小径の上。揺らめく陽炎の向こうから、二つの影が滲み出る。

 影――少女たちもまた、手に持った荷物の重さ故か、ゆらゆらと揺らめいてい

るように見えた。



 わき上がる草いきれ。

 木々の間を抜け、丘の上を駆ける大気の熱い流れ。



 苛烈な太陽の愛と共に、夏がやってくる――。



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      緑の街の物語 《Green-town's chronicle》


         第五話  しろつめくさ  -2016.7-


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「材料は揃ったし、後はおばあちゃんに教えて貰うだけね」

 にこにこ顔のアスカが言った。

「アスカって、ほーんとおばあちゃんっ子になっちゃったわねぇ」

 汗を浮かべた顔で、ヒカリが答えた。

「いーじゃない。でも……最近何だか、おばあちゃんがお母さんで……ここに居

るみんなは『家族』みたいに思えるわ」

「そうすると私はアスカの妹になるの?」

「年から言えばそうね」

「なるほど……世話の焼けるお姉ちゃんね」

「ひっどーーい!」

 二人は声を上げて笑った。

「じゃあね、アスカ。また後で」

 いつの間にかヒカリの家の前に着いていた。

「うん、つき合わせちゃってごめんね」



 ドアを閉め、紙袋を床に置くとヒカリは一息ついた。七月の日差しに炙られた

身体は火照り、汗が頬から首筋へと流れていく。空調のスイッチを入れ、浴室へ

と向かった。汗で湿った服や下着を手早く脱ぐと籠に放り込む。

 少し熱めのシャワーを浴びた。流れるお湯が張りのある肌の上を流れていく。

知らず知らず鼻唄を口ずさんでいた。汗を洗い流した後、少し冷たいと感じるま

で温度を下げた。

 この街に来て早三ヶ月が過ぎた。家族と離れているのは寂しいと感じるときも

あるが、彼女にはアスカたちが居た。

「あれ?」

 浴室からショーツ一枚で出てきたヒカリは、電子メールが三通届いているのを

知った。そのまま椅子に座り込むと、艶のある髪を空色のタオルで拭きながら読

む。一通目は二日前にここを去った友人から。二通目は――

「お姉ちゃんからだ……」

 ――タオルを持つその手の動きが止まった。



 一時間後。

 くしゅん。

「どうしたの? ヒカリ」

 アスカが心配そうに訊いてきた。二人のいるテーブルは巨大な樹の陰に覆われ

ていた。アスカたちの家からすぐ近くの場所である。

「ん、ちょっとね……シャワー浴びた後、よく拭かないで考え事しちゃったの」

「……珍しいこともあるものね」

 ヒカリの作り笑いを察してか、アスカはそこで言葉を切った。視点の定まらぬ、

憂いの浮かぶ瞳を暫く見つめた後、唐突に口を開くと、

「あした」

「うん?」

「あした、ピクニックに行かない?」

「ど、どうして?」

「どうしてもこうしてもないの。行きたいから。――行くでしょ?」

「い、いいけど……」

「じゃ、決まりね。みんなにも言っとかなきゃね」

「みんなって……」

 ヒカリは既に立ち上がったアスカを見上げた。

「三莫迦、それとレイ、よ」

 くるりと後ろを振り向き、

「判った?」

 と訊いた。

 テーブルの傍の長椅子に座り、本を読んでいたシンジとレイは一瞬呆気に取ら

れたような顔をしていたが、互いに顔を見合わせた後、

「いいよ」

「いいわ」

 と、答えた。

「後は残りの二人ね」

 アスカは風のように駆けていった。

 木陰のもと、取り残された感じの三人の上に、蝉の声だけが降り注ぐ――。



「やれやれ……ここもすっかり寂しくなっちゃったねぇ……」

 ブラインド越しに差し込む強い光に目を細め、呟くようにサトコは言った。

 二十人以上いた子供たちも、復調するに従い一人、また一人と家族のもとへと

帰っていった。今では六人しかいない。

 揺り椅子の上で微睡ながら、サトコはサイドボード上にいくつかある写真に目

をやった。右端――一番新しい物はシンジたちが写っていた。隣にはミサトの写

真がある。更にその隣には、水に濡れてふやけたのか、かなり痛んでいる写真が

あった。四十代半ばの夫婦と二人の子供――。

