Sounds Of Singles

Kazusi Moriizumi Presents


新世紀エヴァンゲリオン アナザーアフターストーリー

<CANDY HOUSE>

最終話・前編「まっぷたつの僕ら」


(RAZORBLADE SIGH)


 幾度かの明滅を繰り返して、シンジの家のダイニングには明かりが灯った。
 蛍光灯が放つ空々しい白い光に照らされる人気の絶えたダイニングには、身に染み入るような寒々しさがあった。
 そこはつい先刻まで、シンジとレイがいた場所だというのに。
 二人の交わした暖かな時間は既に払拭され、人の息づかいというものはどこにも見あたらなかった。
 人の存在の隔絶が僅かな時間であったとしても、彼の人の残した温もりというものは儚く消え去ってしまうのだろうか。
 光があればそれこそが温もりだとアスカは思っていた。
 ダイニングの壁にしつらえられたスイッチに手をやったまま、アスカはその寂寥たる光景にうそ寒いものを感じていた。
 アスカが目にしているのは、見慣れたはずのダイニングの光景に過ぎないはずなのに。
 いままでならば、いつでも暖かくアスカを迎えてくれた部屋だった。
 部屋としての存在理由は、誰の家にあるものと変わることはないはずだ。
 だが、たった一つだけ、ここにしか存在しないものがある。
「シンジ……」
 ぽつりと、アスカはその答を零し、滑らせるようにして壁のスイッチから手を離し、立ち尽くす。
 この家の主であり、アスカにとって唯一かけがえのない存在となった少年。
 碇シンジがここにいなくては、この家の存在意義もまた、ない。
 この家に自分の部屋を獲得したから、アスカはここにいるのではないのだ。
 シンジの住むこの家だからこそ、アスカはこの場所を自分の居場所と定めたのだ。
 そうでなければ一人で暮らした頃や仕事に没頭するふりをしてネルフに居座り続けていた頃と何ら変わりはないままだった。
 この家に来た頃をアスカは思い出していた。
 闇を怖れ、眠るときにも明かりを消すことができなかった、あの頃。
 期せずしてシンジに見せてしまった、闇を怖れる子供のような情けない自分の姿。
 けれどあの夜以降、闇を怖れずにすむようになった。
 確かに光と温もりは等質ではなかった。
 自分が求めている人の温もりをシンジが与えてくれる、その暖かさがすぐに手に入るほどの傍にあることを知っているから、アスカは闇を怖れることなく眠れるようになったのだ。
 たとえ一人で眠りにつくときであったとしても。
 ――そして、シンジはいつでも自分を迎えてくれたわ……
 そこに置かれた小さなテーブルセット。
 アスカが来る前からシンジが用意していた二人だけのための小さく、それでいて存在感だけはある、おそらくはヨーロッパのインダストリアルデザイナーが設計したのであろうシンプルではあるがその実凝ったデザインのテーブル。
 こんなところにもアスカの知らなかったシンジがいる。
 背を向けているシンプルな直線で構成された椅子に、背筋をしゃんと伸ばして腰掛けているシンジの後ろ姿がアスカの脳裏に浮かぶ。
 そしてシンジは肩越しに振り向いて微笑むのだ。
「おかえり、アスカ」
 と、言葉を添えて。
 いつでもシンジはそこに座り、アスカを待っていてくれた。
 定刻通りにアスカが帰って来るのならば、腕を振るった食卓の用意をして。
 アスカの帰りが遅くなることを知っていれば、彼女の好む銘柄の紅茶の用意をして待っていてもくれた。
 シンジ自身は出涸らした安物の緑茶を啜りながら。
 そんなシンジが待ってくれている部屋へと帰りつく。
 そのことが、どれだけアスカの心を和らげてくれただろうか。
 いつでも灯されていた、この部屋の明かり。
 その光が与えてくれる優しさは、孤独を思い知ったことのある者にしか判るはずもない。
 シンジ自身がその事実を知っている存在だからこそ、いつでもこの部屋の明かりを絶やしたりすることがなかったのだ。
 それでも、ごくまれにはシンジの帰宅の方がアスカよりも遅くなることもある。
 シンジとて、アスカに生活の全てをかまけられるほど時間に余裕があったわけでもない。
 学校の行事の都合で遅くなることもあるし、ネルフからの突然の呼び出しもそれなりにあった。
 シンジの在籍している楽団の練習が長引くことだってあった。
 そんな日にこの部屋に先に足を踏み入れるときに感じてしまう、言い表しようのない、そこはかとない不安の理由にはアスカも気づいていた。
 シンジが、そこにいない。
 理由はその一点に尽きるのだ。
 それでもシンジは自分にできうるかぎりの範囲で、アスカの望みを忠実に守り続けていたのだ。
 あの運命の夜に、アスカが無我夢中で叫んだ言葉。
 ――もう、嫌あっ! 一人にしないで、あたしを置いてかないでえっ!
 夢うつつの中で叫んだ言葉だったが、アスカは自分があの時初めて本音をシンジに曝してしまったことを忘れられない。
 その言葉が枷だったとしても。いや、枷になったからこそ忘れることは決して許されない。
 シンジに対し、そして、アスカ自身にとっての決して断ち切ることのできぬ鎖。
 だが、それがどんなに頑強な枷だったとしても二人はそれに縛られることを選び、共に生きて行こうとしてきたのだ。
 ――もう……絶対に、一人になんか戻れない……
 そう思いながら、アスカは虚ろなダイニングの中へと足を踏みだした。
 確かにアスカの馳せた思いは正しい。
 それでも、まだアスカには気づいていないことがあった。
 シンジもまた、アスカと同じ気持ちを抱いていただろうことに。
 待ち続けることが義務でしかなかったとしたら、いかなシンジでも途中で逃げ出していたことだろう。
 しかし、アスカはシンジの気持ちには気づくことができなかった。
 何故ならば、アスカはシンジではなく自分を責め続けていたのだから。
 考えることに倦んでしまっていた、アスカの思考はシンジの気持ちを汲むところまで辿りつくことができない。
 自分の思いの裏を返すだけで「待つことを楽しんでいたシンジの気持ち」も理解できたはずなのに。
 それが証拠にアスカが足を踏み入れた途端に、何か暖かなものがうら寂しかったはずのダイニングには満ちようとしていたのだから。
 一人の孤独にも、誰かがここに帰ってくることを知っているだけで耐えられるものなのだ。
 そして、シンジはアスカが必ずここに帰って来てくれることを信じていたからこそ、ひとときの孤独さえも楽しむことができたのだ。
 静かな猫の足取りでテーブルに近づいたアスカは、卓上に残された湯呑みをシンクへと運んで洗い物を始めた。
 アスカはシンクの傍らに置かれたポットを手に取ってみる。
 ただでさえシンジがよく使うのに、レイの分まで使ったのであれば、中身は空に近いはずだった。
 案の定、ポットは軽々と持ち上がってしまう。
 その頼りない軽さが、アスカの心を震わせた。
 中身のない、軽さが。
 ――あたしの心も……同じかしら……
 ポットなぞに喩えられてしまう自分の心が情けなかったが、アスカは漠然とそんなふうに思う。
 周囲の温度変化を寄せ付ることもなく、真空の断裂によって中身の温度を保護する魔法瓶。
 唯一、外界との接点となるのは吐きだすための口だけ。
 全く、人間そっくりではないか。
 苦い思いを口許に刻みながら、アスカは湯を追加するために薬缶を火にかけた。
 空っぽの中身を満たすためには、また何か、新たな何かを瓶の中に注ぎ込まなければならないのだ。
 魔法瓶には湯を。
 さて、自分には何を注ぎ込んだら良いのだろう?
