Star Children

エピローグ

by しもじ  







初めて訪れたその店の窓からは、新ベルリンの市街が一望できた。
とうに日は落ちており、灯りがイルミネーションとなって街を飾っている。
俗に『10億ユーロの夜景』と称えられる景色を、それもこのような特等席から眺められる機会は滅多にあるものではなかった。

目立たないバーテンがいつのまにか置いて行ったカクテルグラスを手にとって、彼女は一口だけそっとすすった。
土曜日の夕刻だと言うのに、店内に客は彼女一人。
普通なら考えられない、奇蹟に近いシチュエーションだった。
もちろん、こういう状況にはちゃんとした理由が伴っているのだが。

しばらくする内に、分厚いドアが開いてようやく別の客が入ってきた。
それは男だった。

「いやぁ、すっかり遅れちまった。
 待たせてしまったかな?」
「いえ、大したことはないわ。
 私もさっき着いたばかりだから」

その男が自分に優るとも劣らない程忙しい身分である事を知っている彼女は、気遣って答えた。

「彼は?」
「まだ新しい職場にペースが掴みきれていないみたい。
 だいぶかかりそうだって言ってたわ。先にはじめていいって」
「そうか...」

男はバーテンにバーボンの水割りを注文して、彼女の隣のスツールに腰をかけた。









「こんな所に、こんなお店があったなんて知らなかったわ」

無口なバーテンが新しいグラスを置いて去って行くと、彼女は男に言った。

「VIP専用のスカイラウンジだからね。
 そいつを、無理を通して今日は貸し切りにしてもらった。
 君達も忙しいだろうに無理に付き合ってもらって悪かったかな」

男から突然の呼び出しがあったのはつい昨日の夕刻だ。
そして今日、研究所にやってきた迎えのリムジンに乗って彼女はここに連れてこられた。

「いえ、そんなことないわ。
 むしろわざわざこんな所に招待してもらって、お礼を言うのはこっちの方よ。
 仕事にも、良い気分転換になるしね」
「そうか。なら良いんだが...」
「一人でお祝いするの寂しかったんでしょ?」

彼女はズバリ、男の核心をついた。

「やれやれ、お見通しか」
「一緒に戦った仲間の、一世一代の晴舞台ですものね。
 もっとも、もうとっくに式は終わってる筈だけど、ね」

二人の共通の友人。
その結婚式がこの日、地球の裏側で行われた筈だった。

「本当は、日向君も出席したかったんじゃないの?」
「もちろんさ。8年前の借りを返す絶好の機会だったんだからな」

8年前。彼は自分の結婚式の時に旧友にスピーチを頼んだ。
その時の悪夢は、今でもはっきりと覚えている。

「俺も絶対スピーチしてやるつもりだったのに」
「それで、あることないこと言いふらすわけ?」
「もちろん言いふらすのはあることだけさ。
 だが、アイツの場合、それでも充分だからな」
「フフッ。そうね」
「だけどこの状況じゃ、ちょっとそれは無理な相談だよね」

男が入り口の方を指差した。
それで彼女が振り向くと、ごつい身体のお兄さんが黙って立っている。
言われてみるまでそこにいる事に気づかせないほど密やかに。
彼女は知らないが、ドアの向こうにも数人が待機しているはずだった。

「SPをわんさか引き連れてったんじゃ、せっかくの式も興醒めよね」
「一応、敵地だからな。
 いくらプライベートとはいえ、他の幹部も許してくれる筈は無いさ」
「不便になったものね、お互いに」
「マヤちゃんは、行こうと思えば行けたんじゃないか?」
「まあね。でも、こっちはこっちで顔を会わせづらいじゃない?
 おじいちゃんとか...」
「おじい...、ああ。副司令か」

マヤは冬月らの反対を押し切って、先技研を辞めてドイツに引っ越してきた。
夫と子供達を引き連れて。
夫婦で話し合った末の決断ではあるが、その理由は他の誰にも話していない。

「まあ、仕方がないさ、それは。今はもう許してくれてるんじゃないか?」
「それはどうかしらね...」

考え込もうとする女に、笑顔を向けて男は話を転換した。

「まあ、なんにせよ、今の俺達はここから祝うことしかできないんだから、
 そうするだけさ」
「そうね」
男はグラスを手にとって宙に掲げると、女もカクテルグラスを取りあげた。

「ヤツに、ついに年貢の納め時が訪れた事を祝って」
「二人の、青葉君とセイラさんの幸せを祈って」

チーンと、重なり合ったグラスが澄んだ音を響かせた。

「乾杯」









「いやー。遅れてすまなかったね」

もう一人の招待客がやってきたのは、ちょうど三杯目のグラスが空いた時だった。

「いえ、そんな事はないですよ。
 それより、仕事の方はもうよろしいのですか?」
「ん?ああ。
 取りあえず、後は秘書に任せて切り上げてきた。
 僕なんかより、よっぽどデキがいいね」
「単に慣れの問題だと思いますよ。
 教授(せんせい)も、すぐにこなせるようになりますよ」
「だといいがねえ。
 こうデスクワークにばかり時間を取られているようじゃ、
 研究に専念する事が出来た以前の生活が恋しく思えてくる。
 たとえに一日三時間しか眠るヒマがなかったとしてもね」

冬月ショウヨウ。冬月コウゾウの甥にして、マヤの夫である。
マヤと共に、ゼーレ中央研究所に上級研究員のポストを得て転任してきた。
本来の研究に、統括参事としての事務仕事が加わり、戸惑っていた。

「後悔していらっしゃいますか?」
「いや、それはない。
 どうせ向こうにいても、遅かれ早かれこんなポストは巡ってくるんだ。
 生物学教室の力は弱いから学部長は無いにせよ、なんやかやとね。
 それに、たまには環境が変わるのも刺激になっていい。
 マヤも、そう思うだろ?」
「ええ、そうね。
 もちろん、条件がいいことは言わずもがなよね」

ここで言う条件とは、つまり、給料の事である。

「やっぱ、高すぎたかなぁ。
 絶対に応じてくれないだろうと思って、気軽に付けたんだが...」
「あら、そうだったの?」
「先技研の主任と京大の教授だぜ。
 何か特別な事情でもない限り、普通、引き抜けるとは思わないよ」
「まあそれはそうだ。
 だが、困っている友人の頼みとあっては放っておけないだろ?」

