第参拾壱話  7th day - Matane! -

written on 1999/7/3




 他人を受け入れるということは、少なからず苦痛をともなうことなんだ。

 それは世界が自分の思い通りにいかないことばかりだということを、
 自分が正しくないってことを。
 夢ばかり見てるってことを、
 真実ってものがないことを、
 認めなければならないから。

 他人はしょせん他人であって、お互いのすべてを分かりあえる関係なんて
存在しないんだという事実を認めなければ、他人を受け入れることなんてで
きない。

 けれど。
 他人に対しては自分を完全に理解して欲しいと願う。
 自分が心の底でなにを考えているのか、話す言葉の裏に隠されている本意
を、気持ちと裏腹の行動を。
 自分のすべてを理解し、自分という存在をすべて肯定して欲しい。
 そう願う。

『わかってくれた?』

『ぜんぜんわかってくれないじゃない!』

『わかってよ!』

『わかんないわよ!』

 アスカとこんな口論ができるようになったのは最近のことだ。
 それは、つまり、お互いを受け入れようとしてぶつかりあっている証拠な
んだろう。


 アスカのほっぺたにはじめてにきびを見つけたとき。
 僕は少しだけ落胆すると同時に彼女に少しだけ近づけたと感じた。
 にきびのできない人間なんている方がおかしいんだから。

 アスカの右足の小指の爪。妙な形に割れていてあんまり綺麗じゃないって
ことに気づいたのは最近のことだ。
 他の指は綺麗だったけど。

 アスカが他人の悪口を言うときに辛辣なのは、きっと自分にも言い聞かせ
てるからなんだろうと思っていたけど、本当はもともと性格が悪いところあ
るんだってわかったとき。
 また少しだけ彼女のことを理解できたような気がした。
 彼女はこうあるべきだと、自分に都合良く解釈していただけなんだ、きっ
と。

 もうひとつ。これだけはいまだに理解できないこと。
 弱いものに対する感情の欠如。
 ある日のデートの帰り道、道端に捨てられた子猫を抱き上げようとした僕
の様子を見て、アスカが顔をしかめたことは忘れられない。
 もちろん服が汚れるのは僕も嫌いだけど、その前に感じることが他になか
ったのだろうか。
 それとも。
 どうせ面倒を見ることができないんだから最初から優しくしない方がいい
と思っていたのかもしれない。

 と、こんな風に良心的に解釈してしまうのは、まだ彼女に幻想を見てるか
らかもしれないと考えると、なにもかもわからなくなる。


 とにかく。
 まともにアスカのことを見ることができるようになったのは、そんなに遠
い昔のことじゃない。
 それまでもあったはずのものが、ようやくちゃんと見えてきた。
 次に僕がちょっとだけ落胆し、また少しだけ近づいたと感じるのはいつだ
ろう。
 僕が彼女を落胆させ、そして少しだけ近づけたと感じてもらえるのはいつ
のことだろうか。
 当たり前のことを当たり前にしていきたい。

 僕はドイツに来て、久しぶりにアスカに会って、あらためてこう思った。



        *        *        *



「準備オーケー?」

 アスカの声が後ろから聞こえてきたのは、待ちくたびれて二回ほど靴紐を
結び直した頃だった。
 振り向くと彼女が口元をにやにやさせながら玄関に向かってきていた。
 さっきまでジェイナさんとこそこそ話をしていたので、どうせまたなにか
悪巧みしているに違いないと、僕はじろっと見つめた。

