秋日和

 

4.きずな

 

 朝起きると気分は最低だった。頭がガンガンする。典型的な二日酔いだっ

た。ボーとした頭で周囲を見渡すと、横に麗が寝ていた。すやすやと気持ち

よさそうに眠っていた。昨日は確か明日香の運転で帰ってきた。それは覚え

ている。でも、そのあとが思い出せなかった。きっと、明日香が僕をこの部

屋まで連れてきたんだろう。とりあえず、そう思うことにした。

 時計を見ると、朝の6時すぎだった。眠気はあった。でも、昨日の一件を

思い出すと、寝付けそうもなかった。そのまま立ち上がり、自分がシャツと

パンツしか身につけていないことに気がつく。壁を見ると、ちゃんと僕の喪

服がハンガーに掛かっていた。血の跡がついていた。ちゃんと落としておか

ないといけない。でも、僕には脱いだ記憶がぜんぜんなかった。仮に明日香

が脱がしてくれたのなら、ちゃんと感謝しなきゃ。でも、どうせ明日香のこ

とだから、嫌みを言うに違いない。そのときに謝ればいいや、と思うことに

した。

 モゾモゾとジーンズをはき、Tシャツを着替える。それから、台所に行く。

台所では、美里さんが一升瓶を抱えて寝ていた。鼾までかいている。あいか

わらず、豪快な人だ。僕は美里さんを踏まないように気をつけながら、冷蔵

庫をあけ、中にあるエビアンの1.5リットルのペットボトルをとり出した。

まだ半分ぐらい残っていた。そして、そのまま飲みほした。喉が異常に乾い

ている。まだ足りないぐらいだ。冷蔵庫を開け、封の開いていないオレンジ

・ジュースの1リットル瓶を取り出し、グラスに注ぎ、2杯飲んだ。ようや

く落ち着いた。ジュースをなおすために、冷蔵庫を開けたそのとき、人の気

配がした。振り返ると、瞼が真っ赤に腫れた律子さんが台所の入り口に立っ

ていた。律子さんはTシャツに黒のスパッツを身につけていた。彼女の髪は

くしゃくしゃでその様子から、昨晩はかなり飲んだことが分かる。それは無

理もないことだった。

「おはよう、慎治君。」

「あ、おはようございます。」

なんて言っていいのか分からない。彼女は台所のテーブルにつき、頭を抱え

る。その姿は今の律子さんの苦悩を表していた。

「慎治君。」

「はい?。」

「昨日、あの人と話をした?」

大森さんのことだろうなぁと思ったが、下手な返事はできなかった。

「話をしたの?」

僕はうなずいた。

「そう。」

彼女はそう言って、また頭を抱えた。

「あの人はやっぱり、碇司令の...。」

答えることができず、仕方がないので黙っている。それで、律子さんは分か

ってくれた。

「ふふふ、私ってほんとうにピエロよねぇ。どれだけ一生懸命尽くしても、

あの人には決して届かない。あの人はただ唯さんの面影を追いかけて、私が

ここにいることにも気づいてくれない。私がどれだけあの人のことを考えて

いるのか、知ろうともしない。なのに、私は...。」

律子さんがずっとこの虚しさを抱いてきたのがよく分かった。この人はきっ

と父さんとつきあい始めたときから、ずっと母さんの幻影に脅かされ続けて

きたのだ。それは決して覚めることのない悪夢に違いなかった。

「あの人、何ヶ月?。」

「6ヶ月だそうです。」

「そう。」

律子さんはため息をつき、黙り込んだ。それから大きく一呼吸をついてから、

僕の顔をまじまじと眺めた。そして、おもむろに言った。

「ねぇ、慎治君。真実を知りたくない?。」

「し、真実?。」

「そう、本当のこと。」

「何についてのですか?。」

「あの人のこと。」

それはとても邪悪で悲しい笑顔だった。その顔を見ると、僕にはどうしても

彼女の申し出を拒めなかった。

「来なさい。」

律子さんは立ち上がり、台所を出ていく。僕は律子さんのあとを少し離れて

ついていく。律子さんは、向かって左側にある父さんの書斎の扉の前でとま

って、僕を見た。明かりが届かない廊下で、律子さんは影の中に溶けていた。

律子さんは扉を開ける。父さんの書斎は本でびっしりと埋まっていた。左側

の壁には天井までの高さのある本棚がびっしりと並んでいる。右側の中央に

はL字型の机がおかれ、コンピューターが置かれていた。その机を挟んで、

天井までの高さがある本棚がぎっしり並んでいた。本棚の中身を見ると、哲

学や科学史関係、あと量子力学の本が多かった。見ると半分が英語で、3分

の1が日本語で、残りがフランス語とドイツ語の本だった。

「す、すごい。」

適当に本を2、3冊手に取ってみた。赤のラインや青のラインで線が引かれ、

英語でコメントがついている。それは手に取った本すべてそうだった。僕は

父さんがここまで勉強家だとは思わなかった。ちょっと感動した。母さんを

慕って、母さんの幻影を見せてくれるような愛人をつくる愚かな側面を昨日

は見せつけられたが、これは確かに僕の知らない父さんの一面だった。しか

し、律子さんは不服そうにボソッと違う。

「そうかしら?。こんなの当たり前じゃない、あの人だって研究者の片割れ

なんだから。」

「そ、そうですか。」

「私があなたに見せたい真実はこんなのじゃないわ。」

律子さんは机の上にあるコンピューターにスイッチを入れる。ディスプレイ

が輝いて、Win2028が起動する。そして user name と passwords を求めた。

律子さんはそれを難なくパスして、ログインした。Cドライブを開け、僕の

方に向いた。

「いい、慎治君。心の準備はできている?。...これが真実よ。」

律子さんはリターンを押した。映像が画面に現れた。

それは、麗と父さんのセックスの映像だった。

僕は口を右手で押さえて、驚愕した表情でこれを見る。目をそらしたかった。

でも、できなかった。父さんの上で喜悦の表情を浮かべている麗。父さんの

性器を喜んでなめる麗。父さんに後ろから責められ、こらえきれない表情で

ベットのシーツを掴んでいる麗。涙がぼろぼろ出てきた。でも、目を閉じる

こともそらすこともできなかった。

 コンピューターのスピーカーから流れる麗の切ないあえぎ声は、次第に大

きくなり、その快感を父さんに、そして僕にも、伝えている。両耳を手で塞

ぐ。しかし、快楽におぼれた麗の甘い声は容赦なく僕の頭に直接響いた。律

子さんの笑い声が遠くで聞こえるような気がした。まっすぐ立っているはず

の律子さんが、歪んで見えた。