 何を受け入れ、何を拒絶しなくてはならないのか?
 それを取捨選択するのは果てもなく難しいことだった。
 何が正しく、正しくないのか、ではない。
 自分の信念に合致することが大前提であり、それでいて一緒に暮らす相手の気持ちをも汲めるような結論。
 考え始めたら、決して答など出せないような命題だった。
 しかし、これを考えることは是が非でも必要なのだ。
 答を出せる、出せない、でもないのだ。
 深く考えることによってのみ。その混濁する思考の泥濘の中でもがき苦しむことによってだけ人の心は成長するのだろうから。
 ぼんやりと、しかし深い思索に迷いながら洗い物を続けていたアスカの指に何かが絡むように引っ掛かった。
 それは、ほんの微かな感触でしかなかったが、上品な梅の絵を描いた客用の湯呑みの縁に何かが残されていたことにアスカは気づいた。
 アスカの薬指から中指にかけて残されていたのは、ほんのりとした赤みを持った色だった。
 薄いリップカラーの色が、湯呑みの縁には残されていたのだった。
 その赤は、間違いなく彼女に似合うであろう。
 色白の彼女に似合いの薄紅色。
 控えめに彼女を彩りながら、それでも艶やかに唇を浮き立たせてくれるであろう紅の色。
 レイが化粧をしていた。
 それに気づいてやれなかった自分が何故かアスカは悲しかった。
 そしてどうしてなのだろう、レイが化粧を始めたことが驚くほどアスカには嬉しく思えた。
 年相応の少女として、レイが輝き始めたことが嬉しいからなのだろうか?
 ――違う……わね……
 蛇口から流れ出す水にその色を洗い落としながら、アスカは自嘲的に思う。
 哀しくも自分の抱いた嬉しさが嫉妬に根ざしたものだと、アスカは冷静に判断できてしまうから。
 先刻、更衣室の前で二人きりで話したときに、レイと判りあえたような気がしていた。心が通じ合ったとさえも思った。
 それでも、アスカには一抹の不安がどうしてもつきまとってしまうのだ。
 いつ、シンジがレイに心変わりしてしまうようなことがありはしないかと。
 初めてシンジに抱かれた夜、彼のレイに対する思いはその口から直接アスカに知らされていた。
 だからこそ、この場所に安心してアスカは身を寄せることができたのだ。
 それにアスカは、自分が二度とシンジを裏切るような真似をしないことを知っている。それをしたくがないために、この場所へと赴いたのだから。
 けれど、シンジは別だった。
 シンジはいつでも自分が望むときに自分を裏切ることが、いや、見捨ててしまうことができるのだと、アスカは思い込んでいた。
 自分が犯してしまった罪のせいで。
 だからこの口紅は、レイがシンジに靡いたりすることがないだろうという、淡い確証を抱かせてくれるに足るできごとだったのだ。
 それゆえにアスカは、図らずも嫉妬交じりの嬉しさを覚えてしまったのだ。
 ――嫌な……女よね……
 どうしたって、そう思ってしまう。
 しかし、それが当然のことだとはアスカは知らなかった。
 その嫉妬こそは、恋する女だけに許される特権だということに。
 嫉妬心を止めることなど、人間には不可避なのだから。
 それが真剣に愛している人間に関することならば尚更だというのに。
 だが、自分の弱さや醜さと直面してしまったアスカにはその事実を認めるのは難しいことだった。
 他者にそれを許してもらわない限りは。
 渾沌を極めたアスカの思惟を救ったのは、突然窓の外から響いた図太いエンジンの音だった。
 あの少年の駆る、漆黒の忍が放つ裂帛の気合が迷いを断つ。
 いきなり響いたそれに、アスカはびくりと身を強ばらせた。
 その様は、まるで教師に怒鳴られた小学生のようだった。
 そんなことに驚いてしまった我が身の情けなさに、アスカは苦笑を浮かべてみせるしかなかった。
「相変わらず、判りやすい奴!」
 自分を脅かした相手に聞こえるはずもない憎まれ口を叩きながら、アスカは手に持ったままの湯呑みを水切りに置き去った。
 レイに対して抱いたおぼろげな羨望と共に。
 アスカはほんの少しだけレイのことを羨ましく、そして妬ましくも思っていた。
 何故なら、打てば響くように答を導き出してくれるトウジの性格は、女としても尽くし甲斐があるだろうから。
 たとえその答が間違いだったとしても、問い掛けた思いに即座に答えてくれる存在は人生においてなかなかに得難い存在だ。
 以前はアスカの目の前にも、そういう人間がいてくれた。
 それが、加持リョウジだった。
 アスカの人格を認め、対等に扱ってくれた初めての男。
 もちろん彼の行動の裏に、さまざまな思惑が隠されていたことは、いまではアスカも知っていた。それでも加持の存在はアスカにとって指針となり、進むべき道を常に示してくれたのだ。
 けれど、加持はアスカのものにはならなかった。
 加持には愛した女がいて、加持もまたその女、葛城ミサトに愛されていたのだから。
 そしてアスカ自身の加持に対する思慕もまた、決して憧れという淡い領域を出ることがなかったのだから。
 アスカの思い描いた光景は一瞬だけ加持に留まり、シンジと同じ日に同じ場所で出会った少年の一人にうつろっていく。
 オーヴァーザレインボウの戦闘機が屯する甲板上での、ろくでもなさすぎる初顔合わせからすれば、今日ではアスカの中でのトウジの評価というものは格段にその地位を向上していた。
 何せパンツの見せ合いはおろか、見たくもないトウジの一物まで見せられてしまったのだから開いた口もふさがらないというものだ。
 その馬鹿らしすぎる思い出と現在とのギャップに微笑を誘われながらアスカは小さく呟く。
「でも……」
 と、だけ。
 アスカが選んだ少年は、決して鈴原トウジではなかったのだから。
 自分が傍にいて欲しいと願ったのは、あの決断力や行動力ではなかったのだ。
 窓の外でぐるぐると唸りを上げていたニンジャのアイドリング音が一つ高く吼え、思い出に埋没していたアスカは、はっと顔を上げた。
 そして、二人乗りをしているはずのバイクの音は豪快な音を響かせて、痛快なほどに思い切りよく去っていく。
 それでいて、その爆音は意外なまでに穏やかに耳に響く。
 その快音に思わずアスカは心の中で神に感謝を捧げていた。
 たとえ嫉妬を押し隠した願望とはいえ、シンジの在り方を問い直し、気づかせてあげたいと思った気持ちは決して嘘などではないのだから。
 表で顔を合わせていた三人の心には、何らかの折り合いがつけられたはず。
 あの三人であれば、それも相叶うだろうとアスカは思う。
 他人の心を尊び、慮ることのできる彼らならば。
 そして彼らの問題は、顔を合わせて話をしさえすれば解決する問題だったのだ。
 それを実行するためには、いささかの勇気と他人のお節介を必要としたが。
 しかし、アスカとシンジの関係というのは、友情や恋というところを越えたところに既に存在してしまっているのだ。
 ――それだから、あたしたちは……
 辛い思いに行き当たり、アスカは身を縛ろうとする思いから逃れるように敢えて、てきぱきとお茶の準備を始める。
 普段はシンジにも絶対に使わせることのない、とっておきのティーセットの入った化粧箱を戸棚の中からアスカは引っぱり出した。
 哀しいことだが、アスカとシンジは安易に互いの理解というものを望むわけにはいかなかった。
