「二人静」

Ryo Kamizumi




            【求 −心の居場所−】

「シンジ君、私と一緒に暮らすのが嫌なの?」
「そんなこと・・・ないです・・・」
「じゃ、問題ないじゃない? ねっ、シンジ君!」
 そう言ってミサトさんがにっこり微笑んでくれた時、僕は知らずに涙をこ
ぼしていた。変だな・・・悲しいわけでもなければ辛いわけでもないのに。
「や、やだっ、シンジ君! 私、ひどいこと言った?」
 違う・・・違うんだよ、ミサトさん。僕は嬉しいんだ。でも嬉しいはずな
のになぜか涙が止まらない。こんなの初めてだよ、こんなの・・・

 今日から私とあなたは家族よ。気持ちだけでもね・・・

 僕が第三新東京市を離れようとした時にミサトさんが言ってくれたこの一
言。それは永い間、僕の心を蝕んでいた黒く冷たい霧を払拭してくれたよう
な気がした。
 普通の人なら。当たり前の家庭に育った者なら、多分なんでもないことに
しか聞こえないだろう「家族」という言葉。それがどうしてこんなに嬉しい
と感じてしまうんだろう?
 それは・・・僕が当たり前のはずのものを持っていなかったから。いや、
あったけど、それは自分のものでありながらどこか他人のもののような冷た
いものでしかなかったから。だからなんだろう、きっと。

「よし、これで役割分担は決定ね。一緒に暮らす以上、物事はぜぇ〜んぶ折
半って形が公平かつ理想よネ」
「こ、公平って・・・これのどこが公平なんですか、ミサトさん!」
「あら、シンちゃんてば不服とでも言うの? 公平にジャンケンで決めたっ
てのにィ。異議申し立ては却下よ」
「そ、そんな横暴な・・・これじゃほとんど僕が家事をやるようなものじゃ
ないですか?」
「男の子なら過ぎた事をグチグチ言わないの。主夫の修行と思えばいいじゃ
ない? これもミサトさんのおかげ」
「字が違ってません、それ・・・?」

 別にミサトさんと暮らすことになったからといって、何かが変わったとか
楽になったということはない。・・・むしろ、余計にやる事が増えたといっ
ていい。学校での授業、ネルフでの任務、帰ってからの宿題に加えて炊事・
洗濯・掃除。それにペンペンにもご飯をあげなくちゃいけないし、暇を見て
はいろいろと誘ってくれるトウジやケンスケとも付き合わなきゃいけない。
 正直、一日が終わる頃には疲れを感じることが多々だ。
 ・・・でも、それは心地よい疲れ。行き場のなかった僕の気持ちを受けと
めてくれる人たちの存在がいるから。日々の生活すべてに僕を必要としてく
れる人たちの心が感じられるから。だから疲れはあっても辛くはないんだろ
う。きっとね・・・

「シンジく〜ん、ご飯まだぁ? ペンペンも催促してるわよぉ」
「あ〜もぅ! たまにはミサトさんも女らしいトコ見せて下さいよォ」
「失礼ね〜・・・でも、ま。たまにはシンちゃんのご飯ぐらいお姉さんがつ
くってあげてもいいわね。これなんかどぉ? ミサトさん特製スペシャルM
カレー」
「ミ、ミサトさん特製・・・? け、結構です・・・」
「あら、手伝えって言ったのはシンちゃんでしょ? 私だってカレーぐらい
作れるわよ」
「カレーしか作れない、の間違いでしょうに」
 それもレトルトカレーを不味く作ってしまうぐらいの。
 ミサトさんの炊事能力を把握してからですよ、ほとんど僕が食事をつくる
ようになったのは。
「いつの間にそんなクチ聞くようになったのかしら、この子は。そんな憎ま
れ口叩くようだと、今晩から一緒に寝てあげないゾ」
「ね・・・寝てもらってませんっ! 昔も今も明日からもっ!」
「うふっ、や〜ね、軽い冗談だってば。シンちゃんってば赤くなっちゃて可
愛い」
「も、もぉいいですっ!」
 家での生活はいつもミサトさんに振り回されっ放しだ。これからもこんな
調子の日々が続くんだろうと思うと頭が痛い。でもそれは辛さではなく楽し
さ。
「シンちゃ〜ん、お腹すいたよ〜。ほら、ペンペン! アンタも催促しなさ
いっ」
「あ〜もぅ! わかったから大人しく待ってて下さいよぉ」
 ミサトさんと僕。あとはペンペン。
 これが僕が初めて得た心の居場所なんだろう・・・きっと。