「どう、慎治君。真実の味は?。」

「...や、」

「麗はあなたと結婚するまではあの人の愛人だったのよ。秘書兼愛人でね。

だから、あの人あなたのことを敵視していたのよ。だから、結婚のこともあ

なたに対しては反対の姿勢をとったのよ。」

「...や、やめて。」

「...でもね、麗があの人から離れてしまったから。それはあの人も分か

ってたから、麗に対しては結婚を認めることしかできなかった。それで、結

果的にはあの人はあなた達の結婚に反対できなかったのよ。」

「...やめてよ、律子さん」

「あの人があなた達の結婚式を『茶番』と呼んだのは正しいわ。確かにあの

人にとってはそれ以外の何物でもないから。愛人を自分の息子にとられたん

だから。でも、笑っちゃうわね、あなたもあの人とまったく一緒。」

昨日の鏡の映像が浮かぶ。サングラスもかけていない、顎髭のない父さん。

それは僕だった。僕の頭の中で、何かがはじけた。

「うぉうぉうぉおー」 

僕は訳も分からない大声を上げて、律子さんに飛びかかり、馬乗りになる。

そして、首に手をかけた。指に力が入る。律子さんは懸命に逃れようとして

いるが、僕の力で無理やり押さえ込まれている。律子さんの力が徐々に弱ま

ると同時に、僕の律子さんの首を絞める力は強くなる一方だった。

「あんた、なにしてんのよ!」

明日香が僕の叫び声に飛び起きたらしく、赤いネグリジェのまま父さんの書

斎に飛び込んできた。僕の腕を掴んで、必死に律子さんの首から離そうとす

る。しかし、僕の指は離れなかった。

「シ、シンちゃん。ダ、ダメー。」

次に美里さんが飛び込んできた。美里さんは僕の後ろを羽交い締めにする。

でも、僕は離れない。思いあまった明日香が僕の右手を思いっきり咬んだ。

あまりの痛さで、僕は律子さんの首から手を離し、その瞬間美里さんが渾身

の力で、僕を律子さんから引き離す。僕と美里さんはそのまま後ろにひっく

り返り、本棚にぶつかった。本が棚から落ちてくる。しかし、美里さんはそ

んなことは気にせずにすぐに律子さんに飛びついた。律子さんは、明日香と

美里さんに支えられて、喉を押さえてゲホゲホと咳き込んでいる。

「一体どうしたっていうのよ。シンちゃん、何であんなことをしたの。」

律子さんの体を抱く美里さんが僕を責める。しかし、僕は反応できなかった。

「返事をしなさい!。」

美里さんが怒鳴る。

「ちょ、ちょっと待って、美里。慎治の様子がおかしいわ。」

明日香は美里さんをとめる。その時、映像の麗が絶頂の声をあげた。

「「えっ?」」

二人とも、コンピューターが起動していることに気がつき、ディスプレイを

見る。明日香は、真っ赤になって大声をあげた。

「いやー、なにこれ!。信じられなーい。」

その声で僕は我に返る。そして、自分を埋めていた本を払い落とし、裸足の

まま庭に飛び出した。

「ま、待って慎治!」

明日香の僕を呼ぶ声が背後から聞こえてきたが、僕はそれを無視して、道路

に飛び出し、そのまま走った。ただひたすら走った。一刻もここから逃げ出

したかった。

***

 どれぐらい走っただろうか。僕はふと我に戻って、周りを見渡した。どう

やら、まったく知らない住宅街に紛れ込んでいたようだった。手足がとても

重く感じられた。僕は走るのをやめて立ち止まった。息が続かず、きつい。

膝に手を当て、息を整える。地面を見ると、ぼたぼた水滴が落ちていた。雨

かなぁと思ったが、空を見上げると雲一つなかった。それで、気がついた。

僕は泣いていたんだ。泣きながら、走ってたんだ。そう気がついた瞬間、あ

の映像が思い出された。身を切られるような思いに駆られる。声をあげたく

なるのを必死にこらえる。でも、涙はとまらない。

 そんな僕を出勤途中のサラリーマンが僕を怪訝そうに見る。気を使う余裕

はなかった。でも、こんなところで大の大人が裸足で号泣しているのは、や

はり不気味なことだと思う。どこか人目に付かないところへ。頭のどこかで

さめた部分が僕にそう命じる。僕はのろのろと歩き出した。

 少し歩くと、児童遊園が見えた。僕はそこに入っていく。小石が僕の足に

食い込むが気にならなかった。僕はそこにあるベンチに腰をかける。涙が止

まらなかった。そして、必死にこらえていた声が漏れてきた。もう限界だっ

た。僕は大声で嗚咽しながら、泣き始めた。

 どれぐらい経っただろうか、いまだ泣き続ける僕の右横に人気を感じた。

大声で泣き続ける僕を見ている気配がする。しかし、何も言わない。僕は顔

を上げ、隣に座っている人を見た。明日香だった。明日香はTシャツにジー

ンズ、そしてサンダルという格好で、僕の横に座っていた。僕と明日香の目

があった。

「探したわよ。」

「...」

「まったく裸足でどこに行くかと思ったら、こんなとこまで。」

「...」

「とりあえず、これ履きなさい。」

そう言って、明日香はスーパーのビニール袋に入っていたサンダルを僕に渡

す。僕はそのサンダルを受け取り、履いた。足の裏についた細かい砂が気持

ち悪かった。

「...ありがとうは?。」

「あ、ありがとう。」

「よし。」

そう言って、明日香は満足そうに微笑んだ。明日香は何かを言いかけて、そ

して少し躊躇った後に、黙ってしまった。僕はおそるおそる聞く。

「...り、律子さんは大丈夫?。」

「ええ、大丈夫よ。心配しなくてもいいわ。」

「...」

「...あ、あのね、あれすぐに全部消去したから。だから、ファーストは

見ていないわ。」

またあの映像が僕の頭に浮かび、麗のあえぎ声が聞こえるような気がした。

涙が勝手に溢れてきた。明日香はハンカチを僕に渡しながら、一つため息を

ついて続けた。

「まったく律子も...。私と美里でこっぴどく怒っておいたから。あのバ

カ、自分が何をやったのか、あれからすぐに分かったみたい。」

「...」

「だからさ、帰ろう?。ファーストがあんたのこと心配して、待っているわ。」

「あ、あわせる顔がないよ。麗にも律子さんにも。」

「...」

「律子さんにひどいことをした。麗に会っても、何を言っていいのか分から

ない。」

明日香はかぶりを振った。

「律子に関しては、それは律子も同じ気持ちだと思う。だから、あんただけ

が悪いんじゃない。でも、ファーストには落ち度はぜんぜんないし、あんた

