同所
エンクィスト財団とは、中世欧州の王侯貴族を発祥とする世界最大規模の権力者集団である。その至上目的は、自らの既得権の維持拡大。地球圏の覇権掌握。
夢物語にさえ聞こえるそんな噂は、耳にしたことがあった。そして、彼らが異能を持つ者に強い関心を示し、長年に渡って研究を進めてきたことも知っていた。その研究対象として、我々『葛葉』一族に関心を示したこともあったという。実際、財団が1980年代後半に行った世界規模の『異能者狩り』において、自衛のために戦った同族もいると伝え聞く。しかし――
「聞いてはいたのですが、人間もここまで力を高めることができるのですね」
私は今更ながらに驚かされていた。これが1000年、2000年前の古代人だというなら、まだ分かる。金や科学ではなく、神や自然が摂理であった時代。その頃を生きた人類は、まだある意味で純粋な生物だったからだ。
「美汐ちゃん、あの人たち本当に人間なのかな?」
あゆさんは小さく身体を震わせながら、怯えたように言った。確かに、そう思う気持ちは分からないでもない。科学全盛のこの時代、よほどの物好きでなければ超能力の存在など信じはしないものだ。それなのに今、眼前に繰り広げられるこの光景には――そういった常識を根底から覆すような要素ばかりが含まれている。
「外見だけは、あのサイバードールとかいう人たちに比べて随分と人間らしいのですけどね。中身はそうでもないようです」
川澄先輩、それに続く相沢さんの投入で一旦は形成を逆転したように見えた戦況だったが、結局それも束の間のことだった。特に実戦慣れしていない相沢さんと、アジア最強の小隊からすればグレードの落ちるThuringwethilたちが、川澄先輩の足を引っ張る格好になってしまっている。なにより、コードネーム砕破が強過ぎた。
「怪物ですか、あのひとは……」
――
確かに。よもやこの時代で、第三階梯にまで上り詰めた人の子の姿を見られようとは。多少、驚いた。財団とやらも、この数百年、無駄に遊んでいたわけではないらしい。
本人の言葉通り、葛葉も少なからず驚いたようだ。私がコメントを求めない限り、あまり自分からは口を開かない彼女だけれど、今回ばかりは自発的にそう零したほどである。
PSIの強度自体もそうだが、戦闘におけるセンスやイマジネーションが違い過ぎる。見ていても、その動きは一際目立った。天賦の才を持つ上に、相当の専門的な鍛錬を積んだのだろう。今の相沢さんなどで、相手が務まるような男ではない。彼はまさしく暴力の化身だった。葛葉の目を借りずとも、そのことがありありと知れる。
「どうですか、葛葉。相沢さんたちは勝てるでしょうか」
周囲の人たちに気取られないよう、そっと問いかける。
――
至難でしょう。恐らくは、無理ではあるまいか。あの砕破という少年は止められれまい。
葛葉をしてそう言わしめるほど、コードネーム砕破の動きは常軌を逸していた。川澄先輩の相手をする三十六手をフォローしつつ、圧倒的な力量の差で相沢さんを追い詰めていく。同時に、Thuringwethilのエージェントたちも確実に仕留めていっているのだから驚きだ。
もう相沢さんは勘定に入っていないと考えて良い。事実上、川澄先輩が砕破と三十六手の2人を相手にしている状態だ。
「どうした、Thuringwethil。その程度で財団を潰せるつもりか?」
残りのひとり、クーパーと呼ばれていた男をThuringwethilのスタッフが全員で食い止めている。しかし、それもいつまで持つか……。
「私たちがJ.クーパーと認識していたあの男、何者なんですか?」
鋭く目を細めて戦況を見詰めていた美坂先輩が、傍らのボディガードに問いかけた。
「五歌仙の一員で、恐らく『久留頓破』と呼ばれる異能者ね。通称、ルンファー」
アメリカ人の女性ガードが応える。その視線は、真っ直ぐに件の男に向けられていた。
「ルンファー?」
「五歌仙は、その名の通り5名の強力なサイマスターで構成されているらしいの。コードネーム砕破、三十六手、頓破、撃砕、天掌。それぞれが1個小隊に値するほどの戦力を有するため、五歌仙は個別に違う任務を与えられることが常だそうよ。こんな風に、3人ものメンバーが一堂に会することは稀なはず」
彼女は視線を戦場に固定したまま、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「私たちは運が良いのか、それとも悪いのか」
そのコードネーム・ルンファーは、6人のサイマスターを一手に引き受けて戦っていた。もともと地力で勝る上、ときおり砕破のフォローが入ることもあって、互角以上に戦っている。
「あの男のPK-STは、砕破に次ぐ出力を記録するという。最初に大岩を投げてよこしたのはルンファーだ」
片膝をつき、荒い息を必死に整えようとしながら、Thuringwethilの能力者は言った。彼としては一刻も早く戦線に戻って、味方を加勢したいのだろう。でも、今はそれができる状態ではない。
「私もあいつのPK-STにやられた。近付いた瞬間、見えない巨大な手で身体を鷲掴みにされ、そのまま投げ飛ばされた感じだ。抵抗する間もない」
そして彼は実際、とても人間の身体とは思えないような勢いで弾き飛ばされ、一直線にこのプレハブの建物に突き刺さったものだ。生身の人間なら、今ごろ原型を留めな押し潰された肉塊に成り果てていたことだろう。彼はPKの場を咄嗟に展開し、激突寸前に自分の身体を守ったわけだが、それでもその時に受けたダメージはまだ大きく残っている。
ゴォッ! ゴオォ……ン!
戦場に大口径の銃弾の発射音が木霊した。ルンファーと戦うThuringwethilのスタッフたちが、ハンドガンを一斉に構えて発射したのだ。セミ・オートマティックの弾丸が尽きるまで、とどまることなく連射が続く。だが、彼らが期待したであろう効果はなかった。
――
自らの周囲に、強力な理力の断層を形成している。あの程度の火器は通用すまい。
葛葉が冷静に指摘する通り、全ての弾丸はルンファーに届く前に、見えない壁に弾かれて方向を変えたり、停止したりしてしまっている。ハムステッドで私たちを襲ったサイバードールは、全身を特殊合金の装甲で固めていたけれど、ルンファーの場合はそれよりも更に強力な不可視の装甲で、全身を守っているわけだ。こうなってくると、同じくらいの力を秘めたPKで、彼の作り出しているエネルギーの断層を打ち破るしか手立てはない。
「ですが、それを彼らに期待するのは些か酷というものです」
またひとり、ルンファーの生み出す見えざる手がThuringwethilのひとりを捉えた。捕獲された男は、全身を拘束されたまま徐々に宙に持ち上げられていく。自由になる首と膝から下だけを必死にバタつかせてもがくが、彼を縛りつける何かはビクともしない。その異様なさまは、本当に不可視の巨人の手によって、人形が鷲掴みにされているようにも見えた。
「――死ね」
その低い声と共に、Thuringwethilの隊員の身体は爆発したように弾け飛んだ。血飛沫が舞いあがり、砕けた朱色の肉片が周囲に四散する。そして上半身を失った身体は、ようやく縛めから開放されて地に落ちた。残された下半身は、しばらくビクビクと痙攣していたが、それもすぐに収まる。死体は自らが作り出した血溜りに沈んでしまったかのように、一切の動きを止めた。
「イヤァーッ」
水瀬先輩たちが両手で顔を覆いながら、甲高い悲鳴を上げた。無理もない。彼女たちにとって、人の死とは極めて遠い世界の出来事にしか過ぎなかったのだから。
「グレェン! ……おのれッ」
仲間を殺されたThuringwethilのスタッフは、歯を食いしばり憤怒の表情を浮かべて立ち上がろうとしている。でも、ルンファーに投げ飛ばされた時のダメージが抜けていない。すぐに片膝を折って、大地に崩れ落ちてしまった。
「しかし、今のは一体どうなったんですか? 上半身が内側から爆発したように見えましたが」
