ソロホームランを放ったリュウスケは、ゆっくりとダイヤモンドを回った。
その間だけは球場の全ての視線を集め、試合の進行は一時止まる。
ホームランを打った者だけの特権である。
最後にホームベースを踏み、スコアボードに1の文字が浮かび上がり、つんざくような声が球場に広がっていく。
《1点っ、1点!
ついに第壱高校、待望の先取点を掴みました!!》
司会の声も興奮しているのか震えていた。
文字通りの投手戦が続き、均衡を破ったのが四番の一振り。
緊張感に包まれた試合はまさしく野球の醍醐味であった。
ベンチから眺める加持から安堵のため息が出る。
「...考え過ぎだな」
リュウスケの一発は先程浮かんだ加持のイヤな考えを一蹴し、試合の流れを決定付ける。
歓喜に沸きあがる第壱高校とは対照的に、広島商業高校サイドに重い空気が漂い始めた。
マウンドに広島商業高校ナインが集まる。
「マズイな...
ここにきての一発は」
イラだった感じでジュンイチが話す。
「...スマン」
「おまえが謝る必要はない。
球は走っていたし、コースも完璧だったんだ。
...打った方を誉めるべきさ」
チラリと第壱高校ベンチを見る。
その先には敵の四番のリュウスケがいる。
手荒い歓迎を受けるリュウスケを見る目には羨望と嫉妬が混ざり合っていた。
(オレが碇シンジを打ち崩さないとな...)
同じ四番としての役目を果たさんがために、焦りが出始める。
残る攻撃のチャンスは6・7・8・9の計4回だが、確実に自分に回るのはその内の7回、たった一度だけであった。
大切な人への想い
第九拾七話 戸惑い
ガタガタと揺れる電車の中でアスカは壁に寄りかかり、外に目を向ける。
窓から見える景色が次々と流れ、消えていく。
それは知っている風景で、今まで何度も同じように見ていた。
窓ガラスに薄く映る自分の顔もいつもと同じだ。
電車の中を見回せば仲間たちと思い思いに話す人、座席でうたた寝する人、新聞を広げている人、自分と同じ場所に向かう人たちであふれている。
アスカはその新聞に目が止まった。
甲子園の今日の対戦表だ。
いつもならシンジのことだけを考えながら電車に揺られていた。
しかし今日は違った。
昨日出会った敵のエース、ヨシカズが頭から離れない。
テレビの画面上で見た今日のヨシカズの実力はかなり高い。
誰が見てもそれは明らかだった。
しかしシンジはそれをさらに上回った。
シンジが投げる限り、点は取られない。
そう信じて疑わない自分がいるにもかかわらず、なぜだか不安に駆られる。
不安になる理由は無いはずだった。
自分が一番シンジの力を信じているはずだった。
信じていた−−−
ここで唐突に綾波レイの顔が浮かんだ。
「あの女...」
シンジの妹にうりふたつの少女。
彼女はレイと初めて逢ったときと同じように突然現れ、そして知らぬ間にシンジの恋人になっていた。
自分ですら、レイですらなれなかったのに、彼女はいつの間にかその位置にいた。
彼女が再びシンジをここまで支えてきたと思うと嫉妬と劣等感を感じてしまう。
レイにあまりにも似すぎた容姿だけでなく、彼女だけがシンジを独占できるから。
(シンジを見るあの目は同じだった...)
自分の入り込む余地は無い。
二年前のあの時と同じように−−−
「...くっ」
レイの最期の瞬間を思い出すと、知らず知らずの内に下唇を噛み締めて俯いていた。
俯いた先に見えるのは自分の足元だけ。
コツンと頭を壁に預ける。
「なんでイラつくのよ...」
アスカの独り言は電車の騒音に掻き消されていった。
☆★☆★☆
「あと1人っ、あと1人っ!」
いつの間にか回は流れ、ついに9回の裏の2アウトとなっていた。
そして打席には最後の打者になるであろう一番バッターが立ち、スタンドの両翼からは大声援が鳴り響く。
その中心に立つ第壱高校のエース、碇シンジが小さく頷いて投球モーションに入る。
「ストライーク!」
審判が叫ぶと同時に第壱高校スタンドが大音響で揺れる。
9回まで投げていながら球威は全くといっていいほど落ちていない。
カヲルがサインを送るとシンジが迷いも無く頷く。
息の合ったバッテリーである。
(出る...絶対出る!)
