【Introduction】


 14歳の夏−−−少女が二人、恋をする。

 一人は名を惣流・アスカ・ラングレー、と言う。日本とドイツの血を引いた
クォーターで、長い栗色の髪とエキゾチックな青い瞳が印象的な女の子である。
その性格はきわめて行動的かつ勝ち気で、なおかつとことん意地っ張り。
 そんな彼女には幼なじみの少年が一人いた。物心つく前から常に一緒で家族
同然の彼。少女にとって、少年は扱いやすい弟のようなもので異性として意識
したことなど一度たりとてなかったはずだった。
 それがいつ頃からだろう? ただの幼なじみ、ただの友達という間柄を物足
りないと感じるようになったのは。二人だけの秘密、二人だけの時間をもっと
共有したいと思い始めたのは・・・?
 少女は思う。このまま仲の良い幼なじみを”演じる”ことが出来るかな、と。
 少女は願う。あたしの本当の気持ちに気づいて欲しい・・・と。

                 *
 

 もう一人の名は綾波レイ。こちらはアスカとは対照的に、すべてにおいて控
えめな少女。ショートカットでまとめた空色の髪、ルビーのような赤い瞳が鮮
やかな端正な面差しをしている。どことなく感じられる線の細さは、この少女
が幼い頃からよく医者の世話になっては日常の生活に戻るということを繰り返
していたことに端を発しているのだろう。あまり多くを語らない性格と相まっ
てどこか薄幸という雰囲気さえ感じられる。
 だが少女は今とても幸福だった。欠けた心の隙間を埋めてくれるだけの少年
とようやく出会えたから。どこか自分と同じような感じの少年に淡い思慕の念
を抱くことができたから。
 しかし、それもすぐに不安になる。少年には、いつもそばに別の女の子がい
たこと。その子も少年が好きなことがすぐに分かったこと。・・・だから不安
になった。
 好きだからその人を独占したい。いつも一緒にいたいから心を寄せていたい。
そんな思いが健気な初めての恋・・・

 そして始まる。

 短い夏の一日が・・・




「私だけ見つめてっ!」

Ryo Kamizumi


           Part−A 「憂いと決断」

 午後11時半を少し回った頃−−−
 惣流・アスカ・ラングレーは自室の鏡台の前に座ったまま、一人深刻に思い
悩んでいた。端正な面差しに浮かぶ憂いは深く、澄んだ瞳の青は微かにたゆた
う水面のようにどこまでも揺れ続けているかのようだった。
「せっかくここまで伸ばしたのにな・・・」
 誰ともなく、ぽつりと呟く。
 くせのない、艶やかな栗色の髪はアスカの自慢。背中まで届くほどに長く美
しいそれはサラサラと流れるようだ。お気に入りの髪を手にしたまま、アスカ
は口の中で何やらブツブツと呟いている。
「どうしよう・・・どうしよう・・・」
 すでに1時間ぐらい繰り返しているだろう。常に行動的で決断の早い彼女に
してはとても珍しい光景だ。それだけ彼女が逡巡している証拠かのかもしれな
い。
「・・・よしっ」
 何度目かの「どうしよう」を口にした後、少女はおもむろに決意する。
「あの女に負けるわけにはいかないわ」
 くどいようだが自慢の髪。一瞬、名残惜しげに目を曇らせたアスカだったが、
一度こうと決めたら切り換わるのも早かった。
「ごめんね、ママ。ママが褒めてくれたこの髪、あたしも気に入ってるんだけ
ど・・・あたし、どうしても負けられない女がいるの。ごめんね・・・」
 脳裏に思い浮かぶのは、いつだったか母親に初めて褒めてもらった時のこと。
その母はもういないが、アスカはその思い出と一緒に自分の長い髪を大切にし
ていたのだ。
(でも今日であたしは吹っ切るわ。あたし・・・あたし・・)
 不安と期待が交錯する不思議な気持ち。どちらかと言えば、期待の方が大き
かった。
「・・・あのバカ、どう思うかなぁ」
 華麗にイメージチェンジした自分の姿と、それを見とれる少年の眼差しを想
像すると自然と笑みがこぼれてくる。
 そう、そうなのだ。すべては幼なじみの少年の鈍感さがアスカをここまで踏
み切らせたのだ。これでもう、あの忌々しい女に目が向くようなことなどあり
得ないし断じてあってはならない。その点については、アスカはかなりの自信
があった。もともと容姿がいいことは自他ともに認めるところだけに、ちょっ
とした変化がかなりの新鮮さと衝撃を与えることはまず間違いない。
「思えばあの女が転校してきた日からケチが付き始めたのよね。本っっっ当に
忌々しい女だわっ!」

