どこにでもいけるさ
ホームに降り立ったあたしを迎えた爽やかな風の匂いは、やっぱりあの頃と変わってなかった。
白い袖なしのワンピースのすそがひらひらと風になびいて、サンダル履きの足下を涼しい風が通りすぎていく。日差しは強かったけれども、札幌にくらべるとずっと過ごしやすい。
駅前の閑散とした商店街はあの頃のまま。どこからか聞こえてくる蝉の鳴き声もなんとなく懐かしく感じる。
蝉の声なんてどこだって一緒なのにね。
柄にもなく感傷的になってるみたい。
――帰ってきたんだ。
あたしは小さく呟くと、強い日差しを避けるように麦わら帽子を深くかぶり直して、タクシー乗り場に向かって歩きだした。
§ § §
大学に入って三年目の夏。
勉強には一年で興味を失って、遊ぶことにも二年目で飽きて、あたしは三年目のこの時期を惰性で過ごしていた。入学したときのやる気はどこに消えたのやら、典型的な文系の学生生活を繰り返す日々。
要領さえ掴めば楽勝で単位が取れる講義の数々。見かけの派手さとは違って気のいい友人たち。適度に遊べるにぎやかな町並み。
自分を縛っていた高校生の頃の反動もあってか、一年の末にちかこおばさんの家を出て一人暮らしを始めてからは、好きなように遊び回っていた。
そのあいだ身についたことと言えば、浅くもなく深くもない友人関係と、カラオケの持ち歌が増えたくらい。
あ、スケートにもしばらくハマったっけ。
それなりに恋愛だってした。
そう。なにをやっても楽しかったのは事実。
だけど、自分の部屋に戻っても友達と長電話ばかりして、それだけで一日が終わったりすると、ベッドに入った瞬間にふと虚しさに襲われることがある。昔はそうでもなかったけど、最近はほとんど毎日そんな調子ですぐには寝つけない。
まぶたの裏に浮かんでくるのは、明かりが消えた修学旅行の夜の寝室。
卒業式が終わったあとの夕暮れ時の公園。
にわか雨が通り過ぎるのを待っていた静かな部室。
そんな特別なときにしか話せない夢。
あたしはもっぱら聞き役だったけど、恥ずかしそうに、でも決意を感じる言葉で話していた彼女たちは、いまごろなにをしてるんだろう。
――あたしはこんなところでなにをしてるんだろう。
思い悩んでいたあたしにきっかけを与えてくれたのは、短い夏の足音が聞こえ始めてきたある日のことだった。
あたしは休講になって空いた時間をつぶすために研究室でぼんやりとしていた。クーラーはつけないで窓を全開にするのが好きで、その日もあたしはそうやって建物の外の様子を眺めてた。
大学って講義の時間帯になると本当に静かになる。近くにある高校のグラウンドから元気な声が飛んできたり、構内の道路を走る自転車のブレーキの音が響きわたって聞こえてくる。
たくさんの人がいるはずなのに、自分ひとりしかいないようなこの感覚があたしは好きだった。
がらんとした研究室を見渡すと、いつの間にか黒板に今週の英文学の予習会のスケジュールが書き加えられていた。
専門の講義の中で唯一厳しいのがこの英文学。うちは英文学の研究室だから当然この講義だけはやる気のある人が多くて、ついていくのも一苦労だったりする。
事前に行われる予習会でもあんまり発言する余裕はないんだけど、活発な論議がかわされるのは見ているだけで結構楽しかった。
得意だった数学でもなく、ママから勧められた経営でもなく、苦手だった英文学を選んだのは、なんでもいいから違うことをしたかったからなんだろう。
自分で言うのもなんだけど、高校を卒業するまではずっといい子を演じてきたつもりだった。
『演じる』と言うと聞こえが悪いけど、あぶみお姉ちゃんみたいに愛嬌があるわけでもないし、ひびきちゃんみたく馬の扱いが上手だったわけでもない。ひづめの根拠のない思いこみの強さだって羨ましく思ってたのかもしれない。
そんなあたしの取り柄が、なんでもそつなくこなす要領のよさになってしまうのは仕方がなかった。特別苦手なこともなかったけど、なにか人に誇れる得意なことがあるわけでもない。
大学受験も無難にこなして、今はこんなところでぼんやり座っている。
ため息とともに、熱気を帯びた空気がパーマの落ちかけた髪の毛をなびかせていった。
――またストレートに戻そうかな。
廊下の方から聞き慣れた嬌声が聞こえてきたのは、そうやって短くした髪の毛の先を指でくるくる回しているときだった。
エレベーターを降りた瞬間から彼女たちだとわかる二人組。一番仲の良いあたしの友人たち。
一人は留年してるから年はひとつ上なんだけど、自信に満ちあふれた堂々とした態度がまぶしいナツキ。研究室の男の子からは裏でドンと呼ばれてるくらいパワフルな人。もう一人は、まるであぶみお姉ちゃんみたいな天然ボケが可愛い同い年のユウコ。
