……」
 こうなってくると、信じ難いことではあるが、考えられる可能性は1つしかない。
 ――少年は、進化している。
「どうやら、そのようです」







「どうして? 砕破のLODの直撃を受けて、何の訓練も受けていない人間が立てるはずない」
 仲間である砕破の実力に絶大な信頼を寄せているのだろう。三十六手は、未だに相沢さんが立ち上がったという事実を受け入れられないようだ。
「なるほど。ただ右手にKsXをぶら下げているというだけではないらしい」
 砕破は冷たく笑った。
 三十六手の言う通り、砕破の左脚から繰り出される一撃を受ければ、並の人間なら即死は免れない。それは逆に、彼の蹴りを受けて立ちあがった人間が『並』ではないということを示す。
 砕破ほどの使い手なら、もう気付いたはず。今目の前にしている男が、なんらかの異能を秘めた人間だと。相沢祐一の奥底に潜む、能力名「奇跡」の存在を。
「自分でも、どうしてお前の蹴りを受けて無事でいられるのかが分からねえよ」
 荒い呼吸を整えながら、相沢さんは切れ切れに言う。
「確かに普通なら、あんなものを食らったら、まず起き上がれないだろうな。でも、普通じゃ起き上がれないところを起き上がってこそ、オレが目指してるものに近付けるんだ。だから……」
 砕破を見据えたまま、相沢さんは唇の端を吊り上げた。
 膝は痙攣するように震えているし、身体は今にも倒れそうなほどふらついている。頭部からの出血も酷い。黒髪の大部分が血に塗れて、テラテラと赤黒く鈍い光を放っている。でも鋭さの失われないその両目は、雄弁に彼の意思を語っていた。
「――良いだろう。ワイズロマンサー」
 砕破は抑揚のない声で、静かに言った。
「俺はお前に現実を教授してやると約束した。ならば、学ばせてやる」

臨界設定解除LIMIT BREAK

 シルヴィア・エンクィストのものとは全く趣の異なる、機械的な音声が周囲に木霊した。同時に、金属がぶつかり合うような摩擦音と共に、砕破の左足からプロテクターのようなものが落ちた。
 彼は黒いレザーパンツを身に着けているのだが、その内側に装着されていたものだろう。足首から膝の辺りまでを覆うタイプのロングブーツのようにも見える。格闘家がつけるレガースにも近しいし、アイスホッケーのキーパーや、野球のキャッチャーが脚につける防具にも似たところがあるように思えた。
「なん……だ?」
「俺の左脚に宿る異能は強すぎる。あまりに強大なPKを放つため、俺自身、制御するのに多大なエネルギィを消費するほどに」
 その言葉を証明するように、彼の左脚から空間を歪ませるほどの強大なPKの奔流が迸りはじめた。常人には感じられないかもしれないが、葛葉の感覚を介して私には感じられる。まるで燃え盛る青白い炎だ。
「サイオニクスやパラサイコロジ(超心理学)の分野で、Recurrent Spontaneous P.K.と呼称されている現象を知っているか? 異能者が無意識に能力を使用することで発生する特殊な事象のことだ」
「それがどうした」
「俺の左脚も似たようなもの。何も意識せずとも自然と異能が宿り、俺の意思とは無関係に破壊の衝動を放つ。普段、俺は財団の研究者どもに造らせたこの特殊な拘束器具で、その力と衝動を抑えこんでいる。自分で制御するのは面倒だからな」
 拘束具――
 自分の脚を保護する防具ではなく、自分の強大な力を抑えつけるための制御装置だと? 自分を守るのではなく、ある意味で周囲を守るためのプロテクター。もし彼の言葉が本当だとしたら、とんでもない異能者だ。
「砕破、もしかしてFolding Solid Canonを使うの!?」
 血の気の失せた表情で、三十六手が怯えたように叫ぶ。
「させない!」
 明らかに何かを始めようとしている砕破に、川澄先輩が逸早く反応した。敵が行動を起こす前に、それを阻止しようというのだろう。――その判断は正しい。これはゲームでも格闘技の試合でもない。相手が力を出しきる前にそれを封じるというのは、勝って生き延びるための絶対条件のひとつなのだ。
「砕破の邪魔はさせないわよ。あなたの相手は私!」
 相沢さんの援護に走ろうとする川澄先輩を遮るように、三十六手のウィアード・テイルが展開された。幾ら斬られても、PKが尽きるまでウィアード・テイルは何度でも復元される。元は彼女の頭髪なのだ。斬られた分は、PK-LTを付与して伸ばしてやればいい。
 こうなってくると、戦いを優勢に進めることはできても、三十六手を振り切ることは至難だ。完全に防御や逃げに入った人間を仕留めることほど面倒な作業はない。
「なんだか知らないが、要はやられる前にやれば良いんだろう?」
 相沢さんはふらつく足取りで砕破との間合いを詰めながら、右手をゆっくりと固めていく。

超臨界モードLIMIT BREAK

「1発でダメなら、効くまで叩き込むだけだ」
 相沢さんが地を蹴った。身体の状態は、身動きすることすらできないほどボロボロのはずだ。それにも関わらず、よくぞここまでと思わせるほどの動きだった。
 でも、相沢さん。それが砕破に通用しないことは、もう分かっているはず。
「井の中から這い出た全ての蛙が、波にさらわれるとは限らない――そう言ったな、ワイズロマンサー。だったら、見せてやる。これが井から這い出た蛙をさらう、大海の波だ。存意に学べ」
 ――そして、死ね。
 砕破の唇がそう囁いた瞬間、それは天を割るような轟音と共に突如出現した。
 無造作に繰り出された砕破の左脚。それを起点に、未だかつて葛葉さえも見たことがない強大なエネルギィが放出される。
「ルンファー、退避! 退避してっ。巻きこまれたら、私たちもただじゃ済まない!」
「チイッ」
 砕破の仲間である三十六手や頓破までもが、恐怖に顔を蒼白にして慌てて散っていく。