 空色の髪をした、自分とは正反対の性格をしている女。
 転校初日でいきなりシンジの気を引いた不届き千万な女。
 クラスのみんなの前で自分を手玉に取った忌々しい女。
 ムカつくことに、自分の知らないうちにシンジとデートした女。
 さらにムカつくことに、自分の眼前でシンジに愛の告白をした女。
 さらにさらにムカつくことに・・・!

「あああ、これ以上は思い出したくないっ!!」
 大人しそうな顔してるくせに、やる事だけは抜け目なくやっている。そんな
見え見えの手にあっさり引っかかっているシンジの事を思い出すだけでもはら
わたが煮えくり返るようだった。
(はぁはぁ・・・よけーにストレスたまるから今日はこのへんで勘弁しといて
あげるわ)
 ここまで自分を不愉快かつ苛立たせる者をアスカは知らない。
 毎日毎晩その日に起きた”あの女”絡みの出来事を思い出しては激怒する。
 ・・・よくもまぁ毎日毎日続くものである。
「でも屈辱の日々も今日で終わりよっ」
 アスカは思う。
 あの女の始末など、後でゆっくり考えればいい。
 まずは肝心のバカで鈍感で甘えたがりで寂しがり屋でマザコンで父親が苦手
でいじけやすくて傷つきやすくて・・・でも優しくて幼なじみの自分を大事に
してくれるあいつの心をしっかりとサルベージしなければ。・・・もとい、掴
まなければ、と。そのために一番てっとり早いのは、この類稀なる美貌で一気
呵成に落とすしかない!
 どうやらそんなストレートな結論に達したようだった。彼女らしいといえば
実に彼女らしい。
「うふふ、明後日が楽しみ」
 左肩に垂らした量感のある髪を愛おしげに撫でながら、アスカはくすっと微
笑む。物心つく前からずっと一緒に過ごしてきた少年に、ただの幼なじみ以上
の感情を抱き始めたのはいつの頃からだろう? 最初は戸惑い、反発していた
その気持ちも今では揺るぎのないものとなっている自分がなんだか可笑しかっ
た。
「シンジ・・・大好きっ」
 そっと声に出して呟いた後、アスカは自分の言葉に照れたように「きゃっ」
と短い嬌声をあげる。照度が落ちた室内にもかかわらず、鏡に映る自分の顔が
赤くなっているのが分かる。火照った頬に両手を当てたアスカは、その熱さに
ちょっと驚いていたが悪い気分はしなかった。
 この日。高ぶる気持ちは少女をなかなか眠りにつかせてくれなかった。
 だが、いつもより長い夜にもアスカはまったく気にならなかった。