がそれにこだわる必要もないわ。」

「で、でも、麗は父さんと関係を持って、それで、それで、あんなことをい

っぱい、平気に、嬉しそうに...。」

明日香はため息をついてから、僕の胸ぐらを掴む。真剣に怒った顔が僕のす

ぐ前にあった。

「それがどうっだって言うのよ。あんたはファーストを愛してるんでしょ。

ファーストもあんたのことが大好きよ。それがすべてだし、過去なんかぜん

ぜん関係ないじゃない。」

僕は明日香から目をそらす。

「また、そうやってあんたは...。いい、ファーストだって生身の人間よ。

あんたが考えているような女神でも何でもないわ。過去にいろいろあるのは

当然じゃない。何でそれを分かってあげられないの?。」

「で、でも麗は父さんの愛人で。」

「こ、こ、この...」

明日香は渾身の力で僕を突き飛ばす。僕は力無く、地面に倒れ込んだ。そし

て、明日香はベンチから立ち上がって、真っ赤な顔をして大声で怒鳴った。

「関係ないって言ってるでしょ!。あんたがあの最低なクソ親父にコンプレ

ックスを持つのは勝手だけど、それをファーストに持ち込むな!。あの子は

あの最低の外道野郎じゃなく、あんたを選んだのよ。それがすべてよ。」

怒鳴りまくる明日香を僕は呆然としながら見る。一気に怒りを爆発させた明

日香は肩で息をしている。

「でも、麗は父さんのことが今でも好きなんだよ。だから、だから、父さん

のことをよく言うし、父さんのことをかばうんだ。」

僕のつぶやきを聞いた瞬間、明日香は僕に馬乗りになって、両手で僕の胸ぐ

らを掴む。

「いい、慎治。ファーストにとって碇司令は初恋の人で、初めての人なのよ。

そんな大切だった人のこと、簡単に忘れられると思う?。そんなに大切だっ

た人のこと、簡単に恨むことができると思う?。」

僕は息ができないまま、明日香に対峙させられた。僕の胸ぐらを掴んで怒鳴

る明日香は怒りながら、泣いていた。

「私があんたと別れてから、私があんたのこと忘れたと思う?。一時だって、

忘れたことはなかったわ。私がドイツで泣いているときに、私があんたのこ

と、簡単に恨むことができたと思う?。違うわよ、恨むときは必死に一生懸

命恨んだわよ。だって、そうしないと、あんたを恨めないもの。ほっておい

たら、あんたのこと、ずーと美化しちゃうもの。」

そこまで言って、明日香は涙をこらえる。そして、泣くのをこらえた顔で僕

を睨んで、続ける。

「それだけ、大切だった人を恨むとか嫌うっていうのはエネルギーがいるし、

大変なことなのよ。そんな大変なことをするよりも、大切だった人との思い

出を大切に扱う方がよっぽど自然なのよ。」

そう言って、明日香は僕の胸ぐらを強く揺する。

「いい、ファーストにとっては、あんなクソ最低野郎との強烈につまんない

会話でも、大切な大切な思い出なのよ。あの子にとっては、あんなゲス野郎

を美化するのは当たり前のことなのよ。でも、それは今現在、大切な人に対

して抱いている思いとはぜーんぜん違うものだわ。」

そう言って、明日香はまた、僕の胸ぐらを何度も揺する。

「分かっているの!、慎治。あの子にとって今、現在大切な人はあんたなの

よ。碇司令じゃないわ。」

そこまで言い切ると、明日香は僕の胸ぐらから手を離し、立ち上がった。明

日香は涙を止めきれなかった。溢れる涙が彼女の頬をぬらしている。

「気分が悪いわ。私、先に帰る。」

そう言って、明日香は地面にへたりこんで呆然としている僕を残して公園を

出ていった。

***

 僕は公園のベンチに座り直した。考える気力はなかったが、明日香の言っ

た言葉を反芻する。

「過去なんか、ぜんぜん関係ない...か。」

そうかもしれない。でも、麗にとって父さんが本当に過去の人なのかどうか

は分からなかった。その疑念が僕の胸を締め付ける。やはり、麗に会うこと

はできなかった。僕は手で顔を覆って、深い息を吐いた。僕の前に人が立っ

ている気配がした。明日香が戻ってきたのかもしれない。

「明日香、僕のことならほおっておいてよ。」

「...」

「一人にしてくれって、言ってるじゃないか!」

僕はそう怒鳴って、顔を上げた。そこにいたのは、明日香ではなく、麗だっ

た。

「....」

僕は自分の顔がひきつるのが分かった。麗は黙って、僕の顔を見つめる。そ

れから、黙ったまま僕の右横に座る。沈黙が僕らの間を覆う。麗の左手が僕

の右手に触れる。僕は自分の右手を引っ込めた。横目で見た麗の表情は寂し

そうだった。

「...あなた。今朝のこと、聞いたわ。」

「...」

「ごめんなさい。ちゃんと話しておくべきだった。」

僕は席を立とうした。麗の左手が僕の右手首を掴む。

「お願い。聞いて。私は、あなたを失いたくない。」

僕は目を閉じて、ベンチに座り直す。

「...」

「私と碇司令との間に関係があったのは事実よ。でも、それはあなたとつき

あう前の話。」

「...」

「あなたと再会した時、私は碇司令との関係で悩んでいたの。」

「...」

「だって、碇司令は赤木博士との関係を維持しながら、私との関係も保とう

としたから。」

「...」

「それに、碇司令は私を見ていなかった。私を通して、あなたのお母さんを

見ていた。」

「...」

「それがどんなにつらいことか、分かる?。私は私。なのに、碇司令は私じ

ゃない誰かを愛している。私はただの人形。それか、ただの影でしかでなか

ったの、碇司令にとっては。」

「...」

「そんな時よ、あなたと再会したのは。」

「...」

「あなたは私自身を見てくれた。私を通して私じゃない誰かを見ようとはし

なかった。」

「...」

「私、嬉しかった。私の心がどこにあるのかって、あなたが聞いてくれたと

き、あなたが私を私としてみてくれているのが分かったから。」

「...」

「だ、だから、だから...」

そこで、麗の話は途切れた。彼女は両手で顔を覆って静かに泣いていた。

僕はボソリと尋ねた。

「ねぇ、麗。父さんのこと今でも愛している?。」

麗は両手から顔を上げ、かぶりを振った。

「それじゃ、父さんのこと恨んでいる?。嫌っている?。」

麗はこの問いにもかぶりを振った。

「でも、麗にとっては父さんは大切な人なんだね。」

麗は首を縦に振りつつも、その意味するところを言葉で補った。

