終わりの7日間

〜 2日目・冬月 外された梯子 〜

神宮寺 


 
 思い出してみれば、奴の席はいつも誰よりも高い場所にあった。奴の部屋はいつも
暗く、そして誰の部屋よりも広かった。そんな場所から奴はいつも言葉少なに命令を
下していた。人を見降ろしながら命じていた。人を人とも思わない態度で、命じてい
た。他人との交流を拒絶し、天上天下唯我独尊を押し通す。なんと高慢な男だと、あ
の時は思っていた。なんて嫌な奴だと、当時は思っていた。だが、最近、奴が座って
いた場所に座るようになって、俺にも奴の気持ちが少し理解出来るようになってきた。
奴は何と小心者だったのだろう。誰よりも高い場所も、誰よりも広く暗い部屋も、己
の小心を隠す道具だったのだ。そんな道具を用いねば、己にのしかかる重圧に耐える
事すらできなかったに違いない。奴は内心ビクビクしながら、奴の中の恐怖と戦いな
がら、必死の思いで冷酷なふりをしていたのだ。冷酷な仮面を必死で被っていたのだ。
小心な自分を隠す為に。己の望みを果たすために。なんと、哀れな男だったのだろう。
「あら、冬月先生。あの人は、かわいい人なんですよ。みんな、知らないだけです」
彼女はそういった。自分の男を、そう評した。小心者が大それた野望を持ち、必死で
冷酷なふりをする。その姿を彼女だけだ知っていたのなら、かわいい人と評されても
仕方あるまい。そして、実際、かわいい人だったのだろう。碇 ゲンドウという男は。

「なんで、私があんな奴の居場所を知ってるっていうのよ」

甲高い女性の声が私を現実に引き戻した。小心者の砦であった広い司令室。床一面に
描かれ、意味を理解しない者にはグロテスクな紋様にしか見えな生命の樹。その中央
に座る私の前に立つ三人の男女。声の主は、三人の中央に立つ、最も小柄な栗毛の少
女で、彼女なりの主張を大声で続けていた。この歳になると、若い女性が上げる甲高
い声は堪える。ましてや子供が上げるヒステリックな声ともなれば、なおさらだった。

「君もシックスチルドレンの行方は知らないというのかね」

わめき散らす子供を無視し、その隣に立つ少年に水を向ける。瞬間、少年の顔に苦い
ものが浮ぶ。知っていると答えたのも、同然だ。無理もない。彼も所詮子供なのだ。

「ワイは.....何も......」

若い。彼の中で友情と責任感とが攻めぎあっているのが、ありありと分かる。瞬間、
俺の中に嫉妬に近い、いや、嫉妬以外の何者でもない感情が芽生える。彼が苦しんで
いる感情は、俺がはるか昔に捨ててしまった感情だ。堕ちた俺にはできない表情だ。
こんな時、碇ならどんな顔をしただろうか。俺はいつもあいつの後ろに......
俺も、あいつの小道具だったのか。小心を隠すための。笑いの衝動が俺の中から浮ん
でくる。机の上に両肘をつき、組んだ掌で視線を隠す。碇がいつもしていたように。

