『ラスト・シナリオ』

いもちん


-1-

 からん―――

 石が落ちる。
 高い場所から飴玉程度の瓦礫が落ちる。
 それはひび割れたフロアの跡に甲高い音を立てて小さく三つに砕けた。

 音が響く。
 今まで無音だった空間に響く。
 ホンの十数日前まではざわめきと熱気が入り乱れる空間だった場所に。
 今は瓦礫と動かなくなった人形の山に埋もれている場所に。

 動くモノは死臭を嗅ぎ付けたネズミと、黒色に変化した肉に這いずり回る
大量の白い小さな生物に、その成長過程を終えた蠅がブンブンと羽根の音を
立てているだけだった。
 それしか僕の眼には写らなかった。

 たった1人の異性を残して―――


 びちゃびちゃ―――

 嘔吐。
 目の前に置かれた状況に慣れるまでのちょっとした作業。
 中身の無い胃液が足下の褐色に染まったひび割れた床を汚す。
 剥がれた塗装と歪んだ文字が、融けた壁に「立入禁止」を描いている。
 その波打ちだった表面には数本の枝がインテリアとして生えていた。

 人の腕。
 そう‥‥人の足が、顔が、身体が、融け固まった壁に埋まっていた。
 中には叩きつけられたかのように肢体を四散させ、めり込んでいる煤けた
骨もあった。その先には手羽先のような焦げ付いた生皮が、風も吹かないこ
の空間でぶらぶらとだらしなく垂れ下がっている。
 わずか数メートルの幅しか残らなかった元司令所のこの一片の欠片となっ
た壁に、聞こえない叫びと共に張り付く骸の数は10は下らなかった。
 今はただ、突き出した手や崩れた顔がまるで何かを求めているように、今
はもう阻むモノはない巨大な穴の開いた天井を指していた‥‥。

 ―――!

 僕はその壁の中の群衆に紛れ込んでいる一人の人物を見つけ、そして驚い
た。
 僕は沈黙の侭、その亡骸に近づく。
 その人は全身の半分を壁に預けていた。
 綺麗に縦に割られた身体を斜めに預けていた。
 そして自慢だったのかもしれない濃い顎髭の跡を残した顔が、赤い鮮血と
灰色の粒を浴びて、同じ様な化粧をした壁に張り付いていた。
 その顔は穏やかだった。
 恐怖に怯えていた亡骸が多い中、実に穏やかな表情をしていた。
 そして閉じた瞼から流れ乾いた赤い滴が、何かを物語っているようにも見
えた。

 僕はその人の変色した痩けた頬に触れる。
 崩れる肉。
 中からこぼれる白い生物。
 そして覗ける人を象る為の白い基。
 手の平に残るブヨブヨとした肉片。
 握りつぶす僕。
 嫌な音。
 そしてその変わり果てた男の姿を僕はしばし見つめていた。
 呟きと共に溢れてくる涙。嗚咽。そして聞こえない、答えない尋問。
 男は変わらぬ表情の侭、蝕む幼虫に身を任せていた。
 延々と。

 その後、近くにあった瓦礫の中から眼鏡を見つける。
 眼鏡は殆ど原型を留めておらず、高熱で産み出された湾曲の塊になってい
た。それを僕は骸の側に置く。
 持ち主の側に。

 ―――さようなら‥‥父さん。

 僕は瓦礫をかき分け、その場を去った。
 振り返ることなく彼女の元に戻った。


「父さんも見つけたよ‥‥」
「そう‥‥」
 僕は崩れた柱に寄りかかる彼女にそう報告した。
 彼女も慣れたのか、素っ気なく返す。
 栗色の長い髪を乱した侭の彼女は、埃と泥で古ぼけてしまった赤いプラグ
スーツに包まれ、生気のない表情と虚ろな眼を荒れ果てた底を見つめていた。
 そう。
 人類の知識を結集した特務機関の跡地‥‥ジオフロントという壺の底を。

