スプートニク


 じゃあスプートニクのライカ犬はどこへ行ったのだろう?

 赤い羊水のような水の中。ひたひたとその水の中で揺らされていた。
膨大な記憶とたくさんの人の悲しい現実とそしてシンジとの口論。
首を締められた感覚。たくさん、人を傷つけて傷つけられた。
 だからもう、何も入らないの。入らないから私を傷つけないで欲しい。

 常夏の日本。あれから一体どれだけの季節と年が巡ったのか
わからない。覚えているのはマヤがたくさんの本を特に絵本
や私が読んだことのない童話を持ってきてくれた。
その中で一番好きだったのがダレン=シャンという少年の童話。
吸血鬼になり、戦う少年のお話。血が彼から家族を友人を大切な
物を奪っていく。でも、ダレンは戦う、逃げない。虚構の中のお話。
なのに共感する。まるで自分のようだと、何も手に入らず、唯欲した
ほんの微かな者さえも私から去ってゆくのだ。

 病院の窓から見えるのはいつも変わらない。丹精に手入れされた
緑の樹と花。向日葵、あの街にもたくさんあった咲いていた花。
あの頃の記憶は変わらない、唯きらきらと輝くものだけではないけど
過ぎ去っていくと優しい欠片になるのだと、私は実感した。
ミサトとシンジとの家族ごっこ。楽しかった。今はもういない、死んでしまった
私たちの保護者ともう一人、私が今も好きな男の子。でももう、彼は私の
元に帰ってこないだろう、彼はファーストを選んだのだから。

 私はもうひとつの読んだお話を思い出す。ロシアのスプートニクに
乗せられたライカ犬のことを。まだ人が乗れるロケットが発明される
前。犬が実験台としてロケットに乗せられた。犬はまだぐるぐると
宇宙を回っているのだろうか、その屍をさらして。大切な人たちに
会えずに。歴史に刻まれた代償。でも犬はそれを望んでなんて
いなかっただろうに。

 スプートニクのライカ犬。寂しい夜にはその犬のことを考える。
寂しい、悲しい。誰も必要としてくれない私と同じ犬。
そうすると少しだけ気持ちが軽くなる。病院の天井を見つめながら
寂しいのは自分だけじゃないのだとやっと分かった、人と共感する術を身に
付けたのかもしれない。

 そうやって又窓から外を見つめるだけの日々。ある朝、ぼんやりと窓の外を
眺めていると外に見慣れない少年が立っていた。
窓の向こうのベッドから外をじっと凝視している私を見つけて、彼は叫んだ。
その声音は記憶と全然違う、大人びた嗚咽交じりの声。
「アスカ!アスカ!やっと見つけた!」
 記憶の中の彼よりもずっとずっと違う、男の人になっちゃった
シンジが其処に居た。
私は窓を叩いて、叫んだ。そして、泣いた。
生まれてから記憶のある中で初めて人の前で泣いた。

 でも時々スプートニクのライカ犬のことを考える。
 犬を待っていた人はどこに行ってしまったのだろう?



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