最後のバッターがキっとシンジを睨む。
広島商業高校スタンドからの応援が背中を押す。
2アウトと追い詰められた中、それが心の支えとなる。
ギュっと握るバットのグリップに汗が滲み、踏みしめる甲子園の土に力が入る。
打つ気満々だった。
カヲルに見透かされているのも知らずに...
ザ...
サインが決まり、追い込んだ打者に最後の1球に入った。
決め球はもちろん揺れるフォークボールだ。
シンジが大きく振りかぶった瞬間、スタンドからの声援は最高潮に達する。
その中にいるトウジとケンスケは、ただ見守っていた。
誰もがその1球に集中していた。
ガツっ
当たり損なった打球がシンジの守備範囲の三塁寄りに転がっていく。
その瞬間、第壱高校ナインは勝利を確信した。
打者は全力で一塁を目指す。
ムリだと思ったが、最後の最後まであきらめたくはなかった。
シンジが転がったボールをグラブで捕球した後、一塁に振り向きながら送球態勢を作る。
一塁のヨウスケはすでに捕球態勢を取っている。
ライトがサポート位置に走る。
必要は無いかもしれないが、念の為であった。
そしてシンジが一塁に送球し、ボールが一塁に到達した時点で試合は終わる。
そう、試合はここで幕を下ろすはずだった−−−
「セーフ!」
審判の言葉を一番に疑ったのは打った本人だった。
送球ミスと思ったと同時にボールの行方を探す。
隙あらば二塁を目指す考えだ。
しかしベースコーチはストップの指示を出しており、それ以上には進めなかった。
「ストップ、ストップ!!」
そこでランナーは気づいた。
ボールは一塁に届かず、一塁の目の前に転がっていた。
その事実に誰もが目を疑う。
観客も、第壱高校ナインも、広島商業ナインも...
そして広島商業高校ベンチが動いた。
☆★☆★☆
試合が終わったと思えた直後のエラーに球場が一時騒然とする。
が、それもよくあることかもしれない。
勝ちを確信した直後のエラーは長い甲子園の歴史の中にもある。
「珍しい...いや、意外やな」
トウジがぽつりと呟く。
昔、一緒にプレイした中でそんなエラーは一度もなかった。
エラーをした当の本人も驚いていた。
「シンジかてエラーはするんか...」
妙に納得したような顔つきでグラウンドの中心、マウンドに立つシンジを見る。
どんなに優れたプレイヤーでも完璧な人間はいない−−−
どこかで聞いたセリフがトウジをホッとさせる。
このままお互いが勝ち続ければいずれ闘うことになるのは明白だ。
そして自分が今日のシンジに対して怖れを抱いていたのを今はっきりと感じた。
ザワザワと喧騒に包まれる中、広島商業高校のベンチが動く。
ランナーの交代であった。
無論、足の速さはチーム1の俊足であり、ここぞという時の取っておきだった。
「...分かりました」
短く告げられた監督からの指示に頷き、一塁に走る。
タッチを交わして元のランナーと交代する。
スパイクのヒモをしっかりと結び直してから屈伸運動を行う。
それを見るシンジ。
「すっぽ抜けたのかな...?」
シンジは何度も手を握ったり開いたりを繰り返し、ギュっと握って握力があるのがわかる。
いつもと変わらなかった。
ロージンバッグを見つけ、しっかりとすべり止めをする。
しかし、この行為はさっきもしたはずだった。
(勝ち急いだかな...)
