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最後の一羽
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<アスカの家>

10年前・・・。

生まれて間もなく母親を亡くし、父親に捨てられたアスカは、惣流家に引き取られて4
歳になっていた。

そんな事情もあってか、アスカは自らの価値を人に・・・両親に認めて貰うべく、たく
ましく育っていた。

ある寒い冬の夕暮れ時、4歳になったばかりのアスカは、こたつに入りながら誕生日に
買って貰った”ごんぎつね”という幼児向けの本を読んでいた。

うっうぅぅ・・・。
きつねさん可哀相・・・。

「あしゅかぁぁぁ。あしゅかぁぁぁ。」

目に涙を浮かべて感情を高ぶらせていた幼いアスカの耳に、聞き慣れた隣に住む男の子
の声が入ってくる。

「もっ! せっかくご本読んでたのにっ! またなのっ!?」

「あしゅかぁぁぁ。あしゅかぁぁぁ。」

アスカが、今迄読んでいた本を閉じトタトタと玄関まで出て行くと、顔中を涙でぐちゃ
ぐちゃにした男の子が、いつものごとく情けない格好で立っている。

「なぁに? また苛められたのっ!? バカチンヂっ!」

「あしゅかぁぁぁ。公園でおもちゃ取られたんだよぉ〜。」

「まったくもっ! 情けないわねぇっ! 来なさいよっ!」

「うん・・・。」

アスカはシンジの手をむんずと掴むと、その情けない少年を何度も叱り飛ばしながら、
公園へ向かって走って行くのだった。

                        ●

<学校>

時に2015年。シンジ、アスカ共に14歳の中学2年生。2人はまだ隣同士に住んで
おり、幼馴染という関係になっていた。

うっうぅぅ・・・。
ジュリエットって可哀相・・・。

花も恥じらう美少女に成長したアスカは、昼休みに”ロミオとジュリエット”を読んで、
感極まっていた。

「アスカぁぁぁ。アスカぁぁぁ。」

目に涙が浮かんできそうなのを我慢しつつ感情を高ぶらせていたアスカの耳に、聞きな
れたシンジの声が入ってくる。

「アスカぁぁぁ、助けてぇっ。」

「なによっ! 何があったのよっ!」

「いきなり、追い掛けてくるんだよぉぉ。」

「またなのぉ? バカシンジっ!!」

仕方無いという顔でシンジを背中に隠して、追い掛けて来る相手が現れるであろう教室
の入口を見ていると、隣のクラスの女生徒達が怒りも露に乱入して来た。

「碇はいるかしらっ!!?」
「どこ行ったのよっ! あの馬鹿っ!」

かなりご立腹の女生徒達が、2−Aに乗り込んで教室の中を見回すと、アスカの後ろに
隠れるシンジの姿を見つけた。

「何処に隠れてるのよっ!」
「よくもよくもっ!」

悪態をつきながら、ズカズカと攻め入ってくる女生徒達の前に、シンジを守る様にアス
カがバッと立ちはだかる。

「なによっ! シンジが何したってーのっ! 事と次第によっちゃ、アタシが相手になる
  わよっ!」

「事と次第も何もっ! わたし達が体育の後で着替えてる所を、3バカトリオが覗いて
  たのよっ!」

「なっ! ま、またなのっ!!」

その言葉を聞いた途端、今までシンジの盾となっていたアスカは、くるりと振り返りギ
ロリとシンジを見据える。

「あっ、だから・・・トウジが誘ってきたから・・・。」

「誘われたらアンタは何でもするのかぁぁぁぁっ!!!」

その剣幕にびっくりしたシンジは、アスカのスカートにしがみついて必死で言い訳を始
める。

「ち、違うんだ。ぼくは、そんなことするつもりは・・・。」

「いつもいつも、アタシがアンタを庇ってあげると思ったら、大間違いよっ!!」

「いや・・・だから、トウジがぁぁっ!」

ドゲシっ! ドカンっ!