その言葉を聞いて、マコトは手にしていたグラスを置いてつぶやいた。

「...やはり、気づかれていましたか」

困っていたのは事実だったが、縁故を頼り彼らに負担をかけるつもりはなかった。
また、他人にそう思われたくもなかった。
だから、破格ともいえる好待遇を確約したのだ。
それでも応じてくれるとは期待していなかった。だが...。

「組織に風穴を開けたかったんでしょ。
 外からの血を導入して、古い閉鎖的な体質を改善すること。
 それが、今、新生ゼーレが目指しているモノですものね」
「それを君が気にすることはないんだよ。
 僕らなりに、色々と考えた結果なのだからね。
 それに、さっきも言ったように、条件が有利だったのは事実なんだから」
「はあ」
「ほら、そう難しい顔をしないで、取りあえず飲みなさい。
 何といっても、今日は君の親友のお祝いの日なんだろう」

そう言われ肩を叩かれて、日向はグラスを手に取った。
いつの間に頼んでいたのか、ショウヨウの手にもグラスが握られていた。

そして彼らは、この日2回目の乾杯をした。









「最初のうちは、どこから手を着けていいのか全くわからなかったさ。
 でも、長期的なビジョンも何も無くても、とにかく始めなきゃならなかった。
 取りあえずハインツが研究部門をなんとか抑えてくれてたしね。
 あれがなかったら...、。軍需部門なんて特にひどかったんだ。
 家族、子供たちの事を出して脅迫する奴等までいたんですよ」

今夜のマコトはいつになく饒舌だった。

「正直、あの頃は何度も投げ出したくなる事があったよ。
 今だって、時々はそう思う。
 昔の膿みを切り捨てて、組織の風通しはかなり良くなったけどね、
 それで身軽になったおかげでこれ以上の改革は逆にしづらくなった。
 経済部門の連中は今でも猛烈に反発していますよ。
 自分達で火中の栗を拾う勇気も無かったくせに、風が吹きはじめた途端に威勢が良くなるんだ。
 少しでも株価が下がると全て僕の改革のせいにする。
 今ここで止めてしまったら、すぐに元のゼーレに逆戻りしてしまう。
 転がり始めた車輪は、行き着くところまで回しつづけなきゃならないんだ。
 連中はそんな事もわからない」

何杯目かも、もう数えるのも忘れたグラスに手を伸ばす。

「シアトルのB社の暴動だって、チリの鉱山の件だって、みんな僕のせいだ。
 いや、連中に言われなくたって、そんな事はわかっているさ。
 大体、僕がこんな大それた事できる器じゃないって事ぐらい自分でわかってるんだ。
 そこに改革すべき組織があって、誰かがやらなくちゃならなかったから、ただそれだけだった。
 それが僕である必要なんてどこにもなかったのに...」

気楽に話せる友人の前で、彼は久しぶりに素に帰って話す事ができた。
ネオ・ゼーレの総帥としてではなく、ただの日向マコトとして。

「葛城さんみたいに、思い切った事は僕にはできない。
 加持さんみたいに、そつ無くこなす事もできない。
 シゲルだって、国連でうまくやっているっていうのに僕は...」
「そんな事はないさ。君は総帥として立派にやっているよ。
 ロンバルド博士が君に託した気持ちはわからないでもない」
「彼女には僕かハインツしかいなかった」

ハインツ・M・クラウザー博士。
つまりアスカの父親で、今はネオ・ゼーレの研究部門を統括している。

「それは、他の者には彼女の元まで辿り着けなかったからだろう?
 つまり君にはそれだけの行動力があったと言う事だ。
 そして僕の見たところ、君にはリーダーとして欠かせない資質を持っている」

一呼吸おいたショウヨウを、他の二人が黙ってみつめる。

「誠実さ、ってやつさ」

半ば氷の溶けかかったグラスの中身を飲み干して、彼は続けた。

「僕の専門はね、量子生物学と言って、生物を群として捕らえ、
 その行動を量子として取り扱い分析する学問だ。
 社会生物学の流れに純粋数学を取り込んだ、まだ新しい研究分野だ」

無論、そんな事はマヤは勿論、彼を招聘した日向だって知っていた。

「その専門家として言わせてもらうと、社会生物学では少し古い理論ではあるが、ゲーム理論と言うのがあってね」
「ああ、『囚人のジレンマ』とか言う奴ね」
「そうだ、マヤ。だが、それは理論の一部に過ぎない。
 詳しく話すと長くなるんで結論だけを言えば、長期的視野に立って確率を検討した時、
 もっとも繁栄するのに必要なものがオネスティ、つまり誠実さなわけだ」
「ふーん」

マヤが相づちをうつ。マコトは無言だ。

「それに大局的に見て、君のやっていることは理論に合致する。
 組織、いや人間という物は本質的に変化を怖れ、現状を維持しようとするものだ。
 それはすべて生物学的な本能に基づいている。
 だが、現状維持はやがて縮小再生産に陥り、いずれ衰退する。
 自然界では環境の変化が進化を促し、栄枯盛衰を繰り返しながらも種は脈々と受け継がれてきた」
「さしずめゼーレにとっては、例の事件はインパクト級の環境の激変に相当するわけね」
「そうだな。
 だがね、マヤ。他の生物と人間の間には、根本的に違う事があるんだよ。
 人間は、自らの意志によって変化を造りだす事ができるんだ。
 例のリリンによって与えられた力のおかげなのかも知れないがね、
 その力によって、人類は進化を加速し、文明を興す事ができたんだ」

