世界名作ヒゲ劇場 名探偵ソシエ

 

 

 

   ターン1

 

 医師ロラン・ワトソンがベーカー街221Bへと帰宅すると、通りのガス灯は橙色のあかりをともす時分だというのに彼の借間にはまるで火の気がなく、耳をすましても物音ひとつ聞こえてこないというありさまだった。のぞき窓のおくにはただ薄闇がよこたわっていて、呼び鈴を鳴らしてもその状況は変わることがなかった。

 冬の倫敦は陽が落ちるのはおどろくほど早い。けれど時計の針はまだ夕食前といったところで寝静まっているとは思えない。しばしば徹夜をして昼夜逆転の生活をする同居人がいるはずだが、きょうの朝食の時間にはきちんと食卓に陣どっていて、届け物があるはずだから受けとりのために留守番をしているよ、という話であった。すると用がすんだのでぶらりと外出してしまったのだろうか。ためしに彼はドアノブをまわしてみると、施錠の手ごたえはなくあっさりと扉はひらいてしまった。

 異様な胸騒ぎにおいたてられ回廊に荷物をおきざりにし戸口をくぐった。手提げランプをつけて室内を照らす。かなり広々としているはずの居間は持ちこまれた物品の多さのためひどく雑然としていて狭苦しい印象をあたえる。もっとも、どうにか人が移動できるスペースだけは確保されていて、ランプを頭上にかかげ持つと書架とテーブルのあいだをぬって慎重に歩をすすめた。

 テーブルには得体の知れぬ液体にみたされたフラスコがずらりとならび、顕微鏡のプレパラートには怪しい緋色の粉末がのっているのがわかる。プレパラートの端には小さな文字で注意書があった。なにげなく視線を走らせるロラン。

『ゾンビパウダー 試作壱号』

 頬をひきつらせてプレパラートをくず入れになげこむ。

 ちょっと目をはなすと何をはじめるかわかったものじゃない――ふう。ひとつため息をつくと気をとりなおして居間の探索をつづける。科学(?)実験用テーブルをよこぎるとダイニングセット、さらに進むと赤い煉瓦をつみあげた暖炉がある。暖炉の内部をのぞきこむとほのかに明るくあたたかい。火格子のおくでわずかに灰が燃えていた。近くには暖炉をとりかこむように三脚のひじ掛け椅子がならぶ。その中央の椅子のかげですらりとのびた白い素足が床になげだされているのを発見する。ひきしまって適度なやわらかさをおびた若い女性のふくらはぎだ。頭上にかかげたランプを椅子の向こうに近づける。探偵ソシエ・ホームズがひじ掛けに片腕をよりかからせて床にたおれていた。その顔には苦悶の表情がきざまれていた。

 かけよって腕をとり脈をはかる。

 心肺機能停止中。

 逝ってます。

「わーっ!」とロランは絶叫した。「探偵が冒頭から変死してるっ!」

 名探偵ソシエの冒険――なぜか完。

「完じゃないですっ!」

 カメラ目線で一喝すると、ロランはソシエの肩をガタガタとゆする。

 ゆすりだすとソシエの口からユラユラと純白の物体があふれだした。

「わーっ! エクトプラズム吐いてるぅぅぅ!」

 半ベソ半パニック状態のロラン。

 とりあえず飛びでてきた白い怪物体をもとへ戻してみようとする。

「な、なんかネトネトしてる……」

 てのひらから伝わる異様な感触に泣き笑いのような表情になる。

「ソシエお嬢様、戻ってきてくださらないと困りますよー!」

「……げほっげほっ!」

 やおらソシエが蘇生した。なおもエクトプラズムらしき怪物体を口のなかにギュウギュウおしこもうとするロランの手をはねのけて、はげしく咳きこみながら少女探偵は立ちあがった。涙目で憤然と抗議をする。「やめなさいよ、死んじゃうじゃないのロランっ!」

 ものすごく元気だ。

 とても三秒前までは変死体だったとは思えない。

 はりつめていた気がいっきにぬけた。ほうけた顔つきでロランは指にのこった白い粘着物をソシエに見せる。「いえ、いましがたまで亡くなられてたんですよ……ほら」

「あん? ……あ、それはおモチ。なーんだ、失敗しちゃったのね」

「おもち……餅……ですか?」

「そうよ。実家から送ってもらったの」

「夕食ならぼくが用意するって言ったじゃないですか。なんでまた……」

「知らないの? わがホームズ家がクリスマスイブを祝う『聖なる刻飲の儀式』じゃない。暖炉で焼いた六個の餅をいっきに飲みこむのよ。十五歳になってもできないと成人として認められないんだからねっ!」

 途方もないことをこれ以上ないほどきっぱりと断言する。

 ロランは力のかぎり叫んだ。

「そっ、そんなムチャな風習がありますかっ!」

「あるんだからしょーがないじゃない。そうだ、ちょうどいいからロラン君もしましょう。はい、決定」パチン。さも名案というぐあいに両手を打ち鳴らしてみせるソシエ。

 ぎくり。ただならぬ雲行きに身をすくませるロラン。

 ソシエは、後ずさるロランにすりよりながら、今まで聞いたことのない甘くとろけるような声で宣告する。「二年遅れの成人式よ、ロラン君(ハート)」

「あの……もしやそれ、キエルお嬢様も……?」

 突然、実姉の名を持ちだされソシエは口惜しげに眉をひそめた。

「……お姉様は八個いったらしいわ」

「八個っ!」想像するのもためらわれる数字とその質量。ロランはひたいからヘンな汗が滴りおちるのを感じた。「知らなかった……いや、知らないほうがよかった……」

 現実逃避モードに入り、ブツブツとなにごとかつぶやくロランを尻目に、ソシエは嬉々として暖炉に薪をくべはじめた。あっというまに火の粉がパチパチとはぜる。そして、十二個の切り餅をいそいそと食卓から持ちだして焼きにかかる。ロランは大英帝国の女王、敬愛してやまないディアナ女王陛下を胸裡でおもいえがき語りかけた。ぼくは大ピンチですディアナさま、たすけてください、ぼくはお空の星になってしまいます。心の女王は沈痛な面持ちで言明するのであった。

(申し訳ないと思っています)

 そ、そんなー。

 ふいにチリリンと玄関の呼び鈴が鳴る。

 天のたすけか魔界の罠か。現実に立ち返ったロランはわらにもすがる思いで飛ぶように玄関へ向かった。ドアは開け放していたので来客のすがたはすぐに確認できた。長い黒髪の少女がひとり立っていた。気品とおとなびた雰囲気があるが顔立ちはまだおさない。身にまとうサテン地のきらびやかな夜会服はかなり上等なものだ。幼少の貴族令嬢といったところか。

「おそれいります。こちらは高名な探偵、ソシエ・ホームズさんのお宅とうかがいましたが、先生はご在宅でしょうか……?」

 おっとりとした口調でおさない令嬢は語りかけてきた。別世界から舞い降りてきたかのような、あまりに丁寧な物腰にロランは逆に恐縮して低姿勢になってしまう。ぺこぺこと頭をさげてこたえた。

「いえ、先生と呼ばれるほどたいした活躍はしていませんが、ソシエお嬢様はおります」

「じつはおりいってご相談したいことがありまして、なんの知らせもなく突然ぶしつけとは存じますが参りました。スコットランドヤードの手にあまる事件なので、リリ・レストレード警部にこちらを紹介していただいたのですわ。お話しだけでもよろしいでしょうか?」

「いや、話だけなんてとんでもない。ぼくは友人のロラン・ワトソンと申します。ひきうけました。それはもう、いますぐ早急にいかなる障害があろうとも事件解決に対処かつ尽力いたします。お任せください」

 ロランの決断は光速のはやさだ。両手でしっかりと黒髪の少女の右手をつつみこむように握り、ありがとう、ほんとうにありがとうございます、と涙ぐんでなんども礼を述べる。事情がのみこめない黒髪の少女はロランを見上げながら小首をかしげた。

「……あ、はい。それではよろしくお願いいたしますわ。わたくしは知世・バスカヴィルと申します。おもてに馬車を待たせておりますので、ご一緒にデヴォンシャーにあるわたくしの屋敷にいらしてください。くわしいことは道すがら説明させていただきますわ」

「はい。ソシエお嬢様に支度をさせるのでしばらくお待ちください」

 にこやかに一礼してロランが両手をはなす。なぜかねっとりとふたりの間に糸がひく。

 知世は温かい餅がついてネトネトする自分の右手を不思議そうに眺めてつぶやいた。

「あらまあ、エクトプラズムですわ?」

「………」

 

   ターン2

 

 馬車でパディントン駅に運ばれたソシエは、イングランド西部デヴォンシャー地方へと旅立つこととなる。下車駅はバスカヴィル領の中心である小村グリンペン。汽車の切符はすでに一等個室を手配済みであった。誘われるまま乗りこんだ急行列車はすっかり陽のくれた都をぬけでると、西へ西へと、轟音を蹴立て走ってゆく。

 やがて窓外の風景は著しく変わっていった。レンガ造りの家は田舎風の花崗岩の家へ。冬の大気はどこまでも透明に澄みわたり、夜空の星々はこぼれ降るような壮大な景観を呈する。青々とした草原、生い茂った樹木は、デヴォンシャー地方の肥沃な大地を物語っていた。

 しだいに付近には数えるほどの民家しか見かけなくなる。その民家もひとけがないものが多く、汽車が進むほどその傾向は顕著になっていた。知世の持つ地図によるとすでにこのあたりは彼女の家の領地だという。窓外の畑地や低い森のかなたにある小山にまでよく整備された石畳の舗装路が見受けられた。街道の整備は万全、資金はある。されど領民は少ない。ソシエは、車窓に目を向けながら、まるっきり似てない銭形警部のものまねで断言した。「贋札づくり〜」

「つくっておりませんわ」知世はにこやかに一蹴した。

 ソシエは顔のまえで手をひらひらさせた。

「かんたんな推理よ。ひみつの地下造幣局に送られた領民たちは、もう二度とお天道様をおがめないように地下房に家族ともども幽閉され、その一生を印刷機に捧げるのです」

「本当にかんたんな推理ですね。とゆうか妄想ですよそれ……」

 ソシエのとなりの座席でロランはつぶやいた。思いっきり眉間にしわがよっている。

 くすくすと知世はわらいながらまじめに応対する。

「バスカヴィル家は、精密機械の開発製造を営んでおりますが、印刷機はありませんわ」

「でもとりあえず紙幣の原版とかはある」

「ありませんわ。たぶん」

「ソシエお嬢様……ぜんぜん話が進みません。ちょっとだまっててください」

「なによロラン君。あなたどっちの味方なのよ」

「あう……」

「ふふふ。まあまあ、おふたりとも仲がよろしくて羨ましいですわ」

「そう思う? そう思う? 知世ちゃん、あなたイイコねー」

 急にご機嫌になってしまうソシエ。ついさっきまで容疑者扱いしていたくせに、向かいの席にいる知世のとなりにわざわざ移動し、気安く肩にうでをまわして言葉をつづけた。

「それで、事件についてどこまで話したんだっけ?」

「まだなにも話しておりませんわ」

「遠慮しないでお姉さんにどんどんフランクに話してちょうだい。なんならフランクフルトやフランク永井の話でもかまわないのよ」

 かまうだろ、それじゃ。

 ロランはぺこぺこと頭をさげた。

「すいません。ソシエお嬢様は、変死からかえってきたばかりなので、酸素欠乏でちょっと脳が不自由に……」

「だれがアムロの親父やねん。チョップチョップ」

「あうっ、あうっ」

 空手チョップをロランの顔面に嬉々として連発するソシエ嬢。そんなふたりをほったらかしにしてマイペースでのほほんと知世は語り出した。

「くすくす。楽しい方たちで心強いですわ。……では、順を追って説明するのでしたら、まずは、十八世紀中頃のこちらの記録からになります」

 知世はブリーフケースからとても古い書類をとりだしひざに置いた。書類は黄いろく変色している。上部に『バスカヴィル館』とありその下に『一七四二年』と大きく走り書きしてある。チョップ連発を中止したソシエはそれをのぞきこみ、

「なにかの陳述のようね」

「そうですわ。これは古くから伝わるバスカヴィル家の伝説をはじめて記録に残したものなのです」

「……しかし、あなたが相談なされたいのはもっと近代的な実際問題なのでしょう?」

「そうですわ。まったく近代的な緊急の実際問題ですわ。二十四時間以内に解決してしまわないとたいへんなことになるでしょう。これはそう長い記録ではありませんし、問題の事件と密接な関連がありますので、お許しをえてここで読み上げたいと思います――」

 

 バスカヴィル家の犬物語の出所因縁については、世上さまざまな説があるが、余は父ヒューゴー・バスカヴィル正統の嫡子として、祖父から父へ語り継がれた物語を、余もまた父より聞き継いだので、これはまことに起きたものと信じて、事の真相を伝えるべくここに書き残す次第である。罪を罰する神もあれば、慈悲深く罪を許したもう神もあるというではないか。息子たちよ、いかに恐ろしい呪いといえども、祈りと悔い改めることによってとり除かれないはずはない。されば余がいまここに語ろうとする物語を読んでも、それは過去の凶事であって、何ら怖れるには及ばず、むしろ将来に対し慎重な用意を為せば、わが祖先をかくも苦しめ悩ませた禍根を絶つことも容易であることを、自ら覚るであろう。

 さて、かの大反乱時代(一六四二年英王チャールズ一世の悪政にたいする反乱より一六六〇年その子チャールズ二世の復古にいたるまでの革命時代)のころであった。当バスカヴィル領はヒューゴー・バスカヴィルの領有であったが、この者は気性荒く神をおそれぬ男であったという。当時この地方は聖者の恩恵を受けることが少なかったので、それくらいのことならば隣人たちも大して意にとめなかったであろうが、彼ヒューゴーの神を冒涜すること尋常一様ならず、加うるに性質は野蛮、残酷であったが、西部地方ではその悪名を知らぬ者はないまでに指弾されるに至ったという。

 このような時、彼はバスカヴィル領にほど近いある小地主の娘を愛するようになった。しかしいとも貞淑で近隣の評判も良いこの娘は、ヒューゴーの悪名を知ってこれを恐れ、つねに彼を避けて応ずる気配もなかった。するとある年の降誕祭の夜に、ヒューゴーは娘の父親はじめ家人の留守をねらって、無頼の徒党五、六人を引き連れひそかに彼女の家に忍び入り娘を奪い去った。

 こうして彼らは娘をヒューゴーの館に運びこむや、階上の一室に幽閉して、自分らは階下に集まり長い酒宴を始めた。あわれにも娘は階下からの部屋も破れんばかりの放歌叫声、罵詈怒号を聞いて生きた心地もなく途方にくれるのみ、ただわなわなとふるえおののくのみであった。娘はついにおそろしさに耐えかねて、屈強な男でもためらうであろうに、南側の壁に生い茂る蔦をたよりに、必死の覚悟で窓をつたい降り、あやうくも逃れでて父のもとへ九マイルの沼沢地をただ一人、かよわき足で走り去ったのである。

 ほどなくしてヒューゴーは客人を残して娘のもとへ飲食物を運んでいったが、篭の鳥は逃れてもぬけの空であった。彼は悪鬼のごとくたけり狂い、階段をひと飛びにかけ降りて酒席に乱入するや、客人が囲む大テーブルの上に突として躍り上がり、酒びん、皿を蹴散らしてわれ鐘のごとき声をはりあげ、明日といわず今宵のうちに娘を取り返すことさえできれば、この身と心を悪魔の前に捧げてやると怒号した。

 満座の者どもは猟犬を放って娘を追わせろと叫んだ。それを聞くとヒューゴーは、馬に鞍おけ、犬舎の戸を開け放てと呼ばわりつつ、悪鬼の形相ものすごく前庭に躍り出るや、娘が残したハンカチを犬どもに嗅がせ、おのれは悍馬に一鞭をくわえると犬とともに月光冴える沼沢地をさして飛ぶがごとくに走り去った。

 さて、満座の酔漢どもは、意外な珍事にしばし呆然としていたが、やがて総数十三騎、くつわを並べて追跡に向かった。皎々たる月光のもと、家路をさして逃れゆくあわれな娘がたどったと思われる方向をさしてひた走った。

 やがて一、二マイルほど追ってゆくうちに彼らは沼沢地に夜をすごす羊飼いに行き合ったので、もしやこのあたりで追跡する猟犬の群れを見なかったかと問いかけると、かの男はあわれな娘とあとを追う猛犬の一群を見たと答えた。「しかしわしが見たのはそれだけではない」と男は言葉をついで、「ヒューゴー・バスカヴィルが黒毛の馬にまたがって駆けてゆく後からは、神も放つを禁じ給うという地獄の犬が嵐のように追いかけて行くのを見た」と。

 酔いどれの一団は、口々に羊飼いを罵りちらして、なおも馬を飛ばしてゆくと、まもなく彼らは慄然として冷水を浴びたようになった。ぬしなき黒毛の馬が一頭、白い泡を口から吹いて空の鞍に手綱を長くうしろにひき、沼沢地を疾駆してくるのにあったのだ。彼らはおそるおそる進みゆくと、ついに猟犬の群れを見いだした。けれども犬どもは日ごろの猛々しさにも似ず、頭をたれ尾を巻いて群れ、物おじしたように逆毛を立て、眼下の深い窪地をのぞきこんでは後ずさりしている様子は、ただごととは見えなかった。

 大かたの者は前進をためらったが、中でももっとも気性の荒くれた者三人、意を決して窪地へ馬を乗り入れた。窪地の底は案外に広く、中に巨大な岩が屹立していた。これはいつともわからぬ遠い昔、このあたりに住んでいた人々が運んできたものと伝えられている。月は明るく照りわたり、岩の間には怖れと疲労のために、あわれにも命絶えた娘が倒れ伏していた。

 ああしかし、彼ら三人の猛者が慄然としてうちふるえたのはその娘の死体ではなかった。また娘の近くに倒れているヒューゴー・バスカヴィルの死体でもなかった。それは犬のかたちをしているけれどもどんな犬にもまして巨大で獰猛な黒い獣が、いまやヒューゴーの死体に乗りかかり、喉もと深く食い入っている物凄い光景であった。しかもその怪物はヒューゴーの喉笛を食いちぎるとともに、その下あごに血潮を滴らせつつ、らんらんたる眼光するどく三人をにらみつけたのである。さすがの荒武者どもも恐怖のあまり悲鳴をあげてやっとの思いで逃れ去ったが、その中の一人はその夜のうちに生命を落とし、他の二人も魂がぬけたような状態になって、廃人として余生を送ったという。

 息子たちよ、これがわがバスカヴィル家累代の怖るべき呪いとなった物語の顛末である。わが家の正統を継ぐものの多くが、突如として神秘なる横死をとげたことは否定できないけれども――願わくは神の無限の慈悲がわれらをお守りくださらんことを――神の怒りは三代四代にして解くべしと聖言にもある通り、ふかく神を信じて行為をつつしめば、いかなる呪いものがれられぬということはないであろう。息子たちよ、用心して暗い夜に沼沢地を過ぎてはならぬ。暗いところには必ず悪魔が跳梁するであろうから心せよ。