葛葉に問う。返答はすぐに返った。
――
理力の塊を、圧縮した状態で相手の身体に送り込んだのでしょう。そうしてから、圧縮を解いたのだと思われる。
「そうすると、抑えこまれていたエネルギーは、外側に広がろうとしますよね」
――
明察。結果、爆発的な勢いで拡散するエネルギーを抑えきれず、相手の身体は内側から破裂する。体内に埋め込まれた爆発物が起爆したように。
「怖いですね。選べるのなら、ああいう死に方は避けたいものです」
これで、戦線を離脱したのは4名。ひとりは私たちの側で崩れ落ち、ひとりはたった今殺され、あとの2人はルンファーに倒されて昏倒している。残ったのは、同Thuringwethilの3名と川澄先輩、相沢さんを含めた5人しかいない。戦況は益々こちらの不利に傾きつつあった。
特にルンファーを相手にするThuringwethilも危ないが、それより先に決着がつきそうな組み合わせは、ワイズロマンサー対砕破のカードだった。倒せないまでも、癖のあるウィアード・テイルで三十六手が川澄先輩を足止めし、その間に砕破が相沢さんを滅多打ちにするという作戦らしい。川澄先輩がフォローに回れないから、どうしようもない。先程から途切れることのない連続攻撃を繰り出され、相沢さんは防戦一方の展開に持ちこまれていた。
恐らく、砕破がその気なら、今すぐにでも相沢さんを仕留めることは可能だろう。コンビネーションなど考えずとも、一撃で敵に致命傷を与えることができるはずだ。相沢さんと砕破との間には、それだけの力の差が確実にある。だけど、砕破はその力量差を時間をかけて充分に証明してから、相手を殺す方法を選んだようだ。
前回、日本で自分の任務を妨害されたことがそれだけの痛手だったのだろうか、砕破はその冷徹な装いからは意外に思えるほど、ワイズロマンサーの存在を意識しているように見える。
――
しかし、それもここまでにするつもりらしい。
葛葉の言葉通り、戦いの方向を決定付ける一撃が、遂に相沢さんを捉えた。
「グフゥッ!」
砕破の突き刺さすような右足が、彼の腹部に埋め込まれる。低い呻き声と共に相沢さんは後方に飛ばされ、豪快に背中から地に叩きつけられた。受身を取った気配はない。蹴りだけでなく、地面に叩きつけられた時の衝撃だけでもかなり危険なものになっただろう。
「祐一!」
川澄先輩が、いつもの彼女からは想像できないような声量で叫びを上げた。だけど、その声はもう届いていない。あの蹴りは、まともに入った。肋骨も何本か持っていかれただろうし、下手をすると内臓が破裂しているかもしれない。意識を失っただろうから、もう相沢さんは立ち上がれないはず。
――
だが、幸いかも知れない。あのまま倒れていれば、少なくともしばらくは殺されずに済む。
葛葉は、こんなときにでも憎らしいまでに冷静だった。でも、言うことには一理ある。あれがもし左足だったなら、相沢さんの胴体は消し飛んでいたかもしれない。絶対に即死だっただろう。
あの人は充分過ぎるほど戦った。歴戦の兵士を相手に、あれだけ立ち回ることができたなら御の字。どうかそのまま眠っていて欲しい。そう思ったのだが……
「えっ」
思わず目を瞬いた。信じられないことに、相沢さんは立ち上ろうとしている。あの蹴りを受けてダメージが無かったとは思えない。重傷のはずなのに。いや、それ以前に本来ならもう意識を失っているはず。立てるはずが無い。
「あのバカ、こんな時まで意地張って」
そうは言う美坂先輩の目は、真っ赤になっていた。
「何度立ちあがったって同じよ。砕破は強いんだからね」
三十六手が勝ち誇ったように言い放つ。
「それで、私のことを助けてくれるんだから」
「祐一くんだって強いもん! 銀色の人たちをひとりでやっつけちゃったんだから!」
対抗するようにあゆさんが叫んだ。彼女は気を失っていたため、実際に能力名「奇跡」の発動も、それによって相沢さんがサイバードールを倒すシーンも目撃していないはずだ。でも、話として彼女もそのことを聞き知っている。
「そ、そうです。祐一さんには、良く分からないけど奇跡の力があるんです。今はまだだけど、ピンチになったらきっと発動されて、あんな人たちなんかチョチョイのチョイでやっつけてくれます!」
栞さんのその言葉に後押しされたように、相沢さんが攻勢に出た。矢継ぎ早に拳を繰り出し、砕破の形成を崩す。そして――
『超臨界モード』
「アアァァアアッ!」
シルヴィア・エンクィストの囁きと共に、渾身の右が繰り出された。稲妻のような閃光を纏い、同時に烈火に包まれたように真っ赤に発光した右腕。噂には聞いていた、恐らくあれが『瘴烟直列煉獄』形態だろう。圧殺、煉獄、神鳴の3モードを同時に発動させ、更に『リミット・ブレイク』の宣言通り、ILISシステムの最終安全装置を解除して暴走を引き起こす。使用者にも何が起こるか分からないとされている、実験段階の仮搭載モードだ。
流石の砕破も、倒したはずの相手がしかけてくる突然の猛攻に虚を付かれたようだった。僅かにだが、戸惑いのようなものが見られる。マグレでも良い。それに乗じて、これで決められれば――
「チィッ!」
ミシッという、何かが軋むような嫌な音がした。同時に、砕破がよろめくように数歩後退する。相沢さんの一撃を正面から受けたのだろう。歯を食いしばり、苦痛に顔を歪めている。
「入った……!?」
――
いや、防がれた。
淡い期待も、葛葉によって即座に打ち砕かれた。
――
終わった。少年の完敗だ。
その宣言に応じるように、砕破の左足が相沢さんの右側頭部を完璧に捉えた。鈍い破裂音と共に、相沢さんの身体がマネキンのように宙を舞う。そして危険な角度で頭から落ちた。砂煙が濛々と周囲に立ち込める。
「……ッ!」
「祐一さんっ!」
絶望の悲鳴が幾つも同時に発せられた。誰もが半狂乱になって相沢さんの名を叫んでいる。最後に決まったのは、極めて強力なPKでコーティングされた左脚――通称『L.O.D.』だった。そのハイキックを頭部にまともに貰っては、どう考えたところで助からない。全員が、それを知っていた。
でも、大丈夫。相沢さんには、まだ能力名「奇跡」がある。恐らくは『頻発性自発的念動』の亜種。本人が半ば無意識に発動させる、彼固有のパラノーマル・フェノメナ(特殊能力)だ。
あれが目覚めてくれれば、まだ大丈夫。きっと、なんとかなる。なんとかしてくれる。早鐘のように打ち出す鼓動を誤魔化すように、自分自身に何度も言い聞かせた。
だが、それを完全に否定する一言が、自らの内からもたらされた。
――
美汐、それはない。最初に起き上がった時、既にその奇跡は発動されていた。
「……ッ!」
その一言に、全身が総毛だった。背中を冷たい汗が伝っていく。
「うそ……嘘です!」
――
事実です。
全身が弛緩して、その場に崩れ落ちそうになる。自分の中で何かが壊れたような、死んだような、そんな感じがした。鈍器で殴られでもしたかのように、思考が停止する。もう、何も考えられなかった。
――
生命反応が検地できることから見て、幸いにも即死は免れたらしい。恐らく、無意識のうちに潜在能力を働かせて衝撃を最小限に抑えたのでしょう。だが、それにしたところで、あの少年が立ち上がることはもうあり得……
葛葉の言葉が遮られたのは、言下にそれが現実によって否定されたからだった。砂塵の中、目を凝らす。誰もが驚愕する中、相沢祐一は顔を鮮血で真っ赤に染めながら、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「う……そ」
「祐一」
三十六手も川澄先輩も、その動きを止めて目を見張っている。だけど最も強い衝撃を受けたのは、他ならぬコードネーム砕破だっただろう。
「貴様」切れ長の目を更に細めながら、彼は呻くように呟く。「どういうことだ」
「なに驚いているんだよ」
フラフラと覚束ない足取りで、だが相沢さんは微かに笑っていた。
「お前が相手にしているのはY'sromancerだぞ」
意識が、ある……!
