そう、もう目の前だ。駆け出す足よりも鼓動が激しい。そう、待ち続けて、

信じ続けたものが、今現実になるのだから。

 最初に何を言おう?………愛してる、なんていきなり無理だし、遅いぞこの

バカって言うんじゃ何だし。やっぱりお帰りなさいかな?ああ、この角を曲が

って、ほら!思い出の場所が私を迎える。

 ………そして………胸をふるわせてかけ込んだ公園には………光は、輝きは

なかった。

 

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               刻よりの道標

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 

 落ち着いた午後の陽光。かつてここにマンションがあった形跡は欠片もない。

間取りを思い出しながら、そう、ここが玄関で………ここが台所で………ここ

が私の部屋。………シンジの部屋。そこは噴水になっていた。縁に腰を下ろす。

………水音が静かな公園に響くかのようだ。

 見渡せば、日常の光景。陽の光が注いで、風が頬を撫でて、何処かで誰かが

笑っていて………そんな、あの頃からは想像もつかないような、優しい時間。

今はそれが日常となってしまった。

 ………シンジ………あんたが全てを捨ててつかみ取った世界は、守り抜いた

人たちはこうして生きているよ。傷つき迷いながら………でも、誰かに優しく

何処かで幸せに。………生きているのに………どうしてあんたは戻ってこない

のよ!

 待っているんだから!この私が、ずっと待っているんだぞ!待って待って、

信じて信じて!あんたが帰ってくること、あんたが………私の名前を呼んでく

れることを、ただ………待ち続けていたのに!!

 結局………全ては夢だったの?私が見たビジョンの全てが。………リツコの

言ったように私の願望でしかないの?………こうして世界が世界であること、

それは奇跡に違いない。碇シンジの存在の全てと引き替えにして舞い降りた奇

跡。奇跡は起こしてこそ価値がある、なんて昔ミサトが言っていた。………そ

の通りね。奇跡は起きてこそ価値がある。簡単に起きないからこそ奇跡なんだ

もんね。

 ふと、空を見上げる。遠く何処までも済んだ蒼。何故かその蒼がにじんだ。

 

 ………いつの間にか、公園は夕日に紅く染まっている。もう、こんな時間な

んだ。街灯が無機質な光を灯し始める。どこからか聴こえていた、子供の声は

もうない。

 これからどうしよう………どうでもいいか。もう、何もかもどうなったって

いい。だって………だってシンジは戻ってこないのだから。

 張りつめていたモノがなくなった感じ。あの時から、シンジが消えたときか

ら私の中にあった何かがもう感じられない。それは希望だったかも知れないし、

絶望だったかも知れない。でも、もうどうでもいい。どうなったっていい。

 涙はこぼれない。………悲しいわけでもない。心が空っぽになってしまった

だけ。………帰ろう………何処へ?………帰るところなんか何処にもない。昨

日までは家だと思っていた場所が、仮初めだったと気が付いた。だって、私の

帰るところはシンジのいる場所だから。私の居場所はシンジの隣なんだから。

 ………夕陽は最後の輝きを残し、消えた。消えた最後の残光が、私の希望の

ように思えた。

 その時………小さな光が、私の眼に映った。本当に小さな欠片のような、光。

顔を上げる。光は舞うように、踊るように一つ、また一つとその数を増やして

行く。光は集まりその輝きを強くして………そして、そして輝きは公園を満た

し、世界を染める。輝きはその内に影を作る。………そう、人の形に。

 ああ、あれは………間違いない。間違えるはずがない!私は立ち上がって眼

を細める。影は光に中にあってその存在を強くして、徐々に見えてくる。あの

頃よりも少しだけ逞しくなった、でも変わらない暖かな顔立ち。ズタボロのプ

ラグスーツから伸びる手足はあの頃の女性的なイメージを失っていたけど、そ

の優しさを失っていない。そして………私を見つめる瞳。何処までも澄んで、

誰よりも優しくて、強い光を持つ私の大好きな眼差し。

「………アスカ………」

 私を呼ぶ声。変わらない、変わることなどありはしないシンジの声。光より

舞い降りたシンジの体が揺れる。慌てて駆け寄った私の腕の中に、シンジの体

はゆっくりと収まった。少しだけ力を込めて抱きしめる。返ってくる温もりが

シンジが生きていることを、ここにいることを告げてくれる。

「………シンジ………」

「アスカ………アスカだよね?」

 背中に回ったシンジの腕が痛いくらい私を抱きしめる。

「あったりまえでしょ!………私が私以外のなんだって言うのよ………私はア

スカ、惣流・アスカ・ラングレーよ!」

「やっと………やっとたどり着いた………やっと帰ってきた。………帰ってき

たよ、アスカ………」

「うん………うん、シンジ………」

「ずっとね………ずっとアスカが待っていてくれたから、だから帰ってこれた

んだ………アスカが待っていてくれたから………」

「当たり前でしょ………言ったじゃない、ずっと待ってるって………」

「うん………そうだね」

 シンジが体を起こす。その指が、私の頬に優しく触れる。少しくすぐったい。

「な、なによ?」

 シンジの瞳がじっと私を映す。

「………ありがとう………アスカ」

「え?」

「メッセージをくれたじゃないか………待っててくれるって。うれしかった、

僕に帰れる場所があるんだって………待っていてくれる人がいるんだって、う

れしかったんだ」

「………シンジ………」

「だから、帰ってきた………アスカの言葉を道しるべにして、帰ってこれたん

だ。………ありがとう、アスカのおかげだよ」

 涙が溢れてきたのが、自分でもわかった。私は………私はそんな風に言って

貰う資格なんてないのに!

