第弐拾四話 「終わる季節、次に来る日々」

written on 1998/5/9


 

 

 シンジがそのことに気づいたのは、長野から戻ってきて二日目、部活の練

習に復帰したその日だった。

 彼女の態度がよそよそしいのは仕方がないと思っていたし、シンジ自身も

どう接していいのかわからなかったので、優梨が自分に対して距離を置いて

くれるのは実際気が楽であった。

 そんな風に思ってしまう自分を『案外冷たいな』と自嘲するくらいで済む

のだから。

 それに今のシンジには冬の計画で頭がいっぱいだった。

 

 しかし意外だったのは、その相手が桐丈だったということだ。

 もちろん『意外』というのは、この場合シンジが知っている範囲での二人

の印象であり、それは事実の一部にしか過ぎない。

 優梨と桐丈は、高校時代から同じ陸上部の先輩後輩の間柄であったのだか

ら、少なくともシンジ以上にお互いのことをよく知っているはずなのだ。

 だが、シンジから見れば、手が早く誰にでも声をかける桐丈と、芯が強く

潔癖なところがある優梨の二人が付き合いだすのは『意外』というしか表す

言葉が見つからなかった。

 

 練習が始まって最初のうちはシンジも全く気がつかなかった。

 しかし、休憩時間に入る度に、以前は憎まれ口をたたき合ってばかりいた

二人が、他の部員達の輪から少し離れたところで楽しそうに談笑している様

子を見ると、いかに鈍感なシンジと言えども二人の関係が今までと違うとい

うことに気がついた。

 特に、桐丈が優梨のことを気遣って会話を交わしているのが強く感じられ

た。逆に優梨の方は、無理に明るく振る舞っているようにも見えた。

 今までの二人の関係からは想像できない姿であった。

 

 シンジが二人の関係に確証を持ったのは、練習が終わって皆が帰路につく

ときだった。

 グラウンドの片づけと整備をしていたシンジの側を、ちょうど桐丈と優梨

の二人が通り過ぎようとしたのだ。

 家の方向が逆の二人は、以前なら何か用事でもない限り二人で帰るという

ことはあり得なかった。

 

「お疲れさまです」

 

 シンジが二人に向けて挨拶をすると、桐丈はいつもの調子で『おさきー』

と片手をあげて応えてくれたが、優梨は無言で会釈を返しただけだった。顔

も合わせようとしなかった。

 

 遠ざかっていく二人を見ながらシンジは、

「そういうことか……」

 と、小さく呟くしかなかった。

 

 不思議と悲しくはなかった。

 むしろほっとしていたのかもしれない。

 どのような経緯で二人が付き合いだしたかはわからなかったが、少なくと

も優梨に自分の目の前で落ち込まれているよりは、誰か代わりの人を見つけ

てくれた方がいいと思っていたからだ。

 自分勝手な感情であることは強く自覚していたが、いつの間にかシンジは

そんな自分を冷静に受け入れられるようになっていた。

 誰かが幸せになる時には、誰かが不幸になるのかもしれない。

 今回はたまたま自分が幸せになる番であったが、いつ逆の立場になるかも

しれないのだ。

 それを思うと、今のシンジには二人の姿を静かに見送ることしか出来なか

った。

 

 

        *        *        *

 

 

「ッシ!」

 

 桐丈の鋭い気合いが寒空の風に乗ってシンジの耳に届いた。

 

 シンジが練習に復帰して四日目。種目別の練習時間になって、いつも通り

シンジは桐丈と二人でハイジャンプの練習に励んでいた。

 以前ならほとんどの時間をシンジが独占していたのが、ここ数日は桐丈の

方がバーを使用する割合が多くなっていた。

 最近の桐丈はシンジ以上に厳しい練習を自分に課しているように見えた。

 

「どうしたんですか? 最近気合い入ってますね」

 

 シンジは助走地点へ戻ってきた桐丈に声をかけた。

 

