第七話 「もう、独りじゃない」(Aパート)

written on 1996/11/10




 さきほどまで降り続いていた雨が止み、雲の隙間から明るい日差しがのぞ
く金曜日の午後。
 シンジは足早にアスカのマンションへ急いでいた。

 今日はさぼれない講義が続き、4時限目が終わると同時に、ようやくシン
ジは大学を飛び出してきた。
 もちろん部活には休みの届けを出してある。
 アスカはバイトを休んで、午後からマンションで準備中。
『夕方からでいいわよ』と言ったアスカの言葉に強く反対して、シンジはア
スカの手伝いに行くことにしていた。
 ケーキの作り方に興味があるから、と照れ隠しに言ったものの、ちょっと
でも長く一緒にいたいというのが二人の本音。
 言葉少なに『ウン……待ってる』とつぶやいたアスカの声を思い出すと、シ
ンジの足は知らず早まる。

 10代最後の年――――といっても、シンジにはそれほど感慨深いモノが
あるわけではない。
 ただいつの間にか一つ年が増えるだけ。
 今までの誕生日はそうだった。
 時々トウジやケンスケといることもあったけど。
 そんなときも、せいぜいその場の話のタネにされる程度だった。

 そう、これまでは――――


      *          *          *


 アスカの住むマンションは、山手の閑散とした高級住宅街の一角にあった。
 オートロックの入り口をアスカに教えられたパスコードで開けると、木目
調の内装が美しいエレベーターを上がり7階へ。
 アスカの部屋のドアの前までたどり着くと、シンジは大きく深呼吸をして
インターホンのボタンを押した。

「は〜い」

 と、ドアの向こうから微かにアスカの声。
 ぱたぱたと次第に足音が近づいてきて、プシュウと開いたドアの向こうか
らアスカが顔を出す。
 ジーンズにTシャツ、チェックのエプロンと、いたってシンプルな服装。
 そして、無造作に後ろで束ねた髪が、いつもより一段と活動的な印象を受
ける。

「早かったじゃない。ほら、上がっていいわよ」

 こぼれるような笑顔でアスカはシンジを迎えた。

「おじゃまします」

 シンジは女性の部屋に一人で上がり込むという軽い緊張と、自分を迎え入
れるアスカの姿に馴染めない不思議な感覚を覚えながら、靴を脱いでフロー
リングの床に足を進めた。

 話には聞いていたが、アスカの部屋はシンジの想像を上回る立派さだった。
 明らかにヨーロッパ風を意識した内装。
 独りで住むにはあまりにも広すぎる部屋の大きさと数。
 シンジはきょろきょろと視線を動かしながら、アスカの後に続く。
 
 僕の部屋とは比べモノにならないな。
 家賃、いくらなんだろ………

 そんなコトを考えているうちに、突き当たりの部屋にたどり着いた。

「とりあえず荷物置いて、ゆっくりしてて。飲み物持ってくるから」

 アスカはクッションの方に顎をしゃくると、隣の部屋――――おそらくキ
ッチンに姿を消した。

 辺りには甘い匂いが漂っていた。
 朝練の前に時々買いに行くパン屋さんに似た匂い。
 シンジは大きくその匂いを吸い込むと辺りを見回した。

 この部屋はリビングになっているようで、部屋の中央にはガラスのテーブ
ルが、そして壁際のサイドボードにはTVやコンポが一通り揃えてあった。
 ふわふわとして気持ちいい淡いクリーム色のカーペット。
 そして大きなガラス窓からは、薄曇りの日差しが差し込んでいた。
 シンプルで飾り気はないが、暖かい色調でまとめられた内装や家具に、シ
ンジは気持ちが落ち着くのを感じる。

 アスカの部屋か……

 同居していた頃でさえ、シンジはアスカの部屋に入ったことは数えるほど
しかなかった。それも掃除をさせられる時がほとんどだった。
 最後にアスカの部屋を見たときも、すでに彼女がネルフに保護されていた
後で、荒れ放題の部屋に心を痛めたことを思い出す。

 でも今は、生活の匂いがして、アスカの匂いがして。
 こんなにも普通の人生が過ごせるようになった自分と、そしてアスカ。

 シンジは、両手をぐっと高くあげて背を伸ばすと、そのまま柔らかいクッションに身を預けて微笑んだ。


      *          *          *


 それから10分後。
 シンジはアスカとともにキッチンに立っていた。
 二人並んでも余裕があるスペースに、シンジが目を丸くしたことは言う
まもない。

 すでにケーキはオーブンにかけられ、アスカは次の料理を作る準備をして
いた。
 シンジはケーキ作りの現場を見損ねて多少残念がったが、アスカから借り
たエプロンを付けると、気を取り直してシャツの袖をぐいっと捲し上げて尋ねた。

「今日は他に何を作るの?」

 アスカは色とりどりの材料を指さしながら、ちらっちらっとシンジの顔色
を窺う。

「パスタとサラダと、それから、チキンの唐揚げなんだけど……嫌いなモノ
はないわよね?」

 好き嫌いは一切無いと言っても良いシンジは頷く。

「じゃ、シンジはとりあえず野菜を切って」

 アスカに促されてシンジは包丁を手に取ると、手際よく目の前に積まれて
いる野菜を切り始めた。
 すぐにアスカの耳にリズミカルな音が届く。

「はぁ〜……一段と上手くなったわねえ。
 あんた、それで食べていけるんじゃないの?」

 シンジの手慣れた包丁さばきに、アスカは目を丸くする。

「はは。小さい頃から自分で作ってたから、イヤでも上達するよ」
「ミサトんトコに来る前もそうだったの?」
「うん。お世話になってた先生も、早くに奥さんを亡くしちゃってさ。よく
僕が料理してたんだ」
「どうりで……。初めて見たときも、男の子のくせに生意気なくらい上手
だったもんね」

