第拾壱話 「さよならアスカ」

written on 1997/4/1





「ごめん、シンジ」

「あたし、来週からドイツに帰るの――――」

 その言葉を聞いた瞬間、シンジの頭の中は真っ白になった。
 人前で初めて繋いだアスカの手の温度が、少し低くなったように感じられ
た。

 第三新東京駅のホームを寄り添って歩く二人。
 アスカが言った言葉の意味をシンジが理解するには、あまりにも甘い幸せ
に満ちた雰囲気であった。

 ドイツニ帰ル?

 ドウシテ?

 僕ヲ置イテイクノ?

「ママが入院しちゃってさ……。アルコール依存症―――いわゆるアル中っ
てヤツね。この前、電話があったの。ママがあたしに会いたがってるって」

 ママ?

 会イタイ?

「シンジ? 聞いてる?」

「……う、うん。聞いてるよ」

 アスカの母親は日本に来るものだと思っていたシンジは、混乱する頭を必
死に落ち着かせる。

「それでね。あたしも迷ったんだけど……」

 視線を落として、アスカは小さく呟いた。

「だって、あたし彼女のこと嫌いだったから」

 彼女が過去の話をすることは珍しい。
 シンジさえもまだ断片的なことしか知らない過去の出来事。

 だから。

 アスカの落ち着いた――――決意を秘めたように見えるその表情に、シン
ジは次第と冷静さを取り戻し始めた。

「やっぱり、あたしの本当のママが自殺したことと、あたしが全く心を開か
なかったことはこたえてたみたい。そして新しいパパも死んじゃって……」

 きゅっと、シンジの手を握るアスカの力が強くなった。

「一人じゃ生きていけない人だから、今度はあたしを頼ってきたのかもしれ
ないわ。ホントに勝手な人なんだから」

 シンジは黙ってアスカの手を握り返す。

「でも……許せるコトじゃないけど、気持ちはよくわかるから」

 その言葉に自然とシンジも頷いてしまう。

「だから、しばらくはママの側についていてあげようと思うの。シンジには
たぶんすぐに帰ってこれると思ったから何も相談しなかったけど……」

 アスカが心配そうにシンジの顔をのぞき込んだ。

「怒ってる? 今まで相談しなかったこと」

 シンジは少しだけ間をおくと、静かに頭を横に振った。

 アスカは残るつもりもなかっただろうし、シンジも『行くな』なんて言え
なかったはずだから。
 それに今のアスカの顔を見ていると、シンジには何も言えない気がした。

「ううん。そんなことないよ。アスカが自分で決めたんだろ?」

 ふっと、アスカの表情が和らいだ。

「うん……ありがと、シンジ」

 そして二人は駅の改札口を抜け、バスターミナルへ続く地下道に降りるた
めのエスカレーターに乗りこんだ。
 流れる風景をぼんやりと眺めながらシンジがぽつりと呟いた。

「でも……。寂しいな、アスカが行っちゃうと」

 平凡であまりにも間抜けすぎるセリフ。

「アスカも……少しは寂しい?」

 なんて情けないセリフ。

「そりゃ、寂しいわよ」

 シンジの言葉にアスカが驚いたように顔を上げた。
 あったりまえじゃない!――――と、当然のように言い返してくるアスカ
の言葉を聞いて、シンジは寂しさの中にも不思議な満足感を覚えていた。

「でも、あたし、信じてるから。シンジだったら、絶対信じられるから」

「シンジが教えてくれたのよ」

 アスカは、噛みしめるようにその言葉を呟く。

「人を信じる気持ち」

 信ジル気持チ――――

「だから大丈夫」

「もし、シンジが他の女に心を奪われても平気。絶対に奪い返してやるんだ
から」

 そしてアスカはシンジの瞳をじっと見つめた。

 ――――シンジはあたしを信じてくれる?