「………ごめん………なさい、シンジ………」

「アスカ?」

「私………疑ってた………待ってるなんて言ったけど、心の何処かで信じてな

かった………もう、シンジは帰ってこないんじゃないかって思ってた………そ

う、思ってたの………」

「アスカ………」

 涙がこぼれた。止まらなかった。シンジにあえて嬉しいのに、嬉しさよりも

自己嫌悪が私の頬を濡らす。

「それでも、待っていてくれた………それだけで十分だよ、アスカ」

「シンジ………あっ」

 抱きしめられた。あの頃は少しだけ私の方が背が高かったのに、今はもう、

その胸の中に私がいる。

「何だか不思議だね」

「………何が?」

「アスカが僕の腕の中なんてさ………あの頃はほとんど背が同じくらいだった

のに」

「バカ!………こうなってくれなきゃ、こっちが困るわよ!いつまでたっても

私があんたを甘やかす立場になんていられないんだから!」

「そうだね………アスカは僕が護らなきゃね」

 もう、ずっと護って貰ってた。出会ったときから、ずっとずっと。でも、も

う護られているだけなんてイヤ。今度は………私がシンジを。

「アスカ………顔を見せて」

「うん」

 少し体を離し、シンジを見上げる。

「………綺麗になったね」

「なっ!いきなり何よぉ!」

 ああ、顔が熱い。絶対紅くなってる。いきなりなんてこと言うのよ!

「あの頃だって綺麗だって思ってた。………今は、なんて言うのかな………と

っても綺麗だ。………アスカが綺麗になって行くところを、側で見れなかった

のが残念だな………」

「シンジ?」

「もっと………もっと他にやり方があったんじゃないかって………僕はどれだ

けの時間を失ったんだろう?………アスカや綾波達と学校行って、色々なこと

をして………体育祭とか文化祭とか………たくさんの時間があったはずなのに」

 バカ………変わってないんだから!軽くシンジの胸を叩いて距離を取る。

「アスカ?」

「このバカシンジ!ホントに変わってないって言うか………このバカ!いい?

確かに私たちはたくさんの時間を失ったわ。やり方なんて言ったら、絶対他に

あったはずよ!………あんたが消えたとき………私がどれだけ………」

「………アスカ」

「でも!………でもね、あんたはこうして帰ってきた。それにね………あんた

がとった方法は間違っていたかも知れないけど、あんたが護りたかった物は、

信じた物は間違ってなんかいない………間違ってなんかないよ、シンジ」

「うん………うん、アスカ………」

 もう一度、抱きしめられた。

「何時だって、アスカが………アスカが僕を導いてくれた。辛いときも悲しい

ときも、アスカが僕を支えてくれた。あの無明の闇の中で、僕が僕でいられた

のは………アスカが待っていてくれたから。アスカが僕の道標だったんだよ」

 ………道標。そんなことを言ったら、私はどうなるのよ。私はシンジがいた

から、シンジが導いてくれたからここにいる。ここでこうして生きている。

「バカシンジ………私は何にもしてないわ。ただ待っていただけ。道標なんか

じゃない。………私は………私を導いてくれたのは、あんたじゃない。シンジ

が私の道標なのよ!」

「それじゃ、お互いがお互いの道標だったんだね………うれしいな」

「え?」

「僕がアスカを支えることができたなんて………うれしいよ」

「バカ………」

 シンジの胸に顔を埋める。シンジの言葉が嬉しくて、涙がこぼれそうになっ

たのを隠すために。 

 静かな時間が過ぎる。シンジの鼓動以外何も聴こえない、本当に静かな時間。

「………アスカ」

「何?」

「その………さ」

「だから何よ?」

「そろそろさ、どこかへ行かない?」

「どこかって?」

「何処でもいいんだけど、とりあえず服のあるところ………かな」

 言われてみれば、シンジの格好はボロボロのプラグスーツ。

「しかたないわね。私がとっておきの店に連れていってあげるわよ」

「ありがと、アスカ」

「勘違いしないでね。そんな格好じゃこっちが恥ずかしいんだから。それに、

奢りじゃないわよ」

「え?………アスカ、僕お金持ってないんだけど」

「だから、貸しといてあげるわよ。感謝しなさい!」

 他愛のない会話。こんな風に話したかった。ずっとずっと、こんな風にシン

ジと過ごしたかったの。

「とにかく、行こうよ」

「そうね………でも、あんたこれから大変よ?」

「?………何が」

「決まってるじゃない。………ミサトやリツコに鈴原たち。それにファースト

だって、ずっと待ってるんだから。のこのこ顔だしたら大変よ?」

「そうだね。………みんな元気?」

「当然よ!みんな元気にやってるわ。ミサトなんかね………」

 

 二人は笑い合いながら、ゆっくりと歩を進める。失った時間を取り戻すかの

ように。彼らが歩んできた道は、決して平坦でなく、またこれから歩む道も平

坦ではあり得ない。

 けれども彼らが道に迷い、進むべき方角を見失うことはない。何故なら、彼

らには道を指し示す道標があるから。彼らが彼らであるための、道標。二人が

二人である限り、道標は永久に彼らを導く。どれほどの苦難が待ち受けていよ

うとも。

 世界を救った彼と、彼を信じた彼女は寄り添いながら歩み、街の雑踏へと消

えていった。

 

 

                                《終》

 

 



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