 

 知世は、この不思議きわまる物語を読みおわると、ソシエ・ハイムの顔をじっと見やった。ソシエはあくびをひとつもらして、フロックコートのおくから焼き上がった餅をとりだして優雅な動作で口に運び、モグモグと頬ばりながら「それで?」とこともなげに訊いた。

「おもしろいとはお思いになりません?」

「そう、お伽話の研究家にとってはね。あたしのような犯罪の研究家にとってはいささか退屈であるかもしれない」

「それではこちらはどうでしょう」

 つぎに知世はおりたたんだ新聞をとりだした。ひざの上でひろげられたそれにすばやく視線をはしらせ、ソシエはこころもち身体をのりだし、つぶやくように語った。

「十二月三十日のデヴォン新聞。チャールズ・バスカヴィル卿の死亡記事ね。およそ一年前――ヴァチカンのカメオ事件で奔走していたころだわ。ローマ法王を安心させるためにかかりっきりになっていたせいで、どうやら英国内のおもしろい事件をいくつかとりこぼしていたみたいね」

 すでに万事なっとくした表情である。逆位置のため記事をまともに読めないロランは説明を求めた。ソシエは平然とした顔つきで、

「先代のバスカヴィル当主の急死を報道したものよ。去年の十二月二十五日、バスカヴィル邱の庭、イチイの並木路のはずれで老齢の先代は呼吸困難と心臓疲弊により、だれにも看取られず亡くなったそうよ。以前から心臓の発作があったそうだから、検死陪審団も、主治医だった医師の診断にもとづいて『他殺ニアラズ』の評決をくだしているわ。当時、雨のため地面は湿っていて先代の足跡はのこっていたけど他には発見されず、他人とあらそった形跡もない。莫大な遺産を相続するはずの血縁者は同居していない。その居所もわからないため目下各方面を捜索中――ここまでは公表されている事実というやつ」

 ここでいったん、ロランに向けていた顔を知世にかたむけた。

「そして、あなたが遠路はるばる日本からいらした新バスカヴィル卿というわけね。大英帝国にようこそ。……しかし、まだ倫敦にいらして三日とたっていないのに、夜汽車ではじめての里帰りとはお身体にさわりますよ」

「あらまあ」と知世は目をパチクリさせた。「柔術や日本のことにお詳しいソシエさんがわたくしの出身地を当ててくださるのは合点がゆきますけれど、なぜ滞在期間までおわかりになりますの? それに、小学生のわたくしが新領主だとなぜ?」

「まず、あなたの左手にはめられた、古いがつい最近サイズ調整された指輪。バスカヴィル家の紋章である野猪の頭が彫刻されていますね。紋章を身につけるのは准男爵の爵位を受け継いだしるしだし、爵位に領地と財産は付随してころがりこむものなのよ。滞在期間は、そのお召し物を見てすぐにわかるわ。買ったばかりで保護用クリームもぬってない靴――すこしも土がついていないから、都会の街中しか移動していない。そして、アイロンのにおいしかしない真新しい服。英国についてすぐ倫敦のホテルに泊まり、そこの出入りの仕立て屋で、貴族相応の身なりを整えてもらったのね。あがったのはお昼ぐらいでしょう?」

「そのとおりですわ。配達されたものにすぐそでを通してスコットランドヤードに。そのあと、ベーカー街にうかがったのです」

「ホテルの出入りの仕立て屋は、二日ていどでドレスが縫えなきゃやっていけないわ。あわただしい旅行客相手の商売だもの。ただ、生地自体は最上級の部類だけれど、急ぎ仕事でお針子はまるで休めなかったみたい。手のかかるところの縫い目はとても褒められた状態ではないわよ」

「まあ……そう言われてみると、あまり丁寧な仕事とは言えませんね」知世は自分の夜会服をチラチラと見下ろして、やや頬を赤らめた。「お恥ずかしいですわ。長い船旅のすえさいごの目的地グリンペンにようやく着くのかと思い、少し浮き足立っているようです。まるで気づきませんでしたわ」

「いえ、そんな些細なことはお忘れくださいな。遠路のつかれも先祖の家に腰をおちつけて聖夜をむかえれば自然と癒されるでしょう」

「ソシエさんにそう言っていただけると助かりますわ」

 おだやかに語りかけるソシエ。名推理の片鱗にふれ、彼女を見上げる知世の眼差しはただまっすぐである。すなおな尊敬と信頼の色がこめられている。

 妙な空気であった。妙な空間であった。

 ロランはキツネにつままれたような顔をしてつぶやいた。

「ソシエお嬢様……まるで探偵みたいだ……」

「だからあたしは名探偵だって」

「そっ、そうでした。世界に名をとどろかす英国の名探偵ソシエ・ホームズ……難事件怪事件をつぎつぎと解決し……ぼくの出版した捜査記録によってその実績と名声はつつうらうらに知れ渡っている……そうです。そうでした。あは。あはは……」

 まるで自己暗示をかけるようにロランは自分に言い聞かせている。しかし、どこか納得しきれていないことが愛想笑いのぎこちなさで露呈しているのであった。ロランはそっと心の女王陛下に告白した。何かが狂っています、ディアナ様。よくわからないのですがこの世界はなにかおかしいような気がします。ぼくがまちがっているのでしょうか? 心の女王は沈痛な面持ちで言明するのであった。

(晴れた日は電波がよく届くと言いますからね)

 そ、そんなー。

 惚けているロランを横目でいぶかしげに一瞥してから、ソシエは貴族令嬢の話の核心にせまるべく、足を組んで頬杖をつくとするどい眼差しできりだした。

「それではそろそろ聞かせていただくわ。公表されていない事実のほうを」

「はい」深々と知世はうなずき、自分の胸に手を置いて硬い表情で、

「遺言執行者として後継者探しの指揮をされたステープルトンという方が、バスカヴィル家の近所に住んでいらっしゃるのですが、こと細かく、わたくしに幾度が連絡やとりつぎの手紙を送ってくださいました。はじめて足をふみいれる先祖の地について、日本にいながらこんなにもくわしいのはその御方のおかげなのです」

 知世はブリーフケースから、封筒に入れたまま束ねた数通の手紙をとりだしてソシエに見せた。おもての消印は今年の八月からだった。束はよこから見るとゆうに厚さ五センチほどある。これだけ綿密に報告書を作成できるのなら差出人はよほどの教養の持ち主であろう。

「デヴォンシャーについて、当家の家柄とその呪いについて、そして最後に先代の事件について。……そこには、『遺体の発見者である館の使用人たちは、ひとつだけまちがった答弁を検死官の査問でしている』とありました。おそらく故意ではなく、見落としたのでしょうが……遺体の付近の地面にはなんの痕跡もなかったと彼らは答えていますが、ステープルトンさんは、はっきりとして新しい痕跡を少しはなれたところで発見なさいました」

「足跡ね?」

「そうです。足跡ですわ」

「男の? 女の?」

 知世はいまにも泣き出しそうな不安にかげった面差しになり、ソシエたちの顔をまじまじと見てから、消え入りそうなほど声をおとしてほとんどささやくように答えた。

「それは……とても巨大な犬の足跡なのです……」

「………」

 ソシエは口を閉ざし、ロランも知世の話にひきこまれ無言で耳をそばだてている。

「そして、事件の前後、近くの山村の人々のあいだに奇妙なうわさが流れていたそうです。らんらんと光る双眼、火を吐く口、全身を青い炎で燃やす仔牛ほどもある巨大な黒い犬を見かけたという声が……」

 

   ターン3

 

「………」

 沈黙のソシエ。

「………」

 沈黙のロラン。

「………」

 沈黙の知世。

「あははははははっ!」

 ソシエ、爆笑。

「……あら?」

 あさっての方向にずっこける知世。

「なんでここで笑うんですかっ!」たまらずロランがツッコむ。「ぼくはぞっとして鳥肌がたちましたよ。一世紀以上もつづくバスカヴィル家の魔犬の呪いがこの現代にも復活したということじゃないですかっ!」

 ひとしきり笑いおえたソシエは、満足げな顔つきで座席の背もたれによりかかった。

「ばかを言っちゃいけないよロラン君? 少しも不服はないのよ。火を吐こうが青かろうが黒かろうが問題じゃないわ。お伽話から、われわれの指先がとどくこの時代にまで、祟り犬が鼻をクンクン鳴かせてすりよってきてくれたんだから。シャンパンを一本あけたいくらいの朗報じゃない?」

 ロランは自分のひたいに片手をあてて天を仰いだ。「ああ、もう……こわいもの知らずなんだから、お嬢様は……」彼の不安をよそにソシエの瞳はするどい輝きをともしていた。ソシエのこの眼つきはいつでも彼女が強い関心を持ったことを示すものなのだ。

 とつぜんロランは決断し、すっくと知世の手をにぎって立ち上がった。

「いまからでもおそくはありません。倫敦にひきかえしましょう。あなたは由緒ある旧家のひと粒種、魔犬が実在するかどうかはぼくたちだけで調査すればよいことですし、依頼主の身が危険とわかっていて見知らぬ土地に連れてゆくわけにはいきません」

「はあ……。すみません。ロランさんがおっしゃることはわかりますが、屋敷を預かっているものには今宵帰ると伝えてありますし、そんなにだいそれたものではありませんが、降誕祭のパーティーと同時に正式な爵位の任命式も執り行われるそうなので、もう後戻りはできないのです」

「あう……」

「ロラン君、しゃんとしなさい。みっともない」眼をキラキラさせたままソシエがたしなめた。「だいいち、超自然の魔性が倫敦にいるから見逃そう、デヴォンシャーの館なら襲ってしまおうなどと分別してくれる? 教区牧師じゃあるまいし、一区画限定の魔力なんてありはしないわ。悪運とはどこにいても、ついてまわるものよ」

「ですけど、お嬢様……」

「倫敦は人が多すぎて守りにくいじゃない。辺鄙な土地は近所づきあいが盛んでみな知った顔ばかり、不審人物もみつけやすくて異変の発見もたやすいわ」

 ものはいいようである。すべて良い方向に進んでいるように聞こえてくる。とはいえ、口でロランがかなう相手でもなくどうしたものかと考えはじめた矢先、個室のドアにノックの音がひびいて、車掌がグリンペンに到着する旨、連絡におとずれた。

 

 汽車がさびしい小駅に停止した。プラットホームを降りてみると白塗りの柵のそとに二頭の馬をつないだ田舎馬車が待っていた。なにぶん小さな駅なので、あきらかに都会風の身なりをした若い三人がぞろぞろと降り立ったの大事件らしく、駅長みずから赤帽を指揮してよってたかって荷物を運び出してくれた。

 御者は眼鏡をかけた色白の青年で雪兎・パーキンスと名のった。純朴で、物腰やわらか、虫も殺さぬいかにも人の良さそうな若者に見えた。彼はあたらしい主人、知世・バスカヴィル卿にていねいに一礼して、馬にひとむちくれると、まっしろにかわいた広い田舎道をいっさんに飛ばしていった。道の両側には海原を思わす牧場が起伏しながらしだいに高くなってゆく。この平和な村のかなたには、うすい藍色にかすむ山々に区切られて、陰惨な沼沢地が夜の底にひろがっているのだ。

 やがて、馬車はわき道にはいると、幾世紀もむかしから轍のきざまれた小路をまがりくねってうねうねと登っていった。朽ち葉が路上に散りつもり、過ぎゆくソシエたちの頭上にもはらはらと降ってくる。堆積した朽ち葉は車輪の音さえ消し去っていた。

 外にくらべればまだましだが車中は冷やこんできた。暖房が効きすぎていた汽車になれていたせいもあるが知世はしきりに外套のえりをかきあわせている。わずかに吹きこんでくる外気をさえぎるようにソシエはぴったりとその横によりそっていた。ちらりと御者席の青年の後ろ姿をながめてから、ソシエは口をひらいた。

「ずいぶんとまた若い御者ね、田舎にしちゃめずらしく。馬のあつかいをみれば本職の本物であることはまちがいないけど、油断しちゃだめだからね――とくにロラン君」

「油断って、なんにです?」ロランはふしぎそうな顔で訊いた。風音のせいで御者には声が聞きとりづらいと予測してか、ソシエはふつうの口調で、

「館の使用人の言動にはすべて気をつけろ、ということよ」

「ひょっとして亡くなられた先代は人間の犯行であったとお考えですか?」

「正確には、伝説の魔犬をよそおった犬をつかった、人間の犯罪ということになるわね。直接、手を下したかどうかはともかく、殺意があったならそれは犯罪と立証できるのよ」

 ソシエは知世の横顔に顔をかたむけて問う。

「ところでレストレード警部はどうしてた? レストレード領主の十三番めの末娘――いわゆる貴族刑事とはいえ、公僕が重要人物の警護をほったらかして民間にまわすなんて、ぶったるんだ話よね、実際。ヤードはうちの姉が警視監なんてしてるくらいだからよっぽど人材が不足してるんだわ」

「はあ……。そういえば、ソシエさんのお姉様が警察幹部だとロランさんのご本にありましたが、警視監でいらっしゃいますの――」

「……ソシエお嬢様。身内をわるくいうのはお嬢様の悪いクセですよ」

 渋面になったロランが口をはさむ。だまってなさい、という剣呑な目つきでソシエはロランを牽制して、知世のつづきの言葉を待った。場の空気に圧力を感じてかおずおずと知世は言った。「秘密の任務なので口外はとめられていたのですが、ソシエさんならよろしいですわね。警部も、重要人物の警護にかりだされているそうで、とてもお忙しそうでした。スコットランドヤードはたしかに人員が不足していますから、応対に時間をさいてくださっただけでも感謝していますわ」

「ふーん。准男爵をそでにするようなら、相手はどこぞの伯爵様かしらね」

 基本的に特権階級や成金趣味を嫌うソシエは、いやみを含ませてつぶやく。

 フォローのつもりかロランが気弱げな笑顔でこたえる。

「ヤードの辣腕警部リリ様が出向くのですから、女王陛下の警備かもしれませんね。ディアナ様は、国中の孤児院にクリスマスの贈り物を手配してますし、そのうちのどこかに訪問もされるのでは……」

「ふむ、推理としては時節柄もっとも的確だけど、すなおに褒められないわね。なにかにつけて『ディアナ様〜ディアナ様〜』じゃないの、あなた。なんかムッカツク〜」

「あう……」

 一波乱おきた車内をよそに馬車が坂道を登りつくす。

 眼界が急にひらけてあちこちに峨々たる堆石があり、その間にシダのしげるひろやかな沼沢地が展開してきた。そこは荒涼とした不毛の地である。沼の間にはいばらのしげった小山もぽつりぽつりと散在していて、その山腹には古代人がのこしたという奇妙な石造りの住居跡が無数にあった。

 ロランいじりを途中でなげだし、ソシエは車外に眼を向け歓声をあげて、

「わあ! これはちょっとしたものね。さきほどの怪談話にあった沼沢地とは、この一帯ということでまちがいなさそうだわ」

 知世がうなずいた。

「そうですわね。沼のなかには羊や牛、野生馬までも飲みこんでしまうという『グリンペンの大底なし沼』と呼ばれるものもあると聞きましたわ」

「へー」ソシエは感心してうなずいてから、車外をゆびさして、

「あっ、インド象がパオンパオン鳴きながらハマってる。かわいそー」

「動物園から逃げ出したはぐれ象でしょうか……。さすがの森の賢者も底なし沼にはかなわないのでしょうね」

「あっ、あそこですごいでっかい紫色のものが大暴れして沈みかかっているわね。なにかしら?」

「エ、エヴァンゲリオン初号機みたいですわ……(汗)」

「あの砲塔と艦橋がかろうじて残ってる船は?」

「ヤ、ヤマトですわ……(大汗)」

「聞きしにまさる壮絶な光景ね。来たかいがあったわ。うんうん」

「……ものすごく嬉しそうですね、ソシエお嬢様」ロランの顔色はただ青白い。「用心して暗い夜に沼沢地を過ぎてはならぬ、暗いところには必ず悪魔が跳梁するであろうから心せよ――バスカヴィル家のご先祖様の警告、おぼえてます?」

「悪魔がこわくて赤いきつねが喰えるかっ!」

「……意味わかんないですよ」ロランはがっくりとうなだれた。

 さらに荒地をつきすすむと、草木の間からひょろりと高い塔がふたつ浮かび上がった。それを御者は鞭でさして、

「バスカヴィル館ですよ、お嬢様がた」と後ろをふりかえって声をはりあげた。

 それから二、三分で、馬車は館の門に着いた。

 門口には門番小屋があり、門扉は夢幻的な薔薇の模様をとりいれた鉄格子で、左右二本の蔦のからまる太い柱に支えられている。門番小屋は廃墟だった。

 廃墟の奥から、前後ふたつのタイヤとフレームだけの車にふたりの少女がよりそって寝そべり、

「世界を革命する力をーっ!」

 と、たがいに叫びながらソシエの馬車の横をすりぬけて疾走し、あっという間に道のかなたへ消えていった。

 ………。

 ほんとうに伝説の地とは尋常ならぬところであった。

 車中の三人はひたいをよせあい、見なかったことにしよう、と暗黙の了解をとりあった。

 カメラ目線でロランがきびしい顔をする。「意味わかんないですよ、もう!」

 

   ターン4

 

 門を入ると並木路で、両側から大きな老樹が枝をはって星明かりさえ通さぬトンネルをなしていた。知世はトンネルの終端、はるか彼方に幽霊のようにたたずむ屋敷を見て、ソシエのとなりで小さく身ぶるいをした。

「あ゛ー」脱力しているソシエが、ふにゃらけた声でうめいた。「なんだか自信なくなってきたけど、あたしたちがついてるから気をしっかり持ってね、知世ちゃん」

「あの……励ましてあげるのは宜しいんですけど、ここまで来といて自信ないとか言わないでくださいよ」

 落ちこみきった低い声でロランは感想を述べる。ふう、と彼はため息をひとつして刻々と近づいてくる館をながめた。並木路を出るとひろい芝生があって、そこに館の建物はたっている。中央は大きな建物で、そこから玄関のポーチがはり出している。この中央部には銃眼や小窓のたくさんあり、先ほど遠くから目にした古い塔がふたつ、角のようにそびえ立っていた。その左右にはいくらか近代様式の黒花崗岩の建物が翼のようにひろがっている。