カヲルはランナーが走ると読み、変化球ではなく、スピードのあるストレートを選んだ。
その考えはシンジも同じだったので、セットポジションでランナーを牽制しながらサインに頷く。
ショートのケイタは僅かにだが二塁に寄っていく。
配置は万全だ。
案の定、ランナーはスタートを切った。
バッターは援護のために大きく空振りをする。
ケイタが素早く二塁につき、ボールを取ったカヲルが立ち上がった。
が、ボールは投げられなかった。
ザザッ!
カヲルの目の前で土ぼこりを上げながら二塁にスライディングで入った。
カヲルの盗塁阻止率は高い方だったが、それ以上にランナーの盗塁率、足の速さが上だった。
「...最後まで粘るね」
珍しく愚痴をこぼすのは、それだけ悔しかったからである。
カヲルはフゥっと軽く息を吐いて落ち着かせる。
しかし心の内では三盗は絶対に阻止するつもりだ。
「アイツの足は100m11秒フラットだ。
...三塁までいける」
広島商業高校の監督が自分の言葉が叶うように口にした。
カヲルから放たれたボールがサードのグラブに突き刺さり、そのままグラブをランナーへと向ける。
ランナーがヘッドスライディングでベースに滑り込む。
ほぼ同時だった。
「セーフ!」
サードのタツヤが驚きの表情を浮かべる。
足の速さ以上に、カヲルのボールが遅れたことがである。
明暗を分けたのは、バッターが三塁側の打席に立っていたことだろう。
「ここにきて敵の逆襲がくるとはな...」
マウンドに集まる第壱高校ナイン。
苦々しくサードのランナーを見たのはキャプテンのタツヤだ。
それと同じようにカヲルも見ていた。
果たして今、勝負の天秤はどちらに傾いているのだろうか。
とその時、第壱高校ベンチから伝令がやってきた。
そしてマウンドに集まったみんなが注目する中、監督の言葉を告げる。
「難しく考えるな、だってさ」
「.........」
「.........」
「それだけ?」
「...ああ」
伝令役のサトルも呆れていた。
監督からの的確な指示を期待していただけに全員がっくりと肩を落とす。
怨めしそうに監督の加持を見るが、そんなことなど意にも介さずに腕を組んで立っているだけだった。
はぁ...と深くため息をつくタツヤ。
しかしキャプテンである自分が一番しっかりしなければならなかった。
「...そうだよな、あと一つでオレたちの勝ちだ。
守りは浅く、バックホーム態勢だな」
キャプテンの言葉に一同は頷く。
そう、あとアウト一つで試合は終わるのだ。
しかもシンジには揺れるフォークボールがある。
加持の言う通り、難しく考える必要はなかった。
「シンジ、思いっきり投げろ!」
タツヤの言葉を最後に全員が守備に散っていく。
その中、カヲルだけが最後にシンジに声をかけた。
「決め球はもちろんアレだよね」
シンジが一度だけ頷くとカヲルは笑顔で戻っていく。
そしてマウンドにシンジだけが残った。
独りだけになったマウンドの上で、グっと力を込めて拳を作る。
(大丈夫、握力はまだある...)
反撃の起点となった送球ミスが、まだ心のどこかにひっかかっていた。
そもそも今のピンチを招いたのは自分のエラーが原因なのだ。
ここはきっちりと自分自身でケリをつけなければと右手を硬く握る。
全員のフォーメーションはバックホームを睨んだ前進守備。
シンジは3球で終わらせる気でいた。
全て揺れるフォークだ。
「さて大一番だ。
うまく抑えられるかな」
烏丸が興味津々でシンジを見る。
「何言ってるんですか。
これで終わりですよ」
ケンスケはさらりと烏丸の考えを流す。
甲子園の大舞台で、最終回、しかも自分のミスが重なって平常心を保てるか−−−
並の投手なら心配だが、今、マウンドに立っているのはシンジだ。
そんな逆境など乗り越えなければエース失格である。
「そうだよな、碇シンジにはあのフォークがあるからな」
「それにスピードもあるから打ち難いですね」
ケンスケが持ってきたスピードガンではフォークにもかかわらず140km/h前後を出している。
ヘタなピッチャーのストレートと同等のスピードである。
さらに来ると分かっていてもまともには打てない。
「ただのフォークじゃない...