マヤは、ふと、敬愛していた先輩の言葉を思い出し、口に出した。

「ホメオスタシスとトランジスタスタシス、か。
 今を生きようとする力と、今を変えようとする力。
 その矛盾する二つの性質を共有している生き物、それが人間...」
「ああ、その通り。元来が矛盾した生き物なんだよ、人間は。
 そしてそれは人間が造りだした組織にもあてはまる。
 そしてその矛盾が、様々な社会のダイナミズムを産んできたんだ。
 王政と共和制。資本主義と社会主義。保守と革新。すべて然り。
 全てがうまく行ったわけではない。が、全ては必要な事だった」
「ゼーレも?」
「そうだろうな。分権体制を取る国連主義のアンチテーゼとしてのゼーレ。
 その存在自体が、ヒトの矛盾が生み出したモノと言える。
 あるいは、国連に取って代わっていずれ世界を支配するように成るかもしれん」
「昔の連中は、少なくともガビー・ロックフォードはそうだったかも知れない。
 だが、僕はそんな事までは考えてはいない。
 『世界を革命する力』なんて要らない」
「ならこれから考えるんだな。
 大勢が国連中心に動いている今こそ、それを補完するモノとして、ゼーレには存在理由がある。
 君がそれを求めているのではない事はわかる。
 だが、君の絶対運命黙示録は待ってくれはしない」

前世紀の故事を持ち出して、ショウヨウはニヤリとした。
ちなみに、彼は当時、大学生だった筈だ。

「.....」

マコトは何かを考え込むように俯いて、グラスをじっと見つめていた。

その時、彼の携帯が鳴った。
彼は二人に一言ことわってから、一旦席をはずした。
この時間にかかってくる以上、それだけ重要な内容だと予想されたからだ。









「あなたがこんな事を言うなんて、思わなかったわ」

二人きりになってから、マヤは言った。

「そうかい?」
「だって随分と彼を焚き付けていたじゃない」
「それが僕の役割だと思ったからね」
「役割?」
「かつて碇ゲンドウと言う男には、冬月コウゾウと言う男がいた。
 日向マコトの傍らに、冬月ショウヨウがいてもいいじゃないか」
「碇司令と日向君じゃ、キャラがまるきり違うわ」
「そうかな?だが、僕の知るかぎり、シンジ君となら彼は良い勝負だろう?
 副官がしっかりしていれば、彼は化けると思うよ」
「呆れた。あなた、本気で彼のブレインになるつもり?」
「いけないかい?
 叔父さんにできたんだ。僕にだってできるさ。
 彼には身近に味方が必要なんだよ。
 こうやって、時々本音をぶちまけることが出来る味方がね」
「それはわかるわ。でも...」
「彼が、ロンバルド博士に託されたゼーレを見捨てられなかったように、
 僕にも、重圧に今にも押しつぶされそうになった彼を見捨てることはできない。
 それは君もそうだろう?」
「え、ええ」

そういう言い方をされては、マヤは頷くしかなかった。

「大丈夫。僕だって、自分の分という物をわきまえているつもりだよ。
 何も本気で世界を革命しようっていうんじゃないんだ。
 ただ、その可能性も少しは彼の視野に入れておきたかっただけさ。
 実際にそう言う事になるようなら、それを制止するのも僕の役目だよ。
 間違ってもそんな事はあり得ないと思うがね」

夫の理屈はわかる。彼女はそれを受け入れるべきである事も。
だが、心から納得できるものではなかった。
だから彼女は素直にそう告げた。

「そうだな。まあ、それは仕方がないさ」

穏やかに彼は返答した。

「僕だって、こんな事、こうして彼に会ってみるまで考えてもいなかった。
 半ば、成り行きってヤツだ。
 心配すべき事は山ほどあるが、まあ、成るようになるさ」

十年近い夫婦生活で、彼女は夫の性格は良く把握していた。
そして思う。
碇司令とシンジ君(あるいは日向君)の性格はズイブンと違う。
それと同じように、おじいちゃん(冬月副司令)と彼女の夫もかなり違うのではないかと。
少なくとも、副司令はこんなに楽観的では無かった。
頭こそハゲなかったものの、胃腸のほうはだいぶ痛めつけられたはずだ。
司令と副司令を足して平均すれば、ちょうど良い組み合わせなのかもしれないが...。









「今、ふと思ったんだがね」

彼らの予想に反して、日向マコトはなかなか帰ってこなかった。
黙って考え込む妻にむかってショウヨウは話しはじめた。

「ホメオスタシスとトランジスタスタシス、だっけ。
 保持する力と変革する力。
 それって、大人と子供の関係に似ていないかな?」
「大人と子供?」
「あくまでも、象徴としての、だけどね。
 過去を持たない子供は、変わる事に対する怖れを知らない。
 だから、純粋なその心は常に理想を追い求め、新しい未来を築く原動力となる。
 でも、人はいつまでも子供のままでいることはできない。
 変化を畏れるようになった時、大人になってしまったと人は悟るんだ」
「つまり、私が変化を畏れている、と言いたいわけ?」
「まあ、有り体に言えばそうなるかな。
 誤解して欲しくはないんだが、それが悪いと言っているわけじゃない。
 変化は常に我々にとって良いモノばかりをもたらすとは限らない。
 大人の存在は、子供たちと同様に、世界にとって必要なんだ」

返事をしばらく躊躇ってから、マヤは小さな声でつぶやいた。

「認めたくないものね」

だが、否定することはできないかもしれない。

「つまり、それだけ年を取ったと言うことでしょう?」
「年のせいじゃないさ。そういう意味じゃ君はいつまでも若く、きれいだよ。
 だけど、僕にとっては君は愛すべき一人の女性としてのマヤだけど、
 同時に子供たちにとっては母親としての冬月マヤでもある」
「母性本能が、科学者としての理性に勝ると言うわけ?」
「子供を守り、育てていくのは大人の役割だ。
 どんな偉大な科学者だろうと、それは否定できないさ。
 言い方を変えようか?
 何か護るべきものを見つけた時、人は大人になるんだ」
「いつまでも、人は子供ではいられないのね」
「子供たちには世界を変える力が有る。
 だが、やがて彼らも成長し大人になる。
 今ある世界を守り、次の世代の子供たちにそれを伝えるために。
 そしてそこから新しい変化が生まれ育っていく。
 すべては循環している、サイクルなんだ」

いつの間にか飲み干してしまったグラスをテーブルに置いた。
物静かなバーテンが、何も言わずにお代わりと交換していった。

「思えば、碇シンジ君、彼も難しい宿題を残してくれたもんだ。
 フォースインパクト。あれはこの閉じた環から人類が逃れえるチャンスでもあった。
 究極の変化。あるいは究極の現状保存によって。
 だが彼は、敢えて人類がこの綱渡りのようなサイクルを続けていく道を選んだ。
 それはいい。
 こうやっていられるのも、彼のおかげだと言えるのだからね。
 だが、その代わりにやらなければならない仕事が増えた。
 全く厄介な仕事だよ。
 できれば僕だってやりたくはないが、そうも言っていられないんでね。
 僕にも、護らなければいけないモノがあるからね」

そう言って、彼は彼女の瞳を覗きこんだ。
が、独り思案を始めたマヤはそれに気づかなかった。

そうか、何かを護るために変化を受け入れることも必要な時もあるのよね。
大人であるということは、変化を拒絶してただ現状維持に努めることではなく、
子供たちのもたらす変化を受け入れて、それをうまくコントロールする、
そう言うことか。
だから....
そして....

