どんなに小説家が頭の中で悪事をこしらえても、現実の政財官界の連中にはとてもかなわない
田中芳樹
 
 
激水之疾、至於漂石者勢也。(激水の疾こと、石をも漂わすに至るものは勢いなり)
鷙鳥之疾、至於毀折者節也。(鷙鳥(猛禽)の疾こと、毀折(きせつ)に至るものは節なり))
是故善戦者、其勢険其節短。(是故に善く戦う者は、その勢い険にしてその節短し)
勢如張弩、節如発機。(勢いは弩を張るが如く、節は機(引き金)を発するが如し)
「孫子」第五編 兵勢 抜粋



 
 
 
〜おに〜
 
(後編)
片山 京
 
 
 

 疾うに調べはついていたらしい。前方を行くZZR400に迷いはない。ならば、最後の確認と自分を謀(たばか)った男への制裁の為だけに罠に踏み込んだと言うのか。愚かと言うべきか、その向こうに見える律儀さを評価すればよいのか。他人の車を危なげなく操りながら思考の海を軽くひと撫で。今時珍しいミッション車だが……そのような技術をどこで習得したのか。少なくとも、運転免許証が交付される年齢ではないはずだが。
 別に特別な理由があったわけではない。勢いだけで地面に降りたところで、お誂え向きに停まっていたこの車を拝借したわけだ……さて、どうしたものか。乗り捨てるには少々気が引ける。
 二台は比較的安全な通りを選び、市内強羅方面――郊外オフィス区画――へと向かう。さすがに夜半を過ぎては、こちらへ向かう車は驚くほど少ない。
 つけられているのは承知しているだろうが、それを撒こうともしないのが訝しいがそれは後から考えればよい。何と言うか、『こちらに関心を持っていないのでは』と思わせるものがある。
 何故、同じ力を持つ少年が?
 少女の思惑をよそに、少年は目標へと確実に近づいて行く。
 
 
「どうやって後を追うって言うんですか!!
 至極真っ当なことを叫ぶ眼鏡。彼の言に共感するところはあるが、同乗者にとっては狭い車中のこと。迷惑この上ない。だいたい何で五人も乗っているのか。シビック・フェリオは小さくはないが大人がこれだけ詰まればいい加減狭い。さらに、後部座席に男三人が詰め込まれていては、むさ苦しいことこの上ない。
「だいじょうぶ、何のための技術だと思ってんの」
 何が大丈夫なのかいまいち解らない同乗者をよそに、カーナビの拡張スロットにカードを差し込みケーブルを引き出す。それを衛星携帯のジャックに差し込み、短縮ダイヤルからお目当ての番号を引きずり出し発信する。回線が繋がった後にも20個ぐらいの数字を立て続けに発信する。ちなみにハンドルを握っているのも彼女。ドライバーとしては甚だ問題のある行動だが、本人は全く気にしていない。
 約三分後、赤い光点が現れ移動を開始する。
「もしかして、衛星発信器?」
「お、日向君。よく知ってるじゃない。他のことに使うつもりで買ったけど、タイミングが掴めなくてダッシュボードに放り込んでたのよ」
 誰に? とは誰も聞かない。日向マコトと青葉シゲルに挟まれて額に冷や汗を流している人もいることだし。あまりの剣幕に誰も異論を挟まない……否、挟めない。
「場所が解るのなら別に急がなくても……」
 サイドシートでパトランプを抱きかかえている伊吹マヤ警部補が――彼女にとっては――最上級の勇気を持って沈黙に割り込む。顔色が悪い。薄いファンデーションの下が、青を通り越し白くなっているようだ。車に酔ったらしい。追いつめられている。
 その有様を見れば多量の同情と、「車中でもどされては困る」という現実的な理由をもって何らかの改善策を採るのだろうが、あいにくとドライバーは彼女の上司である。普通の世間の定規(スケール)で測ってはいけない。良くも悪くも。
「だめよ。それじゃ」
 冷たく――彼女にとっては車酔いの可能性など最初から無いのかも知れない――伊吹マヤ警部補の提案を一蹴する。やはり、思考が人を気遣うところまで達していない。
「それじゃ、犯人が遠くへ逃げちゃうかも知れないじゃない」
 もう誰も彼女を止められない。
 
 
 地上26階建てのオフィスビル。このあたりでも大きな方だ。裏口の警備員室からは、深夜放送の異様な盛り上がりがうるさい。当の警備員は眠りこけているのか、見回りに出ているのか。だいたい、ただのオフィスビルに物取り目的で押し入ったところで得るものはそれほど無いだろう。手間が掛かるだけで。それなら、そこいらのコンビニを襲った方が手間も掛からず確実だ。最近は自衛が進んでいるため、それにもリスクを伴うが。
 警備員の油断を責めるわけではない。屋上からの侵入者に気が付かなかったからと言って、責任を追及される立場にない。少なくとも、彼らに課せられた義務は果たしているのだから。
 それももう僅かのことだが。
 