なにより私と葛葉を驚かせたのは、彼が言葉を紡いだことだ。相沢祐一として。
ハムステッドで潜在能力が発動されたとき、彼は一種の心神喪失状態にあった。驚異的な運動能力や反応速度を見せたものの、その間に自分が何をしたのか記憶さえしていなかった。全てが終わった後、自分で倒したサイバードールの姿を見て、それを川澄先輩がやったものだと思いこんでいたほどである。なのに今、彼ははっきりと自分の意識を保ったまま、自分の力を使いこなしている。
「トランス状態にもなく、心神を喪失しているわけでもなく……」
こうなってくると、信じ難いことではあるが、考えられる可能性は1つしかない。
――
少年は、進化している。
「どうやら、そのようです」
*
「どうして? 砕破のLODの直撃を受けて、何の訓練も受けていない人間が立てるはずない」
仲間である砕破の実力に絶大な信頼を寄せているのだろう。三十六手は、未だに相沢さんが立ち上がったという事実を受け入れられないようだ。
「なるほど。ただ右手にKsXをぶら下げているというだけではないらしい」
砕破は冷たく笑った。
三十六手の言う通り、砕破の左脚から繰り出される一撃を受ければ、並の人間なら即死は免れない。それは逆に、彼の蹴りを受けて立ちあがった人間が『並』ではないということを示す。
砕破ほどの使い手なら、もう気付いたはず。今目の前にしている男が、なんらかの異能を秘めた人間だと。相沢祐一の奥底に潜む、能力名「奇跡」の存在を。
「自分でも、どうしてお前の蹴りを受けて無事でいられるのかが分からねえよ」
荒い呼吸を整えながら、相沢さんは切れ切れに言う。
「確かに普通なら、あんなものを食らったら、まず起き上がれないだろうな。でも、普通じゃ起き上がれないところを起き上がってこそ、オレが目指してるものに近付けるんだ。だから……」
砕破を見据えたまま、相沢さんは唇の端を吊り上げた。
膝は痙攣するように震えているし、身体は今にも倒れそうなほどふらついている。頭部からの出血も酷い。黒髪の大部分が血に塗れて、テラテラと赤黒く鈍い光を放っている。でも鋭さの失われないその両目は、雄弁に彼の意思を語っていた。
「――良いだろう。ワイズロマンサー」
砕破は抑揚のない声で、静かに言った。
「俺はお前に現実を教授してやると約束した。ならば、学ばせてやる」
『臨界設定解除』
シルヴィア・エンクィストのものとは全く趣の異なる、機械的な音声が周囲に木霊した。同時に、金属がぶつかり合うような摩擦音と共に、砕破の左足からプロテクターのようなものが落ちた。
彼は黒いレザーパンツを身に着けているのだが、その内側に装着されていたものだろう。足首から膝の辺りまでを覆うタイプのロングブーツのようにも見える。格闘家がつけるレガースにも近しいし、アイスホッケーのキーパーや、野球のキャッチャーが脚につける防具にも似たところがあるように思えた。
「なん……だ?」
「俺の左脚に宿る異能は強すぎる。あまりに強大なPKを放つため、俺自身、制御するのに多大なエネルギィを消費するほどに」
その言葉を証明するように、彼の左脚から空間を歪ませるほどの強大なPKの奔流が迸りはじめた。常人には感じられないかもしれないが、葛葉の感覚を介して私には感じられる。まるで燃え盛る青白い炎だ。
「サイオニクスやパラサイコロジ(超心理学)の分野で、Recurrent Spontaneous P.K.と呼称されている現象を知っているか? 異能者が無意識に能力を使用することで発生する特殊な事象のことだ」
「それがどうした」
「俺の左脚も似たようなもの。何も意識せずとも自然と異能が宿り、俺の意思とは無関係に破壊の衝動を放つ。普段、俺は財団の研究者どもに造らせたこの特殊な拘束器具で、その力と衝動を抑えこんでいる。自分で制御するのは面倒だからな」
拘束具――
自分の脚を保護する防具ではなく、自分の強大な力を抑えつけるための制御装置だと? 自分を守るのではなく、ある意味で周囲を守るためのプロテクター。もし彼の言葉が本当だとしたら、とんでもない異能者だ。
「砕破、もしかしてFolding Solid Canonを使うの!?」
血の気の失せた表情で、三十六手が怯えたように叫ぶ。
「させない!」
明らかに何かを始めようとしている砕破に、川澄先輩が逸早く反応した。敵が行動を起こす前に、それを阻止しようというのだろう。――その判断は正しい。これはゲームでも格闘技の試合でもない。相手が力を出しきる前にそれを封じるというのは、勝って生き延びるための絶対条件のひとつなのだ。
「砕破の邪魔はさせないわよ。あなたの相手は私!」
相沢さんの援護に走ろうとする川澄先輩を遮るように、三十六手のウィアード・テイルが展開された。幾ら斬られても、PKが尽きるまでウィアード・テイルは何度でも復元される。元は彼女の頭髪なのだ。斬られた分は、PK-LTを付与して伸ばしてやればいい。
こうなってくると、戦いを優勢に進めることはできても、三十六手を振り切ることは至難だ。完全に防御や逃げに入った人間を仕留めることほど面倒な作業はない。
「なんだか知らないが、要はやられる前にやれば良いんだろう?」
相沢さんはふらつく足取りで砕破との間合いを詰めながら、右手をゆっくりと固めていく。
『超臨界モード』
「1発でダメなら、効くまで叩き込むだけだ」
相沢さんが地を蹴った。身体の状態は、身動きすることすらできないほどボロボロのはずだ。それにも関わらず、よくぞここまでと思わせるほどの動きだった。
でも、相沢さん。それが砕破に通用しないことは、もう分かっているはず。
「井の中から這い出た全ての蛙が、波にさらわれるとは限らない――そう言ったな、ワイズロマンサー。だったら、見せてやる。これが井から這い出た蛙をさらう、大海の波だ。存意に学べ」
――そして、死ね。
砕破の唇がそう囁いた瞬間、それは天を割るような轟音と共に突如出現した。
無造作に繰り出された砕破の左脚。それを起点に、未だかつて葛葉さえも見たことがない強大なエネルギィが放出される。
「ルンファー、退避! 退避してっ。巻きこまれたら、私たちもただじゃ済まない!」
「チイッ」
砕破の仲間である三十六手や頓破までもが、恐怖に顔を蒼白にして慌てて散っていく。
そして、それは
顕れた。
なんと表現すればいいのだろう。どんな表現の仕方があるのだろう。少なくとも私は、その光景を言い表すための適当な言葉を知らない。
敢えて言うなら、それは神の怒りだった。大海の荒れ狂う波が、奢れる人類に裁きの破壊をもたらすために暴れ出したような、人知を超えた脅威だった。
一体何が始まったのか正しく認識するのに、恐らくその場にいた全員が、かなりの時間を要しただろう。最初に分かったのは、晴天に恵まれていた筈の世界が、突如として分厚い黒雲に覆われてしまったかのように暗くなったことだった。そして次に分かったのは、何か途方もなく巨大なものに自分の視界の全てが遮ぎられてしまったという事実。
それは、たとえるなら『壁』だった。無限の幅、無限の高さを持つ巨大な壁が、突然目の前に現れたような感覚だった。そそり立つその大壁は、青白い色の鈍い光を放っていて、私は場違いなことに美しく澄んだ沖縄の海を連想してしまった。
そして、唐突に、その連想が正解にもっとも近しいものであることを悟る。
――そう、それは津波だった。人間の思考を完全に停止させてしまうほどに、常軌を逸した巨大な波。見る者すべてに本能的な恐怖を喚起させる狂気の波。
空が突然暗くなったのは、それが天を覆ってしまうほどに高いからだ。視界が壁に遮られたように見えたのは、それがあまりに強大過ぎたからだ。
「あ、あ……あぁ……」
誰もが逃げることすら忘れて、ただ呆然とそれを見上げていた。
こんな……こんなものに、もしのみこまれたら……
「祐一ッ!」
悲鳴にも似た叫びを上げながら、川澄先輩が走る。だけど、それに意味はない。彼女がどう足掻こうと、青白い狂気の波は2人を丸呑みにしてしまうほどに大きい。大き過ぎた。