「でも、あなたの方が大切。ずっとずっと...。あなたがいないと、私は、

私は...。」

その言葉で十分だった。僕は右手を伸ばし、麗の左手を握った。僕の包帯の

巻かれた右手に麗は自分の右手を重ねた。今の僕らにはそれで十分だった。

***

律子さんのお宅に戻ると、美里さんが安堵の表情で迎えてくれた。

「よかったぁ。シンちゃんが帰ってきてくれて。」

そう言って、美里さんはその豊満な胸で僕を抱く。

「ちょ、ちょっと美里さん。」

僕は赤面しながら、美里さんから強引に離れた。

「照れない。照れない。」

そう言って、美里さんは笑った。

「ところで、律子さんは。」

美里さんは少しくらい表情をする。

「今、自分の部屋に閉じこもっているわ。私も明日香もちょっと言い過ぎち

ゃった。」

「じゃ、ちょっと僕。」

「ああ、シンちゃん。会わない方がいいわ。今、あの子荒れてるから。自己

嫌悪でね。」

「そうですか...。でも、僕も謝りたいし、声だけかけてきます。」

僕は麗の手を握ったまま、玄関にあがり、律子さんの自室に向かう。その途

中で、明日香の滞在している部屋があり、ふすまが半分だけ開いていた。僕

は部屋にいるはずの明日香に声をかける。

「明日香?。」

「...なによ?。」

不機嫌な声が返ってくる。僕はそれを気にせず、続ける。

「ありがとう。」

一瞬、間をおいて、返事が返ってきた。

「ふうん、よかったわね。」

それで十分に、明日香には僕と麗が仲直りしたことが分かってもらえたと思

う。僕と麗は律子さんの部屋の前に立ち、ノックをする。返事はかえってこ

なかった。でも、律子さんが部屋で息を潜めていることは、その気配で分か

った。僕はドアから、律子さんに呼びかける。

「律子さん、慎治です。」

「...」

「さっきは、すみませんでした。つい、気が動転してしまって。」

「...」

「大丈夫ですか?。本当にごめんなさい。」

「...」

「あと、さっきのこともう気にしていませんから。律子さんに怒っていませ

んから。だから、その...」

「ごめんなさい。最低なことしちゃった。本当にごめんなさい」

返事がかえってきた。でも、律子さんの声は涙で曇っていた。

「律子さん。本当に気にしていないですから!。」

「ありがとう。でも、今は、独りにしておいて頂戴...。」

律子さんの気持ちもよく分かるので、僕らは彼女の部屋から離れて、自分た

ちの部屋に戻った。時計を見るともう午前10時だった。もう葬儀・告別式

の準備をしなければならない。今日は12時から始まる予定だった。喪主の

挨拶をしなければならないが、昨日はそれどころではなく、考えていなかっ

た。それも準備しておかなければならない。

 僕は喪服に着替えはじめた。昨日鏡を割ったときに飛び散った血はおおか

たとれていることに気がついた。

「麗、喪服の汚れ...。」

「ええ、とっておいたわ。」

「ありがとう。」

麗はニッコリ笑いながら、黒のワンピースに着替えはじめる。

「昨日のこと、何も聞かないんだね?。」

「...あなたが話す気になるまでは。」

「そう。でも、僕は話したいんだ。大切なことだから。」

そう言って、僕は黒ネクタイを結ぶ。麗はスリップだけになって、まず黒の

ストッキングを身につける。

「あの人は大森聡美という人で、その人のお腹には父さんの子供がいる。」

「...」

「でも、父さんはその子を認知していないんだ。だから、正直なことを言え

ば、大森さんのお腹にいる子には相続権がない。」

そう言いながら、僕はジャケットを着る。それから、麗のワンピースの後ろ

のジッパーをあげてあげる。

「だけど、僕はその子に父さんの遺産の4分の1を分けようと思う。けじめ

もつけたいし。ああ、あと律子さんに遺産の半分を分けたい。だから、僕の

相続は父さんの遺産の4分の1になる。それでいい?。」

「...あなたがそう決めたのなら。」

そう言いながら、麗は鏡を見ながら、真珠のネックレスをつけた。鏡に映っ

た麗はニッコリ笑っていた。

「ありがとう。」

着替え終わった僕は畳の上に座り、麗の化粧を待つ。

「あと、副司令があの親子の面倒を見るって言っている」

「えっ?」

ファウンデーションを塗りながら、麗が怪訝そうな表情を浮かべたのが鏡か

ら分かる。

「大森さんがそれを受け入れるかどうかは、僕には分からない。でも、副司

令はできれば面倒を見たいって。」

「...そう。」

「異論はない?。」

「私が言うことではないわ。」

葬儀のための簡単な薄化粧で終えた麗が立ち上がった。

「それじゃ、明日香に声をかけるか。」

僕も立ち上がって、明日香の部屋に声をかける。

「明日香、準備できた?。」

「もうちょい。ちょっと、待って。」

廊下に薫を抱いた美里さんがあらわれた。美里さんは葬儀の準備をしていな

い。薫は上機嫌に、麗に戯れようとする。

「今日は行かないんですか?。」

「うん、薫ちゃんの面倒だけじゃなくって、律子の面倒もみたいしね。今日

は律子、ちょっと無理だと思う。」

「そうですね。もし、来れるようであれば、あとで。」

「うん。」

明日香が黒のツーピースを来て、黒のカバンを持って表れた。胸元には真珠

のブローチをつけている。

「じゃ、行きましょうか。」

僕ら3人は玄関を出て、そこで見送ってくれる美里さんと薫に手を振って、

車に乗り込んだ。

車は僕が運転し、助手席に麗が座り、明日香は後部座席に座った。

「ああ、そうだ。明日香、昨日はありがとう。」

「へ?。何が?。」

「いや、送ってくれてさぁ、あと僕を部屋まで連れていってくれたでしょ?。」

「車を運転したのはそうだけど、律子の家についてから、あんた、フラフラ

しながら、自分で部屋に戻ったわよ。」

「え!、そうなの?。」

「まぁ、もっとも大変だったのは事実だけど。あんたがさぁ、私に絡んで、

胸に触るわ、キスしようとするわ、私の大切なとこまで手を伸ばすしてくる

んだからさぁ。」

僕は横目で麗を見る。麗が冷たい視線を僕に向けている。バックミラーに目

をやると、明日香の表情が嬉々としていた。

「挙げ句の果てに『麗と別れるから、結婚しよう』なんて言い出す始末だっ

たし。」

麗の周りの空気が絶対零度にまで下がりはじめた。

「や、やめてよ、明日香、冗談でしょ?。」

明日香はニッコリ笑っていった。

