銀河の英雄は「アタシに決まってんじゃない!」伝説plus!
政治、文化、経済。全てを分かつ危険宙域に、たった二カ所だけ許された抜け道。
一つをフェザーン回廊と称す。宇宙経済のキャスティングボードを握るに至った商業国家(形式はどうであれ、実質は独立国家である)、フェザーン自治領が完全に占有している。このフェザーン自治領からの援助ないし投資が絶たれれば銀河帝国、自由惑星同盟という巨人は糧道を断たれ簡単にその歴史を終えるだろう。そのため、このフェザーン回廊を軍事的に利用することは実質不可能である。
一つをイゼルローン回廊と称す。二大国が流血の闘争を繰り広げる最前線であり、人工天体が支配するきわめて限定された世界。銀河帝国の手によって建造されて以来、自由惑星同盟の軍人の血でその歴史はつづられてきた。
そう、「つづられてきた」のだ。宇宙歴七九六年、知将アスカ・ラングレー・ソウリュウ少将(当時)率いる第一三艦隊(現イゼルローン駐留艦隊)によって自由惑星同盟側に奪取され現在に至る。
そのイゼルローン要塞。軍事的な機能ばかり取りざたされがちだが、もう一つ主要な機能がある。それは兵員及び、非戦闘員……合わせて五〇〇万人の生活の場でもあるということ。それだけの人間が直径六〇キロメートルの球体に詰まっているのだから、問題が起きないわけがない。「事件なんて起きっぱなしじゃないか」なんて事は言わない約束。
今回は、そんな事件の一つに巻き込まれた人たちのお話。
宇宙歴七九八年一月。つい二週間前に駐留艦隊が帰投したイゼルローン要塞。辺境慰撫の任も終わり、やっと一息ついたところだ。
司令官執務室。イゼルローン要塞司令官兼駐留艦隊司令官アスカ・ラングレー・ソウリュウ大将に、イゼルローン要塞副司令官兼駐留艦隊副司令官シンジ・イカリ中将。司令官補佐のヒカリ・ホラギ少佐、イゼルローン要塞事務監リョウジ・カジ少将が集まっている。
一様に難しい顔をしているが、話自体はそう難しいことではない。要塞のある区画の変電設備が火災を起こしたのだ。火災自体は延焼もなく速やかに抑えられたのだが、困ったことに設備は全く使えなくなった。火元がその設備だというのだから如何ともし難いものがあるが。
「そんなの交換すればいいじゃない」
と至極真っ当な事を述べた司令官だったが、事態はそう簡単なものではなかった。
「この要塞は帝国製でね、同盟のものとは規格が合わないんだ。その辺を全て交換するような金は何処にもないしな」
「それじゃぁ、照明とか……消耗品はどうしていたんです?」
話の流れに乗って聞き返す副司令官。薄々は分かっているが。
「そこはそれ、今のところはフェザーン経由の輸入だな。そういう民生品のレベルなら換装を開始しているからしばらくすれば同盟の規格品でまかなえるはずだ」
「そんな……敵なのに?」
ヒカリが教科書通りの懸念を示してみせる。どこまで本気であるかは疑問だが。
「前の捕虜交換の例もあるから、それぐらい大目に見てもらうさ」
「それでは、必要な部品はそのルートでなんとか手に入るんじゃないんですか?」
ホラギ少佐の控えめな質問にアスカとシンジも頷く。
「時間は掛かるけどな。その間の仮住居用の空き区画を使えるようにするにも金がない」
突き放したようなカジの言。荒れ放題の部屋を直し、最低限の家具を運び入れ……ダメだ。準備が完了する頃には補修部品が届き、イゼルローンの財布は空っぽになっているだろう。
「機材の調達時間も考えれば、一ヶ月から二ヶ月半ってところだな。その間、住民にどうしてもらうか……実際のところこれが一番の問題なんだな」
確かに問題だ。何せ、最悪二ヶ月半も自宅が使えないと言うのに不満に思わない者はいないだろう。
「問題の区画の住人ってどういう方々で、どのくらい居られるのですか?」
やはり実務となると頼れるホラギの質問。
「ざっとそうだなぁ、N88区画だから……独身の軍人が一万と三千人ほど」
「艦船に住まわせなさい」
カジの答えに即答するアスカだった。