あまりの規模に、回避のしようもない。そばを歩いていたとき、高層ビルがいきなり自分に向かって倒れ掛かってくるようなものだ。避けようと思って避けられる域を完全に逸脱してしまっている。
「ウアァアアァァ――ッ!」
「ッ……!」
津波は、瞬く間に相沢さんとそれを庇うように抱き締める川澄先輩を押し潰していった。それでも足りぬと、更に大地を暴れ狂う。その様は、しばしば伝説に描かれる巨大な龍のようにも見えた。
怒りに我を忘れた荒ぶる水龍は、そのまま怒涛の勢いで前進し、周囲に存在する全てのものを我が内に取り込んでいった。木々は根こそぎ薙ぎ倒され、大地は抉られ、岩は爆砕される。まるで雪崩だ。
破壊と世界を割るような轟音は、止まることをしらない。今度はルンファーに倒された3人、上半身を爆破された死体、逃げ様としていた残りのThuringwethilに喰らいついた。全ては、抵抗も空しく次々と青い濁流に押し潰され、流されていく。
「こ、こっちに……こっちに来るぞッ!」
私たちの側にいたボディガードのひとりが、ようやくそのことに気付いた。だけど、10人近い棒立ち状態の少女を非難させる余裕など、もはや誰にもない。身体を寄せ合い、頭を抱え、ただ絶叫しながら目を硬く閉じるしかなかった。
「葛葉、このままでは本当に……!」
眼前に迫りくる究極の暴力を前に、私は恐怖に全身を強張らせた。咄嗟に九字を切ろうとするが、襲ってきた爆風に翻弄されて、それもままならない状況だった。私では、もはや対処できない。
――
承知。自衛のため、已むを得まい。
力強いその言葉と共に、すっと意識が遠退いていくのが分かった。久しく忘れていたこの感覚。天野美汐という仮人格に代わって、この肉体の本来の所有者である葛葉美汐が主格意識として浮上する感覚。私たちの人格が入れ替わる瞬間だ。
この際、頭髪をはじめとする体毛が、白狐本来の毛色である白銀に変わるのだが、それに気付く余裕は、たぶん周囲の人たちにはないだろう。
葛葉は一瞬で私と入れ替わると、すぐに略式の『九字護身秘法』の施行に入った。
唯密相承四位−初分位−影像相承。葛葉に伝わる奥義の1つである。
――
神代、日神素盞鳴尊、剣玉盟誓ノ時
――
剣ヲ真名井ニ振濯、サカミニカミテ吹棄気吹ノ狭霧ニ
――
神霊ノ現レ玉フノ道理事相ヲ能思奉ベシ
右手の人差し指と中指を立て、これを剣に見立てる。即ち、剣印。左手は親指を握るようにして柔らかく拳を作る。見たてられるのは、剣を包む鞘だ。
然る後、手鞘を左腰に構え剣を刺し、居合の如く構える。そして護身の為、奇霊なる加護を得る旨を請願しつつ強く祈念し、裂帛の気合を以って九字を切る。
「天」「地」「元」「妙」「行」「神」「變」「通」「力!」
秘術、天地元妙行神變通力の起動である。
Thuringwethilや五歌仙が用いるPSIとは、また異なる体系に属する奇霊が不可視の結界を周囲に展開した。青白い雪崩が私たちの身を潜めるプレハブを飲み込み、その巨大な牙で咀嚼していっても、葛葉の護法結界によって守られる限り、私たちはその影響を受けない。恐らく、これを破れる力を持つ人類は、この地上に存在しないだろう。
しかし、葛葉が奥義を以って凌がなければならないほどの理力が、この世に存在したこと自体が驚きだった。それは葛葉本人も同じだろう。
フォールディング・ソリッド・カノンといったか、その破壊力はひとりの人間が引き出せるようなレヴェルのものではない。これが街中で発動されていたらと思うと、背中に冷たいものが走り抜ける思いだった。小さな村なら、簡単に壊滅させてしまうだろう。
「
この破壊力。同じ理力をもってしか防ぎようがあるまい」
――そうですね……それも生半可な理力では歯が立ちません。
単なる津波ではない。物質化寸前まで圧縮された高理力の奔流は、あらゆる物理的な摩擦を無視して、周囲に瞬間的ながらも小規模のプラズマ過流を生み出し、高温と衝撃波、爆風を撒き散らしながら、あらゆる全てを飲み込んでいく。直撃を受けなくても、半径数メートルの範囲は致死ゾーンだ。人体など、掠りさえしなくても簡単に消し飛んでしまうことだろう。
――ここまでくれば、もう一兵士ではなく兵器でしょうね。
青い津波に抉られた空間に、空気が流れこんでいく。超エネルギィの奔流の通過で、一時的に気圧が下がったためだろう。それによって生じた気流が、フォールディング・ソリッド・カノンの残した最後の余波だった。
全てが収まった後、残されたのは、ただ焦土だった。干上がった河を見るように、理力の波が通った筋が大地に禍々しく刻み込まれている。私はあれを暴れ狂う水龍とたとえたが、それもあながち外れてはいなかったようだ。まるで人知を超えた巨体の大蛇が地を這っていったように、巨大な溝が延々と続いているのだ。
私たちが身を隠していた筈のプレハブ倉庫は、影も形も残っていなかった。それどころか、醜く焼けただれ黒い煙を上げながら燻るその跡地には、草木の1本たりとも残されてはいない。砕破の異能は、大地さえも殺してしまったかのようだった。それを示すように、レンガのように硬くなってしまった土や、ガラスのように固まってしまった小石が所々に見える。相当な高温が周囲にばら撒かれたことを示す証拠だ。
「え、あれ……私たち、助かったんですか?」
「うぐぅ、怖かったよ」
頭を抱えてうずくまっていた栞さんたちは、ようやく自分の身の安全に気付いたらしい。この様子だと、葛葉の力を目撃された心配はないだろう。
――
まるで爆心地ですね。直撃を受けた異能の者たちも、痕跡すら残さずに完全に消失している。
「そうです! 相沢さんと川澄先輩は?」
葛葉のその言葉で、私はようやく自らの思考を取り戻した。美坂さんや倉田先輩、あゆさんなどは葛葉の結界で守ったから問題はない。だけど、相沢さんとそれを庇うようにして巻きこまれた川澄先輩は、あの人知を超えた暴力の奔流に直撃されたはず。ただで済むとは思えない。
「何がどうなったの……天野さん、相沢君と川澄先輩は?」
「舞ーっ、どこにいるの!」
美坂先輩や倉田先輩も、立ち上がって周囲に視線を巡らせはじめた。
「ふたりとも、あの得体の知れない津波に正面からまともに飲み込まれていました。無事でいてくれるといいのですが」
しかし、あの青白い津波の破壊力は、生身の人間で対処できる次元のものではない。恐らく瞬間的には数千℃に達したであろう超高温と、凄まじい圧力、衝撃波、爆風。相沢さんは、先日プラスティック爆弾と一緒に倉庫に閉じ込められたことがあったが、この津波の直撃を受けるなら、まだあの倉庫にいたまま爆発に巻き込まれた方が安全だったのではないだろうか。
――
美汐、直上を。
「えっ?」
内なる葛葉の声に思わず頭上を見上げると、私は目を見開いて驚愕の声を上げてしまった。こちらに向かって、空からゆっくりと落下してくる物体があったのだ。
「みなさん、下がってください!」
だが、私が注意を促すより早く、それは地表に到達していた。思ったよりも大きな質量で、無残に崩壊したプレハブの残骸の上に、ドーンという落雷を彷彿とさせる剛音と共に落下した。恐らく倉庫の屋根を構成していたと思われる薄い金属板が、その衝撃で豪快に歪む。周囲に砂塵が舞った。
「うぁ、ぁ……」
落ちてきたそれは、掠れるような声で微かな呻き声を発した。蔓延する土煙の中、目を凝らしてよく見てみると、突然現れたそれが単なる物体でないことに気付く。
「舞っ」
「ゆ、祐一!」
落下物の正体を検めた倉田、水瀬両先輩は、血相を変えてそれに駆け寄っていった。
信じられないことに、空から落ちてきたのは川澄先輩と相沢さんだった。
「舞、大丈夫なの? 血が出てるよっ」