 何故ならば、既に自分たちはお互いの心に潜ませた深淵を覗きあってしまっているのだから。
 互いを信頼できる、できないという問題ではない。
 信頼というだけの絆であれば、二人の絆は余りに強固なものだった。
 余人の立ち入る間など毫ほどもない、確かな絆が二人の間には既に結ばれているのだ。互いの闇を知り合ってしまったがゆえに信頼はより強堅にされねばならなかった。だが、そのことが互いの心を深く隠蔽しあう結果となった。
 絆を失ってしまうことの怯えがあるからゆえに。
 その恐怖を何としてでも払拭しなければ、自分たちは本当に愛し合うことなどできやしないとアスカは気づいたのだ。
 もしかしたら、アスカの出したその答さえ間違っているのかも知れない。
 それでも過つことを恐れ続け、胸中を偽り続けたからこそ、今回のことは起こってしまったのだ。
 この場所に来てからというもの、アスカはただの一度も自分の抱いていた気持ちをシンジにストレートに伝えたことがないことに、遅まきながら激しい後悔を抱いていた。
 だが後悔することは仕方がない。後悔するようなことのない人生などなんの意味もありはしない。そして、今後の人生が後悔の連続になるとしても、アスカは一生をシンジと共に過ごしたいと、どうしても思ってしまうのだ。
 その心の揺動は理屈で説明したりできることではない。
 それを誤魔化すために理屈をこねまわし、本心から逃がれ続けた結果こそが現在だった。
 であればこそ、この先をシンジと共に生きていくのであれば、心の中に沸き上がる「自分の真実」に素直に従わなければならない。
 それがシンジの思惑にそぐわないものだったとしても。
 アスカがテーブルの上にティーセットを並べ終えるのを待っていたかのように、火にかけていた湯が沸いて薬缶の蓋がカタカタと踊り始める。
 その様は見事にアスカの心中を物語っていた。
「だからッ!」
 小さく叫んだアスカは力強く拳を作り、握りしめる。
 震える拳を見つめながら、アスカはきっぱりと自分自身に向かって言い放つ。
「アタシは、今度こそ闘わなくちゃならないのよッ!」
 そう言いながら、アスカは火を止めて薬缶の中身をポットに移す。
 湯気を立てながら、しなやかに流れ落ちる銀色の液体。
 それはまさに自分の思いのように静かに沸き立っていた。
 この思いを以て、シンジの与えてくれる優しさと、それを無条件に受け入れてしまう自分自身の怯懦と戦わねば、二人で得ることのできる未来はない。
 エヴァに乗っていたときに闘った相手、使徒というものは、ある意味に於いては幻影にすぎなかったのかも知れない。
 何故なら、アスカは戦場に己が身を置きながら、決して戦場を知らぬままに過ごしてしまったのだから。
 それは、あの戦いに関わっていた人間全てに共通したことだったのかも知れない。
 もとより、あれは人間が闘いうる戦いではなかったのだから。
 武器を取って戦えば、それが戦いなのではない。
 自分の信ずるもののために戦い、我が血を流したときにこそ戦いは闘いたるのだ。
 信念と信念がぶつかりあう人間同士の戦いを経験せず、単なる戦闘を生き抜いただけでは、人間は本当の闘いを知ることなどできないのだ。
 パイロットという一個の機械として戦闘に及んだアスカは、それを知ることができなかった。
 最強の存在に身を置くことを許されなかった立場では無理もないことなのだから、それを責めることは余人にできることではないが。
 それに誰があの状況下でそんなことまで考え及ぼうというのか。
 しかし、いまこそ碇シンジという一個の人格と対決することを余儀なくされたアスカは、闘いという言葉の重さをひしひしと感じていたのだった。
 ――アタシは、負けたりしない……
 その思いを封印するように、ポットの蓋をアスカは閉じた。
 アスカがかつて、何度となく呟いていた言葉。
「負けられない」
 己が身を奮い立たせ、闘いに駆り立てるための言葉。
 あの頃は、眼前の敵しか見えていなかった。
 しかし、その敵を通した自分自身と対峙することこそが、本当の闘いなのだとアスカは遂に知り得たのだった。
 決意を漲らせ、神経を過敏なほどに研ぎ澄ましたアスカの耳に玄関の開く微かな音が聞こえたのも当然のことだったろう。
 蒼の瞳を決然と煌めかせたアスカは素早く身を翻すと、自分の思いというものを色濃くその場所に残し、足早に玄関へと帰ってきたシンジを迎えに出た。



 シンジの目の前でスティールのドアは閉ざされていた。
 日々目に馴染んだ、さほど上等とは言えない鉄で作られた、なんの変哲もないどこにでもある家の扉に過ぎない。
 その前に佇んだシンジは、わざとらしい深呼吸を一つした。
 それでも、エレベーターに乗っている間に始まった、震えるような胸の鼓動は一向に収まらなかった。
 それは無理もないことだったのだ。シンジは自分がアスカに何を伝えられるのだろうと考えていたのだから。
 二人で暮らした決して短いとは言えない時間の中で、言えなかった言葉は幾つもあった。伝えようとして伝えられなかった想いも数多ある。
 その「できなかった」ことこそが、自分たちの間に深い溝を掘る遠因となったのはシンジも理解していた。
 しかし言いそびれてしまった言葉と想いをどのように伝えなおせば良いのだろう。
 それに失敗したからこそ、今朝の事態は引き起こされたのだから。
 シンジは震えている自分の手を、他人の手を見るような気持ちで見つめていた。
 間違いなく、シンジは怖れていた。
 アスカの顔を見ることを。
 それでも、その震える手でドアのノブを握りしめ、加持の諭しをシンジは思い起こした。
 失敗したとしても、まずはアスカに謝らなければ何も始まらないのだ。
 何よりもシンジの胸中には、自分自身で禁じてきた様々な思いが封を解かれ、奔流のように荒れ狂っていたのだから。
 だから、自分のためにも言わなくてはならない。
 アスカのためにという言い訳を錦の御旗の如く振りかざし、自分自身を騙し続けることをいままでシンジは受諾し続けてきた。
 いや、むしろ自分を守り続けるためのルーティンへと、シンジは吐き続けた嘘を堕落させてしまったのだ。他ならぬアスカを守るために吐いていた嘘が、いつしか自分のためだけに吐き続ける嘘になってしまっていたのだから。
「ちくしょう……」
 思わずシンジはこぼしていた。
 それを認めるのは、さすがに辛いことだった。
 あれだけの月日を共に暮らしながら、自分は優しさという言葉を曲解し、常にアスカを裏切り続けていたのだから。
 シンジにとってその事実は肉体の裏切りなどより、はるかに非道なことに思えた。
 しかし、それを敢えて認めて自分自身でその嘘を否定しようと努力していかなければ、この先の一生を、自分は決して真実を語ることをできぬまま過ごすしかなくなるだろう。
 それは安易な死などよりも、遥かに恐ろしいことのように思われた。
 だから意を決して、シンジはドアを力強く回した。
 そこは自分の、いや、自分たちが帰るための家なのだから。
 そして帰り着くべき場所とは、決して逃れの町、レフュージであってはならないのだ。逃れの街に安らぎがもたらされることは、決してないのだから。
 エヴァのエントリープラグ同様、偽りの子宮と同じなのだ。
 そこにあるのは、ただ怠惰な安逸だけにすぎないのだから。