「ううん、マジ。」

「...。」

こっちを向いた麗の目は、雪女の目だった。

「ちょ、ちょっとまって、麗、絶対あれ冗談だよ。本気で僕がそんなことや

ったら、まっ先に明日香が僕を殺しているよ。」

「おや、よくわかってんじゃない、慎治。ファースト、心配しなくていいわ。

全部冗談だから。車に乗っている間は、慎治はぐっすり眠ってたわ。」

バックミラーに写っている明日香はそう言って、口笛を吹きはじめた。

 斎場ではロビーで副司令と加持さんが青葉さんと受付役の元ネルフスタッ

フに指示を与えている。

「おはようございます。」

「あ、おはよう」

副司令が僕の姿を見つけて、やってくる。

「慎治君。昨日はとんだ醜態を見せてしまって、すまなかった。」

「いえ、僕の方こそ、失礼しました。」

「いや。」

副司令はかぶりを振る。僕は明日香や麗とちょっと離れたところに、副司令

を連れ出す。

「あの親子については、先日申しましたとおり、父さんの遺産の4分の1を。

律子さんには2分の1を分けるつもりです。」

「うむ、わかった。」

「あと、あの親子についてはよろしくお願いします。」

そう言って僕は頭を下げた。副司令は嬉しそうな顔をした。

「ありがとう、慎治君。」

「ただ、大森さんが副司令の好意を受け取るかどうかは別ですが。」

「うむ、まぁ無理強いをするつもりはない。場合によっては、影から見守る

のもいいと思っている。」

「それと、今日は律子さんは来れないかもしれません。それで、美里さんが

律子さんの家で待機しています。」

副司令の眉がちょっとあがる。あり得るなぁという顔をする。

「ふむ、わかった。」

僕は今朝の件については喋る気はなかった。ふと、昨日聞き忘れていた質問

を思い出した。

「ああ、あとちょっとお聞きしたいことがあるんですが。」

「なにかね?。」

「本当は父さん、母さんの指輪を大森さんにあげるつもりじゃなかったんで

すか?。それと、父さんと母さんのアルバムは副司令がずっと保管する予定

だったのではないですか?」

副司令がニヤリと笑った。

「君にはかなわんなぁ。」

それで十分だった。

「それじゃ、ちょっと貴賓室にいますので。」

そう言って、僕は副司令から離れた。しかし、ちょっと振り返ると、副司令

が僕の方を満足げに見ていることに気がついた。

***

 貴賓室で、僕は今日の挨拶の草稿を練りはじめた。紋切り型の挨拶をする

気は毛頭なかった。紋切り型の挨拶では、僕自身にけじめをつけることがで

きない。でもなかなかうまくまとまらない。いくつかの断片は書けたのだが、

全体としてはまとまらなかった。僕の父さんに対する考えがまとまっていな

いということをこのことは意味していた。

 公の面としては、父さんの評価は間違いなく高かった。人類を救った組織

のトップとして、抜群な指導力を発揮した有能な人物。ノーベル平和賞を受

賞するに値する人物。私的な面では、母さんの面影を麗や大森さんに追い求

め、長年のパートナーである律子さんをないがしろにし、僕に対して冷たく

接することしかできない火宅の人物。僕はこういったまったく異なる側面を

持つこの人をどう評価すべきなのだろうか?。

 ただ振り返って考えれば、僕の父さんに対する距離はこのわずか14、5

時間でぐっと狭まったような気がする。僕は父さんが嫌いだし、憎んでいる

ことは明らかだった。大森さんに対する父さんの態度を想像してみただけで、

吐き気を催す。麗を母さん代わりに抱いたことには、殺意すら感じる。ただ、

他方で昨日の副司令の言葉も思い出す。

「あえて言えば、そうだな、同志と言うべきかな。お互に憎みあいながら、

しかし、お互いを理解しあい、そして、お互いの目的のためなら、平気で相

手を斬り、また平気で相手に斬られることのできる関係だ。」

この言葉は考えてみれば、父さんと副司令との関係だけでなく、僕と父さん

の関係にも当てはまるのではないだろうか?。今の僕は父さんを憎み、憎悪

している反面、父さんを理解し、父さんの気持ちが手に取るように分かる。

父さんの死をまったく悲しんいないのは変わっていない。でも、今は父さん

をより身近に感じることができる。

 多分、昔は父さんを恨むことが本当は嫌だったんだ。だから、父さんから

距離をとったんだ。父さんを嫌って恨んでいたけど、本当は僕は父さんが好

きになりたかったんだ。そして、人を嫌うというのはすごくエネルギーがい

るから、とても疲れるし、またどす黒い感情なだけに、自分がとても嫌な人

間に思えてしまうから、そういう感情を持たないように父さんから離れてい

たんだ。

 父さんが死ぬ前までは、父さんとの距離を近くすることは、僕が父さんを

敬愛し、父さんが僕を愛してくれることを意味していたんだと思う。僕は父

さんのいいところを見て、父さんが好きになりたかった。でも、そうできな

いので、僕は父さんから距離をとった。これは父さんに対する僕の甘えだっ

たのかもしれない。この甘えを捨てよう。父さんと真正面から向かい合おう。

それがたとえ不幸な親子関係を招くとしても。

 考えて見れば、僕らの間柄は普通の親子関係じゃないんだろう。父さんが

生存している間にはできない関係なのだろう。父さんが死んで、僕らは初め

て「親子」になった。そう、僕には父さんの死を悲しむ必要はない。なぜな

ら、父さんは今僕の身近にいるからだ。影のように一生僕についてまわるの

だろう。いいでしょう、父さん。それじゃ、僕は憎しみでもって、父さんに

応えましょう。僕らの間柄はそれ以外にはないんだから。僕は父さんからも

う逃げない。

 でも、これは麗が僕に期待している態度ではないのは分かっていた。麗は、

普通の意味での「和解」を期待していたと思う。麗が僕に父さんを許しても

らいたがっているのは明らかだった。でも、それはできない。おそらく、僕

は一生父さんを許さないだろう。そして、それは僕らが親子である証拠なん

だ。彼女が僕と父さんの関係を理解できないのは、やむを得ないことだと思

う。でも、そのうち説明できる機会があるだろう。僕が副司令と父さんの関

係を昨日初めて理解したように。

 そう考えると、今まで断片でしかなったものが一つにまとまりはじめた。

これで、僕は父さんに対してけじめをつけることができる。葬儀の開始まで、

あと20分だった。

