第四章 胎動
       −東京競馬場4回8日11R 天皇賞(秋)−

 

 その日は特別な日であった。

 中央競馬は1年に3000競走以上のレースを行っている。その中で重賞と呼ばれるものは総てを併せて120前後のものだ。
 そして、その中で「グレードワン」G1と言われるレースは20しかない。

 その20も三歳限定戦が2、四歳限定戦が7、四歳以上の古馬のものが11。
 さらにそれぞれ性別・距離。本賞金の条件が加わる。

 

 一頭のサラブレッドが出走できるG1レースは片手で余ってしまうほどでしかない。

 

 そのG1でも最も格のあるレース。天皇賞が今日ここで開催される。

 新人騎手の夢見るG1レースへの騎乗は、それ相応の実力と実績を要求される。認められた者だけが存在する事を許される舞台にシンジもまた騎乗を依頼されこの地に立っているのだ。

 

「君が碇シンジ君かね?」

「はい、そうです。……あなたはもしかして岡野辺さんですか?」

 

 50過ぎの小柄な男性に呼び止められて振り返ったシンジは余りのことに驚いてしまった。
 目の前にいたのは騎手会の会長を務める関東でも屈指の名騎手であったのだ。

 

「そんなに恐縮しなくても構わんよ。君の活躍はこちらにも届いているからね、若い力が育つのはいい事だ。苗木はいつか大樹となって総てに恵みを与えるものだからね」

 関西で聞いている岡野辺行雄像とは少し離れているようにシンジには感じる。
 栗東では岡野辺騎手は外国かぶれだともっぱらの評判だったからだ。

 セカンドインパクトの前から騎手の世界に身を投じて数々の勝鞍を挙げてきた。
 通算2453勝。G1勝利数16勝。
 現役では誰もが認める重鎮。それなりの風格を感じ取れる。

「…なんだか心ここに有らずといった感じだけれど…なにか心配事でもあるのかね」

 不意の問いかけに少し驚き、答えられずにいたシンジを岡野辺は声を立てずにクスリと笑う。

 

「すまん、すまん。いや君の話題は色々入ってくるものだから聞いてみたくなったんだよ。なんでもとある牝馬から離れないらしいね。調教やらテン乗りやらを頼まれても『彼女』がいないと総て断っているそうじゃないか。今話題の実力派ジョッキーの心を離さない姫君を知りたくなってね」

 

 シンジはばつが悪くなって自分の前髪を軽くいじった。
 岡野辺の言いたい事がわかるからこそ、申し訳が立たなかったのだ。

 

「若いというのは良い。自分の思った事をそのまま出来るからね。僕みたいな年になるとそんな無理は出来なくなってしまう。……アスカラングレーっていったかな『姫君』の名は。確か来週のファンタジーステークスに出走するんだったかな?順調に行けば阪神で彼女と会えると思うけれどその時はお手柔らかに頼むよ」

「はっ、はい。こちらこそよろしくお願いします」

 

 

 天皇賞発走1時間前、若人と紳士の交わす握手が検量室の中で唯一微笑ましいものに見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 離れていく若い背中を見つめながら、岡野辺の表情はそれまでとは少し違っていた。

 

「……確かに腕は良い。実力社会である以上、誰も手加減なんてしてはいないのだから。そんな中でサラブレッドの潜在能力を遺憾なく引き出している。…だが彼は『異端者』だ。この競馬界にとってイレギュラーな存在……」

 中央騎手会会長として若手の育成を何年も見続けていると、ある程度のものは見えてくるものだ。その中でも碇シンジの存在はまさに特異な存在であった。
 その眼は実際正鵠を射ており、碇シンジは競馬界に愛着があるのではなく一人の少女の幻影を追っているに過ぎない。

 

 だからこそ岡野辺は許せないのだ。

 

 産まれた時から馬と戯れ、幼い時から騎手を志し、努力に努力を重ねて今の地位を築いた、という事実を抱える一個人として。

 

 

「…見ているが良い、ボーイ。君にリアルなアビリティの差を見せてあげるよ」

 