 この家さえもそのようになってしまったら、二人は引き離されることもないかわり絶対の絆で結ばれることもなく、波間に見え隠れする木の葉のようにただ人生という大海を、行く先も見いだせずに揺曳するしかないのだ。
 それゆえにシンジが引き開けるドアは果てしない重量を、ノブを握った手に覚えさせた。二人を翻弄する、人生という流れに抗う舵にかかる重さのように。
 だが、それこそがこれから二人が積み上げていくための時間の重さなのだとシンジは心に刻み込み、ついにそれを引き開けた。
 シンジの目の前に広がるのは、無論いつもの見慣れた玄関でしかない。
 外見的なことは、何一つ変わったりすることはないのだ。
 けれど、自分だけは。
 いや、アスカもだ。
 少なくとも自分たちは変わろうとし始めた。
 自分たちの何を変えなくてならないか、何を変えなくてもいいのか。
 それはこれから知ることになるのだろう。
 シンジは静かにドアを閉ざした。
 たったそれだけのことでここは二人だけの世界と化し、世間と隔絶する。しかし、だからといってそれだけのことで世界との繋がりが絶たれてしまうわけではない。
 シンジの脳裏にはかつて、そしてこれからも関わっていくはずの幾つもの顔が浮かぶ。自分を、そしてアスカを心配してくれる人がいるのだから。
 いつかは自分も誰かにとってのその立場になりたいと願いながら、シンジはシリンダロックを下ろした。
 だから自分の背に、暖かな何かが触れたことはシンジにとってほとんど青天の霹靂だった。
 思いに深く埋没していたシンジは背後に忍び寄った気配に全く気づかなかった。
 ぎくり、と動きを止めてしまったシンジだったが、静かに置かれた手の暖かさが背中に染み入るにつれ、不思議と心が安らいでいくのを感じていた。
 それは決して誰の手と間違えることのない、アスカの柔らかな掌の感触だった。
 この温もりを絶対に失いたくはないと、今さらながらにシンジは痛感する。
 自分たちは他人同士にしか過ぎない。
 それでも、他人だからこそ魅かれあう互いという存在。
 他人にも関わらず、その思いがあるからこそ温もりを与えてくれる優しさ。
 その温もりこそが己の全てをなげうってでも、我が手に掴んで離してはならぬものだったのだ。
「アスカ……」
 まだ温もりを与えてもらえるというたとえようのない嬉しさと、そんな単純で原初的な思いすら忘れかけていた情けなさとでシンジの声は掠れ、途切れる。
 言いかけたシンジの言葉は、確かな意味を伴ってアスカの耳にも届いていた。
 たとえ途切れてしまった言葉であっても、シンジが何を言葉のあとに続けようとしたのかは、アスカにも手に取るように判っていた。
 だが、その言葉による謝罪を受け入れることはアスカにはできなかった。
 今朝、自分が見たシンジと、今ここにいるシンジが違うことも判っている。
 それでもアスカには、シンジに伝えなければならない、曝け出さなくてはならない心の裡があった。
「待って……シンジ」
 そしてアスカの手は滑るように動いて、シンジの腰に絡みつく。
 シンジは黙ったまま、アスカの言葉を待っている。
 その隙を突くような真似をしてまでも、アスカは言わねばならなかった。
 自分たちの現実を再認識するための言葉を。
「アタシ達って、嘘吐きよね」
 アスカの吐き出した言葉は遙かに強い意味を内包し、そして余りにも直接的な言葉だった。それはシンジの肺腑を背後から冷たく鋭く貫き通し、残酷に抉った。
 貫き通された心が水銀のような冷たさに、確実に浸食されていくのをシンジは声も立てられずに感じるしかない。
 確かにアスカの言うように、二人の関係は分厚い嘘に塗りこめられたものだった。
 だが、敢えて今それを眼前に突きつけることをしなくとも、そんなことは判っているはずだった。
 そんな言葉を自分に投げつけるアスカの真意を、シンジは捉えることができない。
 これもまた長い間、心を偽り続けたことに支払われる対価なのだった。
 互いにぶつけ合うことのなかった想いに慣れてしまった心は、真実の圧倒的な力の前には何の対抗力も持たなかったのだ。
 殊に、アスカと言う存在に対しては。
 だからシンジにできたことと言えば、我が身を襲う冷気にうち震えることだけだった。
 シンジの背中に走った震えを、確かにアスカは寄せた頬に感じ取っていた。
 シンジの感じた恐怖とはどのようなものなのだろうか。
 それをアスカは我が身の中に再構築することができる。
 自分とて、シンジと同じ罪を犯し続けてきたのだから。
 だからこそなのだ。アスカはシンジを弾劾するためにこんなことを口にしたわけではない。責めるつもりなどさらさらない。
 ただ、自分たちが今までをどう生きてきたのか、それを認識するためだけに事実を口にしただけだったのだ。
 そして、この事実こそが越えなければならないハードルなのだ。
 自分のみならず、二人で共に手を携えて越えるべき障害なのだった。
 この瞬間にはシンジに判ってもらえないかも知れない。
 それでも本当に抱え続けた思いを、今この瞬間に伝えなかったとしたら、後悔するのは自分だけではすまないのだ。
 共に暮らすこととなるはずのシンジも、いつしかその重圧に耐えかねて破滅への道を歩まなくてはならなくなるだろう。
 ならばこそ、この瞬間には誤解されるとしても、自分自身の言葉を過つことなく伝えなければならなかったのだ。
 アスカはそれほどまでの思いを、その言葉に込めていた。
 だからシンジの背から自分を引き剥がすためには、恐ろしいほどの自制心を要求された。
 このままシンジを抱きしめて、泣いて、縋れば、全ては安易に片づくことだろう。
 しかし、それでは駄目なのだ。
 二人の関係というものは、そんなままごとの領域を遙かに踏み越えたところでしか、もはや機能しないのだから。
 なけなしの勇気を振り絞ったアスカはシンジの背に強く自分の頬を一度だけ擦りつけると、思い切って身を翻した。
 自分からしたこととはいえ、自分の吐いた言葉に戦慄したシンジの顔を見ることは、余りに忍びなかったから。
 背に与えられていた暖かさが急速に冷えていくのを感じ、シンジはかわりに感じる孤独の冷気が更に体をがんじがらめにしようとするのを感じずにはいられなかった。
 離れてしまったアスカを追いかけようと、シンジは軋るような体にありったけの力を込めて、後ろを振り向く。
 だが、そのぎこちない動きゆえに、アスカが浮かべていた表情を見るには間に合わなかった。
 自分を打ち据えた断固とした言葉とは裏腹な、今にも泣き出しそうに歪んだ顔を。
 辛うじてシンジが、狭くなった自分の視野に捉えることができたのは、ダイニングのドアを抜けて行こうとする中空に泳ぐ金の髪だけだった。
「!」
 美しい後ろ髪の残像が、シンジの網膜に鮮烈に灼き付き、古い記憶を呼び覚ます。
 残照のように揺らいで靡いた金色の髪を、シンジは第三新東京市の街の中で、ただ見つめていたことがあったのだ。
 どうしてか、シンジはアスカを追いかけることができなかった。
 あの躍動的な後ろ姿と金髪をシンジが見間違ったりするはずもない。
 けれど、アスカだと瞬時に判ったにも関わらず、心の中でシンジは別人だと決めつけ、背中を追いかけることを自分に禁じたのだった。
 なぜ、追いかけることができなかったのか?