「事情はよく分かりました……で、なんでアンタがここにいるわけ?」
蒼髪紅眼の少女が睨み付ける。普通の人間ならそれだけで居づらくなり、退散しそうな迫力を備えているが、あいにく彼女の周りは普通じゃない人間の密度が余りにも高い。
「事情を理解してくれたんじゃないのかい? ぼくにそんな心にもない態度をとるなんて……悲しいよレイ」
レイ・アヤナミ嬢が不機嫌であるほぼ全ての原因が、芝居気一二〇パーセントで宣う。
「なんか仲良さそうね」
本人達には聞こえないように、そっとシンジにささやく。当然、自分のことなどは広大な心の棚に放り投げたままだ。
「そういう誤解を招くような言動を慎みなさいって、前から言ってるでしょうが」
「前からねぇ」
なにやら含みを持たせ、今度はみんなに聞こえるように呟くのは少女の保護者たるアスカ。もう一人の保護者であるシンジは苦笑しながらも見守っている……正しくは傍観しているのだが。
「アスカさん、その言い方……なんか、ものすごぉーく引っかかるんですけど」
「ん? レイの心にやましいところがあるからじゃないのぉ」
心の姉、ミサト・カジそっくりな笑み。指摘すると本人は否定するだろうが……
停電区画の住人全員が臨時宿舎となった輸送艦、揚陸艦に住むわけではない。アテのある者はそちらにまわったり、事のついでと勢いだけで結婚して家族向け区画に新居を構えてみたり……人それぞれである。
今回のカヲルの行動には、何ら不審な点はない。ただ、事前に本人からそのような計画を聞いた人間が居ないのが不自然と言えば不自然だったが。
詳しい事情は、今朝のこと……つまり、停電の翌日の話になる。
荷物と言ってもそれほど多いわけではないが、防犯上の理由から区画ごと封鎖されるため持ってゆける物は持って行きたい。戦時艦隊行動の時のように、軍服の着替えと下着だけというわけには行かない。カヲルとしてはそれでも良いのだが、空色の髪の友人が許してはくれないだろう。
その荷物を、レンタルしてきた水素動力車に積み込んだところで呼び止められた。あたりは暗い……当然か。人工天体イゼルローンに自然光など求めるべくもない。電力が途絶えれば街の機能は止まってしまう。街路には、とりあえず隣接区域から供給される僅かな電力で灯される非常灯ぐらいしかないため視界は良くない。一般住居では玄関にロックすら掛からなくなる――このあたりに帝国の考え方が如実に現れている――と言うのだから……いつまでたっても科学は万能とはならない。
振り返ったところには明かり。
「出発かい?」
「あっ、副司令閣下……」
「いいよ、敬礼なんて。お互い休みなわけだし。
あと、その閣下って言うのもちょっとね」
シンジが手に持っているライトのせいで、逆光になってしまい表情は分からない。が、その口調から照れているのが分かる。“閣下”と呼ばれるようになって一年半以上経つがどうにも居心地が悪そうだ。軍務中は一応権威という物が必要なことも理解しているため我慢しているが、私生活の場でその権威を振り回すつもりは全くない。本人の感覚としてはアスカを助けるのに必死で気がつけば今のような地位に居たのだから……案外、戸惑っているのかも知れない。
「じゃあ……イカリ提督……で、いいですよね」
昔のレイと同じで……
やはりちょっと肩の力が抜けないか。
「カヲル君が呼びやすいのなら、ね」
言いつつライトを消す。非常灯またたく夜道……もっとも、標準時ではまだ早朝だが。
目が慣れれば困ることはない。ただこの区画にはいるときに、出入りのチェックを行っていた兵士にライトを手渡されたため何となく使っていただけ。
「さぁ、引っ越し手伝うよ」
「引っ越し……ですか? 一時退避じゃなくて?」
「そう、引っ越し」
「誰の?」
「カヲル君の」
沈黙……
こういう時、何を言えばいいのか分からないんです……イカリ提督……
当然か。
「住むところはもう決定してるからね。ミサトさんも心配なんだよ」