 そして、それはあらわれた。
 なんと表現すればいいのだろう。どんな表現の仕方があるのだろう。少なくとも私は、その光景を言い表すための適当な言葉を知らない。
 敢えて言うなら、それは神の怒りだった。大海の荒れ狂う波が、奢れる人類に裁きの破壊をもたらすために暴れ出したような、人知を超えた脅威だった。
 一体何が始まったのか正しく認識するのに、恐らくその場にいた全員が、かなりの時間を要しただろう。最初に分かったのは、晴天に恵まれていた筈の世界が、突如として分厚い黒雲に覆われてしまったかのように暗くなったことだった。そして次に分かったのは、何か途方もなく巨大なものに自分の視界の全てが遮ぎられてしまったという事実。
 それは、たとえるなら『壁』だった。無限の幅、無限の高さを持つ巨大な壁が、突然目の前に現れたような感覚だった。そそり立つその大壁は、青白い色の鈍い光を放っていて、私は場違いなことに美しく澄んだ沖縄の海を連想してしまった。
 そして、唐突に、その連想が正解にもっとも近しいものであることを悟る。
 ――そう、それは津波だった。人間の思考を完全に停止させてしまうほどに、常軌を逸した巨大な波。見る者すべてに本能的な恐怖を喚起させる狂気の波。
 空が突然暗くなったのは、それが天を覆ってしまうほどに高いからだ。視界が壁に遮られたように見えたのは、それがあまりに強大過ぎたからだ。
「あ、あ……あぁ……」
 誰もが逃げることすら忘れて、ただ呆然とそれを見上げていた。
 こんな……こんなものに、もしのみこまれたら……
「祐一ッ!」
 悲鳴にも似た叫びを上げながら、川澄先輩が走る。だけど、それに意味はない。彼女がどう足掻こうと、青白い狂気の波は2人を丸呑みにしてしまうほどに大きい。大き過ぎた。
 あまりの規模に、回避のしようもない。そばを歩いていたとき、高層ビルがいきなり自分に向かって倒れ掛かってくるようなものだ。避けようと思って避けられる域を完全に逸脱してしまっている。
「ウアァアアァァ――ッ!」
「ッ……!」
 津波は、瞬く間に相沢さんとそれを庇うように抱き締める川澄先輩を押し潰していった。それでも足りぬと、更に大地を暴れ狂う。その様は、しばしば伝説に描かれる巨大な龍のようにも見えた。
 怒りに我を忘れた荒ぶる水龍は、そのまま怒涛の勢いで前進し、周囲に存在する全てのものを我が内に取り込んでいった。木々は根こそぎ薙ぎ倒され、大地は抉られ、岩は爆砕される。まるで雪崩だ。
 破壊と世界を割るような轟音は、止まることをしらない。今度はルンファーに倒された3人、上半身を爆破された死体、逃げ様としていた残りのThuringwethilに喰らいついた。全ては、抵抗も空しく次々と青い濁流に押し潰され、流されていく。
「こ、こっちに……こっちに来るぞッ!」
 私たちの側にいたボディガードのひとりが、ようやくそのことに気付いた。だけど、10人近い棒立ち状態の少女を非難させる余裕など、もはや誰にもない。身体を寄せ合い、頭を抱え、ただ絶叫しながら目を硬く閉じるしかなかった。
「葛葉、このままでは本当に……!」
 眼前に迫りくる究極の暴力を前に、私は恐怖に全身を強張らせた。咄嗟に九字を切ろうとするが、襲ってきた爆風に翻弄されて、それもままならない状況だった。私では、もはや対処できない。
 ――承知。自衛のため、已むを得まい。
 力強いその言葉と共に、すっと意識が遠退いていくのが分かった。久しく忘れていたこの感覚。天野美汐という仮人格に代わって、この肉体の本来の所有者である葛葉美汐が主格意識として浮上する感覚。私たちの人格が入れ替わる瞬間だ。
 この際、頭髪をはじめとする体毛が、白狐本来の毛色である白銀に変わるのだが、それに気付く余裕は、たぶん周囲の人たちにはないだろう。
 葛葉は一瞬で私と入れ替わると、すぐに略式の『九字護身秘法』の施行に入った。
 唯密相承四位−初分位−影像相承。葛葉に伝わる奥義の1つである。

 ――神代、日神素盞鳴尊、剣玉盟誓ノ時
 ――剣ヲ真名井ニ振濯、サカミニカミテ吹棄気吹ノ狭霧ニ
 ――神霊ノ現レ玉フノ道理事相ヲ能思奉ベシ

 右手の人差し指と中指を立て、これを剣に見立てる。即ち、剣印。左手は親指を握るようにして柔らかく拳を作る。見たてられるのは、剣を包む鞘だ。
 然る後、手鞘を左腰に構え剣を刺し、居合の如く構える。そして護身の為、奇霊なる加護を得る旨を請願しつつ強く祈念し、裂帛の気合を以って九字を切る。

「天」「地」「元」「妙」「行」「神」「變」「通」「力!」

 秘術、天地元妙行神變通力の起動である。
 Thuringwethilや五歌仙が用いるPSIとは、また異なる体系に属する奇霊が不可視の結界を周囲に展開した。青白い雪崩が私たちの身を潜めるプレハブを飲み込み、その巨大な牙で咀嚼していっても、葛葉の護法結界によって守られる限り、私たちはその影響を受けない。恐らく、これを破れる力を持つ人類は、この地上に存在しないだろう。
 しかし、葛葉が奥義を以って凌がなければならないほどの理力が、この世に存在したこと自体が驚きだった。それは葛葉本人も同じだろう。
 フォールディング・ソリッド・カノンといったか、その破壊力はひとりの人間が引き出せるようなレヴェルのものではない。これが街中で発動されていたらと思うと、背中に冷たいものが走り抜ける思いだった。小さな村なら、簡単に壊滅させてしまうだろう。
この破壊力。同じ理力をもってしか防ぎようがあるまい
 ――そうですね……それも生半可な理力では歯が立ちません。
 単なる津波ではない。物質化寸前まで圧縮された高理力の奔流は、あらゆる物理的な摩擦を無視して、周囲に瞬間的ながらも小規模のプラズマ過流を生み出し、高温と衝撃波、爆風を撒き散らしながら、あらゆる全てを飲み込んでいく。直撃を受けなくても、半径数メートルの範囲は致死ゾーンだ。人体など、掠りさえしなくても簡単に消し飛んでしまうことだろう。
 ――ここまでくれば、もう一兵士ではなく兵器でしょうね。