 ZZR400のスタンドを固定し、なにげにオフィスビルへと近づく。『第3太平洋ビル』と掲げられた入り口にはシャッターがおろされ、傍らにはテナントを示す看板が掲げられている。21階、『高橋会計事務所』。
 近くの街灯に照らされ、黒々とのびる影から“紫”がまた這い出してくる。碇シンジを抱え上げ赤い夜空を見上げる。
 エンジン音。さらにブレーキ音。少々行きすぎたが青いアルピーヌ・ルノー A−310が停車する。そう言えば、最初の目的地を後にするとき近くに停まっていたか。何度か背後に居るのは知っていたが、本当につけているとは思わなかった。迂闊。
「待ちなさい、アンタ!!
 少女が無駄口をたたくうちに、“紫”は跳ぶ。上へ。
 一回の跳躍で100メートル上空に達するのはさすがに不可能。7階付近の看板を手がかりに、後は正攻法で窓などの窪みに足や手を掛け確実に登って行く。
 あまりと言えばあまりのことに我を忘れて眺めてしまう。
 “紫”が屋上に隠れると同時に、ふと我に返る。眼前で行われた自分の尺度から見てもむちゃくちゃな出来事にに感心すらしている自分に気づく。
 アレをやれと言うの?
 嫌なら事が終わるまでここで待っていても良さそうなものだが、それはそれで少女の矜恃(きょうじ)が許さない。難儀な御仁である。
 三秒で決断。“ツヴァイ”を呼び出す。意を決して同様の手段を取る。警備員と警報装置を突破するリスクを思えばまだしもだ。警備会社の人間が大挙してやって来たのでは面倒この上ない。少なくともそういう目立ち方は避けたい。
「行くわよ、アスカ」
 そして、“赤”は舞い上がる。
 幾つか明かりのついている窓があるがそんなものはかまいやしない。放っておけば幻とでも思ってくれるだろう。正直に言えばそれどころではない。必死で這い上がる。同じ能力を持っているはずなのに、アイツに出来て自分に出来ないはずはない。そう信じて這い上がる。窓ガラスと壁のわずかな段差。2センチあるだろうか?
 指先と爪先を器用に押し込み上を目指す。普段の物理法則を無視した動きに比べ何と無様なことか。自分に腹が立つ。アイツは見事にやってのけたのに。そう、見とれてしまうぐらい動きに遅滞はなかった。もう一つの自分の身体が重いと感じたのは初めてのことだ。自分の思考の速度に合わせて動いてくれる身体。片腕は本来の身体を支えるために使っているためさらに登りにくい。
「これで、ラス」
 届かない距離を埋めるために跳ぶ。が、屋上にわずかに届かない。疲労が目測を誤らせたか。“ツヴァイ”に依存しないように心がけてきたつもりだった。それがつもりでしかなかった事を思い知らされた。バランスが崩れる、壁面から身体が離れる、落ちる? コンクリートに腕を突っ込んで落下を止めようかとも思ったがやめた。反作用を支えるだけの摩擦を空中のどこで得ようと言うのか?
 一瞬の停滞が終わり、落下に転じ……ない。何かが“ツヴァイ”の腕を掴んだ。
 “紫”。
 一瞬恐れを感じるが、無意識にてそれを否定、あり得るべきではないその感情を即時殲滅。意志を込めた蒼い光が己の命を掴む影を貫く。それしかする事がないから。
 予備動作無しで空中へと放り投げられる。器用に空中で姿勢を戻し屋上の中央へ着地。もし、壊れ物のように丁寧に扱われたのならプライドも何もあったものではないが、ある程度「自分で何とかしろ」と言った状況に置かれた方が面子(めんつ)が立つ。
 屋上ともなれば警備も甘い。まさか外から回って屋上に辿り着くなどとは誰も考えまい。結果、簡単なシリンダー錠が付いているだけのドアが目の前にある。
「命は大事にした方がいいと思うよ」
 少女の顔を見ようともせずにぽつり、漏らす。だから、余計なことを言ってしまったと、悔やむ顔は少女からは見えない。
 少女とて反論はしたいが、助けられた礼もまだ言っていないことや放り投げられた事に対する一応の抗議や、さらには仕事を邪魔されたことに対する抗議まで湧き出てきてしまい……結局タイミングを逸してしまう。
 針金のようなものをねじ込み引き抜く。それだけで鍵が開いてしまう。
 影へと身を沈める“紫”。左腕を残して。そうすることで“鎧”が顕現する余地を残している。内部の広さから考えるに“紫”がその力を出し切ることは出来まい。BESTではないがBETTERな選択といえる。BESTな選択とは、相手を“紫”が能力を発揮できるところまで引きずり出すこと。
 少女が逡巡する間に、碇シンジは扉の奥へと消える。こうなっては追いかけるしかないではないか。何のためにここへ来たのか、どうでも良くなっていた。
 