とりあえず、カヲルには“諦める”以外の選択肢は与えられないらしい。表向きの事情を話すシンジを見上げながら、ミサト・カツラギという人物の凄さ――色んな意味で――を痛感する。
実はミサトこそがカヲルの法的な保護者だったりする。そう言えばこの二人、俗称“ミサト道場”の兄弟弟子の関係でもある。
折に触れカヲルに同居を勧めてきたのだが、カヲルの方がなんだかんだと理由を付けて同居、若しくは近くに住むことを断ってきた。子供までいるカジ家への遠慮もあるのだろうが、本音は……まぁいい、ミサトの作った食事から身を護るためとは言わないでおこう。
一人暮らしをしているカヲルに対し、これを契機によからぬ事を企んだらしい。
「ご……強引ですね」
「まぁね、ミサトさんだし」
そういうレベルで事が片づいてしまうあたり、人間として非常に問題があるような気がする。
この「気がする」というレベルで収まっている事実を、ミサトの人徳と見るべきか、周囲――特にヒュウガ中佐――の涙ぐましい努力の結果と見るべきか……ここでの明言は避けよう。
数刻の時は流れ……
「まるで夜逃げですね……」
当然の事ながら、カヲルの借りてきた二人乗りの乗用水素動力車に一人暮らしとはいえ家財道具一式が収まるわけがない。肉体派がそろっているため、強引にやった結果が先のカヲルの言葉に凝縮されている。車外にくくりつけるのはやはり……いくら何でもマズイだろう。
屋根にマットレスを敷き、その上に箱ものを……車高がもとの一・五倍を越えている。それでも、そうするしか方法がないわけで――大きな車に換えようにももう既に出払っている、この区画のほとんどの住人が一時的、小規模ではあるが引っ越すのだから――あるものでどうにかするしかない。
軍用宇宙港にある重機を引っぱり出すという大技も一瞬考えないではなかったが、物理的にこの区画に入れないのでは諦めるしかない。このあたり、ミサト的考えの極みと言えよう。
「問題は見た目じゃないよ、目的が達成できるかどうか……そっちの方が重要なんだよ」
一人で納得するシンジ。いや、自分に言い聞かせているだけか……
「そういうものなんですか?」
「ボクの周りじゃそうなんだよ」
やっぱり自分に言い聞かせている。ちょっと泣きが入っているかも知れない。
「それにしてもこの車、走るんでしょうか?」
シンジ、カヲルともに、なかなかに長身な上しなやかな筋肉に身を鎧っている。見た目以上に重い。それでも『Nerv連隊』の戦闘要員――或いは、それに匹敵する人材――の中ではかなり軽い方なのだが。
最後の大荷物である自分たちが乗って大丈夫なものなのか……
「為せば成るって、いつまでもハードウェアに頼っていたんじゃ人間は成長しないからね」
そういう台詞は、最低限の環境を整えてから言いなさい。
結局、危なっかしさを残しながらも動き出した水素動力車だったが、さすがにチェックゲートで止められた。
「危険ですからこちらの車に乗せ換えて下さい」
と、半強制的に軍用車両に荷を積み替えられてしまった。この手の特別扱いを好まないシンジだが、背に腹は代えられない。
二、三エレベーターを乗り継ぎ到着したところ。
「このあたりってもしかして……」
「そう、ボクの家だよ。狭くて申し訳ないけど、ボクの家に下宿って事……」
「何で教えていただけなかったのですか?」
「言ったら嫌がっただろう……今、アスカ達に部屋を一つ空けてもらっているから。誰が来るかはレイには内緒にしてるけどね」
その「レイには内緒」という条件を考えなければ、カヲルには断る理由がない。どうせ、ミサトあたりが――これに関してはアスカも共犯だ――面白がって押し切ったのだろうが……
シンジの気の毒そうな表情が、カヲル自身の未来を暗示しているようだ。幸運だったのは、いち早くその事実を知ることができたため対策を練れたこと。
……煙に巻くか……
かくして、状況は冒頭のレイの台詞に戻ることになる。
喜んでいるのか怒っているのか、自分でも分からないレイ。
明らかに状況を楽しんでいるアスカ。
困惑しているカヲル。