 サトコの貌に柔らかな――それでいて寂しげな笑みが浮かんだ。

 窓の外から誰かが駆け抜ける足音がした。アスカだとサトコは直感した。

「おばあちゃん!」

「……やっぱりね」

「何が『やっぱり』なのよ?」

 入ってきた途端、意味不明の言葉を言われアスカは怪訝そうに訊いた。

「何でもないよ。――相変わらず慌ただしい娘だねぇ」

 アスカは、しっとりと汗ばんだ血色の良い頬を更に紅潮させた。

「で?」

 沈黙したままのアスカに、サトコは問いかけた。

「ん……あ、そうだ。明日ピクニックに行くんだけど、おばあちゃんも行く?」

「どこまでだい?」

「え……っと」

 アスカは絶句した。行き先を決めていなかったのに気がついたからである。

「ここにいる全員に触れ回ったのに、行き先を考えてなかったなんて、アスカら

しいねぇ」

「何で判るのよ!」

 目を丸くしてアスカは訊いた。

「何となくね……」

 柔和な瞳が笑う。不快なものではない。アスカはその視線に母親を感じた。優

しく見守ってくれるもの――過去、自分が失ったもの――失ったと思っていたも

の――その代わりになるものを得るためどれだけ回り道したか――どれだけ人を、

自分を傷つけたのか。

「ライム・バニラ・パークはどうだね? 車なら出して上げるから」

 その言葉にアスカは我に返った。

「でも、あそこ、何にもないじゃない!」

「緑が有るさ」

 ライム・バニラ・パーク。

 アスカたちの家から車で一時間ほどの所にあるグリーン・タウン最大の公園で

ある。蒼い木々と緑の野の中に横たわる小径には、乳白色の小石が敷き詰められ

ていた。ただそれだけの公園に人が集まるのは、白と緑の見事なコントラストが

人々の心を打つ所為なのかも知れない。

「ふーん……確かにいいかも知れないわね」

 暫く押し黙った後、アスカは口を開いた。サトコは相変わらず優しい視線を向

けている。

「ありがとっ! おばあちゃん」

 アスカは輝くような笑みを送った。

「さぁ、準備しなくっちゃ!」

 バタンと大きな音がして扉が閉まった後、ややあって開くとアスカの顔が覗き、

「大好き」

 とだけ言い残して扉が閉った――今度は静かに。

 西暦二千十六年七月。

 この地に訪れた本物の夏の午後。柱時計の振り子の刻む音だけが聞こえる部屋

の中で、老婦人は優しく微笑んだ。

「私もだよ……」





 明くる日。十一時過ぎ。

 バニラ・アイス・パークの駐車場に、滑るようにマイクロバスが停まった。

「うーぅーー!」

 アスカはバスを下りるとき、右手で口を押さえつつ運転席のサトコに不満そう

な顔で唸った。

「あらまぁ、今日は丁寧に運転したのにねぇ」

 拗ねた孫娘を見るかのようにサトコは破顔した。



 車から出ると、緑の野がその優しき色で出迎えた。軽い傾斜を擁する公園の中

を、乳白色の連なりが幾つも走っている。

「さぁ、行くわよっ!」

 先頭を歩き出すアスカ。白いワンピースの裾が涼しげに揺れた。

 ヒカリとレイは目を見合わせ笑いあった。ヒカリは裾の長いベージュのワンピ

ース、レイは薄い桜色の半袖のシャツと、デニム地のショートパンツを履き、大

きな麦藁帽をかぶっている。

「――じゃ、お願い」

 レイは振り返るとシンジに向かって言った。

「いいよ」

 昼食が入った籠を持ち上げながらシンジは答えた。ヒカリと一緒にとことこと

アスカの方に駆け出す後ろ姿を見て、なんだか男の子みたいだな――と苦笑いを

浮かべる。

「姫様のお供はつらいね」

「ほんまやな」

 冗談混じりの声でトウジとケンスケも荷物を持つ。

「さてと」

 日傘を差し、サトコも颯爽と歩きだした。

 一行の前を、五歳前後の子供が三人、駆けていく。その後を親と思しき二人の

男女がゆっくりと歩いていた。シートを広げて座り込む若いカップルの姿もあっ

た。

「どうしたの?」

「え、な、何でもないわよ」

 三人の子供――どうやら姉妹らしい――をぼんやりと見ていたヒカリは、アス

カの問いかけにどもりがちに答えた。

「そう? 気になるの? 姉妹のこと」

 何気なく言ったアスカの言葉に、ヒカリはぴくりと身を震わした。

「ええ……。そうかもね」

 寂しげに聞こえる声を、二人の後を付いて歩いていたレイは静かに聞いていた。



「ここにしましょ」