***

 12時になると葬儀・告別式がはじまった。今日は加持さんと副司令が気

を使ってくれて、会葬者の訪問は断ってくれた。もっとも、律子さんがいな

い状況では政治家も戦自関係者も訪問するメリットはないように思われた。

 僕はやはり昨日と同じ席に座り、麗もそうだった。ただ、律子さんの席は

まだ空いていた。やはり、昨日と今朝の件を考えてみれば、律子さんが出席

できないのはやむを得ないことだった。

 やはり今日もあの阿闍梨が読経をあげてくれる。読経が静かに流れる中、

僕は父さんと母さんの関係について考えてみた。父さんは母さんの財産と碇

家の名前ほしさに結婚したといううわさを聞いたことがある。でも、それは

今回の一連のドタバタで、違うことが分かった。父さんは母さんを愛してい

た。それも、全くの他人に母さんの面影を追いかけるほどにだ。そう考える

と、実は父さんの私的な人生は母さんが初号機に取り込まれた時点で終わっ

ていたのかもしれない。この説明は何となく自分でも納得ができるような気

がした。父さんは母さんがエヴァに取り込まれた日以後は実質的には「死者」

だった。いわば、「生きる屍」だ。昔、読んだ漱石の「こころ」に出てくる

「先生」のイメージだ。生存しているのに、人生を生きていない人。こう考

えると公人としての父さんの活躍と、私人としての父さんの最低さの双方が

説明できるような気がする。

 公人としての父さんは、無謀と思えるほどゼーレ内部でゼーレにたてつき、

他人の思惑などまったく気にせずに、使徒撃退の指揮を執った。それは「生

きる屍」だからこそ、できたことかもしれない。それは勇気とは違う。むし

ろ「投げやり」な態度に近い。自分の生に興味がなくなってしまった男に、

怖いものなどあるはずがない。ただ、そうするとなぜ父さんは公務にあれほ

ど熱中したのか?。答えは初号機にしかない。初号機が母さんの魂を持って

いることは、僕が搭乗していた頃から、感じていたことだった。父さんは初

号機を使って、母さんの復活を果たそうとしたのかもしれない。でも、結局

その機会はなく、ネルフは解体、エヴァは永久封鎖となった。これで父さん

の公の生活も終わったのだろう。父さんがすべての社会活動から引退するの

は当然だった。

 私人としての父さんは、母さんの面影を探して次々と愛人を換えてきた。

それは誰もが母さんじゃなかったが故だ。律子さんは当然違うし、麗も違う。

そして大森さんも。おそらく僕が知らないだけで、その他大勢の愛人がいた

と思う。自分の生に興味のなくなった男がどうして、他人の気持ちや自分の

息子に興味がもてるだろうか?。この点を僕が理解できなかったことがおそ

らく僕と父さんの関係の躓きのはじめなんだと思う。父さんが僕にいらつく

のは当然だった。なぜなら、僕は父さんの本質をまったく理解できなかった

からだ。これは僕の人間に対する理解力の欠如というよりも、多分僕が人生

を投げ捨てていない健全な「生者」だからだと思う。「生者」が「生きる屍」

を理解することは基本的にはできないだろう。なぜなら、実際にはそうでな

いにも関わらず、前者が後者を自分と同じ表層にあると思っているからだ。

理解できるようになるためには、相手が「生きる屍」であるという、ある意

味もっとも相手を侮辱した分類をして、初めて可能となる。

 もしそうだとしたら、父さんは律子さんにも苛ついていたのかもしれない。

いや、そうであって欲しい。なぜなら、父さんがもし律子さんにも苛ついて

いたとしたら、それは律子さんが「生者」であることを意味する。逆に律子

さんが父さんの心の闇を完全に理解して父さんにつきあっていたとすれば、

それは律子さんが一種のネクロファイルか、彼女自身が「生きる屍」である

かのどっちかだからだ。どっちも、まともな人間じゃない。僕は彼女に健常

であって欲しかった。

 もちろん、このことは父さんの人生を正当化するものではない。こう考え

れば、自分なりに納得できるという憶測の一つだった。でも、もしそうだと

すると、父さん自身はなんて小市民だったんだろう。母さんだけが唯一の生

き甲斐だったなんて。ネルフ総司令としての輝かしいキャリアもノーベル平

和賞などという仰々しい勲章もあの人には何の意味もない。思わず、笑い出

したくなる。あの人は確かに僕の父親だ。一浪後、私立大学に入学し、中堅

商社に勤める僕と本質は何らかわりがない。ただ、彼の不幸は、母さんがエ

ヴァに取り込まれてしまったという異常な事件を自分なりにけじめをつけら

れなかったことだけだ。

 そこまで考えて、読経が終わったことに気がついた。今は副司令の弔辞に

移っている。

 副司令も考えてみれば、「生きる屍」の一人かもしれない。セカンド・イ

ンパクトで家族を全員失い、父さんの謀略で京大を追い出され、たどり着い

た先が父さんの横に立つことだった。しかも、母さんを父さんにとられると

いう失態まで演じている。にもかからず、父さんの側を離れることができず、

父さんと自分を「同志」の関係と呼ぶ。いや、この人は「生きる屍」という

よりは、一種のネクロファイルだな、多分。「生きる屍」とつきあうことが

大好きな人なんだ。ある意味、きわめて興味深い老人だ。そう思いながら、

弔辞を読み上げる副司令を見ていた。

副司令の弔辞は中盤にはいっていた。

「碇君、君の公の業績として、もっともよく挙げられるのはネルフを指揮し

て、使徒を撃退したことです。そのため、君はノーベル平和賞を受賞いたし

ました。しかし、私は知っています。君の一番の業績が、実はサード・イン

パクトを防いだことであることを。」

場内がどよめいた。副司令が何を言おうとしているのか、分からなかった。

周りを見ると、会場内にいる新聞記者達があわててメモを取り始めた。

「碇君、君は自分がセカンド・インパクトに関わっていたことを生前常に後

悔していました。ゼーレの一員として、葛城調査隊に参加し、世界の人口を

半減させたセカンド・インパクトを招いたことを。」

ざわめきがさらに大きくなる。新聞記者達の中には携帯電話を持って会場を

出ていく者もいる。

「碇君、君はそれを君の罪として背負うことで、ネルフを指揮し、またサー

ド・インパクト誘発を狙うゼーレを壊滅することを君の志としたのです。幸