埃と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、倉田先輩は川澄先輩の傍らに膝を落として、親友の顔を覗き込む。その言葉通り、川澄先輩と相沢さんは全身血塗れだった。特に相沢さんが酷い。津波にさらわれたのか右腕からはKsXが失われていたし、衣服も原型を留めないほどにズタズタに破れてしまっている。そこから覗く地肌は傷だらけで鮮血にベッタリと染まっていた。それに、もう完全に意識がないらしい。川澄先輩に抱き締められるようして横たわっているが、ピクリとも動く気配はなかった。
「佐祐理……泣か、ないで。私は、平気だから」
「本当? 舞、本当に平気なの」
対して、川澄先輩はも被害は甚大で動くことすら侭ならない様子ではあったが、意識ははっきりとしているようだった。倉田先輩の呼びかけに応じ、その肩を借りてゆっくりと立ち上がろうとさえしている。全身に無数の傷を受けて出血してはいるが、骨折などの大きな外傷は一見した限り見受けられない。
素直に凄い人だと思う。超理力の奔流に飲み込まれる相沢さんを咄嗟に庇い、直撃を受けながら意識を保っていられるなど、並の異能者には不可能だろう。現に、彼女と相沢さんのほかにフォールディング・ソリッド・カノンに飲みこまれた異能者は6人いた筈だが、彼らは遺体の残骸しか見つかっていない。それも、とても元は人間の身体だったとは思えない無残な状態だ。栞さんやあゆさんなどは、それを目にしてはいても人間の死体の1部だとは認識できていない様子だった。恐らく、気付いているのは私が守ったボディガード数人と、美坂先輩だけだろう。
「俺の放てる最大出力のPKを受けて、なお立ち上がるとはな」
その声に、全員がハッと振り返る。もちろん、それはコードネーム砕破の発したものだった。傷付いた2人を思うばかり状況を忘れていたけれど、戦闘はまだ終わってなどいなかったのだ。
「咄嗟にあの5体の具象思念で、即席の防壁を作ったというわけか」
10メートルほど離れた場所で私たちを窺いつつ、砕破は目を細めて見せた。
「見事だ、川澄舞。どうやら真に恐るべきは、KsXでも相沢祐一でもなくお前だったようだ」
「未だに我が目が信じられない。あなた……本物のモンスターね」
肩を並べるように砕破に歩み寄りながら、三十六手が半ば感嘆のものとも思える声を上げた。アジア最強の小隊にここまで言わせるのだ。最大級の賞賛と受け止めて間違いないだろう。
「私が勝てないのも無理ないわ。砕破のF.S.C.の直撃を受けて生きていられる使い手なんて、世界に何人いるか」
しかし次の瞬間、三十六手は不敵な微笑を浮かべた。
「でも、有益な情報も手に入れられたわね。具象思念体を消滅させるまで傷めつければ、そのダメージは使用者であるあなた本人にフィードバックされる。あの見えない化物とあなたとは、ある意味で一心同体だったってわけね」
「くっ……」
たった1度の戦闘で、自分の能力の弱点まで見抜かれるとは思ってもいなかったのだろう。川澄先輩は柳眉をしかめ、表情を険しくした。どちらにしても、彼女はもう戦える状態ではない。
新しく護衛として派遣されてきたThuringwethilのスタッフも、6名は死亡。残りの1名は戦闘不能。事実上の全滅だ。その上、相沢さんも意識不明の重体ときている。対して五歌仙の3名は、未だにほぼベストの状態を保ったまま健在だ。
状況は最悪と言えた。このままだと、自衛のために、また葛葉に身体を譲ることになるかもしれない。否、確実にそうなるだろう。
唯一の救いは、プレハブが上手い具合に死角を形成してくれたおかげで、五歌仙に葛葉の存在を見られなかったことだろう。フォールディング・ソリッド・カノンの煽りを受けて私たちが無事でいられたのは、プレハブ倉庫が幸運に作用したためだと思われたらしい。葛葉ミシヲの力は隠し通せたと言うことになる。
「なかなかだった」私たちとの距離をゆっくりと詰めながら、ルンファーは低く言った。
「良くぞ我々を相手にここまで抗った。それだけは褒めてやろう。だが、これまでだ」
目撃者は残さないというのが、エンクィスト財団の基本方針らしい。実際には無関係であっても、私たちは色々と知り過ぎたということなのだろう。いずれにしても、彼らが私たちを日本に生かして返すつもりはないようだった。
となれば、最良の策はなんだろうか。肉体の支配権を私が握ったまま、葛葉に神事を行ってもらうことはできる。その分、効果は落ちるし顕現にまで時間がかかるのが難点だけれど、メリットとして五歌仙にあくまで葛葉の存在を隠しおおせるという点が挙げられるだろう。
ここは、葛葉に『顕密牙具四重−二重−伝受分−深秘位』の施行を求めるのが1番有効かもしれない。密教系の流れを汲むこの神事は、一言でいえば呪殺だ。抵抗力の無い人間は、即死。抵抗力の強い人間には不動金縛りの効果をもたらす。五歌仙は当然ながら強い抵抗力を持っているはずから、上手くいっても僅かな間だけ動きを封じることくらいしかできないだろう。しかし、その隙を利用して、逃げるくらいはできるかもしれない。
この考えを葛葉に伝えると、彼女は渋々ながらも納得してくれた。彼女はあくまで自衛のためにしか戦闘行為を行わない。つまり、この状況で戦うことが、彼女にとっての自衛だと認められたことになる。
「ここは、私たちが時間を稼ぎます」
歩み寄ってくる頓破の前に立ち塞がり、私たちを背中で守ろうとしながら、護衛たちは各々の武器を手に取る。対人を想定した通常の戦闘でなら、充分な威力を発揮する大型のオートマティック拳銃が中心だ。だけど、相手がエンクィスト財団ではそれが通用するとは思えない。現に、彼らに火器が通用しないことは先に実証済みだった。
「なんとか足止めしてみせるから。その間に、あなたたちは逃げて下さい」
こちらに背中を向けているため、彼らがどんな表情をしているのかを直接窺うことはできない。でも、その緊迫した硬い声と、一刻を争うような早口で紡がれる言葉は、彼らの置かれている絶望的状態を充分に物語っていた。
「さあ、早くッ!」
鋭く叫ぶと、倉田先輩つきのボディガードたちは一斉に発砲し始めた。無論、それで相手を倒せることなど彼らとて期待はしていないだろう。それはあくまで、私たちが逃げる時間を稼ぐための援護射撃に過ぎなかった。
「行ってください! 人のいる所を選んで逃げ続けるんです。逃げて逃げて、逃げまくれ!」
死を覚悟したプロたちの声が、硝煙漂う戦場に木霊する。今から命を失うことを知る者の叫び。そうまでしながら、その行為が報われないことを誰もが知っている。だから、それは悲しかった。
「葛葉、お願いです。もう、私は誰かが死ぬところなんて見たくありません!」
彼らは、私たちを守るために死のうとしている。私たちの身代わりとなって殺されようとしている。そのために、もう7人も死んでいった。その数がまた増えようとしている事実に、もうこれ以上たえられそうにない。
恐怖はあった。でも、それを超える憤りが胸の奥底から湧き上がってくる。それは、人が人を殺し、血で血を洗うという現実への、やり場の無い怒りだった。
「私たちを守るために死のうとしてる人がいるんです。彼らを死なせないために戦うのは、自衛と言えるはず。力を貸して下さい」
――
いいでしょう。
どの道、逃げることなんてできはしなかった。完全に気を失っている相沢さんを運ぶには、女性の細腕だと数人分の力がいる。それに川澄先輩も、倉田先輩に肩を借りて立っているのがやっとという状況。とても追っ手を振り切って、安全地帯まで駆けて行けるとは思えない。退路などないのだ。
この場は、戦って生き延びるか、戦って死ぬかのいずれかのみ。それを知っているから、私たちは誰ひとりとして足を踏み出すことができなかった。
「……気が済んだか?」
クル・ルンファーのその声は、やけに良く耳に響いた。
気が付けば、銃撃は止んでいた。残ったのは火薬の匂いと散らばった薬莢、弾丸の無くなったピストルのトリガーを絞る、カチッカチッという小さな連続音だけだった。