 馬車が玄関の前でとまると、ポーチの暗がりから、やけに小柄な人影が馬車のドアを開けにトテトテと駆け降りてきた。

「知世様、いらっしゃいませにょ! お館の一同つつしんでお迎え申し上げますにょ!」

 車内の三人は凍りついた。

「――あ、ドアが高すぎて開けられないにょ〜。かってに中から開けてくれにょ!」

 ロランが涙目で叫んだ。

「語尾に『にょ』って言ってますよ、ちょっと!」

「ええい、うろたえるでない、男の子でしょっ! 鉄のように硬いブリキの金魚を股間にぶら下げてるんでしょ!」

 ソシエの返答も意味不明だ。

「と、とりあえず外に出てみましょう」

 知世がうながした。車内で下ネタつきの口論をしていてもはじまらない。

 おそるおそる三人は馬車を降りた。

「でじこにょ! デ・ジ・キャラット星の第一王女、誕生日は二月八日のO型、がんばり屋さんでチョッピリうかつものの十才にょ!」

 三人はやっぱり凍りついた。

 もはや目をそむけることも許されないほどの自己主張であった。

「エライとこ来てしまいました、お父様……」

 ソシエはまぶたの父の、下駄のウラそっくりないかついヒゲ面に語りかけた。

「ディアナ様、さあ家へ還りましょう……シチューが美味しくできましたよ……」

 ロランは壮大な幻覚を見はじめていた。

「ともかくゲーマーズってまっ黄色の看板はなさそうですわ……」

 若さゆえか知世は案外たちなおりが早かった。おずおずとでじこに訊ねた。

「あなたは、えーと、この屋敷の人ですわね?」

「そうにょ! この可憐なメイド服をみれば一目瞭然、お屋敷の美少女メイドにょ!」

「はあ……。十九世紀末ヴィクトリア時代の空気を、金属バットでたたき割るような底抜けな明るさですわね……」

「ありがとうございますにょ!」

 べつに誰もほめてない。

「こちらのおふたりは、倫敦からいらした探偵のソシエ・ホームズさんとロラン・ワトソン博士ですわ。丁重におもてなししてください」

「わかったにょ! お食事の用意はしてあるけど、知世様は召し上がりますかにょ?」

「いただきますわ。この方たちの分も用意してください」

「かしこまりましたにょ!」

 でじこに案内され三人は玄関を入っていった。入ったところは天井の高いひろくて立派な部屋で、梁も時代がついて黒光りする樫の木づくりだった。大きな古風な暖炉には裸火が気持ちよく音を立てて燃えていた。夜の馬車旅で冷えこんでいた三人は、さっそくその火に手をかざして暖をとった。それから、古いステンドグラスをはめこんだ高い窓や、樫の木の羽目板や、牡鹿の頭部の飾りものや、壁に塗りこんだ野猪の紋章や、中央につるされたランプのほのかな光など、あたりのようすをつぶさに観察した。

 まさによくある旧家の絵そっくりの広間であった。一種荘厳な感にうたれ、三人はしばし言葉を失っていた。

「知世様もお客様も、しばらくここで待っているにょ。食堂の準備がすんだら迎えに来るから、どうぞコートを脱いでくつろいでいるがいいにょ!」

 荘厳な空気を、またもや金属バットでたたき割るようにでじこが言った。立ち去ろうとするでじこの背中をソシエはするどく呼び止めた。

「待ちなさい。その食事をつくったのは、まさかあなたじゃないでしょうね?」

「にょ? ちがうにょ、でじこじゃないにょ?」

「………」

 ソシエは『自分のことを他人ごとのように名前で呼ぶな』と叱りつけたいのを、こぶしを握ってぐっとこらえて、つづくセリフをしんぼうづよく待った。

「料理はうさだがしてるから、でじこは、なにが出るか知らないにょ?」

「そう、まったく知らない――知らないならそれでよし。行ってよろしい」

「にょ? じゃ、でじこは失礼するにょ」

 ばたん。大きくドアのしまる音を立てて退室するでじこ。今まで見たことのないような気難しい表情のソシエにロランは訊ねた。「どうしたのですか、お嬢様?」

「いや、地球外生命体に命をあずけるのは……さすがのあたしも遠慮したくてね……」

「なるほど。お気持ちはわかります。とりあえず地球人の料理でよかったですね……」

 ふたりは通夜のような暗澹たる表情を床にうつむかせた。知世はなんと声をかけてよいのかわからず途方に暮れてる。一瞬、重苦しい沈黙が部屋のなかを満たした。

 ふいに、玄関から扉をあけて雪兎青年の声がした。

「知世様、お荷物は裏口から運びこんでおきましたよ。それと、お客様です」

「ご苦労様です。どうぞお客様を中へ。もうなにもきょうは用事はないと思うので、雪兎さんはお休みにってください」

「わかりました。ではお暇をいただきます。――ステープルトンさん、どうぞ。新領主、知世・バスカヴィル卿です」

 雪兎青年が背後に呼びかけると、入れ代わりにまたしても眼鏡の男が二、三歩前に進み出て一礼をした。知的な印象の背のたかい紳士で、年は三〇代後半くらいであろうか。眼鏡の男のうしろでは、ちょうど知世とおなじくらいの背格好の少女が気恥ずかしさと好奇心で頬を赤らめている。ショートの栗色の髪とつぶらな瞳が愛くるしい美少女であった。

 まず知的な紳士が口をひらいた。

「夜分に失礼とは思いましたがご挨拶にまいりました。私はお屋敷の近くのメリピット荘に住んでいる藤隆・ステープルトンという考古学者です。先代のバスカヴィル卿には、遺跡研究のお許しをいただき、たいへんよくしていただきました。お嬢様には、何通かお便りをお出ししましたが、憶えておいででしょうか?」

「そうですか、あなたが……。もちろん憶えておりますわ。当家の相続問題でご迷惑をおかけしたようで、明日にでもこちらからお礼にうかがわなくてはいけないと思っていました」知世は深々とていねいにお辞儀をする。頭を上げると微笑を浮かべ、

「どうぞ、おふたりとも暖炉の近くにお座りになってください。あいにく使用人はおくで夕食の支度をしておりますので、わたくしがお茶を用意いたしますわ」

「いや、お構いなく。本当に挨拶だけに来たものですから、私どもも手土産ひとつ用意しておりません。たったいまご到着したことはわかっていました――メリピット荘はお屋敷への一本道のそばにありますので。お邪魔するのは、お食事の準備が整うすこしのあいだで結構です」

 紳士と美少女は連れだって室内に入ってきた。暖炉のまわりに置かれたひじ掛け椅子に招かれて近づいてゆく。

 知世は、ランプの灯に照らし出され、次第にくっきりと見えはじめた美少女の容姿に、まるで魂を奪われたように眼を釘づけにしてかたまった。そして、うっとりと思わずつぶやいていた。「か、わ、い、い、ですわ〜(ハート)」

 なにが起こったのか気づき、傍観していたソシエとロランは顔面をひきつらせた。

「ソシエお嬢様、これって……。知世様の眼が、別人のようにキラキラ、とゆーかギラギラ光りはじめたのですけど……」

「ロラン君。みなまで言わなくてよろしい。とゆーか……たのむから言うな」

 尋常ならぬ発作的な行動だった。貴族令嬢の気品をかなぐり捨てて知世は美少女のもとへかけよった。いきなり両手をにぎられて美少女は立ち止まり、知世の顔をまじまじと見かえし、眼を点にして無邪気なつぶやきをもらした。「ほえ?」

 知世は、ふたつの瞳に大きな星をぽっかりと浮かべながら、さわやかに告白した。

「結婚を前提としたお付き合いを申しこみますわ!」

 ずざざざざー。ソシエとロランは、床を三メートルほど頭からスライディングした。

「いろいろなものをすっとばして、いきなりアブノーマルな展開になりましたね……」

「耐えるのよロラン君。探偵は、ときには忍耐こそもっとも必要とされるのよ……」

 両手をしっかりと握りしめられた絶世の美少女は、顔中を『?』マークだらけにして石化している。上半身は弓なりにうしろへ反りかえっていた。二、三度、口をパクパクと開け閉めしてから、

「え、えーと。わたし……さ、さくら・ステープルトンです。……娘です。こちらはお父さんです。まだ小学生です。……いえ、わたしが小学生で、お父さんは教授で大学に勤めています。あたらしいバスカヴィルさんも同じ年だと聞いたので、お、お友達になれるかな〜って思って、お父さんについてきたのですが、ただそれだけなんです。初めまして。こ、こんばんわ……」

 可哀想なほどうろたえながら自己紹介をした。初対面でいきなり将来を危ぶまれる宣言をされるとは夢にも思わず、さくらの脳裡は綿菓子がつめこまれたように、ただフワフワとまっ白になっていた。一方、知世は瞳のなかの星をハートマークに変化させ感激する。

「さくらちゃんっていう名前なのですね。なんて可憐なのでしょう。これから末長くよろしくお願いしますわ(ハート)」

 もう交際がはじまったかのようなうきうきとした物言いである。ソシエはダッシュで知世にかけより、ドレスの襟首をつかまえて猫の子をあつかうようにひき上げると、そのまま部屋の隅に連れこんだ。

「まあ。血相を変えてどうしました、ソシエさん?」

「どうもこうもありません。今ごろになってハッキリと、あなたにバスカヴィル家の血統を見いだすとは、はなはだ遺憾です。その強引さは先祖のヒューゴー・バスカヴィル顔負けですよ。どうか自重してください」

 ハッとなって知世はわれにかえり、

「……ああ、お恥ずかしい」頬を朱に染めもじもじと身をよじった。「なぜか衝動的に身体が動いてしまったようですわ。本能と申しますか、わたくしの中にもうひとり別のわたくしがいるような感じで、手足がかってに……」

「まあ、人間だれしもそういうことがあるでしょう。けれど、あなたはこの一帯の大地主でたいへんな発言力があり、しかもだれが敵でだれが味方かもわからない状態なのよ?」

「はい。そのとおりですわね」

 知世はしゅんとなった。肩をおとしてトボトボとさくらのもとへ戻ってゆく。

「残念ですがお友達からはじめましょう、さくらちゃん」

「は、はい。お友達から。いえ、わたし、お友達になりにきたんだから、それでぜんぜんかまわないんだけど。あは、あはは……」

 さくらはぎこちなく笑った。無言でそれを見返す知世の眼は怖いほどすわっている。

 

 ひと騒動のあと、なにごともなかったように大人な態度で接するステープルトン教授と数分雑談していると、金属バット――ではなくて、メイドのでじこが食事の支度ができたと告げにきた。知世はひきとめたが、教授と娘は最初の言葉どおり長居をことわって退出していった。親子とも誠実な人柄であるとみな思った。キリスト教圏は一般的に、クリスマス前夜は家族だけでひっそりと過ごし、クリスマス当日に重点をおいて教会祭儀や祝い事をおこなうので、明日、さくらがまたバスカヴィル家に訪問するという約束をとりかわすことで、知世はひとまず満足を得ることができた。バスカヴィル領には教会がないので、

「呼びかけなくても、領主の館に自然と他の住民が集まるでしょう」と教授は去りぎわ言いのこしていった。

 でじこに連れられ、三人は回廊をわたり食堂に歩をすすめた。

 細長い食堂にはいくつか段があって、上段は家族や客が使い、下段に雇い人たちがすわり、部屋の端には楽師たちのすわるであろう席がさずけてあった。壁には、エリザベス王朝の騎士からはじまる、さまざまな服装をしたこの家の祖先たちの肖像画が掲げられていて、三人を威嚇するような視線をなげかけていた。黒い梁が何本も頭上をはしり、その上にはすすけきった天井がある。それらを見まわし、知世は感慨深げにつぶやいた。

「ここがその昔、御先祖が殺伐とした歓喜の酒宴を張ったところですわね。そのとき、きっとこの天井の上では、さくらちゃんのような可憐な娘さんが恐怖にふるえながら囚われていたのでしょうね……」

「誘拐監禁は貴族のたしなみにょ! このさいだから知世様もどんどん拉致るにょ!」

 金属バットは絶好調だった。

「こら、失礼でしょ、でじこっ! すいません知世様。この子、これでもフォローしてるつもりらしいのでお許しください」

 厨房をとりしきる『ラ・ビ・アン・ローズ』こと、本名うさだヒカルがぺこぺこ頭をさげた。ブンブンとウサギ耳が空を切ってかえって邪魔くさい。だが、媚びまくった服装はともかくとして、苦労人らしいうさだはそれなりに常識のある使用人のようで、ソシエとロランはほっと胸をなで下ろした。ナプキンをひろげながら、ソシエはうさだに声をかけた。

「美味しそうな七面鳥じゃない。これだけの大きさのものを焼き上げるのは苦労したでしょうね。お腹ぺこぺこなのよ。さっそく切り分けてちょうだい」

「はい。たくさん召し上がってください」

 にっこりと、うさだが癒し系の明るい笑顔を浮かべた。ソシエの正直な感想で空腹なのを思い出したのか、いそいそと知世とロランもそれぞれの席について、きれいに盛りつけられたオードブルをつまみながら、メインの皿がまわってくるのをおとなしく待った。ソシエの席のとなりでロランがぽつりとつぶやいた。

「良かった。ちゃんとキャビアの味がする。黒いタラコだったらどうしようかと思ってましたよ」

「げっ。よしなさい、想像しちゃうじゃないの。どの料理も教科書どおりの味だから、食べられるうちに胃に入れときなさいよ。明日はちゃんとありつけるか怪しいんだからね」

「明日……やはりなにか起きると?」

「起きないはずがないわ。この家の凶事はクリスマスを狙ったようにやってきてるんだから。モグモグ……。ああ、やっぱりこの七面鳥はアタリね。長靴いっぱい食べたいわ」

「ぶうっ。……肉料理にそんなたとえは気分わるいですよ」

「お約束にケチつけないでよ」

「あう……」

 チクチクいじられているとはいえ、これだけ華やかな若い女性たちにかこまれて食事をしていると、ロランは旧家バスカヴィル邱自体がはなつ威圧感が薄らいでゆくのを感じた。もしひとりきりだったらとても喉に通らなかっただろう。

 ひとしきり明るい食卓は平和そのものの時を過ごし、空腹を満たした三人にはお茶とケーキが運ばれ談笑がはじまり、まわりにはお茶の給仕で居残ったうさだひとりとなった。でじこは三人の寝室と浴室の支度のため出ていっていた。

 たわいない会話のなか、ポットのかたわらでぼんやり三人の姿をながめているうさだに、ソシエはなにげないふうを装い訊ねた。

「ねえ、でじこはずいぶん大きな変わったブーツを履いていたわね。猫耳帽子とおそろいの猫足風の白い……」

「はい、あれはでじこのお気に入りで、夏でも履いてますよ。蒸れてタイヘンだと思うんですが」料理をソシエに褒められていたうさだは、ニコニコと微笑してこたえる。ソシエの瞳のおくでなにかが動いていたが、それは間近にいるロランにしかわからなかった。

「ふむ。でも、冬場は重宝するでしょうね。もこもこのふわふわで。エスキモーの毛皮のブーツのように積もった雪の上なんて平気で歩けるんでしょう?」

「そうですね、ソシエ様。冬場もでじこはあのままお使いに出掛けますから」

「……ふむ。ああ、そういえば明日のパーティーのことだけれど――」

 ソシエは話題をきりかえ、うさだをひきこんでパーティー準備の進行がどのていどなのか説明をもとめた。ステープルトン家の助力もあり、近隣の村民も積極的で、主役となる知世が無事到着した今となっては、もうなんの心配もいらないらしかった。話題はつきなかったが、やがて、食堂の大時計は十二時を差し示そうとしていた。みなそれぞれが、二階にあてがわれた個室にひきあげていった。

 

   ターン5

 

 ロランが入浴を終え、バスローブ姿で寝台に腰かけぬれた髪をタオルでふいていると、足音を忍ばせてノックもなしにソシエが入ってきた。おなじく湯上がりで、ほのかに石鹸の香りをさせたバスローブ姿である。濡れた髪がとても色っぽい。

「わっ。なんですか、いきなり」

「夜這い」

「お、お嬢様……い、いけませんよ」

「うそよ」あっさりとソシエは言い、するりとロランのとなりに腰をおろした。ロランの反応は予測済みと言わんばかりにもう素知らぬ顔である。頬杖をついてあさっての方向に顔をむけたまま、

「ちょっと整理してみましょう。ちょうど一年前、先代のチャールズ卿の周辺にいて、彼を死に追いやることができて、それが必要だった者はだれか……。ふたりの考えを総合して検討すれば、そのうちいろんなことがすっかりわかるはずよ」

 いちおう頼りにはされているらしい。耳まで赤くなっていたロランは、きまり悪そうにコホンとひとつせき払いをしてから、どうにかして平静さをとりつくろおうと苦心しながら答えた。

「ぼ、ぼくはこちらの人と雑談していると、家族のいないチャールズ卿の私的な交際関係はひじょうにせまいことに気づきました。精密機械の企業家という、公的な面での活発な活動とはうらはらに、私生活で親密なのは屋敷の使用人とステープルトン家の方だけのようです」

「うん。そこは重要ね」にっこりとソシエは微笑した。「あたしの記憶では、チャールズ卿は仕事の面ではなんのトラブルも抱えていないわ。損はせず、儲けすぎてもいない。利益の何割かは王室をつうじて慈善事業にまわしているくらいだから、亡くなるとこまる者のほうが多いくらいだわ。となると私的な面が原因とおもわれるけど、現在のところ、もっとも得をしているのは――すべての遺産を受けとった知世ちゃん」

「それはムチャです。あんな礼儀正しくておとなしい女の子が。ぜったいありえませんよ。彼女のご両親は三年前に亡くなっているそうですし、親戚に英国の貴族がいることは、つい四ヶ月前にステープルトン教授からの手紙ではじめて知ったわけですから」

「早とちりしないでロラン君。あたしが問題にしたいのはあの子自身でなくて、あの子の境遇よ。先代の私生活での怨恨の線が浮かばない今では、遺産相続しか動機となるものがないの」

「……はい、たしかに」ロランは大きくうなずく。

「もちろん知世ちゃんは潔白よ。だから危険なの。まだ情報がたりないから断定はできないけど、彼女のつぎに遺産をつぐ権利を持つ者がいるとしたら、そいつはためらわず犯行を重ねるに違いないわ。そして、ほとぼりが冷めたら、『わたしがあたらしい後継ぎでございます』となんらかの証拠を持ってなにくわぬ顔であらわれる……」

「そうか。そのとおりです。ではぼくたちは、彼女の安全を確かめながら、実はバスカヴィル家に縁があって、遺産をねらっている人物を特定すればいいわけですね」

「そういうことね」

「しかし、遺産とひとくちに言っても、バスカヴィル家にはいくつも価値のあるものがありますね。土地やお金はもちろん、称号や屋敷の古美術品……」

「そして沼沢地に点在する古代人の遺跡」

「……それは外していいと思いますよ?」

「学術的な目的なら、発掘調査の許可だけで充分だけど、あそこはどうもそれだけで済むとは思えないわ。とんでもないものが眠っている気がするの。もし、調査しているうちに研究者――つまりステープルトン教授に、自分だけのものにしたいという私欲が生まれるものが隠されていたとしたら、どう? 彼も容疑者のひとりになるのよ。まあ、そんなたいそうな遺跡なのかは、通りすがりに遠くからながめただけじゃ何ともいえないんだけどね」

「………」

 今夜の印象では、教授を容疑者として認識するのはひどくむずかしく思えた。だが一度きりの会見ではその人物のすべての顔が明らかになるものではない。すなおにロランはうなずいて、話題をべつのことにうつした。

