第参話 ココロ、コトバ、コダワリ(前編)

written on 1996/9/1



 日本に四季が戻ってきて5年が経ち、いまだ生態系に混乱が見られるとは
いえ、自然の生命力は今日も春の息吹を感じさせていた。
 もちろん純粋な自然の力だけではなく、成長促進剤を筆頭とするバイオテ
クノロジーの技術によるものであったことは言うまでもない。
 科学と自然の調和、あるいは、科学による自然の支配。
 表現する言葉は様々であったけれども、それがチルドレンが生きる世界。
 現実の世界であった。


 ぶわぁっ――――春風が桜の花びらを舞い散らせる。
 
 汗ばむ陽気の中、僕は陸上部の部室へ向かって走っていた。
 うっすらと汗が滲む額に張り付いた桜の花びらを払いのけると、心の中で
は逆に冷や汗を流す。

 入学式の時に言われた集合時間まであと1分しかない。
 遅れたらやっぱりグラウンド10周かな。それとも20周? 
 いやいや、いきなり汗くさい洗濯物を押しつけられるかも。

 典型的な体育会系のスタイルを思い浮かべて、僕はさらに足を急がせなが
ら悪態をつく。

 これも全部アスカのせいだ――――(ということにしておこうっと)


      *          *          *


 文学部B棟二階。222−A講義室。

 クロスオーバーだのサブカルチャーだの、概念的な言葉で煙に巻くような
授業だったので、僕は現代芸術史概論の最初の時間は窓の外ばかり見ていた。

 散りかけた桜がとても綺麗で、ちりんちりんと昔ながらのベルを鳴らして
人混みをかき分けていく自転車を見てたりすると、僕はとても穏やかな気持
ちになる。

 空の上から聞こえてくる飛行機の音。一直線に伸びる白い雲。

 アスカもこの大学のどこかで同じ音を聞いているのかなと思いながら、ふ
と視線を下に降ろすと、中庭にしつらえられたベンチに、いつのまにかカッ
プルが仲むつまじく―――仲むつまじく!?

 ――――そう。

 入学式以来二度目に見たアスカは、とても楽しそうにケンスケと話してい
た。

 嬉しさと同時に、僕の胸の中に、今まで感じたことのない痛みが走る。
 思わず目を逸らしたけれども、それは5秒ともたなかった。
 ケンスケの大げさな身振りに笑い転げるアスカから目が離せなかった。


      *          *          *


 「男の嫉妬はみっともないぜ、碇」
 「そ、そんなんじゃないよ!」

 五時限終了後、部活まで少し時間があった僕は、ケンスケと一緒に近くの
喫茶店にいた。
 どんな講義を取るのか相談する約束をしていて、その話が終わったあとに
僕は昼間のことをさりげなく――――聞いたつもりだったけれど、

 「惣流のとってるメディア文化学の講義でさっそく課題がでたって言うか
  ら、ちょっと相談にのってただけだよ。『自分の目で見た現実』を撮っ
  てこいだとさ。お前が気にするようなことは一切ないの」

 あきれたように話すケンスケの姿に、勢いで浮かせていた腰を、僕は慌て
て固い椅子に戻した。
 ほっとしている自分がなぜか恥ずかしくて、急に顔が赤くなったような気
がする。

 「だいたいどうして俺に聞くわけ? 
  そんなに気になるなら惣流に聞けばいいじゃないか」

 僕は無言で、空になったカフェオレのグラスの底をストローでつついた。
 
 「お前、ちゃんと話をしたりしてるの?」

 「……ううん。
  だって、その、学校じゃ全然会わないし……」

 「だったら電話すればいいじゃん。
  イインチョーだったら番号知ってるだろ」

 ぱっと顔を上げた僕は、もしかしたらとても嬉しそうな顔をしていたのか
もしれない。

 「そうだね。電話か。そっか……」

 「言葉にしないと伝わらないことって、意外とあるもんだぜ」
 
 ケンスケがちらりと腕時計に目をやった。

 「とゆーわけで、俺はさっそく合コンにいってくるからな。
  今日から3連ちゃんなんだよ」

 ケンスケの瞳がきらきらと(ギラギラかもしれない)輝いていた。
 
 「ケンスケ………変わったね」

 「そりゃそうさ。お前とトウジに当てつけられた中学時代。
  そして女っ気ゼロの工科学校。ついに巡ってきた我が世の春!
  おおっ、神は我を見捨てなかった!!」
 
 「………おおげさ」

 ボソリと呟いた僕の言葉に、ケンスケは醒めた視線を投げかける。

 「今の世の中これくらいノリが良くないともてないの。
  お前にはわからないだろうけどね。
  ま、今度誘ってやるから、楽しみにしといてくれよ」

 僕が遠慮しとくよと口にする前に、『コーヒーごちそーさん! 相談料と
いうことで、なっ』と言い残して、ケンスケは風のように去っていった。


      *          *          *


 そんなわけで僕は、集合時間の5分後に息を切らせて部室に辿り着くこと
になってしまったのだ。

 部室のドアを開けると予想していた汗くささはなくて、まだ真っ白い壁の
色が目に眩しかった。
 4年前に新設された大学だからか、部屋の中はまだまだ清潔で、僕は思わ
ず高校時代の部室と比較してしまう。

