第六話 「好き」のベクトル(前編)

written on 1996/10/10




 2020年の六月は、20世紀と同じように梅雨の季節だった。

 降り注ぐ小雨の中、シンジは一人黙々とトレーニングを続けていた。
 身体に理想的なストライドを刻み込むための単調な反復作業。
 跳ね上がる泥で背中にはまだら模様ができている。
 感覚で跳ぶ天才肌の桐丈に比べ、シンジはどちらかというと努力の積み重
ねによって実力を発揮するタイプだった。
 彼自身もそのことを良く理解しており、毎日一番最後まで残って練習を重
ねるのは、やはり彼であった。

 相変わらずスポーツ後進国である日本。
 走り高跳びで食べていける選手は、もちろん一人としていない。
 先進国の中でもセカンド・インパクトの影響が少なかった日本は、他国に
比べ以後も豊かな生活レベルを維持することが出来た。
 つまりスポーツに人生を賭けなくとも、平和で人並みの生活が約束されて
いる世の中。
 アフリカの選手がスポーツ界を席巻し、シンジにとっても世界の壁は明ら
かに手の届かない場所にあった。
 彼にとってハイジャンプは、純粋に自分への挑戦であり、自分だけの力で
何ができるかを証明する手段であった。

 次第に雨が強くなる。
 拭っても拭っても額からしたたり落ちてくる、汗と雨の混じった滴。
 最後の1セットを終えたので、シンジは腕に付けたダイバーズウォッチの
タイマーを一瞥した。
 練習を終える予定の時間は、5分ほど前に過ぎていた。

 びしょぬれになったタオルを拾い上げ、シンジは足早に部室へ向かった。

      *          *          *

 柿崎優梨は、ぼんやりとロッカーを見つめていた。
 視線の先には白いネームプレートがある。

 碇シンジ……君か。

 彼が初めて県大会で優勝した高校二年生の夏。
 あの瞬間は、今でも鮮やかに思い出すことが出来る。
 わたしに再び空を見せてくれた人。
 まさかこんなところで会えるなんて思ってもみなかった。

 それにしても……

 スチール製の机に突っ伏して、わたしは小さく溜息をついた。
 突然、降って湧いたようなチャンスが手に入ったのは嬉しかったけれど、
栗色の髪を持つ友人の顔が瞼の裏にちらついて離れない。
 
 はぁ……どうしたらいいんだろ……

 また一つ溜息がでた瞬間、突然部室のドアが開いた。
 びっくりして顔を上げると、驚いたような眼差しと声が飛んでくる。

「あれ? まだ帰ってなかったんだ」

 碇君……

「うん。ちょっと部室の整理してたの」

 ごく自然に口をついて出た嘘に、わたしは嫌悪感を覚えて、視線を床に落
とす。 
 碇君はちょっと不思議そうな顔をしたけれど、
「ご苦労さま」
 と、いつもの優しい声。

 スパイクの音が止んで、次にわたしが顔を上げたとき、彼はロッカーのド
アを開けるところだった。
 彼の足下には、水滴がぽたりぽたりと落ちて小さなシミを作っている。
 濡れたトレーニングウェアが肌に張り付いて、身長の割に華奢な身体のラ
インがはっきりとわかる。
 無駄のない筋肉。ハイジャンプの選手としては申し分のない身体。

 すごく綺麗……

 背中に注がれている視線なんて全然わかってない彼は、ロッカーから新し
いタオルを出して髪を拭き始めた。

「マネージャーも色々と大変だよね」

 その言葉に、わたしはいつもと変わらない調子で答える。

「もう慣れちゃったから」

「柿崎さんって、手際が凄く良いけど、高校の時もやってたの?」

 知らないのも当然……よね。
 わたしはずっと前から知ってるのに。
 
「ちょっとだけね……」

 髪を拭く手を止めて、突然彼が振り向いた。
 真正面から向き合う形になり、わたしの身体は固まる。
 口が、開かない。

「あ、あのさ、着替えたいんだけど……いい、かな?」

 彼が少しうつむき加減で言いにくそうに、言葉を絞り出した瞬間、わたし
の呪縛がとけた。

「ご、ごめんなさい! 気が付かなくって」

 わたしは顔を真っ赤にしてあたふたと椅子から立ち上がった。
 でも、すごく慌ててたので、机を回り込んだ拍子に角に腰を打ち付けてし
まう。

「あいたたた……」

「大丈夫?」

 心配そうに碇君が駆け寄って来てくれたけど、度重なる醜態に、わたしは
恥ずかしくて彼の顔を見ることが出来なかった。

「も、もう、帰るから」

 わたしは机の上に置いていた鞄をひったくるように掴むと、飛び出すよう
にその場から逃げ出す。

「え? あ、うん、じゃ、またね」

 たぶんその時の碇君は、へんなモノでも見るような目つきでわたしを見て
たに違いない。

 小雨のぱらつく空の色と同じくらい憂鬱な気持ちを抱えたまま、わたしは
家路を急いだ。
 そして家の近くの商店街にたどり着く頃になって、ようやく彼に大事な用
事を言い忘れていたことに気がついた。