「ん? ああ。いい加減お前に負けるのがムカついてきたからな」

 

「え?」

 

 唐突な桐丈の言葉に、シンジは思わずきょとんとして首を傾げた。

 再び助走地点に立ってシンジに背を向けた桐丈は、後ろ姿を見せたまま言

葉を続けた。

 

「あいつを振った男に負けるわけにゃいかないだろ」

 

「あ……」

 

 シンジは小さく声を上げたっきり表情を曇らせた。

 二の句が継げず、強い風の中で立ちつくす桐丈の背中を、うつむき加減に

見つめることしか出来なかった。

 

「なんてな」

 

 突然桐丈がくるりと振り向いた。

 その表情にはいつも通りの茶目っ気たっぷりの笑みが浮かんでいた。

 

「理由その1。今度の全国大会は沖縄でやるらしいから、学校の金でちょい

と行ってみたくなった。理由その2。天才の俺が努力すればどれだけすごい

かを見せつけるため」

 

 緊張感をほぐすような桐丈の物言いに、シンジは思わずぷっと吹き出した。

 おそらく彼流の気の使い方だったのだろう。

 シンジもそれがわかるだけに桐丈に笑顔を向けて応えた。

 

「行きたいですね、沖縄。そのころは泳げるようになってるそうですから」

 

「おー、いいねー! ついでに潜りもやるか!」

 

 桐丈は笑い声をあげながらバーの方に向き直ると、再び鋭い気合いの声を

上げてスタートを切る。

 

「でも、さっき言ったことも嘘じゃないぜ」

 

 ただ一言。こう言い残して。

 軽々とバーを飛び越える桐丈の姿を、シンジは複雑な表情で見送っていた。

 

 

        *        *        *

 

 

「い、碇クン! だめだってば〜!」

 

「ね、イインチョー、お願い!」

 

「アスカにバれたら絶対怒られるって」

 

「大丈夫。バれないようにするからさ。ね?」

 

「い、や、やん。ちょっと、待ってってば!」

 

 ここはブランドもののお店が建ち並ぶ高級ブティック街。

 今まさにその中の一軒にシンジがヒカリの手を引いて入ろうとしていた。

 今日は珍しくシンジがヒカリを誘って買い物に出かけていたのだ。

 滅多にないことだったのでヒカリとしても薄々感づくところがあったのだ

が、案の定アスカの誕生日プレゼントを選ぶ買い物に付き合わされるはめに

なっていた。

 

「こーゆーのはセンスとか問題じゃなくて、誰が選んだのかが重要なのよ?」

 

「それはわかってるけどさぁ……。アスカって結構こだわりが多いし……。

どうせなら喜んでもらえるのがいいじゃない? それに、一人じゃ入りにく

いんだよ。この手のお店は……」

 

 店内をおどおどと見渡すシンジを見て、ヒカリは仕方ないわねとでも言う

ように小さくため息をついた。

 確かにシンジ一人だったら、店員の勧めるがまま売れ残りの高い商品を掴

まされることは簡単に予想がつく。

 ヒカリは近寄ってくる店員を目で制すと、シンジを店内が見渡せる店の片

隅に連れていった。

 

「でも、ただわたしが選ぶんじゃ意味無いから……。ちょっといくつか質問

するけど、ちゃんと答えてね」

 

「質問? う、うん。それはいいけど……」

 

「じゃ、まず最初の質問ね。アスカの好きな色はなに?」

 

「うーん……。やっぱり赤かな? 明るくて派手な色が好きみたい。あ、で

も、冬は落ち着いた色が多かったかな。自宅では白とかブルーの清潔な服装

をよく着てると思う」

 

「……案外よく見てるのね」

 

「え? あ、そ、そうかな。いや、そんな別にジロジロ見てるってワケじゃ

ないんだよ! いつもアスカが服装については一言何か言わせるから……。

女の子の服装と髪型にはいつも気をつけろって。あとアクセサリーも褒める

の忘れるなって」

 

