「はい、碇です。」
「夜分遅くにすまない。」
「あら、六分儀さん。どうしたんです。」
「明日の午後は空いているだろうか。」
「ええ、空いてますわ。」
「では、付き合ってもらえないだろうか。大切な話があるのだが。」
「あら、何かしら。」
「すまない。ぜひ明日話したいのだ。」
「分かりました。どこでお会いしましょう?
「嵐山の公園の入り口に1時でどうだろうか?」
「ええ、それでいいです。何かしら、楽しみですわ。」
「そうか。では、明日。お休み。」
「おやすみなさい。」
カチャ
彼女、碇ユイは受話器を置くと、ベットに座った。その顔には微笑みが浮かんでいた。
「フフ、見え見えなんだから。あの人らしいわ。」
誰に言っているわけでも無い。何となく口に出た言葉だ。あるいは照れ隠しなのかもしれない。彼女とて照れはある。
三文ドラマならここでどんでん返しもあるだろうが、ことこの場合、六分儀ゲンドウと言う男相手でそれは無かった。そして、彼の行動予測をユイが見誤ったことは無い。
しばらくそのまま座った後、彼女は立ち上がり、クローゼットを開けた。
「どれがいいかしらね。雨かもしれないし。」
明日の降水確率は40%。
独り言を言いながら、服を選ぶ姿はとても楽しそうである。
貧相な男。傍目にはそう見えた。
痩せている事、何処と無く人をばかにしたように見える目つき、等がその原因だろう。着ている服も悪くは無いが、良くも無し、と言った所だ。
そして、どうやら彼は自分がそう見られる事に特に抵抗が無いようにも見える。
だが、普段の彼を知る人間ならば、彼の身なりが普段とは比べ物にならないほどきちんとしており、目つきも真剣そのものと言うことに気付くだろう。
『いやな男』
彼の第一印象を、そう評した人間もいる。もっともそれは見てくれだけの事では無いのだが。
ともかく彼は普段より数倍まともな格好で、一大決意を胸に秘めた目つきをしていたのだ。そう気付く人間がほとんどいない事実は、もはや一種の才能と言っても良かった。別に意識して本心を隠している訳でも無いのだから。(ただし、無意識的でないとは断言できない)きっと良い策謀家に成れるだろう。
その男、六分儀ゲンドウは約束の場所で雨宿りをしていた。普段ならこの程度の小雨では雨宿りなどしないだろうが、今日と言う日の重要性を考えれば、まあ、当然の事と言えた。
何度も腕時計に目をやり、空を眺め、目を閉じ、腕を組み、はずし・・・彼がこれ程落ちつかない素振りを見せたのは、後にも先にも無かった。
午後12時55分
ユイが現れた。彼女は時間は守る人間の様だ。
「お待ちになりました?」
「いや、少々待つくらい何でも無い。」
いかにも彼らしいその言葉にユイもふっ、と笑う。『今来た所』などとは思い付きもしない。この言葉も『君のためなら』などとは付いていない。普通の人間なら、何を考えているのか分からないと言うかもしれないが、彼女においてはこれは『かわいい』と評される部分だ。手に取るように思考は読めた。
「行こうか。」
「ええ。」
目的地など無かった。ただ歩くのが目的だ。ゲンドウのほうは言うべき事を言う踏ん切りを欲していたし、ユイはそれが分かっているので、何も言わない。ただ小雨の中を二人で何も言わず歩いているだけだ。
やがて、ゲンドウが口を開いた。
「すまなかったな。こんな雨の日に。」
「あら、雨の日だって素敵ですわ。ほら、雨に濡れた花があんなに綺麗。」
にっこりと笑って言うユイ。
「そうか、そうだな。ありがとう。」
彼のほうもぎこちなく笑いながら答えた。
そしてまた沈黙が続く。お互い前を向いたまま、ひたすら歩いていく。
しばらくして、小雨だった雨もやんだ。二人は傘をしまい、時折花を眺めながら歩いた。
まっすぐ前を向いて歩いたまま、ゲンドウがついに切り出した。来る、という兆候は無かったが、タイミングはほぼ完璧だった。
「ユイ、俺と結婚してくれないか。」
ユイの顔のほうは見ていない。
「いや、嫌ならいいんだ。断る理由ならいくらでもある。年の差もあるし、俺のような人間が君に釣り合うとも思えない。だが、もし良いと言うなら・・・」
彼はユイの顔を見ていなかった。だから、彼女の微笑みも見てはいなかった。
「喜んでお受けしますわ。」