 アスカは納得したように頷くと、自分の担当である唐揚げの下ごしらえに
取りかかった。
 ブロックで買ってきていたため、まずは食べやすいサイズに切り揃えると
ころから始める。
 もちろんアスカも普通の女の子以上の腕は持っていたが、シンジにしてみ
れば危なっかしく思えるのだろう。
 しばらくはアスカの手つきを横目で眺めていたシンジだったが、我慢でき
なくなったのか、ふと手を休めて口を開いた。

「その切り方だと、ちょっと………いい?」

 シンジはアスカが頷いたのを確認すると、何気なく彼女の左手に、自分の
左手を重ねた。
 アスカの肩がピクリと震えたのにシンジは気づかない。

「ここは、こんな感じで抑えて……あ、あまり力入れちゃダメだよ」

 熱心に教えるシンジに対して、アスカは逆に緊張して上手く包丁を扱えな
くなってしまう。
 おかげでますますシンジの講習は熱が入り、自分の調理はそっちのけでア
スカにアドバイスを続けた。
 そしていつの間にか、シンジはアスカを後ろから抱きしめるようにして、
彼女の右手にも自分の右手を回していた。

「ほら……そうそう! すっと引くときに……」

 シンジの両腕の中にすっぽりと包まれる体勢になって、アスカは無言でじ
っとシンジの教えるままに手を動かしていた。
 耳元のちょっと上からシンジの言葉が降ってくる。
 時々ふきかかる息が妙にこそばゆくて、アスカは身体が熱くなるのを感じ
ていた。
 シンジの体温が背中から伝わってきて、アスカの鼓動はぐんぐん高まる。

 そして両手を包む暖かい手――――

 シンジの手って、こんなに大きかったんだ……

 いつも張りつめている気持ちが解放されるような安心感。
 全てを忘れて寄りかかりたくなる衝動。

 アスカは、後ろを振り返ってシンジの顔を見つめたい欲求に何度も襲わ
れた。


 熱心に教えていたシンジの方は、しばらくしてようやく鼻孔をくすぐる薄
い香水のような香りに気が付いた。

 なんだかいい匂いがするな………って、ああああ!!!!
 
 シンジの身体は固まった。
 知らぬ間にアスカを後ろから抱きすくめる格好になっていたことに、シン
ジはようやく気づく。
 アスカを頭の上から見下ろすような体勢。
 昔はほとんど同じくらいだったアスカの身体も、今ではすっかり小さく見
える。
 リンスの匂いがする髪も、柔らかい線を描く肩も、すべすべして細長い指
も、全てが魅力的だった。

 アスカって、こんなに小さかったっけ……
 
 後ろで束ねられたアスカの髪の毛が首筋に当たって、シンジは心地良いく
すぐったさを感じていた。

 いつも全力で、どこか張りつめた空気さえ感じさせていたアスカの生き方。
 その陰で傷つき、疲れ果てていった彼女の心を知っているシンジには、少
しでもその支えになれたらと思う気持ちが、ずっと昔から芽生えていた。
 その彼女の小さな身体が、今、両手の中にある。

 全てを忘れて抱きしめたくなる衝動。

 シンジは、いい香りのするアスカの髪の毛に手を滑らせたい欲求に何度も
襲われた。


 一瞬、二人の動きが止まる。
 静寂が辺りを包み込む。


 ……ゴクッ


 緊張のあまり、シンジが思わず唾を飲み込む。

 そして耳元で鳴ったその音は当然のようにアスカも聞こえてしまって。
 さっきまで一言も口を開けなかったアスカは、突然金縛りがとけたかのよ
うに、頬を赤らめながらも、トンとシンジの鳩尾に軽く肘うちをしてつぶや
いた。

「いま、ヘンなコト、考えたでしょ」

 アスカお得意の、意地悪そうな声と視線。

「え? あ、いや、その、ちがっ!」

「あ〜あ、シンジだけはそんなヤツじゃないと思ってたのに」

 耳たぶが赤いおかげで説得力は皆無だが、アスカは出来るだけ嫌悪感を露
わにして言った。

「だ、だ、だから、違うって! ほら、ちょっと喉が乾いて!」

 ばっ、とシンジがアスカから1mばかり飛び退く。

「べっ、別に、そんなんじゃないからっ」

 慌てふためくシンジを見て、くすくすとアスカは笑う。

「嘘よ。シンジのことは、あたしが一番知ってるから」

 その言葉を聞いて、ようやくシンジの顔に安堵の色を浮かんだ。
 どこかひきつったような笑い顔で、自分の持ち場へと戻る。

 アスカはそんなシンジの様子を見て、一瞬だけ不満そうな表情を浮かべる
とうつむいた。

 わずかな沈黙の後、アスカは床に視線を彷徨わせながらつぶやく。
 隣にいるシンジに聞こえるか聞こえないかの小さな声。
 自分の心にささやくように。
 誰かの心に伝わるように。
 小さく。
 強く。

「シンジ………もっと、教えて………よ」

<Bパートへ続く>



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