「そういえばお嬢様、先ほどでじこちゃんのブーツについて訊ねてましたね。ひょっとして、れいの巨大な犬の足跡が、あの子のものだと思ったんじゃないですか?」

「むう。バレてたか」おどけて答える。だが、指摘されたのがまんざらでもない表情だった。ソシエの横顔は微笑していた。ロランの観察眼の鋭さをよろこんでいるふうに見えた。「同一のものかは記録がないから鑑定のしようがないんだけど、可能性はあるわ。ただ、あの子が『じつはバスカヴィル家の血筋でした』と後継ぎを名のりでるのは、いくらなんでもムチャなのよ。だって地球人ですらないんだもん。あはははっ」

 いたってノンキにわらう。十才の子供の知能で魔犬の伝説を持ちだそうというのも非現実的だった。いや、異星人の十才児がどのていどの知能を有するのかは不透明であったが、計画的犯行をくわだてるとしてもせいぜいテロがかった爆発物止まりであろう。それはそれでイヤだが。

 空元気でわらったせいか、ソシエは急にトーンの落ちた声でつぶやくように、

「それじゃ明日は、夕方からはじまるパーティーに間に合うように、別々に調査に出掛けましょう。魔犬の伝説でひとつひっかかる点があるから、あたしは屋敷の書庫をしらべてほかに記録がないか探してみるわ」

「なんです、ひっかかる点て? 伝説になにかおかしなところが?」

「まだヒミツよ。わたしはそれが終わりしだい、メリピット荘――ステープルトン家を訪問してみるから、ロラン君は近くの村にいって魔犬のうわさのウラをとって、帰りぎわ沼沢地の遺跡がどんなものなのか観察してきてね……」

 さすがはお嬢様探偵、なにげに疲れそうな仕事をよそにまわす。魔犬の目撃談を確かめるのはたやすそうだが、人外魔境沼沢地の奥地にある遺跡へはそう簡単にたどりつけそうにない。とはいえソシエをそちらに向かわせ、自分はデスクワークへなどと都合のよいことを言いだせる性分でもなく、ロランはため息まじりにうなずいた。

「はぁ。わかりましたよ。やります。だけど、遺跡ぜんぶを見てまわることなんてムリですよ。……そうだ、いちばん大きくて立派なものに目星をつけて調べてみましょう」

「そうね……たぶん……それでいいわ……」

 ささやくように言い終えると、ソシエはロランの肩に頭をコテンとよりかからせ、突然おしだまってしまった。横顔をのぞきこむと、すーすーと無邪気に寝息を立てている。ひとまず捜査方針がまとまって満足したようだ。ロランを信頼しきったあどけない寝顔が天使のように愛らしい。愛らしいのはよいがここはロランの寝室である。しかし無防備すぎる寝顔がじゃまをして起こしてしまうのもためらわれた。

 ソシエの個室は回廊をへだてた真向かいだった。寝かせたまま運べるだろう、と思う。

「……しかたないな、ほんとにお嬢様は」

 などとぼやきながらも、ロランはソシエのからだを抱えあげ、ゆっくりと扉に向かって歩きだした。苦労してドアノブをまわして扉をあけ、まっくらな回廊に足を一歩ふみだすと、ふと、通りかかる人の気配を感じて立ちどまった。

 ひたひたと感じるかすかな足音。そちらをふりむく。

 幼女のうらめしげな顔が、闇のなかでポッカリと浮かびあがっている。

 地の底から這いよるような細い声。

「お客様」

「ひっ」

 ロランは、少女のようなかよわげな悲鳴を上げかけ、なんとか喉の奥にのみこむ。

 眼をこらすと幼女の胸元には頼りない燭台の小さな炎がゆらめいていた。ろうそくの火がちろちろと揺れ動くさまが、五才の幼女の無表情な顔におどろおどろしい陰影を与えているのだ。

「メ、メイドのぷちこちゃん……だよね。こんなおそくに、どうしたの?」

「廊下のとじまりの確認にゅ。二階はぷちこの担当にゅ」

「そうなの。ごくろうさま。まだ小さいのに大変だね」

「お仕事にゅ。これくらい平気にゅ」

 バスローブ姿のソシエを抱き上げたまま棒立ちのロラン。その頭の先からつまさきまで無表情にながめると、ぷちこは何ごともなかったかのように、すたすたとまた歩き出した。

 ロランが茫然と見送っていると、二、三歩進んでからピタリと止まる。

 背を向けたままボソリとつぶやく。

「お楽しみのところ、じゃましてゴメンにゅ」

「だっ、だれも愉しんでないよ」

「だれにも言わないから安心してつづきをするにゅ」

「つづき?」

 ぷちこはわずかにふりかえって、

「これ以上はぷちこの口からは言えないにゅ」

 無表情にこたえて逃げるように足早に立ち去った。弁解の猶予さえあたえられず、がらんとした通路のまん中でロランは棒立ちのまま石化した。「しまった……」

 

   ターン6

 

 ロランが寝不足のからだをひきずるようにして階段を降りると、快晴の朝の白々とした陽光に満たされた食堂では、すでにソシエと知世がテーブルについていて、やってきた彼の顔をみるなりソシエが口をひらいた。

「まあ、やつれた顔して。ダメじゃない、みんながヘンな眼で見るでしょ(ハート)」

 意味ありげな甘えた声音であった。たっぷり睡眠をとった彼女のお肌はツヤツヤだ。知世のほうは赤面して下を向いたままモジモジしている。

 知世のとなりでは、ぷちこが無表情にテーブルに食器をならべ、朝食を運ぶサービスワゴンのまわりでは、でじことうさだも赤い顔をしてヒソヒソと小声で話し合っている。ロランを直視するのはソシエひとりだったが、もちろんチラリチラリとつきささる第三者たちの視線は容赦ない。痛い、痛すぎる。あきらかに情報が漏洩している。しかも誤情報である。かるい貧血をおぼえながらロランはよろよろとテーブルに着いた。

「いまさら言うまでもありませんが、ぼくは潔白です」

 だれに言うともなしに主張する。知世がモジモジしたまま上目づかいでこたえた。

「そうですわ。ホームズさんとワトソンさんが、とても強く清い友情でつながれてることは、世界中のだれもが知っておりますわ」

「そうです。そうなんですよ」

 ロランは胸をなでおろした。喉がカラカラだ。

 ほっとしたロランは、眼の前にあったオレンジジュースに手をのばし口に運んだ。

 ボソッとでじこが言う。

「だから一夜の過ちはみんなの胸にしまっておくにょ」

「ぶうっ」ミカン汁、噴出。「ちがいます、ぼくは何もしてません!」

 にこにこしながらソシエが優雅な口調で語りかける。

「そうよ。あたしたちにとっては何でもないことだから、みなさん気になさらないで」

「だ、だから、お嬢様のそーゆー意味ありげな態度が誤解を招くんですってばっ!」

 まるで、もがけばもがくほど引きずりこまれる底なし沼であった。必死で弁解をつづけるが、ここまで絶妙に追い撃ちをかけられると、もうだれも聞く耳もたない。あきらかにソシエは無責任におもしろがっているだけだ。もはや時間が解決してくれることを願うしかないのか。ロランはそっと心の女王陛下に告白した。ディアナ様、ぼくはけっしてやましいことは何ひとつしていません。湯上がりのお嬢様にちょっとドキドキしたことは認めますが、それは男ならしかたのないことですし、寝室に運んであげたのも下心なんてまるでなかったのです。心の女王は沈痛な面持ちで言明するのであった。

(こんな夢をみました。今日のいいともはオトナの事情でキムタクと静香。お昼にふさわしい話題にならず、途方に暮れてしまいました)

 ……えっ? タモリさんっ!?

 

 砂を噛むように味気ない朝食を終え、しくしく泣きながら館を出たロランは近隣の小村へ向かった。借りてきた自転車を走らせて小一時間ほどで到着した。眼につく大きな建物は、宿屋をかねた酒場と、郵便局をかねた雑貨店のふたつほど。貧弱な集落であった。

 ロランは自転車を降りた。それをおしながら周辺の風景をぼんやりとながめた。なんとなくひとり言をもらす。「なんか、ぼくのキャラがどんどん『ヨゴレ』になっていくような気がしてきたな……」

 けっこう深刻なボヤきをもらしながら、雑貨店のまえに自転車をとめ、よろよろと扉をくぐる。店内は大きな棚が中央にひとつ、あとは壁ぎわに商品がならべられていて、出入り口のすぐよこに会計レジと郵便の窓口がある。窓口の奥まったところにこまごまとした郵便業務の装置があり、電報の送受信ていどまではここで事足りるようだった。

 店内は閑散としていた。買物客は昨日に集中したらしく棚にはすき間がめだつ。目的は買い物でないから問題はない。だれに話しかけようかとあたりを見まわすと、郵便窓口のまえに見知った顔があり、ロランはそちらに近づいていった。

「こんにちは。メリークリスマス、さくらちゃん」

 ハッとなってさくらはこちらを向く。赤いケープコートが眼にあざやかである。白く大きなトートバッグを肩にかけた姿はまるで小さなサンタのようだ。用事はすんでいたらしく、窓口と少しやりとりしてからその場を離れ、ロランに近よって笑顔で一礼した。

「メリークリスマス、ワトソン博士。いかがでしたかバスカヴィル館は? よくお休みになられましたか?」

 この地に訪れてはじめて出逢ったような掛け値なしに天使のごとき笑顔であった。こころ洗われるとはまさにこのことであろう。寝不足と心痛の倦怠感がどこかに吹き飛ぶようだ。思わずロランは目頭に熱いものを感じた。

「たったいま休まりました」

「え?」

「いえ、こちらの話です。気にしないでください。あの……さくらちゃん、よかったら少し君と話がしたいんだけど、いいかな? このあたりのことで、二、三質問したいことがあってね」

「わあ、ワトソン博士がわたしなんかに? どうしよう。わたしなんかに博士の調査のお手伝いがつとまるかな……」

 さくらは、少女らしい初々しい照れ笑いを浮かべて、左右の手のゆびを胸のまえに組んでもじもじしている。少なくても協力的な態度であると思えた。初対面の村民相手に問答をする手間がはぶけ、内心ほっとしながらロランはうなずき、

「かんたんだから心配しないで。知っていることだけを、ごくふつうに、ありのままに話してくれるだけでいいんです」

「はい、博士」

「ロランでいいですよ。……まず、君はこちらに住んでどのくらいになるんですか?」

「わたしはこの村で生まれたんです。お父さんとお母さんは倫敦の学校で知り合って結婚したんですけど、都会は空気がわるいからって、わたしができたことがわかると、ふたりだけでこちらに越してきたそうです」

「……うん、たしかに倫敦は育児に向いた街ではないね。お母さんの身体にもよくない」

「お母さんは、もともと身体が丈夫でなかったんですけど……わたしを生んでから……」

 急に声がかすれぎみになり、そっとさくらは眼をふせた。母親のことは触れてはいけない話題だったのかもしれない。会話の流れからすると最悪の状況が容易に想定できた。一瞬、ロランは彼女にこの話をつづけさせるか迷った。しかし彼は警官ではない。個人のプライバシーにかかわることに土足でふみこむ権利も傲慢さも必要ではなかった。事件には関係ないと判断して、自然に話題を変えるべきだと思った。

「ごめん、そこまででいいよ。それで……」

「いえ、聞いてくださいロラン先生」なにかを決意したらしいさくらは、パッと顔をあげて純真そのもののまっすぐな視線で訴えた。「いつかお医者様にちゃんと相談しておきたいとずっと思っていたんです」

 ハッとなるロラン。もしや、このいたいけな少女も母親の不運をその血とともに受け継いでしまったのでは……? 困惑と戦慄のロランにさくらは言葉をつづけた。

「わたしを生んでからというもの、ものすごく元気になっちゃって、毎日毎日どんぶり御飯を三杯食べちゃうんですっ!」

 なんのことだかしばらく理解不能であった。

 たっぷり十秒ほど間をあけてから、ロランは魂の抜けたような返事をした。

「……はい?」

「朝、昼、晩、それはもうお母さんは楽しみにして、『みんなで食べる御飯は美味しいわね、さくら(ハート)』とか言って、昨夜もケーキを箱でふたつペロリと食べちゃったんですよ。『まだ八分目よ』って物足りないような顔をして。それでいて、体形とかはむかしからぜんぜん変わらないってお父さんは不思議がってます。でもお父さんは、なんでもお母さんの好きにさせていて、途中でとめたりとかはぜったいしないんです。このままでいいんでしょうか、ロラン先生? お母さん、ほんとはまだみんなに知られていない、すっごくめずらしい奇病だったりしないでしょうか?」

「……えーとね」

「このままじゃテレ東の『大食い王選手権』かなんかに出演依頼がきて、つい本気だして連続不敗記録なんて樹立しちゃったりして、マスコミから『大食い界のクィーン』とか呼ばれてチヤホヤされるのはいいけど、家族は世間から白い目でみられたりしちゃうんです……」

 さくらはつぶらな瞳に涙をいっぱいためている。たしかに、思春期の入口にさしかかった少女に、『大食いクィーンの娘』というレッテルはわらいごとではすまされないキツいものがあるだろう。のちの人生を左右すると断言してもよかった。コホンとせきばらいをして、なんとか平静さをとりもどそうと努力しながら、ロランはさくらに語りかけた。

「あのね、さくらちゃん。たぶん心配しなくてもいいよ。女の人は、子供ができたら体質が変わるのはよくあることで、お母さんはその変化がほかの人たちより激しかっただけなんじゃないかな? お父さんが好きにさせているのは、お母さんが健康になったのがわかっているからだと思うよ」

 医師には楽観論もときには必要なのである。かぎりなく自信がゼロにちかい返答であったがさくらの顔色はみるみる明るさをとりもどしてゆく。だが、ややあってまた表情がくもった。おずおずとさくらは問いかけた。

「あの、ひょっとしてその体質の変化はですね、わたしにも遺伝しちゃたりするんでしょうか……?」

「あ……イヤ、そんなことないですよ」

「いま『ある』って言いかけましたよね?」

「ちがいますちがいます」ぶんぶん左右にくびをふり、ロランは頬をひきつらせる。「そんなことより、ぼくにはほかにもっと訊ねたいことが……」

「あ、いっけない」舌をちょっぴり出して苦笑いするさくら。「そうでした。わたし、ロラン先生の調査のお手伝いをするんでした。どーぞ、どんどん訊いてください!」

「それはありがたい。しかし、店のなかでこのまま長居するのも迷惑がかかるでしょうから、場所を変えましょうか?」

「はいっ!」

 元気いっぱいの返事が気持ちよい。さくらは快活で頭の回転も早いようだ。頼もしい協力者を得たロランはさくらを連れて外に出た。さくらはもう家に帰り、招待されたパーティーの準備をするつもりだというので、ロランは途中まで送りながら話をすることにした。店のまえにとめていた自転車をひっぱりだすと、さくらは不思議そうな顔をした。

「あれ、雪兎さんはきょうはお休みですか?」

「いえ、ソシエお嬢様がメリピット荘に出掛けるので、そちらの送り迎えに行ってもらうことになってるんですよ……」

「そうなんですか。でも、やっぱりロラン先生ってやさしいんですね。お屋敷からはこの村のほうがずいぶん遠いのに、ホームズ先生に馬車をゆずってあげたんですから」

「ははは(かわいた笑い)。ゆずったというか、宿命的にそう決まっていたというか……まあ、どうでもいいことです」

 ふたりはならんで村外れに歩き出した。ようやくロランは用件をきりだした。

「このあたりで、大きな犬がときどきあらわれるそうだね。牧羊犬とはべつの、変わった種類の犬が?」

「あ……はい。そうみたいですね」

 一瞬、さくらの表情に緊張がよぎった。ロランの眼をさけるように視線を足もとの地面におとした。「バスカヴィル家の犬のことですよね? ……じっさいに見た人はかぞえるほどですけど、このあたりの人はみんな知っているみたいです。魔犬の伝説は、土地のお伽話としてずっと残っていたせいで、だれも罠をはって捕まえようとはしません。犬を見かけた人たちのあいだにはべつに悪いことは起きていませんし、迷信ぶかい人が呪いをこわがってバスカヴィル領地から引っ越したりするくらいで、わたしたちふつうの住民にはなにも変わりがないんですが……」

「列車で通りがかり、無人の家が多かったのはそのせいか……。場所はやっぱり沼沢地あたり?」

「はい。たまに牧場の近くの森とかに……」

「じゃあその魔犬は、家畜の牛や羊を襲ったりするの?」

「しません、わるいことはぜったいしませんっ!」

 まるで魔犬をかばうかのようにさくらは声をはりあげた。あきらかに過剰な反応にロランはとまどった。ふたりは路上に立ちどまる。

「さくらちゃん……君も、魔犬を見たんだね?」

「それは……」

「なにか知っているなら教えてください。君が思っている以上にソシエお嬢様は無鉄砲なんですよ。あの人はその気になったら、裁縫針一本で重核モビルスーツに突撃をかけてしまうような、とりかえしがつかないことをしでかしますっ!」

「ほえ〜(汗) 一寸法師よりタチがわるいですね……それって」

「極悪です」しずかに眼をふせるロラン。

「……あの、やっぱりそれって、ホームズ先生は魔犬をみつけしだい退治しようと考えているわけですか?」

「犬まっぷたつです」ロランの眉間にしわがよる。

「はにゃ〜(大汗)」

「今ごろ、犬とみれば魔犬であろうとなかろうと、手当たりしだいにアタックをかけてるかもしれません。ちょっとした暴走機関車です。踏切でうろうろしている乗用車なんて歯牙にもかけずふっとばします。もう誰にもとめられません」

 冗談のようでいて、なかば真剣(マジ)で胸のうちを語るロランに、さくらのガードも下がりぎみになる。というか、彼に協力しないとバスカヴィル領内は小型台風の直撃をくらうような惨劇がおこりそうだった。ふつうの神経の持ち主ならたえられないだろう。

 少しふるえながら、さくらはごくりと唾をのみこみ、

「は、はい。じつは、ひとつ隠していることがあるんです」

「うん」ロランもごくりと唾をのみ、まっすぐ見上げるさくらの瞳を凝視する。

「まだ誰にも……お父さんにもこわくて秘密にしていたんですけど、ロラン先生にはお話ししないと、たいへんなことになりそうなので……」

「探偵はどんな秘密も厳守しますよ」

「これが問題の、地獄の番犬――ケロベロスです」

 さくらのバックの中から、黄いろくてまるっこい小動物がひょっこり顔をだしてあいさつした。どこも黒くも青くもない。

「こにゃにゃちはー!」

 それはもう元気いっぱいであった。

 ロランは、髪だけでなく全身をまっ白にして凍りついた。

 