 不敵な笑みを浮かべて傍らにあった鞭を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 競馬の世界の中で友人と呼べる存在はシンジにとっては稀有だった。
 元々人付き合いの不器用な人間である上に競馬界は内向きに向いた閉鎖的な社会であったのが拍車をかけた。
 調教師であるセイジは先生であって友人ではない。馬主の息子であるトウジも関係者と見られてそれほど深く付き合うことは許されていない。
 シンジにとって今『友人』と呼べる存在は一人しかいなかった。

 

「よぉ、シンジ。今日も調子良いみたいだな」

「そうでもないよ。いつも通りこなしてるだけだから」

「良く言うぜ。オレにいわせりゃお前が羨ましいよ」

 

 そう言って陽に焼けた若い青年は馬上でカラカラと笑う。
 ステッキを左手で器用に回しながら発走を待っている彼こそシンジの友人・月城タクトであり、同じターフをかける同期のライバルでもある。
 シンジ自身も他のジョッキーに比べて長身であったが、タクトもまた同様に170センチを超える長身を誇っていた。
 二人ともその胴体がサーベルのような印象を受けるのはその為だった。

 

「ところでさっき岡野辺の親父さんと何か話ししてただろ?」
「うん。今日は天皇賞に騎乗させてもらえるから、激励されたんだよ」

 

 シンジの言葉に、けれどもタクトは疑問を投げかける。

 

「ほんとか?あの親父さんは食える人じゃないぜ。裏で何を考えてるか分からないんだからさ。気をつけたほうが良いと思うぜ」
「…そうかな?そんなに悪い人には思えないんだけど……」
「そう。悪い人じゃない。でもあの人は競馬馬鹿だ。競馬の為に全身全霊を注いできている人だ。…要するにお前の対局にいる人なんだよ」

 タクトもまたシンジの事情を知っている数少ない人間の一人であって、それなりの理解を示していた。
 シンジの真意と根底に蠢く心の歪みを知るわけではないが、それでもシンジの良き相談相手として今日の日まで来ている。

 

 だからこそ忠告めいたことを問い掛けたのだ。
 しかしシンジはどうも納得できない様子だった。

 なおもタクトが口を開こうとした時、発走を告げるファンファーレが鳴り響いた。
 これ以上話を続けることは無理だった。

 

「…とにかく騎乗停止なんてことにはなるなよ。次回には『彼女』が待ってるんだからさ」
「解ってるよ。僕が乗らなきゃアスカも納得してくれないんだから…」

 呟きを乗せてシンジの騎乗するサラブレッドはゲートへと誘導されていった。

 

 

『……でろぉぉ〜』

 そして声と共にゲートは勢い良く開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 着順を知らせる掲示板は赤ランプの点灯と共に点滅を止めた。
 着順が確定したのである。
 それと共に計量室にいたタクトは小さくガッツポーズをする。そして差し伸べられた手を強く握った。
 …シンジの手を。

「これで今日はおあいこだな。まあオレはこれで今日の騎乗はおしまいだからなんとも言えないけどさ」

 そう言いながらもやはり特別戦で勝利を挙げたことに純粋に喜びを覚えているようで、タクトはそれを満面にたたえていた。

「ダメだよ、僕だって。天皇賞だってみんな力のある馬たちが揃ってるんだからさ」
「そう言う割にはお前が騎乗するのって三番人気まで推されてるんじゃなかったっけ?」
「…そうみたいだね」
「前走の毎日王冠、前々走の朝日チャレンジカップ…共に一着入線……一体なんの不満があるんだよ?」

 

 恨めしそうに睨むタクトを前にしてしまうと何も言えなくなってしまう。
 先に口を開いたのはタクトのほうだった。

「やっぱり…『彼女』か?」

 

「……うん。アスカでなきゃ意味がないんだよ。どんな名馬に乗っても、どんな記録を出してもアスカじゃなきゃ僕にとっては空しいだけなんだ…きっともうどうしようもない定めみたいなものなのかもしれない。それに、僕はこの宿めを……自分から受け入れたいのかもしれない」


