2章硝子の月
 1話 桜の庭

 軽く瞬きをして、目を見開く。
そうすれば淡い白によく似た薄い緋色が少女の視界に広がる。

 満開の桜の樹と冷たい風に揺られて散って落ちる淡い色の花弁。
 薄紅色の花びらは雪の如く。はらりはらりと天から落つる如く。
 幻のような美しい光景の中、一人佇む少女。

 金色の髪が風に舞う。生き生きとした躍動感溢れる大きな蒼の双眸。ほっそりとした華奢な身体の美少女。風景と一体化したような可憐な存在感。

「綺麗……」
 何故か蒼の瞳を曇らせて、少女は呟く。
 夢中になって、両手で桜の花弁を掬おうと、天に仰ぐように両腕を広げる。ふわりと綺麗な桜の原型を留めた花弁を拾って、その淡い色を凝視する。
 淡いピンクの世界が涙で滲む。
 滲んだ瞳に人の影が映る。
 人の気配を感じて、少女ははっと振り返る。

 黒の瞳と視線が出逢う。
 背の高い黒の短髪の青年。何故か青年は自分を見ている。
 美瑛からこの場所に移されて、一ヶ月。知らない人が自分を知っている。懐かしそうに親しげにか侮蔑と哀れみの二種類の感情を人は向けてくる。
 けれど。
 この青年から感じるのはどれでもない、憎しみ。
 知らない人、でもきっと知っている人。

 青年の知らない少女は、穏やかで透明な空気を身に纏う。青年が投げかける憎しみの視線に気づき、戸惑う。少女が顔を上げて、口を開こうとした瞬間、青年は遮るように
「久しぶり、アスカ」
 とその綺麗な顔を鮮やかにして、微笑する。
「……」
 その笑顔に隠された感情を繊細な少女は読み取り、沈黙する。
 静寂が二人を包み込む。

 そして長い沈黙の後、アスカと呼ばれた少女は口を開く。
「あなたは誰?」
 真っ直ぐな透明な蒼の色の瞳を青年に向けて、少女は問うた。
 その問いに答える代わりに青年はアスカに返す。
「何を泣いているの?」
 瞬間、アスカの手のひらから桜の花びらが風に攫われる。その花びらが舞ってゆくのを二人、見る。瞬間、蒼の双眸から一滴雫が落ちる。
「大切な子が死んだから……。その子が桜をずっと見たがっていたから」
 ぽつんと桜の花びらの行方を追う青年にアスカは呟く。

 桜の樹の下には死体があるのだ、ならば桜の樹の下にあの子も眠っているかもしれない。初めての桜が咲く季節が巡り、アスカはそう追憶した。そこまで語る縁などこの青年に感じないのに何故、自分は欠片を呟いているのか。
 桜の樹の下出逢った青年は人を惹きつける鮮やかな笑顔と浮かべて、更に綺麗な
顔立ちをしている。だけどアスカは彼にどこか影のような暗い空気を感じた。
 近づいては駄目、きっと……。ふわりと身を軽く翻し、アスカは青年から逃げるかの如く
立ち去る。

 残ったのは青年と青年を未だ過去へと縛る原因の少女の残影。囚われまいと逃げた少女。
 くすりと青年は笑う。

 鳥籠の中の桜の庭。鮮やかな蒼の双眸を思い出して、青年は舌打ちする。
少女は恐怖に唯怯える。少女を襲った終わった筈の惨劇。ぎゅっと自分を守るかのように身体を抱きしめて少女は瞳を伏せがちに早春の朝の空の色を目に入れる。
 美瑛と何もかも違う、あの優しい場所はもう失われたのだ。

「私の中に誰も入ってこないで……。もう……誰も……」
 繰り返し繰り返し。くるくると螺旋が動き出す、離れた筈の少年との約束。
 そうして又始まる。
To Be Continue...


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