 21階の六つのオフィスのうち、明かりがついているのは一カ所のみ。そこを無視して別のドアへと向かう。鉄扉のノブを掴み押す。
 開いた。
 街の明かりが差し込む薄暗いオフィス。スクリーンセーバーが立ち上がりっぱなしの端末もその光源に一役買っている。後背には非常口を示すプレートが緑に輝いている。光源がもう一つ……熱帯魚、か。
 無人? 否。
「あの無能が……連絡をよこさないと思ったら……失敗していたとはね。
 口ほどにもない」
 睨み付ける少女。冷静に体の向きを変える少年。
 死角。意図してのことではなく、結果として複雑な光源の中でそこが影になったということ。彼にとっては不意を突く必要など無い。それでは楽しみが減ってしまう。
「まぁいいや。都合の良いことに二人とも出向いてくれたし」
 何をするでもない。オフィス・チェアーに腰掛け、ただ二人をニタニタと見つめている。言わなくても良いことをぺらぺらと喋りながら。
 街で会ったなら、とりあえずシカトするのが正しい判断だが今はそうも行かない。しかし、この自信。どこから来るのか。彼らがここにいると言うことの意味、分かっているのだろうか?
「質問は一つだけです。
 正直に答えていただければ危害は加えません」
 安全装置の解除されたBERETTA M92FSのポイントを離さず碇シンジが呼びかける。相変わらず機械的で声に抑揚がない。
「碇ゲンドウはどこにいます?」
「知らねぇな。誰だそいつは」
 明らかに嘲笑(ちょうしょう)混じりの口調で即答。隠しているのか本当に知らないのか見極めにくいキャラクターではあるが……
「そうですか……」
 やけにあっさり引き下がった碇シンジの台詞に、一番驚いたのは近くにいた少女。
「なら貴方には消えていただいて、次に来る方に期待しますよ」
 躊躇(ためら)い無くトリガーを引く、引く、引く。現在の弾倉の残弾全てを使い切る。
「おー、怖いこわい。オレじゃなかったら死んでるぜ、ふつー」
 二人にとって見覚えのある現象が眼前で展開されている。
「“鎧”?」
「キミタチはそう呼んでいるのか。オレタチはこれを“ATフィールド”と呼んでいるケド」
 弾ける。
 水槽!
 少女のライターに灯がともり、少年がわずかに体を開く。飛びかかってきたモノが空中で急停止。床へと叩き付けられる。何枚かフリーアクセスが砕けたが、“緑”の飛翔体にとってはそれほどのダメージではないようだ。しかし、全体を顕現させた“紫”の左手にその足――形状からそうと思われる器官――が握られている。
 飛び掛かってきた“緑”を空中で捕まえた……もう一度やれと言われて出来るものではない。「思わず手が出た」といったところか。やってしまった本人の方が驚いている節もある。いつもの無表情のために気が付く者はいなかったが。
「キミの触媒は影か。出来損ないだからよく分かるよ。ほら、背中から臍の緒(アンビリカルケーブル)が触媒までのびている」
 “紫”を強引に振り払い事も無げにその体を起こす。今のはただ驚かすだけのはずだったが、意外な反撃を受けてしまった。思い通りにならないという苛立ち。脇腹のえらの開閉が少し速くなった。
「惣流アスカ君。キミも他人事ではないね。もしかすると碇シンジ君より深刻かも知れない」
 そこだけ物理法則がねじ曲がったか、結晶体のように物質化している炎。自ら光を発しているため彼女の位置は正確に相手に知られてしまう。その結晶体から唐突に生え出したケーブルの先に彼女の守護騎士がいる。
「オレの“サキエル”のように完成された存在ではないからな……さて」
 “サキエル”の一撃をかろうじて受け止める。受け止めただけ、それを次の行動へ繋ぐことが出来ない。動きが止まる。“鎧”……いや“ATフィールド”が機能していない。
「ほう、中和することも出来るか。まったく……楽しませてくれる」
 どうやら中和という現象らしい。新たな知識を吸収するための思考。その一瞬が命取り。
 ガードのために上げた左の二の腕が、掴まれ、
 勝利を確信した粘着質な笑みが、ヤツの顔に張り付いている。
 握り潰される。
 絶叫をかみ殺し、無理矢理ポーカーフェイスを保つ。吹き出す脂汗に、感覚を失った左腕。“紫”の左腕はもうぶら下がっているだけだが、碇シンジ自身のそれは感覚を失っただけ。時間が経てばまた使えるようになるだろう……おそらく。
 第三撃は顔面へ。掌をぶつけ、顔面を握り込む。
「まだだっ!! まだ目覚めるなシンジッ!
 碇シンジの絶叫。そこに他者が介入できるだけの隙を認め“ツヴァイ”が動く。借りを返すには良い機会。借りておいて踏み倒したのでは、『赤の女帝』の二つ名が泣くというものだ。
 とりあえずシンジを助ける。後の事は後で考える。事態が切迫すれば何か良い考えでも浮かぶだろう。そこまで思い切れるのは、自分の力に自信があるから。ともかく、今は、碇シンジを楯にするだけの余裕を与えてはならない。
 奇妙な、神経に障る音のようなものが鼓膜を刺激する。
 “サキエル”のほうが早かった。
 肘から突きだした器官に光が集束、“紫”を掴んだ掌から撃ち出す。
 碇シンジが零距離射撃に屈したにしてはゆっくりと崩れ落ちる。両手、両膝を床につき、その表情は分からないがかなり苦しそうだ。
 それとはまったく関係なく“ツヴァイ”が足下から、人間には不可能な動きと速さで襲いかかる。全て惣流アスカのイメージしたとおり、すばらしいスピードだ。目標は“サキエル”の左腕。“紫”は解放され、戦闘力も奪える。
「させるかっ。フィールド全開っ
 男の叫びよりも疾く“サキエル”は思考に敏感に反応する。その速さが“サキエル”を救った。“鎧”が周りを全て排除する。“ツヴァイ”も“紫”も同じように異物として排除される。それでも、“サキエル”の左腕が変形しているのは見事と言うより他ない。不完全な打撃にもかかわらず成したのだから。
 吹き飛ぶというより、転がされた二体はとりあえず距離を置くが“紫”の動きが悪い。立ち上がったはいいが、動きに切れがない。
「ちょっとアンタ。しっかりしなさいよ、この大事なときに」
 限界だろうが何だろうがここで踏ん張らなければ、この先どうなるか分かったものではない。もっとも、その『先』とやらがあるかどうかも分からない。
 惣流アスカの長くもない人生の中で、今、初めて全力を尽くしている事実に驚きと充実を感じる。壁登りの時の『必死』とはまた違う。
 “ツヴァイ”は『火』を触媒とする。『火』から生まれいでたそれは、否応なくその属性も持つこととなる。強く速く美しく、そして儚い『火』の属性を。
 敵を見据える。全てはそこからだ。
 完全に折れてしまった左腕を抱えた男の視線が、惣流アスカの氷蒼色と真っ向からぶつかる。男のほうが第二の身体との親和性が高いらしい。“サキエル”に与えられたダメージが男にそのまま反映されているようだ。
 