 高台を背にアスカが言った。ここからだと標高差は三十メートルほどあるだろ

う。

「いい場所だねぇ。あそこは双眼鏡があるから、後で誰か行っておいで」

 汗を拭きながら、サトコは目で高台を指した。

「あー腹へったぁ」

 荷物を下ろしながらトウジが言う。

「……あんた、食べることしか頭にないの?」

 冷ややかなアスカの問いに、

「しゃーないやろ。へるもんはへるんやし」

 と然りげ無くいなした。

 一瞬の沈黙があった。

 一同の目は、いつもならすかさず突っ込んでくる人物――ヒカリに注がれてい

た。

「……わたしも……お腹すいちゃった」

 ぽつりとヒカリは言った。

「なんか元気ないわね……ひょっとして昨日風邪引いたんじゃないの?」

「ん……違うわよ」

「ならいいけど」

「じゃあ、シート敷くね……ケンスケ手伝って」

 場の雰囲気を察したシンジが荷物の中からブルーシートを取りだした。

「ん……ああ」

「わしも手伝うわ」



 青々とした草原の上を、紋白蝶がゆらゆらと飛び回る。遠くから鳥のさえずり

も聞こえてくる。常に吹いている甘い花の香りを淡く含んだ風の所為であろうか。

太陽の光さえ公園の中では優しく感じられた。

「ふぉーんと、ひてひょひゃったわねぇ」

「アスカ……喋るか食べるかどっちかにしなよ」

「んぐっ――いいじゃない……おいしーんだから」

 お茶でサンドイッチを流し込んだアスカがシンジに言い返した。

「色気より、食い気やな」

「何ですってぇ! そんなこと言うならあげないわよ……このハムサンド」

 アスカは昼食の入った籠を抱え、睨み付けた。

「うくく」

「補給を絶たれたら、撤退するしかないぜ」

 赤くなって唸るトウジに、ケンスケは囁いた。

「……アスカ」

 窘めるようなヒカリの小さな声。

「はいはい……良かったわねぇ。可愛い味方がいて」

 赤くなった二人に笑い声が被さった。

 卵サンドを頬張りながら、その様子を微笑ましげに見ていたレイが、突如動き

を止める。右手が辺りをさまよい、手近なカップを掴むと中の麦茶を一気に飲み

干した。

「おやおや、喉に詰めたのかい?」

 サトコの言葉に、頬を桜色に染め、まだ少し苦しそうな表情でレイは頷いた。

「それ、ぼくの……」

 何とも形容しがたい顔で、シンジがレイの持つコップを指さした。レイはコッ

プとシンジを二度、交互に見た。傍にあった水筒を掴み麦茶を注ぐと、

「……はい」

 と言って桜色の頬のままシンジに差し出した。目を合わせられないのか、俯い

たままである。

「あ、ありが、と」

 たどたどしく答え、シンジはコップを受け取った。

「センセ、一気やー!」

 トウジの元気な声が青い空へと駆け抜けた。



「飯も喰うたし……ちょっと回ってくるわ。――ヒカリもどうや?」

「わたし、もうちょっと休憩してから……」

「そぉかぁ……あそこの高台に行っとくわ。――その前に。便所や!」

「きったないわねぇ!」

「お前も一緒にするかぁ?」

 怒鳴ったアスカにおどけた調子で返す。

「なんですってぇ!」

 立ち上がり、靴を履きながら突っかかってくるアスカにべぇと舌を出し、トウ

ジは逃げた。

「ちょっと! 待ちなさいよ! あたしは靴、まだちゃんと履いてないのよ!」

「知るかぁ。そんなこと」

 二人の姿と声が次第に遠ざかる。

「こりゃ面白いな」

 カメラ片手にケンスケが追った。

「わたしも……ちょっと」

 麦藁帽を被り、レイもゆらりと立ち上がる。



 ブルーシートの上には三人と、空になった籠だけが残った。

「後片づけ……しようか」

「ええ」

 げんなりしたシンジに、こうなることを予測していたヒカリはくすっと笑った。



「はぁー、さっぱりした……んー、なんや?」

 トウジは道ばたにしゃがみ込んでいる人物に近づいた。

「よぉ、何しとるんや?」

「四つ葉のクローバー」

 麦藁帽を被った人物――レイは、振り返りもせず答えた。

「ん? ああ、そうゆぅたらよぉさん生えとるからなぁ……」

 トウジは視線を足下から遠くへと移した。公園内は白詰草の花がびっしりと咲

いている。白と緑の鮮やかな対比は、まるで季節を間違えて、夏に降った雪の名

残であるかのようにも思えた。

「違うの……」

 少し弾んだ声に、おやっと感じたトウジが視線を戻すと、目を輝かせたレイの

