【 TIP OFF 】

 

第7話 『その温もり』

 

 

 

 

 

夜空に瞬く無数の星々。

 

中天には淡く輝く月が一つ。

 

 

少女は独り佇む。

 

 

降りそそぐ清く澄んだ月光に薄く照らされたその姿は。

 

見るものに呼吸をすることさえ忘れさせるほど、壮絶なまでに美しく。

 

近寄り難いまでに凛として。

 

身に纏った雰囲気は。

 

どこまでも神秘的だった。

 

 

ふと少女が視線を上げる。

視線の先には、現代的なデザインを施された建築物がそびえている。

 

やがて。

少女は視線を前方に戻すと、心なし急ぐようにそのマンションの正面玄関に歩を進める。

よく見れば心なしかその頬は紅潮し、口元には控えめな笑みが浮かんでいる。

気がつけば、先程までのさながら月の女神を思わせる程の神々しさは消え失せ、少女の

歳相応の、あるいは幼ささえ感じさせるほどに瑞々しい雰囲気が少女を包んでいた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

レイは逸る心を抑えて、扉のスロットにあらかじめ母から渡されていたカードキーを通す。

 

ピッ、プシュッ。

 

小さな電子音が鳴り、次いでエアの抜ける音と共にドアが開く。

呼び鈴を鳴らさなかったのは、時間帯が時間帯だけに既に夢の世界の住人になってしまっている

だろうこの部屋の主に配慮してのことだった。

レイは、僅かに頬を赤く染めてはいるものの表面的には表情を変えずに、

自らの胸を苦しいまでに締め付ける感情を噛み締めるようにすっと瞼を閉じる。

 

…思慕。

 

…人を思い慕うこと。

 

…切ない気持ち。

 

…胸が痛くなる気持ち。

 

…でも。

 

…何故かとても暖かい。

 

やがて、ゆっくりと瞼を開けたレイは。

未だに新居独特の匂いの抜けきらないドアの向こうへと。

今日からの彼女のホームとなるべき空間へと、足を踏み入れた。

 

 

廊下を抜けてリビングに出たレイは、取り敢えず荷物を置く。

しばらく何をするでもなく、何を見るでもなくじっと佇んでいたが、やがて思い出したように

緩慢な動作で室内を見渡す。

 

「落ち着く…」

 

ゆっくりと微笑を浮かべて、レイが呟く。

程なく少女の視線は、テーブルの上に取り残されたように無造作に置かれたコップに辿り着く。

レイはてくてくとテーブルに歩み寄ると、何の変哲もないそのコップを、包み込むようにして

大事そうに手に取る。

この家の広さや内装の豪華さといったものは、少女にとって何ら感慨を受けるものではなく、

完全に意識の埒外にあるものだった。

そんなものなどより、このたった一つの、テーブルの上に文字通り無造作に置かれた何の変哲も

ないガラスコップの方が、少女にとって胸を暖かいもので満たしてくれるかけがいのないもの

であった。

 

「…落ち着く」

 

 

シンプルなショーツをはいただけの姿で、バスタオルで頭をごしごしやりながらレイはバスルーム

からリビングへと戻る。

どこまでもしなやかで均整のとれた肢体は、成熟しきらない少女だけが持つ不可思議な魅力

に満ち満ちていた。

少女の透き通るような、染みひとつない玉の肌を今浴びてきたシャワーの名残が伝い落ち、

床に小さな水溜まりを作る。

 

「…………」

 

レイはふと立ち止まると、無言のままぽたぽたと際限なく水滴を垂らす自らの肢体に、

ゆっくりと視線を巡らす。

 

『…レイ。またそんなになって。お風呂から上がる時はちゃんと体を拭いてからにしないと

駄目だよ。風邪引いちゃうよ?』

 

レイはやはり無言のまま、しかし大急ぎで、首にかけていたバスタオルで身体に纏わりつく

水滴を丹念に拭きはじめる。

最後に屈んで爪先を拭いてしまおうとした拍子に、今度は足元に出来ている小さな水溜まりが

目に入る。

 

「…………」

 

レイは身体を起こしゆっくりと振り返ると、今自分が通ってきた廊下に視線を投じる。

そこには、自分の足元にあるものよりも少しサイズの小さな水溜まりが少女の歩幅に合わせて

規則正しく並んでいた。

 

『それに、そんなまま歩き回ったら床もびしょ濡れになっちゃうよ』

 

レイは身をかがめると、やはり大急ぎで、バスルームまで続くそれらの水溜まりを、一つ一つ

丹念に拭き取っていった。

 

 

「…………」

改めてリビングに戻ったレイは首だけを振向かせて、水滴一滴も落ちてない廊下に満足げな

視線を送り、こくん、と一つ頷く。

 

レイは視線を戻すと、脇に置いておいた大きな荷物を引き寄せる。

しばらくはちきれんばかりに膨れ上がった旅行鞄とあれでもないこれでもないと格闘した後、

何とか中から探し当てることが出来たらしいパジャマに袖を通し、ナイトキャップをかぶる。

僅かに、熱いシャワーを浴びた、火照りの残る体に、ぶかぶかのパジャマの少しひんやりとした

生地の感触が心地よかった。

あとはもう寝るだけという格好になったレイの視線が、ふと口の空いたままの旅行鞄に固定される。

 

「…………」

 

旅行鞄の空いた口からは、母に薦められ念のために荷物に入れておいた自分の枕が、四分の一程

顔を出していた。

 

「…………」

 

レイはしばらくの間、何かを考えるように無表情にじっと自分の枕を見つめていたが、

やがてゆっくりと頬を桜色に染めていき、少し恥ずかしそうにしながら、顔を出す枕を鞄に押し

込んでその口を閉じる。

 