      *          *          *

 今日は金曜日。
 僕はカレンダーを確認して、再び電話機を見た。

 部活を終え、夕食をとった後、自宅へ帰ってきた僕は、ベッドに疲れた身
体を横たえていた。

 あのドライブから始まった金曜夜の電話。
 どちらからというわけでもなく、自然と交互にかける習慣になって。 
 機関銃のようにしゃべっては、ころころと笑い転げるアスカ。
 僕はもっぱら聞き役だったけど、アスカの声を聞いてるだけで楽しかった
し、嬉しかった。
 アスカが好きなコト。嫌いなコト。
 何を考え、何をしようと思ってるのか。
 大学ではなかなか顔を合わせることが出来ない上、アスカはバイト、僕は
部活で忙しい毎日。
 1週間のブランクを埋めるようにアスカはしゃべる。
 たわいもない内容だったけど。
 それは、僕たちに必要なことだった。

 プルルルルルル

 今日はそんな金曜日の夜。
 いつものようにかかってきた電話に、僕はすかさず手を伸ばした。
 少しわざとらしいくらいの声で、自分の名前を告げる。

「はい。碇ですけど」

「あっ、えーと、碇君? わたし、柿崎だけど、マネージャーの」

 予想外の人物に僕は面食らった。
 部活の連絡かなとも思ったけれど、陸上部の連絡網は電子メールがほとん
どで、余程の急用でないと電話は使われない。
 だから、僕は続けて聞いた。
 
「柿崎さん? こんな時間にどうしたの?」

 といってもまだ9時だったけど。
 
「ごめんね。ちょっと頼み事があるんだけど、部活のことで」

「なに?」

「実は明日ね、部活で使う道具を買いに行くことになってるんだけど、わた
 し一人じゃわかんないことが多くて困ってるの。
 それで先輩、あ、桐丈先輩に話してみたら、碇君を連れてけって。
 明日の部活休んでもいいって、部長の了解ももらってあるんだけど……」

 また僕に雑用を押しつけて!
 と、心の中で桐丈先輩に悪態をついたけれど、マネージャーだからといっ
て全部柿崎さんにまかせるのも悪いと思って、僕は明るく返事をした。

「うん。別に構わないけど。部長の許可もあるんだったら」

「ほんと!? たすかるわ〜。
 碇君なら断ったりしないだろうと思ったけど、ね。
 じゃ、明日、10時に駅前ってことで、いいよね?」

「えっと、10時……ね。うん。わかった」

「じゃ、明日! 絶対遅れないでね!」

 言うなりガチャンと、電話が切れた。
 何を慌ててるんだろうと思ってたら、再び電話が鳴りだした。
 びっくりして受話器を取ると、それはいつものようにアスカだった。

「ハーイ、シンジ! 今電話してた?」

「え!? あ、そ、うん、そうだけど。ちょっと部活の連絡があってさ」

 別に相手が誰だったかを隠すつもりではなかったけれど、僕は何故か曖昧
な返事をしてしまった。

「ふ〜ん。相変わらず忙しいのね。
 あ! そんなことよりね、ちょっと聞いてよぉ。
 今日ヒカリと鈴原の奴がさぁ……」

 いつもの調子でしゃべりだすアスカ。
 今日も長くなりそうな予感がして、僕はベッドに横になった。

      *          *          *

 土曜日。午前9時50分。駅前広場。
 
 あっ、碇君だ。
 ど、どーしよ。
 髪、ヘンじゃないよね?
 服、そんなにセンス悪くないよね?
 お姉ちゃんにも悪くないって言われたし、大丈夫だよね。

「おはよう」
 
「おはよ。天気良くなってよかったわね」

 当たり障りのない会話。
 これが今のわたしの精一杯。

「じゃ、行こっか」

      *          *          *

 土曜日。午前11時30分。某ラジオ局。

 ロビーでタバコをふかしていた長身の男が、奥の廊下に走り去る女性の後
ろ姿を追っていた。
 
「お? なっ、あの娘、ほら、今奥にいったあの可愛い娘、誰?」

 側にいたもう一人の男が答えた。

「ん? あ〜、あの娘。相変わらず目ざといッスね。
 参大の一年生で、惣流・アスカ・ラングレーって名前です。
 ドイツと日本人のクオーターだそうッスよ。
 見ての通り、すっごい美人なんですけど。あれが固い固い。
 今まで何人も撃墜されてて、付いたあだ名が撃墜王」

 そう言って、にやけた笑みを浮かべた男に一瞬だけ侮蔑の視線を注ぐが、
そんなコトはおくびにも感じさせず長身の男は快活に笑う。
 
「なーに、言ってんの! 仕事、お・し・ご・と。
 あの娘は使えるよ。少し話させてくんないかな」

 それから10分後。
 2Fのカフェテラスで、アスカは丸眼鏡とブランド物のスーツに身を包ん
だ男と向き合っていた。
 軽い口調とは裏腹に、瞳の奥に潜む自信。
 いわゆる「業界人」という言葉が似合う男だった。
 慣れた手つきで差し出された名刺には、アスカでも名前を聞いたことがあ
るタレント事務所の名前があった。
 男は5分ほど当たり障りのない会話を続けた後、トントンと2回指で机を
叩いた。

「キミは頭がいいみたいだから、単刀直入に言おう。
 とりあえずモデルから。それから歌を出して、女優って線で。
 つまり、キミはボクにそのタレントを預ける代わりに、
 優越感とお金を受け取ることが出来る。
 いわゆるビジネスってヤツさ」

 男は黙ってアスカの言葉を待った。

「……ふうん。面白そうじゃない」

<後編へ続く>



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