 ―――いったい何が起きたんだ‥‥。

 遙かな天を見上げ、僕はそう考える。

 あらゆるモノが吹き飛んだ周囲。
 何重にも組み合わされた天井を象った装甲は、今は一欠片も無く、ただ遙
か彼方の褐色の空に浮かぶ、揺れ動く雲を描写していた。
 本当の地上までどれくらいの距離があるのだろうか?
 既に人の力では上に這い上がることすら出来ない。
 僕らではこの空間をどうすることも出来ない。
 そして散乱する骸と共に横たわることにした。
 疲れたから。

 僕は無言の侭の彼女の横に座った。
 その時の動作で手首が痛いのは気のせいだろうか?
 何処かで怪我をしたか、もしくはあの爆発の時か‥‥‥

 ―――綾波。

 不思議な少女の名を僕は心の中で呼んだ。
 当然答えてくれるわけがない。
 彼女は、蒼い巨人に乗ることを拒否した彼女は――

「ファーストの事でも考えているの‥‥」
 突然、アスカが僕に問う。
「うん‥‥よく判ったね」
 アスカは僕の方をチラリと見て、プイとそっぽを向いた。
「‥‥伊達にあんたと二人っきりで何日も過ごしてないわよ」
 そう言った彼女は僕の肩を使って気怠そうに立ち上がる。
 そして、スーツの指先が擦れて穴だらけになり、そこから覗ける自らの赤
黒くなった指で、自慢の髪をそっと通すアスカ。
 大量に抜ける髪。
 溜め息と共にパラパラとそれを諦め顔で捨てる。
 随分前からアスカはインターフェイスの髪留めを外していた。
 理由は必要が無い、だそうだ。

「ファースト‥‥見た?」
 アスカが聞く。
「‥‥ううん」
「そう」
「‥‥うん」
 沈黙。
 僕も力の入りづらい両足で立ち、柱の破片に寄りかかる。
「僕らが乗った初号機のモニターで‥‥見たっきりだよ‥」
「‥‥‥」
「僕らの前で‥‥素肌を晒した‥‥真っ赤に光る綾波が‥‥」
「もういいわ。それ以上言わないで」
 アスカが僕の言葉を遮る。
 そのまま今日の僕らの会話は終わった。

 ―――そう。綾波は消えた。閃光の中に。

 何度目の出撃だっただろうか?
 戦いは激しく、凄惨で、沢山の人が吹き飛び、消し炭になっていた。
 気が付くと司令所からの通信はノイズになり、辺り一面が火の海だった。
 アスカは僕の背後で言葉を無くしていた。
 そして大きな黒い光が僕らを襲った。
 激痛。そして脱力感。
 意識が遠くなりそうになる時、綾波が現れた。
 蒼い光を全身から放ちながら一人宙に浮く綾波が、僕らの前に現れた。
 綾波が何をしたのか、僕らは何をされたのか判らない。
 ただ、真っ暗になる視界を最後に、僕らは動くモノを見なくなった。
 綾波の身体が発火し、紅蓮に染まるのを最後に。
 そして轟音。
 止まる時間。

 目が覚めたとき、僕とアスカは吐き出されたエントリープラグの中にいた。
 プラグから出た僕らは驚愕した。
 そこは地獄だったから。
 口では言い表せない程の。

 そして、ミサトさんの亡骸を見つけたとき、僕らは泣いた。
 アスカが大声で泣いた。

 枯れ果てていた筈の涙。

 僕らが生きている証拠だった。

 それから数日間、僕とアスカは底を歩き続けた。
 何度も空を見上げ、地上に戻る術を考えた。
 無駄だった。
 隔離出来る部屋は閉ざされた部屋にも成る。
 何時になっても上からの救助は無かった。
 それどころか人の気配すら感じえなかった。

「サードインパクト‥‥?」
 アスカが放つ。
 僕は答えられない。
 彼女も答えを出そうとはしなかった。
 ただ、
「生きて帰ってやる」
 と言った。
 そう。
 まるで呪いのように。