             【惑 −心の相剋−】

 もともと女の子に気がなかったわけじゃない。僕だって人並みに興味もあれ
ば関心もある。ただそんな余裕がなかっただけだ。
 そんな僕もミサトさんとの共同生活をしているうちに、どこか気持ちにゆと
りが出てきたんだと思う。そんな折だった、彼女が僕の前に現れたのは。
「ふぅ〜ん・・・あんたが噂のサードチルドレンてわけ?」
「そ、そうだけど・・・君は?」
「あたし? どうしてもってんなら名乗ってあげてもいいけど。でも・・・そ
の前にHな視線であたしを見ないでっ!」
 パシン!
 いきなり張り手をくらわされた。
 なんなんだ、この子は? 僕が何をしたって言うのさ。今のだって、風でス
カートがめくれた所にたまたま目がいっちゃっただけじゃないか。わざとじゃ
ないのに・・・
「あたしは惣流・アスカ・ラングレー。エヴァ弐号機のパイロットよ」
「き、君が? ドイツから来たっていう・・・」
「そう。あんた、密かにあたしをライバル視してるみたいだけど、そんなの無
駄だからやめときなさい。所詮、あたしにはかないっこないんだから」
 別にライバル視もしてなければ、誰がチルドレンのナンバー1だろうと僕は
構わないのに。こんな偉そうで自信過剰な子は初めてだよ。
 そう。それが僕とアスカの最初の出会いだった。

「シンジっ! あれだけ言ったのにまだわかんないのっ? 食事に絶対入れな
いでって頼んどいたのにィ!」
「あ・・・」
「『あ・・・』じゃないでしょ! あたし、納豆ってやつが死ぬほどキライっ
て言ったじゃない!」
「ご、ごめん・・・」
 ミサトさんと僕の家にアスカも一緒に住むと聞いた時、気が重くなるのと同
時に少しドキドキするような気持ちを覚えている自分がいるのがわかった。も
っとも、前者の方が大きかったのは確かなんだけど。
 案の定、アスカにはミサトさん以上に振り回されっ放しだった。
「また言った! あんた、『ごめん』以外の言葉知らないの? 口を開けばふ
た言目には、ごめんごめんって。男がそんな簡単に謝ってるんじゃないわよ!」
「う、うん・・・」
「まぁ、アスカもそんなツノたてないで。怒ってばっかりいると美容に良くな
いわよ」
「ミサトと話してないの。あたしはシンジと話してんの!」
「怒りっぽい子ねぇ〜。カルシウムが足らないのかしら? ・・・よしっ、こ
こはひとつミサトさん特製の−−−」
「ミサトの料理だけは死んでもイヤっ!!」
「な、な・・・なんてコト言うのよっ、この小娘はッ!?」
「悔しかったら人に食べられるもの、作ってみなさいよ」
「・・・はぁ〜」
 万事がこんな調子だった、アスカは。
 そんな彼女の奔放さ。そして自信に満ちた眼差しや行動的な性格は、すべて
において僕とは対照的であり、また羨ましくもあった。でも僕にはとても彼女
みたいに前向きな姿勢は取れないだろう、とも心のどこかで感じてもいた。
 別にそれでよかった。僕は僕の性格を変えることなんて出来ないし、やって
もアスカみたいに物事をいい方へと持っていくことなんて無理だろうから。
 ・・・しかし、僕はアスカのことを誤解していたのに気付いたのは、しばら
く経ってからのことだ。