顔が見上げていた。――まるで何か面白いことを発見した子供のように。



「わたしも、ちょっと……」

 後片づけが終わった後、ヒカリは立ち上がった。

「碇君は?」

「ぼくはちょっと……横になってるよ。……眠くて……さ」

「そう……あの……」

 今までの遅れを取り戻すため、夜遅くまで必死に勉強しているシンジを知るヒ

カリは、何か言おうとして、やめた。

「じゃ、おばあちゃん」

「ああ、行っておいで」

 サトコの笑みに送られて、ヒカリは緑の野へと足を踏み出した。



「……洞木さんは?」

「今さっき散歩に出たよ。どれ、私はちょっち眠らせてもらうかねぇ」

 折り畳み式の長椅子の上に身体を横たえ、サトコが言った。日除けまで付いて

いる特注品である。

「……お帰り」

 うとうととしていたのか、シートの上に寝そべりながら眠そうな声でシンジは

言った。

「ただいま――」

 レイは靴を脱ぐとその傍に座り込む。視界に一面の緑だけが映った。

 常に緩やかに吹く風に、草や木の葉が踊るように揺れていた。

 その中にいる人々も踊っているように見えるのは、大気の揺らめきの所為だろ

うか。

 不思議な感覚が世界を包み、そのしるしを心と体に刻み込んでいく。髪を、風

の見えない手でなぶられながら、レイは漠然とした――心地よい感覚にとらわれ

ていた。

 それは――ことばにするのならば――

「シンジ」

 言葉は風に乗った。

「う……ん?」

「……あのね」

「ん……」

「……ねぇ」

 隣にいるシンジを見たとき、少年は横を向き安らかな寝息を立て始めていた。

 麦藁帽の作る影の下からレイは暫く無表情に見下ろしていたが、少し目を細め

ると白く優しい人差し指で――シンジの脇腹をつつき始めた。

「――え? わっ! ちょ、ちょっと!」

 突然の強襲にシンジは目を覚まし、慌てた。同時に背筋に厭な悪寒が走る。同

世代の少女に比べればほとんど感情表現がないレイであったが、シンジには手に

取るように判るようになっていた。

「ご、ごめん!」

 レイの攻撃はやまない。シンジは転がって逃げようとした。

 ――背中に重みが加わったとき、少年は己の失策を肌で感じた。



「しっかし、ほんと緑ばっかりだな。せめて可愛い娘でもいれば……」

 呟きつつカメラを回すケンスケのファインダーに、一人の人物が写った。

「い、いいんちょ」

 焦点が合い、それがヒカリと判ったとき、ケンスケは驚きファインダーから目

を離した。

「相田くん……」

「な、何かな」

 やましいこともしていないのに、何故かあたふたしてしまうのは、中二の頃の

記憶の為だ。あの頃のヒカリは「委員長」という肩書きの所為で、どことなく堅

い一面があった。動揺が走ったのも、先ほど掛けられた声が、その当時のものと

酷似しているように思えたからだ。

 ――違う。

「どうしたのさ? トウジなら、この辺で見かけてないぜ」

「……ん、そうじゃなくて……」

 ヒカリは少し言い淀んだ。

「相田くんは……もう、自宅療養の許可出てるのよね?」

「ああ……、そのこと……。出てるよ」

「そう……ご家族と一緒じゃなくて寂しくない?」

「へぇ?」

 思わず素っ頓狂な声を上げた。ヒカリの寂しそうな目を見るうち、ケンスケの

胸中にある考えが思い浮かんだ。

「おれ、昔からサバイバルとかやって、よく家を空けていたから……あんまりそ

んなこと考えなかったな。パパもまだ忙しくて、帰ったって殆ど家にいないから

ね……ま、そーいうこと」

「そう……」

 ヒカリは俯いた。

「なんからしくないなぁ。……寂しいんだったらさ。会いに帰ったら?」

 ヒカリははっと顔を上げた。

「うん……ありがとう」

「あ、ああ……」

 横をすり抜けていくヒカリの背を追って、ケンスケは振り向いた。

「おれは、それだけじゃないんだけどね……」

 小さな背中に送った言葉は、誰に言うともない呟きであった。



「ねぇ、ヒカリ知らない?」

「え、ああ、さっき高台の方に歩いていったよ……元気なかったな」

「うん……昨日から何か変なのよねぇ」

 アスカは眉を顰めた。

「ホームシックじゃないのかな」

「え?」

「さっき、家族がどうのこうのって言ってたし、彼女頑張っちゃうタイプだろ? 