ゲンドウの言葉を最後まで待つことなく答えた。当然だ。考える時間など、昨日の夜からたっぷりとあった。それに考えるほどのことでも無かったから。断るつもりは元より無いのだ。
が、その答えに結婚を申し込んだ、当の本人の方が驚いていた。
彼は目を見開き、ユイの顔を振り返った。そして初めてその微笑みを見た。
「本当にいいのか、俺のような、こんな人間で。」
喜びと不安の入り交じった顔。人類の最も好む表情の一つだ。そんな顔で、彼は確かな了承を欲していた。
そしてユイが答えた。
「もちろんですわ。それにあなたはとても素晴らしいじゃありませんか。みんな知らないだけ、自分で気付いてないだけです。もっと、自信を持って。」
それでもまだ、彼は不安を拭いきれなかった。
「本当に、ユイ?」
ここまでしつこければ愛想の尽きる人間も居ることだろう。だが、ユイにはちゃんと分かっていた。彼はユイを疑っているのではない、ただ自分を信じられないだけなのだ、という事が。だから彼を安心させるように言った。
「本当に、愛してますわ。あなた。」
本当に、本当に美しく、暖かな笑顔。六分儀ゲンドウと言う男は、それ以上に素晴らしい顔を、これまでの人生に見た事が無かった。彼は涙していた。歓喜と感謝の涙を流していた。
「ありがとう。ありがとう。」
それだけを言うと、後は言葉にならなかった。ユイにすがって泣いていた。
「あらあら、プロポーズした男性の方が泣くなんて、普通は逆じゃありません?」
彼を受け止めながら、笑みをそのままにユイは言った。『いい年して、子供と変わらないんだから。』言葉には出さなかったが、そう思っていた。それが全てでは無いにせよ。
「そうか、そうだな。すまない。」
そしてゲンドウはユイから離れ、向かい合った。彼は笑っていた。本当に信じられる他人を知った事に、一生をささげても良いと思える女性に出会えた事に、感動した笑み、清々しい笑いを浮かべていた。
彼がそれほどの不安を持ちながら、それでも一歩を踏み出せた背後には、あきらめに足るだけの長い過去、と言う足場があったからであろう。これは少年時代の十年やそこらでできるものではない。たとえ子供のようであっても、おとなで無ければ到達は出来ないだろう。
こだわりと無頓着は、案外同じ所に在るのかもしれない。何をあきらめ、何にこだわるか。
彼がここでまた未来を失った所で、過去がさらに増えるだけなら希望にすがるのは悪いものではない。もちろん、碇ユイと言う女性は希望とするのに十分すぎる相手であったのは言うまでもないが。
この日この時、孤独な男である、六分儀ゲンドウは死んだ。そこにいたのは、ユイと共に生きる事を望んだ男、碇ゲンドウだった。
だが、それでも彼は聞いたのだ。自分に自信を持つためにも、自分のことを知りたいと思ったから。
「ユイ、俺の何処がいいのだ。」
彼は、本当にまじめな顔をして聞いた。答えはやはり微笑みをもってなされた。
「あなたはとてもかわいらしいわ。そこが良いんです。みんな知らないだけ。冬月先生に言ったら『知らない方が幸せかも知れんな』なんて言われましたけど。」
「俺が?かわいい?」
さすがに彼もちょっと驚いていた。無理も無いだろう。自分で「人に好かれるのは苦手だが、疎まれるのは慣れている。」と言った男だ。かわいさとは縁が無いと思っている。また、彼女の言う『かわいい』を彼が理解するのは不可能とさえ言っても良かろう。自分の背中が見えないのと同じように。
「御自分では分からないでしょうね。きっとあなたの人柄から出てるものだから。」
「そうか、君がそう言うならそうなんだろう。」
彼はまじめな顔で答えていた。
ユイが良いなら、それで良い。彼の行動理念にまた、新たな1ページが加わった。
それから二人は笑った。幸せな笑いだった。
ひとしきり笑った後、次にゲンドウから発せられた言葉。彼の誓いの言葉ではあったが、言葉自体に大きな意味は無かったはずだったのだ。だが、彼の後の人生において、この言葉の持つ意味は大きく違ったものとなった。彼はこう、言ったのだ。
「君のいない世界など、俺には必要ない。」
人類にとって不幸だったのは、彼に類希な才能と、ただ一人の女性との愛と別れを与えた事だ、といっても過言ではあるまい。
時に西暦2015年、男はまだ、誓いの言葉を忘れていない。
無頓着を捨てた男には、はたして、こだわりしか残らなかったのだろうか。
「もうすぐだよ 、ユイ。」