「そうか.....二人とも、ご苦労だった....」

浮んでくる笑みを必死に押さえる。押さえきなかった笑みが、唇の端を歪ませていく。
あぁ、俺は、今、碇のように笑っているのだろう。さぞや悪人面に見えるに違いない。

「ターミナルドグマに向かう」

子供達が退室した後、唯一残った大人へと声をかけた。瞬間、彼女の顔に、戸惑いの
色が浮びかけるが、それを首肯することで打ち消す。口元には、笑みすら浮べている。

「何がおかしいのかね」
「いえ、何も」

横目でにらみつつ、出口へと向かう。慌てた足音が後から続く。圧縮空気の漏れる音
が響き、ドアが開く。振り返ると、小さな笑みを慌てて噛み殺すのが見える。表情を
崩さないよう苦労して通路に出る。僅な衝撃。廊下に埋め込まれたリニアモーターが
生みだす微かなうねり。無機質な壁が後ろへ流れて行く。足元が動き、俺を目的地ヘ
と運ぶ。大人は扱いが楽だ。機嫌を取らなくていいのだから。見透かされたような笑
みを堪えればいいのだから。いや、違う。彼女は大人なだけではない。女だ。だから、
厄介だ。俺の背中へ向け、彼女はさぞや嘲笑の笑みを浮かべているのだろうか。報告
書を読むだけの俺ですら、彼が何処へ行ったのか見当がついたのだ。彼らに接する事
が一番多く、報告書を書いた彼女に判らないはずがない。それなのに黙っている。気
にいらない。目的地、エレベーターホールが迫る。再び、僅かな衝撃。景色が止る。
俺の指よりも早く、背後から伸びた手がエレベーターのボタンを押す。信号音が鳴る。
シックスチルドレンの逃亡。彼女はその対応を俺に命じられるのを待っている。俺の
口から命じられるのを待っている。いや、彼女は部下であり、俺は上司だ。俺が命じ
ない限り動かないのは当然だ。自分の職務に忠実。下でいる事はなんと気楽なのだ。
いや、彼女こそ、彼の脱走を手配したのかもしれない。その程度の真似は造作もない
だろう。それどころか、奴等は結託して......あぁ、如何。あの席に永く座り
すぎたのだろう。これでは、俺も小心者だ。いや、そうだから、俺は今もあの席に座
りつづけているのだろう。心者の王座。くだらない。なによりもその王座に座る事に
安堵する自分がくだらない。エレベーターは、まだ来ないのか。だから女は嫌いだ。

「.......元気にしているかね」

自分の小心ぶりに反吐がでそうになる。我々以外は誰もいないエレベーターホール。
リニアモーターが発てる微かなうなりが、俺の神経をいらだたせる。

「元気でやっているそうです。というより....」

楽しげな彼女の声が、広すぎるエレベーターホールに響く。振り返ると、ひどく意味
深な笑みを浮べている。卑劣な大人の女だけが浮べる事ができる笑みを、楽しげに。

「それなりに楽しんでいるようです」
「楽しんでいる」
「えぇ。なんでしたら、婦人科から廻ってきたカルテをお見せしましょうか」

婦人科のカルテ。そんなものが一体何だというのだ。困惑する俺をよそに、彼女の顔
に浮かぶ笑みが大きくなる。卑劣な大人の女の笑みだ。実にいやらしい。正に女だ。

「あの家で暮らし始めてから3週目に、膀胱炎で診察を受けています」

失笑が口に浮かぶ。その病の意味するくだらなさに。そして、そんなことをわざわざ
口にする大人の女の卑劣さに。いや、違う。それも彼女の仕事なのだ。その卑劣さに、
誰よりも彼女自身が嫌気がさしているのだろう。上司に嫌味の一つも言う自由ぐらい
なくてはやっていられまい。覗き屋が、仕事。それを管理するのが、仕事。その記録
を報告するのが、仕事。そして、その報告を聞くのが、仕事。『人類の未来を守る』
美辞麗句で飾り立てられた言葉の真実が、これとは。人間とはつくつぐ愚劣な存在だ。

「楽しんでいるわけか」

笑みが大きくなる。卑劣な大人そのままの態度で。小心者にこそ、ふさわしい態度で。

「二人にとっては、楽園なのでしょう」
「楽園か.....」

その言葉を口に出して見て、疑問が浮ぶ。一度、地獄へ堕された天使が楽園に住む。
いや、客観的に見て、あの二人は確かに楽園に住んでいるに違いない。人殺しを、そ
れも自分の友人を手にかける真似をしなくてすむ。自分の親が殺し合う姿を見ないで
すむ。あの二人が住んでいる場所が楽園であるに違いない。だが、俺にはあの二人が
自分達が楽園に住んでいることに気づいているとは思えなかった。地獄を見た人間が
楽園に住めるとは思えなかった。