いなことに、ロンギヌスの槍は月に届き、回収不能となりました。裏死海文

書の予言が最終的には、はずれたことも幸いでした。」

今まで機密とされたことが弔辞という名でどんどん公開され、会場の特に政

府高官や各国大使はパニックとなっている。

「碇君、キール・ローレンツが最後のゼーレ高官として捕まったときの君の

言葉を私は決して忘れません。『これで世界は救われた』。君はまさしく君

に科せられた重責をそのとき果たしたのです。私は、君がいま真の平安を心

から感じていることを確信しています。願わくば、君と杯を傾ける機会の再

びあることを。2029年10月3日。冬月孝三。」

 副司令は弔辞を父さんに捧げ、一礼して堂々と自分の席に戻っていった。

完全に確信犯だった。副司令の弔辞が終わると、会場は急に静かになった。

あまりのことで呆然としている人が多いからだ。記者の多くはデスクと連絡

を取るために、会場の外に出ていた。副司令の方を見ると席で、横に座って

いる加持さんと談笑していた。加持さんは笑いをかみ殺していた。

 続いて弔電の紹介に入った。国連事務総長やらアメリカ合衆国大統領やら、

いろんな著名人からの弔電だった。さすがだなぁとは思いながら、父さんの

本質が一介の小市民で、且つその立派な公務が母さん目的にやられたと確信

している僕には滑稽だった。

 突然、麗が僕の脇腹を突いた。見ると、美里さんに支えられて、律子さん

が会場に姿を現していた。端の方を歩きながら、こちらの方に来ている。美

里さんに支えられるぐらいだから、やはり相当調子が悪いのだろう。彼女の

表情はさすがに暗い。それでも、僕らと目が合うと会釈をしてくれた。しか

し、彼女の瞳には僕と麗に対する申し訳なさでいっぱいだった。

 弔電の紹介が終わると、焼香となる。阿闍梨がまた読経をはじめた。公益

社の人に促されて、まず僕が焼香する。そして、麗が焼香する。続いて、律

子さんの番だ。彼女は美里さんの助けは断り、自分の足で父さんの祭壇の前

に行く。僧侶たちに一礼してからすぐには、うごかなかった。じーと遺影を

眺めていた。そのまま2、3分ほどしてから、公益社の人の目配せで、はっ

と気がついたように遺影に一礼し、合掌した。それから、また焼香台の前で

じーと香の入った箱を見つめている。そのまままた2、3分が経過した。

 公益社の人はひたすら目配せを送っている。律子さんは公益社の人の目配

せに気がつかないかのように、香の入った箱を眺めている。会場の視線が彼

女に集まっていた。律子さんはちょっと目を閉じた。そして、瞼を開けたと

きには、目に力が戻っていた。その瞬間、香の入った箱をそのまま父さんの

遺影に投げつけた。

 読経がとまる。乾いた音がして、香があたりに散らばり、箱が音をたてて

床に転がる。会場にいる人はみんな愕然としている。しかし、律子さんは気

にせず、僧侶たちに一礼する。阿闍梨は何事もなかったかのように、読経を

再開した。

 会場の出口に立つ僕らの元に、おろおろした美里さんに支えられながら、

律子さんがやってくる。足下が心許ない。

「ごめんね、慎治君。」

そう言って、律子さんは美里さんと共に貴賓室に行った。そのあと、すぐに

副司令がやってきた。

「律子君、やってしまったなぁ。」

「ええ。でも、気持ちはよく分かりますし、僕は正直言ってホッとしました。」

副司令もうなずく。

「まぁ、こういう葬式もたまにはいいだろう。しかし、記者の連中が何かあ

ったかと勘ぐるだろうなぁ。」

僕は肩をすくめる。

「仕方がないですよ。それに副司令の弔辞で記者の人たちがすでに騒いでい

ますし。」

「ああ、あれはな。」と言って、副司令は苦笑いを浮かべた。

「最初からその予定で?。」

副司令は頷いた。

「しかしだな、自分のやったことを棚に上げて言うのも何だが、碇の奴にも

困ったものだ。死んでもなお、問題の種を撒きおる。」

そう言って、副司令は狡猾な笑みを浮かべた。

***

 告別式が終了し、いよいよ出棺の時が来た。釘打ちの終わった父さんの棺

が車の前に待機する。僕、加持さん、副司令、青葉さん、日向さん、他元ネ

ルフ男性職員の6人により、父さんの棺が霊柩車に積まれる。父さんの黄泉

への旅立ちも最終局面を迎える。

「喪主のご挨拶でございます。」

副司令の問題弔辞や律子さんの問題焼香で冷や汗をかいている公益社の人は、

僕が何の問題もなく告別式を終わらせることを祈っているに違いなかった。

僕自身は問題をおこすつもりは毛頭ない。しかし、言いたいことを言って、

問題がおこってしまうのなら、仕方がないとも考えていた。

 僕は麗を横目で見る。彼女は父さんの遺影を持ちながら、静かに目を閉じ

ていた。この挨拶が、彼女を傷つけるかもしれないことは分かっていた。で

も、父さんとのけじめをつけるためには、避けることができなかった。彼女

はきっと分かってくれる。僕はそう信じて、ついさっき用意した原稿を開く。

「この度はご多忙にも関わらず、父の葬儀・告別式に来ていただき、父もみ

なさまに感謝していると思います。本当にありがとうございました。」

ここで僕と父さんの遺影を持った麗と美里さんに支えれた律子さんが頭を下

げた。

「また、父の通夜並びに葬儀・告別式を支えていただいた元ネルフ職員のみ

なさま並びに公益社パレ・デュ・ラ・パのみなさまに厚くお礼申し上げます。」

ここでまた遺族3人は頭を下げると、元ネルフ職員一同も頭を下げた。

「亡き父は世間のみなさまからはノーベル平和賞受賞者として評価され、偉

人のように扱われています。それはその通りなのですが、我々家族から見た

父はそんな偉人ではなく、ただの一介の小市民でした。」

ここで僕は一息をつける。そしてちらっと律子さんを見る。

「私の目から見た父は、ただ私の亡き母唯の姿を追いかける悲しい人でした。

母がエヴァンゲリオン初号機に取り込まれて以来、父はただ母の復活のみを

望んでいたと思います。冬月元ネルフ副司令の弔辞の通り、父はセカンド・

インパクトの呵責に苦しみ、使徒撃滅もサード・インパクトの防止もその呵

責を和らげるためのものだったのでしょう。しかし、それでもなお父の仕事

への関心は、母の復活であって、良心の呵責は二の次だったと私は考えてい

ます。」

副司令の眉が多少動いた。

「父は必ずしもいい父親とは言えませんでした。三歳の頃に伯父に預けられ