だから……」

「そっか……そうよね……でも……あたしはここに居たいな……」

「へ?」

「――な、何でもないわっ! それよりなに撮ってるのよ」

「え、ああ、ちょっと面白いもの……かな」

 畳みかけるような台詞に、ケンスケは圧倒された。

 望遠レンズをつけたカメラは三脚の上に固定されていた。アスカはファインダ

ーを覗き込む。

「シンジとレイじゃない……なにやってんのよ、あの二人」

「……おれが知るかよ……」

「おばあちゃんは……寝てるのかしら?」

「だと思うけど……」

 アスカはファインダーから目を離すと、一つ、小さな溜息を吐いた。

「ヒカリを捜して来るわ……なんか心配だし」

 ケンスケは足早に移動しはじめた白いワンピースを見送る。日に焼けた肢体が

やけに眩しかった。

 カメラに向き直ると更に拡大率を上げた。ファインダーに映った麦藁帽の少女

は、幸せそうな笑みを浮かべて何か話していた。

「はぁ……」

 ケンスケは三脚の傍の地面に寝ころんだ。青い空に白い雲が一つ、ゆっくりと

流れていく。

「『ここに居たい』か。……なんか、辛いよなぁ……」

 先ほどアスカが漏らした言葉を反芻しながら空を眺めた。

 今は、ただ、草いきれの中に身を置いておきたかった――。



 斜面を上がりきった後、ヒカリは顔を巡らした。見慣れたジャージの後ろ姿は

すぐに見つかった。

「トウジ……」

「よお、えらい遅かったなぁ」

 さして気にする風もなく、トウジは笑った。

「うん……ごめん……」

「落ちこんどるようやけど、なんか有ったんか?」

 高台に設けられた手摺りに凭れながら、トウジは訊いた。

「……お姉ちゃんから……手紙が来たの」

「そーかぁ……帰って来いってか?」

 その一言にヒカリは目を見開いた。昨日届いた三通目のメールは、自宅療養の

許可の旨を記した物だった。

「よく……判るのね」

「つき合い長いからなぁ」

 トウジはヒカリに向き直った。

「わたし……ね」

 ヒカリはトウジから視線を逸らし、言葉を選ぼうとした。

「んん……あ、危ないやっちゃなぁ!」

「え?」

 トウジの視線を追ってみると、高台の斜面を駆け下りていく子供の姿があった。

緑の絨毯の上を駆ける速度はぐんぐん速くなる。

「無茶しよんなぁ……」

 その横顔には心配と歓喜の色があった。

 途中、躓きそうになりながらも、子供は無事下まで辿り着いていた。

「昔なぁ」

 不思議そうに小首を傾げるヒカリに、少し照れた様子でトウジは話し始めた。

「よお無茶して、おとんにどつかれたんや。なんやその時のこと思い出してなぁ」

「……やんちゃだったんだ」

「ん、そやな」

 トウジは苦笑した。ヒカリもつられて笑う。少年が家族のことを語るときに見

せる――ヒカリが一番好きな笑顔であった。その笑みを独り占めしていられる時

間の短さに気付いた少女は、再び表情を暗くする。

「聞いた話やけど、四つ葉のクローバーな――」

 不意に思いも寄らない話をトウジはし始めた。

「幸せを呼ぶとか言われとるやろ」

「……うん」

「あれ、新芽の所を踏まれたりすると、よう出てくるそうや」

「踏まれると?」

 ヒカリの問いにトウジは頷いた。そのまま視線を足下に向ける。

「ま、こいつらには災難やろうけど、な」

 屈み込みながら言ったトウジの言葉に、ヒカリも足元を見た。二人の足下には

白詰草の花が咲いていた。無惨にも折れ、潰された花もあった。自分自身も花を

踏みつけているのに気付く。

「家族がおるところに幸せは有るんや。わしらのことは気にせんでええ」

 トウジは立ち上がった。その手には――四つ葉のクローバーがあった。

「なおったら、必ず会いに行くからな」

 差し出されたクローバーをヒカリは受け取った。

「――うん」