           Part-B 「揺れる気持ち」

 今にして思うと、あの出会いは実にインパクトの強いものだったと綾波レイ
は思う。そして、劇的だったとも。なぜなら、初めて顔を合わせたクラスメー
トの一人が自分の心を満たしてくれる存在になるとは思いもしなかったから。
「・・・シンジ君」
「なに、綾波?」
「・・・なんでもない」
「変なの」
「いいのっ」
 生徒の数だけある登校の一光景。その中のひとつとして、並んで歩くシンジ
とレイの姿があった。それは誰がどう見ても仲の良い初々しいカップル。静々
と歩を進めるレイは自分がシンジの隣にいるという事実がにわかに信じられな
い。やや俯き気味のその顔は少しだけ朱に染まっていた。
 数週間前に転校してきた空色の髪をしたこの少女は、今や全校内で知らぬ者
がいないほど有名になっている。しとやかな立ち居振る舞い、あまり多くを語
らぬ性格と独特の静謐とした雰囲気。そして、男子生徒たちの間で1、2を争
うほどの人気を生み出している最大の要因である美しい造形。これまでの通説
だとアスカが事実上のナンバー1だったところにレイの登場。巷ではアスカと
並び称して”相剋の天使”とか”沈黙の女神”とか。引いては”薄幸の佳人”
などと呼ばれる始末で、アスカと双璧をなしているほどだ。
 そんな彼女が、見た目が冴えないシンジと恋人然として歩いているのを見て
周囲の生徒たちは色めき立っていた。勿論、大半は男どもであったが。
「あ、あのさ、綾波? その・・・この間の返事だけど・・・」
 シンジの言う”この間の返事”とは、レイからの思いもかけない告白のこと。
夕暮れ時の誰もいない教室で、シンジはレイから初めて「好き」という言葉を
告げられた。元々が純で色恋沙汰にてんで疎かったシンジは、咄嗟にどう答え
ていいか分からなかったのだ。だが、レイ自身もすぐに受け入れてもらおうと
は思っていなかったらしい。
「ううん、気にしないで。私、急がないから」
 返事は急がないから。今はこの距離が一番心地いいの、とレイはポッと頬を
染めながら答える。その反則なまでに可愛い彼女の仕種に、シンジは惚けたよ
うに見とれてしまう。近くを歩いていた男子生徒たち数人も半分はレイに見と
れ、もう半分はシンジに嫉妬混じりの苦りきった視線をぶつけてくる。だが、
当のシンジはそういったことに全くといっていいほど無頓着であったのだが。
「・・・そう言えば、あの子はどうしたの?」
「あの子?」
「シンジ君の幼なじみ」
「ああ、アスカのこと」
 会話が途切れたところで、レイが下から覗き込むように尋ねてくる。唐突な
質問はシンジを少し動揺させていた。
(そう言えば、今朝アスカの奴。初めて顔を見せなかったな)
 いつもなら「起きなさいっ、バカシンジ!!」の一言で始まる一日だけに、
シンジはどこか物足りないと感じている自分に戸惑っていたのだ。だから、レ
イと一緒に登校していても今ひとつ気分が乗り切らないでいた。
(おかしいな・・・風邪でも引いたのかな? それならそうと一言ありそうな
もんだし。いや、待てよ? 綾波と三人で学校行き出してからずっと機嫌悪そ
うだったもんな。それが原因かな?)
 いろいろと憶測を巡らすシンジだったが、それは一つだけ的を正確に射てい
た。しかし、その理由まではシンジに分かろうはずもない。
(なぜかアスカと綾波は仲良くないもんな。二人とも他の子とは仲がいいのに)
 そう。どういうわけか、この二人だけは相性が極端に悪かった。アスカはレ
イのことを決して名前で呼ばないし、レイにしても”シンジ君の幼なじみ”と
か”あの子”とでしか呼ぼうとしない。他人から見れば、理由など一目瞭然な
ことだけに、シンジのことを不埒な幸福者とかスケコマシとか裏切りの堕天使
とか(これは主に女子生徒の一部による。シンジはどういうわけか、他の女子
にもそこそこ人気があったのだ)それはもうひどい言いようではある。
「・・・気になるの、やっぱり?」
「そ、そんなことないさ」
「今どもったよ」
「ど、どもってないよ」
「またどもった」
「やけに絡むね、今日の綾波」
「そう?」
 シンジが返事を先延ばしにしている理由がアスカにあること。彼女を異性と
して意識するというところまでは行ってないようだけど、だからといってただ
の幼なじみとしか見ていないわけでもないこと。それがよく見えてしまうレイ
だからこそ、もどかしさと不安とが彼女の言動に表れているのかもしれない。
「ね、シンジ君」
「な、なに?」
「・・・手、つないでいい?」
「な、な、な・・・!?」
「ダメ、なの?」
「そ、そそ、そういうわけでは・・・」
「じゃ、いいのね」
 あまりに予想外な言葉にシンジは頭の中が真っ白になっていた。
 悪くはない。悪くはない彼女の積極的行為なのだが・・・妙に後ろめたい。
(だ、誰かに見られたらどうしよう・・・?)
 この場合の誰かとは、ほとんど特定個人を指している。それが誰なのか改め
て言う必要もないだろう。そして大概のパターンだと、ここでばったり顔合わ
せとなることが多々なもの。学校の正門前で、一際ざわめきが大きくなってい
ることにシンジは早く気付くべきだったのだ。
「なにかしら?」
 握った手を離さずに、レイが正門に目を向ける。
 そして、彼女と視線が真っ向から激突した。
「・・・・」
「あ〜ら、朝っぱらから仲のよろしいことで」
 あなたにそんなこと言われたくないわ、と内心思うレイだったが口に出すこ
とはなかった。いや、出せなかったという方が正しいだろう。なぜなら、それ
は・・・