「なに?」

 アスカはなにもなかったように、靴を履こうと僕の隣に腰を下ろそうとし
た。
 その瞬間、アスカの顔がびくっと引きつって動きが止まる。

「……っつ」

「まだ痛い?」

「死ぬほど。あんたは大丈夫なの?」

「きちんとマッサージして寝たからね。アスカすぐ寝ちゃうからだよ」

「だって眠かったんだもん。運転するのって疲れるんだから」

「わかってるけど。今日はちゃんとマッサージした方がいいよ。少しはマシ
になると思うから」

「ん。わかった。それよりもほら、早くしなさいよ。遅れたらどうするの」

 お土産で膨れ上がった荷物を持ち上げようとしている僕を、容赦なくアス
カがせかす。

「遅れたのはアスカのせいじゃないか。……ったく。飛行機に乗り遅れたら
どうすんだよ」

「帰るの明日にすればいいじゃん」

「ま、それも悪くないけど……って、あのねー。こっちだって都合ってもん
があるんだから」

「どうせ帰ったって寝正月なんでしょ」

「今年は冬月さんに家にこないかって誘われてるんだ。行かないわけにはい
かないよ」

「お付き合いってやつ? やーね」

「そんなんじゃないって。わかってるだろ」

「……ごめん」

 いつものクセで反射的に言葉が口をついて出たのか、ばつが悪そうな顔を
するとアスカは玄関のドアを開けた。冷たい空気が流れ込んでくる。
 そのとき後ろから声がした。

「忘れ物はないわよね」

 いつの間にかジェイナさんが玄関まで顔を出していた。

「あ、はい。いろいろとお世話になりました」

「いいのよ。賑やかで楽しかったわ。また遊びにきてちょうだい」

「ありがとうございます。日本にもぜひ遊びに来て下さい。歓迎します」

「ええ。そうさせてもらうわ」

 僕はジェイナさんと軽く抱きあって別れの挨拶を済ませると、アスカの待
つ玄関の外へと足を踏み出した。

 その瞬間、気温以上に寒く感じたのは気のせいではなかったのだろう。
 いつも陽気な笑い声とうるさいほどのおしゃべりに満ちあふれたこの家は
僕にとってもいつの間にか居心地のいい空間になっていた。
 その場所から去ることに僕は寂しさを感じていたに違いない。

 さようなら。

 そして、またいつか。

 僕はそっと玄関のドアを閉めると、道路の側で背中を丸めて寒そうに突っ
立っているアスカのもとへ走っていった。



        *        *        *



 雪は今日も激しく降っていた。
 空港まではそんなに近いわけじゃないので、アスカには見送りを駅までに
してもらった。
 短い滞在だったけど思い出に残っている町並みを眺めながら、バスに乗っ
て二人で駅に向かう。
 駅に着くと空港直通の列車の出発の時間はもうすぐで、ゆっくりと別れの
時を過ごす時間もなかった。
 素早く切符を買うと改札口へと歩く。
 その間アスカはずっと僕の後ろをついてくるだけで、ほとんど口を開くこ
とはなかった。
 ときどき盗み見すると、一人でにやにやと笑っていたりしてちょっと不気
味だ。理由を尋ねてみてもはぐらかされるばかり。
 問い詰める暇もなく出発が近いことを知らせるアナウンスが流れる。

「あ……。もう行かなきゃ」

「急がないと遅れるわよ」

「うん。それじゃ」

 別れ際に交わした言葉はそれだけだった。
 改札口を抜けて振り向くと、アスカはダウンジャケットのポケットに腕を
突っ込んだままじっとこっちを見ていた。
 黒のダウンジャケットに濃い焦げ茶色のズボンと、アスカにしてはかなり
地味な服装だ。
 毛糸の帽子から伸びている栗色の髪は腰の近くまで届き、昔のようにずい
ぶん長くなっていた。
 表情はとてもおだやかだ。
 まるで僕を安心させるかのように微笑みを浮かべている。

 僕が軽く手を振ると、アスカもポケットから手を出して胸の前で小さく横
に振ってくれた。
 これでしばらく会えないのかと思うと少し足が重くなったけど、発車のベ
ルに促されるように僕はホームへ向かって2,3歩、歩きだした。
 と、その瞬間。

「またね!」

 アスカの大きな声が背中に飛んできた。
 振り返るとアスカが改札口から身を乗り出すようにして、笑顔を僕に向け
ていた。
 その笑顔を何度も振り返りながら僕はホームに向かった。

 そして最後にアスカに向かって大きく手を振ると列車に乗り込んだ。

 悲しくはなかった。

 寂しくもなかった。

 次に会う日のことが楽しみで、自分でも不思議なほど心が弾んでいた。


 そのとき僕には確かに未来が見えた気がした。


                              

Fin.


 

 



 

 ようやく第三部の終了です。なんと一年もかかっちゃったんですね(^^;)
 私の悪い癖ですが、今回もまた視点が変わり、シンジ君一人称になってし
まいました。やっぱこっちが書きやすいかな。
 あっさりめのお別れでしたがこれにてドイツ旅行も終了です。
 みなさん長い間お付き合い下さりありがとうございました。
 第四部でお目にかかれる日を楽しみにしています。

 



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