 その答えは簡潔だ。
 その頃のシンジは、自分に全くと言っていいほど自信が持てないままだったのだ。
 その後、再びアスカに相まみえることができたときには、暴発した心に従ってアスカを追いかけてはいたのだが。
 いずれにせよ、今夜のシンジは少なくともあの頃のシンジではなかった。
 静かに靴を脱いだシンジは、それを揃えて置くと、自分はアスカを追いかけることができるんだ、と思いながらゆっくりと歩を進めた。
 一歩一歩を踏みしめるようにして、アスカの待つダイニングへと進んで行く。
 今ではシンジは彼女を追いかけ、話をし、抱きしめることができるのだ。
 一瞬浮かんだその思いを、シンジは頭を振ってすぐに否定した。
 そう「できる」のではないのだ。
 シンジは「アスカだけ」を追いかけたい、話をしたい、抱きしめたいと思うのだ。
 シンジがそうしたいと望んでいる存在は、惣流・アスカ・ラングレーただ一人だけなのだから。
 そのためにこそ、シンジはこの家を手に入れたのだ。
 一人という孤独に耐え続けることができたのも、いつかここにアスカが来てくれるのを待ち侘びたからなのだ。それが独りよがりな期待だと言うことは嫌と言うほどに判っていた。
 しかし、せめてその下準備ぐらいしなければ、アスカという存在を受け入れるに足る人間だと自分を思うことがシンジにはできなかったのだ。
 迎えに行こう、話をしよう、と何度も思った。
 けれど、どうしてもそれを実現することはできなかった。
 決定的な行動をシンジが起こす前に、アスカがここに来てしまったからだった。
 アスカなりの期待を、碇シンジという取るに足らない存在に託して。
 そのアスカの寄せてくれた思いにシンジは応えて行かねばならない。
 シンジの持てる真心すべてを以て応えるのが、アスカに対する責務とも言える。
 それはエヴァに乗り、人類を守っていたときに感じていた義務などよりも遙かに重く、過酷なものだった。
 たった一人に対する責務ではある。
 しかしそれは自分自身が全てを負わねばならぬ責任なのだから。
 あの頃のように自分の代わりに責任を取ってくれる人間など、自身で作る人生には存在しないのだ。
 誰も彼もがそれぞれの場所で、それぞれの責任を負って、それぞれの考えでいまは生き抜こうとしているのだ。
 誰しもが何かに悩み、何らかの決断を下して生きて行くのだ。
 自分にも、そのときが来ただけでしかなかった。
 アスカが自分からここに来てくれたおかげでシンジは自分で下さねばならない決断に猶予を与えられた。
 しかし、もはやそのモラトリアムの時間も終焉を迎えるときが来たのだ。
 加持が告げてくれた言葉をもう一つ、シンジは思いだしていた。
 ――自分で判っていなければ、答のない問いなど問えるはずはないんだぞ……
 脳裏に浮かんだ加持の表情と厳しい口調に、シンジは真摯に頷いていた。
 答はとうに決まっていた。この気持ちを覆すものなど、何もありはしない。
 もし、あるとするならば、その正体こそは自分自身の怯懦だけでしかなかった。
 いままではそれを容認し、全てから逃げ回って生きてきた。
 それも構わなかったろう。
 そのときには彼女は関係していなかったのだから。
 そうやって生き抜いた人間だって、この長い人間の歴史の中には少なからず存在したはずなのだ。
 しかし、シンジにとっては違うのだ。その生き方は伴侶を得るためには許されぬ生き方の筈だった。少なくともシンジはそう思う。
 彼女は自分が欲して止まなかったものを与えてくれるのだし、自分は彼女の存在そのものを求めるのだ。
 それは自分自身と戦い抜いて得るしかない。
 また、そうでなくてはシンジにとってのアスカの価値は虚無へと帰してしまうだろうから。
 だからシンジもまたアスカと同様に拳を強く握りしめる。
 己が戦うべき現実を強く見据えるために。
 そして、シンジは昂然と顔を上げ、ダイニングへと入っていった。
 シンジが最初に目にしたものは、ティーポットを傾けてカップに紅茶を注ぐアスカの姿だった。
 ダイニングを包み込んだ雰囲気は、シンジの予想していたものとは全く正反対の雰囲気だった。
 二つのティーカップを満たしてポットを置いたアスカの挙措はとても落ち着いていて、昨日までと何一つ変わらぬもののように見える。
 ふと、アスカは顔を上げると突っ立ったままのシンジに一瞬戸惑ったような表情を見せた。けれど、その惑いの表情はすぐさま消え失せ、シンジがいつも見ていた柔和な笑みが代わりに浮かべられた。
「座らないの、シンジ?」
 柔らかな笑みを浮かべてシンジに椅子を勧める姿も物言いも、余りにも先刻の痛烈な言葉にはそぐわない。
 余りにちぐはぐな印象を受けるアスカの言動に面食らいながら、それでもまだ話を切り出すべき頃合いではないと判断したシンジは大人しく自分の椅子に腰掛け、アスカの蒼い瞳を静かに見つめるだけにとどめた。
 無言のままのシンジに、小首を傾げながらアスカはにこりと微笑み掛けると「シンジはどうするの?」と訊く。
「え?」
 訊ねられた言葉の意味を把握しきれずに、思わずシンジは訊き返していた。
 謎めくアスカの態度と言わねばならぬ自分の思い、その二つの事象のみに心奪われていたシンジには、アスカの発した質問が酷く深い意味を忍ばせた物のように聞こえてしまっていたのだ。
 けれど、アスカは僅かな苦笑を見せ、シンジに言った。
「紅茶のことよ」
 その答えを返せるということは、アスカが先刻の言葉を忘れてしまったわけではないということを明確に表していた。
「あ……」
 どうしようもなく感じていた気負いが、その瞬間に霧散していた。肩から力が抜けたようにシンジは感じ、間抜けな溜息のような安堵の言葉を漏らしてしまっていた。
 戦わなくてはならない相手は、アスカではないのだから。
 その相手とは、まず自分なのだから。
 アスカに向かってどんなに力んで見せたところで、自分の抱えている言葉を口にできなければ、なんの意味もない空回りに過ぎないのだから。
 毒気を抜かれたシンジは、アスカがお茶を入れてくれるときにいつも頼むように砂糖を入れるだけの紅茶を頼んだ。
 その注文通りにアスカはカップの中に真白いグラニュー糖を二さじすくい入れて、シンジの目の前に受け皿に載せたカップを丁寧な手つきで置いた。
 滅多に使われることのない、アスカのお気に入りのオニオンブルーが美しいマイセンのセット。
 ここに来てからアスカが自分のわがままで買った唯一の贅沢品だった。
 それがいま、目の前に出てきたことで、アスカが自分と同じように何かを心に秘めているだろうことをシンジは理解していた。
 赤い水面を見つめながらカップにくちづけたシンジは、アスカの発した先刻の言葉も単なる断罪の言葉ではないはずだと確信していた。
 そして、それをアスカは敢えて口にしたのだろうから、まだ、自分たちには歩み寄ることのできる余地があるはずだった。
 それを思いながらシンジはカップを受け皿に戻し、柔らかな湯気がわだかまる夕闇色に染められた水面を黙って見つめていた。
「美味しくなかった?」
 アスカに訊かれ、我に返ったようにシンジはアスカを見つめた。
 そこにあった顔は、本当に紅茶の味の心配をしているように見えてしまった。
 その表情がシンジの我慢の限界を超えさせてしまった。
 訊きたいことはいくらでもあったのだから。
 カヲルとのこと。今朝のこと。そして先刻の言葉の真意。
 だが辛うじてシンジはそれを聞き質すことだけは堪えた。
 アスカを問いつめ、聞き質すことはたやすいのだ。
 それが容易なことだからこそシンジはそれを端折り、自分の思いをアスカに伝えるという行為に及んでしまった。