 青い津波に抉られた空間に、空気が流れこんでいく。超エネルギィの奔流の通過で、一時的に気圧が下がったためだろう。それによって生じた気流が、フォールディング・ソリッド・カノンの残した最後の余波だった。
 全てが収まった後、残されたのは、ただ焦土だった。干上がった河を見るように、理力の波が通った筋が大地に禍々しく刻み込まれている。私はあれを暴れ狂う水龍とたとえたが、それもあながち外れてはいなかったようだ。まるで人知を超えた巨体の大蛇が地を這っていったように、巨大な溝が延々と続いているのだ。
 私たちが身を隠していた筈のプレハブ倉庫は、影も形も残っていなかった。それどころか、醜く焼けただれ黒い煙を上げながら燻るその跡地には、草木の1本たりとも残されてはいない。砕破の異能は、大地さえも殺してしまったかのようだった。それを示すように、レンガのように硬くなってしまった土や、ガラスのように固まってしまった小石が所々に見える。相当な高温が周囲にばら撒かれたことを示す証拠だ。
「え、あれ……私たち、助かったんですか?」
「うぐぅ、怖かったよ」
 頭を抱えてうずくまっていた栞さんたちは、ようやく自分の身の安全に気付いたらしい。この様子だと、葛葉の力を目撃された心配はないだろう。
 ――まるで爆心地ですね。直撃を受けた異能の者たちも、痕跡すら残さずに完全に消失している。
「そうです! 相沢さんと川澄先輩は?」
 葛葉のその言葉で、私はようやく自らの思考を取り戻した。美坂さんや倉田先輩、あゆさんなどは葛葉の結界で守ったから問題はない。だけど、相沢さんとそれを庇うようにして巻きこまれた川澄先輩は、あの人知を超えた暴力の奔流に直撃されたはず。ただで済むとは思えない。
「何がどうなったの……天野さん、相沢君と川澄先輩は?」
「舞ーっ、どこにいるの!」
 美坂先輩や倉田先輩も、立ち上がって周囲に視線を巡らせはじめた。
「ふたりとも、あの得体の知れない津波に正面からまともに飲み込まれていました。無事でいてくれるといいのですが」
 しかし、あの青白い津波の破壊力は、生身の人間で対処できる次元のものではない。恐らく瞬間的には数千℃に達したであろう超高温と、凄まじい圧力、衝撃波、爆風。相沢さんは、先日プラスティック爆弾と一緒に倉庫に閉じ込められたことがあったが、この津波の直撃を受けるなら、まだあの倉庫にいたまま爆発に巻き込まれた方が安全だったのではないだろうか。
 ――美汐、直上を。
「えっ?」
 内なる葛葉の声に思わず頭上を見上げると、私は目を見開いて驚愕の声を上げてしまった。こちらに向かって、空からゆっくりと落下してくる物体があったのだ。
「みなさん、下がってください!」
 だが、私が注意を促すより早く、それは地表に到達していた。思ったよりも大きな質量で、無残に崩壊したプレハブの残骸の上に、ドーンという落雷を彷彿とさせる剛音と共に落下した。恐らく倉庫の屋根を構成していたと思われる薄い金属板が、その衝撃で豪快に歪む。周囲に砂塵が舞った。
「うぁ、ぁ……」
 落ちてきたそれは、掠れるような声で微かな呻き声を発した。蔓延する土煙の中、目を凝らしてよく見てみると、突然現れたそれが単なる物体でないことに気付く。
「舞っ」
「ゆ、祐一!」
 落下物の正体を検めた倉田、水瀬両先輩は、血相を変えてそれに駆け寄っていった。
 信じられないことに、空から落ちてきたのは川澄先輩と相沢さんだった。
「舞、大丈夫なの? 血が出てるよっ」
 埃と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、倉田先輩は川澄先輩の傍らに膝を落として、親友の顔を覗き込む。その言葉通り、川澄先輩と相沢さんは全身血塗れだった。特に相沢さんが酷い。津波にさらわれたのか右腕からはKsXが失われていたし、衣服も原型を留めないほどにズタズタに破れてしまっている。そこから覗く地肌は傷だらけで鮮血にベッタリと染まっていた。それに、もう完全に意識がないらしい。川澄先輩に抱き締められるようして横たわっているが、ピクリとも動く気配はなかった。
「佐祐理……泣か、ないで。私は、平気だから」
「本当? 舞、本当に平気なの」
 対して、川澄先輩はも被害は甚大で動くことすら侭ならない様子ではあったが、意識ははっきりとしているようだった。倉田先輩の呼びかけに応じ、その肩を借りてゆっくりと立ち上がろうとさえしている。全身に無数の傷を受けて出血してはいるが、骨折などの大きな外傷は一見した限り見受けられない。
 素直に凄い人だと思う。超理力の奔流に飲み込まれる相沢さんを咄嗟に庇い、直撃を受けながら意識を保っていられるなど、並の異能者には不可能だろう。現に、彼女と相沢さんのほかにフォールディング・ソリッド・カノンに飲みこまれた異能者は6人いた筈だが、彼らは遺体の残骸しか見つかっていない。それも、とても元は人間の身体だったとは思えない無残な状態だ。栞さんやあゆさんなどは、それを目にしてはいても人間の死体の1部だとは認識できていない様子だった。恐らく、気付いているのは私が守ったボディガード数人と、美坂先輩だけだろう。

