醜いアヒルの子

 

 動くものはなかった。その静寂が支配した部屋の中では、男も、女も、時さえも。女によってもたらされたその静寂は、男を十分に蹂躙した後、その姿を驚愕から悲哀へと移し替えた。すべてのものは、静寂にかき消された。

 男は狼狽していた。頭の中では疑問だけが渦巻いていた。いつもと同じはずだった。いつもと同じく、求め、別れ、そしてまた逢うはずだった。それが何故?すべてが疑わしかった。自分の鼓動も、未だ感じる二人のぬくもりも、女の言葉も。まどろみの中で見る夢の出来事のように思えた。しかし、沈黙がもたらす痛みが、すべて現実の出来事だと告げていた。

 止まった時を動かしたのは、女だった。未だ沈黙に犯されている男に、先ほどと同じ言葉を投げかけた。先ほどと同じ、感情の色の見えない、ただ事実だけを告げる声で。

 

「もう終わりにしましょう。」

 

 動き出した時のなかで、男にできたことは、瞳に映る女の後ろ姿を霞ませることだけだった・・・・・。

 

 

 

  醜いアヒルの子  後編

 

 

 

 梅雨が明ける頃には、私は元通り元気になり、大学に通うようにもなっていた。ただ一つ違ったのは、私を取り巻く世界が変わったことだけだった。

 生まれ変わった私の相貌に浴びせかけられる視線は、それまでの忌諱と侮蔑のものから、憧憬と羨望へとその種類を変えた。母親からの最期の贈り物である(私はそう信じている)この美しい容貌は、その効果をいかんなく発揮し、私はどこにいても、何をしても注目の的だった。私の知性とこれまでの人生で培われた翳りは、その相貌に不思議な魅力を与えたようで、かつて私が母親をそう見ていたように、崇拝の対象として扱われることもしばしばだった。もちろん、私を妬む人も少なくはなかったが、それ以上に私に寄り添ってくる人に囲まれていた私には、そんなことは些細な問題だった。それどころか嫉妬の対象であるということは、私にとって喜びでさえあった。

 

世界が変わったことを知るにつれ、それまでどちらかというと内向的でおとなしかった私の性格は、徐々に社交的で居丈高な色を見せ始めた。人生がこれほどまでにすばらしく、満ち足りたものであると初めて知った私は有頂天になっていたのだろう。しかし、かくも自由に大空を羽ばたける白鳥の翼に感謝し、不自由なアヒルの姿に戻ることを恐れた私は、変わりゆく自分を改めるどころか、意識して不遜な白鳥を演じることを選んだ。そんな私の驕慢ともとれる態度は周囲の人間を興醒めさせるどころか、それもまた魅力の一部として認められることになった。

 

 常に注目を浴び続ける私には、異性から多くの誘いが舞い込んでくるようになった。初めて男性に声をかけられたとき、私は戸惑うばかりだった。私のそれまでの人生にとって「恋愛」という二文字は最もなじみのないものだった。恋人どころか、異性から、からかい以外で話しかけられるという機会をほとんど持たなかった私には、異性からの誘いはたとえそれがどんな人物からのものであったとしても喜ばしい限りだった。そして戸惑いが自信に変わる頃、私は初めて男に抱かれた。

 

大学で知り合った知人たちと夜の町に繰り出した私は、飲み慣れないアルコールのせいもあったのだろう、ともかく誘われるままに男について行き、そして一夜を共にした。そんなかたちで処女を失う結果に不覚と言われれば確かにそうなのだが、しかし、そのことに私は何の感慨も抱かなかった。貞操を軽視していたわけでもないが、夢見る乙女のままでいるには私の人生はあまりにも曲がりくねったものだった。日々激変する世界と価値観の中で私の心が麻痺していたのも事実だった。ただ痛いだけの初めての経験に、漠然とSEXとはこんなものかと思い続ける中で、必死になって私を求める男の目は私のプライドを強烈に刺激した。虐げられてきた人生の中でいつのまにか歪んだ私のプライドは、SEXという行為を通じてその存在の大きさを私に知らしめた。

 