北大はわりと外から入学してくる人が多くて、この二人も北海道の出身じゃなかった。ナツキは四国の出身でユウコは北陸の方だって言ってた。
とにかく二人はいつも無意味に元気で、一緒にいるのはとても楽しかったけど。こんな気分の時には相手をするのがちょっとだけ憂鬱だった。
思った通り、二人は研究室に入ってくるなり一気にしゃべりだした。
「こら、わたらいっ。今わたしの顔見てヤな顔したな〜」
「べっつにー」
「いーや。なんか浮かない顔してたやん。ユウコも見たよな」
「うん。みたみたぁ。」
「それよりもさ。もう予習会の勉強やった? 今回の、範囲が広いっしょ」
「あ、あれね。ユウコ進んでる?」
「またユウコにやらせてんの? ひっどー」
「やらせてるって、ユウコが自主的にやったものを見せてもらってるだけやない。時間の有効利用ってやつよ」
「あんたねー」
「いいのよ、あたしはべつに。それよりもたづちゃん。今度クッキーの作り方教えてくれる? この前のケーキ、寮の人にもすっごく好評だったんだぁ」
「ホント? いいよ。ちかこおばさんの空いてる日だったら、いつでも教えてあげる」
「ありがとぉ。料理が上手なのっていいわよねえ。お菓子づくりが趣味なんて、いまどきかっこいいと思うの」
「なんやのん、それ。わたしに対するあてつけなん?」
「そう思うってことは思い当たる節があるんだ」
「う、うるせー!」
笑い声が部屋に満ち溢れる。
そして、ようやく暴風雨のような二人が去ったときには、あたしはすっかりしゃべり疲れていた。
机の上にはナツキが置いていったオレンジジュースの缶がぽつんと残されている。水滴がたくさん浮いているのを見ると、強烈に冷やすことで有名なB棟の裏にある自動販売機から買ってきたんだろう。
あたしはのどを潤すために、そのジュースをひとくち飲むと、ちらりと時計に目をやった。
ちょうどレースが開始する時間だった。
あたしは慌ててラジオのスイッチを押した。ゲートインが始まったところだった。
今日のレースには駿平が育てた馬に乗った佑ちゃんが初めて登場する。
数日前に入っていた留守電のメッセージで、あたしはそのことを知った。ひびきちゃんの興奮した声がまだ耳に残っている。
まさか本当に佑ちゃんが駿平の馬に乗ることになるなんて。
ちょっと感慨深いものがある。
ゲートが開いてレースがスタートした。
こうやって音声だけを聞いていても、その場の様子が目に浮かんでくるようで。佑ちゃんが、かなり良い位置につけているのがよくわかる。
落馬による怪我やら八百長疑惑やら色々とあったけど、今では佑ちゃんもすっかり一流の騎手として活躍している。
レースは順調だった。
駿平が中心になって育てた馬も本人とは違って佑ちゃんの指示にしっかりと応えているようだったし、最後のカーブを抜けるところで上手く飛び出したときには、思わずあたしも身を乗り出していた。
ツ――ッ。
ナツキが置いていったジュースの缶の表面に浮いた水滴が、筋を作って机の上に流れ落ちた瞬間。
歓声が沸き上がり、佑ちゃんが、駿平の馬が、一着でゴールを駆け抜けた。
あたしは涙が出そうになった。こんなに嬉しかったのはいったい何年ぶりだろう。
今頃きっと牧場は大騒ぎになっているはず。自分がその場にいられないのがすごく寂しかった。
あたしはこんなところでなにをしてるんだろうって。
そのときほど強く思ったことはなかった。
安易なロマンチシズムは経営の邪魔になるだけだってよく言ってたものだけど。愛情がないと良い馬なんて育たない。そんな当たり前のことが今頃になって思い出される。
あたしがまだ馬にも乗れないほど小さかった頃、障害を抱えた子馬を処分しようとしたママに向かって、ひびきちゃんたちと一緒に反対したことがあった。
でも、結局願いは聞き届けられなくて。夜中にこっそり厩舎に忍び込んで、その子馬にしがみついて一晩中泣いていたこともあったっけ。
いつの頃からだろう。そうやって心を縛られることに疲れて、無理に冷たい目で馬を見るようになったのは。
こうやって目を閉じてみると、色んなことが思い出される。
厩舎の掃除だって今となっては懐かしい。
馬のいななきが風に乗って届く。
乾いた牧草の匂いがする。
みんなの声が、聞こえる。
§ § §
あたしはタクシーを降りて、ゆっくりと牧場の真ん中を横切っている道を歩き始めた。
真っ青な空には真夏の白い雲がそびえ立っている。
その美しい空の下を一歩一歩踏みしめるように進んでいく。
馬のいななき声に顔を上げると、ずっと向こうの方に人影が見えた。
遠くから見てもすぐわかる。
梅さんと駿平があの頃と全然変わらないのんびりした様子で馬の世話をしていた。
懐かしい光景。
胸躍る光景。
またここに帰ってきたんだ。
――ただいま、みんな。