 頭が重い。『オレ』が目覚めるときはいつもそうだ。まったく、碇め。強情にもほどがある。どうせオレたちは一蓮托生だ。荒事は好きなヤツに任せればよい……オレのように、な。

 

 

 後部座席でいいように振り回された男どもは力尽き、サイドシートでは伊吹マヤがパトランプを抱えたまま不健康な笑いの衝動に身を任せている。壊れかけ、とも言うが……
 原因たるドライバー氏が最も元気という理不尽な事態を前にしたとき、普通の人間としてはもう笑うしかないと言ったところか。
 交通課の同僚に射殺されても文句を言えないような走りを堪能した割には、当のご本人――半死人どもの上司――の顔色は至って冴えない。探し当てた無人の愛車。そう、無人。その一点が気に入らない。達観と言うよりも諦観。次に我らが上司が何を言い出すか予想できてしまう自分が悲しい。
「シゲルぅ」
「こら、情けない声を出してんじゃない」
「しかしなぁ」
 日向マコトは尊敬すべき上司の視線を追う。その先に『第3太平洋ビル』。その筋では有名な――当然悪名のほうだが――テナントが軒をそろえる曰く付きのビルだ。
「頼むからそれ以上喋らないでくれ。特にこれから起きそうなことは厳禁だ。不幸が現実になる」
「どこの迷信だ?」
「ジンクスだよ」
 どこが違うのか日向マコトは判断しかねたが、面倒なのでそのまま頷いておく。
 葛城ミサトにしたところで強引に踏み込むのは憚(はばか)られるのだ。何か口実がほしい。自動車泥棒がこのビルに入っていった証拠。一応、大量虐殺を図ったという立派な容疑もある。それなら『協力』を求めたところで不自然ではない。ではないのだが、これは立件できない可能性があるのであまり使いたくない。何か騒ぎでも起きないものか。部下を巻き込んでしまったのだから、強行突破はちとまずい。熟考を要す。
 加持リョウジはと言えば、空を見上げている。低い位置に蒼い月が掛かっている。街の明かりで赤く染まった夜空に。その赤と蒼を眺めながら車に身体を預け、紫煙を漂わせている。
 皆が葛城ミサトの次の行動を注視するこの状況下で一服しようとは……何かを悟ったか、或いは何かを諦めたのか……
 ともあれ、いくら葛城ミサトでも身分は公務員。それなりの建前というものがなければ無茶のしようもない。
 そして、空から口実が降ってきた。
 
 
 時計を少し巻き戻す必要がある。数分程度ではあるが。
 
 まず最初に、背を丸め無防備に立ちつくす“紫”の動きが変わった。その巨躯に、力が、意志が漲(みなぎ)る。
 それにはまったく気づかず、惣流アスカは“サキエル”を攻め立てる。ATフィールドの中和が今ひとつ上手く行かず決定的なダメージが与えられない。いまだそのような器用な使い方が出来ない。
「後はオレに任せてもらう」
 その声は知っている。
「悪いが、キミはまだ戦い方を知らない」
 それが、かの無口な少年のものであることは間違いない。
 振り返ると、そこには悠然(ゆうぜん)とオフィスチェアーに腰掛けた碇シンジ。
「初めまして『赤の女帝』。オレは『隠』こと“六分儀”シンジ。シンジのもう一つの人格さ。“碇”よりもコイツ……“鬼”の扱いには慣れている」
 砕かれた左腕を眼前に掲げ二秒。
「治った……」
 何をどうしたのか……この時点で惣流アスカには引き下がる道しか残されていない。自分を遙かに越える技術がそこにある。負けん気の虫とプライドが反発の声を上げるが、理性がねじ伏せる。不快感までは拭えなかったが。
「それで……アタシは体のいい咬ませ犬ってわけ?」
 そのような事を言っている場合ではないことは分かってはいるが、どうしても抑えきれないものがこぼれてしまう。
「とんでもない、やっと見つけた同類だよ。オレたち『シンジ』以外にも被験者を確認できたからね」
 理解されることのない力を抱える孤独。それは惣流アスカにも分かる。それ故、学歴も、家も、何もかもを捨て身一つでこの街へと流れ着いた。
「じゃぁ、アレはなに?」
 不格好な緑の塊を指して言い募る。
「目に見える現象が同じだからと言って、そのプロセスも同じとは限らないさ」
 笑う。ようやく左腕の修復を終えた“サキエル”に気づいて。
 “紫”いや、“鬼”が予備動作無しで手近なOAデスクを掴み、その上の資料やPCごと“ツヴァイ”の向こうの“サキエル”へと投げつける。さすがに抜き打ちではわずかに目標を引っかけただけで後方へ逸らしてしまう。
 特殊強化ガラスの壁面をひしゃげながらもうち砕き、そのままビルの外へとこぼれ出す。このような高層建築物に使用されるガラスは、破片が細かく飛び散らない加工が施されている。それでも裂けた部分を中心に破片が飛び散り、月の光を乱反射しながら地上へと舞い降りる。その中心には無惨な姿をさらすOAデスクがある。
 強風が入り込み、書類が舞い踊る。
「遅い」
 デスクの後を追い急追する“鬼”を捉えきれない。
 “ツヴァイ”は男の身柄を確保すべく動く。
 