「アスカ」
 真剣な口調で目の前に座る彼女の名を呼びながら、シンジは必死の思いで組み立ててきた彼女への自分の思いを紡ぎ始めた。
 初めはたどたどしく、やがては滔々と。
 アスカは黙ったまま、シンジの告解を受け止めていた。
 けれど、始めはシンジの顔を見つめていたアスカの蒼い瞳が、シンジの言葉が進むにつれ、テーブルの上へと落とされていってしまう。
 シンジが滔々と述べる言葉が、残念なことにアスカの聞きたかった言葉ではなかったからだ。
 いまシンジが告げている言葉が、彼の心に秘め続けられていた本音でないことが判ってしまったからなのだ。
 決してシンジの言葉が嘘などと言うつもりはアスカにはない。
 ましてや、自分たちに対する言い訳だなどと言うつもりもない。
 それでもシンジの吐き出す言葉には甘すぎる毒が込められているのだ。
 シンジがアスカのことを気遣えば気遣うほどに深くなる誘惑への陥穽。
 シンジ自身では気づくことのできない自身で仕掛ける他者への罠。
 それをシンジに気づかせることができなければ自分がここにいる意味はないと、アスカは自分に厳しい枷を課したのだ。
「だから?」
 それゆえに、アスカはまたしてもこの苦すぎる言葉を言わねばならなかった。
 期せずして二人の置かれる状況が、朝のパロディの様相を呈するのが判っていながらも。
 アスカの簡潔な問い掛けに、シンジがぎくりと顔を上げてアスカを見つめる。
 だが、縋るように上げられた視線の先に、湖水のようなアスカの瞳はなかった。
 伏せられて雪崩た金色の髪があるだけだった。
 それでも口にされた口調は、今朝ほどに冷ややかなものではなかったのだ。
 唯一、それに勇気づけられてシンジは遂に言った。
 考えに考え抜いた上での、熟慮の末での「自分の本音」というものを。
「僕は、僕のためにアスカを抱きしめたいんだ」
 間違いなくそれもシンジの本音だった。
 シンジからアスカを抱きしめたことは、言葉通りかつて一度もなかったのだから。
 けれど……
 ――それはアタシがずっとしてきたことじゃない……
 言葉にすることなくアスカは思う。
 言葉にされた望みが、たとえシンジの本心から出た言葉だとしても、アスカは決してそれを許容することができなかった。
 何故ならそれはアスカ自身がシンジを繋ぎ止めるために使い続けてきた手段そのものだったのだから。
 シンジとてそのことに気付いていないはずはないだろうに。
 苦々しい思いを抱きつつ、アスカは沈黙に閉じこもるしかない。
 自分たちにとって、意味を為さない言葉には返すべき答えはないから。
 しかし、それを拒絶するだけでは戦いにはならない。それをどのように改めるのかが、問題なのだ。
 確かにいまの自分にとって、シンジの吐きだした言葉は意味を為すものではない。
 だからといって、それを一刀両断に否定することなど誰にもできないのだ。
 たとえそれが本音ではなかったとしても、今までのシンジならばこんな風に直接的に自分を「抱きたい」などと言ってくれるはずもなかったろう。
 本心を偽らずに言ってしまえば、シンジの言葉にアスカはたとえようもない嬉しさを感じていたのだ。
 許されるのならば、泣き出してしまいたいほどに。
 汚され辱められつくしたとも思える自分をまだ、シンジは抱きたいと言ってくれるのだ。
 シンジの抱く願いは、アスカの女としての尊厳を限りなく満足させてくれる言葉に違いなかったのだから。
 愉悦に曝された精神の煽りを受けて、身体が震えそうになるのをアスカは感じていた。それでも女として生まれた悦びを噛み締めながらも、シンジの思慮さえも判っていながらも敢えてシンジを否定する立場に立たねばならない自分を怨みたかった。
 しかし、いまこの瞬間に偽りを重ねた過去を清算してしまわない限り、自分たちの向かうべき未来は全て砂上の楼閣と化してしまうだろう。
 その脆くも崩れやすい関係を維持するために、どのような代償を支払い続けなければならなくなるというのだろう。そして、その代償こそが破滅そのものだろうと想像がつく今では、傷つき、後悔したとしてもシンジと戦う道を選んだほうがマシというものだということが判る。
 ふとアスカが気づくとシンジの長広舌はすでに終り、辺りは爆心地の静寂に包まれていた。まさに言葉の絨毯爆撃が終わった後のしじまだった。
 ようやくアスカは顔を上げてシンジを見つめる。
 耳許で髪が擦れる音さえ聞こえた。
 相槌も答も返さぬアスカに対して、シンジはどのような感情も見せようとしてはいなかった。自分の語るべきことは全て語ったと言わんばかりに黙し、静かな瞳でアスカを見つめているだけだった。
 その瞳には一点の曇りもない。
 間違いなくシンジは自分の語った言葉を信じ、アスカが答えてくれるのを期待しているのだ。それにも関わらず、アスカはひたむきなシンジの思いを踏みにじらねばならない。アスカは胸の中で重くいびつな鉄球が転がるような感覚を覚える。
 そしてアスカは思うのだ。何度、自分はこの気持ちを味わうことのないまま、他人の気持ちを踏みにじってきたことだろうかと。
 いま味わっているこの気持ちが贖罪に相当するとはアスカには思えなかったが、それでも、まず始めにこそ目の前にいる少年に対して自らが犯した罪を贖わなければならないことだけは判っていた。
 長い瞬きをアスカは自分の目に強いて、ひたむきに自分を見つめる黒の視線に蒼い自分のそれを絡めきっぱりとアスカは言い放った。
 全ての怯懦な連鎖を断ち切り、新たな絆を再生するために。
「嫌よ」
 新たな爆発が、ダイニングを震わせたかのようだった。
 短く、鋭く、決して意味を取り違えたりすることのない決定的な言葉だった。
 その一言のあとには、再び音は消失していた。
 勿論、それは錯覚でしかなかったが。それが証拠に、隣のリビングに置いた時計の秒針が時を刻む音は明確に聞こえてきていたのだから。
 それが何周したあとだろう。
 蒼い視線と結ばれていた黒の視線が、結束力を失ってしまった紐のように力なく解けて、床の上へと落ちていった。
 何かしらが、二人の間で壊れた。それだけは間違いようがない事実だった。
 たった数分の間のことでしかない。
 しかし当事者の二人にとっては、このわずか数分の時間は永遠の如き苦行を二人に架し、二年間積み上げてきたものを灰燼に帰した。
 椅子の背にぐったりと背中を預けきり、力なく落とした肩と頭。その伏せられたシンジの口から呪詛のような疑問の言葉が絞り出された。
 負の感情を凝縮しつくしたような、重く粘りつくような疑問が。
「……どうして……どうしてなんだ……アスカ……」
 言葉に焼かれ灰となった感情に塗れて足掻くシンジをどうしようと、その選択はアスカの自由だった。
 天使となり、彼の手を取り引き上げて、胸に抱く。
 悪魔となり、更なる絶望へと彼の精神を追い込む。
 二者択一の世界だった。
 三つ目の選択肢は、いま、ここには存在しなかった。
 そしてアスカは敢えて自分が悪魔と罵られる方を選ぶ。
 もともと、それを決意しての言葉だったのだから。
 偽りに彩られた彼我の関係を覆すために、アスカはシンジの目の前に存在しているのだから。
「だってアンタ嘘吐いてるじゃない」
 アスカの言葉にびくっ、とシンジの背が震える。
 ここまで完璧な誤解しようのない絶対的な拒絶は、シンジも初めての経験だった。
 いや、今までは何とか自分が傷つくことのないレベルに、拒絶の衝撃を緩和し続けてこられたというべきか。
 巧妙に自分の心に欺瞞をかけ、立ち回ることによって完全な拒絶をシンジは回避し続けてきた。