「アスカ?」
「み、見ないでよっ! 女の子の部屋に入る時はノックぐらいするのが常識で
しょ! そんなこともわからないから、あんたはバカなのよっ!」
 泣いていた・・・と思う。あのアスカが部屋で泣いていた・・・?
 ドイツからの国際電話に出た後、どこか彼女は様子が変だった。気になった
僕は静かにノックして、アスカの部屋のドアを少し開けたんだけど。正直なと
ころ、いつも強気で人に弱みなど見せたこともない彼女がそんな一面も持って
いたことに軽い驚きを覚えていた。
「シンジ・・・」
「あ、あのさ・・・ごめん、アスカ。覗くつもりはなかったんだけど・・・」
「・・・もぅいいわよ。それより約束して! あたしが泣いてこと、誰にも言
わないで!」
「・・・うん、約束する。僕は何も見なかったし、何も聞かない。それでいい
だろ?」
「・・・よしっ、約束したからね。もし破ったら、あんたがエヴァに乗ってる
時、後ろからプログナイフで刺すからね」
「こ、怖いこと言わないでよ。・・・って、まさか本気?」
「とーぜん!」
「・・・・」
 まだアスカと出会ったばかりで彼女のことを掴みきれていなかった僕は、そ
の言葉を半分真に受けてたと思う。今ならば、そんな時の彼女は照れ隠ししよ
うとしてる事ぐらいすぐにわかるけど。
 表情が少し強張ってた僕を見ていたアスカがややあって可笑しそうに吹き出
した時、初めて彼女が冗談でごまかしていたんだと悟った。
「アハハ、おっかしーの。シンジってば、こんなの真に受けちゃってさ」
「だ、だって・・・」
 アスカのあんなシーン見た後じゃ、本気かって少しは思いたくもなるよ。
 仏頂面になった僕を見て、アスカもからかいすぎたと自省したのか。笑いを
やめると、ちょっとだけ真剣な眼差しで僕を見つめてきた。彼女の澄んだ青い
瞳が一瞬優しい色合いを帯びたような気がした。
「・・・約束のお礼」
 そう言って、素早く唇を重ねてきた。
 唇と唇が触れあったのは1〜2秒にしかすぎなかったけど、不意打ちをくら
った僕にとっては長い時間に思えた。
「あ〜あ、バカシンジに泣き顔見られるなんて不覚。そのたび”口止め”して
たらたまんないわ」
 それが照れ隠しかどうかはわからなかったけど、この一方的なキスで何かを
吹っ切ったようなのは確かだと思う。
 落ち込む時は落ち込むけど、いつまでもそれに引きずられることを良しとし
ない。あくまで前向きな姿勢のアスカがとても強く思え、また少し素敵な女の
子に見えたのはこの時が初めてだった。

 一言つけ加えると、この時のアスカの涙の理由。
 それを知るのはもう少し後のことだ。

             【真 −心の邂逅−】

 惣流・アスカ・ラングレーという女の子が太陽に例えられるなら、綾波レイ
という少女はひっそりと輝く月という表現がもっとも当てはまるだろう。
 事実、アスカはその場にいるだけで男子生徒の視線を一手に引きつけるほど
の容姿に加え、天性の明るさゆえ彼女のまわりには人垣と笑い声が絶えない。
反面、綾波の方はと言うと滅多に感情を表に出すことはなく、人との関わりを
避けるようにいつも一人でいる。そんな彼女に関心を示す者は皆無に等しかっ
たけど、僕だけは違っていた。華やかさはないけど、いつの間にかその姿を目
で追っているような・・・どこか気になってしまう子だった、僕にとって。

「おっはよ、アスカに碇君! 今朝も仲良く二人連れ?」
「なに言ってんのよ、ヒカリ! 誰がこんな奴と。義務よ、ギム!」
 アスカとは一緒に住んでいるわけだから、登下校が重なることも不思議では
ないんだけど。でもこんな時の僕は、ひどく落ち着かない。・・・気になるか
らだ、窓際の席で物憂げな顔して外を眺めている彼女に聞かれやしないかと。
 でも僕が心のどこかで期待しているような反応を示してくれたことなんて、
今の今まで一度たりともない。
(いつも他人のことには無関心、か・・・)
 なぜだろう、と思う気持ちの裏には綾波のことをもっとよく知りたいと欲し
ている自分にがいることに気づく。それが自分にとってどんな感情なのかはわ
からないけど。ただ、綾波と気軽に話せるぐらいには近づきたいと思う。
「シンジなんて眼中ないのよ、あたしは。第一、こいつの頭ん中には誰かさん
のことしか詰まってないのに」
「えっえっ? 誰だれっ?」
「本人に聞いてみたら?」
 脇で勝手なことを話しているアスカと洞木さんには悪いけど、この時の僕に
は何か叫んでも多分右から左へ筒抜けだったはずだ。こんな朝の一場面が何度
繰り返されたことだろう・・・?