その後、私は誘われるまま、求められるままに幾人もの男たちと肌を合わせた。その男たちと執り行われる行為は、確かに肉体的快楽をもたらしたが、それよりも狂ったように私を求めるその激しい感情に私は酔いしれた。しかし、相変わらず私の人生には「恋愛」という二文字はなかった。体を求めるという行為は、私にとってプライドを満足させる以上の意味を持たず、またその行為の相手もしかりだった。ひたすら、激情に酔いしれるなかで、私は決して満ち足りることのない想いを抱き続けた。理由はわかっていた。私の心は凍てついたままだったからだ。そう、母親を失ったあの日から。どんな激情も、どんな満足感も、私の凍てついた心を溶かすことはできなかった。肌のぬくもりでは防ぐことのできない寒さに身を震わせながら、それでもいつか満たされることを願い、私は男たちを受け入れ続けた。

 

 

 自尊心を満たす快感と、癒やされることのない切なさに、その身を蝕まれていた私が彼に出会ったのは、あの事故から一年が過ぎた頃だった。

 

 

その日、私は大学の食堂でちょっとしたトラブルに見舞われていた。私の目の前で一人の男が延々と喋り続けていた。私は黙って聞いていたが、我慢の限界も近いことが自分でも感じ取れた。初めは興味を注いでいた周りの人間も、いつものごとく傍観を決め込んだようだ。見慣れた風景だった。要するに目の前の男・・・名前も覚えてはいないが・・・は、一度手にした私との関係を何とか失わずに済むよう長々と述べ立てているのだ。私の剣呑な様子に気づきもしない男にさらに苛立ちを募らせ、

 

「一度寝たぐらいで、勘違いしてんじゃないわよ!!」

 

 そう浴びせかけ、さっさと席を後にしようと立ち上がった。男は、一瞬驚きに目を見開かせていたのだが、すぐに我に返ると乱暴に私の腕を捕まえ留まらせようとした。

 

「待てよ!まだ話は終わってないんだぜ!!」

 

「うるさい!!」

 

 私は一言そう叫ぶと、強引に男の腕を払いのけて早足で食堂の出口を目指した。男の無礼な態度に怒り心頭だった私は周りのことなど見てはいなかった。進む行く手の影などには気もつかず、その時にはただ視界一杯に人の背中が映っていた。

 

「きゃっっ!」 「わっっ!」

 

 鈍い尻餅の音とともに、食器をひっくり返す甲高い音が耳に触る。数々の私を襲った不愉快な出来事に私は苛立ちを爆発させた。

 

「痛ーい!ぼやぼやしてんじゃないわよ!!」

 

「ゴ、ゴメン」

 

 明らかに私が悪いにも関わらず、すぐさま返ってきた気弱そうな謝罪の声に私は目を見開いた。

 

「・・・もしかして、碇くん!?」

 

            *          *

 

「さっきはごめんね」

 

 私の口からでたのは、珍しくしおらしい声だった。そして、一人ドギマギする。目の前に初恋の男性がいる。その事実が否応なく昔の私を呼びだし、うつむいた視線をあげることさえかなわない。碇シンジ、私にとって母親と同じ、いや、他人であるぶん一種特別な意味を持つその名前はたとえどんなに私が変わろうとも忘れることのできないものだった。私がほのかな恋心を抱いた彼とは、高校生活最後の1年間というわずかな時間を共有したに過ぎない間柄だったけれども。

 

「いや、もう別に気にしてないよ」

 

「でも・・・」

 

 言いかけた言葉を続けることができない。顔を上げた瞬間、彼の優しい笑顔が目に入り、思わず赤面して再び視線をうつむける。私はこの笑顔に弱かった。私の高校生活のなかで、彼だけが唯一人私に気軽に声をかけてくれた。どちらかといえば、女性に対して奥手だった彼は、たどたどしく私に話しかけてきたものだ。しかし、そんなたどたどしさが私を普通の女の子として扱ってくれる証のようで、とても心地よかった。そのときの他愛もない会話をかわしながら彼が浮かべる笑顔が、今も目に焼き付いている。

 

「ここの大学に通ってたんだ」

 

「うん、まあ一年浪人したんだけどね」

 

 わずかに照れたように答える彼の様子が、昔とあまりにも変わっておらず、ふと笑みがこぼれる。しかし、意外だった。高校時代の彼の成績を思い浮かべて、1年浪人したとはいえ、ここの大学に受かったという事は相当努力をしたのだろう。まあ、そんなところも彼らしいといえば彼らしいかな、と一人心の中で呟いた。

