「恋人の距離」

Ryo Kamizumi


      Session 0:1 「あの日、翼を追いかけて」


 

 例年になく炎暑が厳しかったあの年の夏−−−

 

 灼熱の太陽が照りつける陸上競技場。

 インターハイ出場への資格を賭け、互いの力を限界まで競い合うハイジャ

ンパーたちの中に”彼”はいた。

「またあの二人が残ったわね」

「・・・うん」

 その時、まだ弱冠十七歳に過ぎなかった彼女−−−柿崎優梨の瞳は一人の

少年を追いかけていた。

 何故そんな気にさせられるかは分からなかった。ただ、彼が自身の力だけ

で宙を舞うその姿を見ていると、胸の内にくすぶっていたわたがまりが消え

ていくような−−−そんな気がしていた。少しずつ、少しずつ・・・

 

(・・・がんばって!)

 

 無意識のうちに応援している自分に気付かず、優梨はただ一心に少年の試

技が成功することだけを祈る。

 とても不思議な感覚だった。

 

 トクン・・・トクン・・・トクン・・・

 

 あたかも自分が競技にのぞむかのような一体感。少年の緊張が直接伝わっ

てくるかのように大きく脈打つ胸の鼓動。

 スタンドからでは細かい表情までは見ることが出来ないが、彼がいかに厳

しい表情をしているか優梨には手に取るように感じられた。

「・・・これが成功すれば、あの子が全国ね」

「・・・・」

 隣りに座る姉、夕菜の声も今の彼女には届かない。

 追いかける視線の先に立つ少年のコンセントレーションがどんどん高まっ

ていくのが分かった。

 そして−−−

 少女が脳裏に描いたイマジネーションと完璧に同調したタイミングで。少

年が足を一歩力強く踏み出した後、軽快なステップがサーフェスの上に刻み

込まれていく。

 急速に縮まっていくバーとの距離。

 

(・・・飛んでみせて!)

 

 その一瞬は本当にすがるような気持ちだった。

 少年のしなやかな体がスローモーションのようにふわっと宙に浮いた瞬間、

優梨の瞳は大きく見開かれる。

 

 刹那−−−

 

 優梨は自分が声を上げるよりちょっとだけ早く、近くで二人ぐらいの女性

の嬌声が聞こえた気がした。ややあって、それが合図であったかのように湧

き上がる声また声。どうやらたった今試技を終えた少年と高校を同じくする

仲間たちだったらしい。

「彼・・・飛べたね・・・」

 周囲の喧騒が別世界のことのように、優梨は虚ろな眼差しをしたまま呟く

ばかりだった。

 エアクッションの上で、歓声に応えるかのように右手を蒼空に突き上げる

少年の嬉しそうな顔が不意に霞む。その時、少女は自分が涙を一滴流してい

ることを知る。

「あ、あれ・・・? なんで私、涙なんか・・・あれ・・・!?」

 理由なんてなかったのかもしれない。それでも彼女には、彼が描いた一瞬

のアートに心揺れる自分を抑えることが出来なかった。

「また飛んでみたい・・・そう思うでしょ、優梨?」

 その声に優梨はやっと視線を夕菜に向ける。彼女の姉は微かに笑っていた。

 そんな様子に優梨も泣き笑いで返す。

「・・・ごめん、姉さん。私・・・まだ未練たっぷりあるみたい」

「そうこなくっちゃ」

 暗く殻に閉じこもっているなんて、あんたらしくないしね。

 そう言うと、夕菜は幼な子を褒めるように妹の頭をぽんぽんと叩く。

「んもぅ・・・また子供扱いする」

「拗ねない、拗ねない」

 不満そうに口を尖らせるも悪い気分はしなかった。

 優梨はもう一度、眼下の少年に目を向ける。

 

(彼があんなに嬉しそうに笑っている表情・・・初めて見たな)

 

 陸上部の顧問をしている姉の勧めるままに、その姿を追い続けていた短い

夏のひと時。いつも本心からの笑顔を浮かべるもなく、どこか虚無的な翳り

ばかりが目についた少年が初めて見せてくれた生命の躍動。そのことを知っ

ただけでも優梨はここに来て良かった・・・心の底からそう思った。

「ねぇ、姉さん。彼・・・名前、なんて言うの?」

 今はこうして見ていることだけしか出来ないけど、知っているなら教えて

欲しかった。自分と同じハイジャンパーの彼を。

 練習中の大怪我がもとで選手生命を絶望視されていた自分に、もう一度空

を舞ってみたいという渇望を与えてくれた少年のことをもっと知りたかった。

だから優梨は尋ねた。

 そんな気持ちを充分理解していたのだろう。夕菜はいつものように揶揄す

るようなことはなかった。

「私の友達が昔一緒に住んでいた子らしいんだけどね。名前は−−−」

 

 その日から。

 優梨は一人の少年の背中を追い始めた。

 

 胸に刻んだ想いと一緒に・・・

 

                          (続く)

 


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