          Part-C 「すべてはこれから」

(グーのネも出ないとはこのことだわ。思い知ったようね、優等生?)
 滅多に感情を表に出さないレイをして驚きの表情を引っ張り出せたこと。そ
のことにアスカは内心、勝利宣言にも等しい快裁を上げていた。だが、それよ
りなにより彼。シンジの自分を見る目が明らかに変化したこと。アスカはそれ
が一番嬉しかった。本当は自分の目の前で抜け抜けと手つないで登校してきた
ことを厳しく糾弾したかったのだけど、この際ちょっとぐらいの浮気は目を瞑
ることにした。ただし、一度きりという絶対条件がありはしたが。
「どうしたの、二人とも? 目が丸くなってるわよ」
 聞かずもがなのことを口にする。
 無論、なんらかのリアクションを促すためだ。
「あ、あの・・・アスカ?」
「なぁに、シンジ?」
 ここぞとばかりに、とっておきの笑顔を披露する。声もいつもよりやや甘め。
駄目押しとばかりに小首を傾げてみせる。自分で言うのも何だけど、これで参
らない男はいないとアスカは密かに己の可愛らしさに満足する。
 案の定、シンジはまともに視線を合わせることが出来ないほど狼狽している。
横を向きながな話すその顔はもちろん真っ赤だった。
「い、いや、その・・・ど、どういう心境の変化・・・なの?」
 別人のようなアスカと向かい合っていることに、シンジは気の毒なほど落ち
着きをなくしている。話す言葉のところどころがどもりまくっている。
 それも当然かもしれない。あんなに大事にしていた自慢の髪をばっさり切っ
て、ショートボブへと華麗にイメージチェンジしてしまったのだから。さらに
薄くカラーの入ったリップクリームを引いてるのか、形の良い唇はやや赤く艶
やか。そして、全身からはラベンダーの香りが微かに感じられる。シンジなら
ずとも、本当に中学生かと疑いたくなるほどアスカからは色香が漂っている。
昨日までとはまるで別人のようだった。
「心境? そうねぇ・・・強いて言えば、ある人にあたしをもっと見て欲しい
ってとこかな」
「そ、そう・・・」
 ある人に見て欲しいから。だから、あれだけ大事にしていた長い髪を切り、
髪形をショートカットに変えたの。この方がうなじとかがよく見える分、色っ
ぽいでしょ? そう言ってアスカは、意味ありげにニッコリ微笑んだ。
 シンジはそんなアスカの変貌ぶりに、血の気が引くような思いをしていた。
(アスカに好きな奴ができた・・・?)
 彼女と今の関係を築いて早十数年。今の今までこんなにドキッとするアスカ
は記憶にない。それに好きな男が出来たなどという話さえ今まで訊いたことは
なかったのに・・・!?
 シンジはアスカを常に異性として見ていたわけではなかったが、いざこうや
って面と向かって言われるとショックを受けている自分に驚いていた。もうす
でにお気づきだろうが、この鈍い・・・もとい純な少年は根本的な勘違いをし
ていた。本人はいたって真剣ではあったが。
「・・・・」
 しばし呆然と言葉をなくしてしまったシンジの様子に、レイはどことなく不
満そうだった。無論、表立って顔に出すようなことはしないが。
「ねぇ、シンジ・・・なんとか言ってよ」
 シンジのあからさまに動揺している様子にアスカは至極満足していたが、そ
ろそろ次の言葉が欲しくなっていた。そして、その言葉こそがアスカが一番求
めていたものでもある。