(うーん……。アスカのヤツ、ちゃんと教育が進んでるわね)

 

「何か言った?」

 

「え? べ、別になんでもないわ! それじゃ次! アスカは使えるものと

飾っておくもの、どちらの方が喜ぶでしょう?」

 

「使えるものと飾っておくもの……。たぶん、アスカは実用品の方が好みか

な」

 

「良くできました。アスカってホントに現実的なのよねー。らしいと言えば

らしいんだけど」

 

「そうだね。僕もそう思うよ。飾っとくんじゃ意味無いってアスカよく言っ

てたし」

 

「だったら定番だけどマフラーとか手袋なんていいんじゃないかしら。あん

まり高いもの送っても、たぶんアスカ気にするだけなんじゃないかな」

 

「やっぱりイインチョーもそう思う? 僕もそうかなって思ってたんだ。そ

れで、このお店のショーウィンドウに良さそうなマフラーがあったから……」

 

 ちらりと、シンジが何かを探すように店内を見渡す。

 

「なんだ………」

 

(しっかり目付けてたんじゃない。碇クンもずいぶん気が回るようになった

のね)

 

「どうしたの?」

 

「ん? アスカも碇クンみたいな彼氏がいて幸せだろうなって」

 

「ええっ!? 急に何言い出すのさ……」

 

 ヒカリは、突然真っ赤になってあたふたとするシンジを微笑ましく見つめ

ながら、

 

(こーゆー可愛いところが失われていないのがまた良いのよねー。まさに天

然記念物ってところかしら)

 

「それじゃ、さっそく戦闘開始といきましょうか!」

 

 と、シンジの背中を押すようにして店内を歩き始めた。

 

 

        *        *        *

 

 

 もうもうと湯気が立ちこめるバスルームの中で、アスカは先ほどから身動

き一つせずに頭からシャワーを浴びていた。

 俯いた視線の先には、渦を巻いてお湯を吸い込んでいく排水溝が見える。

 シャンプーの泡もすっかり流れ落ちてしまっていた。

 ただシャワーの音だけがアスカの耳を支配していた。

 

 今日が誕生日だってこと覚えてないのかな……

 

 さっきからアスカの頭の中は一つの思いで一杯だった。

 今日は12月4日。

 わざわざ口にするのも押しつけがましいような気がして、あえて最近は話

題に出さずシンジの反応を試してきたつもりだった。

 しかし当日の今日に至るまで、シンジからは一切誕生日の話は出なかった。

 すっかり忘れているのか、それともわざと話題に出さないようにしている

のか。

 アスカは後者だと思いこみたかったが、時々こうやって一人になった時に

考え込むと、つい暗い方向にばかり想像が走ってしまう。

 シンジが最近やけに明るいのも、もしかしたら向こうで新しい彼女が出来

たのかも、なんて馬鹿馬鹿しいことを考えてしまう。

 

 馬鹿馬鹿しい……のは、もしかしてあたしなのかも。

 あたし一人が何も知らないだけなのかも……

 

 急に鼻の奥がツンと熱くなった。

 

 やだ……

 こんなので泣いちゃうの……

 

 べったりと髪の毛が張り付いた鼻筋を、シャワーのお湯と一緒に他の熱い

ものが流れていく。

 

 アスカは秋の大喧嘩以来、いっそうシンジとの絆が深まったと感じていた。

 しかし、それが故に、最近はシンジへの想いが募って情緒不安定になるこ

とが多かった。

 シンジから送られてくるメールの一語一句に敏感に反応したり、ふと気づ

くとシンジの携帯の電話番号を押していたり。

 そんな自分を情けないと思う気持ちと、嬉しいと思う気持ちが入り混じっ

て不思議な満足感をアスカは感じていた。

 そして自分が人を好きになったときの脆さをも。

 信頼する気持ちが強ければ強いほど、それが失われたときのショックを恐

れて相手を拘束したくなる。

 そこまでわかっていながらも、今のアスカにはシンジへの募る想いを抑え

ることが出来なかった。

 