「俺の放てる最大出力のPKを受けて、なお立ち上がるとはな」
 その声に、全員がハッと振り返る。もちろん、それはコードネーム砕破の発したものだった。傷付いた2人を思うばかり状況を忘れていたけれど、戦闘はまだ終わってなどいなかったのだ。
「咄嗟にあの5体の具象思念で、即席の防壁を作ったというわけか」
 10メートルほど離れた場所で私たちを窺いつつ、砕破は目を細めて見せた。
「見事だ、川澄舞。どうやら真に恐るべきは、KsXでも相沢祐一でもなくお前だったようだ」
「未だに我が目が信じられない。あなた……本物のモンスターね」
 肩を並べるように砕破に歩み寄りながら、三十六手が半ば感嘆のものとも思える声を上げた。アジア最強の小隊にここまで言わせるのだ。最大級の賞賛と受け止めて間違いないだろう。
「私が勝てないのも無理ないわ。砕破のF.S.C.の直撃を受けて生きていられる使い手なんて、世界に何人いるか」
 しかし次の瞬間、三十六手は不敵な微笑を浮かべた。
「でも、有益な情報も手に入れられたわね。具象思念体を消滅させるまで傷めつければ、そのダメージは使用者であるあなた本人にフィードバックされる。あの見えない化物とあなたとは、ある意味で一心同体だったってわけね」
「くっ……」
 たった1度の戦闘で、自分の能力の弱点まで見抜かれるとは思ってもいなかったのだろう。川澄先輩は柳眉をしかめ、表情を険しくした。どちらにしても、彼女はもう戦える状態ではない。
 新しく護衛として派遣されてきたThuringwethilのスタッフも、6名は死亡。残りの1名は戦闘不能。事実上の全滅だ。その上、相沢さんも意識不明の重体ときている。対して五歌仙の3名は、未だにほぼベストの状態を保ったまま健在だ。
 状況は最悪と言えた。このままだと、自衛のために、また葛葉に身体を譲ることになるかもしれない。否、確実にそうなるだろう。
 唯一の救いは、プレハブが上手い具合に死角を形成してくれたおかげで、五歌仙に葛葉の存在を見られなかったことだろう。フォールディング・ソリッド・カノンの煽りを受けて私たちが無事でいられたのは、プレハブ倉庫が幸運に作用したためだと思われたらしい。葛葉ミシヲの力は隠し通せたと言うことになる。
「なかなかだった」私たちとの距離をゆっくりと詰めながら、ルンファーは低く言った。
「良くぞ我々を相手にここまで抗った。それだけは褒めてやろう。だが、これまでだ」
 目撃者は残さないというのが、エンクィスト財団の基本方針らしい。実際には無関係であっても、私たちは色々と知り過ぎたということなのだろう。いずれにしても、彼らが私たちを日本に生かして返すつもりはないようだった。
 となれば、最良の策はなんだろうか。肉体の支配権を私が握ったまま、葛葉に神事を行ってもらうことはできる。その分、効果は落ちるし顕現にまで時間がかかるのが難点だけれど、メリットとして五歌仙にあくまで葛葉の存在を隠しおおせるという点が挙げられるだろう。
 ここは、葛葉に『顕密牙具四重−二重−伝受分−深秘位』の施行を求めるのが1番有効かもしれない。密教系の流れを汲むこの神事は、一言でいえば呪殺だ。抵抗力の無い人間は、即死。抵抗力の強い人間には不動金縛りの効果をもたらす。五歌仙は当然ながら強い抵抗力を持っているはずから、上手くいっても僅かな間だけ動きを封じることくらいしかできないだろう。しかし、その隙を利用して、逃げるくらいはできるかもしれない。
 この考えを葛葉に伝えると、彼女は渋々ながらも納得してくれた。彼女はあくまで自衛のためにしか戦闘行為を行わない。つまり、この状況で戦うことが、彼女にとっての自衛だと認められたことになる。
「ここは、私たちが時間を稼ぎます」
 歩み寄ってくる頓破の前に立ち塞がり、私たちを背中で守ろうとしながら、護衛たちは各々の武器を手に取る。対人を想定した通常の戦闘でなら、充分な威力を発揮する大型のオートマティック拳銃が中心だ。だけど、相手がエンクィスト財団ではそれが通用するとは思えない。現に、彼らに火器が通用しないことは先に実証済みだった。
「なんとか足止めしてみせるから。その間に、あなたたちは逃げて下さい」
 こちらに背中を向けているため、彼らがどんな表情をしているのかを直接窺うことはできない。でも、その緊迫した硬い声と、一刻を争うような早口で紡がれる言葉は、彼らの置かれている絶望的状態を充分に物語っていた。
「さあ、早くッ!」
 鋭く叫ぶと、倉田先輩つきのボディガードたちは一斉に発砲し始めた。無論、それで相手を倒せることなど彼らとて期待はしていないだろう。それはあくまで、私たちが逃げる時間を稼ぐための援護射撃に過ぎなかった。
「行ってください! 人のいる所を選んで逃げ続けるんです。逃げて逃げて、逃げまくれ!」
 死を覚悟したプロたちの声が、硝煙漂う戦場に木霊する。今から命を失うことを知る者の叫び。そうまでしながら、その行為が報われないことを誰もが知っている。だから、それは悲しかった。
「葛葉、お願いです。もう、私は誰かが死ぬところなんて見たくありません!」
 彼らは、私たちを守るために死のうとしている。私たちの身代わりとなって殺されようとしている。そのために、もう7人も死んでいった。その数がまた増えようとしている事実に、もうこれ以上たえられそうにない。
 恐怖はあった。でも、それを超える憤りが胸の奥底から湧き上がってくる。それは、人が人を殺し、血で血を洗うという現実への、やり場の無い怒りだった。
「私たちを守るために死のうとしてる人がいるんです。彼らを死なせないために戦うのは、自衛と言えるはず。力を貸して下さい」
 ――いいでしょう。
 どの道、逃げることなんてできはしなかった。完全に気を失っている相沢さんを運ぶには、女性の細腕だと数人分の力がいる。それに川澄先輩も、倉田先輩に肩を借りて立っているのがやっとという状況。とても追っ手を振り切って、安全地帯まで駆けて行けるとは思えない。退路などないのだ。
 この場は、戦って生き延びるか、戦って死ぬかのいずれかのみ。それを知っているから、私たちは誰ひとりとして足を踏み出すことができなかった。