とりあえず中立に徹することにしたシンジ。
イカリ邸は広い。もとが、貴族の子弟向けの区画だったために無駄なスペースと装飾が多かった。「使わないのはもったいない」、「上の連中が贅沢をしてくれないと、下の人間が好きにできないではないか」というわけで、幹部の独身者が利用している。子供のいる家庭では「教育上良くない」と拒否されたからだ。あの、ミサトでさえそう言ったのだから……
贅沢に取られた空間は今さらどうしようもないが、悪趣味な装飾品の類は全て撤去され些か殺風景な印象を与える四〇平方メートルの部屋が三つ。あとはリビングにダイニング。確かに独りで暮らすには広すぎる。実際シンジも広さを持て余し、この中の寝室と書斎に定めた二部屋と、ダイニングぐらいしか使用していない。そうは言っても、リビングには応接セットの一つも転がっているが。
さらに、書斎に置いてあった本も徐々に寝室へと移動しつつあり、ほとんど書庫と化している……このあたりソウリュウ家と似たような事になっている。
カヲルがこのスペースを埋めてくれるのは、はっきり言ってありがたい。それが、シンジをしてミサトの邪悪な企みに乗ってしまった理由である。
残った一部屋は、ただ空き室にするのももったいないので、客用寝室として使用できるようにそれなりの家具を持ち込んである。たまに、トウジやケンスケが泊まるぐらいで滅多に使われないが、今回は多少なりとも役に立ちそうだ。
荷を運び込むシンジとカヲル。その荷をほどくアスカ。カヲルの家事能力を僅かなりとも知るレイは、部屋の主(予定)の意見も聞かず勝手に整頓を始めている。
「世話焼き女房」
という保護者の心ない呟きにも、
「世話も焼けない“誰かさん”よりましです」
と切り返すあたりなかなかのものだ。
それにしても自爆してどうする、アスカよ。
「大人びているようでも、まだ子供なんだね」
引越祝いと称して始まった酒宴にて――年齢制限などの感覚はすっかり麻痺しているようだ……誰のせいかは知らないが――早々に撃沈されたレイとカヲル。日頃鍛えられているせいか、かなり頑張ったが年季の入ったアスカ達の前に無惨にも敗れ去った形だ。
「そうね、アタシたちがこのくらいの歳の時は……」
『鯨飲』
を体現する女性にすっかり鍛えられていた。目の前で寝息を立てている少年少女のように「グラス」単位で数えるのも億劫なぐらい……あのころは色々あったが、おおむね良い思い出だ。
「……うん、今のうちから鍛えておけば大丈夫よ……たぶん……」
想い出が「鯨飲さん(仮名)」の宴会芸にさしかかったあたりで急に我に返る。ああ、だから歯切れが悪くなったのか。その、無限の再生能力を誇る肝細胞を宿した女性……「鯨飲(仮名)」さんだが、作戦行動終了後の定期検診でもいまだ身体に異常はないという。
「今日はここまでね」
主賓が酔いつぶれたのだから、そろそろ潮時だろう。
「それじゃぁ、送るよ」
アスカが先に立ち、進路を確保。シンジが眠れる姫君を軽々と抱き上げその後に続く。
先に立つ女性の視線に少し複雑な感情が交じっている……彼女自身がその感情の正体に気づくには、今しばらく時間が必要だったが。
視点が定まらない。頭の奥が鈍く痛い。あの二人、どっかの誰かのように強制的に勧めはしないが、そのペースの速さに巻き込まれ知らず知らずのうちに飲み過ぎてしまったようだ。同席した少女に良いところを見せようとしたというのも否定できないのだが。
「やぁ、起きたかい」
声の方向へかをを向けると、長身の青年がグラス片手に笑っている。
「ボク、寝ちゃいました?」
まだぼーっとしている。
「ああ、レイとほとんど同時だったかな、つぶれちゃったのは……そうそう、のどが渇いているだろ」
手渡されたのはよく冷えたジュース。
「ありがとうございます、イカリ提督」
カヲルの礼にシンジの表情が曇る。
しばらく考える。言うべきか言わざるべきか……
カヲルと目が合う。
不安。(訳:言いたいことがあるんならさっさと言っちゃってくださいっ!!)