 そう言いたげに。

「強くなったんだね、アスカは……」

「強くならなきゃ生きてられなかったもん」

 微笑みながら答えるアスカにシンジは胸が締め付けられる思いがした。

「それにずっと会えないってワケじゃないし、そんなに経たないうちにまた
帰ってくるわよ」

 アスカが努めて明るい口調で話しているのがわかっていても―――いや、
よくわかるだけに、シンジの口からは絞り出すように短い言葉しか返ってこ
なかった。

「そうだね……」

「だから、そんな情けない顔しないの」

「……うん」

 そしてバスに乗り込むまで、二人の手は繋がれたままであった。

        *        *        *

 そしてアスカが旅立つ日がやってきた。
 あれから一週間も経たないうちの慌ただしい出発。
 アスカの母の病状がそれほど酷いというわけではなかったが、未練がまし
く残ってるのもイヤ、とアスカはすぐに一年間の休学の手続きを済ませて、
身の回りの整理を終えてしまった。

 気に入っていたマンションの退去。
 青葉やマヤへの挨拶。
 もちろん、わざわざ第2新東京市まで出かけた理由には、素早い国外移転
許可に配慮してくれた冬月へのお礼も含まれていた。

 そして旅立つ直前のたった3時間のデート。
 日本のお土産を買って、昼食を食べただけの最後のデート。

 短い時間だったが、二人はいつも通りの会話を楽しみ、別れの寂しさを紛
らわせるようにはしゃぎ回った。

 だが、別れの時は容赦なくやってくる。

 空港行きのバスが出発する乗り場のベンチに二人は座っていた。
 やな天気ね―――と、アスカは今にも雨が降りそうな空を見上げた。

 シンジはそれに答えず、アスカの横顔をじっと見つめた。

「ホントに空港に行っちゃだめなの?」

「ダメ。泣いて別れるの、キライだから」

「見送りくらいさせてくれたって……」

 アスカはぺろっと小さく舌をだした。

「空港でお別れなんて、あたし絶対泣いちゃうもの」

 アスカの決意は固そうだった。
 それに、シンジ自身も明るく別れる自信なんてさっぱりなかったから。

「いつ頃帰ってくるの?」

 最後にシンジはもう一度聞いた。

「………わからない。1ヶ月か、半年か……それ以上か……」

 アスカは遠くを見つめる。

「肉体的な症状は全然問題ないのよ。今は良い薬もあるしね。ただ精神的に
治さないと、結局また同じコトの繰り返しになっちゃうから」

 空港行きのバスが近づいてくるのを見て、アスカが立ち上がった。

「あたし、今は自信あるの。ママと上手くやっていく自信。彼女を立ち直ら
せる自信。だから納得いくまで向こうにいるつもり」

 シンジもアスカに続いてゆっくりと腰を上げた。

 引き留めちゃいけない。

 アスカの気持ち、よくわかる。

 誰かが必要としてくれることの嬉しさ。

 誰かを必要としている人の寂しさ。

 だから、シンジはただ一言を送った。

「会いに行くよ、絶対に」

「うん。待ってる」

 アスカはこくんと頷いた。

 すぐに空港行きのバスが到着する。

「それじゃ、またね」

「さよなら……アスカ」

 タラップを登る直前に振り向いた彼女の顔には、優しい微笑みが浮かんで
いた。

       *        *        *

 最後尾の席は空いていたが、アスカは一番前の座席に座った。
 乗り込んだ後は一度も振り返らなかった。
 一度もシンジの姿を見ようとしなかった。

 滑るように走り出したバス。

 バックミラーに映るシンジの姿が少しずつ遠くなっていく。
 じっと立ちつくすその姿が、次第に小さくなる。
 アスカは、次第に熱くなってくる瞼の裏に、シンジの情けない顔が見える
ような気がしていた。

     白くなるほど握りしめた拳に、一粒だけ涙が弾けた。




           // 第一部 完 //




 とりあえずこれで第一部の完結になります
 実質的な執筆期間はおよそ7ヶ月半。「時が、走り出す」からだと
約一年になりますね……長かった……

 第二部では、別れた二人がそれぞれの地で様々な経験をして成長
していく過程を描くつもりです。
 それではまた第二部でお会いしましょう
                            DARU




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