 

「大変だったんじゃない?」

 

「うん、まあ、それなりに。それよりも惣流さんのほうこそ大変だったんでしょ。聞いたよ・・・・事故のこと」

 

「・・・・ええ」

 

「・・・・・」

 

 それまでとは違った理由で私は顔を上げられなくなった。懐かしさに任せて私はすっかりと失念していた。私の顔が昔とは違うことを。彼はこれまで一度もそのことに言及しなかったが、実際のところどう思っているのだろう。初恋の相手がまるで様変わりした私にどんな印象を抱いているのか、怖いと思う反面、非常に興味をそそられた。

 

「私、変わったでしょう?」

 

「・・・・うん・・・」

 

 私が思いきって踏み出したその一歩に、彼は、肯定とも否定ともとれる答えを返した。その答えに私はわずかに失望したが、懐かしくもあった。高校時代、私は彼に、誰か好きな人はいるのか、と尋ねたことがあった。彼は頼りなさげではあったが、その繊細な顔立ちと柔らかい物腰で意外なくらい人気があった。彼がそのことに気付いていたのかはともかく、特定の人物とつきあっているという話を聞いたことがなかった。私は恋心は抱いていても彼のほうにそれを求めようとは思っていなかったが、それでも真剣味を帯びる声を可能な限り冗談めかして尋ねた。そのときの彼の返答がまさしく先ほどのものと同じだった。

 

「「・・・・・・」」

 

 二人の間に気まずい沈黙が漂う。もともと口下手な彼と、すっかりと昔の自分に戻った私では、間断なく会話を続けることは難しかった。おまけに先ほどの私の質問で容易に口を開ける雰囲気ではなくなった。お互いにかける言葉もなく時が過ぎてゆく。そういえば、高校時代の最後のほうもこんな感じだったな。まあ、あのときは一方的に私が避けていたのだけれども。理由はたいしたことではなかった。少なくとも彼に責任はない。理由さえ彼は知らないだろう。彼が女の子と話しているのを私が目撃しただけだった。別につきあっていたわけでもない私がその場面を目撃したからといって彼を責めるいわれはない。けどショックだった。彼に対する私の想いは見返りなど求めはしない憧れにも近いものだったし、彼が話していた・・綾波さんといったかな・・その女の子と彼の間に特別な関係があったわけでもない。けれども悔しかった。彼と彼女があまりにも似合いのカップルのようだったことが。彼が彼女に、私以外の女の子にその笑顔をむけていたことが。おこがましい嫉妬と感じるはずのない失望が私をその場から逃げ出させた。それ以来私は彼を避けるようになった。彼は何かにつけ私に話しかけてきたのだが、受験勉強が本格化するにつれその機会も減っていき、最後にはほとんど話すこともなくなった。

 唯一私に対して公平な人物を私は自分の手で失う結果になったが、そのことに寂しさを覚えても後悔することはなかった。あんな辛い思いをするくらいなら・・・そう自分に言い聞かせていた。

 

「あの・・・」

 

「えっ!」

 

 自分の思考に入り込んでいた私は、彼の言葉に過剰に反応した。

 

「あのさ、その、もし惣流さんさえよかったら、また逢ってくれるかな?」

 

 私には即答しかねた。彼への想いはあのときに封じ込めていた。もう一度彼に遭えばその想いを閉じこめておくことはできないだろう。今また彼にあってその想いの強さをおもい知った。しかし、私の葛藤はそんなことではなかった。彼の笑顔にわずかに媚びるようなものを見つけたからだ。いつも私に付き従う男たちと同じものを。

 

「やっぱり駄目かな、惣流さん?」

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ア・ス・カ。これからは惣流さんなんて他人行儀な呼び方なんかじゃなくアスカよ。わかったわね、シンジ!」

 

 私は、白鳥の衣をまとうことにした。

 

            *          *

 

 彼との関係は恋人同士といえるものだった。ほかの男たちのように一度きりの体だけの関係を彼に用いなかった理由は私にもわからない。彼のことを愛している、そう断言するには私の心はあまりにも荒みきっていた。もしかすると、もう限界まで来ていた心の渇きが、奥底にあった淡い感情を利用しただけかもしれない。私の快楽に慣れきった歪んだ感情が、憧れの人を手中に収めるという新しい刺激を求めただけかもしれない。素直に彼のことを受け入れることができない自分が無性に哀しかった。