「違いますか。」
「むしろ、楽園から追放されたのだと思っているのだろう」
「あの二人がそう思っていると。」
「あぁ、楽園から堕とされた。そう思っているに違いない」

信号音がエレベータの到着を告げる。機械仕掛けの扉が開く。口元に碇の様な笑みが
浮ぶ。いつの間にかそんな笑みしか出来なくなった自分に気がつく。堕落した自分を
笑う。俺は、いつ堕ちたのだろう。碇が死んだ夜だろうか。いや、違う。あの夜だ。
そう、俺が堕ちたのは、あの夜だ......

「あの人に、言われて来ました。先生の力が必要だと。先生を説得してきて欲しいと」
あの夜、彼女は俺の部屋を訪ねてきた。そして、深夜の訪問の意図を計りかねて戸惑
っている俺に向かって思いつめた表情で、そう囁いた。消えそうな声で、そう囁いた。
「冬月、俺と人類の新しい時代を創ってみないか」建設途中のジオフロントで悪魔に
そそのかされた日の夜。「しばらく、考えさせてくれ....」と逃げ帰った日の夜。
碇ゲンドウは自分が悪魔であることを証明した。そうだ、悪魔は聖者を堕落させる方
法を誰よりも知っている。そして、悪魔しか取れないその手段を実行する。己が妻を
他人に差し出す。なんと陳腐な。なんと破廉恥な。では、その悪魔の妻を欲する俺は
何物だ。自分の教え子に欲情している俺は何者だ。聖者。聖職者。教師の仮面など、
遠の昔に捨てた。捨てる以外生きていく道は無かった。いや、それは言い訳だ。俺は
怖かったのだ。この女に拒絶されるのが。俺は怖かったのだ。自分の枠を捨ててしま
うのを。自分が安穏としていられる居場所を捨ててしまうのが。あぁ、そうだ。俺は
この女が欲しかった。悪魔の妻と知らずその心を求めていた。その全てを欲していた。
いや、違う。悪魔の妻であろうとなかろうと、俺はこの女が欲しいのだ。かって俺の
教え子であった時から。欲しい。そうじゃない。いや、それ以外何があるというのだ。
「君はこんな真似をすべきじゃない」俺はそう言うべきだった。そして、彼女の足元
に落ちた上着を拾い、彼女を部屋の外へ送り帰し、ドアを閉める。そうすべきだった。
「何を馬鹿なことを言うんだ」そう言って、頬の一つも叩いてしまえばよかったのだ。
だが、俺は何も出来なかった。彼女がブラウスにかけた指を止める事ができなかった。
彼女が揮える指でゆっくりとボタンをひとつ、ひとつ外していくのをただ眺めていた。
「灯りを....消してください....」俺はその言葉に従った。悪魔の誘惑に抗
いきれなかった。窓から差込む月光に照らされた彼女の肌は透き通るほど白かく、そ
の横顔は、俺が知っている彼女の顔ではなく、見たこともない彼女の−夜の顔だった。
そして、俺は裏切った。欲しいものを手に入れた。友人達やかって俺が信じて、頼り
にしていた者達を捨てさった。仲間達は俺を非難した。教え子の色気に目がくらんだ
のだと。俺は反論することなどできなかった。すべては、その通りだったのだから。
俺は、彼女に溺れた。時を忘れ、彼女を欲した。幾度となく、彼女を求めた。闇の中
で触れる彼女の肌。せつなげに俺にかかる髪。俺の動きに応える腰。苦しげに耳陀を
打つ声。その全てが俺を魅了し、その全てが俺には愛しかった。流れ落ちる汗すら愛
おしく、肩に食い込む歯や、背中に立てられた爪が生む痛みさえも、俺を喜ばした。
昼は淑女、夜は娼婦。男にとっての理想とする女性像の一つだ。聖女、いや、少女の
あどけなさがが残る彼女の正体。それが、そんな男にとっての理想の姿だったとは。
いいや、人のことは言えない。教え子に、それも人妻に、手を出しているのだから。
そう、たとえ俺が手に入れた碇ユイという存在が、彼女の夜の顔だけだったとしても。

