それは、20XX年の12月25日、午前0時01分より始まる。 つまり後三百を数える程度の時間しか残っていない。 それを、たったの五分で!、と叫ぶ者もいるだろう。 あるいはそれを、五分も!、と嘆く者もいるだろう。 それ以外の答えを返す者も多いだろう。 場所にもよる。 環境にもよる。 時間帯によっても、それは大きく変化するだろう。 つまるところ、宇宙には時間に密度というものが存在する。 密度が薄い瞬間を平和と呼ぼうが、特別に濃い瞬間を事件と呼ぼうが、それを何と言おうと構わない。 だが一つだけ、たった一つだけ、絶対に、断じて忘れてはならない事がある。 嵐の前には空気はピタリと動きを止めるのだ。 都市を根こそぎ飲み干すような大波の前には、必ず潮は引き、波は動きを止めるのだ。 信じ難い悲報を目の当たりにした時、人は動きを止めるのだ。 大声を上げる前には、息を吸うために沈黙するのだ・・・・・ほんの一瞬だけ。 だが『そこ』にまったく無知な第三者がいたら、彼―或いは彼女―は『それ』をどう考えるだろう? 事の全容を知る者、あるいは『それ』を一度でも経験した者がいたらこう叫ぶだろう。 「早くそこから逃げろ!さもないと恐ろしい事に巻き込まれるぞ!」 だが『それ』を知らなかったら? 銃弾の雨をかいくぐり、幾度も棺桶に片足を突っ込みながら戦場を走りまわっていた兵士がいたとする。 そして唐突に辺りの銃声が止んだ事に気付いたら、その兵士は何と思うだろう? その一瞬後に核ミサイルが爆発する事を知らなかったら!? 五分。 それは短くもある。 もしも、何かが起こる事を知っていたとしても、たったの一分では『それ』を回避する事は出来る だろうか? 五分。 それは長くもある。 もしも何かが起こる事を知っていたら、『それ』が起こるまでの時間は拷問であり、苦痛ではないのか? 五分。 『それ』が起こる事を知っていたら、それは不幸、或いはそれは幸運になり得るかも知れない。 だが『それ』が起こる事を知らなかったとしても、それはやはり不幸で、或いは幸運になり得るだろう。 彼らについて言えば――碇シンジと呉越同舟の愉快な一蓮托生の旅の道連れにとって言えば―― 『それ』が起こるという事を知らなかった事は非常に、それこそ彼らだけでなく彼らに現在関わって おり、また将来関わるであろう多くの人々と、さらにまたその人々が後に関わるであろう更に多くの 人々にとってこれからの彼らの人生に大打撃を与え、或いは終止符を打たれる事になりかねないほどの 最大級の不幸だったに違いない。 何故なら、もし知っていたら、彼らは『それ』を避ける事が出来たかも知れないのだから。 それは静の後に動がくる。 静寂と平和の後に事件と変革が訪れる。 ただ一つ、運の悪い事にそれは三段飛びの要領で訪れてしまったのだ。 それは、20XX年の12月25日、午前0時01分よりはじまり、それは今より約三百秒後より始まる。 より正確に言えば12月25日午前0時01分06秒から・・・・
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