数百発という弾丸をその身に放たれながら、巨漢の異能者は全く傷ついた様子はなかった。彼の周囲に展開された不可視の理力断層が、弾丸の軌道を歪め、或いは弾頭そのものを弾き返した結果だ。
「くそっ、化物がッ!」
護衛たちは弾丸の尽きたハンドガンを捨て、大型の軍用ナイフを抜き出した。それを構え、静かに間合いを詰めてくるルンファーと対峙する。彼らの首筋を汗が伝っていくのが見えた。
「任務遂行する」
事務的な口調での宣言と共に、ルンファーの目が険しく細められた。そしてその歩調が早まる。護衛たちの身体に緊張が走った。
「もうやめて! やめてよっ」
あゆさんが頬を涙で濡らしながら悲痛な叫びを上げるが、それがプロの兵士に感銘を与えることなどあり得ない。ルンファーは更に加速にのり、一気に護衛たちとの距離を詰めようとしていた。
「葛葉、急いで!」
……
ターギャテイビヤク・サラバボッケイビヤク・サラバタ・タラタ・センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カンマン
東方降三世夜叉明王南方軍茶利夜叉明王西方大威徳夜叉明王北方金剛夜叉明王中央大日大聖不動明王・天魔外道皆神性四魔三障成道来魔界神界同如理一相平等無差別
ナウマク・サマンダ・バザラ・ダンカン・センダ・マカロシヤナ・ソワタヤ・ウンタラタカンマン
臨める兵、闘いし者、皆陣張り列成して前行せり
「臨!」
葛葉が抱朴子の九字に入った。私はそれに合わせ、左右の指を複雑に動作させながら各印を結んでいく。精神を集中し、裂帛の気合を以って、臨と共にまず『独鈷印』。
「兵」「闘」「者――
」
続いて『大金剛輪印』『外獅子印』、さらに『内獅子印』へ。
本来は純粋な神事ではなく、修験道や密教のものが陰陽道のフィルターを通してして入ってきたという、葛葉としては異色の法だ。しかも、元は魔除けや厄払いに用いられた術。それを改竄し、強引に咒殺の神事へと歪めてしまったのがこの倶梨伽羅之黒龍である。修験者が見れば、さぞかし滅茶苦茶なものに見えるに違いない。それ故に、コマンド入力に時間がかかる。
しかし、頓破は目前まで迫っていた。間に合うか……タイミングはあくまで際どい。
「皆」「陣」「列」「前――
」
皆は『外縛印』。陣の『内縛印』、そして右掌を左人差し指で突いたような形の『智拳印』、左右の人差し指、親指で丸い円を描くような『日輪印』。
「行ッ!」
最後の『隠形印』を結印した瞬間、脳裏に煉獄の中を暴れ狂う黒龍のヴィジョンが浮かんだ。
あとは、不浄を焼き払うという、この荒ぶる龍神を開放するのみ。
「倶梨伽羅の……!」
天之葛葉神道−顕密牙具四重−二重−伝受分−深秘位−倶梨伽羅之黒龍。
――それが発動されようとした、まさにその瞬間だった。
迫り来る頓破の首が、突然、宙を舞った。
これは、比喩的な表現などではない。なんと言えばいいのか……文字通り、ギロチンで跳ね飛ばされたように、首が身体から切り離されたのだ。
胴から切り離された頓破の首は、我が身に何が起こったのか認識さえできぬまま、驚愕の表情を浮かべていた。そしてゴトリという落下音が周囲に響くと同時に、忘れていたように胴体の切断面から鮮血が迸った。まるで噴水のように、数メートルの高さまで真紅の飛沫が吹き上がる。
――
これは……
「あ、ぁあぁ」
栞さんが大きく目を見張り小刻みに震えながら、声にならない悲鳴を発した。あまりの衝撃で、満足に声帯さえも機能させられないようだ。かく言う私も似たようなものだった。
やがて出血の勢いが止まると、首を失った頓破の躯は自らの作り上げた血溜まりの中に、ゆっくりと崩れ落ちていった。湿った嫌な音が周囲に響く。
砕破や三十六手、そして私たちや葛葉さえも、そのあまりに唐突な展開に唖然とするしかなかった。一体なにが起こったのか。なにが行われたのか。誰も理解するものはいなかった。
ただ、ルンファーの首が刎ねられる瞬間、青白い光が一瞬だけ閃いたようにも見えたが――
「……なかなか際どいタイミングでしたね」
全員がただ呆然と立ち竦む中、在らぬ方向から澄んだ女性の声が聞こえてきた。この場にいる者のものではない、明らかな第3者の声。全ての視線が、その音源に集中する。
そこは、頓破の死体から上空に3メートルほどの空中だった。私と葛葉は、その点に亀裂のようなものが入っていることに、逸早く気付いた。空間が歪んでいるのだろうか、亀裂を中心に周囲の景色が微かに歪んで見える。景色の写りこんだ水面に、小石を投げこんで波紋を生じさせたような感じだった。
――
何か、来る。
葛葉のその指摘とほぼ同時、空間に現れた亀裂がファスナーを抉じ開けでもするように広がり、その『向こう側』から声の主が姿を現した。
その人物は、体重を感じさせない軽やかな身のこなしで宙を舞い、ふわりと柔らかな着地を決めた。地に足が着いた瞬間、金色の滝を思わせるブロンドと、形のよい胸の双丘が柔らかに揺れた。
彼女――そう、それは若い女性だった――は、一見、相沢さんや川澄先輩のように上空から降ってきたようにも見えた。でも、両者には決定的な相違があった。それは相沢さんたちがあくまで物理法則に従ったことに対し、今現れた女性はそれを無視したことにある。
金色の彼女は、何も無い空間を切り裂き、同時に頓破の首を意図的に刎ねるという芸当を披露しながら、その裂け目の向こう側から現れたように見えた。その証拠に、彼女が飛び出てきた空間の亀裂の向こう側には、ここではない別の場所の景色がぼんやりと浮かんでいる。恐らく、空に生み出された割れ目は、別の空間と繋がっているのだろう。
「あ、あなた……DEATH=REBIRTH!」
その反応を見るに、三十六手と砕破は、金髪の闖入者と面識があるようだった。特に三十六手などは、顔を病人のように蒼白にさせて震えながら目を見張っている。明らかに、その人物に恐怖しているように見えた。
「DEATH=REBIRTH――?」
「では、あなたがあの死神なのですか」
私たちの前で壁となり、頓破から守ってくれていた護衛たちが口々に驚愕の呻きを発する。どうやら、彼らThuringwethilのスタッフたちも、五歌仙と同様に、突然現れた金髪の女性に心当たりがあるようだ。
「死神ですか。私はあまりその呼び名が気に入っていません」
彼女の声は音楽的な響きさえ感じさせるほど、耳に心地よかった。
「もっとも、名を明かしていない私にも問題はあったのでしょうが」
そう言って微笑むように眼を細める彼女は、だが確かに死神としか言えないような装いをしていた。全身を黒で統一した素材の知れないスーツに、右の太ももに巻きつけられた皮製のホルスター。むき出しになった肩から下の腕部は、絶え間無い鍛錬で無駄なく引き締められているのが分かった。
そして決定的なのは、彼女自身の人間ばなれした彼岸の美しさと、左手に構えられた巨大な死神の鎌の存在だった。
まず、容姿。これはまさに、絶世を冠するに相応しい。その表現そのものが、彼女のためだけに設けられたのではないかと疑いたくなるほどだ。背中まで無造作に伸ばされた豊かなプラチナプロンドは、まるでそれ自身が淡く発光しているようにさえ見えるほど艶やかに輝いている。その上、私の位置からは横顔しか窺えないが、端正などという言葉では許されないほどの美貌の持ち主であることが分かった。あまり容姿に拘る性格ではなく、しかも同性であるはずの私なのに、思わず見とれてしまうほどだ。意識しないと、視線を逸らせない。
そして、鎌。彼女が左手に握るその巨大な武器は、まさに死神の得物としか思えない代物だった。凶悪な光を放つ刃は、間隔を空けて2枚。刃渡りは恐らく1.5メートルを超えるだろう。私が両手を広げ、Cの字を作るよりも大きそうだ。
しかも既知のマテリアルで製造されているのではないらしく、青白い光で構成されているように見えた。その異様は、見る者に、どこか青い三日月を連想させたりもする。
「小次郎、少し遅れたようですが、手遅れにはならなかったようですよ」