 村を出たロランとさくらは沼沢地のまっただ中にいた。あと十分もあるけばメリピット荘に着くような地点だ。正確にいうと立ち往生である。一本道をはずれて野原に入り、倒壊してただの岩場になった遺跡の一部に腰かけて、さくらが持っていたチョコレートをふたりと一匹でわけあい、ランチタイムもどきの休憩をとっていた。

「わいのことは『ケロちゃん』ってフレンドリーに呼んどくれ、ロランせんせー」

 みょうにカワイイ声の関西弁で地獄の番犬が言った。ひとめを気にしないでいいので、さっきからロランとさくらの間を小さな羽をはばたかせ、うろうろパタパタと陽気にとびまわっている。

「呼びかたなんて、このさいどうでもいいんです」ロランは頭をかきむしる。眼をつむり苦悩にみちた顔つきでつぶやく。「にわかには信じがたいことですが、現実にあなたがここにいることは眼をそむけようのない事実です。しかし、まさか……」

 すがりつくような眼差しで、さくらはロランの手をにぎりしめた。

「おねがいしますっ! ケロちゃんのお話を信じてあげてくださいっ! ケロちゃんは、百年にいちど出るか出ないかというすっごく悪い人があらわれると、それを成敗しにこの世界にやってくる地獄の天使なんですっ!」

 的確な状況説明なのだが、さくらの台詞は少しヘンだった。

「さくらちゃん……地獄の天使じゃかえって凶悪そうだと思うけど……。まあ、それは置いといて、ケロちゃんがチャールズ卿を殺したんじゃないのはほんとうなんだね?」

「そーや! 本人がゆーとるんやから間違いあらへんで。わいは潔白や。悪党がわいの伝説を利用してやったんやと思う。それにわいの捜しとるんは、もっとわこーて、毛がふさふさ〜とした、ちょんまげのある大男やと、さっきっからゆーとるやないか。せんせー、見かけたことあらへんか?」

「ぜんぜん。さくらちゃんでもわからないんじゃ、この土地の人じゃないんじゃ?」

「そないなことあらへん。このわいのするどい眼を見てみい。ねらった獲物は逃にがさへんでー☆(キラリ)」

 じっと、ロランはただの点にしかみえないケロのふたつの眼を見つめた。

「ちっともするどくないです」

「くぅー」痛いところを突かれたらしく、ケロは天をあおいで顔をしかめた。「そう思われんのもしょーがないなー。たはははっ。機械文明の波っちゅーのか、近代化で地上にはすっかり魔力がなくなろーて、魔力をエネルギー源にしてるわいの体もこないに縮んでもーた。小さいながらもなんとか元気にしていられるんのも、さくらの力をわけてもらってるおかげやからの……」

「さくらちゃんの力?」

「そやっ! さくらをひとめ見てわかるやろ。ふしぎに見るだけで心が安らぐやろ? この子はただまわりにいるだけで、どんな人間にも幸運をもたらす特別な力を持ってるのや。巫女さんみたいに、天上の恵みを一般人にもたらす『門』みたいな力やなあ。ごくたま〜にやけど、そないな人間の娘さんが地上には出てくるんやろなー」

「ふむ……。たしかに歴史上にも、選ばれたとしか思えない人物があらわれていますが」

「他人事じゃあらへんよ? わいのみたてじゃ、ロランせんせーにもたいした魔力がそなわってるでー。オトコに生まれてきたのが一種の封印になっとるようやな。そーでなきゃ、超一流のごっつい魔女っ娘になっとったわ」

「かっ、勘弁してください。そけだけは」

 脳裡に一瞬、ごっつい魔女っ娘の映像が浮かんでロランは真剣に頭をぺこぺこ下げた。

 すると、さくらはケロの言葉になにかをつかんだらしく、パッと顔を明るくした。

「そーだよ、ケロちゃん。封印だよ。ケロちゃんの捜している人は、きっとなにかの方法で変装して、ほんとうの姿をかくしているんだよっ!」

「おおっ!」ケロはおどろいて一メートルほど文字どおり飛び上がった。「そやっ! そーにちがいないっ! かしこいなーさくらは♪」

 ロランは、『それくらいもっとはやく気づけよ、あんたら』と言いたかったが、相手は小学生と小動物である。ぐっとこらえて建設的意見を述べることとした。

「おふたりのお話しはだいたいわかりました。もちろんぼくはおふたりの味方です。しかしですね、ソシエお嬢様を納得させるにはもう少し具体的な証拠がいると思うんです。ぼくの説得だけですなおに承知する人じゃありません。いますぐお嬢様と合流すると、いかにも怪しいケロちゃんだけならまだしも、パートナーのさくらちゃんも容疑者として扱われるかもしれないんですよ」

「ほんなら真犯人の証拠探しかいな?」

「そうです。しかし、魔犬の伝説を利用する犯人は今夜動くとぼくたちはふんでいます。日が暮れるまでに、真犯人の特定をしてお嬢様と合流しましょう」

「今夜動くって……知世ちゃんがねらわれるってことですか?」

 さくらはおそろしげに眉をひそめた。ロランはだまってうなずいた。

 腕組みしてケロが弱りきった声を出す。

「しかしなー、犯人はどこの誰なんか、まるで見当がついてへんのに日が暮れるまでになんとかせなあかんのはキッツイなあー」

「手がかりがひとつだけあります」

「なんやの?」

「遺跡です。この調査はぼくに任されています。ソシエお嬢様はなにかあるに違いないと断言してました。さいわい、さくらちゃんがいるから案内を頼みたいのですが……」

「はい、もちろん!」意気ごんでさくらはふたつの手をグイッとにぎりしめ、

「まかせてください。このあたりの安全な道はぜんぶ知ってます!」

 ケロもつられて意気揚々と叫んだ。

「おおー! なんか希望がみえてきたでー! いっちょ本気だしたろやないかあーっ!」

 ロランは一抹の不安をかくしきれなかったが、よわよわしく微笑してうなずいた。

「……とにかく、みんなでがんばりましょう」

 休憩を終え、ふたりと一匹は沼沢地のおくへと出発した。荷物にしかならない自転車は道端のしげみにかくして置き去りにすることになった。

 さくらは、父親のフィールドワークになんどか連れられて行ったことがあるため、宣言どおり複雑な安全ルートに精通していたが、ケモノさえ避けてとおる魔境は一筋縄ではいかないのだった。あるときは泥沼の岩場を跳んで走り、あるときはいばらの薮をそろそろとつっきり、あるときは低木の枝から枝へとおそるおそる空中を移動する。ちょっとした小山の上り下りがもっとも楽なルートだというのだから、たとえ若くとも都会育ちのロランをあっという間に閉口させた。一方、さくらの足どりはまるで鳥のようだ。風の妖精に守護されているかのように軽やかで遅滞なく、ロランはそれについてゆくのがやっとといったありさまである。

 いつしかふたりと一匹は、きりたった岩壁があちこちにそびえる谷底にたどりついていた。足もとの地面は固くかわききって平坦だった。それがロランにはなによりもありがたい。小休止をしてロランが息を整えていると、さくらが声をかけた。

「ここからもう見えますよ。あれがきっとロラン先生がお探しの遺跡だと思います」

 さくらの指差すさきには、岩壁に背を埋めこんだおそろしく巨大な像が屹立していた。

「これは……」壮大な光景にロランは絶句する。

「お父さんは、この地を古代人は『マウンテンサイクル』と呼んで、聖地として崇めていたと言っていました。あのおっきな像は、なんでも自由と平和の守護神だそうですよ」

 さらに近づくと、像の腰のあたりに最近組んだ木材の足場があるのがわかった。これは調査のためステープルトン教授が建てたもののようだ。ふたりと一匹はそこまで登ってみることにした。

「何度見てもりっぱなヒゲ生やらかしとんなあ、ホワイトドール様はー」

 足場へ登りきると、頭上の像の顔面をながめながらケロが悠長に感心している。

「ケロちゃんも前にきたことがあるんですね?」

 ロランがなにげなく訊ねると、ケロは胸をはってこたえた。

「あるで〜。ヒューゴー・バスカヴィルちゅう、いずれは謀反をおこしてこの国を独裁しようと計画しとったオトコを、むぎゅ〜と懲らしめて、大昔ここに封印したったんやっ! あははははっ!」

「はい?」

「おおっ! なんか昔のこと、ぎょーさん思い出してきたでー。うんうん。……やつを追いかけとったら、ちょうどごっついキレーな娘さんが襲われてるのに出くわしてな、そのコに魔力があったさかい、協力してやつを封じこめたんや。そーいや、あの娘さん、さくらに似とったなあ。ひょっとするとさくらのご先祖やったのかも知れんなー」

「ちょっと待ってください! それってバスカヴィル家の伝説のことじゃないですか。しかも、結末がちがっていますよっ!」

「ん?」ケロは腕組みしてちょっと考えて、

「そーいや、そやなー。……ああ、思い出したわ。悪党とはいえ、なんせ領主を『うりゃうりゃ』してしまったや。当時の法律じゃ家族ともども処罰されるやろー、ということで、

娘さんは死んだことにして遠いとこに逃げてもらったんや。何人か野次馬がおったから、そいつらは脅してウソの証言をさせたんやな。おかげで残された家族は無事やった。うーん、われながら賢い判断やったのー」

「なんてことだ。……ソシエお嬢様が、伝説に疑問点があると言っていたのはこのことだったんだ。魔犬がヒューゴーを倒していたのなら、誘拐されていた娘さんもいっしょに死んでいるはずがないんだ……」

「ん? ……そーいや、そーゆーことになるわ。さすが名探偵、目のつけどころがちゃうのー。あの伝説は原作そのままなんやが。まあ、ひとさまの生き死にをどうこうすんのは、お笑いのサービス精神に反するからのー。かわいこちゃんならなおさら死なせへんがな。わはははっ!」

「あうう……。胃が痛くなってきた」涙目でお腹をさするロラン。「だいたい展開が見えてきましたよ……。ケロちゃん、それで、その封印されたヒューゴー・バスカヴィルは、ちゃんといまもこの像に安置されているんでしょうね?」

「んん?」

 ケロは片眉をひょこり上げ、怪訝そうな顔つきでパタパタと空へ飛んだ。ホワイトドールの胸部まで上昇し、胸部のミサイルサイロまでくると、装甲板がめくれてポッカリあいた穴の奥をしげしげと熱心にのぞきこみ、

「あかん。おらへんわっ!」

「わー! やっぱりそうか!」ロランはひざをついて頭をかかえた。

 さくらは血相を変えてるロランとケロを見くらべ、「え? え?」とキョロキョロしながら戸惑っている。「……あの、どういうことなんですかロラン先生?」

「封印が完全じゃなかったんですよ。おそらくステープルトン教授の調査のさいヒューゴーは時を越えてめざめてしまったのでしょう。場合によっては教授も共犯者です……」

「ええっ!?」

「教授についてはソシエお嬢様が調査してくれているはずです。さあ、これで犯人の目星はつきました。ヒューゴーがだれかの姿をかりて、じゃまな相続人をけして財産を独占しようとしているのです。言い伝えのとおり血も涙もない男なら、たとえ血がつながっていようと遠い子孫なんて赤の他人と同様でしょう。知世ちゃんが危険です」

 すっくと立ち上がり、ロランはさくらたちに毅然として声をかけた。

「まだ間に合います。すぐに屋敷に向かいましょう!」

 

   ターン7

 

 悪路をものともせず、全速力でロランたちは人里へ舞いもどった。さくらの方向感覚は抜群で、ぴたりと寸分違わず自転車をかくしていた地点に帰還できた。ロランはさくらを後部座席にのせ、もはや人目を忍ぶのをかなぐり捨てて飛翔するケロを頭上にしたがえ、自転車の限界性能をひきずりだして屋敷への一本道を鬼のように疾走する。

 すでに夕暮れにそまった世界である。メリピット荘を横目で通りすぎ、バスカヴィル家の門番小屋が視界に入ってくるころには、あたりはすっかり宵闇に閉ざされてしまっていた。「……あっ!?」

 門番小屋に視線を向けたロランはわが眼をうたがった。はじめから廃墟のような小屋だったが、いまは正面から馬車がめりこんで衝突していて、完璧な廃墟と成り果てていた。もちろん馬車も大破していて、前半分は完全にくだかれて消え去り、車輪はうしろ片方しかないような惨めな姿だった。ロランは、自転車の後輪をよこへスライドさせ、車体を傾けたまま路面の枯れ葉を粉雪のように舞いあげて急停車した。

 自転車を降り、ふたりと一匹はあわてて馬車へかけよった。

「これって、バスカヴィル家の馬車じゃ……」

 そうつぶやくと、さくらは恐怖にうちのめされ小鳥のようにふるえた。ロランは唇をかみしめ、その両肩をしっかりと抱きしめてやったが、ふるえているのは彼も同じだった。

「そうです……。これはソシエお嬢様が乗っているはずの……バスカヴィル家の馬車です……。ううっ、ううう……」

 我慢しきれず、くぐもった嗚咽がロランの口からもれると、さくらもぽろぽろと大粒の涙を流しはじめた。目の前の非情な現実をすっかり理解すると、まだおさないさくらには泣き叫ぶことしかできないのだった。

「うわーんっ! 雪兎さーんっ、ホームズ先生ーっ!」

 ロランは奥歯をくいしばり、さくらになにか言葉をかけてやろうと考えたがなにも浮かんでこない。自分が大声をあげて泣き出すのをこらえるので精一杯だったのだ。

 涙ですべての輪郭がにじんだ幻のような世界に、自分に向かって近づいてくる人影があらわれたのにロランはぼんやりと気づくが、絶望に心を閉ざしていた彼は注意をはらわなかった。

「よいしょ、と」人影は、かついできた雪兎青年を肩からおろし、気絶したままの彼をロランの足もとに横たえた。そして、ぴたりと泣きやんで茫然としているさくらに向かって、

「あたしのことは『ソシエ』でいーわよ。さくらちゃん」

 片手をさくらの頭にのばし、やさしく撫でてやる。

 ようやくわれにかえったロランは、ひょっこりと馬車の残骸から抜け出てきたソシエの全身をながめた。ツイードのコートは埃だらけ裂き傷だらけ、頭にのせたハンティング帽はなにかのボロきれにしか見えないが、ソシエ本人は五体満足でピンピンしている。

「わあああっ!」「ほえ〜っ!」

 ロランとさくらは同時に驚愕の叫びをあげた。ふたりの反応にソシエは陽気な笑顔を浮かべて言った。「あはははっ! あなたたち、天然仲間って感じね。反応がそっくりじゃない。まあ人間、まっすぐに育っていればそこそこ愉しい人生が送れるってものよ。そーゆーのキライじゃないわ」

「そ、ソシエお嬢様……無事なんですよね? どこか痛いところは? まさか幽体離脱しちゃってて、ここにいるのは生身のお嬢様じゃないなんてことはありませんよね?」

「そうなってたらこんなボロボロのコートなんて着てないわよ、あたしは。……東洋の神秘ってやつよ。ロラン君、あたしが柔術の達人だっておぼえてる? 受け身は基本中の基本よ。寝てたってできるわ。馬車が小屋につっこもうと大宇宙に飛翔しようと、あたし自身はかすり傷ひとつ負わないんだから。くすくすくす」

 ずざざざー。

 ロランとさくらは路上を四メートルはスライディングした。

「これって東洋の神秘で片づけられますか、ロラン先生……?」

「ごめん、さくらちゃん。それ以上は言わないでください……」

 天然どうしなかよく倒れこんだふたりは、このまま時が止まってくれれば、などと現実逃避に走りかけたが、非情なる世界はそれをゆるしてくれないものだ。

 どごーん! とつじょ、間近で爆音がひびきわたった。

 突風を呼んで、馬車が火炎を噴き出して大爆発したのだ。

「いやー!?」「わーっ!?」

 地面に腹這いなっていたふたりは、降りかかる火の粉と破片をさけて慌てふためき逃げだすと、必死の形相でソシエのそばへとひきかえした。ソシエは眉をしかめて、ごうごうと音を立てて燃えさかる馬車と門番小屋の残骸に毅然とした眼差しを向けていた。

「な、な、なんで馬車が爆発炎上しちゃうんですか!?」

 心底きもを冷やしたロランは、おろおろしながらソシエに訊ねた。

「んー。あたしもびっくりしたわよ。どうも時限爆弾が仕掛けられてたみたいね。時間的には、屋敷に帰ってきて門をくぐりぬけた一分後ほどで発火するころあいかしら。この御者が居眠り運転して、ぶすっと刺さってくれたのが思わぬ命拾いだったみたい……」

「えっ? 雪兎さん、走りながら居眠りしてたってゆうんですか?」

「うん。最近、『どうも力を吸いとられてるように眠くてしょうがない』って話してたけど、まさかここまで洒落にならない状態とは思わなかったのよ。ま、ケガの功名というやつで、罪には問わないことにしましょう」

「はははっ……。ふつー、わらいごとではすまないでしょうけど……」

 懐中時計をとりだしたソシエは顔色を変えた。「……おっと、もうパーティーがはじまる時間じゃない。歩きながらでいいから、きょうの捜査の報告をしてちょうだい」

「はい。かくかくしかじか」

「ふんふん。了解したわ」

「早!」上空で傍観していたケロがびっくりして叫んだ。「めっちゃ早いやん。なんでそないな短いやりとりで一日かけた報告がまとまんのやっ!」

 ソシエはケロをむんずと手掴みにし、顔のまえにひきよせ鼻と鼻とをつきあわせた。

「ニュータイプだからよ」これ以上ないほどきっぱりと断言するソシエ。

「は、はい……」ソシエの有無を言わせぬ眼光のまえにケロは小動物そのままにおびえた。

いっきに上下関係が成立し、ソシエはケロを手頃なぬいぐるみのように小脇に抱えこんで掌握すると、ならんで歩くロランに視線をうつした。

「あたしの調査でウラがとれてるから、いまの情報は、ほぼまちがいないわ。教授の自供もとれてる。なんでも、ヒューゴーと教授の接触は、奥さんの出産時期とちょうどぶつかっててね、しかも母体が危険な状態だったの。それを利用してやつは教授にとりひきを持ちかけたってわけ」

「奥さんをたすけたかったら、バスカヴィル家を手に入れるのに協力しろ、というわけですか……。だけど、ヒューゴーにそんな力があるんですか? 言い伝えで、神をもおそれぬ荒くれ者とありましたが、野蛮なだけの人物にそうかんたんに教授が言いくるめられるとは思えませんが……?」

「物事にはコインのように表と裏があるものよ、ロラン君。ヒューゴーには裏の顔があって、その名はギム・銀河南無。数世紀つづく秘密結社の幹部だったというの」

「うわっ、あからさまに怪しい名前ですね……」

「教授もくわしくは知らないらしいんだけど、組織は魔法のように進みすぎた科学力を持っていて、その力を利用して不可能を可能にするとか。他にも奇妙なことを口走っていたというわ。もともと銀河南無は月の住民で、武力制圧のためやってきたのやってこないの……月の女王セレニティに世界を統一してもらうため、地球征服をどうのこうの……」