彼女は夫に自分の考えを伝え、そして微笑んだ。

「乾杯しましょうか」
「何に?」
「子供たちに。
 失われてしまった私達の中のチルドレンに」
「失われたわけじゃないさ。
 ただ役割が変わって、眠っているだけだろう。
 必要になればまた目を覚ましてくれるさ。彼のようにね」
「細かい事はいいじゃないの。ね。
 子供たちに」
「子供たちに」

そう言って、二人はグラスを重ねあわせようとした。

ちょうどその時だった。
ラウンジのドアが静かに開いて、日向マコトがようやく戻ってきたのは。





























最終章 (3)
  「Be children !」




























『おはよう、シンジ君』

テープに録音されたメッセージは、そう始まっていた。

『君達がこのメッセージを聞いている時、俺達はもうこの宇宙にはいない。
 俺も、葛城も、この件については後悔していない。
 いや、むしろ、ようやく真実を手に入れたんだ、今度こそうまくやろうと思う。
 結果として君達を騙す事になってしまったが、
 その事よりもただ、最後の挨拶ができなかった事だけは残念に思う』

シンジとアスカは黙ってそれを聞いていた。

『フォースインパクトについて、心配する必要はない。
 シンジ君がやろうとしたことは、俺達が必ずやりとげてみせる。
 その代わり、君達には、君達自身の未来を心配して欲しい。
 それが、俺と葛城、二人の願いでもある』

無言で顔を見あわす二人。

『この船は、俺からのプレゼントだ。
 君達が乗っていた船、昆崙とか言う氷の船を参考にさせてもらった。
 航行システムも強化してある。エンジンはS2機関を使ったイオンドライブだ。
 燃料はたっぷりあるので、まあとりあえず地球に帰還するには充分だと思う』

そのS−DATはこの船のブリッジに置いてあった。
シンジ君へ、と書かれたメモと共に。

『実は君達が今、どこにいるのかは俺も知らない。すまないが自分達で調べてくれ。
 もし今君達がとんでもない所にいるようなら、すべてはアイツのせいだ。
 それはリリスの血を引く彼女にしかできなかった事だからな。
 この何年間かでアイツの方向音痴が治ったかどうかまで、俺には責任が持てない。
 あるいはかえって悪化した可能性も否定はできないんだな、これが。
 まあそう言う事だから、太陽系の内側にいる事を心から願っているよ。
 とにかく、恨むなら彼女を恨んでくれ。
 そうだ。寝室の方に葛城も何か『おみやげ』を用意したらしい。
 アイツの事だからどうせくだらない物だとは思うが、ヒマがあったらそいつも探してみるんだな』

謎は解けた。
何故、自分たちがココにいるのか?
これからどうすれば良いのか?

加持リョウジと葛城ミサト。
彼らが残してくれたもの。
未来。

『そろそろ終わりにしよう。
 では、諸君の成功を祈る。
 なお、例によってこのテープは自動的に爆発する』

ボン!

シンジがケホケホと咳き込みながらつぶやく。

「ひどいや、加持さん」

顔が炭で真っ黒になり、髪がアフロになっているのはお約束だ。









その時、ブリッジの扉が開いて3人目の搭乗者が姿を表した。

何も言わぬその紅い瞳が、
『どうしたの?』
と聞いている。

答える気にもならず、シンジたちが黙っていると、

「これを、見付けたわ」

と包装紙に包まれた箱を取り出した。









30分程、時を遡る。
二人が目を覚まして呆然としていた時、彼女は部屋に入ってきた。

「おはよう、碇君」
「あ、ああ。おはよう、綾波」

何気なく口にされたその挨拶に、思わず返事をしてしまうシンジ。
彼はレイがここにいる事より、彼女が自分から挨拶してきた事にむしろ驚いていた。

「ファ、ファースト?
 なんでアンタがここにいるのよ!」

それはアスカも同じだったが、立ち直るのは彼女の方が早かった。

「それを私が望んだから」

昔のように、言葉少なに返答を返す少女。

「望んだ?」
「碇君と一緒に生きる事を」
「えっ、ボッ、ボク???」
「そう」

面食らって二の句が告げなくなった彼らを無視して、
彼女は手の中にあったものを差し出した。

「これ....」
「えっ」
「プラグスーツ。
 いつまでもその格好でいると、風邪をひくわ」
「あっ」

言われて気がついた。
二人は裸だった。
目が覚めた時は、いつもの事だったので気が付かなかったが...(笑)

慌ててシーツを掻き上げようとするシンジ。

「何すんのよ!」
「イテッ」

頭を引っぱたかれ、シーツをアスカに完全に奪われる。
アスカはそのままシーツをまとい、入り口に立っているレイの元に歩きだした。

「レディーファーストよ、バカシンジ」
「ヒドイや、アスカ...」
「ほら、着替えるんだから目をつぶりなさい」

いいじゃないか、どうせいつも見ているんだし、と言おうとして、止めた。
レイの目が、そして耳が、この場にはあった。

仕方なく局部を手で隠し、目をぎゅっとつぶる。
アスカが服を着終えるまで、ハタから見ると、ずいぶんと間抜けな光景がしばらく続いた。









『ハーイ、シンちゃん、アスカ。
 今、ちょっち忙しいんで、簡単な伝言で勘弁してね。
 レイから受け取ったリリスの力、まだ慣れてないのよ。
 寝室のダブルベッドは私からのプレゼントよ。
 色々と機能があるから試してみてね。
 ああ、そうそう。ゴムは2グロスしか用意してないから大事に使うのよ』