 

 暗い想いが心の中に渦巻いてはいたけれども、私が彼との関係を楽しんでいたのも事実だ。彼とのつきあいはとても新鮮だった。腕を組んで街を歩く。待ち合わせをして、一緒に映画を見て、食事する。ウィンドウショッピングに彼を振り回す。そんな普通の恋人同士の光景を私は経験したことがなかった。醜い頃は、男性とそんなことをするとは夢にも思ってはいなかったし、美しくなってからは、言い寄る男共に自分の普通の女の子の部分を見せるなんて事は、優雅な白鳥のプライドが許さなかった。等身大の自分で彼との逢瀬を重ねるごとに、私の心の冷えが徐々に薄まる気がしていた。

 

 ただ一つ、彼との関係に不満があった。それは彼の態度だった。確かに彼は、私に対して優しい気配りをし、私のわがままも笑って聞いてくれた。私を丁重に扱ってくれた。しかし、あまりにも丁重すぎた。まるで腫れ物を扱うかのごとく、私に触れることさえためらう彼の様子に、控えていたとはいえそれでも過剰なプライドが反応した。私の女としての魅力に抵抗する彼を許しておくことはできなかった。だから私は、自分のほうから彼を誘った。

 

            *        *

 

 私は冷静ではいられなかった。彼と初めて生まれたままの姿で向き合った瞬間、私はいいようもない不安と興奮を覚えた。こんなことは初めてだった。私は、男を知らない体ではない。おそらく、目の前の男性よりも経験は豊富だろう。初めての時も、その後幾多の男たちと体を求め合ったときも、こんな気持ちになったことはなかった。初めて感じる不安に戸惑いはあったけれども、決して不快ではなかった。興奮で回らない頭の中で、もしかすると私は今初めて男の人と一つになるのだろうと予感めいた考えをめぐらしていた。肉体的な繋がりはとうの昔に経験していたけれども、それは単に「行為」と呼ぶものでしかなく、身も心も一つになるというものとは遠くかけ離れていたように思える。不安と期待で熱ぽっく感じる両頬を持て余しながら、彼を凝視することもかなわず、ただぽつねんと身を横たえ続けた。彼の裸体を視界の端にわずかに、しかし絶えず収めながら過去に経験したはずの処女を失う心境を今初めて味わっていた。

 

 彼の稚拙で荒々しい仕草によってもたらされる快感に私は見悶えしていた。彼の愛し方は、お世辞にも上手と言えるものではなく、彼が普段私と接するようにたどたどしいものではあったが、それでも押し寄せる圧倒的な快感に私は溺れていた。これまで、どんな男に抱かれようとも決して溺れることのなかった私が、今こうして彼の腕の中で身動きすることもままならない。私を襲う興奮と快楽の波の中で、わずかに残った思考が私に告げる。私は彼を愛しているのだ、と。これまでそう感じつつも、信じ切ることのできなかった想いが、彼と一つになったことで確信に変わる。その想いがさらに私に快感をもたらし、彼を求めさせ続けた。幾度となく互いを求め、果て、そしてまた求める、そんな繰り返しの中で私は軽く閉じた瞳にそっと映し出した。愛おしい人の顔を、その瞳を・・・・。

 

 彼との熱く激しい時間が終わったとき、私は奇妙な感覚を覚えていた。永く忘れていたその感覚が何を意味するものか悟ったとき、私は彼に気付かれぬようにそっと背を向けた。そして、静かに指を頬にあてる。情事のあとの肌にまとわりつくような汗とは違った、それよりももっと純粋なものが私の指を濡らす。私は泣いていた。これまでどんな苦しいときも、そう母親が死んだあの日さえも泣かなかった私が、今こうして涙を流している。懐かしくさえあるその水滴をじっと見つめながら、その理由を、その涙の色を探した。