「セ、セ○ラ○ム○ン!?」

「その伏せ字ぜんぜん意味がないっちゅーの」なぜか関西弁になるソシエ。「とにかくろくでもない話だわ。さっさと誰に化けているのか掴まないと……んんっ?」

 ソシエはふと立ち止まり上空を見あげた。

 それにつられて上空をあおぎ見たその場にいた者たちは、みな息をのんで、さらに暗さを増した夜空のかなたへ眼を釘づけにされてしまった。月や星々の輝きをばっさりと黒く切りとったようなひとつの影があった。夜空をおおい隠すほどの巨大な飛行物体が、天空をゆうゆうと旅していたのだ。

 それは、見事としかいいようのない王室専用飛行船『グレタ・ガルボ』の勇姿であった。一同の注視のなか、ぴたりと空中に飛行船は停止したかと思うと、もっとも下にある船室の底から昇降用のゴンドラが下降してゆき、こわれものを扱うようにしずかに地上へとそれを運びおろした。なにごとが起きたのかソシエは気づくと、

「まずいわ……爵位の式典に王室の者が参列しようとしているのよっ! 銀河南無の絶好の標的になってしまうわ」

 きびしい表情でソシエは駆け出した。ややおくれて、まわりの者はそれにつづいた。

 並木道のトンネルに入り、矢のようにまたたく間に抜けだすと、屋敷のまわりを巡回しているらしき制服姿の警官たちのすがたがあった。地方警察ではない。ソシエとロランには見なれた、いかついライフルを肩にかついだスコットランドヤードの警官隊が出張ってきていた。おそらくグレタ・ガルボを地上から援護する先発パトロール要員だ。

 警官たちの制止の声に耳を貸さず、ポーチの石段をいっきに駆けのぼり、ソシエは開け放たれた正面玄関に脱兎のごとくなだれこんだ。

 入口正面で、スカートの長い真紅のドレスをまとったリリ・レストレード警部が立ちふさがった。いちぶの隙もない正装の貴族刑事は、不審人物が顔見知りの探偵だと気づくと、羽根のついたつば広の帽子にちょっと手をかけ、小首をかしげて愉快そうに挨拶した。

「おやおや、ようやくお戻りですわね、ソシエさん。……それと、ロラン君たちも」

「式は? パーティーははじまった?」

 みじかく訊ねるソシエに、彼女らをとりかこもうと動き出した部下の警官たちに『問題なし』のサインを眼で送りながら、リリ警部はのんきな調子でこたえた。

「とっくにはじまってます。知世お嬢さんは、みなさんが戻るのを待ちたかったようですが、女王陛下が謁見されるとなるとそうもいきませんから」

「じょ、女王陛下〜っ!?」

 一同は仰天し、オウム返しに叫んでいた。ソシエが語気荒く問いつめた。

「なによもうっ! あたしそんなの聞いてないわよっ!」

「当然です。飛び入りですから」

「女王が飛び入り参加すなっ!」

 ソシエの背後で、ロランたちが脱力してバタバタとその場に倒れこんだ。逆上してつかみかからんばかりの勢いのソシエに、いたって涼しい顔つきでリリ警部は無作法をたしなめた。

「まあっ! レディーがそのような口のききかたをしてはいけませんことよ。あなた、なにかの事故にまきこまれたご様子ですけど、まさかそのようなボロ雑巾みたいな服のまま、ディアナ様のまえに出るおつもり? うふふっ」

 笑われた。ぷっつんとソシエはキレてしまった。両腕をふりあげて襲いかかろうという暴挙にでたのだが、それをとめる役回りはもちろんロランである。暴れるソシエをはがいじめにしてロランは決死の形相で訴えた。

「緊急事態なんですっ! いますぐ謁見を中止してください警部っ!」

「あら? でも、ヤードの警備は万全よ。少しも異状は報告されていないわよ?」

「くわしく説明してる時間がありません。変装した賊がまぎれこんでるんです。知世さんの近くにいてもだれも不審に思わない人物になりすましていると思います。だとしたら、容易にディアナ様のお近くにも行けるはずですっ!」

 事情は知らないとはいえ、ただならぬ空気にさすがにリリ警部も顔色を変えた。彼女は眉をひそめて、

「わかったわ。でも、いちどはじまった謁見を途中でとりやめて待避するのは王室やわれわれ警備のがわの沽券にかかわります。体面を気にした愚かな考えかもしれませんが、政治的な意味でこれは仕方のないことですのよ。つねに逃げ出すのは賊のほうでなければいけません。……さいわいディアナ様には親衛隊のガードがついてますから、知世お嬢さん以外は、そう簡単にお側によれないはずです。できれば秘密裏に処置したいのだけど、協力していただけないかしら……?」

「お立場はわかります。それでもいいです。警備への協力は惜しみませんが、ただ、ぼくたちが自由に動けるようにはからってください」

 ようやく正気をとりもどしたソシエも、懸命なロランに譲歩したつもりか急にしおらしくなった。「頼みます、レストレード警部。あたしたちを信頼して知世ちゃんを任せたんでしょ?」

 ソシエはその決意の硬さをひたむきな瞳に宿していた。それはリリ警部の心を動かすのに充分な力があった。貴族刑事は芝居がかった動作で肩をすくめ、大きくため息をつき、

「あなたたちコンビには降参よ。好きになさい。できたら、わたくしひとりの責任ですむ範囲でお願いできるかしら?」

「善処します」ソシエはみじかく言い、屋敷のおくへ走り出した。ロランたちもそれにつづく。走り去る彼らの背に、リリ警部は声をかけた。

「陛下と知世お嬢さんはいま食堂に入って会見中よっ!」

「警部はん〜、ありがとさーんっ!」

 黄色い小動物の返事がかえってきて、リリ警部はおかしな表情で広間の中央に立ちつくした。となりにいた伝令の部下に訊ねた。

「……いましゃべったの、なんですの?」

「さあ……?」

 

 食堂の入口が回廊のさきに見えてくると、かすかに落ち着いた音楽が漂うに流れてきた。楽団という規模まではいかないだろうが、数人の楽師も招かれて演奏をしているようだ。扉をあけてソシエが一歩室内に足をふみだすと、弦楽器の音色と人々のざわめき、そしてこの日のために数多く持ちこまれた照明の光につつまれて、別世界に迷いこんだようにいささか面食らった。クリスマスの飾りつけをされた食堂ホールは、昨晩おそい食事をとった陰鬱なあの場所とおなじものとは思えないほど華やかに様変わりしていた。裏庭に面する大窓が開放され、庭のイチイの並木路までいくつもの松明で明るく照らされていて、ホールに入りきらない男女が、グラスを片手に思い思いに人の輪をつくって笑いさざめいていた。

「よくもまあこんなに集まったものね。やれやれ……」

 ロランたちが到着すると、あきれた顔をしたソシエは肩をすくめて愚痴をこぼした。一同は入口でかたまって周囲の人波をぐるりと見渡した。ロランが言った。

「陛下と知世ちゃんの姿はテーブルのまわりにはありません。若干、親衛隊らしき人が残っています。訊いてみましょう」

「そうね、頼むわよロラン君」

 ロランはホールを横ぎって壇上にあがり、何度か兵士たちとやりとりしてから、すばやく駆けおりてきてソシエたちを手招きし、低い声で説明した。

「陛下たちはいま庭へ散歩に出ていっているそうです。親衛隊はハリー隊長がついているだけになっています。とりあえず追ってみましょう」

「うん。みんな急いでね」

 とはいえ人ごみをぬって進むには駆け足ではかえって危ない。身体の小さいさくらなどはどこかにぶつかって踏みつぶされてしまうかもしれない。いらつきながら早足で大窓までぬけると、外に出てすぐの場所で飲み物を配るサービスカウンターが設置されていて、細長いテーブルの向こうでうさだとでじこが働いていた。いつ割れてもおかしくないような危なっかしい手つきでグラスをならべているでじこが言った。

「おやみなさん、ようやくお戻りですかにょ。一杯ひっかけていくがいいにょ!」

 うさだが、ポンッ、と軽快な音を立てシャンパンのコルクを抜く。勢いあまって飛び出たコルクはソシエのひたいを直撃した。

「………」

「あ、ごめんなさい〜!」

 平謝りのうさだのうさぎ耳をつかみ、その顔に息がかかるくらいの近距離までひきよせると、ソシエは片頬をひきつらせてわざとらしい笑顔で言った。

「いいのよ、これくらい。馬車の衝突事故にくらべたらこの自慢のうさ耳のようにカワイらしいものよ。ふっふっふっ。ところで、あたしたち知世ちゃんとディアナ女王を捜しているんだけど、どこに行ったかしらねえ?」

「は、はい!(涙目) さっきまで庭を少し歩いていましたが、急に勝手口から屋敷のなかにいそいで戻りました」

「勝手口?」

「そちらです」

 うさだが指差す方向に扉があった。古井戸がその前にある。厨房につづく扉のようだ。大量の食料品などを直接運び入れるためのもので、両開きの鉄のドアパネルがふたつある。

 うさぎ耳を開放すると、ソシエはまた駆け出して勝手口に向かった。やや錆ついた蝶番はキイキイと耳ざわりな音を立ててひらいた。

「……ここにもいないじゃないのロランっ!」

「はい、陛下たちがいそいで台所に行く理由はありませんから、他の部屋が目的なんでしょう」

 厨房の三つの壁にはそれぞれまた扉がついていた。三人は手分けして隣接する部屋を確かめた。ひとつは食堂へ、ひとつは食料倉庫へ。どちらにも知世たちの姿はなかった。さくらが開けたものは回廊に面していて、ちょうど山積みにしたバスタオルを持ったぷちこが通りかかるところに出くわした。さくらが訊ねた。

「あの、知世ちゃんやディアナ様はどちらに行かれたか、ご存じありませんか?」

「こっちにゅ」ぷちこは歩きながらこたえた。そのまま通りすぎる。

 さくらはうしろのソシエとロランに声かけた。「見つかりましたっ!」

 三人はぞろぞろとぷちこの後をついていった。だが、ぷちこはタオルの山の頂上が頭のてっぺんにくるほど大量に持っているため、視界をさえぎる布の壁をよけて首をかたむけながらそろそろと歩いている。その足どりの遅さはカメのごとしである。

 五秒でソシエがキレた。「ロラン、手伝ってあげなさいっ!」

「はいはい……」とほほな顔つきで、ロランはぷちこごと荷物を抱えあげて歩いた。

 ロランの腕のなかでぷちこが喜んでる。「おっ。らくちんにゅ」

 そのまま回廊を進みひとつ角をまがると、ある扉のよこで壁に背を向け、腕を組んで泰然自若として立つ若い男がいた。赤いサングラスがあぶない親衛隊長ハリー中尉だった。美形で精悍な顔立ちをしていなかったらただの変質者である。

 ハリー中尉は腕組みしたまま、異様な出で立ちのソシエに首をかしげて、

「なんだね、君たち?」

「知世ちゃんたちはどこ? さてはそのドアの向こうね。急用なの、通してもらうわよ」

「探偵のホームズとワトソンか。話は聞いている。しかし、いまは――」

 みなまで聞かずソシエたちはどかどかと侵入する。

 三秒後、開けはなたれた扉のおくから、なぜか逆上したソシエの怒鳴り声とロランの悲鳴があがる。

 ハリー中尉が固唾をのんで見守っていると、すぐに這うような姿勢でロランだけが回廊に戻ってきた。どうもソシエから暴行を受けたらしい。ケロヨンの広告入り風呂オケをすっぽり頭にかぶったまま、泣きそうな顔でロランは叫んだ。

「なんで入浴中なんですかっ! さきに言ってくださいっ!」

「すまない」ハリー中尉はわびながらロランに肩を貸して立ち上がらせた。「君も女の子かと一瞬錯覚してしまったのだ」

「あうう……」

 

   ターン8

 

「なにせ、ディアナ様は今朝からずっと各地の孤児院の訪問であわただしく過ごされていてな、お疲れのご様子なので、バスカヴィル卿が休憩をとるよう薦めてくれたのだ。陛下は、もと平民で世間の暮らしをよくご存じな知世様をいたくお気に召したらしく、突然いっしょにお風呂へ行きましょうなどと申されて、私もいささか困っていたのだよ」

 ハリー中尉は後ろ手で慎重に扉をしめた。なかをのぞかないように不自然な姿勢で。不用意な動作で風呂オケが飛んできたらたまらない。

 ひと息ついたロランはうなずいた。

「はあ。たいへんですね、親衛隊というお仕事は」

「うむ。点検してみたが、とりあえず脱衣室と浴室はこの扉を守っていれば密室だから私も許可したのだが……」

 ふたりはチラリとしめきった扉に眼を向けた。意識しはじめると妙に態度がギクシャクとしてくる。コホン、と軽くせきばらいをしてハリー中尉が言った。

「ときにロラン君。彼女たちは……ホームズ嬢たちは、ディアナ様と話しこんでいる最中なのかね?」

「そうですね。こちらにもいろいろと事情がありまして……」

「いや、長い間ディアナ様の警備をしているためか、あの方の考えそうなことがすぐに浮かんできてしまうのだよ。薄汚れたホームズ嬢とさくら嬢を見て、まさかとは思うが……みなでいっしょに入浴しましょう、とディアナ様が申されるかもしれない……」

「それは……マズイですね……」

 ふたりの脳裡に、まぶしいばかりの裸体をさらけだした美女美少女が入り乱れる、桃源郷もかくやという光景が一瞬浮かんで消えた。それは、男と生まれたからには誰もが夢みるであろう、俗世とかけ離れた、天上の世界にも似た甘美なる地であった。

「マズイだろう? しかしここからではまったく様子がわからない。一瞬でも良いから、一度、ドアを開けてなかがどうなったのか情報を得なければならないと思うのだが、君ならどう考えるかね?」

 ふたりは顔を見合わせた。ロランは頬を赤らめてこたえた。

「ノックして返事がなかったら、開けて確かめてみますか?」

「私もおなじことを考えていた」

 ふたりはくるりと回れ右をする。ならんで扉と正対した。ふたりの眼差しは、まるで水平線のかなたにあるだろう遥かなる黄金の国を夢みる大航海時代の冒険者のように、ただまっすぐに大海原をうつして澄んでいるのであった。

 扉をみつめたままロランが言った。「ハリー中尉、どうぞ」

「いや、君にゆずろう」親衛隊長も微動だにせずこたえる。

「では、ふたり同時にノックしましょう」

「それがいい。紳士はなにごともフェアプレイの精神を重んじなければならない」

 なんだかよくわからないやりとりで、ふたりは同時に、右手を胸のまえに持っていった。かるく指をにぎり、手の甲を正面に向ける。そして、手首を少しひねリ、機械のような正確さで同時に指の第二関節を扉の表面に叩きつけようとして――

 ガチャ、と内側から扉が開き、ぐにゅっと変な方向にいろんな関節がまがった。

 完璧なカウンター攻撃だった。

 大航海時代、終了。

「……なにしてるの?」

 ソシエは、床に『く』の字になって倒れこんで、プルプルふるえているロランとハリー中尉を怪訝そうに見下ろした。ふたりは右手首の関節を握りしめながら歯をくいしばっていた。いちはやく復帰した中尉は、尋常でない脂汗をひたいに浮かべながら、よろよろと立ち上がりこたえた。「ちょっとした訓練です。あなたにケガがなくてよかった」

「なに言ってんの?」ソシエはまるで意味がわからない。「ほら……ロランも転がって遊んでないでシャンとしなさい。女王と知世ちゃんが出てくるわよ」

「……はっ、はい」ロランも尋常ではない汗を流しながら立ち上がった。ソシエの後から知世とさくらがならんであらわれ、その後からディアナとディアナがならんであらわれた。

「え……?」

 鏡でうつしたように同じ顔、同じ髪型、同じ服装のディアナが口をひらいた。

『良い湯でありました。待たせてしまいさぞ気をもんだことでしょう。感謝します』

 左右同時発声、そして発音もまったく同一のものだった。モノラル音源がステレオで放送されているような機械的正確さである。ロランは眼を点にしてWディアナをながめ、あっけにとられて口をぽかんと開ける。それをながめてふたりの女王は満足げにニコニコ笑っていた。ソシエは心中を察した顔つきで、うんうんわかるわかる、とうなずきながら同情をこめてロランの肩に手をおいた。

「説明するまでもないと思うんだけど、ようするに、うちの姉様が影武者役で出張ってきてるわけよ。ふたりいっしょに行動してたら意味ないと思うんだけど、まあ、一種の撹乱戦術と考えれば少しは気も休まるわ」

「なんか……芸に磨きがかかってませんか? 呼吸が合いすぎというか……」

「あらゆる訪問地で大受けでご機嫌らしいわ。あは、あはははっ……(虚ろな笑い)」

 そっと眼を閉じ、Wディアナは胸にてのひらをあてて歌うように言った。

『女王という職業は娯楽に飢えてしまうものです。これくらいの座興は許されるべきでしょう?』

「は、はい。さすがディアナ様です。感服いたしました。きっと、英国中の孤児院の子供たちは、今日のあなた様のおこないを末長く胸にとどめ、心の励みとすることでしょう」

 うやうやしくロランは一礼する。

 ソシエは眉間にシワをよせる。「芸の励みにしかならないってーの」などとブツブツ愚痴りながら腕を組んですねた顔つきになる。

「ではさくらちゃん、出掛けましょうか」

 知世がこう呼びかけると、なぜか不安げな表情のさくらに先導されてWディアナが歩き出した。会場とは逆の、玄関へ出る方向の回廊を進み出したのだ。どこへ行こうというのか。ハリー中尉とロランはおどろいた。中尉が知世を呼び止めた。

「もし、バスカヴィル卿。まさか屋敷の外へ出掛けるというのですか? 私の許可なくディアナ様を連れていかれてはこまる」

「ご心配にはおよびませんわ。すぐ近くですもの。メリピット荘――このさくら・ステープルトンさんのお宅ですわ。彼女のお母さまは、それはもうたいへんな大食漢で、このデヴォンシャー地方でいちばんなのは当然、国中でも五本の指に入るほどの人物とソシエさんが申しあげましたら、ぜひ両陛下はひと勝負したいと望まれまして、これから訪問するというお話になったのです」

「ひと勝負ですと?」

「甘味対決ですわ。会場にだれも手をつけていないデコレーションケーキがふたつありましたでしょう? 立派すぎて切るのがもったいないし、かといってこのままパーティーが終わると食べ手がいなくて捨ててしまわないといけません。こんな機会はそうありませんから、わたくしもぜひディアナ様の闘いぶりを拝見しとうございます」

「ディアナ様、お戯れを……。私の記憶によると、あのケーキは高さ一メートル、幅は五十センチはあり、自重でいまにも崩れかねない危険な代物でした。人が触れてはならぬ黒菓子です。座興とはいえ度が過ぎます」