「……気が済んだか?」
 クル・ルンファーのその声は、やけに良く耳に響いた。
 気が付けば、銃撃は止んでいた。残ったのは火薬の匂いと散らばった薬莢、弾丸の無くなったピストルのトリガーを絞る、カチッカチッという小さな連続音だけだった。
 数百発という弾丸をその身に放たれながら、巨漢の異能者は全く傷ついた様子はなかった。彼の周囲に展開された不可視の理力断層が、弾丸の軌道を歪め、或いは弾頭そのものを弾き返した結果だ。
「くそっ、化物がッ!」
 護衛たちは弾丸の尽きたハンドガンを捨て、大型の軍用ナイフを抜き出した。それを構え、静かに間合いを詰めてくるルンファーと対峙する。彼らの首筋を汗が伝っていくのが見えた。
「任務遂行する」
 事務的な口調での宣言と共に、ルンファーの目が険しく細められた。そしてその歩調が早まる。護衛たちの身体に緊張が走った。
「もうやめて! やめてよっ」
 あゆさんが頬を涙で濡らしながら悲痛な叫びを上げるが、それがプロの兵士に感銘を与えることなどあり得ない。ルンファーは更に加速にのり、一気に護衛たちとの距離を詰めようとしていた。
「葛葉、急いで!」

 ……ターギャテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カンマン
 東方降三世夜叉明王南方軍茶利夜叉明王西方大威徳夜叉明王北方金剛夜叉明王中央大日大聖不動明王・天魔外道皆神性四魔三障成道来魔界神界同如理一相平等無差別
 ナウマク・サマンダ・バザラ・ダンカン・センダ・マカロシヤナ・ソワタヤ・ウンタラタカンマン
 臨める兵、闘いし者、皆陣張り列成して前行せり

「臨!」

 葛葉が抱朴子の九字に入った。私はそれに合わせ、左右の指を複雑に動作させながら各印を結んでいく。精神を集中し、裂帛の気合を以って、臨と共にまず『独鈷印』。
「兵」「闘」「者――
 続いて『大金剛輪印』『外獅子印』、さらに『内獅子印』へ。
 本来は純粋な神事ではなく、修験道や密教のものが陰陽道のフィルターを通してして入ってきたという、葛葉としては異色の法だ。しかも、元は魔除けや厄払いに用いられた術。それを改竄し、強引に咒殺の神事へと歪めてしまったのがこの倶梨伽羅之黒龍である。修験者が見れば、さぞかし滅茶苦茶なものに見えるに違いない。それ故に、コマンド入力に時間がかかる。
 しかし、頓破は目前まで迫っていた。間に合うか……タイミングはあくまで際どい。
「皆」「陣」「列」「前――
 皆は『外縛印』。陣の『内縛印』、そして右掌を左人差し指で突いたような形の『智拳印』、左右の人差し指、親指で丸い円を描くような『日輪印』。
「行ッ!」
 最後の『隠形印』を結印した瞬間、脳裏に煉獄の中を暴れ狂う黒龍のヴィジョンが浮かんだ。
 あとは、不浄を焼き払うという、この荒ぶる龍神を開放するのみ。
「倶梨伽羅の……!」
 天之葛葉神道−顕密牙具四重−二重−伝受分−深秘位−倶梨伽羅之黒龍。
 ――それが発動されようとした、まさにその瞬間だった。

 迫り来る頓破の首が、突然、宙を舞った。
 これは、比喩的な表現などではない。なんと言えばいいのか……文字通り、ギロチンで跳ね飛ばされたように、首が身体から切り離されたのだ。
 胴から切り離された頓破の首は、我が身に何が起こったのか認識さえできぬまま、驚愕の表情を浮かべていた。そしてゴトリという落下音が周囲に響くと同時に、忘れていたように胴体の切断面から鮮血が迸った。まるで噴水のように、数メートルの高さまで真紅の飛沫が吹き上がる。
 ――これは……
「あ、ぁあぁ」
 栞さんが大きく目を見張り小刻みに震えながら、声にならない悲鳴を発した。あまりの衝撃で、満足に声帯さえも機能させられないようだ。かく言う私も似たようなものだった。
 やがて出血の勢いが止まると、首を失った頓破の躯は自らの作り上げた血溜まりの中に、ゆっくりと崩れ落ちていった。湿った嫌な音が周囲に響く。
 砕破や三十六手、そして私たちや葛葉さえも、そのあまりに唐突な展開に唖然とするしかなかった。一体なにが起こったのか。なにが行われたのか。誰も理解するものはいなかった。
 ただ、ルンファーの首が刎ねられる瞬間、青白い光が一瞬だけ閃いたようにも見えたが――
「……なかなか際どいタイミングでしたね」
 全員がただ呆然と立ち竦む中、在らぬ方向から澄んだ女性の声が聞こえてきた。この場にいる者のものではない、明らかな第3者の声。全ての視線が、その音源に集中する。
 そこは、頓破の死体から上空に3メートルほどの空中だった。私と葛葉は、その点に亀裂のようなものが入っていることに、逸早く気付いた。空間が歪んでいるのだろうか、亀裂を中心に周囲の景色が微かに歪んで見える。景色の写りこんだ水面に、小石を投げこんで波紋を生じさせたような感じだった。
 ――何か、来る。
 葛葉のその指摘とほぼ同時、空間に現れた亀裂がファスナーを抉じ開けでもするように広がり、その『向こう側』から声の主が姿を現した。
 その人物は、体重を感じさせない軽やかな身のこなしで宙を舞い、ふわりと柔らかな着地を決めた。地に足が着いた瞬間、金色の滝を思わせるブロンドと、形のよい胸の双丘が柔らかに揺れた。
 彼女――そう、それは若い女性だった――は、一見、相沢さんや川澄先輩のように上空から降ってきたようにも見えた。でも、両者には決定的な相違があった。それは相沢さんたちがあくまで物理法則に従ったことに対し、今現れた女性はそれを無視したことにある。
 金色の彼女は、何も無い空間を切り裂き、同時に頓破の首を意図的に刎ねるという芸当を披露しながら、その裂け目の向こう側から現れたように見えた。その証拠に、彼女が飛び出てきた空間の亀裂の向こう側には、ここではない別の場所の景色がぼんやりと浮かんでいる。恐らく、空に生み出された割れ目は、別の空間と繋がっているのだろう。
「あ、あなた……DEATH=REBIRTH!」
 その反応を見るに、三十六手と砕破は、金髪の闖入者と面識があるようだった。特に三十六手などは、顔を病人のように蒼白にさせて震えながら目を見張っている。明らかに、その人物に恐怖しているように見えた。
「DEATH=REBIRTH――?」
「では、あなたがあの死神なのですか」
 私たちの前で壁となり、頓破から守ってくれていた護衛たちが口々に驚愕の呻きを発する。どうやら、彼らThuringwethilのスタッフたちも、五歌仙と同様に、突然現れた金髪の女性に心当たりがあるようだ。
「死神ですか。私はあまりその呼び名が気に入っていません」
 彼女の声は音楽的な響きさえ感じさせるほど、耳に心地よかった。
「もっとも、名を明かしていない私にも問題はあったのでしょうが」
 そう言って微笑むように眼を細める彼女は、だが確かに死神としか言えないような装いをしていた。全身を黒で統一した素材の知れないスーツに、右の太ももに巻きつけられた皮製のホルスター。むき出しになった肩から下の腕部は、絶え間無い鍛錬で無駄なく引き締められているのが分かった。
 そして決定的なのは、彼女自身の人間ばなれした彼岸の美しさと、左手に構えられた巨大な死神の鎌の存在だった。
 まず、容姿。これはまさに、絶世を冠するに相応しい。その表現そのものが、彼女のためだけに設けられたのではないかと疑いたくなるほどだ。背中まで無造作に伸ばされた豊かなプラチナプロンドは、まるでそれ自身が淡く発光しているようにさえ見えるほど艶やかに輝いている。その上、私の位置からは横顔しか窺えないが、端正などという言葉では許されないほどの美貌の持ち主であることが分かった。あまり容姿に拘る性格ではなく、しかも同性であるはずの私なのに、思わず見とれてしまうほどだ。意識しないと、視線を逸らせない。
 そして、鎌。彼女が左手に握るその巨大な武器は、まさに死神の得物としか思えない代物だった。凶悪な光を放つ刃は、間隔を空けて2枚。刃渡りは恐らく1.5メートルを超えるだろう。私が両手を広げ、Cの字を作るよりも大きそうだ。
 しかも既知のマテリアルで製造されているのではないらしく、青白い光で構成されているように見えた。その異様は、見る者に、どこか青い三日月を連想させたりもする。