何か秘密があるはずだ」
問題のフォークを余すことなくカメラに収めようと、マウンドのシンジを撮り続ける。
かわって第壱高校ベンチ。
伝令のサトルが帰ってきて、緊迫した雰囲気がベンチに漂い始めた。
あと1アウトで試合に勝つ−−−
誰もがそんなことを考えていたが、腕を組んだままの加持は少し違うことを考えていた。
「...シンジ君の投球数って今いくつかな?」
唐突に出された質問にレイはスコアブックと一緒に点けていたシンジの投球数に目を向ける。
「今ので90球を超えました」
「その中で変化球の数は?」
矢継ぎ早に加持が聞いてくる。
「正確にはわかりませんけど...たぶん半分以上かと」
「そんなにか?」
いつもとは違って声が大きく、ベンチにいる全員が振り向く。
加持の表情から険しさが感じられ、レイはシンジを見る。
いつもと何も変わらなかった。
マウンドに立つ姿は初めて見た時から何も変わっていない。
何がそんなに不安なのか、レイにはわからなかった。
☆★☆★☆
甲子園の入り口で佇むアスカ。
ここまできてしまったのにまだ決心がつかないのか。
球場からは大声援が鳴り響き、試合が最高潮に達しようとしているのがわかる。
「アタシは...」
見上げる壁には新緑のツタが生い茂る。
何度も足を運んできたが、初めてきた時からここは何も変わらない。
ここだけ写真に収めたように、時がピタリと止まってしまったようにも思える。
しかし今年は違う。
待ち焦がれていた少年が甲子園という桧舞台に立っている。
ずっと...ずっと想い続けていた少年の夢が叶った夏−−−
その少年が憧れていた甲子園で敗けるはずがないと信じていたが、対戦相手のエースの存在で不安に駆られる。
ヨシカズを見ているとなぜだか心がイラつく。
何がそうさせるのか−−−
その答えは見つからず、それを確かめるためにここへきたのかもしれない。
「シンジ...」
名前を口にするだけで胸が苦しくなった。
自分がここに来ても良かったのか、ふと考えてしまう。
再会した時、シンジは自分を拒絶した。
ひょっとしたら、という淡い気持ちがあの時はあった。
しかし現実は冷たかった。
アスカの足は止まったままだ。
募る想いと自分を責める罪悪感がアスカを思い留ませる。
見えない壁で遮るられるように、甲子園の中に入ることができない。
「...ダメ...」
怖さから足が遠ざかる。
やはり自分はここに来てはいけないと結論付けると、甲子園に背を向けて逃げ出した。
弱虫−−−
もう1人の自分が責める。
違うと叫びながら自分からも逃げる。
ここに来てはいけなかった。
いや、ここに来たくなかったのだ。
結局、自分は逃げ出すとわかっていたから。
「キャッ!」
何かにつまづいて倒れた。
前も何も見ずに、ただ走っていたから当然だった。
周りにいる人たちは遠巻きに見ている。
そんな中、1人の少女が手を差し出した。
「大丈夫?」
優しい声は逆に惨めにさせ、アスカはその手を取らなかった。
周りからは笑い声が耳に届く。
自分に対する怒りから唇が動く。
「...ほっといて」
拒絶の言葉。
しかし差し出された手は消えることはなかった。
怒りと苛立ちからもう一度叫ぶ。
「ほっといてよ!!」
悔しさから涙が滲んだ。
それでも手は消えることなく、逆に差し出された手はそっとアスカの手を包んだ。
あたたかく柔らかい感触が伝わってくる。
「あなた、惣流アスカさんね?」
名前を呼ばれ、相手の目を見る。
すると相手は名乗る。
大高サチコと−−−
優しい声と笑顔とあたたかい手。
しかしその笑顔はどこか寂しそうに見えた。
第九拾七話 完
第九拾八話へつづく
甲子園、春の選抜が始まって...終わってしまいました。
あっという間です。
横浜高校、残念でした。
でもやっぱり春より夏がいいな。
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