 説得をこころみるハリー中尉に、まーまー、となだめる声をかけたのは意外にもソシエだった。「ふたり一組でやるってゆーんだから不可能ではないわ。それに女王は今日はろくに食事がとれず、まだひと口もケーキを食べてないっていう話じゃない。慈善にいそしむあまり、自分が愉しむことを忘れてしまっては殉教者の悲劇でしかないわ。女王である前に彼女も一個の人間であるわけで、人権的見地からして由々しき事態と思わないかしら、中尉? ケーキを食べないクリスマスはクリープを入れないコーヒー、餅を食べない正月、包帯が似合わない綾波レイみたいなものよ! 存在する価値さえないわっ!」

「あ、綾波レイは関係ないと思うが……」

 思いがけない熱弁をふるわれ、煙に巻かれたかたちでハリー中尉は形勢不利を感じた。また、イベントの内容はどうであれ、敬愛するディアナが愉しみにしていることを無下に断わるうしろめたさもある。中尉がぎこちなくうなずくと、ソシエは間髪入れずパチンと両手をうちならした。

「さあさあ、親衛隊長の許可がおりたわ。さくらちゃん、陛下たちと知世ちゃんをお家へご案内して。ケーキを運ぶのは、ここに頼もしい男手がふたつもあるから問題ないわよ」

 そう言って、快活にソシエはロランとハリー中尉の背中をぽんぽんと二、三度たたいた。

「……しかたない。すぐにあとを追います。夜道ですので足もとにはくれぐれもお気をつけください、ディアナ様」ハリー中尉はしぶしぶ承諾した。

「なんでこうなっちゃうのかな……はあ……」ロランは大きくため息をつくしかない。

 知世とさくらが歩き出すと、Wディアナは優雅に一礼して、

『それではみなさま、後のことはよろしくお願いします』

 と二重に言いのこし、しずしずとさくらの背を追いかけていった。

 先発する四人を見送ったソシエは、通路のすみでポツンと立ちつくし、おとなしくなりゆきを見守っていたぷちこへ眼を向けた。

「……あ、そうそう。ぷちこちゃん、そーゆーわけで、あたしたちもちょっと支度してから出掛けます。悪いけど、でじことうさだにこの件を伝えといてね」

 ぶちこは小さくうなずいた。「お帰りはいつごろにゅ?」

「さあて、いつになるかしら? ちょっとわからないわね。陛下も明日のスケジュールがあるだろうし、あんまり遅くなるようならメリピット荘に一泊して朝に戻るように薦めておくわ。あなたたちは、お客様がみんな帰られたら戸締まりして休んでいていいわよ」

「わかったにゅ。ぷちこはこれで失礼するにゅ」

 とてとて、と小走りにぷちこは裏庭へ出る方向に去ってゆく。その小さな後ろ姿が回廊のかどに消えるのをたしかめてから、ソシエは残された男性陣2名と、小脇に抱えたままの小動物一匹を無遠慮にながめた。彼女は、まるで大軍に命令を下そうとする指揮官のように誇らしげに胸をはり、自分の腰に手をかけて悠然と笑みを浮かべて言った。

「さて、諸君にはこれからひと働きしてもらうわよ……ふっふっふ」

 

 路上からさくらが見渡すと、美しくさえわたる空には銀砂とまごう星が冷たくかがやいて、青白い半月がやさしくあたりを照らしていた。眼をこらすと、小路のかなたにはひっそりとした人家の明かりがもれていて、その手前にあるささやかな果樹園へかすかな光をなげかけているのがわかった。さくらは背後に声をかけた。

「もう少しで着きます、ディアナ様とキエル様。……あの、お寒くはありませんか?」

「いいえ、大丈夫ですよ。すがすがしいデヴォンシャーの空気で、倫敦の霧でよごれた喉が洗われるようです」と晴れ晴れとした表情でディアナはこたえる。

「私も同感です、ディアナ様」ゆっくりとうなずくキエル。

 さすがに観客がさくらと知世だけになると、女王の座興もようやく幕をおろし、ふたりは服装や髪型はそのままだがディアナとキエルというそれぞれの役割に戻っていた。散策気分の彼女たちは、はじめて踏みこむ周囲の無気味な地形にまるで動じることなく、いたって上機嫌に返事をするのだった。

 ディアナは、視線を小路の横手にひろがる沼沢地に向けると、

「そう、霧といえば、あちらの沼地からも白い壁のように濃い霧がおしよせてきてますね。じきにこの路もすっぽりと隠されてしまうような勢いで……」

 楚々としてキエルは相槌をうつ。「そうですわね……くっきりとあざやかに輪郭までついていて。月の光に美しく染まってますね、ディアナ様。倫敦の霧は、すべて灰色でぼんやりと煤ぼけたような景色に変えてしまうのに……。同じ霧でも、土地によってこんなにも違いがあるとはおどろきます」

 グリンペンの大底なし沼の脅威を知らないディアナとキエルは、夜の沼沢地にさほどの畏怖を感じないらしく、眼にとまった風景を淡々とした口調で述べた。まだおさないさくらと知世はそうもいかず、なるべくそちらを見ないようにしていたので、ふたりに教えられるまでまったく気づくことがなかった。

 霧は、散在する小山の山腹から、ねっとりと低いところへ流れているようであった。知世はジリジリとせまってくる濃霧に全身をこわばらせた。

「本当ですわ。わたくしの屋敷の方角は、すでにすっかり覆われているようですわ……」

 遠くをふりかえると、ついさっき通り抜けた路も、低くたれこめた霧によって氷原のようなすがたに変わっていた。知世はささやくような細い声になる。

「これでは、今日はもう屋敷には戻れそうもありませんわ……」

「平気だよ、知世ちゃん。わたしの家に泊まっていけばいいよっ!」さくらは励ますようにつとめて明るくふるまう。後ろをふりかえりながら、けなげな笑みを見せる。

「ディアナ様やキエル様も、もしよろしければそうしてくださいっ! お屋敷みたいにキレイな部屋はぜんぜんなくて恥ずかしいんですけど、自分の家だと思ってくつろいでくだされば嬉しいですっ!」

 ディアナは眼を細めてうなずきを返す。

「良い笑顔です、さくらさん。わたくしたち良いお友達になれそうですわね?』

「そんな……。おそれおおいです、ディアナ様っ!」

「いいえ。わたくしの身を気づかってくれるのならば、なおのことよけいな遠慮はいりません。こうして霧に追われるように暗い荒野をともに歩く道連れではありませんか。この広大であるがままの自然のひざ元では、身分の違いなどなんの意味もないとわたくしは思うのです。……ああ、いけない。こんな話はみなさんには退屈ですね?」

「そんなことはありませんわ」知世が首をよこにふる。「今宵はディアナ様とキエル様にお近づきになれて本当に光栄でございますわ。昨晩は、英国が誇る名探偵ホームズ様とワトソン博士と知り合いになれましたし、一生忘れることのない体験ができたと思います」

 ディアナとキエルはともに笑みを浮かべた。

 ふと、キエルが少し表情をくもらせて訊ねた。「……しかし、ソシエは何故こちらに? つい聞きそびれてしまいましたが、あの子が倫敦を離れて観光におもむくことなどおよそ考えられないことです。このような土地には複葉機の遊覧飛行で上空を飛びまわるぐらいの用事しかない娘です。暇さえあれば、手当たりしだいに書物を読みあさったり、浮浪者の格好をして貧民窟をうろついたり、英国中の新聞をあつめて使われている活字の鑑定などしています。ときには友達に会いにいくロランの後をこっそり尾行したりして……。あんな探偵ヲタクな妹を持って恥ずかしいかぎりです」

 この姉妹は身内のことは言いたい放題らしい。さくらと知世は顔を見合わせてひきつった笑顔になる。知世が、じつは……、と説明をはじめようとした矢先、ディアナが突然きびしい顔つきでそれを制した。

「お待ちなさい。どうもよくない空気を感じます」

 足をとめ、ディアナは怜悧な眼差しを正面の小路に投げかけていた。異変に気づいた他の者も立ちどまり、正面を凝視した。

 メリピット荘へとつづく小路もすでに濃霧につつまれていた。その白いカーテンのおくからこちらに近づいてくるひとつの人影があるようだ。小柄で背丈はさくらたちと大差ない。チリリン。チリリーン。チリリーン……。近づくにつれ、かすかな鈴の音が聞こえてきて、その人物が霧を抜けすがたをあらわすと、それはぴたりと静まった。

「……お客様、おそかったにょ。待ちくたびれたにょ」

 でじこが小路の中央に立ちふさがって言った。

「すみません」とさくらは頭を下げてから、ハッとなってまじまじとでじこを見つめた。「でじこちゃん、どうやってここへ? わたしたちが通った道以外にはメリピット荘にいけないはずなのに。いつ追い抜いたのっ!?」

 さくらの指摘で、事の異様さに気づきディアナたちも身をこわばらせた。たがいに肩をよせあい、じっと視線をでじこに注いだ。でじこは肩をすくめて皮肉をこめてこたえた。

「やれやれ、女子供はこれだからこまるにょ。本来、バスカヴィル家は由緒正しき騎士の血統……武家の屋敷に外へつながるひみつの地下通路のひとつやふたつ、あるに決まってるにょ!」

 知世が眉をひそめる。「……なぜあなたがそのようなことをご存じですの?」

「決まっているにょ!」

 でじこは自分の背中に手をまわした。ジジ、ジジ、ジジジ……。ファスナーを開いている。背中がぱっくりと、それはもう間違いなくぱっくりと割れ、

「――わたしが真のバスカヴィル当主、ギム・銀河南無だからだっ!」

 でじこの『中』から身長二メートルあまりのロン毛の大男が出現した。

 筋骨隆々としている。腕組みして仁王立ちである。

 しかも全裸だ。

 丸裸だ。

 小さい銀河南無もブラブラしていた。

 そこもやっぱり全裸だ。

 くりかえすほど全裸だ。

 うんざりするほど全裸だ。

 あふれんばかりな全裸主義の大主張だ。

 ぱたりぱたりと背後でふたつ、何かがたおれる物音がして、さくらと知世は無言でふりかえる。「………」「………」

 ディアナとキエルが気絶して地面に横になっている。

 しまった、と残されたふたりの少女は愕然となった。

 こんな場合、さきにパニックになった者の勝ちだ。ちょっとでもおくれると、理性が働いて思いっきり冷静になってしまい、『なかったことにしましょう』という本能的な逃避行動に精神が移行しない。

 さくらと知世はたがいの顔を見つめあった。たがいに大きくため息をついた。ふたりの想いは同じである。こんなわけのわからない男の応対をせねばならないのか。なんという過酷な運命であろう。ふたりはいま世界中でもっとも不幸な美少女小学生コンビであった。

 おそらく先代のチャールズ卿は、地上の物理法則を無視したこの銀河南無の変装と全裸ぶりに驚愕して逝ってしまわれたのだろう。同じ立場のいまは、その心中が痛いほど理解できたのであった。

 ふたりは銀河南無に向き直り、妙にさめた顔つきになる。

 さくらが事務的な口調で言った。

「それで銀河南無さん。なんの御用でしょう。わたしたち忙しいんですが」

 暗黙の了解で知世もあとにつづく。

「学習塾からの帰りでほとほと疲れておりますの。コンビニによって栄養ドリンクを飲んでから、背をまるめてトボトボと家路をたどり明日の学校の準備をしたら、ひと息ついてようやく休めるのはもう十二時すぎですわ」

「なんでいやに現実的な小学生ぶるのだっ!?」銀河南無はぷりぷり怒った。頭のてっぺんにあるちょんまげもプルプルふるえている。「いま舞台は最高のもりあがりをみせているのだぞ! 私なぞ、こんな寒空の下なのにふつふつと全身が燃えるように熱いぞっ!」

 小さくさくらがつぶやいた。「テンション高過ぎ」

 知世がひそひそと耳打ちする。「これだからマッチョメンはきらいですわ」

「ああもうっ、だから女子供は好かんのだっ! 場の空気というものがわからんのか。ここは絹を裂くような悲鳴を上げて逃げまどうシーンだぞ。……ふん!」

 ひと声かけて気合を入れると、びろーん、と銀河南無のちょんまげが二メートル近くのびた。手元では、鞘から脇差をぬきとる動作をしている。全裸の男が白刀を正眼にかまえて、威嚇するようにちょんまげを左右にブンブンふって間合いをつめてくる。とてもこの世の光景とは思えない。いろんな意味で危険な香りただよう男、ギム・銀河南無。

 さすがに刃物を持ちだされるとふたりの美少女は危機感をつのらせた。それ以上に伸縮自在のちょんまげも正体不明でイヤだった。それはもうイヤ過ぎた。あんなものに締め上げられて死んだら洒落にならない。恥ずかしい、恥ずかし過ぎる。どっとへんな汗がひたいに浮かんだ。

「いやーっ!」

 素にもどったさくらは、知世の手をひいて小路のよこへ脱兎のごとく飛びでた。荒野に出て、持前の運動神経と方向感覚で沼沢地の闇にまぎれこみ、あわよくば銀河南無の追跡をふりきって底なし沼の犠牲にしようという作戦である。

「おらおらおらっ!」負けじと銀河南無も走り出していた。小さい銀河南無もなかば宙に飛んでぶらんぶらんと半無重力状態、おれは自由だ〜、とばかりに一緒に走っている。大きいほうも小さいほうも聞きしにまさる暴れん坊ぶりであった。

「いやーっ! ほんとにいやーっ!」涙目で叫ぶさくら。

「おらおらおらっ!」ぶらんぶらんぶらん。

 しかし、手に汗握る攻防はあっけない幕切れをみせた。濃霧のため視界がきかず、美少女ふたりはいつのまにか断崖絶壁に追いこまれる窮地に陥っていた。左右は悪名高き大底なし沼が果てなく口をひらいている。息をきらせて立ち往生するさくらと知世の背に、やがて、余裕たっぷりの銀河南無の笑い声があびせられた。

「はっはっはっ。計算が狂ったようだな。私がお前とおなじようにここの生まれであることを忘れたな? 沼沢地なぞおそるるにたりん! 領主たる私には庭の一部にしか過ぎんのだよ、お嬢ちゃんたち。くっくっく」

 ふたりがふりかえると、少しも息を乱さず刀とちょんまげを構えた全裸の男がいる。不敵な笑みをもらしながらジリジリとすり足で近づいてくる。

「いやーっ! やっぱり全裸はいやーっ!」

「ふふっ。命をとるのはわが一族の知世だけだ。心配するな、さくら。お前は私のストライクゾーンだ。だまって『ねんごろ』になれば可愛がってやるぞ」

 ぽっとほほを赤く染め、とんでもないことをロン毛は告げる。

「結婚を前提として交際を申しこむっ!」

「いやーっ!」本格的に泣きだすさくら。

「こんな人の一族はいやーっ!」知世は命の危険よりもこっちのほうが重要になってきた。

 そんなふたりの反応に動じることなく、白刃が大きくふりかぶられた。ギラリと月光をあびてその銀色の牙はにぶい輝きをはなった。

「はっはっは。戦うことなく逃げまどうだけの女に、武門の名家をまかせるわけにはいかんのだっ! 悪く思うなっ!」

 死の宣告が終えたそのとき、銀河南無の背後から銃声が轟いた。

 タン。タン。タン。立て続けに三発の銃弾を背に浴びて、銀河南無は地面に片ひざをつけてよろめいた。「……むっ!?」

「お楽しみはそこまでよ、ヒューゴー・バスカヴィル。いや、わが国の裏社会を跳梁する秘密結社の大幹部、ギム・銀河南無っ!」

 あつい霧のベールのおくから、ソシエ・ホームズとその忠実なる友ロラン・ワトソンが、一陣の風となって颯爽とすがたをあらわした。知世が満面に喜色を浮かべて叫んだ。

「ソシエ様っ、よくいらしてくださいましたっ! ナイスタイミングですわ(ハート)」

 油断なく拳銃を腰だめにかまえたままソシエは知世たちに歩みよった。視線と銃口を銀河南無に向けたまま説明をはじめた。

「礼には及ばないわ。あたしがあなたを窮地におとしいれたのですから、それを救い出すのは当然の義務なのよ。……ごめんなさいね、あなたたちを囮に使うような真似をしてしまって。敵の真の姿をあばいて、法の裁きにゆだねるにはこの方法しかなかったのよ。じき、女王たちの介抱をしてから、ハリー中尉がレストレード警部と一個小隊をひきつれてここに逮捕に来るわ」

「まあ、囮ですって? ……ああ、そういうことですの。ソシエ様が入浴中のディアナ様に、突然『さくらちゃんのお母さまは近所で評判の大食いチャンピオンなのですよ』と申し上げたのは、負けず嫌いなディアナ様を焚きつけて、銀河南無が正体をあらわすこの状況をつくるための計略でしたのねっ!」

「そうゆーこと。完璧に敵をだますには、真の目的を知っているのはごく限られた小数でなければいけなかったの。わるいわね、ホントに」

 殊勝に頭をさげるソシエ。そのとなりで、憮然とした顔つきでロランがつぶやく。

「ほんと、成功したからいいものの、もしディアナ様たちの身になにかあったら、ぼくたち死刑だけじゃすまされないような重犯罪人ですよ。ぶつぶつぶつ……」

 おのれの計略のため、依頼人や神聖なる女王陛下さえ手駒としてつかうとはさすがの銀河南無も見抜けなかっただろう。ひざをついたまま、感服したようにある意味愉しげな表情をして、長髪の男はソシエに言った。

「大したものだ、してやられたぞホームズ。組織の科学力を利用した私の変装は完璧だった。だが、見破れないのなら、変装をときたくなる状況を生み出せばよい。やはり仲間から聞いたとおり優秀な戦略家だな、お前は。いや、昔の名はたしか『素晴らしき三つ編みのソシエ』だったな……」

 ぴくりとソシエの眉尻があがった。

「懐かしいコードネームね。でも三つ編みおさげはとっくに卒業したわ。ショートヘアを制するものが世界を制するのよ」

 さりげなく妙な主張をするソシエ。

「……しかしやはり、あなたはあの組織の者なのね。あたしがいたころは、自然崇拝主義のディアナ女王の思想に反発する、それはそれは純粋に、ただ夜更かしを愉しんで研究したり遊んだりするだけの反社会的組織だったのに……。脱退したあと『クイーン・セレニティ』がなんたら『世界征服』をどうこうなどと、らしくもない世迷言をうわさで聞いたのは、あなたが組織に入りこんで活動方針を変えたからなのね」