 ヒカリは暫く黙ってクローバーを見つめていたが、急に笑顔を作ると、

「判ったわ」

 と少し寂しげに言った。

 そして真摯な眼差しを少年に向け、ある決意と共に言葉を紡いだ。



「――だから思うの、人のいるところに幸せはあるって……」

 レイは、腹這いになったシンジの背中に、馬乗りになったまま話していた。

「四つ葉のクローバーか……それは、ぼくも同感だけど……あの、おばあちゃん

も見てると思うし……」

「寝ているわ」

 レイは、サトコの方を振り向きもせず言った。気にも留めていないらしい。シ

ンジは少女の重みと、幸せという言葉のおもみを実感しつつサトコの方を見た。

 寝ているように思えたサトコの片目が開き、口元に笑みを浮かべた後、再び閉

じた。

「もう、勘弁してよ……」

「――いや」

 無情にも楽しげな声が返った。――ひょっとすると世界で一番手強い存在かも

知れない――シンジはこのとき、そう思った。



 二つの影は緑に染められた高台から並んでゆっくりと下りてきた。

「アスカッ!」

 ヒカリはアスカを見つけると、ワンピースを風に靡かせ駆け寄った。

「ヒカリ――きゃっ!」

 体当たりとも言える速度でぶつかってきた親友に、アスカは力一杯抱きしめら

れた。

「あははっ。アスカ、アスカッ!」

「ちょ、ちょっと! 何がどうなったのよ!」

 ヒカリはアスカを抱きしめたまま、緑の舞台の上をくるくると回る。先ほどま

で沈んでいた少女の豹変ぶりに、始め戸惑っていたアスカも何だか楽しくなり、

すぐに笑い出した。



「んー……気持ち悪い……」

「そうね、まだ世界が回っているわ」

「アホか、おまえら」

 調子に乗って回り続けた二人に、呆れたようにトウジが言った。

「アホとは何よ、この莫迦ぁ!」

「やぁ、なんだか面白いものが撮れたなー」

 カメラ片手にケンスケもやってきた。先ほどの二人の狂態を撮影していたらし

い。

「相田くん……それ消して……」

 少女たちは、まだよろける足取りで少年たちに迫っていく。



 笑い声は風のように緑の野を駆けていった。





 夜になって漸く大気の温度は下がり始めた。

 ヒカリは通信端末のスイッチを入れた。微かなノイズと共に、闇に包まれた部

屋に仄かな明かりが広がっていく。

 ディスプレイに起動画面が映し出された。

 踏まれて折れた白詰草の花と、アスカやトウジらの顔が脳裏をよぎる。

 ヒカリは暫く画面を見つめた後、キーボードを叩いた。



 
 
 ごめんなさい

 わたし 今 帰れません

 わがままだと思うし お姉ちゃんたちも寂しいかも知れないけど

 もう少し ここにいたいの



 いなきゃいけないような気がするの



 ほんとにごめんなさい





追伸



 四つ葉のクローバーの押し葉 あとで郵送します
 
 




               第五話 完



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 後書きです。




 何やらEOEのパロのようなところがありますが、このお話の初版が出来たの

は西暦1997年5月です。



 夏の映画の前にこの話でシリーズ(?)を終了し、映画の内容いかんによって

は再開する予定でしたが、どうやら無理だったようです。続けても支障無いと一

瞬思ったのですが、レイの感情面が成長する過程を考えていくと、色々と「泥沼

化」するようなので結局やめました。



 これまで読んで下さっていた方々に、感謝いたします。



 では、ご縁がありましたら、いずれまた。




第二版 1998/5/7


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