「小次郎、少し遅れたようですが、手遅れにはならなかったようですよ」
 死神は言った。
「えっ、シェフ?」
 脈略もなく出てきた上官の名に、ボディガードたちは驚いたようだった。彼らは信頼を置く鷹山小次郎の姿を探して、辺りを見回す。その視線は、最終的に死神が現れた空の亀裂に落ちついた。そこから、ひとつの人影が踊り出てきたからだ。
 現れたのは、180センチを軽く超えてしまう長身と、黒髪碧眼を持った女性だった。そして、この近寄るだけで切り裂かれそうなほどに、鋭く研ぎ澄まされた雰囲気。確かに鷹山女史に相違無い。
「待たせた」
 死神と呼ばれる女性と隣に降り立つと、鷹山女史は感情の起伏に欠けるいつもの口調で、素っ気無く言った。
「シェフ! お帰りを待っていました」
 暗い絶望の深淵で曙光を見つけた思いなのだろう。生き残った護衛たちは、喜色を浮かべて彼女に駆け寄った。確かに、「この人さえいればなんとかなる」というような不思議な安心感のようなものが彼女にはある。その部分で、相沢家の人々と共通するもがはあるかもしれない。
「グラスゴーの後始末に手間取った。留守中、ご苦労だった」
 遅れた理由を弁明するようにも、不在の間の部下の働きをねぎらうようにも聞こえる言葉だが、にこりともせず、仏頂面で告げるところは流石と言わざるを得ない。彼女らしいはなしだ。
「クライアントは無事のようだが――」
 鷹山女史は周囲に視線を巡らせ、再び部下たちに戻す。
「補充に回した7名はどうした。ひとりは、そこにいるようだが」
「全員……殺られ、ました。コードネーム砕破に」
 その生き残ったひとりが、喉の奥から搾り出すような声で言う。何かを賢明に堪えるような彼が今、苦痛としているのは、頓破から受けた傷の痛みではなく、己の無力さと仲間を失った傷みだろう。
「なるほど」
 鷹山女史と死神の目が、砕破と三十六手に向けられる。背中に隠れるようにして砕破にしがみつく三十六手は、それだけでビクリと大きく身体を震わせた。鷹山小次郎と死神の名は、アジア大陸最強の誉れも高い人間たちさえ、萎縮させてしまうほどの力を持つということだろうか。
「あの、彼女は……死神って、なんなんですか?」
 川澄先輩と寄り添うようにして立つ倉田先輩が、護衛たちの背に向かって遠慮がちに問いかけた。それに振りかえって答える彼らの顔には、安堵の笑みが広がっていた。
「我らがThuringwethilの創設者にして総帥、DEATH=REBIRTH。エンクィスト財団も認める人類史上最強のサイマスターです。私も、直接お会いするのは初めてなんですが」
 Thuringwethil総帥にして、最強の異能者。
 なるほど、それならば敗色濃厚だったボディガードたちの緊張が一気に解けたのも頷ける。
「きれいな人……。あの人、強いの?」
 死神の横顔に見惚れながら、あゆさんがぼんやりと問う。
「あの人は、別格です。別次元と言ってもいいわ。財団もマニュアルにはこう書いてます。『DEATH=REBIRTHと遭遇した際は、一切の戦闘行為を放棄し戦線を離脱すべし』つまり、あの人にあったら戦おうなんて考えるずに、まず逃げろということです」
「じゃあ、あのさいふぁってひとよりも?」
「もちろん。コードネーム砕破の認定ランクは、シェフと同じAランクなんですが」
 アメリカ人の女性ボディガードは嫣然と微笑んだ。
「総帥はのランクは、今年になって新設されたXYZランク。A、AA、AAA、S、SS、SSSランクのそのまた上、事実上の測定不能を示す新しい位です。総帥のためだけに財団が新しく作ったの。――多分、砕破どころか、世界中の異能者が束になってかかっても、あの人ひとりには敵わない」
「なんだか無茶苦茶な設定ですね」
 素直にそう思った。話を聞く限り、皆からスリングウェシル総帥は、世界的に見ても突出した力を持つ人物らしい。ちょっと想像し辛いけれど、恐らく彼女の持つ世界のミリタリィ・バランスを崩壊させるほどの力で、Thuringwethilは危い均衡を保っていられるのではないだろうか。死神がいるから、財団も迂闊には手が出せない。そんな図式ができ上がっているように思える。
「それで、スピードマンはどうした」鷹山女史が、部下たちに問いかけた。「姿が見当たらないが」
「殉職です」
 女史が留守にしている間、護衛たちの長を臨時で務めていた巨漢が答える。
「ハムステッドにいる時、CYBER DOLLSの襲撃を受けて」
「――そうか」
 小さく頷くと、鷹山女史は再び砕破と三十六手を鋭く睨みつけた。
「いずれにせよ、私の部下が随分と世話になったらしい。こうして直接まみえるのは初めてだったか。コードネーム砕破」
 言語をイングリッシュに切り替えて、彼女は言った。砕破も同じく言語を合わせて返す。
「荒鷹。貴様には、借りがあったな。……忘れたわけではない」
「残念だが、私の方は既に忘却の彼方だ」
 不敵に返す女史に、砕破は目付きを険しくした。
 性格を語れるほど砕破に関する情報は持っていないけれど、この時点で、彼が鷹山女史と戦いたがっていることは傍目にも明らかだった。だけど、それが実行に移されることはないだろう。彼はプロだ。世界最強と謳われる死神と、同ランクの異能者である鷹山女史を相手に回して勝算が見えないことくらいは理解しているはず。ならば、ここは退くしかない。事実、彼はその通りに動いた。
「Y'sromancer、Mai Kawasumiにも伝えておけ。お前たちを殺すのは俺だ。次はない」
「そうよ。私はダメでも、貴女たちはいずれ砕破にやられるのよ。彼はいつか世界の頂点に立つんだから。死神だって、いずれ倒してやるわ!」
 三十六手は砕破の背中に隠れながら、捨て台詞とも思える言葉を投げてくる。
「そちらも忘れるな。部下が世話になった分は、借りとしておく。お前たちは多少はしゃぎ過ぎた」
 鷹山女史のその言葉が終わるか終わらないかの瞬間、砕破は何の前触れも無く、自分の左足を中段蹴りの要領で鋭く振り抜いた。そのフォームには見覚えがある。忘れるはずもない。フォールディング・ソリッド・カノンのモーションだった。
 先程と比べてかなり勢いは衰えていたが、それでも人間10人程度なら簡単にこの世から消してしまえるほどの破壊力を秘めた大津波が、再び私たちに襲いかかってくる。
 その怒涛の津波を遮断したのは、鷹山女史が周囲に展開した巨大な理力結界だった。葛葉の『天地元妙行神變通力』に匹敵する強大な位相空間が、私たち全員をすっぽりと包み込む規模で張り巡らされる。そしてそれは、川澄先輩ですら完全には防ぎきれなかったF.S.C.を、見事に抑えこんだ。