 トウジのことを思い出すがいい。
 あれが、いい例だ。
 そして父親に対してさえ、あのゲンドウを前にしてさえもシンジは絶対の拒絶を受けることなくやり過ごしていたのだ。
 しかし、いま、アスカから完膚無きまでの拒絶というものを目の前に示されてしまった。
「でも……それでも、僕はアスカのことを抱きたいんだ」
 シンジにはそれだけを言うのがやっとだった。
 二人の関係の根底を為していたはずの肉体関係。
 そしてアスカから自分を求めてきたという事実。
 それがシンジにこの言葉を吐かせていた。
 それが、シンジの最大の甘えだということに気づかずに。
「今だけはアンタに抱かれるのは死んでも嫌よ」
 残酷にアスカは言い放った。
 共に暮らし、閨を一つにする相手を欺き続けるなどできやしないのだとシンジに気づいて欲しかった。
 だが、シンジにはそのことが判らない。
 自分が嘘を吐いている自覚のないシンジには。
 己の全てを掛けた言葉が一言のもとに否定されるなど、シンジにとってはあってはならないことだった。
「僕は……僕のために……」
 そこまでをようやく絞りだしたシンジだったが、あとは言葉にならなかった。
「そうね、確かにアンタのためにはなるでしょうよ。だけどアタシたち二人には何の意味もないの。そんなこともアンタは判らないっての!」
 止めを刺すかのように、アスカが言い切った。
 全てを破壊するアスカの言葉がシンジの頭蓋の中で破裂した。
 自分の頭の中で何かが振動するような感覚をシンジは味わっていた。
 頭が際限なく膨張し、そのくせ何も考えることのできない木偶の坊になってしまった様な気味の悪い感覚。
 そして、唯一感じることができるのは、心の中に沸き上がってくるどす黒い熱情。
 それはシンジがアスカに対して初めて抱いてしまう感情だった。
 しかし、シンジの抱いたそれは、決して初めての感情などではなかったのだ。
 今までは気づかぬよう、知らぬように心の内側の奥深いところに隠し続けていただけなのだ。
 その感情こそは、まさしく「憎悪」という感情に紛れもなかった。
 その言葉がシンジの胸の中で結晶した瞬間、それは透徹した意味を持ち、凶言のようにシンジの内面に劇的な効果を及ぼし、渦を巻き、猛り狂い始める。
 無理もない、今まで抑え続けていた厭悪すべき思いを白日の下に曝け出されてしまったのだから。
 荒れ狂う思いを治める術をシンジが知るはずもない。
 しかし、シンジは決してそれを声にしたりはしなかった。
 胸を焼き焦がす劫火をシンジは黙って甘受していた。
 自分自身の沈黙の中にだけ、悲痛な絶叫を放ちながら。
 力なく垂らされたシンジの指先は痙攣したように小刻みに動いていた。
 アスカに対して抱いた憎悪が、それをさせていた。
 殺してしまいたいほどの憎しみ。
 自分という存在を弄び、苦しめてきた少女。
 どんなに憎んでもあきたらない存在が目の前に在るのだ。 
 それを認識した瞬間、シンジはアスカに対する断罪の言葉を吐きだした。
 今までの二人の関係を否定する、鋭い刃を伴わせて。
 大きな音を立てて椅子が蹴倒され、シンジが立ち上がっていた。
 そのあまりに大きな音に、覚悟をしていたとはいえアスカもぎょっとなってシンジを見つめてしまった。
 見つめあってしまった瞳には、今までのアスカが見続けてきた優しい色など微塵もなかった。初めてシンジの瞳に浮かんだ自分を見る色に、さしものアスカも背がうそ寒くなるのを感じた。
「抱かせるだけ……抱かせておいてッ!」
 言いながら、シンジは右手を高く振りかざした。
 アスカは振り上げられた手から視線を外し、思わず体を竦めて目を閉じた。
 しかし、それも覚悟の上だった。
 何故ならアスカの言葉は、シンジを糾弾するものではなく、自分こそが糾弾されるべきだということをシンジに気付かせるために吐かれた言葉だったのだから。
 殴られるとしても当然のことだった。
 今まで自分を慈しみ、愛し続けてくれたこの手に殴られるのならばアスカは本望だった。
 この二年というもの、嘘を吐き続けてきたツケは払わなければならないのだから。
 だが、いつまで待っても、その衝撃はやって来なかった。
 恐る恐るアスカは目を見開き、目の前にまだ在るシンジの体をそっと見上げ、顔を窺った。
「!」
 そこにあるものを見たアスカは殴られるよりも遥かに強い衝撃を受けた。
 また、新たに見せつけられるシンジの感情の一つがその瞳にはありありと浮かんでいた。シンジがそれを持ちえないなどということはあり得ない。シンジとてまっとうな人間であるのだから。
 しかし、アスカもその感情があからさまに自分に対して向けられたのは初めてのことであり、またシンジに向けられてしまうなどとは思い至ったことはなかった。
 その感情とは「侮蔑」だった。
 アスカは自分の背に粟立つような感覚が走るのを感じた。
 確かに自分も断罪されたということを、思い知った。
 アスカも初めて知ることとなった。今のいままで自分が、この視線から逃がれ続けていたことに。闘いという場に身を置くことで自分の価値を高め、誰にも蔑まれたりすることのないようにしてきた。そのために能力を磨き、努力することなどは厭わなかった。それは、蔑まれるよりは遥かに楽なことだった。
 しかし、その裏で自分は他者を常に蔑んできたのだ。
 世界に三人しかいないパイロットの中の一人であることを唯一の理由にして。
 しかし、他人を蔑むものが他人に蔑まれない理由などないのだ。
 決して表には出なくとも、何処かで自分は笑われ、卑しめられていたはずなのだ。
 ――バカよね……アタシ……
 それを理解したアスカは、怒りのこもったシンジの掌を頬に受けることを真摯に待ち望んだ。
 シンジの手に叩いてもらうことで、僅かなりとも過去の償いができるのならば、と。
 しかし、アスカの期待は無残にも裏切られることとなってしまった。
 シンジは怒りを込めて振り上げたはずの手を静かに下ろしてしまったのだ。
 シンジの見せた所作は怒りなど微塵も感じさせないほどに落ち着き、しっとりとした動作だった。
 却ってそのことの方がアスカの動揺を誘う。
 シンジがどうして自分を叩くのを止めたのか、その理由を察して理解するのは簡単だった。
 だが、それはアスカが最も望まぬ結末だった。
 アスカの脳裏にその結果を示す「軽蔑」という言葉が浮かんだ。
 蒼い瞳が疑問を湛え黒い瞳に縋りつく。
 けれど、怯える視線にも心動かされた様子なく、シンジは唇だけで嗤って見せるとあっさりと静かな口調でアスカに告げた。
「おやすみ、アスカ」
 それは何の変哲もない、いつもの言葉だった。
 普段交わされる会話の中の一日の最後の締めくくり。
 そのはずなのに、いまシンジがアスカに投げた言葉は、まるで訣別の言葉のように烈しく響いた。
「あ……」
 言いかけ、手を伸ばそうとするアスカを一顧だにすることなく、シンジはその背で全てを拒絶するとダイニングから恐ろしいほど静かな足取りで去っていった。
 寂寞とした空気だけが澱んでいた。
 それを掻き回すかのように、アスカは伸ばし掛けた手を静かに下ろした。
 全身が瘧にかかったかのように震え、不快な皮膚感覚が肌を蝕んだ。
 肌だけではない、平衡感覚さえアスカは失っていた。
 あまりの衝撃にアスカは見当識さえも失って体ごと椅子から崩れ落ち、床の上でのたうち回るしかなかった。
「あ……あ……」
 言葉さえ、取り上げられてしまった。
 生まれて初めて味あわされた真なる孤独だった。
 子供のころに一人で生きると決意したときの環境下における孤独。