陸戦隊の訓練設備で殴り合い、その合間に幾度か言葉を交わしただけの仲。頼りになる兄弟子に何度か相談を持ちかけたこともあるが……ちょっとやりづらい。さらに、気になる女の子の“兄がわり”というのはカヲルをして緊張を誘うものがある。“がわり”というところが、まことに微妙ではあるのだが。
「やっぱり、そういう他人行儀な所は……できるだけ直してほしいな。これからはさ。共同生活難だから、お互い疲れてしまうよ」
“できるだけ”と言ってしまうところが、とてもシンジだ。
「昔……ちょうどカヲル君ぐらいの歳の頃だね。ミサトさんと初めて会ったのは。
同じアパートのお隣さんで、ボクとアスカの部屋の間で……防犯装置を無力化して、ベランダの仕切を取っ払って行き来できるようにしたり……」
見かけによらず悪いことしてたんですね……決して口に出せない正直な感想。
「そのころ言われたんだよ。『そっちは礼儀のつもりかも知れないけど、こっちはそりゃーもう寂しいんだから』ってね。
そのうち……そのうちでいいから。レイもずいぶん掛かったし……」
敵意すらもっていたレイ……今となっては笑い話で済むが、当時は家の中も戦争状態だった。
「はい、分かりました。シンジさん」
その口調は、くだけたとは言えないまでも十分柔らかいものだった。
イゼルローン要塞の温度調節機能は良くできている。
冬の早朝。乾いた冷たい空気を街へと送り出し、一方で部屋の暖房のためにエネルギーを送り出す。一見無駄に思えるが、人間の精神安定には欠かせない機能なのだそうだ。
同じ自然現象でも雨は広大な公園にしか降らない。こちらは酸素供給元の維持という目的が主たるものだから。その性質上、雨より霧に近いものがある。
さわやかなる朝をかき乱す雑音。インターホンの連打がカヲル・ナギサ少尉の眠りを妨げ……ない。ややあって、私室の扉が乱暴に開かれる。
「カヲルッ、あなたいつまで寝てるつもりっ!!」
布団の下でなにやら動いているようだが、起きる気配は全くない。
「時間が無いって……」
問答無用で助走にはいる。
「言って……」
ジャンプ……ベッドに向かって。正確には、そこで惰眠を貪っている人物へと。
「るっ、でしょうがぁ」
「るっ」でカヲルのボディーに膝から着地する。誰に似たのか短気で凶悪である。「シンジを起こす役目を先にアスカに取られたから」と言うのも無関係ではないだろう。
とりあえずのたうち回る被害者に目覚まし時計を放る。表示は、〇八二五。今から着替えて用意をして……一〇〇メートルを七秒平均で走れば、登庁時間に間に合うかもしれない。
「おっ、おはよう。レイ」
思ったより復活が早かったカヲルを感心するように眺める。
「カヲル、アンタ何時まで起きてたの?」
光彩が赤い上に充血してしまっているため、目はもう真っ赤だ。銀髪と相まって牙でも生やせば吸血鬼と言っても通用しそうだ。
「最後に時計を見たのは……四時だったかな。寝たのはもっと遅いはず……」
ここで、でっかい欠伸を一つ。
「イカリ提督は?」
「それは起きれないわねぇ……ああ、シンジさんね。
アスカさんの制裁を受けてるところ」
タイミング良く叫び声が聞こえてくる。何やってんだか、あの大人達は……
「何か食べれるもの探しておくから、ちゃっちゃっと着替えちゃって」
もう遅刻は諦めた。
なんかどうでもいいように、それだけ言い置いて部屋を出ていってしまった。
閉じられた扉をただ眺めてしまう。
なぜか無言。
なぜか落胆。
のろのろと、パジャマがわりに着ていたスウェットの上下を脱ぎつつ着替えに手を伸ばす。そう言えば、いつの間に着替えたのやら記憶がない。昨日着た作業着が散乱しているところを見ると、寝る前に何とか自力で行ったであろうことは想像がつくが。
「カヲルっ。さっさと着替えちゃってよ!! アタシまで遅刻なんだから」 扉の向こうからレイが呼ばわっている。とりあえず遅刻の連絡は入れたものだから、もうのんびりしたものだ。『同じ遅れるのなら五分も一時間も同じ』という、甚だ問題のある認識が大手を振ってこの界隈を歩き回っている。
なんだか兄弟とか、親戚みたいなのが居ればこんな感じかな?
レイと同じく、肉親というものを知らずに育った少年は思う。
それはそれで、自分の望みとは少し違うのだが……今はそれでも良いような気がする。
自分のココロを少しばかり持て余しながら。
突然扉が開かれる。
「早くしなさい、カヲルっ……て……」
目があった。人間面白いもので、虚をつかれると取るべき反応というものが止まったり遅れたりする。希に、めちゃくちゃ反応速度が上がることもあるが。
今のレイが正しく前者の状況だった。
「きゃあ」
幾分冷静さに勝ったカヲルが、とりあえず気のない悲鳴を上げてみる。
それでやっとスイッチが入ったか、レイの驚きに固まりきった表情が動き出す。とりあえず大きく息を吸っているように見えるが……
「きゃぁぁぁぁぁぁっっっっっっ
えっち、ばか、へんたい、すけべ、なるしすほもぉぉっっっ!!