 
 神様ってヤツは今ひとつ胡散臭いが、悪魔ってヤツは本当にいるのかも知れないな……
 それを目撃した、加持リョウジ警部の正直な感想だ。ほら、葛城ミサトが喜々として通用口へ向かっている。高層階からの落下物。それもとびきり物騒なもの。現行犯であるから、たまたま居合わせた葛城ミサトが乗り込んでいっても処分の対象になることはないだろう。ミサトが処分されないのであれば部下たちも安全。かつて、加持リョウジを巻き込んでしまった反省。彼の場合は、好き好んでとばっちりを受けたのだが。
 ともあれ文句無し、お誂(あつら)え向きの状況が向こうからやって来た。人為ならざるものが手を出しているような気にもなる……なるだけだが。葛城ミサトはこれを天啓と取ったようだ。これだけ無茶をやっても黙ってついてきてくれる部下たち。なかなか貴重な存在だ。
 加持リョウジ警部は再び思う。
 世の中、結構バカが多いな。
 自分がその『バカ』の筆頭であることを自覚しながら、葛城ミサト警視の後を追う。
 
 
 苦し紛れに放たれた光の槍が“鬼”を捉えたかに見えた。空を切る。消えた?
 否、天井の梁を蹴った“鬼”の肘が降ってくる。水滴状の顔にヒビ。もろとも床に突っ込み、フリーアクセスをさらに砕く。
 十字の閃光が迎え撃ち、まだ残っていたデスクごと“鬼”を薙ぎ倒す。その反動を利用して起きあがる。“鬼”は多数のデスクを巻き込みその下で沈黙。
 本体はATフィールドで身を守り、惣流アスカによる攻撃も徒労と化している。本人とて、嫌がらせぐらいの気持ちなのだが。
 そこへ、意外なほど俊敏な動作で“サキエル”が滑り込み同様の手段で“ツヴァイ”をも退ける。いつの間に再生したか、破壊された顔の下からもう一つの顔がのぞいている。
 スピードはあるがパワーに欠ける“ツヴァイ”だけに分が悪い。しかもこちらの攻撃はほとんど効果がないというのだから。
 爆圧を器用に逃がし着地、そのまま後退。惣流アスカとて、自分の力量をわきまえるぐらいのことはする。というより“六分儀”シンジとやらの手並みを見てみたい。そうとでも思わなければやってられない。最終的に彼より強くなる。そうすればアタシが、一番、いちばん、イチバン……強い。
 デスクの残骸が吹き飛ぶ。その最初の破片が床に落ちるより速く、“サキエル”の両腕を右手一つで拘束。迷わず捻り上げる。青い血があふれ、男の悲鳴が響く。
 次の行動も“鬼”。つぶした腕を振り上げ、右手一本で振り回す。手近な柱、床に向けて叩き付ける。叩き付ける。叩き付ける。
 ATフィールドとて万能ではない。遠心力と衝撃によって、確実に力は殺がれて行く。
 五回、六回と繰り返し、九回目に本体へと投げつける……両の手が引きちぎれたか。男は“サキエル”と壁の間に挟まれ動きを封じられる。手の中に残ったものを足下に投げ捨て、それが当然のように踏みにじる。
 圧倒的だ。
「まさかこれほどとは思わなかったぜ。ガキだと思って手ぇ抜いていたら酷い目にあったぜ。全くよぉ」
 戦闘前に比べ力はないが無駄口を叩く。
「時間稼ぎはその程度にしておけ、道化」
 倒れ込んだ“サキエル”の下からの声が止んだ。
「その腹にある赤い玉が光っているから何をするかと思えば……回復か? まさか勝てるとでも思っているのか?」
「……」
「悪いがこれ以上つき合う気はない。そこで、そのまま、死ね」
 赤い玉ごと踏み抜かんと足を振り上げる“鬼”。一回、二回……
 ATフィールドを完全に中和、ダイレクトにダメージを与え続ける。特に激した風もなく、淡々と機械的作業を続ける。笑う。自らの行為が何を成すのか完全に理解しているのに……
 何度目になるか。苛立ちとともにひときわ大きく動き踵を振り下ろす。鈍い音とうめき声。
 とうとう光球にヒビが入ったか。
 その瞬間、シンジに油断があったことは否定できない。それを責めることが酷と思えるほどの速さもあったことは事実。おそらく、この瞬間を待っていたのであろう。軟体動物……いや、原生動物じみた動作で“鬼”の身体を這い上がる。状態を包み込み、
「伏せろ、惣流!!
 それだけ言うのが精一杯。言えただけ上等と見るべきか、引き替えに自分の回避動作が遅れる。
 悪態をつく暇もなく光が視界を浸食する。爆圧。自分がどこにいるのか、どんな姿勢でいるのか分からない。接続の解除。上下感覚の喪失。意識の混乱。どこかで何かが切れてしまう感覚。
 “六分儀”の意識は闇に飲まれゆく。
 

 