「ふふっ。そういうことだ。まあ、脱落者のお前にはなにを説いても解せないだろうがな」と銀河南無はニヒルに苦笑する。

 あごに手を当てて考えこむソシエ。ロランたちにはまるで意味が通じない。ロランが我慢しきれず意味深な会話にわりこんで訊ねた。

「あの、ソシエお嬢様。その組織って、ひょっとして『ディアナ・カウンター』では?」

 ソシエは頭をぽりぽりとかきながら、いかにも気乗りしない様子でこたえた。

「世間ではそう言われてたようね。あたしたちは『黄金の夜更かし団』と呼んでたんだけど、あんまり秘密結社らしくない名称だから普及しなかったのよ。えへへっ」

 可愛くわらって照れる。ロランとさくらと知世はその場に凍りついた。

 そっとロランは自分の肩を抱いてつぶやいた。

「さむい」

「さむいってゆーな」ちょっと傷ついた顔つきのソシエである。

 だが、銀河南無が動く気配をみせたので、ハッとなり緊張の眼差しを投げかけた。「ちょっとあなた、三発も命中してるのに動けるの?」

 銀河南無は悠然と立ち上がり、先端の丸くなったちょんまげをソシエの前に掲げ、

「これのことか?」

 丸まっていたちょんまげが開き、そこからこぼれ落ちる三つの弾丸が地面の岩で硬い音を立てた。銀河南無は低く笑い声をもらした。

「侍大将を甘く見てもらってはこまる。背後をとられてもこのていどの芸当はできる」

 ソシエたちは開いた口がふさがらない。

「なんなのよ、あんたっ!? いやーっ!」タンタンタン! 連射する。

 全弾、防御される。「どーなってんのよ、あんたのちょんまげはっ!」

 たまらず叫ぶソシエに、銀河南無は自慢げにちょんまげを撫でて胸をはる。

「ロン毛侍、見参というところかな。くっくっく」

 イヤな侍もあったものである。

 弾幕のおかげでうかつに近づいてこないとはいえ、人切り包丁を持った大男相手にいつまでもこんなことを続けていられない。ソシエは上空をあおぎ、とつぜん叫んだ。

「ケロちゃん、来てる!?」

「おるで〜」パタパタと羽音が降りてきて、上空監視役となっているケロがすがたを見せた。「なんや、いがいと苦戦しておるの〜? 難儀やな、銃が効かへんと……」

「ここにいるってことは、中尉たちの部隊はちゃんと誘導できたんでしょ?」

「もちろんや。まっすぐここに向かっておる。もう、すぐそこまで来てるでっ!」

 そう言った矢先、どかどかと軍靴の足音があたりにこだました。霧を抜けて、中尉、警部、そして息をふきかえし、事情を聞いて陣頭指揮をみずから進んでとるディアナの凛々しい容姿が視界に入ってきた。親衛隊、スコットランドヤード精鋭数十名のそうそうたる混成部隊に守られたディアナは、ライフルを持つ部下にするどく号令をかけた。右手を高だかと天にふりあげ、

「構えっ!」

「むっ!」ふりかえって身構えるロン毛侍。

「ってい!」

 大きくディアナの右手がふりおろされると、射撃姿勢をとった男たちが次々に発砲する。

 一糸乱れぬ集中射撃はひとつとなり、砲撃が炸裂するような轟音を沼沢地にひびき渡らせた。無数の銃火がひらめき、あたりには火薬の匂いがいっぱいに充満し、濃霧はおそれをなして逃げだしたようにつかの間吹き消された。一条の月明かりがさして夜の底の戦場を煌々と照らした。

 だが、戦場の中心に立つ銀河南無は健在であった。

 全弾ちょんまげ防御、成功。

 ディアナは悔しげにくちびるを噛んで叫んだ。

「どーなってるのです、あなたのちょんまげはっ!」

「はっはっは」銀河南無は大笑いしてる。「今回のところは、ソシエ・ホームズのみごとな策に免じていったん退くとしよう。なに、資金集めの方法はいくらでもある。アキバあたりでひと儲けしてからこの国には戻ってくるとしよう。はっはっはっ!」

 高笑いをあげたまま、銀河南無はちょんまげを垂直にピンと立てた。なんと縦に四つ、それがぱっくりと四方へ裂けたかと思うと、ヘリコプターの回転翼のようにグルグルとまわりはじめた。やがて回転速度がじょじょにあがってゆき、周囲に突風を呼びよせるほどになる。「それでは、次の機会を愉しみにしているぞ、諸君っ!」

 飛んで逃げるつもりのようだ。

 竹コプターならぬ、まげコプターの脅威の性能である。

 ソシエが地団駄ふんで悔しがった。

「ああもう、刀がじゃまで縄を投げたとしても捕まえられそうにないわ。なんとかしなさい、ロラン君っ!」

「そういわれましても……」

 目の前でつぎつぎと繰り広げられる想像を絶した珍事件に、もうロランは呆然とするしかない。同じくぽかんとしていたケロだったが、ふたりの頭上でふいに何かを思いついたらしく、ポンと前足二本を打ち鳴らした。

「そうや、刀では斬られんようなものならどうやっ!」

「はい?」ロランはいぶかしげに聞き返す。しかし、ケロはさくらに向かって言った。

「あんまし時間がない。黙ってわいのゆーとおりにしたってや、さくらっ!」

「う、うん。わたしでいいなら、力を貸すよケロちゃん」眼をパチクリするさくら。

「よっしゃあ。ええか、この魔法の杖を高く掲げて、こころをこめて『さくらの名において命ず。そのもののあるべき姿にかえれ。封印解除』と唱えるんやっ!」

 その魔法の杖はどう見ても魔女っ娘御用達のピンク色のバトンであった。クリスマスにふさわしい星の飾りつけやヒラヒラした可愛いリボンなどが、なんだがすごいことになっている。ふたつ返事で引き受けたものの、こてこての魔法アイテムはさすが恥ずかしいらしく、ほほを赤らめながらもさくらは杖をにぎりしめた。そして天に向かって高くあげた。

「さくらの名において命ず。そのもののあるべき姿にかえれ。……封印解除っ!」

 光芒がにわかに発生した。

 新星が落ちてきたかのように全身をまばゆく光り輝かせる。

 ロランが。

「なんでぼくなんですかーっ!?」

 その絶叫を最期に、ロランは十七年のはかない人生に別れを告げた。

 

   ターン9

 

 ♪ターンAターン ♪ターンAターン ♪ターンA〜

 

 小林亜星の音楽とともに、高らかにヒデキがBGMを歌い上げる。

 誕生、魔法の貴婦人『ローラ・ローラ』(ハート)

 ヒデキ。

 感激。

「いやーっ!」あられもなくローラ嬢は悲鳴をあげた。

 そして、瞳の色とおそろいの若草色のドレスを見おろし、もじもじと身をよじらせた。耳元では美しい大ぶりなイヤリングがきらきらと輝き、薄化粧をほどこされたエキゾチックな褐色の美貌にさらに華を添えている。

 思わず頭を抱えると、髪型さえも長くなっていて愕然となる。

「どうしてわたくし……ああ、声もしゃべりかたまで完全に女性に……!?」

「あったりまえや。魔法のレディーは、いつでも社交界デビューできる礼儀作法を身につけた、ごっついお淑やかなお嬢様やで〜っ!」

「なんでこうなりますのっ!」

 ぜんぜん慰めになってないケロの言い分に非難の視線を向ける。なんのつもりかさらに問いつめようとするローラ嬢だが、ふと周囲の熱い視線を感じ、背筋を凍りつかせた。

 ヤードと親衛隊の男たちが、食い入るように彼女の可憐なすがたに見入っている。

『見逝ってる』という表現でもよい。みなが小さく『いい……。いい……』と口々につぶやき、瞳に異様な星をちりばめ、ちょっと隙をみせれば駆けよって我さきにと口説きかねない雰囲気である。いや、こちらはまだ言葉で説得が可能なだけマシだが、彼女のすぐとなりでワナワナと肩をふるわせているソシエは、かなり危険な香りをぷんぷんと漂わせている。

「あ、あのソシエお嬢様……わたくし……」

 よせばいいのにおそるおそる声をかけると、なかば予測したとおり爆発する。

 ソシエはドレスの布地越しに点検をはじめた。右手、左手が別々のところを触り、

「ないっ! そして、こっちはあるっ! ……しかもあり過ぎっ!!」

「ガンダムパロなだけに、Gカップやで〜」

 のんきな声でケロがいらんことを教える。

 むぎゅ、とケロは首根っこをつかまれて、眼を白黒させた。しっかと捕まえたまま、ソシエは尋常でない眼光で哀れな小動物を見据える。「あたしは、納得のゆく説明がどーのこーのなんて、まどろっこしい問答はしないわよ。……たったいまお前を殺すっ!」

「わわっ! まっとくれやっ!」

「ロランの仇はあたしがとるっ!」と逆上して銃口をケロの鼻先におしあてる。

「大丈夫や! ちゃんともとに戻れるさかい、落ち着いてんかっ! ごほ、げほっ!」

「……なんだ、戻れるならいいわ」

 ぽいっ。咳きこむケロを飼い主さくらの胸元に放り投げてわたす。さくらの腕のなかでケロはぜえぜえと息をついた後、ごそごそと懐を漁って、ローラ嬢へトリコロールカラーの白いバトンを手渡した。

「はふー。……さあ、この魔法の杖のさきを銀河南無に向けて、呪文を唱えるんや。ちゃんと相手に狙いをつけたら、呪文は自動で口から出てくるやろ。ローラ・ローラは、前に言ったとおりごっつい魔女っ娘やさかいな、相手が空を飛んでてもちゃんと魔力がとどくんや。いま頼りになるのはお嬢だけなんやでっ! いっちょ頼むわローラはんっ!」

「は、はあ……。あの、今さらどうでも良いことですけれど、ケロちゃんはこういうアイテムをどこに隠し持っているのかしら?」

「わいもよく知らん」

「ほう。出どころが本人にもわからない物を、ほいほい他人にわたすのか。お前は」

 そう言うソシエの視線にはまだ殺意の波動がこめられていた。深く考えるとローラ嬢ももなんだか絶望的な気分になってくる。彼女の上品なうす桃色のくちびるがピクピクとひきつる。ともかく、周囲の期待を一身に背負っている魔女っ娘レディーとなってしまった。現実は受けとめよう。上空の銀河南無を涙目のまま見上げた。

 まげコプターは垂直に十五メートルは上昇していて、どうゆう原理で操作しているのか不明だったが、もう底なし沼の上を通りすぎる水平飛行にうつっていた。速度はあまりない。トロトロ飛んでいる。しかし、全裸の大男が、頭のてっぺんから回転翼をまわしながら夜空を悠々と飛翔しているのである。くっきりとした尻のわれめがこの距離からでもわかった。夢に出てきそうな光景だ。ローラ嬢は自分の視力の良さを呪わずにはいられない。

「あうう……。ええい、やるしかありませんわ……ファイト、ローラ」

 自分を勇気づけ、ふと、手にした白いバトンに視線を落とした。

 顔がついてる。もちろん白ヒゲのモビールスーツの頭部とそっくりだ。とてつもなく危険なレベルでローラはいやな予感がした。

「自動で、とか仰ってましたけど、まさか……」

 そのまさかであった。ブゥ……ン、と低い起動音がしたかと思うとつぎに、ピー、とあきらかに警報音が鳴った。ヒゲ・バトンは勝手に持ち上がり、眼を点にしたローラの手を逆にひっぱり上げながら、迷うことなく上空の一点に狙いをさだめた。

 自動詠唱モード、開始。

「年を越せ、夜を越せ。男は男。女は女。ホワイトドールの御加護のもとにっ!」

 自動狙撃モード、開始。

「……ロン毛封印っ!」

 天空を引き裂くように、得体の知れない光線がまっすぐに銀河南無にぶち当たった。

 直撃である。惚けるローラ。数秒して光線はかき消えた。

 上空で銀河南無は静止飛行している。自分の裸体をしげしげと見下ろしている様子だ。光線で撃たれたのは理解しているのだろうが、格別、身体的損傷があらわれず困惑しているらしい。では、いまの怪光線はなんだったのか? 首をかしげ、自分の口もとに手をあてた銀河南無は、その答えに偶然たどりつき驚愕した。

「ヒ、ヒゲが生え出しているというのか、私の鼻の下にっ!」

 そう。立派にハネあがった、まっ白い口ひげがいきなり生えていた。

 しかもまだ伸びている。どんどん伸びて、一メートルに達し、さらに二メートルの大台。とどまることを知らず、なおも白ヒゲは伸びてゆき、風に吹かれて頭上の回転翼に巻きついた。あわてて刀をふりまわしても手遅れである。ぴたりと回転翼が止まる。

「いかん、なんたることだぁぁぁぁぁ!」

 推進力を失った銀河南無の落下がはじまる。落下しながらも白ヒゲは成長をつづけ、銀河南無の全身にまきついて、その身体を完全に封印してしまった。

 生まれたての白い繭玉のようである。

「うおーっ!? 繭ってる、繭ってるぞーっ!!」

 悲痛なんだか喜んでるんだかわからない喚声をもらして、繭玉はひとけのない沼地にポトンと落ちた。じわじわと繭玉は沈んでゆく。まぎれもなく底なし沼であった。近くでエヴァンゲリオン初号機の『中隊長マークのツノ』だけが地表に突き出ているところを見ると、その深さはとてつもないものだ。人力での回収作業は不可能に近いであろう。ローラ嬢たちは、繭玉を陸地から遠巻きにながめることしか出来なかった。みな口々に、

「繭ってますな」

「みごとに繭っておりますわね……」

「これは繭りましたな。はっはっは」

 などと無責任な談笑がはじまる始末であった。

 

 さて、以上でこの奇怪で長い物語は、急速に終局をむすぶこととなる。

 問題は事後処理であったが、頼まれなくても女王ディアナは法廷におもむき、さくらの父ステープルトン教授の情状酌量を勝ちとり、さくら親子の感謝の念を一身にあびて、上機嫌で宮殿に帰っていった。

 知世はバスカヴィル邱の全面改装に着手し、その後は、呪われたグリンペン沼沢地の開拓事業を指揮しつつ、さくらと同じ小学校に通うという多忙な日々を選択した。まだまだ得体の知れないものが埋まっている魔境である。見世物にするのなら世界に類をみない博物館がいくらでもつくれそうだが、

「あたし、もううんざり。繭がひょっこり出てきたらどうするつもりなのかしらね、知世ちゃんてば……」

 とソシエは肩をすくめた。

 新年が明け、一月一日のことである。

 ベーカー街に戻ったソシエとロランは、例の一室で気持ちよく燃えさかる暖炉を両方からはさんでひじ掛けに座っていた。ロランは、ソシエといくつか情報のやりとりをして他愛ない会話をしながら、今回の事件の記録を原稿に記述している。おそらく、ホームズ物語最大にして最高、と後世に称えられる作品になったりならなかったりするだろうが、それは置いとくとして。

 ソシエが懐中時計をとり出して、文字盤をじっと見た。

「そろそろお姉様が来るわね」

 まるで宿敵を迎えるガンマンのような渋い表情である。こんな調子だが、気心が知れた仲睦まじい間柄なのはわかっているから、ロランは苦笑いするだけだ。ロランはペンを机上に置き立ちあがる。「では、そろそろ夕食の準備をします。といっても昼食の残りを温めるだけですが、買い置きの食料の中からリクエストとかありませんか?」

「待ってちょうだいロラン君。用意はわたしがするから、あなたはそこにお座りなさい」

 ソシエは、かしこまった顔つきでそう告げると、立ち上がっていそいそと働きだした。新年早々、めずらしいことが起きるものだ。ロランは半信半疑でまた椅子に腰かけた。

 ふいにチリリンと玄関の呼び鈴がなった。ハーイ、と若奥様風にソシエは返事をしながら扉へ向かってゆき、訪問者姉キエルを連れて帰ってくる。キエルは重い外套を脱ぐと、にっこりとわらって暖炉近くの椅子に腰かけ、奇妙に熱をおびた視線をロランに向けた。

「新年おめでとう、ロラン。昨年は大活躍だったわね」

「いえ、そんなことはありません。なかったことにしたいくらいです」

 きっぱりと否定するロランに、キエルはくすくすと微笑する。

「でも、殿方は誰でもいちどは女性として生を授かった自分を想像してみる、と聞いたことがありますよ。変身願望の一種ですね」

「思うだけなら構いませんが、突然ぱっと変えられたらそうとうショックを受けますよ。キエルお嬢様も、朝起きたら原因不明で男性になっていた、なんて怪事件に巻きこまれたとしたらどうしますか?」

「そのときはロラン博士に診察してもらいましょうね」

「あ、そんな……(赤面)。いや、男性の身体なのだから診察は遠慮しなくていいんですよね。あはははっ」

 照れかくしにロランは明るい笑顔をみせた。

 なごやかに談笑していると、ソシエが湯気の立つお盆を持ってふたりのもとへやってきた。意気揚々とソシエは宣言した。

「では、あらためてお姉様立ち会いのもと、『聖なる刻飲の儀式』をはじめたいと思います(ハート) これでふたりとも喉をつまらせても、怪死体となってヤードに捜査される心配はないわけね(ハート)」

「はい?」わが耳を疑い、ロランはわらっていた顔を凝固させた。「なんですって?」

 芝居がかったぎこちない仕草で聞き返すロランを見て、キエルは細い眉をひそめた。

「ひょっとしてソシエあなた、儀式のこと教えてないんじゃないの?」

「ああ、そういえばそんな気がする」

 ささー。ロランの顔から音を立てて血の気がひく。

「そんな気がする、じゃありませんっ! てっきりもう中止したのだと……」

「延期だよ、延期(ハート)」ソシエは可愛く訂正した。

「可愛く言ったってムリなものはムリですっ!」

「あら、ムリじゃないわよ。現にこうして、八個飲んだ人がピンピンしているもの」

 ソシエが指差すと、なんのつもりかキエルはVサインをする。恐怖の大王が降りてきそうなほど似合わないポーズであった。やはり本人もわかっていたのか、やや頬を赤らめてコホン、と軽くせきばらいをした後、素の生真面目な口調で言った。

「シャンとしなさい、ロラン。私にも立会人として呼ばれた責任というものがあります。なにがあろうとも最期まで立派に見届けると誓いましょう」

「そんなこと誓われても……」

 しどろもどろのロランであった。ソシエはその眼前のテーブルに、ドンと威勢よく叩きつけるようにお盆を置いた。愛情たっぷりにホカホカに焼き上がった、二人分の十二個の餅が等間隔にならんでいた。

 もはや逃げ道なしなのか。ロランはそっと心の女王陛下に告白した。ディアナ様、ぼくはひとつ秘密にしていることがあります。ひょっとしてその仕打ちがこの事態を招いてしまったのでしょうか? どうかお許しください。また、魔法の貴婦人ローラ・ローラになるべき事件が起こるのではないかと危惧して、こっそりとヒゲ・バトンを倫敦に持ち帰ってしまったのです。封印はもう解かれっぱなしで、これを手にして念じるだけで、再びローラ・ローラの姿に変身するらしいので……。いえ、ソシエお嬢様にみつかったらただでは済まないことは承知しているのですが、つい出来心で。

 心の女王は沈痛な面持ちでロランを見つめた。

(………)

 無言のままフェードアウト。

 ほっ、放置プレイですか!?

 

 世紀末の倫敦に、白いヒゲ・バトンを手にして悪とたたかう魔女っ娘の伝説が残されていたとしても、それはべつの物語として綴られるべきであろう。ここで作者はいったん筆を置くこととする。――いつかは伝説はおわりを告げ、歴史がはじまるのだから。

 カメラ目線でソシエがきびしい顔をする。「続きなんてないわよ、もうっ!」

 

 

                            了     12/24/2000 




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