「私は、今、あなたを感じる事ができる。世界には、私とあなたしかいない。私とあ
 なたしかいらない。でも、世界は私達二人のものじゃない。私達二人だけのものじ
 ゃない。E計画さえうまくいけば、どんなに離れていても、あなたを感じることが
 できる。あなたも私を感じられる。あなたと一緒にいられる。素敵でしょう。先生」

いつも彼女は、そう囁いた。俺の腕の中で。汗ばむ肌を合わせ、小柄な体の重みを俺
身体の上に預けながら、そう囁いた。全てを味わった後のけだるさを味わいながら、
悦楽の余韻を楽しみながら、そう囁いた。楽しそうに、囁いた。嬉しそうに、囁いた。
俺は、彼女の鳶色の瞳を見つめながら、頬にあたる暖かい吐息を感じながら、肯いた。
漆黒の髪を撫でながら、その柔らかさを味わいながら、俺は首を縦に降った。思えば、
彼女は、全てが終わった後、幾度となく俺に、そう囁いていた。そして、教室の最前
列で俺の講義を聞いていたときと同じ真剣な瞳で、俺の腕の中で悦びの声をあげるの
と変わらぬ熱心さで、まるで、睦事を述べるように、そう囁いていた。今にして思え
ば、あの言葉は、俺にではなく、彼女が自分自身に言い聞かせていたようであった。
当り前の日々。腕の中にあるものが自分のモノだと思えること。日常とは、偉大だ。
幸せとは、当り前のことが、当り前だと思える事なのだろう。あの夜から、幾度こう
して彼女と夜を過ごしたのだろう。そして、この言葉を何度、何十度、聞いたのだろ
う。俺は聞いたのだ。この言葉を聞くのが当り前になるだけ。当り前と思えるだけ。
「冬月、俺と人類の新しい未来を創ってみないか」かって、碇は俺に向かってそう言
った。俺はその言葉に従った。全てのモノを裏切った。だが、俺は気付いてしまった。
俺には、人類の未来など、どうでもいいのだということを。俺にとっては、E計画が
見せてくれる明るい未来など、どうでもいいのだというのだ。彼女が俺の腕の中にい
る。彼女の鼓動が伝わる。彼女の上気した肌が心地好い。俺の耳元で甘い声でささや
いてくれる。なんという幸福。なんという歓び。それさえあるのなら何もいらない。
他に何がいるというのだ。聖人の仮面、聖職者の責務、かって俺を縛り、俺を律して
いたものなど、ドブの中へ捨ててしまえ。彼女と共にいるという満足。この充実感。
なにより、この手の中にある実感。それを手にするためなら、俺は喜んで地獄へ堕ち
よう。全てのモノを裏切った俺には何もない。失うモノなどなにもない。この裏切り
の報酬。三十枚の金貨が俺の腕の中にあるのなら、俺に恐いモノなどないのだから。

「先生....」彼女が腕の中で囁いた。何度聞いても、甘く心地好い響きだった。
「あの人と、別れようと思うんです」その言葉の意味がわからなかった。次の瞬間、
その意味を理解した。眼を見開き、彼女の瞳を見つめる。彼女の腰にまわした腕に力
を込める。情けない話だが俺の指先は震えていた。喜びで。背徳極まりない喜びで。
「子供は....シンジ君は....どうするんだ。」そう言うのが精一杯だった。
「シンジは、あの人の子です。私の子ではありません。でも、私が、生んだ子です」
それ以上の言葉を、俺は聞けなかった。歓喜と欲望の衝動を、俺は抑えきれなかった。
彼女の夜の顔だけではなく、昼の顔を手に入れることができる。彼女のすべてを俺の
ものにすることができる。その喜びが、その欲望が、俺を突き動かしていた。後で思
えば、それは、二人だけで交わした最後の言葉だったというのに。