 反射的に張ったATフィールドのおかげで惣流アスカとその周囲は破壊を免れた。上手い具合にこちらへ吹き飛ばされてきたシンジもキャッチした。最後に何かを蹴飛ばしたようだったから、もしかすると彼の計算通りだったのかも知れない。しかし、周囲の崩壊まではどうしようもない。この区画はもちろん、下へ4フロア、上は屋上までがなくなっている。ゆっくり観察はしていないが、周囲の建造物にも被害がでているだろう。
 僅かな間――とは言っても、額の汗を拭うぐらいの時間だが――二人の重みに耐えたが、支えがないのではどうもしようがない。惣流アスカの短い悲鳴だけを残し、残った構造物もろとも下へ。“ツヴァイ”によって包まれるが背中から落下、ATフィールド越しの衝撃に息が詰まる。同時に第二の身体が消える。限界。やはり、まだ自分の意志でフィールドの強化は出来ないか。
 ふと気づく。腕の中の重みに。自分がとっさに抱きしめたものに。
 短めの黒い髪。結構柔らかくて細い。サラサラしている。
 美少年とは行かないまでも悪くはない顔立ち。
 華奢ではあるが、意外なほど頑健な身体。筋肉の付き方が破砕戦闘者(パワー・ウォーリア)のものではなく戦闘技術者(テクニカル・ファイター)のものだ。いらぬことまで確認してしまった。重要なのはそう言うことではない。
 視線を戻す。その顔へ。その顔が発展途上ながらそれなりに豊かな胸の間へと……
 蹴り。
 正確に鳩尾に入った膝がいつもより鋭かったり、顔が熟れたトマトよりも赤かったり……意識は取り戻したが苦痛とパニックで――目を覚ましたら息が出来ないのだからそれは驚くだろう――転げ回っているシンジにはもうどうでも良いことだが。
 その有様を眺めながら実際的な問題に思考が向く。
 これからどうしよう、と。
 
 
 4cmのヒールで階段を全力疾走する。冗談のようだが葛城ミサト警視は実行している。普通は遙か後方に置いてきた伊吹マヤ警部補のように靴を脱いで走ったりするものだが。転倒すればどうなるか。すぐ後ろ、横とも言える位置を走っている加持リョウジにとっては気が気ではない。
 エレベーターに乗る前にビル全体がすさまじい揺れに襲われ、電気の供給が絶たれエレベータの籠自体地下へと落ちていった。あの衝撃が後30秒も遅れていれば……皆共に地下でひしゃげることになっていたか。
 結局はこうして自らの足を使って15階をさらに上へと向かっているわけだ。伊吹マヤが5フロア分、日向マコトが3フロア半。青葉シゲルが1フロア遅れで後に続いている。ちなみに加持リョウジは2段遅れでほぼ併走状態。
 上に近づくに従い、コンクリート塊などの障害物は増えているが火の出ている様子はない。通常の爆発ではない? 思考に埋没する分速度が落ち、後背の青葉シゲルの姿がちらちらと見えるようになった。16階を通過したところで足が止まる。さすがに走れるような状態ではなくなっている。わずかに息が切れているあたり、もう若くはないことを実感させられる。昔は、1万メートルくらい楽勝だったのに。すぐに追いついてきた青葉シゲルは合格。日向マコト、もともと肉体派でない彼がここまで着いてきたのだ。大目に見よう。伊吹マヤは……葛城ミサトたちのもとへ辿り着くなり倒れ込んでしまった。瞬発力はあるのだが持久力に欠けるようだ。
 もっとも、葛城ミサトや加持リョウジのような特異な人間を基準にすること自体間違っているのだ。
『文武両道に長ける、しかしながら性格に難あり』
 その昔、担任教師から得た葛城ミサトの評価がこれだ。とてもわかりやすい人物評だ。
 夜の風がここまで届く。まだ8フロアほどあったはずだが……静かにもう1フロア。風が強くなる。コンクリートの屑を避けながらもう1フロア。赤い夜空が目の前に広がる。
 非常階段がばっさりと切り取られた先。大の字になって荒い息をつく少年と、仕方がないとばかりに膝枕をしてやっている少女。恥ずかしくも微笑ましい一幅の絵がそこにあった。
 疑問が一つ。
「アンタたち、ここで何してんの?!
 荒涼たる破壊の跡。
 無傷の少年少女たち。
 色気づいてんじゃねぇよ。このガキどもが。
 多少の雑音を含みつつ跳ぶ。失われた踊り場を越え、屋上と化した21階に立つ。
 加持リョウジが続いて打ち止め。かつて踊り場だった足場が、これ以上の重みに耐えられそうもない。21階の床にも何十カ所か穴が空いているようだ。加持リョウジが後輩たちを制し、下の階へと下がらせる。
 その間に少年が立ち上がり深呼吸。
「それ以上近づかないで下さい」
 “碇”でも“六分儀”でもない。
「ボクは誰も傷つけたくない」
 惣流アスカの知るどのシンジでもない。
「だから」
 光はどこにでもある。
「『だから』どうしたってぇのよ」
 光あるところ影は自ずから生じる。
「一体何があったの」
 かまわず間を詰める。子供の戯言に耳を貸してはいられない。
「だから」
 恐怖。
「言いなさい!!
「来ないで!!
 “シンジ”の言葉と同時に紫の影が床から飛び出す。
 猛る。
 吼える。
 そして、
 跳ぶ。
 防衛本能の暴走。過剰反応。恐怖からもっとも効率よく逃れるには?
 