死神は言った。
「えっ、シェフ?」
脈略もなく出てきた上官の名に、ボディガードたちは驚いたようだった。彼らは信頼を置く鷹山小次郎の姿を探して、辺りを見回す。その視線は、最終的に死神が現れた空の亀裂に落ちついた。そこから、ひとつの人影が踊り出てきたからだ。
現れたのは、180センチを軽く超えてしまう長身と、黒髪碧眼を持った女性だった。そして、この近寄るだけで切り裂かれそうなほどに、鋭く研ぎ澄まされた雰囲気。確かに鷹山女史に相違無い。
「待たせた」
死神と呼ばれる女性と隣に降り立つと、鷹山女史は感情の起伏に欠けるいつもの口調で、素っ気無く言った。
「シェフ! お帰りを待っていました」
暗い絶望の深淵で曙光を見つけた思いなのだろう。生き残った護衛たちは、喜色を浮かべて彼女に駆け寄った。確かに、「この人さえいればなんとかなる」というような不思議な安心感のようなものが彼女にはある。その部分で、相沢家の人々と共通するもがはあるかもしれない。
「グラスゴーの後始末に手間取った。留守中、ご苦労だった」
遅れた理由を弁明するようにも、不在の間の部下の働きをねぎらうようにも聞こえる言葉だが、にこりともせず、仏頂面で告げるところは流石と言わざるを得ない。彼女らしいはなしだ。
「クライアントは無事のようだが――」
鷹山女史は周囲に視線を巡らせ、再び部下たちに戻す。
「補充に回した7名はどうした。ひとりは、そこにいるようだが」
「全員……殺られ、ました。コードネーム砕破に」
その生き残ったひとりが、喉の奥から搾り出すような声で言う。何かを賢明に堪えるような彼が今、苦痛としているのは、頓破から受けた傷の痛みではなく、己の無力さと仲間を失った傷みだろう。
「なるほど」
鷹山女史と死神の目が、砕破と三十六手に向けられる。背中に隠れるようにして砕破にしがみつく三十六手は、それだけでビクリと大きく身体を震わせた。鷹山小次郎と死神の名は、アジア大陸最強の誉れも高い人間たちさえ、萎縮させてしまうほどの力を持つということだろうか。
「あの、彼女は……死神って、なんなんですか?」
川澄先輩と寄り添うようにして立つ倉田先輩が、護衛たちの背に向かって遠慮がちに問いかけた。それに振りかえって答える彼らの顔には、安堵の笑みが広がっていた。
「我らがThuringwethilの創設者にして総帥、DEATH=REBIRTH。エンクィスト財団も認める人類史上最強のサイマスターです。私も、直接お会いするのは初めてなんですが」
Thuringwethil総帥にして、最強の異能者。
なるほど、それならば敗色濃厚だったボディガードたちの緊張が一気に解けたのも頷ける。
「きれいな人……。あの人、強いの?」
死神の横顔に見惚れながら、あゆさんがぼんやりと問う。
「あの人は、別格です。別次元と言ってもいいわ。財団もマニュアルにはこう書いてます。『DEATH=REBIRTHと遭遇した際は、一切の戦闘行為を放棄し戦線を離脱すべし』つまり、あの人にあったら戦おうなんて考えるずに、まず逃げろということです」
「じゃあ、あのさいふぁってひとよりも?」
「もちろん。コードネーム砕破の認定ランクは、シェフと同じAランクなんですが」
アメリカ人の女性ボディガードは嫣然と微笑んだ。
「総帥はのランクは、今年になって新設されたXYZランク。A、AA、AAA、S、SS、SSSランクのそのまた上、事実上の測定不能を示す新しい位です。総帥のためだけに財団が新しく作ったの。――多分、砕破どころか、世界中の異能者が束になってかかっても、あの人ひとりには敵わない」
「なんだか無茶苦茶な設定ですね」
素直にそう思った。話を聞く限り、皆からスリングウェシル総帥は、世界的に見ても突出した力を持つ人物らしい。ちょっと想像し辛いけれど、恐らく彼女の持つ世界のミリタリィ・バランスを崩壊させるほどの力で、Thuringwethilは危い均衡を保っていられるのではないだろうか。死神がいるから、財団も迂闊には手が出せない。そんな図式ができ上がっているように思える。
「それで、スピードマンはどうした」鷹山女史が、部下たちに問いかけた。「姿が見当たらないが」
「殉職です」
女史が留守にしている間、護衛たちの長を臨時で務めていた巨漢が答える。
「ハムステッドにいる時、CYBER DOLLSの襲撃を受けて」
「――そうか」
小さく頷くと、鷹山女史は再び砕破と三十六手を鋭く睨みつけた。
「いずれにせよ、私の部下が随分と世話になったらしい。こうして直接
見えるのは初めてだったか。コードネーム砕破」
言語をイングリッシュに切り替えて、彼女は言った。砕破も同じく言語を合わせて返す。
「荒鷹。貴様には、借りがあったな。……忘れたわけではない」
「残念だが、私の方は既に忘却の彼方だ」
不敵に返す女史に、砕破は目付きを険しくした。
性格を語れるほど砕破に関する情報は持っていないけれど、この時点で、彼が鷹山女史と戦いたがっていることは傍目にも明らかだった。だけど、それが実行に移されることはないだろう。彼はプロだ。世界最強と謳われる死神と、同ランクの異能者である鷹山女史を相手に回して勝算が見えないことくらいは理解しているはず。ならば、ここは退くしかない。事実、彼はその通りに動いた。
「Y'sromancer、Mai Kawasumiにも伝えておけ。お前たちを殺すのは俺だ。次はない」
「そうよ。私はダメでも、貴女たちはいずれ砕破にやられるのよ。彼はいつか世界の頂点に立つんだから。死神だって、いずれ倒してやるわ!」
三十六手は砕破の背中に隠れながら、捨て台詞とも思える言葉を投げてくる。
「そちらも忘れるな。部下が世話になった分は、借りとしておく。お前たちは多少はしゃぎ過ぎた」
鷹山女史のその言葉が終わるか終わらないかの瞬間、砕破は何の前触れも無く、自分の左足を中段蹴りの要領で鋭く振り抜いた。そのフォームには見覚えがある。忘れるはずもない。フォールディング・ソリッド・カノンのモーションだった。
先程と比べてかなり勢いは衰えていたが、それでも人間10人程度なら簡単にこの世から消してしまえるほどの破壊力を秘めた大津波が、再び私たちに襲いかかってくる。
その怒涛の津波を遮断したのは、鷹山女史が周囲に展開した巨大な理力結界だった。葛葉の『天地元妙行神變通力』に匹敵する強大な位相空間が、私たち全員をすっぽりと包み込む規模で張り巡らされる。そしてそれは、川澄先輩ですら完全には防ぎきれなかったF.S.C.を、見事に抑えこんだ。
津波がその余波を含めて完全に収まった後、そこに五歌仙の姿はもうなかった。予測はしていたことだが、あれは逃亡の隙を作り出す一種の目くらましだったらしい。彼らは最初から存在さえしなかったかのように、忽然と消えてしまっていた。
「――逃げたか」
鷹山女史は残念がる様子もなく呟いた。彼女も、こうなることを予め計算していたことは間違いない。
「どうしますか、小次郎。なんでしたら、追いかけて殺しておきますけど」
死神が事務的な口調で訊ねた。殺すという言葉をこうまで無感動に口にできるのも、彼女が死神と呼ばれる所以だろうか。
「あの砕破という少年、口だけではありませんよ。殺すと定めれば、必ず標的は消すでしょう。そしていずれ本当に世界の頂点に来る。その素質は小次郎、貴女に勝るとも決して劣っていない」
「いや、それでも今回は逃がす」鷹山女史は静かに言った。「貴女がThuringwethilから抜けるとあれば、せめて抑止力となる情報を与えて財団を牽制しておきたい。後々のために」
「私の力の生き証人を作るわけですか」
納得したように、死神は頷いた。
「それもいいでしょう。確かに、あの砕破の報告であれば財団も信用するでしょうし。私の存在を架空のものだと思っていた人間もいるようですしね。核兵器みたいに扱われるのは、あまり好むところではないのですが」
「これから出奔しようというのだ。それくらいは我慢していただきたい」