だが、彼女は、消えてしまった。「この子には、明るい未来を見せてやりたいんです」
そんな人並の親のようなくだらない言葉を最後に、俺の手の届かない何処かへ消えて
しまった。ついに俺の手に入らなかった昼の顔のまま。俺の欲しかった笑顔のまま。

「ユイを再生する」事件から一週間後、久しぶりに俺の前に現れた碇は、俺に向かっ
てそう宣言した。平然とした顔で、そう宣言した。いつもと同じ調子で、宣言した。
「シンジを造った時の卵子の余剰が冷凍保存されている。それに、アダムのコアを移
 植する。培養は、シンジの時は受精卵の段階で母体の子宮に戻したが、今度は母体
 が使えないのでエヴァシステムを利用して...」バーのカウンターで、バーテン
ダーに好みのカクテルのレシピを告げるかのように、悪魔の計画を告白していった。
「そんなもの、ユイくんではない。ただの....」
「ユイではない。人ですらない。ユイの形をしているだけの化け物だ。シンジと同じ」
「いいのか、それで」
「あれは女の子を欲しがっていた」
「女の子...」
「四週間だった。妊娠初期だったので、反応が微弱だった。おそらく消失の....」
俺は碇の言葉を最後まで聞けなかった。碇の告げた言葉の意味に困惑していた。ユイ
君が妊娠していた。誰の。俺のか。それとも。そんなはずは。では、俺の。俺の。碇
は知っているのか。その子が俺の子だということを。だとしたら、何故。彼女の再生
を。知らないのか。それとも知っていて。困惑する俺をよそに碇の演説は続いていた。
「………かって、誰もが為し得なかった、神への道だ」自分の女を再生することが、
神への道だと。ふざけた口実だ。悪魔が、神への道を説く。茶番劇だ。くだらない。
「まさか。あれをか。」では、そんな茶番劇につき合う俺は何者だ。道化。狂言回し。
馬鹿馬鹿しい。くだらない。だが、俺はこの茶番劇につきあおうとしている。そうだ。
そうすれば、茶番劇につきあってさえいれば、もう一度、ユイ君の笑顔を見ることが
できるかもしれない。たとえ俺の手の中に入らないのだとしても。あの笑顔だけでも。
「そうだ。人類補完計画だ」悪魔は自分の欲望を、そう糊塗した。

....あれから、どれくらい経ったのだろう。俺は夢を見ていた。悪夢を。いや、
俺の目の前にある光景こそが、悪夢なのだろうか。俺の目の前には、碇が倒れていた。
「碇....」俺がかけられた声はそれだけだった。信じ難いことに、奴はまだ息が
あった。血まみれのまま、机に伏せていた。検死した医者の話だと赤木君が碇に向け
た最後の銃弾は、奴の頭をかすめただけだったそうだ。悪魔に相応しい強運だった。
「ユイ...ユイ...」悪魔は虚ろな瞳のまま、断末魔のうめきを漏らしていた。
「もう...お前の言う通り....動くのは疲れた....シンジとレイと...
 親子.....四人で.....」何を言っているのだ。ユイ君の言う通り。どう
いう意味だ。それでは、あの時、彼女が俺の元へ来たのは....まさか。そんな。
困惑する俺の耳に、濡れた音が響いた。振り返ると、血まみれのまま頭部が半壊した
赤木君が倒れていた。血と脳漿を床に飛び散らせたまま。そして、その傍らで...
「何を...しているんだ」俺は声をかけた。赤木君の傍らにいるレイに向かって。
「お母さん、壊れたの....」そう言いながら、赤木君の欠片を拾い集めていた。
「いつも....私が壊れると....お母さん.....直してくれたの....
 だから....今度は......私が直すの....私が....直すの...」
レイの両手は、薄黒く染まっていた。赤木君の血で。