 対象の破壊。
 
 その実行直前に停止する。葛城ミサトは……自分では一歩も動けなかった。彼女を突き飛ばし、その前に出た加持リョウジは大したものだ。
 シャツからこぼれた銀の十字。
 それを食い入るように見つめ、今度は少年少女のもとへと駆ける。
 御守り。
「危ない」
 つい叫んでしまったのは、紫の怪物が二人をさらってから。少年はその肩、肩部の突起に寄りかかるように。赤い髪の少女はその腕の中へ。そのままビルの壁面へと速度を殺さない。
 慌ててその後を追いかけた二人が見たものは、
「なんてインチキ」
 壁面を横へと駆ける。落下速度の一部を横への移動速度に転化し、無理矢理減速をかけようということか。地球引力に真っ向から喧嘩を売るような行為でも満足な減速は得られず、最終着地点に選んだのは青い車。
「ゑ゛」
 それを豪快に踏みつぶし、紫の巨人は消え去る。少年少女はコンクリートの粉塵が積もったZZRに火を入れ走り去る。ヘルメットはタンデムシートの少女が着用していたようだが、そんなことはどうでもいい。問題は、
「私のルノーが。私の……」
一見してスクラップにするしかなくなった己の愛車。
 もう少しすれば同僚や消防も来るだろう。
 それまでには何とかしよう。彼女を。
 
 余談ではあるが一つ。翌日から一週間でこの二人が出入り禁止になった盛り場は十指に余ったらしい。経緯などは関係者全てが黙して語らないため一切不明。想像はつくが。
 


 
 

 エピローグ
或いは、新たなる平穏
 
 
 普通のカードリーダーに普通のカードキー。インターホンを無視してロックを解除。鋼鉄製の空気圧式ドアがスライドし、白衣の訪問者を内へと迎え入れる。
 おや?
 見慣れたブーツの隣に薄汚れたバッシュ。
「見慣れない靴?」
 金髪が揺れる。
 首を傾げたのだ。
 珍しい。彼にも友人がいたのか……
 勝手知ったる他人の家。近くのスーパーの紙袋を抱えたままキッチンへ。
 きちんと片づけられたダイニングテーブルに手土産を下ろし一息つく。
「シンジ君、差し入れよ。仕事の後だからろくなもの食べてないでし……」
 間違いない。自分が見立てたTシャツに、ブラックジーンズが視界の端に引っかかる。それだけなら言葉を飲み込む必要がない。
 赤い濡れ髪?
「アンタだれ?」
「あなた何者?」
 同時に発せられた問いに、同じように不機嫌な顔を作る。
 もしかしてアイツ、この女のツバメじゃぁ……
 もう14だからこんな事があってもおかしくはないんでしょうけど……言ってくれればいい娘を紹介してあげたのに。なにも買わなくても。
 双方、甚だしい勘違いのため表情と語気がさらに険しくなる。
「聞いてんのはアタシ」
「質問しているのは私です」
 引かない。絶対引かない。意地でも引かない。
 ならば睨み合うしかない。
 そういう停滞もイヤ。
 だからもっとも手っ取り早い解決手段を取る。
「ちょっとシンジ、説明して」
「シンジ君、事情を説明なさい」
 またもや同時。続いて睨み合い。
 この2人、よくよく思考経路が似通っているらしい。
 少女と女の殺気が寝室から少年を引きずり出す。
 
 “碇”でもなく
 “六分儀”でもない
 “シンジ”だ。
 ただ“シンジ”としか名乗らなかった第3の人格。
 ドアの隙間から顔だけを出しているその姿は……情けないの一言に尽きる。
 何を考えているか分からないが、寡黙で凛々しい“碇”
 かなり嗜虐的(しぎゃくてき)だが、己に与えられた力を最大限有効に使う“六分儀”
 二人に比べ、あまりに異質な“シンジ”
 それは『普通』と言う
 