レイが持ってきた包み紙の中に入っていたメッセージには、そう書かれていた。

ミサトの事だからある程度予想できなくもない内容ではあったが、
案の定というか、何というか、やはりくだらないプレゼントではあった。
シンジは一瞬でも何かを期待した自分に、がっくりと肩を落とした。

二人がメッセージに目を通している間に、レイは中身をさっそく開けていた。
小さな声で、例によって呟きながら。

  これが...ゴム?
  薬の袋を束ねるのについてきたモノ?
  指で狙ってピュンと飛ばすモノ。
  碇司令が何度も何度もやってくれた...
  でも、これは違う....。

どう見ても、それは彼女の記憶にある輪ゴムとは異なっていた。
つづら折りになっているそれを取り出して、一つ、封を開けた。

  これは何?
  柔らかくて伸び縮みする。
  そう、まるで風船のよう。
  これは...ゴム風船なの?

そして、まだがっくりしているシンジの前にそれを突きつけた。

「碇君。コレは何?
 風船?
 私にはわからない。
 葛城三佐は、これで何をしろと言うの?」

いきなりソレを目の前に突きつけられて、何と言うべきか。
正直に答えるならば『葛城三佐は、これでナニをしろ』と言っている訳だが、
シンジは真っ赤になって、口をぱくぱくさせるばかり。

「あんた、何やってんのよ」

航法コンソールに向かって操作をしていたアスカがそれに気づいて、
レイの手の中にあったブツを奪い取った。

「お子様のアンタがこんなもの使うなんて10年早いのっ!
 って、あら?」

ちなみに、レイの外見は14才のあの時のまま、変わっていなかった。
ちょうどエヴァに取り込まれていたユイが、ずーっと年をとらなかったように。

「これはオカ○トの超薄型フィットネス。
 さすが、ミサト。わかっているじゃない」

ニヤリ。
アスカは肉食獣の笑みをうかべた。
哀れ可哀想な子鹿(もちろんシンジ)の運命やいかに。
(って言うほどのこともないか。夫婦なんだし)

とその間に、レイは再びシンジにアタック。

「この箱には『明るい家族計画』と書いてあるわ。
 人類補完計画と関係があるの?
 碇君。知っているのなら説明して」
「ダァー!アンタ、バカぁ?
 今時、小学生だってこんなもの知ってるわよ。
 ホントは知っててとぼけてるんじゃないでしょうね?」
「とぼけてなんかいない。知らないの」

真顔で頷くレイ。

「ホントに?
 じゃ...」

ゴニョゴニョゴニョ。

レイの耳元でそっと聞く。

フルフルと首を振るレイ。

「マジぃ!?
 じゃ、こんなことは....」

再びゴニョゴニョゴニョ。

コクン、と小さく頷くレイ。

「何なのよ、アンタは!
 いったいどう言う教育を受けて来たのよ!」

アスカの怒声は誰に向けられたものだろうか?
少なくともそれはレイに向けられたものではないことがシンジにはわかった。

「だって私には必要ないもの」

淡々と答えるレイ。

「ダァーッ。まったくもう。信じらんない!
 ちょっと来なさい」

そしてレイの腕をとり、そのまま部屋を出て行きかける。
ブリッジを出る直前、アスカは振り向いてシンジに告げた。

「ちょっとアタシはこのレイに話があるから、アンタはそこで待ってなさい。
 天測システムを組み上げたから、10分もしないうちに結果が出るはずよ。
 それまでにはなるべく戻ってくるから、続きはそれから、ね」

置いてきぼりにされたシンジは、独り、天井の航法スクリーンを見あげた。

「星か...。
 本当に戻ってきたんだな....、この宇宙に」

手元のコンソール上のディスプレイではアスカがあっという間に組み上げたプログラムが、
猛然としたスピードで計算の経過出力をスクロールさせていた。

「ふーん。これがカペラ。それにベガ。アルタイルっと。
 シリウスはこれかな?」

アスカは10分と言っていたが、思っていたより時間がかかりそうな気がした。
だが、簡単な星座の知識があれば、計算機に頼らなくても人間にも出来る事はある。

「じゃ、そんなに太陽系から離れているってわけでもないみたいだね。
 あれは何かな。意外に明るいけど...」

もちろん、計算機のように完全な位置を教えてくれるわけでもない。
頭の中の知識と勘だけを頼りに航法を行なう事は現実には不可能だ。

「太陽か...、あるいは木星、土星あたりかな...。
 っと、電磁波はモニター出来るのかなぁ」

ポちっとスイッチを押す。画面が切り替わる。

「やっぱり太陽だ。
 そしてその近くにある目に見えない電波のソース。
 ユーレカ!
 地球だ」

頭の中の知識と勘だけを頼りに航法を行なう事は不可能、でないかもしれない。
もちろん、艦が太陽系内にいると言う前提条件が成立していたからだが。

「蝕にはいってなくて良かった。
 視野角がこんなもんだから....、うん、海王星軌道あたりかな」

天測プログラムは依然、観測された42億9496万7296個の星とインプットされた恒星のデータとの照合を続けていた。
普通ならそこまでする必要はないんではないかとも思われるのだが、そこまで徹底すると言うことに
いかにアスカが葛城ミサトと言う人間を信用していないか、という事が如実に現われていた。









その内に、アスカとレイが戻ってきた。
二人とも、何故か顔を真っ赤に染めていた。

そんな二人を見て、なんか良いなぁとノホホンと眺めるシンジ。

「計算はもう終わったかしら?」
「ん、いや、まだみたい」
「そう。意外とかかるわね。ま、仕方ないか」

それは予想の範囲内だったのか、あまりアスカは気にした風ではない。

「でも、どこにいるかはわかったよ」
「なんですって?
 バカシンジのくせに、なんでそんな事わかるのよ」
「いや、そ、そんな事言われても...、
 こ、幸運だっただけだよ、うん、たまたま」
「そ、そう」