「あ、う、うん・・・」
 ようやく少し自分を取り戻したシンジは、身近にいた女の子が急に遠くに行
ってしまったかのような寂しさに襲われながらも努めて明るい声を出そうと心
がけた。
「・・・前の長い髪のアスカもいいけど・・・今のアスカもいいと思う、よ」
「うふっ、ありがと」
「う、うん・・・あ、そろそろ教室に入らないと」
「・・・それだけ?」
「え?」
「だから、それだけなのかって聞いてるの」
「そ、そんなこと言われても・・・」
 どうしてアスカが突っかかってくるんだろう?
 シンジはよく分かっていなかった。
(褒め方が良くなかったのかな?)
 アスカのことだから充分あり得る。そう考え直したシンジは、彼女と目を合
わせないよう苦労しながらもなんとか次の形容を絞り出す。
「と、とても似合ってるよ。なんか別人みたいに大人っぽい・・・と思うよ」
「そうよねぇ〜、この髪形にするの。けっこう悩んだんだから」
「そ、そうなんだ?」
「・・・それで?」
「それでって・・・まだ何かあるの?」
 正直なところ、この場から立ち去りたいシンジだった。よりにもよってレイ
のいる前でアスカを褒めちぎるなど、優柔不断が服着て歩いているような少年
に出来ようはずもない。事実、レイの視線がどんどん冷たくなってきているよ
うな気がする。もっとも、まだ付き合っているわけではないのだから、あれこ
れ言われる筋合いもないと言えばそれまでなのだが。
「あたしがここまでしてるのよ。もっと他に言う台詞の一つや二つがあるじゃ
ないの?」
 アスカもだんだんイラだってきていた。思惑通りの効果があったのだから、
いい加減熱〜い言葉があってもいいじゃない? ・・・それが彼女の脅迫じみ
た主張だったが、この時すでにアスカも大きな見落としをしていた。
「ご、ごめん・・・か、カワイイ・・・と思う」
「うんうん、そうよねぇ。・・・で?」
「『で?』って・・・まだあるの?」
「なによっ、その『まだ』ってのは!?」
「ご、ごめん・・・き、キレイ・・・だと思う」
「あらやだっ、シンジったら! でも仕方ないわよねぇ、比較の対象がいる分
余計に際立っちゃうこの美しさは罪よね〜。ごめんなさいね、綾波さん?」
「・・・・」
 初めてアスカがレイを名前で読んだ。が、それにはあからさまな毒がある。
それでもレイは一貫して沈黙していた。ただこの時、レイはシンジのシャツの
背中をぎゅううっと握りしめていた。そのことに気付いていたのは、無論シン
ジしかいない。
(あ、綾波が・・・お、怒ってる・・・!?)
 無言のプレッシャーが背中にズシンとのしかかっているのが分かる。
 それでいてアスカはなかなか解放してくれない。
 シンジはそれこそ泣きたい気分になった。
(僕が何したって言うんだよぉ?)
 勿論、シンジの声は届かない。届いても即座に却下されるのは明らかではあ
ったが。
「・・・それで?」
「アスカぁ、僕に何を言わせたいわけ?」
「あたしが欲しい言葉を全部よっ!!」
「そんな無茶なっ。大体、僕なんかじゃなくて、アスカが好きな奴に言わせれ
ばいいだろ!?」

 その瞬間。アスカのかりそめの笑顔が凍り付いた。

 ようやく分かったのだ。目の前の少年がとんでもない勘違いをしているとい
うことに。
「・・・あんた、やっぱり鈍いわ」
「え?」
「鈍すぎる上に・・・やっぱり大バカよっ!!」

 パシーン!