なっ、なんでアンタハダカになってんのよっ」
部屋の扉が開かれたときよりも凄い勢いで閉じられた。遅刻は仕方がないにしても、のんびりしすぎているカヲルを呼びに来たのだが……不用意に他人の部屋を開けるもんじゃない。
もっとも、ぼーっと考え事をしていたカヲルも悪いのだが。
それに“ハダカ”といっても、下着は身につけていたのでカヲル的にはダメージはない。
でも、どさくさに紛れてとんでもないことを言われたような気がするが……まぁいい。
「全くアンタは……いつまで呑んでたのよ」
「たまにはそういうこともあるって……ててててて、痛いよアスカぁ。耳が取れちゃうよ。
ああ、レイ。さっき何かものすごい悲鳴をあげてたけど……どうしたの?」
アスカがシンジを引きずりながら部屋から出てくる。レイとカヲルが繰り広げているような騒ぎなど、既に何回も自分たちがやって来ているため今更そういう騒ぎにもならない。
「何でもないですっ!! それよりも朝ご飯食べちゃって下さい……サラダとトーストぐらいしかできてませんけど」
ガタイがガタイだけにかなり燃費の悪いシンジには、そういうちょっとしたものでもありがたい。
「ありがとう、レイ。で、カヲル君は?」
「まだ着替えてます」
「ふーん。やけに詳しい……ああ、さっきの……ふーん、そういうこと」
似たような経験があるからか、なんとなく察しがついてしまったらしい。
「こっちが見ちゃったんなら減るもんじゃないし……逆ならきっちり思い知らしてやんなきゃいけないけどね。まぁ、気にしないことが一番よ」
それを聞いて、心底驚いたような顔をして一歩引いてしまうレイ。
「ア、アスカさんがまともなこと言ってる……」
いや『絶好のからかいがいのある場面なのに……』との言葉が抜けているのだが。言ってしまってから口を押さえても遅い。さらに体が引けてしまうが、背後にはカヲルの部屋。逃げ場はない。既に背中が当たってる。
「レイ、そのあたり今夜じっくり話し合いましょうね」
氷蒼色の瞳に危険な色が浮かぶ。救いを求めるようにシンジを見やるが、あからさまに視線を逸らす。そういえば、シンジがアスカに勝てるわけがない。
「おはっ、わっとっと」
扉を開いた瞬間、青い影がもたれ掛かってきたのだからびっくりもする。考えるよりも先に体が動きレイの柔らかな体を抱き留める。正面を見ると『ミサト的』な笑みを浮かべるアスカと、見たまんま驚いているシンジ。
「おっ、おはようございます……」
朝の挨拶が、いささか歯切れの悪いものになったとして誰が責められよう。事故ではあるが、腕の中にいる女の子の保護者が目の前に並んでる。心の準備もなしに……
一七歳の少年には十分すぎる事件ではないか。もちろん少女にとってもだが。
「おはよう、カヲル。うちのレイのこと、ヨロシクね。ほらシンジ、二人の邪魔になるじゃない」
「えっ? あっ? そうなの?」
「あ、いや、その……」
ソウリュウ提督ってミサトさんそっくり……口に出したら健康な生活は当分望めないようなことをつい考えてしまう。彼の腕の中にいる被保護者であれば同意の意を示したかもしれないが。
とりあえず、追い打ちというかとどめを刺されてしまった上、援軍まで持ちさらわれてしまったカヲルとしては、自力で現状の建て直しを図らなければならない。さっきから伝わってくる震えがどうにも嫌な予感を刺激して止まないのだが。
「カヲル君……」
「ハッ、ハイッ」
とても穏やかなレイ。完全に声がうわずってしまっているカヲル。
「いつまで触ってんのよぉぉぉぉぉっ!!!!!!!!」
低い角度から振り向きざまに繰り出された拳が、絶妙なタイミングでカヲルの顎へと突き刺さる。
さすがのカヲルもミサト仕込みの一撃に耐えられるわけもなく、至極あっさりと意識を失ってしまった。
気がつくと視界には高い天井。
知らない天井? いや、知らないわけではないが、こうして落ち着いて眺めるのは初めてのような気がする。