ターミナルドグマの奥底。碇の息子はそこにいた。幾つものユイ君のコピーが漂う水
槽を呆然と眺めていた。母親と再会できた気分はどうだ。君の母親がいかに性悪で淫
売だったか、俺と幾度となくどんな風に夜を楽しんだのか、教えてやろうか。そんな
悪意が頭をかすめる。だが、俺の口から出たのは碇と赤木君が死んだ事だけだった。
「父さんは...苦しんで、死にましたか」碇の息子の答は、予想外のものだった。
「父さんは色んな人を苦しめました」碇の息子は淡々とその哀れな思いを口にした。
「僕を、綾波を、赤木博士を、母さんを、玩具のように弄んだんだ。自分の好きなよ
 うに。だから父さんは、誰よりも、苦しんで、苦しんで、死ななきゃいけないんだ」
己の分身の哀れな思いを碇が知ったら、なんと答えるだろう。あぉ、奴なら絵に描い
たような冷酷な態度で『...そうか。お前には失望した。もう会うこともあるまい』
とでも答えただろう。そして、夜、独りベットの中で詫びるのだろう。小心者らしく。
「最初からこうすればよかったのだ」俺は自分が発した声に驚いた。自分で思ってい
なかった音量だった。そして、赤木君が用意したコントローラーのスイッチを入れた。
哀れなユイ君のコピー達は、水に浸かった砂糖菓子のように、もろくも崩れていった。

......僅かな衝撃。無機質な信号音。機械音と共に2重のドアが開いていく。
エレベーター内の空気が気圧差によって急速に漏れ、急激な気圧の変化が俺の鼓膜を
刺激する。ターミナルドグマ。LCL製造プラント。思えば、これも小心者の小道具
にすぎないのだろう。いや、小心者の舞台そのものか。耳の変調が納まる。俺の姿に
気がついたスタッフが、慌てて近寄ってくる。歩みを止めないまま、状況を尋ねる。

「経過は順調です。明朝には起動試験を...」

碇は、小心者らしく様々なシナリオを用意していた。無論、その中には自分が死んだ
場合も含まれていた。自分を悪役にして、日本政府と取引しろだと。その為に奴が用
意した資料は、説得力があった。碇とゼーレが世界の破滅を企んでいただと。馬鹿野
郎。どこが作った資料なんだ。事実そのままじゃないか。俺は奴のシナリオに従った。
嬉々として。何故なら、奴が残した資料には俺が死んだ場合も用意してあったし、何
より生き延びるにはそれしか方法はなかったのだ。そして、碇の企みは奴の予想以上
に成功した。何を望んでいたのか、赤木君が死の直前に、MAGIを使って世界中の他の
MAGIシステムをハックし、その半数を修復不能な自閉モードに追い込み、残る半数を
自爆させることに成功していた。老人達は、手足をもがれたも同然だった。

「冬月司令」

目の前には、磔刑にされた巨人が。エヴァンゲリヲン初号機。碇ユイの魂の抜け殻。
俺の腕の中で、彼女が囁いた夢の断片。君はまだそこにいるのかね、ユイ君。それと
も、空の上の何処かで碇とよろしくやっているのか。そして、二人で俺を嘲笑ってい
るのだろうか。まったく、2階に上げられて、梯子を外されたようなものだ。いや、
俺は地獄の底でさ迷っているのだろうか。蜘蛛の糸すら、垂れてこないというのに。
いや、それとも、垂らすべきなのだろうか。俺が。よりによって俺が。蜘蛛の糸を。

「準備は万全のようだ」
「えぇ。後は、予想通り相手が来るのを待つだけです」

畜生。俺が何を言うのか、わかっていやがる。だから、女は嫌いだ。

「望君と稀ちゃんは、元気かね」
「預けきりなので、私も顔を見ていないのですが」
「子供達には、母親が必要だ。今から60時間。君にあげられる時間は、それだけだ」
「では、司令」
「子供達に、よろしくな」

俺の口元に、笑みが浮かぶ。くだらない。反吐が出るほど、小心者らしい態度だ。

                               (つづく)



 



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