 何時間も歩く中、初号機を見つけた。
 崩れ落ちた初号機を見つけた。
 ただ、殆ど原型を留めていなかった。
 何故、こんな状態で、しかもかなり離れた場所まで、僕らを乗せたプラグ
を飛ばせたのだろうか?
 朽ち果てた巨人の身体に問く。が、帰ってくるわけがない。

 その後、顔見知りのネルフの職員の遺体を何人か確認する。
 最初、アスカは近づきもしなかったが、やがて虚ろな眼で亡骸を見つめ、
ぶつぶつと何かを言う。
 それはこう聞こえている。
「ママ」
 と。

 そのまた数日後、僕らの鼻腔を悪臭が襲う。
 遺体が腐り始めたからだ。
 この果てしない底辺を持つ底に蔓延する腐敗の臭いは、僕らの感覚を狂わ
した。
 アスカが嗚咽と共に叫びながら鉄パイプを振り回す。
 止めもしない僕。
 アスカがその狂気の凪を山の様に横たわる骸に叩きつける。
 ぐし。
 総毛立つ音。飛び散る腐肉、黒液、欠片。
 臓物の名残を全身に浴びたアスカは、泣きながら自分の顔や身体をスーツ
ごと掻きむしる。
 自らの嘔吐にまみれる彼女。見ているだけの僕。
 狂っていた。

 全てが狂っていた。

 気が付くとアスカは僕の胸の中で子犬の様に小さく震えていた。
 そして滲み腫れ上がった顔と身体、そして唾液の跡を残した口で僕を求め、
僕はそれに答えた。
 乱暴に。こみ上げたどす黒いモノに答えるように。殺伐と。彼女を殴りな
がら。彼女を抱いた。犯した。

 狂っていた。
 全てが。


 ぱき。
 火の鳴る音。

 僕が父さんの遺骸を見つけた翌日。
 アスカは倒れた。
 本人は「何でもない」と言っているが、血色の悪い顔と、痩けていく手足
が皆語っていた。
 僕は適当な場所で休む為、焚き火をすることにした。
 燃料は近くにあるし、別に臭いはもうお互いに気にもならない。
 人は良く燃える。

 さほど汚れていない骸から幾つか服を剥がし、毛布代わりに着させる。
 そして唯一の荷物である緊急用パックから液状食料を一つ取り出す。
「アスカ」
 それをアスカに渡そうとした。
「いらない」
「駄目だよ。食べなきゃ身体が持たない」
「いい」
 溜め息の後、食料をパックに戻す。
 アスカはここ数日何も口にしていない。

「‥‥まさか死にたいって思ってないよね‥‥」
 僕の唐突の問い。
 答えないアスカ。
「‥‥僕は‥‥生き延びるよ。絶対」
「‥‥どうして?」
 と、アスカ。
「‥‥‥」
「どうしてよ。答えてよ」
 アスカが突っかかる。自らも唱えた呪いに反発して。
「生きる目的も無いのに、ましてや救助も来ないこの廃れた空間でどうして
生き延びようとするのよ」
「‥‥‥」
「まさか希望を捨てちゃ駄目だ、なんて言わないでしょうね」
「そんなこと言わないよ」
「じゃあ何よ!他にどんな理由があるのよ!」
 叫声。
 そして沈黙。
「僕は‥‥僕は‥‥‥あんな死体になんかなりたくない‥‥‥」
「‥‥‥」
「ただ単に生きていたい‥‥あんな骸で終わりたくない‥‥」
「‥‥でも、いつかはああなるのよ」
 瞬間、僕はアスカの細くなった腕を強引に掴む。
 そして睨む。アスカを。
「だからこそ限界まで逃げ切ってやる!自ら道を閉ざすなんてまっぴらだ!」

 僕の言葉にゆっくり頷くアスカ。
 そしてそのまま僕の腕の中に崩れていく。
 うんうん言いながらアスカが僕に抱かれていく。
 お互いに傷ついた身体と心を舐め回して。

 眠りにつく直前、アスカが呟いた。

「‥‥あたし達‥‥なんの為に戦っていたのかな‥‥」

 それは今の僕には答えられなかった。

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