て以来、私が父とまともに会話を交わしたことは両手の指で余ります。私が

思うに母が初号機に魂を吸い取られて以来、母を復活させること、それだけ

が父の願いであり、それ以外は父の関心ではありませんでした。つまり、私

も父の関心ではなかったのです。その意味で父は家庭人として、完全に失格

でした。」

ここで一息つき、会葬者達を見わたす。私人としての父さんの側面を知らな

い人たちは、この事実に少しショックを受けているようだ。

「そのため、私は父を恨んでいました。しかし、父の死後、いろんな方から

話を聞き、私は...」

ここで僕は突然しゃべれなくなってしまった。泣いているわけではない。単

にしゃべれなくなったのだ。僕はこう言おうとした。「さらに父が嫌いにな

ってしまいました。憎んでると言ってもいいでしょう。父は母の残像を追い

求めるような弱い人物でした。しかし、それは養母をないがしろにする理由

にはなりません。また、様々な方に平気で迷惑をかけることも許せませんで

した。私はそんな父を嫌うだけでなく、本当に憎んでいます。しかし、同時

にそれが私と父の絆だと知りました。正直なことを言えば、父の生前は、私

と父は血の繋がりはあっても、親子ではありませんでした。私も父もお互い

を避けていたからです。ある意味、父の死後、初めて私は父と向かい合うこ

とができました。私は父に対する憎しみを一生抱きながら、父の影と共に生

きて行くつもりです。いま、私は父の生前よりも父を身近に感じています」。

こんな簡単な文章を僕は必死に喋ろうとした。しかし、なぜか声が出てこな

い。脂汗が垂れる。不思議だった。僕がしゃべれなくなってから、大部時間

が経ったような気がする。一時間も経ったような気もするし、永遠に時間が

止まっているような気もする。必死になって声を出そうとする。

「わ、わ、私は...」

だめだ。出てこない。頭の中は完全に混乱していた。そうして、ようやく出

てきた言葉は次のようなものだった。

「今、父を身近に感じています。」

会葬者の人たちは、一瞬キョトンとした。しかし、その後に盛大な拍手をく

れた。しまった、完全に誤解された。これじゃ、僕と父さんが普通の意味で

「和解」したことになってしまう。呆然としながら、僕は会葬者達の暖かい

拍手を浴びることになってしまった。冬司なんかうんうんうなずいて拍手し

てくれてるよ。薫を抱いた委員長も涙を流している。さすがに明日香は事情

が分かっているだけに、おざなりな拍手をしながら、首を傾げて考えている。

後ろを振り向くと、律子さんはハッとした表情をしている。気がついてくれ

たんだろうか?。律子さんの傍らの美里さんはだめだ。僕の気持ちぜんぜん

理解していないよ。涙流して、喜んでるし。

 安堵の表情を見せている公益社の人が、「それでは、出棺でございます。

みなさま合掌をお願いいたします。」とアナウンスする。僕は半ば呆然とし、

半ばブルーな気分で、位牌を律子さんから預かり、車に乗り込む。僕と一緒

に乗るのは麗と加持さんだった。加持さんは助手席に座り、僕と麗が後部座

席に乗る。そして霊柩車がゆっくり走り出す。喪主の車であるために、霊柩

車のすぐ後を追いかける。車が完全に一般道の流れに乗ると、僕は何も考え

られないまま、車窓から流れる街の風景を眺めていた。

「あなた。」

麗が僕を呼びかけているのに気がつくまで、多少時間がかかった。

「どうしたの、麗?。」

麗の目は涙を浮かべながら、怒っていた。

「あんなことがあって、今なぜ碇司令を身近に感じるの?。」

「それは...」と言いかけて気がついた。僕と父さんの絆が憎悪しかない

ことに勘付いている。そして、麗は僕が会葬者達にそのことを喋ろうとした

ことを直感的に理解したのだ。

「あなたにそんなことを言う人になって欲しくない」

僕が彼女の言葉を思い出した瞬間、麗が僕の左頬をおもいっきり叩いた。乾

いた音がした。運転手がバックミラーでこっちを見ている。加持さんが運転

手に話しかけて、注意を逸らしてくれた。

麗は必死に泣くのを我慢していた。顔をくしゃくしゃに歪ませて、彼女は僕

を問いつめる。

「どうしてなの...どうして?。」

僕は彼女を抱き寄せた。彼女の怒りと悲しみが僕の胸の中で爆発した。大声

を上げて、泣きじゃくる。こんな麗を見たのは初めてだった。

「ごめん、麗。ごめんね。」

僕が彼女を傷つけることは分かっていたはずだった。それでも、僕は父さん

に対するけじめを優先させた。彼女に対して、申し訳のない気持ちで一杯に

なる。今僕にできることは優しくその頭を撫でながら、謝ることしかなかっ

た。

***

火葬場に着くと、父さんの棺は火葬炉にただちに運ばれた。そして、炉の前

で納めの儀式がなされる。阿闍梨が唱える読教の中、僕が最初に焼香し、皆

がそれに続く。今度は律子さんも普通に焼香をする。棺が炉に納められた。

だいたい50分ほど待つ必要があった。皆、待合室の方に向かっていく。た

だ、加持さんは他の人たちから離れて、一人でタバコを吸いだした。僕は加

持さんのところに行く。タバコを吸いながら、加持さんが手を挙げた。

「よう、慎治君。」

「本当に今回はありがとうございました。」

「気にする必要ないよ。」

そう言って加持さんは軽く笑った。

「僕にも一本頂けますか?。」

「おや、慎治君も吸うのかい?。」

「ええ、しばらくやめてましたけど。麗が嫌がるから。」

「じゃ、麗ちゃんが嫌がることをやる訳か?。」

「いえいえ、この一本だけですよ。どうしても吸いたくなって。」

加持さんのマイセン・ライトを一本もらい、ジッポウで火をつけてもらう。

そして、久しぶりにタバコの煙を肺にいれると、頭がクラッとした。

火葬炉の煙突から煙がのぼりはじめた。

「碇司令が昇天しているなぁ。」

「ええ。」

「なぁ、慎治君。」

「はい?。」

「そういうのも、俺は親子だと思うぞ。いや、親子だからこそ、かもしれない。

麗ちゃんもそのうち分かってくれるよ。」

「...はい。」

僕らは静かにタバコを吸いながら、父さんが空に昇るのを見つめていた。

陽の光が眩しい美しい秋日和だった。

 

【完】




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