 彼と一つになれたことが嬉しかったのだろうか。確かに喜びを感じてはいたが、それだけで涙を流せるほど私は純粋とは思えない。では、哀しかったのだろうか。彼との関係は私が望み、半ば強引に誘ったようなものだ。私が傷つく理由はない。いくら考えても、納得できる理由は見つからなかった。私が流す涙の色は、果たして歓喜の色なのか、悲哀の色なのか、どちらでもあるようだし、どちらでもないようにも思えた。ただ、理由はわからなくても久しぶりに姿を見せた涙は、それまでの不在の無念を晴らすかのように止まる気配を見せなかった。

 

 燃え上がった興奮が収まったのか、私の様子に気付いたらしい彼がたっぷりと気遣いの感情を込めた誰何の声をかけたきた。彼の心配りは嬉しくもあったが、自分でさえ理由のわからない事態に戸惑い続けていた私は、ごまかしの気持ちも込めてただ一言怒声を返すだけだった。彼は私のそんな態度に怒った様子もなく、しかしさらに声をかけることもできずにばつの悪そうな顔をしていた。優しい彼には申し訳ないが、今の私には自分の涙のことしか考えられなかった。止めどなく頬を伝う涙が、シーツに模様を描いていくのを見つめ、ただ声だけは漏らさぬようにそっと唇をかみしめていた。先ほどまでの荒々しく甘美な時間が嘘であったかのように、痛いまでの静寂が二人を包んでいた。

 

            *          *

 

 私たちの関係は続いていた。初めて体を求め合った後、彼は私との関係を半ば諦めかけていたようだったが、私は普段通りの強引さで彼を誘い出し続けた。戸惑う彼を尻目にいつものように街に繰り出し、デートを重ねる。そして夜が更けると彼と体を合わせる。そんな二人の時間をいくら繰り返しても私の不可解な仕草に変わりはなかったが、はしゃぎ、そして泣き続ける私を、彼は理解できずとも受け入れ続けた。

 

 しかし、二人ともどこかしら無理をしていたのだろう。二人の間のわずかな戸惑いが自分たちは気付かなくとも、周りの目には見えていたのだろう。彼とつきあい始めてからすっかりと鳴りを潜めていた有象無象共からの誘いが頻繁にやってくるようになった。

 

「あんな奴は惣流さんとは釣り合わないよ。」

 

「・・・・・・・・・」

 

「あんな奴よりもさ、俺のほうが君に似合うぜ。だからさ・・・」

 

「つまらない冗談ね」

 

「へ?」

 

「私と釣り合うかどうかはともかく、少なくとも彼のほうがあんたよりも数倍マシよ」

 

 私はどんな誘惑も冷淡に拒否し続けた。私のとりつく島もない受け答えに男たちはすごすごと引き下がるしかなかった。しかし、どんなに私が頑なな姿勢をとろうとも私を誘惑する声が止むことはなかった。何故かは、自分でもわかっていた。私の態度が問題だった。どんな男の、どんな誘いにも私はきっぱりと、そして冷たく拒否の言葉を返していたのだが、私は彼を愛しているとか、彼から愛されているとかそういった意味の言葉を決して口にはしなかった。そんな私の態度が周りの男たちに在りもしない希望を抱かせることになっていた。一言、私がその言葉を口にするだけで、この煩わしい状況から抜け出せたのだが、私にはそうすることができなかった。私は彼を愛している。彼もそうだろう。愛し合う二人の関係を他人に知られたくない訳ではない。ただ・・・・・・。

 

 もうこの頃には私は、自分の涙の意味を悟っていた。

 

            *          *

 

 終わりは突然やってきた。いや、彼にとってはだが・・・・・。

 

 すでに自分の涙の意味を知ってしまった私にとって、彼と愛し合うことは苦痛でしかなかった。彼の声を聞く度、彼の笑顔を見る度、彼のぬくもりを感じる度、私の心は悲鳴を上げていた。彼の暖かさによって溶かされ始めた私の心は、彼の暖かさによってそのむき出しの肌を傷つけられた。私は心の中で悲鳴を上げながら、それでも彼に、彼のぬくもりにすがっていた。日増しに強くなっていく悲鳴に、彼との関係が終わることが目に見えながらも、私はもがき続けていた。

 

 ついにその時は来た。彼との関係が一年の歳月を刻んだとき、私の心のきしむ音は限界に達していた。私は、心がどんなに悲鳴を上げていようとも、彼にはそんなことは毛ほども感じさせないように努めてきた。私の悲鳴を聞いて彼の笑顔が歪むのを避けたかった。今、私の中にある決意がそんな苦労から救い出してくれると思うと、わずかに気が軽くなったようだった。その決意がどんなに哀しみに満ちたものだったとしても。