いや、もちろん運は必要であるが、それだけでは当然ない。
あれから土星、木星、天王星を見つけたシンジは、かなり正確に現在の位置と時間を決める事に成功していた。
パソコン程度の能力しかない生活用コンソールの計算機能を使って。









今、三人は手分けして出航の準備を進めていた。
一分でも早く準備が終われば、一分でも早く地球に着けるからだ。

「加速態勢にはいる前の配置替えや固定作業が必要ないの?」
「ジンバル構造で居住区のGは常に一定方向に保たれるわ。
 等速運動のときは遠心力で疑似重力を発生するようになっているわ」

二人が起きてくる前に、レイは艦の情報を調べてあった。

「さすが加持さんだ。考えることに無駄が無いね」
「通信は? なんとか地球に連絡は取れないの?」
「この距離では無理。
 指向性が弱いから拡散してしまう。
 出力も弱すぎる」

経験がないにもかかわらず、レイの働きはシンジやアスカに劣らない。
伊達にネルフで『優等生』をしていたわけではないと言うことだ。
状況に対応する基本的な訓練ができている。

「でも、一応救助信号は出しておいた方がいいと思うんだ。
 ひょっとしたら、ってことがあるかも知れないしさ。
 ね、アスカもそう思うでしょ」
「ま、転ばぬ先の杖ってやつよね」

相変わらず、アスカは日本のことわざが苦手であった。

「推奨航路をスクリーンに出すわ」
「ふーん。地球軌道にむけて一直線ね。
 ゲッ。5年もかかるの〜。やってらんないわ」
「初期加速は0.03G。最大でも0.2Gが限界。だから仕方がないわ」

S2機関で駆動する高性能のエンジンを積んでいるはずなのにである。
とはいえ、直径2kmの氷の彗星である。
その質量は約20Gt(ギガトン)にもなる事を思えば仕方がない。

「ふーん。意外と足が無いんだね」
「何のんきな事いってるのよ。5年よ、5年。
 地球に戻れた頃には、もう三十路のオバサンじゃない」
「ワタシにはちょうどいいわ」
「アンタはね。でも、よく考えて見ることね、レイ」
「何を?」
「この船には、アレは1年分しか積まれてないのよ」
「そう。それは問題ね」

アレってなんだろう?
シンジの鈍い頭では、何の話をしているのかわからなかった。
その間にも、切実な問題を前に、アスカは頭をフル回転させて考える。

「真っ直ぐ地球に向かわないで、木星か土星でスイングバイして加速度を稼げば...」
「強度が足りないわ。艦が分解してしまう」

大がかりなスイングバイを行なうと、惑星の引力による潮汐力により、
氷の彗星が砕けてしまうおそれがある。

だが、そのレイの解答を受けて、アスカは閃いた。

「そうよ!だったら分解させれば良いじゃない。
 不要な燃料は今のうちに切り捨てて船体を軽くすれば...」
「でも、船外作業を行なう装備は積み込まれていないわ。
 氷の固まりを切り出すための道具もない」
「ちっちっち。だからこそ、よ」

と言ってキーを叩き、新航路をアスカはインプットした。

「ほら、こうすれば、半分もかからないわ」

それを見てシンジは絶句する。

「土星では限界ギリギリまでGをかけ、彗星の構造に負荷を与えておくの。
 そうすれば地球の引力圏に入る前に簡単に割る事ができる。
 分裂して軽くなった彗星本体はそのまま宇宙に飛んでいくわ」

予想航路図がクローズアップして、土星付近でのシミュレート映像が表示された。
分裂した氷の彗星の前部は双曲軌道を描いて土星を半周し、
後部はそのまま接戦方向に飛び過ぎて行く。
そして細かい破片が幾つか、土星の周回軌道に残されていた。

「だからと言って、アスカ。減速もせずに地球に突っ込む気?
 それじゃ、地球に核の冬が来る。人が住めなくなっちゃうよ」
「少しでも、1日でもいいから時間を稼ぐ必要があるのよ」

その理由を知ったら、改めてシンジは絶句する事だろう。

「それに突っ込むわけじゃない。かすめるだけよ。
 減速だって、ほら、火星軌道を過ぎてからしてるわ」
「それじゃあ絶対に間に合いっこないよ」

最初の速度に戻すためには、加速と同じ時間をかけて減速しなくてはならない。
つまり、地球との中間点で減速を始める必要があるのだ。
いくら身軽になって高加速がかけれるとしても、火星軌道ではあまりに内側すぎる。

「賭ける?」
「うッ...」

アスカがあまりにも自信たっぷりに言ったので、シンジは言葉に詰まった。

「艦の本体には最小限の氷を残し、入射角をうまく計算して...」
「大気圏の摩擦を利用して最終減速するのね」
「レイはわかったようね。
 ま、ひょっとしたら少しぐらいは地球に氷の雨が降るかしら。
 どう?これで良い?」
「問題ないわ」
「シンジは?」
「う...わかったよ。いいよ。
 でも、タイミングが難しいんじゃない?
 上手くしないと、僕らも宇宙に飛んでっちゃうよ」
「その辺はまかせなさい。このアスカ様の華麗な操縦を見せてあげるわ」

いや、だからなおさら心配なんだ、とはとても言えないシンジであった。









発進準備は最終段階に移行していた。

「このランプがついたらボタンを押せばいいんだね?」

メインエンジンの始動ボタンを前にシンジが確認する。

「ええ。後の作業はすべてコンピュータがやってくれるわ」
「そっか。じゃあ僕らはただ地球に着くのを待っていればいいのか...」

結局、手動操作はやめて、全部コンピュータに任せる事になったようだ。

「そう。でもその間に、やれる事はたくさんあるわ」

レイの思わせぶりな言葉にアスカがピクリとした。
シンジはそれに気づかず、尋ねかえす。

「やれる事?」
「そう...ヤれる事(ポッ)」

頬を少し赤く染めて頷くレイ。

「ダメよ、レイ。バカシンジのは、アタシのモノよ。
 だから最初は私なんだからね」
[僕の...何が?」
「ナニが、よ!」

シンジの鈍さは相変わらずのようだ。

「アナタはもう何度もヤッているわ。それに黒き月の中でもシている筈よ。
 だからもう充分でしょう?」
「あれっぽっちで満足できますかって言うの。
 一年近くもオアズケ喰わされていたんですからね」
「それを言うなら、私は10年にもなるわ。
 その分の埋め合わせはしてくれるってアナタは言った...」
「だからこうして認めてあげてるんじゃない。
 アンタの気持ちは確かにホンモノだと思うから....、
 他のヤツだったら、バカシンジに指一本触れさせるものですか」