 彼自身覚えていることは少ないが、他の人格の時に行ったことはおぼろげながら知っている。ひとりではなく、3人というわけでもない。不安定なのだ、実際。
 大量の死をばらまく2人に、人を傷つけることすら拒否するひとり。
 リビングテーブルの両端、即ちもっとも離れてはいるが互いの顔が嫌でも目にはいるところに陣取った女性陣相手に、慎重に言葉を選びながら事情を説明。場所は2人の中間。
 2人の誤解が分かった時点で凄まじい口論となったが、意外なことに10分程度で終了。その時間はなかったことにして和解――戦時停戦協定のほうが正しいような気もするが――が成立したわけだ。双方自爆してしまったことだし、妥当と言えば妥当な判断だ。
「で、貴女、これからどうするつもり?」
 当然と言えば当然過ぎる問いに少女は軽く肩をすくめてみせる。
「ほとぼりが冷めるまでここで世話になるわよ。他に行くアテもないし、今度あんなのに狙われたら一人でなんとか出来そうもないし」
「ここに?」
「そっ。えっと、そこの空き部屋」
「いいこと、アスカ。シンジ君も一応男の子よ」
「分かってるわよ。だいたいコイツに女の子を襲う度胸があると思う?」
「……それもそうね」
 思わず納得してしまった。自分たちがかなり酷いことを言っていることに気づきもしない。
 とは言え、“シンジ”はこの通りだし、“碇”はいやがる女をどうこうするタイプではない。問題は“六分儀”だが、女より殴り合いのほうに興味があるようだ。彼女がそうと望まない限り間違いはないだろう。とは言え、14・5で親となるものも少なからずこの街にはいるが。自分は保護者だから気に掛けるぐらいはしておきたい。半ば義務感、半ば本心。所詮ロジックではないのだ、こと男と女は。気に掛けてもどうせなるようにしかならない。友人たちのように。
「でしょ……って、こらシンジ。すねてんじゃないの」
「いいんだ。どうせボクなんて。そりゃぁ、あいつらに比べたらさ……」
「なにうだうだ言ってんのよ。ちょっと、こっち向きなさい」
「何だよ惣流」
「むっ。昨日、惣流って呼ぶなっていったでしょうが。寝る前に」
「なっ、貴女達ってもうそんな……」
「誤解だってリツコさん。ボクのM92FSに実弾篭めた上に、セーフィティーロックを解除してるんだよ。あと、M16A2なんか持ち込んで、枕元に立てかけてなにするつもりなんだよ」
「それが何よ、乙女の一般的な自己防衛手段よ」
「そんなわけないだろっ」
「少なくとも前にやっかいになってたヒカリの家は、姉妹三人とも似たようなものだったわよ」
「う゛っ。じゃぁ、何でボクがリビングで寝るって言ったのを止めたんだよ」
「うっさいわね。男のくせに細かいこと言わないの。もう一組布団がないなんて言うから可哀想に思ったアスカちゃんが哀れみをかけてあげたんだから。ちったぁ嬉しそうな顔をしなさいよ」
「なんだかんだ言い訳し照るけど、ぬいぐるみとか……なんか抱いてないと寝られないってはっきり言ったら?」
「ななななななっ、なに言ってんのよ、シンジのくせに」
 本当は怖かった。初めて自分の手ではどうにもならない事態にぶつかったことが。自分が手も足も出なかったことが。失敗したことが。
「明け方に抱きついてきたのはアスカじゃないか。『サル吉』とか言って」
「そんな時間まで起きて…アンタ何してたのよ」
「いいだろ、べつに。アスカには関係ないだろっ」
「同居人の生態が関係ないわけがないじゃな…って、ああっそうだ。分かったわよ。アンタ、アタシの『ないすばでい』に悶々として眠れなかったのね。アタシって罪なお・ん・な」
「そんなんじゃないって。別にアスカの裸見せられたって嬉しくも……ってクビクビ、入ってるはいって……」
 落ちた。
 最後は惣流アスカが無言で飛び掛かり、背後から頸動脈を締め上げ落としてしまった。ココロにもないこととはいえ、言ってはならぬ事を言ったのだ。むしろ寛大な処置ではないか。
 最後は実力行使というあたりなかなか元気があってよろしい。なんだかんだと言っても息が合っている。ほら、落としたと思ったら心配になったらしい惣流アスカがすぐに『活』を入れようとしている。見ていて微笑ましい。
 さて、お姉さんは仕事に戻りますか。
 麻酔をかけたままほっぽってきた患者。そろそろなんとかせねばさすがにマズイだろう。
 
 
 警視庁第三新東京分局刑事部参事官室。警部補三人は葛城ミサトの厳命により3日間の休暇。昨夜の『第3太平洋ビル』爆破事件は早々にテロと断定。公安警察へと捜査権が移った。もう手が出せない。現場に居た少年少女の件は口外していない。言ったところで無視されるのが落ちだ。非常識すぎる。
 加持リョウジはとりあえず登庁しているが、隣のオフィスで爆睡中。
 御利益覿面(てきめん)、赤木印のお守り。
 アルピーヌ・ルノー A−310の損壊に関しては、めでたく保険が下りることとなりそうだ。早朝にやってきた保険の査定員が言っていた。改造費用も合法である分は返ってくるそうだが、色々楽しい機能に関しては自腹を切るしかない。
 今度会ったときは何を話のだろうか。
 下の方は、『第三太平洋ビル』から「テロリストの目的を知るため」と称して押収した資料から立件する仕事を始めたらしい。葛城ミサト参事官に声が掛からなかったので、関係ないと言えば関係ないが。とりあえず席に着いたものの仕事がない。
「神は天に居しまいし給い、
 なべて世は平和なり、と。
 事件をなかったことにするなんて、日本でもここぐらいのモンよねぇ」
 案の定『別邸』に関しては箝口令が出された。
 それによってあぶれた死者は、事故件数の水増し、大きな事故での死者の水増し、行方不明者の水増しによって処理される。
 なべて世は平和なり。
 表向きは。
 参事官室は少なくとも平和である。
 たった一人の広い部屋。穏やかな寝息が支配する。
 
 なべて世は平和なり
 
 今、この時だけは。
 

(隠〜おに〜 了)
 

 
あとがき
 
 ども、片山です。
 今回は60万hit突破記念と称して後編です。
 3人(?)のシンジ君、いかがでしょうか?
 冒頭の「孫子」は『勝つには勢いとタイミングを見極めろ』という意味です。当然と言えば当然ですが……“六分儀”なんか、そんなの無視して勝っちゃうし。しかし、大なり小なり戦うということの基本であることは間違いないでしょう。
 
 さて、次は『赤の女帝』です。その前に『銀アス』でお会いいたしましょう。では。
 ご意見、ご感想、ご批判、等ございましたらこちら(kyow@k-katayama.net)まで。
 
 
参考文献
創竜伝7(文庫版) 田中芳樹・著 講談社
孫子 名将の条件 板川正吾・著 日中出版
風水都市 香港(上・下) 川上稔・著 メディアワークス/主婦の友社
奏(騒)楽都市 OSAKA(上・下) 川上稔・著 メディアワークス/主婦の友社

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