「・・・お母さん?」
「うん・・・うまく言えないけど、雑巾絞ってた時の綾波ってなんだかお母さ
んって感じがした」
「・・・なにを言うのよ」
 僕が言った何気ない一言。だけどその言葉に綾波が頬を染めてることに気づ
いた僕は、理由もなく気持ちが浮き立つ自分を抑えるのに苦労していたと思う。
 開いたエレベータの扉から逃げるようにして足早に立ち去る彼女の小さな後
ろ姿を見つめる僕の心にはささやかだけど大きな感動があった。ささやかで大
きいなんて矛盾してるけど、あの時の気持ちはそれ以外で表現できないだろう。
 こう言ったらアスカが怒るかもしれないけど、彼女が笑ったり照れたりする
時は可愛いとは思うけど正直それ以上の感情は浮かんでこない。でも綾波が少
しでも素の表情を見せてくれた時の嬉しさは言葉では言い表せないものがある。
それは普段、彼女が滅多に自分を晒さない性格をしているせいもあるかもしれ
ないけど。とにかく僕にとって、綾波レイという子は特別な地位を確保しつつ
あるのは確かなんだろう。
 そんな自分の淡い想いをなんとなく知ったのは、僕が第12使徒の中から生還
した後のことだった。

「・・・綾波?」
「・・・気がついた?」
「う、うん・・・」
 重い瞼を開けた時、ベッドの脇で綾波が静かに僕を見つめていた。
「今日は寝ていて。あとは私たちで処理するから」
「うん・・・でももう大丈夫だよ」
「そう・・・良かった」
 彼女は少しだけ微笑むと、もう一度だけ「・・・良かった」と呟いたのが聞
こえた。
(心配・・・してくれてたんだ、綾波?)
 初めてだった。綾波が二度も微笑みかけてくれたのも。僕のそばにずっと付
き添っててくれたのも。
 ゆっくりと心の中がぬくもっていくような感覚。ずっと近くで見つめていて
欲しいと願っている気持ちの現れ。・・・多分。いや、きっと僕は綾波のこと
をただの仲間以上に感じ始めていたんだろう。今ならば、それが僕と彼女とを
つなぐ絆の始まりだったとわかる。
 決して褪せることのない、彼女と僕のスナップ写真。
 二人とも笑っていたんだよ、この時初めて。君も覚えている?

「・・・レイ?」

 第三新東京市が一望できる高台のベンチ。二人して黙ったまま見つめていた
夕陽はすでに山間に姿を半分隠している。
 いつしか片言の返事すら返ってこなくなった隣の少女に視線を向ける。
 ・・・眠っていた。
 僕の話が長すぎたせいか、彼女はうつらうつらしていたんだろう。
「・・・器用に眠るね」
 今まで気づきもしなかったよ。普段からあんまり話さない君だから、てっき
り聞いてても黙っているだけかと思った。
 以前では考えられもしなかったレイの無防備な素顔。それを僕の時だけは晒
してくれる。それがたまらなく嬉しかった。
「言ってくれれば肩ぐらい貸したのに。・・・まぁ、いいか」
 そうさ。もうこれからは焦る必要もなければ、辛い戦いを強いられることも
ない。僕たちの戦いはやっと終わったんだから。
 その時、反対側に揺れかかったレイの肩を抱いた僕は、そのまま自分の肩に
寄りかからせてやる。本当はそのままでも良かったんだけど、目が覚めたレイ
は少し驚いた顔をして離れる。その頬はやや赤い。
「・・・ごめんなさい」
「いいさ」
 苦笑する僕と照れたようにそっぽを向くレイ。
 そして、わずかな会話の後の長い長い沈黙。でもそれは心地よいものだった。
 なぜなら二人でいるこの静寂こそ、僕とレイが今までずっと望んでいたもの
なのだから・・・

                          (二人静 /完)


【構 想】 1996.3.6 [Wed] 〜 1996.3.7 [Thu]/2日間
【執 筆】 1996.3.6 [Wed] 〜 1996.3.7 [Thu]/2日間

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