 それは、

 

 きっと、

 

 暖かさが感じられないから。

 

 目の前にシンジがいるときのあの温度。

 微かに匂うあの体臭。でも嫌いじゃない。ううん好き。

 どちらかというと中性的な柔らかいあの声。どもりがちの言葉。

 そして、誰も見ていないときだけ、その時でも滅多に握ってこない、少し

汗ばんだようなあの掌の暖かさ。

 見つめるといつも恥ずかしそうにそらすあの瞳。

 

 シンジがそこにいるというリアリティー。

 

 帰国した直後はシンジの方が積極的にアスカに連絡を取るようにしていた

が、今ではすっかり逆転していた。

 

 

 だからこそ、シャワーを浴び終えリビングルームに戻って母親のジェイナ

から声をかけられた時は、一瞬心臓が止まりそうな思いだった。

 

「あ、そういえば、今日アスカに碇君から荷物届いてたんだったわ」

 

「え!?」

 

「はい。これ」

 

 ジェイナから手渡された包みはそれほど大きくも重くもなかったが、受け

取ったアスカの手は少し震えていた。

 急激に速度を増した心臓の鼓動が外まで聞こえそうだった。

 思いっきり包装を引き裂いて中身を取り出したい衝動を抑えて、アスカは

深呼吸をして心を落ち着かせた。

 

 ………あいつが忘れるわけないじゃない。

 

「ありがとう、ママ」

 

 静かに椅子を引いてテーブルに向かうと、アスカはしばらくその包みに視

線を注いだ。

 ジェイナは、めずらしく神妙な様子を見せている娘を不思議そうに見つめ

ている。

 しばらくすると、意を決するようにアスカが包みに手を伸ばした。

 ゆっくりと、丁寧に包装紙をはがしていく。

 中から出てきたのは、落ち着いた赤を基調に黒と焦げ茶色でアクセントを

付けた暖かそうなマフラー。

 そして一枚の紙切れ。

 

 アスカは肌触りの良いマフラーの感触を左手で楽しみながら、おそらくシ

ンジからのメッセージと思われる紙切れに手を伸ばした。

 しかし、そこには期待していたようなシンジの言葉はなかった。

 アスカは首を傾げて、注意深くその紙切れに目をやる。

 

 見慣れた地名と数字の羅列。どうやら旅行の予定表のようだった。

 その中に赤い蛍光ペンで大きく四角に囲ってある部分をアスカは見つけた。

 日付は12月22日から12月28日。

 地名はここケルンを示していた。

 

 アスカはすぐにそれが意味することに気づいて、ぎゅっとその紙を握りし

めたまま頭を垂れた。

 そのままじっと肩を震わせる。

 しばらくすると、テーブルの向かい側でその様子を見つめていたジェイナ

の耳に鼻をすする音が聞こえてきた。

 

「大丈夫? なんて書いてあったの?」

 

 心配そうにジェイナが声をかける。

 

「あいつが……来るの……」

 

 ずずっと鼻をすすりながら、アスカは顔を上げた。

 

「バカシンジのくせに、かっこつけちゃって……」

 

 ほっとしたようなジェイナがティッシュをアスカに手渡す。

 それを受け取るアスカの顔は、涙と鼻水でくしゃくしゃではあったけれど

も、最高に美しい笑みを浮かんでいた。

 

 

 

           // 第二部 完 //



 

 これをもちまして第二部の終了とさせていただきます。m(_ _)m

 

 結局第二部終了まで一年以上かかっちゃいましたね(^^;)

 第三部はもう少しペースを上げるよう努力します。

 

 5月は研修でほとんど自宅を不在にしてますので、第三部は6月からの開

始となります。

 

 それでは、また第三部でお会いしましょう。

 



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