 シンジに恋い焦がれながらも、それを無理にも忘れようとしていたときに感じていた孤独。
 それらとは全く異なる心の軋みがアスカの心を打ちのめし、切り刻んだ。
 その軋む心がアスカの言葉を奪い、意味を持たぬ呟きをアスカに吐かせ、涙を流させる。
 ――アタシは……シンジを裏切っていたんだから……
 止めどなく流れる涙の理由を涙とともに流し尽くしてしまえといわんばかりに、自虐的にもアスカは心に浮かび上がらせ続けた。
 しかし、あれを裏切りと言いきってしまうのはアスカにとって酷だった。
 自分自身の気持ちが判らないままに、シンジの存在を自分の中に対象化できなかったがゆえに起こしてしまった過ちなのだから。
 そして自分の隠していた過ちを暴いた、カヲルの告白という予期し得ないできごと。
 それがあったからこそ、見据えることのできた自分とシンジの過ち。
 自分の心を殺したままシンジと過ごしたとて、何ら自分たちの糧とはなり得ない。
 だから、アスカはシンジの告白を嬉しく思いながらも拒絶するしかなかったのだ。
 その決意をしての、二人のために必要な拒絶だったはずなのだ。
 シンジなら判ってくれる。
 そう思っていた。
 けれど、現実に自分に返されたものといえば売女を見下す酷薄な感情のこもらぬ視線だけだった。
 ――でも、仕方ないわ……
 涙で歪んだ視界、椅子とテーブルの足だけが見える世界のどん底でアスカは自分を蔑み、引きつった笑みを無理やり頬に浮かべて見せる。
 心では裏切ったつもりがなかったとしても、確かに自分の肉体はシンジを裏切って他の男に身を任せたのだ。
 それを怨むなというのは酷というものだ。
 いくらシンジの許に身を寄せる前のことだとしても、シンジが自分に寄せている思いはアスカも知らぬわけではなかったのだ。
 だが、シンジが自分を怨んでいることを知ったとしても、アスカはどうあってもシンジとは別れたくはなかった。
 どうしてこれほどまでしてシンジを求めるのかは、アスカ自身にも答を出せるものではなかった。
 あれほど嫌い、疎み、蔑んでいた存在にも関わらず。
 最後の戦いを共に生き抜いたからなのだろうか?
 それとも、自分を献身的に看護して死の淵から呼び戻してくれたからなのか?
 はたまたシンジにしたことを自分が悔いて、彼への贖罪として我が身を提供しようとしているだけなのか?
 ――いままでは、そうよね……
 素直に最後の思いにはアスカは応える。
 だが、アスカの心に浮かんだ全ての思いは正しいのだ。
 ただし、いまに至る過程に於いてはという条件付きではあるが。
「でも……判ってくれると思っていた……いつも判ってくれたのに、どうして……どうしてなのよ、シンジぃ……」
 ようやく、アスカは声を出すことができる。
 解かれた呪縛が引鉄となって、アスカの瞳から更なる涙が零れ落ち、床の上に小さな水たまりを作っていく。
 けれど、アスカの瞳はもう何も見てはいない。優しく、思いやりに満ち、いくらでも甘えさせてくれたシンジの幻影がアスカの脳裏で結像するだけだった。
 それは無論、アスカの幻想であり、甘えであった。
 そんなことは、判っていた。
 判りすぎるほどに。
 シンジとて、ひとりの人間であり、男なのだ。
 自分は紛れもなくその男を弄んでしまったのだから。
 ――そう……シンジは男……なのよ……
 不意にアスカはその認識を胸に抱いた。
 アスカが女であるように、シンジは紛れもなく男なのだ。
 二人を分け隔つ、ジェンダーの差異。
 そして、男と女という永遠の相克を余儀なくされた相手としてのパララックスこそが今回のことの答そのものだったのだ。
 いままでにも何度も肌を重ね合った。
 それにも関わらず、アスカはシンジの性というものを意識したことがないにも等しかった。
 確かにシンジには性を意識させる要素が少なかったとも言える。
 だが、それでもシンジは男なのだ。
 男であるがゆえに女性に対して許せないことがある。
 それはまたアスカとて同じだ。
 女であるがゆえにシンジに対して許せないことがある。
 だからこそアスカは知っているはずではなかったか?
 自分で作ってきたシンジに対する媚態こそ、シンジに抱く憎しみに根ざしたものであることを。
 そしていまもアスカはシンジを憎んでいる自分がいることを知っているのではなかったか。
 それゆえに、そうであるからこそ。
「あたしが……あたしが本気で憎んだことができたのは……」
 そう、アスカがいままでの人生で本当に愛憎ひっくるめた感情を叩きつけることのできた存在はただの一人だけだったのだ。
「あたしは……まだシンジを憎んでいるのね……」
 シンジの存在をアスカが憎んでいることは紛れもなく事実だった。
 ただし、その憎しみとは、顔も見たくないだの殺したいとかだのといった、瑣末ともいえる表層的な感情に根差すような単純な敵意ではなかったのだ。
 その存在がどうしようもなく許せない部分というのは、シンジという実像に映し出した自己の裏返しだったのだ。
 すなわち、自分自身をそこに見てしまうからこそ憎まずにはいられなかったのだ。
 それはシンジにしても同じことなのかも知れない。
 その思いが、アスカを戸惑わせた。
「シンジも……同じ?」
 アスカとシンジが同じだからといって、何になるというのだろう?
 しかし、アスカの瞳には再び力が戻り始め、涙の流出も止まる。
 心の裡にまだ決して手遅れではないという希望が芽生えたからだった。
 泣き疲れてしまった体を、アスカは床に手をついてゆっくりと起こす。
「泣いてる場合じゃないわよね」
 そう、まだアスカは自分のしたことに責任を取ってはいないのだ。
 敢えて吐き出し続けた辛い言葉に対する責務を。
 それをシンジがどう受け止めてくれたのか。
 その結果をアスカは見届けなければならないのだ。
 つい先刻、我が身を切り刻んだ冷ややかな一瞥。
 それだけがシンジの出した結果だとはアスカには到底思えない。
 シンジが自分に言ってくれた言葉、決してシンジの本音にはなりえない言葉を自分に掛けてくれた優しさが本物であれば、シンジはそれを自分自身に向けることもできるだろう。それを自分に許すことができず、嘘を吐き続けなければならない状況に自分自身を追いつめてしまったのだから。
 これほどまでにアスカはシンジを理解できるのだ。
 憎んだからこそ理解できる心根も間違いなくある。
 そしてアスカをあそこまで理解しようとしていたシンジもまた、アスカと同じはずであった。
 それを認めることができなければ、シンジは決して自分の吐き続ける嘘の煉獄から解き放たれることはないのだ。
 碇シンジという存在をがんじがらめにする想いの鎖を断ち切ることができるのは、この世にたった一人だけ。
 惣流・アスカ・ラングレーしかいないのだ。
「そう……アタシはシンジを憎んでいるわ」
 片膝を立て、そこに腕をかけたアスカの姿はとても強く見えた。
「でも……アタシはそれ以上にシンジを愛しているもの」
 遂にアスカは言い切り、全身をバネにして立ち上がった。
 そこには先刻までの、男に捨てられたような見るに忍びない女の姿はない。
 そこに立っているのは得るべきものをしっかりと見据えた、戦女神の化身だった。
「行くわよ……アスカ」
 懐しい台詞をアスカは口にした。
 あの頃とは、全く違う意味を同じ台詞の中に込めて。


最終話・後編に続く。


杜泉一矢 law-man@fa2.so-net.or.jp

 


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