 津波がその余波を含めて完全に収まった後、そこに五歌仙の姿はもうなかった。予測はしていたことだが、あれは逃亡の隙を作り出す一種の目くらましだったらしい。彼らは最初から存在さえしなかったかのように、忽然と消えてしまっていた。
「――逃げたか」
 鷹山女史は残念がる様子もなく呟いた。彼女も、こうなることを予め計算していたことは間違いない。
「どうしますか、小次郎。なんでしたら、追いかけて殺しておきますけど」
 死神が事務的な口調で訊ねた。殺すという言葉をこうまで無感動に口にできるのも、彼女が死神と呼ばれる所以だろうか。
「あの砕破という少年、口だけではありませんよ。殺すと定めれば、必ず標的は消すでしょう。そしていずれ本当に世界の頂点に来る。その素質は小次郎、貴女に勝るとも決して劣っていない」
「いや、それでも今回は逃がす」鷹山女史は静かに言った。「貴女がThuringwethilから抜けるとあれば、せめて抑止力となる情報を与えて財団を牽制しておきたい。後々のために」
「私の力の生き証人を作るわけですか」
 納得したように、死神は頷いた。
「それもいいでしょう。確かに、あの砕破の報告であれば財団も信用するでしょうし。私の存在を架空のものだと思っていた人間もいるようですしね。核兵器みたいに扱われるのは、あまり好むところではないのですが」
「これから出奔しようというのだ。それくらいは我慢していただきたい」
「そうですね」死神は軽く肩を竦めた。