「…必要…ないもの…」

 

赤くなった顔を俯かせて自分に言い聞かせるようにレイは呟いた。

 

 

「兄さん…」

シンジの寝室への扉を前にして、レイが呟く。

考えてみれば時間にして僅かに数十時間離れていただけなのだが、シンジと暮らすようになって

からここ数年、殆ど一時たりとて兄の側を離れることの無かったレイにとって、それは10日にも

1月にも感じられるほど長く、そして不安な時間だった。

 

…不安。

 

…そう、不安。

 

…心が痛かった。

 

…兄さんがいなかったから。

 

…兄さんの顔をみることが出来なかったから。

 

…兄さんと話すことが出来なかったから。

 

…兄さんを感じることが出来なかったから。

 

…もう二度と会えない。

 

…そんな訳ないのに

 

…そんな気がした。

 

…だから。

 

…不安だった。

 

「………!」

 

ドアノブに手を伸ばしたレイの胸に、不意にその時の不安が甦る。

 

朝起きてリビングに出た時感じた。

私室で本を読んでる時ふと感じた。

両親に就寝の挨拶をする時に感じた。

兄の部屋の扉を見るたびに感じた。

そして。

空港で兄を見送る時に感じた。

痛いまでに胸を締め付ける心の痛み。

 

この扉を開けてみても。

やはり兄が居ないような。

不安。

 

…いや。

 

…そんなのは、いや。

 

ノブに伸ばされた腕はしばらく躊躇いを見せるように揺れていたが、やがて思い切ったように

ノブを掴みそれを回す。

 

がちゃ。

 

薄暗い室内。

レイは音も無く中へ足を踏み出すと、静かに後ろ手で扉を閉める。

その薄闇の中、レイの強ばった視線の先にはうっすらと大きなベッドの輪郭が浮かび上がっている。

 

そして。

 

彼女のよく知る人物の確かな気配と。

僅かに耳に届く寝息。

レイは安心したように柔らかく微笑みを浮かべると、ゆっくりとベッドに歩み寄りそこに横座り

になって、すうすうと気持ち良さそうに寝息をたてている彼女の兄の髪にそっと指をさしいれる。

 

「ん…」

 

レイは柔らかい笑みを浮かべると、無意識に自分の手にじゃれるようにもぞもぞと頭を

寄せてくる仕種をする兄に慈しむような視線を送りながら、その髪を梳いてやるように

優しく頭を撫でる。

 

穏やかに兄を見守りながら、レイは二人の間に起きた一月程前の出来事を思い出していた。

 

 

シンジにはじめて、日本に帰るつもりであることを打ち明けられた時のことを。

 

『…日本に帰ろうと思うんだ』

 

あの亜麻色の髪の少女の存在が兄にそう言わせてるんだということは容易に想像できた。

 

兄のあの亜麻色の髪の少女に対する想いは、何故か痛いほどに感じることができたから。

 

しかし。

 

この時。

 

兄のその言葉は。

 

この兄にとって自分など不必要なのだと宣告されたようで。

 

そして。

 

自分にとってこの兄は側にいてくれるだけで、不安になるほど無機質な自分の心に、思わず溜息を

ついてしまうほどの暖かみと眠くなるような安らぎを分け与えてくれる、何者にもかえがたい程

特別で、大切な大切な存在であるのに、そう感じる自分の密やかな想いさえ否定されたようで。

 

あたかも今まで自分の足元を照らしてくれていた灯かりを突然奪われ。

 

気付けば果てしなく深い漆黒の闇の中に一人取り残されたような。

 

そんな。

 

凍えるような不安と。

 

どうしようもない程の心細さと。

 

心が引き裂かれるような悲しみ。

 

そして。

 

絶望。

 

 

しかし、それを払ってくれたのもやはりシンジの心からの言葉だった。

 

悲嘆に暮れる少女に少年は、かつて家族になってはじめて心を通わせた時に少女に交わしてくれた

約束を改めて交わしてくれた。

それは、あの時と同様、もしくはそれ以上に凍てついた少女の心に優しい温もりを与えてくれるもの

でだった。

 

だから。

 

だから少女も改めて自らに誓約を課した。

 

永遠の誓約を。

 

 

やがてレイはベッドに上がると、シンジの腕の中に自分の身体をおさめ胸に顔を埋める。

 

「…兄さんの匂いがする」

 

陽光の踊る日向のような、全身が弛緩するほど落ち着く匂いで胸が満たされる。

果てしない安堵感に身体が包まれるのをはっきり感じる。

レイは、しばらくじっとその感覚を味わった後兄の胸に埋めていた顔を起こし、頭上に位置する

兄の顔を見上げる。

 

やがて柔らかな微笑みを浮かべると、差し伸べた手を兄のすべすべした頬に這わせる。

 

「…………」

 

ゆっくり顔を寄せ。

 

「…………」

 

優しく口唇を兄の頬に重ねる。

 

「…おやすみなさい」

 

(第八話に続く)


 

後書き

 

大スランプ…ってスランプになるほどのモノ書いてないだろ!ってツッコミは勘弁

してください(泣)

 

今回はシンジとレイのアメリカでの心の触れ合いみたいな外伝系のプロットを練ってたんですが

長くなったんでやめました。

これは、その副産物です。

でも…また予定にないお話し入れたものですから完結が1話分伸びてしまいました(泣)

しかも、最後に入れる予定だったシーンは力尽きて次回にまわしてしまいました。

 

とにかく、次回は今回だめだめだった分がんばり(たいと思い)ます。

 

感想いただけると死ぬほど嬉しいです。

 

では、今回はこの辺で。

 



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