「まあ想いは人それぞれさ。オレにはオレの道があるしシンジにはシンジだけの道がある。もちろん…岡野辺の親父さんの道もある。自由奔放な田茨さんの道もな。何をどうするのか決めるのは自分しかいないのさ……他人は支えてやることしか出来ない。それでもオレはシンジに頼って欲しいんだぜ。それだけは覚えておいてくれよ」

 

 時は差し迫っていた。
 既に天皇賞競走のパドックでは係員の停止指示が飛ぶ時間になっている。
 なおも言い足りない様子であったタクトもこれ以上は許されなかった。

「ともかく目の前の競走に全力を尽くせよ」

 タクトの言葉は果たしてシンジに届いていたのだろうか?
 タクト本人にはとうとうわからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 既に発走は直前まで迫っている。
 場内の熱気は異常なまでに高まり、人々のざわめきが轟音となって人馬に巨大なプレッシャーを与えていた。
 府中の2000メートルを競う時、そのスタートの場所は通常よりも離れた場所にある。

 それはコース上にはなく、それだけの為に、まるで祭壇のごとく専用のコースが西の方に広がっている。
 そんな天皇賞のスタート地点からでもその高まりは容易に掴めた。

「碇君」

「あ、岡野辺さん。今日はよろしくお願いします」

 アスカにしか目の向いていないシンジであっても人生と騎手の大ベテランを前にしたとき、年相応の姿を露呈させてしまう。

「そんなに肩に力を入れちゃ勝てる鞍も取れなくなってしまうよ。少しはリラックスしたまえ」
「はっ、はい…」

「……いやいや、岡野辺の親父さん。今日もよろしゅうお願いしますわ」

 二人の背中から若い声が飛ぶ。
 声のするほうに振り返った岡野辺は一瞬顔をしかめたが、すぐに表情を戻して声を交わす。

「ああ、阪東君か。元気だったかね」
「元気も何もあらしまへんよ。なんせここがないんやから」

 そう言って阪東は自分の腹のあたりを指差した。


 彼は10年ほど前、駆け出しのころに競走中落馬して腎臓を一つダメにしてしまっていた。
 摘出手術その後のリハビリを経て再び戻ってきたのだが、かつての『天才』と呼ばれたキレは姿を消した。
 だがそれでも彼は今の競馬界の中で十指の中に入る名騎手だ。そして騎手の中で飛びぬけて異質な存在でもある。

「ともかくこの瞬間は全力を尽くすことにしようじゃないか、君の実力は誰もが認めるところなんだから」
「そらそうですわ、オレにはそれしかないんやから…ところで、おまえさん…確か碇シンジ…ゆうたよな」

 不意に話題を振られてシンジは少し戸惑った。
 そのあたりはあのころとさほど変化していない。ある程度の身構えが無いとどうしても動揺してしまう。

 シンジは、はいとただそれだけ返事をした。
 その声を聞いて阪東はニヤリと笑う。その笑みが人を食ったような実に意地の悪い笑みに見えた。

 

「さよか。まあこれから何度か顔合わす事になるやろけどそん時はよろしゅう頼むわ。…そんなら……いきましょか」

 

 阪東の声がゲートインを知らせる合図と重なった。高らかにファンファーレが鳴り響く。
 と同時に人々の熱狂的な声が一塵の風となってターフを掛け抜けた。

 途端に身体が身震いする。

 

 緊張感というか恐怖感というか、あらゆる『不安』が混ざり合ってのしかかって来る。
 それに耐えながらシンジは前を見据えた。

 そこには緑のターフが果てしなく続いている。
 非現実的な光景がそこには広がっていた。

 

 

 

『……でろぉ〜』

 

 

 

 係員の機械的な声が鼓膜をはじいた。

 

 

 

 ガシャン

 

 

 

 音と共に18頭のサラブレッドが飛び出していった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこをどうやったのかもう覚えていない。
 気が付けば大ケヤキを回って直線へ向こうとしている。

 

 今のところ先頭に立っている。
 しかし東京の直線は無限に思えるほどに長い。

 