 キャプテンは蓮羽(ハスバ)さんと言って、入学式の時、最初に僕に声をかけ
てくれた人だった。
 遅れてきた僕に小言を言うわけでもなく、眼鏡の奥から投げかけられる優
しい眼差しに、何だか好感を持てそうな気がした。
 この大学の一期生、すなわちこの陸上部の創始者でもある4年生の先輩達
は、苦労しただけあってか、とても理解のある人たちに見えた。

 「いやー嬉しいね!
  今時、陸上なんてするヤツは、根暗かナルシストしかいねーってのに」

 砲丸投げをやってるという石上さんのこんな言葉も、同じアスリートとし
て歓迎してくれてるんだとわかる。
 僕をこの陸上部に誘ってくれた桐丈さんも、あいかわらずの軽い調子で、
僕にしてはめずらしく、すんなりと新しい環境になじめそうだった。
 部員は全部で18人。
 4年生が6人、3年生が5人、2年生が3人、そして僕たち新入生が4人
だった。
 簡単に自己紹介を済ませた後、さっそく練習にはいることになった。


 喉が渇いていた僕は、トレーニングウェアに着替えると、小走りに水飲み
場に向かっていた。
 そこには紅一点のマネージャーの人――――確か柿崎さんと呼ばれてて、
同じ新入生だったはず――――が居た。
 どこかで見たことがあるような気がしたけれど、なんとなく声がかけづら
くて、僕は無言で隣の蛇口を捻る。
 彼女はスポーツドリンクを作りながら、ちらりと僕の方を見ると、

 「どもっ、柿崎優梨です。よろしくね。ユウシュウのユウに果物のナシを
  書いて、ユウリって呼ぶの。ユリじゃないからね」

 ショートボブの黒髪。印象的な大きな瞳。
 人なつっこい笑顔をする人で、僕はふとマヤさんを思い出してしまった。
 
 「あ、こちらこそ、よろしく。碇シンジと言います」
 「知ってるわ。惣流さんの友達でしょ?」
 「え? あれ? アスカの友達?」

 この時になって僕はようやく、どこで見た顔なのかを思い出した。

 「あ、入学式の時アスカと一緒に歩いてた………?」
 「うん。同じメディア科なの。碇君のこと、少しだけ彼女に聞いてる」
 「そうなんだ………アスカ、僕のこと何か言ってた?」
 「高校の時同じクラスだったって」
 「それだけ?」
 「ええ、それだけよ。
  でもアスカって呼び捨てに出来るほど、仲いいんだ」

 彼女がくすりと笑ったような気がして、僕は慌てて蛇口を止めた。

 「あっ、いやっ、これは、その、アス……
  いや、惣流がそう呼べって言ったから」

 彼女は視線を僕からはずすと、同じように蛇口を止めた。

 「ふ〜ん。ま、そーゆーコトにしといてあげるね。
  ところで碇君、専攻はなにとってるの?」

 話題がそれたことに僕はちょっとほっとして、

 「芸術科なんだけど、まだ専門は何にするか決めてないんだ」

 「どうして芸術科を選んだの?」
 
 彼女の問いかけに、何度も考えたことを言葉にする。
 
 「別にこれといった目的があった訳じゃないんだけど。
  ただ、僕がずっと続けられた数少ないモノの一つだったから、ちゃんと
  勉強してみると面白いのかなって」

 「そう。私は全然ダメ。
  何かやりたいコトを見つけに来たって感じだもん」

 その時、グラウンドの方から桐丈さんの声が飛んできた。

 「碇、ランニングに行くぞ。いちゃいちゃしてねーで早く準備しろっ!」

 「な、なに言ってるんですか! 
  誰もいちゃいちゃなんかしてませんよっ!」

 顔を赤くして慌ててグラウンドに飛び出していく僕の背中に、柿崎さんの
笑い声が飛んできた。
 
 「先輩のイジメなんかに負けちゃダメよ〜っ!」

 僕は彼女に軽く手を挙げると、にやにやとした顔で待ち受けている桐丈さ
んの元へ走っていった。
 
 たぶん次に言うセリフはこれだ――――

 
 「乗り換えるんなら、アスカちゃん、俺に紹介してくんない?」


                         ――――やっぱり。

 とりあえず、部活は楽しくなりそうな予感がした。

<後編へ続く>



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