「そうですね」死神は軽く肩を竦めた。
「――あの、お話のところ申し訳ありません」
護衛のひとりが、上官たちの話の切れ目を狙って恐る恐る切り出した。直立不動の構え、しかも軍式の敬礼付だ。
「閣下にお聞きしたいことがあります」
「なんでしょう」死神は気を悪くした様子もなく返した。
しかし、こうしてみるとThuringwethilというのは割と軍隊色が強いのかもしれない。確かに、やっていることはエンクィスト財団を相手に回した戦争なのだから、必然的に組織もそういう体質になりやすいのだろう。上官の命令には絶対服従――と明文化されているかは不明だが、少なくとも総帥は部下たちに深い畏敬の念を抱かれているらしいことは分かる。
「我々が知るべきことなのかは分かりませんが、先程からお話になられているのを聞く限り……総帥はThuringwethilを脱退するおつもりなのでしょうか」
「まあ、それに近い状態になりますね。後のことは小次郎に任せるつもりです」
まるで散歩に出かけるような口振りで、スリングウェシル総帥は言った。
「私は消えます。ですが、そのことを財団に気取られるには、かなりの時間がかかるでしょう。そもそも、私は滅多に人前に姿を現さないように心掛けていましたから」
「この人のわがままぶりには、いつも困らされる」
とても困っているようには思えない声と表情で、鷹山さんは皮肉った。
「しかたがありません。女が愛に生きるのは当然のことです」
彼女のその発言に、私たちは多少驚かされた。愛を語る死神というのも珍しいだろう。
「――そう言えば、奇跡を使う少年がいるのでしたね。行く前に会っておきたかったのですが」
死神は思い出したように言った。そして、すぐに横たえられた相沢さんの姿を発見する。意識を失っている彼は、今、水瀬先輩と栞に任されている。彼女たちはハンカチで彼の血や泥を拭ってやっていた。
「なるほど。不完全ながら面白い逸材ですね。意志を物理的な影響力を持つ理力に変換できるというのは、また変り種です。ですが、彼では第三階梯には届かない。所詮は出来そこないです。力を過信せぬよう」
「分かるのですか?」
一瞬、耳を疑った。彼女は相沢さんの存在を知っていたばかりか、一目みただけで能力名『奇跡』とその特性を見抜いた。それは、葛葉にさえできなかった芸当だ。
「いま気付きましたが、貴女もまた珍しいですね」
今度は私に関心を示したらしく、死神はその眼を微かに細めた。
「ええ、もちろん分かりますよ。私の唯一の取り柄ですから」
その時、私は初めて正面から彼女の相貌を見ることができた。驚くべきことに、左右の瞳の色がはっきりと違う。右がで金色、左が緑のオッドアイだ。本人も気付かない程度なら、瞳の色が左右で違う人間は結構多い。オッドアイ自体は、潜在的に珍しくないという研究報告もある。だけど、ここまで明確に色の異なる例は、はじめて見た。
そんな私の驚愕などお構いなしに、総帥は続ける。
「私と似たようなことをしているのですね。苦労も多いでしょう。葛葉というのですか? 人格を操作するのはなかなか難しいですから、気をつけるようにと彼女に伝えて下さい」
その言葉を投げかけられた瞬間、私の中で葛葉が震えたのが分かった。
――
貴女に伺いたい。
驚くべきことに、葛葉が私の存在を無視して直に死神に語りかけた。
それは前例にないことだった。彼女がこんなに取り乱し、畏怖の念に震え、感情的な反応を示す姿など、見たこともない。
――
貴女こそが、我らに神勅を下した存在なのであろうか。
私が喉を使って、音声として伝えたわけでない。だけど死神は、葛葉のその意思を読み取ったようだった。そして彼女は、同じ方法で葛葉に返答してきた。
――
幼い妖狐の仔。私はそんなに大した存在ではありません。喩えとして大元尊神の概念を持ち出すなら、私はそれを破った大災です。あまり深く考えない方がいいでしょう。貴女のためにも。
それが葛葉と死神のやりとりの全てだった。完全に私の理解の範疇を超えたものであったから、一体それに何の意味があったのかは分からない。だけど、それが葛葉にとって存在そのものと同じくらいに重大な何かであったことは、感覚的に分かった。
もしそれが、私も知っておくべきことだったのなら、いずれ葛葉から話してくれることだろう。
「――さて、では小次郎を無事送り届けたことですし、私はこれで失礼します」
「私たちはまた会えるでしょうか」
鷹山女史は死神に握手を求めながら言った。
「ええ。もちろんです。ただし、20年ほど時を待たなければなりませんが」
死神は差し出された女史の右手を握り返しながら、柔らかく目を細めた。何故かその仕草に、私は母性のようなものを感じ取った。
「お別れの前に、小次郎、貴女にはこれを差し上げましょう」
黒衣の死神は太ももに巻きつけた皮製のホルスターを外すと、収められた銀色のステッキごと鷹山女史に手渡した。
そのステッキが、先程まで光り輝く青白い死鎌であったことを私たちは目撃している。戦闘が終わると同時に、光の刃はロウソクの火が消えるように姿を消し、2メートル近い金属製の柄の部分は蛇腹を縮めるように収納され、今のコンパクトなサイズまで落ちついたのだ。
恐らく再び戦闘が始まった時、その20センチメートル程度の棒は再び孫悟空の如意棒のように伸び、そして青い三日月を思わせる巨大な死神の鎌を形成するのだろう。
「私の夫が、BLUE CRESCENTと呼んでいた武器です。貴女にしか使えないようにプログラムしておきました。自由に使ってください。小次郎なら、託したことを後悔しないような役立て方をしてくれると信じています」
「リリア……」
鷹山女史は思わぬ贈り物に視線を落とすと、小さく呟いた。そして顔を上げ、送り主に軽く微笑みかける。彼女のそんな表情を見るのは、これが初めてだった。
「私の母であり、神。感謝します」
「物質、空間、理力、概念――思うが侭に断ち斬れるでしょう。取り扱いには注意するよう」
「はい」女史は厳かに頷いた。
「では、また会いましょう」
その言葉を残して、死神は景色に同化するようにその姿を消した。
また、と彼女は告げたが、少なくとも私と葛葉は、2度と死神に出会うことはなかった。
to be continued...
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N E X T→
脱稿:2003/02/13 05:44:34
あとがき
なんだか、典型的なライト・ノヴェルになってます。でも、Y'sの読者って大体がその年代だったりするんでしょうから、これで良いような気もしないでもないですね。この方向にY'sが行っちゃうのは嫌だと思う人もいるでしょうが(私もその仲間かも)、喜ぶ読者も多いと思います。
作者としては、三〇〜四〇代の人間が読むに耐える作品も書いてみたいんですけど。少なくとも第3シーズンはそれには向かない、若者向けだと思っています。大人向けのは、第7シーズン以降でということで書き分けてみようと企ている今日この頃です。
あと科学考証の滅茶苦茶ぶりには、目を瞑ってやって下さい。美坂女史のような人が側にいて、横から「このお馬鹿! ここはこういう理屈だから……」とかアドヴァイスしてくれると、もうちょっとまともな物になったりもするんでしょうが。そういうアドヴァイザーがいないのが残念です。
最後になりましたが、超能力に関して。PKとかその辺のことは、なるべく超心理学の分野で専門家が学術的に用いている言葉をそのまま使うようには心掛けています。この辺も、読者に分かりやすく、すこし曲げて解釈しているところもあったりするんですが。気になったものは自分で調べてみると、より物語を楽しめたりするかも。
――次回はいよいよシリーズ最終話です。お楽しみに。
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