「――あの、お話のところ申し訳ありません」
 護衛のひとりが、上官たちの話の切れ目を狙って恐る恐る切り出した。直立不動の構え、しかも軍式の敬礼付だ。
「閣下にお聞きしたいことがあります」
「なんでしょう」死神は気を悪くした様子もなく返した。
 しかし、こうしてみるとThuringwethilというのは割と軍隊色が強いのかもしれない。確かに、やっていることはエンクィスト財団を相手に回した戦争なのだから、必然的に組織もそういう体質になりやすいのだろう。上官の命令には絶対服従――と明文化されているかは不明だが、少なくとも総帥は部下たちに深い畏敬の念を抱かれているらしいことは分かる。
「我々が知るべきことなのかは分かりませんが、先程からお話になられているのを聞く限り……総帥はThuringwethilを脱退するおつもりなのでしょうか」
「まあ、それに近い状態になりますね。後のことは小次郎に任せるつもりです」
 まるで散歩に出かけるような口振りで、スリングウェシル総帥は言った。
「私は消えます。ですが、そのことを財団に気取られるには、かなりの時間がかかるでしょう。そもそも、私は滅多に人前に姿を現さないように心掛けていましたから」
「この人のわがままぶりには、いつも困らされる」
 とても困っているようには思えない声と表情で、鷹山さんは皮肉った。
「しかたがありません。女が愛に生きるのは当然のことです」
 彼女のその発言に、私たちは多少驚かされた。愛を語る死神というのも珍しいだろう。
「――そう言えば、奇跡を使う少年がいるのでしたね。行く前に会っておきたかったのですが」
 死神は思い出したように言った。そして、すぐに横たえられた相沢さんの姿を発見する。意識を失っている彼は、今、水瀬先輩と栞に任されている。彼女たちはハンカチで彼の血や泥を拭ってやっていた。
「なるほど。不完全ながら面白い逸材ですね。意志を物理的な影響力を持つ理力に変換できるというのは、また変り種です。ですが、彼では第三階梯には届かない。所詮は出来そこないです。力を過信せぬよう」
「分かるのですか?」
 一瞬、耳を疑った。彼女は相沢さんの存在を知っていたばかりか、一目みただけで能力名『奇跡』とその特性を見抜いた。それは、葛葉にさえできなかった芸当だ。
「いま気付きましたが、貴女もまた珍しいですね」
 今度は私に関心を示したらしく、死神はその眼を微かに細めた。
「ええ、もちろん分かりますよ。私の唯一の取り柄ですから」
 その時、私は初めて正面から彼女の相貌を見ることができた。驚くべきことに、左右の瞳の色がはっきりと違う。右がで金色、左が緑のオッドアイだ。本人も気付かない程度なら、瞳の色が左右で違う人間は結構多い。オッドアイ自体は、潜在的に珍しくないという研究報告もある。だけど、ここまで明確に色の異なる例は、はじめて見た。
 そんな私の驚愕などお構いなしに、総帥は続ける。
「私と似たようなことをしているのですね。苦労も多いでしょう。葛葉というのですか? 人格を操作するのはなかなか難しいですから、気をつけるようにと彼女に伝えて下さい」
 その言葉を投げかけられた瞬間、私の中で葛葉が震えたのが分かった。
 ――貴女に伺いたい。
 驚くべきことに、葛葉が私の存在を無視して直に死神に語りかけた。
 それは前例にないことだった。彼女がこんなに取り乱し、畏怖の念に震え、感情的な反応を示す姿など、見たこともない。
 ――貴女こそが、我らに神勅を下した存在なのであろうか。
 私が喉を使って、音声として伝えたわけでない。だけど死神は、葛葉のその意思を読み取ったようだった。そして彼女は、同じ方法で葛葉に返答してきた。
 ――幼い妖狐の仔。私はそんなに大した存在ではありません。喩えとして大元尊神の概念を持ち出すなら、私はそれを破った大災です。あまり深く考えない方がいいでしょう。貴女のためにも。
 それが葛葉と死神のやりとりの全てだった。完全に私の理解の範疇を超えたものであったから、一体それに何の意味があったのかは分からない。だけど、それが葛葉にとって存在そのものと同じくらいに重大な何かであったことは、感覚的に分かった。
 もしそれが、私も知っておくべきことだったのなら、いずれ葛葉から話してくれることだろう。

「――さて、では小次郎を無事送り届けたことですし、私はこれで失礼します」
「私たちはまた会えるでしょうか」
 鷹山女史は死神に握手を求めながら言った。
「ええ。もちろんです。ただし、20年ほど時を待たなければなりませんが」
 死神は差し出された女史の右手を握り返しながら、柔らかく目を細めた。何故かその仕草に、私は母性のようなものを感じ取った。
「お別れの前に、小次郎、貴女にはこれを差し上げましょう」
 黒衣の死神は太ももに巻きつけた皮製のホルスターを外すと、収められた銀色のステッキごと鷹山女史に手渡した。
 そのステッキが、先程まで光り輝く青白い死鎌であったことを私たちは目撃している。戦闘が終わると同時に、光の刃はロウソクの火が消えるように姿を消し、2メートル近い金属製の柄の部分は蛇腹を縮めるように収納され、今のコンパクトなサイズまで落ちついたのだ。
 恐らく再び戦闘が始まった時、その20センチメートル程度の棒は再び孫悟空の如意棒のように伸び、そして青い三日月を思わせる巨大な死神の鎌を形成するのだろう。
「私の夫が、BLUE CRESCENTと呼んでいた武器です。貴女にしか使えないようにプログラムしておきました。自由に使ってください。小次郎なら、託したことを後悔しないような役立て方をしてくれると信じています」
「リリア……」
 鷹山女史は思わぬ贈り物に視線を落とすと、小さく呟いた。そして顔を上げ、送り主に軽く微笑みかける。彼女のそんな表情を見るのは、これが初めてだった。
「私の母であり、神。感謝します」
「物質、空間、理力、概念――思うが侭に断ち斬れるでしょう。取り扱いには注意するよう」
「はい」女史は厳かに頷いた。
「では、また会いましょう」
 その言葉を残して、死神は景色に同化するようにその姿を消した。
 また、と彼女は告げたが、少なくとも私と葛葉は、2度と死神に出会うことはなかった。






to be continued...
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脱稿:2003/02/13 05:44:34



あとがき

 なんだか、典型的なライト・ノヴェルになってます。でも、Y'sの読者って大体がその年代だったりするんでしょうから、これで良いような気もしないでもないですね。この方向にY'sが行っちゃうのは嫌だと思う人もいるでしょうが(私もその仲間かも)、喜ぶ読者も多いと思います。
 作者としては、三〇〜四〇代の人間が読むに耐える作品も書いてみたいんですけど。少なくとも第3シーズンはそれには向かない、若者向けだと思っています。大人向けのは、第7シーズン以降でということで書き分けてみようと企ている今日この頃です。
 あと科学考証の滅茶苦茶ぶりには、目を瞑ってやって下さい。美坂女史のような人が側にいて、横から「このお馬鹿! ここはこういう理屈だから……」とかアドヴァイスしてくれると、もうちょっとまともな物になったりもするんでしょうが。そういうアドヴァイザーがいないのが残念です。
 最後になりましたが、超能力に関して。PKとかその辺のことは、なるべく超心理学の分野で専門家が学術的に用いている言葉をそのまま使うようには心掛けています。この辺も、読者に分かりやすく、すこし曲げて解釈しているところもあったりするんですが。気になったものは自分で調べてみると、より物語を楽しめたりするかも。
 ――次回はいよいよシリーズ最終話です。お楽しみに。



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