起きあがり何か突っ張っている顎のところへと手をやる。違和感……何かある? 触れるとすぐに分かった、アイシング用の冷却シートだ。と、今朝のどたばたの記憶が次第に鮮明になる。
「あ、起きたんだ」
蒼髪の少女が入り口から声をかけてきた。
それに答えようと口を開く前に僅かな痛みを感じ、言葉を飲み込んでしまう。
それを見たか、やや心配げにカヲルの下へと近づく。
「ごめんね。ちょっとやり過ぎちゃった。まさか当たるとは思わなかったし……顎……どう?」
ちょっと……君はシンジさんに慣れすぎだよ……どうも最近口に出せないことが増えているような気がする。
「もう大丈夫だよ。まだ腫れてるみたいだからこれはこのままでいいよ。
僕のことよりも、レイ、右手を見せてごらん」
気がついてた? 嬉しいようで困ったような妙な感触。
「べっ、別に何でもないわよ」
「いいから、見せてごらん」
妙に強硬なカヲルの前に、おずおずと右手を差し出す。
「やっぱり。鍛えてない手で顎なんて殴るから……」
シンジの手によるものだろう、テーピングとアイシングがきっちりと施された右手を手に取る。ため息が漏れる。
「きっ、今日はお休みしなさいって……アスカさんが……」
カヲルとしては、このぐらい大したこともないが、アスカがそう言い置いたのであればヒュウガなりに連絡が行っているのだろう。それでも出ていったとあらば、アスカの顔を潰すような気もする。
「ありがとう、レイ」
「なっ、別にアンタに礼を言われるような事なんて無いんだからねっ」
動揺、自分でも頬に朱が走るのが分かる。反動で、どうも語気が強くなってしまう。
変なところが同居人に似てしまっている。
「そうかもしれないね。でも、僕が君に言いたかったんだ……ありがとう……って」
レイがいてくれたから、自分はこの環境を受け入れる気になったのではないか?ぼんやりとではあるが昨夜至った結論の一つ。
だから。
「ありがとう、レイ」
「なんだかよく分からないけど、分かったから」
さりげなさを装って、カヲルの手の中から右手を引き戻す。
「もうお昼過ぎちゃったんだから、キッチンへ来なさい。何か作ってあげるから」
そう言い残してカヲルの部屋から出て行くレイを見送りつつも思う。
ここの生活も悪くないかも知れないな。
と。
おまけ
「司令、もうお昼ですよ。上に立つ者の自覚をもう少しお持ち下さい。下の者に示しがつきません」
「いや、今日はシンジが寝坊したからで……そんなきついこと言わなくても……」
「そんな見え透いた……」
「いえ、ホントなんです。僕が寝坊したのを起こしに来てくれて……」
「副司令もかばわないで下さいっ!」
「ハッ、ハイッ……いや、ホントに僕が寝坊したんですよ、リツコさん」
リツコの剣幕に押され、つい返事を返してしまうあたり、アスカの教育の行き届きを感じてしまう。
「はいはい、分かりましたイカリ提督。
司令、イカリ提督の厚意に甘えずに、もっと自己管理を……」
どうしてもシンジが寝坊したことを認めないリツコのお説教は、このあと一時間も続いたらしい。
教訓:日頃の行いはとっても大切。
毎度、カオスフレーム“0”の片山です。
本編うっちゃらかって『Plus!』とは如何なる了見か……面目次第もない。
書きたいことありすぎ、書くの遅すぎ、時間無さ過ぎ……仕事してる場合じゃないな(爆)
とにかく、hiro−2002さん、こんなんでよろしかったでしょうか?
『シンジとカヲルの同居が見たい』というリクエストでしたが……うーん、何か違うな(笑)
やっちったものは仕方がないとして(笑) 次のお話でお会いいたしましょう。
前向きなんだか、後ろ向きなんだか……
目標、Gジェネ−ゼロ発売までに一本……(大汗) あくまで目標ということで……
そうそう、お酒は二十歳になってから呑みましょう(笑)
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99/07/31初稿
00/08/08修正
銀河英雄伝説は田中芳樹氏の著作物です
yoshiki tanaka (C)1982 徳間書店刊