 東京の直線はメイン開催場としては最も長い500メートルある。
 最大の直線コースは新潟にある1000メートルであるが、駆け引きが重視されるのはこの場合東京の方が難しい。

 500メートルという限られた直線が、永遠に見える。
 一生懸命手綱をしごき、鞭を振るう。

 いくらアスカではないとは言え実績を残さなければ忘れ去られてしまうのがこの世界でもある。
 結果重視の集大成のような場所。

 だからこれも勝たなければいけない。

 

「いけいけいけいけいけぇぇぇ〜!!」

 後ろから怒声が聞こえる。
 振り向くとそこには既に一つの馬影が迫っていた。

「ほらほらほら、じゃまやで、ぼうや。この阪東様が通るんやっ!とっとと道を空けんかいっっ」

 その言い回しがさっきまでへらへらしていた男のものとは思えなかった。
 しかしそれは阪東以外の何者でもない。

 かといって引くわけにもいかなかった。だから一層手綱をしごいた。
 まだ延びる。まだ息がある。

 だから諦めるわけにはいかない。

「だめです。僕は勝たなきゃいけないんです」

「そないなもんは誰も一緒じゃ、この世界は一番執念深いヤツが生き残るんやからの…オラオラっ!!突き抜けるどぉ!!!」

 阪東は持っていた鞭を一発一発叩きつづける。まるで水車のように鞭が回転し、馬は目を血走られせながら突き進む。負けずにシンジも手綱を前後にしごき続けた。

 

 

 二頭の馬が激しく競り合う。
 内にシンジ、外に阪東。

 永遠に続くかと思われていた直線もようやくゴール板が見えてくる。

「もう少し…もう少しで…」

 シンジがそう思ったときだった。

 内ラチ側からなにか気配を感じた。
 ふと振り向く。

 

「やぁ、ボーイ。この勝負はミーの勝ちだね」

 そこには岡野辺がまったく違う脚色で迫ってきている。

「な、な、な…」

 無言のシンジに対して阪東は慌てふためくかのように大声を上げる。
 しかしその声色にはどことなく諦めの色を含んでいるように思える。

「RacehorseにAbsoluteなんて無いのだよ。総てはManPowerと競走馬のAbility、そして……」

 岡野辺の鞭が一つ飛んだ。

 

「執念だよっっ」

 

 

 岡野辺の表情に笑みがもれた。

 しかしその笑みは検量室でみたものとは違う。
 穏やかさの無い狩猟者のようなその笑み。

 しかしそれ以上は岡野辺を見ることは出来なかった。
 鞭一つで岡野辺の馬は突き抜けるかのように通り過ぎていったのだ。
 余力が違った。
 もう自分の馬には脚が残っていない。

 

 総ては終わった…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『勝利ジョッキーインタビューです。
 ロイヤルエンペラー号に騎乗し、天皇賞を制覇しました岡野辺騎手です。おめでとうございます。

 ……ありがとうございます。

 久しぶりのG1制覇ということになりますがそのあたりはどうですか?

 ……まあ後進の若手騎手の成長も著しい事から重賞に勝つということも難しくなっているが、それでも私は全力を尽くすまでです。全力を尽くさずに勝てるほどこの世界は甘く無い。

 …………』

 

 インタビューはまだ続いている。
 その後方でシンジは何事も無かったかのように装具をテーブルに置く。
 その表情もいつものものと変わりの無いように見えた。

 

 

「……おい、お前…月城やったか…碇と親しかったよな?」
「え?…ああ、阪東さんじゃないですか、どうしたんですか?」
「気ぃつけや。碇のヤツどうも様子が変や」
「…そうですか?……???…」
「気付いたか?やったら碇の監視役任せるわ」
「…任せるって…でもどうして阪東さんが碇の事を?」
「え?そないな野暮な事を聞くもんや無いで。ほな、またな」

 

 月城に背中を向けた阪東は軽薄そうに右手を振る。

 

 

 

 しかし、その翌日
 碇シンジの姿は忽然と消えた。

 

<つづく>


 
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