 

 いつも通り。そう、いつも通りに彼を連れだし、ともに街を歩く。私は彼にわがままを言い、彼は苦笑しながらも楽しそうにそれを聞き届ける。他愛もない冗談に二人してお腹を抱える。

 

「今日はなんか、いつもよりも楽しそうだね。いいことでもあった?」

 

「そうかな?ねえ、それよりもさ・・」

 

「ん?」

 

「今日、シンジの部屋に行ってもいい?」

 

「へぇ、アスカが僕の部屋に来たがるなんて珍しいね。やっぱり何かあったのかな。うん、いいよ」

 

 彼の優しい笑顔に心が痛む。心のどこかで、今のままでいいじゃないかと囁く声が聞こえる。でも、そんな囁きもそっとまわした彼の腕から伝わるぬくもりが、ぬくもりによってわき上がる悲鳴が打ち消してしまう。瞳の中に哀しみが宿るのを感じて、彼のまなざしから逃げるように顔を伏せる。

 

「行きましょ」

 

「うん」

 

 

 

 彼の部屋、男にしてはきちんと整頓されたまさに彼の性格そのままの部屋。私はあまりこの部屋に来たことがない。この部屋に来るとなんとなく落ち着かない。理由のわからない焦燥が私を不安にさせて、あまり好きじゃなかった。でも、今ならわかる。どうしてこの部屋に来たくなかったのか。私は彼を感じさせるこの部屋を通じて、彼のすべてを知ってしまうのを恐れていたのだ。私が避け続けていたこの部屋が、今日この日には最もふさわしく思えた。

 

 わずかに逡巡する気持ちをシャワーとともに流し去り、すでにベッドに横たわる彼の元へと赴く。心なしか、彼の姿がぼやけて見えた。

 

「シンジ、愛している」

 

「僕もだよ、アスカ」

 

 

 私は激しく彼を求めた。強く、激しく彼を抱きしめ、彼に抱きしめられる。息苦しいほど長いキスをし、荒々しく互いを求める。あまりの激しさにどちらとなく咽せ込む。彼はわずかに抱きしめる力を緩めようとするが、私はそれを許さない。飢えた獣のように彼のぬくもりを求め、そしてそれを体に刻みつける。終わりのくることを恐れるかのように、求め合いの繰り返しに没頭し続ける。いつしか、時も、想い続けたことも忘れ去りただ、快楽の海の中に身を投じ、そして溺れ続けた。

 

 

 先ほどまでの情事によって、むっとするような空気が部屋に充満している。しかし、その熱気も時とともに少しずつ冷めてゆく。そのことを寂しく想いながら、シーツに描いた涙の跡をそっとなぞる。冷たい感触が火照った肌に心地よい。その感触を確かめるうちにいつのまにか荒かった息も収まりつつある。背中越しに感じる彼の息も穏やかに感じられる。彼が煙草に火をつける。その煙の匂いをかいだとき、私は時が来たことを知った。終わりの時が来たことを。

 

「ねぇ・・・・」

 

「・・・・・・」

 

 彼は言葉の変わりに、私の髪をそっとなでることで私に返答した。

 

「・・・・・しましょう」

 

「!!」

 

 彼は何も答えはしなかったが、動きを止めた彼の指が何よりも雄弁に彼の気持ちを語っていた。驚愕、困惑、疑問。私は彼に背をむけたまま、彼の顔を見ようとはしない。見たくはなかった。彼の優しいまなざしが、その笑みが私によってゆがめられる様を。私がさらに言葉を紡がないことで、重い沈黙が二人を包む。痛々しいまでの静寂に耐えられなくなったのか、彼が口を開こうとしているのが背中越しでもわかる。なかなか紡ぎ出されない彼の言葉を待つこともなく、私は立ち上がり、脱ぎ散らした洋服を身につけていく。そして、もう一度彼に背を向けたままで、その言葉を口にした。小さく呟くように、はっきりと宣言するように。

 

「もう終わりにしましょう」

 

 静寂の中に響いた嗚咽の声は彼と私、どちらのものだったのだろうか・・・・・・・・。

 

                         完結編に続く

 



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