 頬を張る冴えた音が響き渡った後、シンジの左頬にはくっきりと手形が刻み
こまれていた。
 肩を怒らせたまま先に教室の方へ立ち去るアスカを呆然と見つめるしかなか
ったシンジは、何がなんだか分からなかった。彼女が髪形を変えた理由も、急
に怒り出した理由も。
「・・・な、なんでアスカの奴、急に怒り出したんだろう? 分かる、綾波?」
「・・・分からない」
 嘘だった。大体からしてシンジが鈍すぎるのが原因なのだが、わざわざ恋敵
のためにレイがそこまで教えてやる必要性はないというもの。
「あいつの好きな男って誰かなぁ?」
「・・・知らない」
 なおもシンジは問いかける。
「なんか別人みたいに可愛かったな、アスカ。髪形も綾波みたいでさ」
「・・・バカ」
 レイは心底呆れたように深い溜息をひとつ洩らすと、つないでいた手を自分
からさっさと離してスタスタと先を行く。その後を慌ててシンジが追う。
「ご、ごめん、綾波っ! 僕、なんか悪いこと言った?」
「・・・・」
 シンジの声に無言で答えるレイ。なんて女心に疎い人なの、と呆れて声も出
ない。そんな折、始業を告げるチャイムが鳴り出す。 
「あっ、1時間目はミサト先生の英語だった!」
 努めて隠したつもりだったが、言葉の節々と表情に表れる喜々とした様子は
どうしても見破られる。それがアスカとレイに追いついた時に口にしたものだ
から最低だった。
 キッと美少女二人に睨みつけられたシンジは、思わず身を竦ませた。
「な、なに・・・二人とも・・・」
「本っっっ当に、女心の分からない男っ!!」
「・・・あなたも苦労してたのね」
「わかる?」
「たった今わかったわ」
 アスカとレイがまともに会話をしたのは、これがおそらく初めてなのではな
いか? 今までは会話というよりは、舌戦といった方が正しいやり取りばかり
だったのだから。それだけにシンジの驚きも理解できよう。
「あんたって話のわかんないいけすかない女だと思ってたけど・・・気が合う
とこもあったのね。意外だわ」
「別に驚かなくてもいいわ。私もそう思ってたから」
 そう言い合って二人して苦笑する。その笑みの意味が分からないシンジは、
「よく分からないけど、二人が仲良くしてくれてると僕も嬉しいな」
 言わずもがな、トドメの一言を口にしてしまう。
「ひ、人の気も知らないで・・・呑気なボケかましてんじゃないわよっ、この
バカシンジっっっ!!!」

 ビシバシッ!

 口より手の早いアスカによる往復ビンタをモロに喰らい、シンジは涙目をし
ながら抗議する。
「ひ、人の顔を面白半分に殴るなよ、アスカぁ〜。そんなにがさつで乱暴だと
アスカが好きな奴にもそっぽ向かれるぞっ」
「まだ言う気っ? この口はぁぁぁ〜っ!!」
 すでに授業は始まっている。にもかかわらず、二人は完全にそのことを忘れ
ていた。「あんた、バカぁ?」「ご、ごめん、アスカ〜」を繰り返しつつ、救
いのない中傷合戦に突入したシンジとアスカを呆れたように見つめていたレイ
も、やがて可笑しそうに口元を綻ばせていた。
「・・・三人でいるのも、いいかな」
 焦ることはないかもしれない。というより焦ったところで、肝心のシンジが
これでは当分進展など望めないだろう。
 それでも・・・今はこの関係でもいい、とレイは思う。
 自分たちは14歳。
 まだこれからもたくさんの時間が待っているのだから。
「これが最後のお慈悲よっ! シンジっ、あたしの好きな人が誰だか言ってみ
なさいッ!」
「そ、そんなの僕に分かるわけないじゃないかぁ!?」
「あんたって、本っっっ当にバカだわっ!! ホラ、レイっ! あんたもこの
バカになんか言ってあげなさいっ!!」
「そうね・・・ちょっと待って。考えるから」
 唐突に名前で呼ばれたことにキョトンとしていたレイも、ややあってくすっ
と笑った。

 シンジとアスカ。そして、レイ。
 三人の夏は、いま始まったばかり−−−

                   (私だけ見つめてっ! /完)



【構 想】 1996.3.? [ ? ] 〜 1996.4.1 [Sun]/?日間
【執 筆】 1996.3.? [ ? ] 〜 1996.4.1 [Sun]/?日間

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