つまり、二人で話しているうちに、そう言う事になったようだ。

「アタシとしても、アンタとはフェアにやりたいのよ。
 不戦勝じゃあ、勝ったと言う実感がわかないものね」
「アナタには私には無い10年という時間のアドバンテージがあるわ。
 それで果たして公平な勝負と言えるのかしら」
「わかっていないわね、レイ。
 まあ、アンタもその内わかってくるでしょうけど、そいつは必ずしもハンデとは言えないのよ。
 アンタは私が失くしてしまった、若さって言う武器を手にしているのだから。
 男なら誰だって、ピチピチの躰の方がイイに決まってるじゃない」
「そうなの、イカリ君?」

二人のやり取りを呆然として聞いていたシンジに急に話が振られた。

「えっと...、どうかな」

まだ良く話が飲み込めていない彼には、そう答えるしかできなかった。

「あったり前じゃない。もっとも、私だってそう簡単に負ける気はないけどね。
 そのための努力を惜しまなければ、必ず報われるわ。
 最後には日々の修練がものを言うのよ」
「そう...、そうなの?」
「そうよ、レイ。
 アンタには借りがあるから、そう言った事もこれからちゃんと教えてあげる。
 その辺はこのアスカ先生を信じて、安心なさい。
 だから今日の所は...」
「....」

レイは少し考え込んでいる。

「だいたい、アナタ、まだ何も知らないじゃない。
 さっきの話じゃ、『イカリ君と一つになる事。それはとても気持ちのイイ事』ってだけじゃないの」
「それが間違っていると言うの?」
「別に間違っちゃあいないけどね。
 って言うか、あってる。確かにとっても気持ちいい事なんだけれどね。
 それだけじゃ全然足りないって言うの」
「何が足りないの?」
「うーん。例えば、どこをどうすれば、互いに気持ち良くなれるかって事かしら。
 あそこをギュって握ったり、こっちをぺロって舐めてみたり、意外な所をくすぐってみたり、
 そうするとコイツがどういう反応を示すか、アンタは全然知らないじゃない。
 逆につんつんされると気持ちのいい所とか、優しく撫でられただけで頭の中がフワッとなっちゃう感じとか、
 奥まで一杯になって躰の底からコイツと一緒になったあの満たされた幸せとか、
 そう言ったことも知らないわけでしょ。
 要するに、経験が全然たりないわけよ」
「それは誰でも最初は仕方のない事だわ。
 アナタだってそうだった筈よ」
「そうよ。でも今は違う。だから教えてあげるって言ってるんでしょ。
 手取り足取り、丁寧な解説入りの実践見本まで付けてね」

実践見本って、まさか....。
ようやく話が見えてきたシンジに、ごっつイヤな予感が頭をよぎった。

「最初はお手本を見せてあげるって言ってるのよ。
 これでも、ダメなのかしら?」
「いえ。そういう事なら私は構わないわ」

いや、僕が構うんだけど...、とシンジは言おうとした。
が、そこでアスカにギロっと睨まれて、口にすることはできなかった。

「バカシンジは黙っていなさい。
 あんたが10年前にちゃんとするべき事をしていればこんな事にはならなかったのよ。
 病院で寝ていた可憐な美少女に変な事をしているヒマがあったんならね。
 そうすればサードインパクトだって未然に防げたのかもしれない。
 まったくこのバカは乙女心ってものがわかってないんだから。
 もっとも、私にとってはこうなって良かったんだけどね」

そう語る彼女の心境としても複雑なものがある。
サードインパクトが起きなければ、二人の心が通じ合うことはなかっただろう。
互いに意識していたのは事実だが、今のような関係に発展することはできたかどうか。

「まあそれはともかく、これでひとまず交渉成立ね」
「ええ」
「じゃあ次の話なんだけど、地球に着くまでの間、コイツは二人で共有って事だったわよね」
「ええ、そうよ」

自分のいない所で、彼の運命は決められていたようだ。

「でもアレは1本しかないわけだから、交代交代って事になるわよね」
「ええ」
「一晩ずつが良いかしら、それとも一回ずつの交代にする?」
「私はどちらでも構わないわ」
[なら一回ずつにしない?
 一晩おきなんて、私耐えられる自信がないから」
「いいわ」

ゲッ。と言う事は、最低でも一日2回って事か。
でも、それで終わりって決まったわけじゃないんだよな。
アスカが2回にしたら、綾波も対抗しそうだもんな。
ああ。地球に帰るまで、僕、無事でいられるんだろうか...。

反論の権利を奪われた可哀想な子羊は、自らの不幸を嘆いた。
残念ながら、彼の予想は当たる事になる。
ある意味、羨ましいとも言えるこの環境は、彼の苛酷な勤労奉仕によって支えられているのだ。

「それでモノは相談なんだけど...」
「何?」
「アンタの為に手本を見せている間は、アンタの分って事でいい?」
「ダメ」

少しでも自分の回数を多くしようと、彼女は努力を惜しむ気は無かった。
それは必ず報われる事を信じているからだろう。
だがさすがに、ちょっと虫の良過ぎる提案はにべもなく却下された。

「じゃあせめて中立として、どっちにもカウントしないと言うことで...」

それぐらい予想していたアスカは、すかさず条件闘争にはいる。

さらに続いて、食事中にイチャつく権利とか、シャワールームでイチャつく権利とか、操縦室でイチャつく権利とか、
『キスは一日10回までよ、癖になるからね』とか、
、 『口でスルのは回数に含めないわよ』『口で?』『勃たない時には効果的なのよ』とか、、
事細かに共有管理の規定が話し合われていった。

  ドナドナド〜ナ、ド〜ナ〜♪

頭の中を沈痛なメロディーが駆け巡り、ひたすらリフレインする。
シンジは、目を閉じ耳を塞ぎ、この悪夢の様な現実を締め出そうと試みた。

  逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。

だが、この狭い宇宙船の中、彼に逃げ場は残されてはいない。









「あの〜。そろそろ出発したいんですけど...」

最終チェックを終えてグリーンに灯るランプを前に、シンジは恐る恐る切り出した。
このまま放っておけば、どんな話になるか彼には想像もつかない。

「そうね。このままここにじっとしていてもしょうがないわね。
 とにかく発進しましょう」
「ええ」

アスカとレイがそれに同意したのを見て、シンジはボタンに手を伸ばした。

「待って。その前に決めて置かなくてはいけない事があるわ」

それを遮るように、アスカがのたまう。

「まず最初に、宇宙船には艦長、つまりリーダーが必要だわ。
 で、そのリーダーなんだけど...」

二人の同乗者を見渡しながら、アスカが続ける。

「品行方正、優秀美麗なアタシがわざわざ引き受けてあげようと思うんだけど、
 二人ともそれでいいかしら?」
「私は構わないわ」

こういう事にはレイはあまり関心がない。
シンジには反対意見を言う権利は与えられていない。

「じゃ、シンジ。私が合図したら、ボタンを押すのよ」

別にどうでもいいことだったんじゃないか、と思いながらも、渋々従うシンジ。
アスカ艦長は一息、吸い込んでから発進の命令を叫んだ。



「クイーン・アスカ、ゲーヘン!」



またそれかよ、とは思っても口には出さず、
掛け声に合わせてシンジはスイッチを押した。

エンジンに火がともり、船体にかすかな振動が伝わってきた。

主エンジンたるS2機関は宇宙船本体から約1km離れたところに据えつけられていた。
それが今や活性化し、供給される水分子を次々にエネルギーへと変換していく。
転換しきれなかった分子は過剰な熱を受取り、イオンへと分解されてプラズマを形成する。
そしてそれらはさらに後方に展開された電場ネットの引き寄せられ、収束し、
元々持っていた運動エネルギーが加速度的に増大していった。

船内からはとても肉眼で見ることは不可能であるが、
何百万kmも離れた地点からなら、それはさぞ美しい光景として目に移ったであろう。
噴射炎は白く輝き、蒼く光り、黄色に染まり、赤に変わり、そしてやがて見えなくなっていく。
だがその後方にさらに数十万kmもの長さにわたり、凝結した水分子がキラキラときらめく尾を形作っていた。



人工の彗星が、銀河の中を翔けていく。
かつてチルドレンと呼ばれ、今もチルドレンの心を失わぬ、三人の希望を乗せて。

地球へ帰還するための長い旅路が今、始まった。









      *      *      *









乾杯しかけたグラスを置いて、二人は入ってきた男を見つめた。
出ていった時とはあまりにも様子が違っていた。

「どうしたの、日向君」

マヤが先に声をかけた。

「たった今、ちょっとした連絡が入ってね。
 悪いけど今晩はこれ以上つきあっていられなくなった」

何か悪い事があったのか、
反射的に二人はそう考えた。

「何かあったの?」
「半月程前、海王星軌道付近に新たな彗星が見つかった事は知っているかい?
 共同発見者の名前をとって、それはムスコー・セルゲイエフと名付けられた」

小惑星と違い、新しい彗星の発見は最近ではそれなりに珍しいとは言える。
が、取り立てて騒ぎたてする程の事はない。
特に、ネオゼーレの総帥ともあろう重要人物にとっては。

「ところが先週、ISPの連中が星図を作るために再観測してみたら、軌道が変わっていると言うんだ」
「第一発見者達が計算を間違えたんじゃない?
 素人天文家には良くある事よ」
「二人とも、この道何十年のベテランだぜ。これまでに見つけた星も30は下らない。
 それにこの話はこれで終わった訳じゃない。
 再計算の結果、この彗星は地球軌道をかすめて飛ぶ事がわかった」

それは確かに滅多に無い事だし、大ごとであった。
だが、宇宙スケールで『かすめる』とは、数十万キロ以内に接近する、と言うことだ。

「それで、まさか地球を直撃するってわけ?」
「ああ。俺の予想が正しければ、間違いなくコイツは地球を直撃するよ」
「本当に?」
「実は修正された軌道だと、その頃には地球はちょうど太陽の反対側にある筈なんだ。
 太陽の周りを4回周った後の話だけどね」
「それがどうして....」
「発見はそれで終わりじゃあなかったからさ。
 この彗星の尾は、期待される角度から60度もズレているんだ」

彗星の尾は、太陽の熱に溶かされた氷が再凝結して形成される。
それらは太陽風に吹かれ、通常は太陽の反対方向に長く伸びていくものだ。

「それで再確認に手間取って、報告が今日まで遅れたんだとさ。
 この彗星は、自力で加速しているんだ」

自力で推進する彗星。
そんなものはあるわけはない。
あるとするならば、それは...

「宇...宙...船??」
「そう。他に考えようはない。
 弱くて補足しきれていないが、何らかの電波を発進しているのも確認された。
 そしてコイツは真っ直ぐ地球を目指しているんだ」
「うそ...」
「シンジ君の言っていたことは本当になった。
 ファーストコンタクトさ。
 僕はこれから急いでカリマンタンに飛ぶ」
「飛行機のシートはまだ空いているかしら?」
「一つじゃないよ、二つだ。
 もし、上級研究員が二人、長期休暇を取る事を君が気にしなければ、だが?」
「飛行機は2時間後に出ます。
 間に合いますか?」
「それは厳しいな。だが、もちろん答えはイエスだ。
 何があっても間に合わせるさ」
「そうね。そうと決まったら急ぎましょ」
「ああ」

それから数ヶ月が経ってはじめて彼らが真実を知る事になる。
期待された異星人とのファーストコンタクトは、今回は単なる夢に終わってしまう。
だがその時、彼らは落胆ではなくむしろ歓喜をもって、それを迎えるだろう。









客のいなくなった部屋には、S級機密保持要員の資格を持った無口なバーテンと、
乾杯される事のなかったグラスが2つ、残されていた。

グラスの中の氷が溶けて、カラン、と音を立てた。





































乾 杯 !
















































































チルドレン
子供たち



























・・・ 今度こそ本当に ・・・

終劇





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