自分のスカートに纏わり付いてくるシンジを、アスカは思いっきり蹴り上げ、さっと隣
のクラスの女生徒達に道を開けた。

「そういうことなら、後は好きにしていいわっ!」

「みんなっ! やっちゃえーーーっ!」
「おーーーっ!」

「わーーーーーーーっ!! 助けてぇぇぇぇっ!!」

アスカに見放されたシンジは、隣のクラスの女生徒達に袋叩きにされ、見るも無惨に顔
中が引っ掻き傷だらけになった。

<通学路>

放課後になり、何処のクラブ活動にも所属していないシンジとアスカは、今日も2人し
て通学路を下校していた。

「アスカぁぁぁ、痛いよぉぉぉ。」

「まったくっ! 覗きなんかするから、こういうことになんのよっ! わかったぁっ!?」

「うん・・・ごめん・・・。」

「アタシに免じて許して貰えた様なものの、アタシがいなかったらどうなってたと思っ
  てるのっ!?」

「そうだね。アスカのおかげだよ。」

隣のクラスの女子にビンタの連打を食らって腫上がったシンジの顔に、アスカはバンソ
ウコウを貼ってやりながら家路を歩く。

「今度こんなことしたら、もう知らないわよっ!」

「ごめん・・・。」

「本当に、わかってんでしょうねぇっ!」

「うん・・・ごめん。」

「アンタみたいな奴の隣に住んでたら、アタシもいつ覗かれてるかわかったもんじゃな
  いわっ!」

「アスカを覗くわけないじゃないか。本当だよ。」

「な、なんですってーーーっ!」

「えっ!? だ、だって・・・。え???」

パーーーーーン。

思いっきり振り被った平手がシンジの頬に直撃し、今張って貰ったばかりのバンソウコ
ウが宙を舞う。

「い、いたい・・・。痛いよぉぉ。」

「ウルサイっ!」

「アスカぁぁぁ。ねぇってばぁぁぁ。」

プリプリ怒りながらスタスタと歩いて行くアスカの後を、シンジは更に腫上がった頬を
押さえながら追い掛けて行った。

<学校>

翌日の昼休み。シンジはサッカー部の上級生3人に呼び出され、体育館の裏で囲まれて
いた。

「なんでお前なんかが、いつも惣流さんと一緒にいるんだよっ!」
「お前なんかがいるから、惣流さんがマネージャーになってくれねぇんだよっ!」

「ごめんなさい・・・。」

素直に謝るシンジの足をゴツゴツ蹴りながら、サッカー部のマネージャになることをア
スカに断られた腹いせをする上級生達。

「い、いたい・・・。止めて下さい。」

「うるせぇんだよっ!」

ゴツゴツ。

「もう、許してよ。ぼくが何をしたんだよぉ。」

「許して欲しかったら、2度と惣流さんに近づくんじゃねーぞっ!」
「わかったのかよっ!」

ゴツゴツ。

「うっ・・・。もう、許してよ・・・。」

その頃アスカは、仲の良いクラスメートの女子達と一緒に机を並べて弁当を食べていた。
いつも一緒のヒカリは、今日は放送当番なのでいない。

「ねぇ、アスカさぁ。」

「何?」

「なんで、いっつも碇くんと一緒にいるの?」

「いいじゃん。べつに・・・。」

「あんな奴、アスカには似合わないよ。変な噂たったらどうするの?」

自分のことを心配してくれているのはわかるが、あまり良い気がしないアスカはムッと
した顔になる。

「アタシの勝手でしょ?」

「そりゃ、そうだけどねぇ・・・やっぱさぁ。」

「だって、碇くんっていっつも苛められてるじゃない? なんか情けないよ、あんな男
  の子。」

「シンジは、ああいう奴なのよ。あれでいいのよ・・・。」

「ああいう奴だから、言ってるんじゃない。幼馴染みだってのはわかるけどさぁ。」

その後も女子達は、シンジのことをいろいろと言っていたが、アスカはシンジの弁護を
するでもなくけなすでもなく、適当な相槌だけを打っていた。

「アスカっ! 碇くん、またやられてるわよっ!」

その時、放送当番だったヒカリが、ドタドタと教室に走って入って来ると、叫びながら
アスカの側に駆け寄って来た。

「えっ!? 何処っ!?」

「体育館の裏っ! 廊下を歩いてたら偶然見えたのっ!」

「まったくっ!!」

アスカは弁当もそこそこほおり出すと、勢い良く席を立って体育館目指して全力で走っ
て行った。

「わかってんのかよっ! おらっ!」

ゴツゴツ。

昼休みも終わりに近づいているというのに、シンジは昼食も食べれず上級生にいたぶら
れている。

「もう、許してよ・・・。」

「そう簡単に、許して貰えると思ってんのかっ!?」

「ぼくが何をしたんだよぉ。」

「やかましいっ!」

サッカー部の3年生に軽いローキックを連発されながらも、碌に抵抗せず我慢している
と、体育館の端から怒声が聞こえてきた。

「ちょっとっ! アンタら何してんのよっ!」

「あっ、アスカぁぁぁ。」

急にアスカが現れ、天の助けとばかりに笑顔を浮かべるシンジと、焦りの色を顔に浮か
べる上級生達。

「そ、惣流さん・・・いやぁ。碇とちょっと話してただけだよ。」
「そうだよねっ! 碇くんっ!」

「は、はい・・・。」

「だろぉ? 俺達、後輩思いだからなぁ。」
「はははははは。」

首根っこを押さえられ、頭にグリグリと拳を捻じ込まれていたシンジは、アスカが近寄
って来ると、その背中にさっと隠れる。

「アンタ達っ! シンジに変なちょっかい出さないでよねっ!」

「だから、ただ話をしてただけだって。なっ、碇。」

「うん・・・。」

「それよりさ、マネージャーのこと考えてくれたかな?」

「はっきり断ったはずよっ!」

「そんなこと言わないでさぁ。」

「ウッサイわねぇっ! あんまり、シンジにちょっかい出してると、いずれ酷い目に合
  うわよっ!」

「はいはい。惣流さんは恐いなぁ。」

「まったくっ! さっ、シンジ行くわよっ!」

「うん・・・。」

ずっと後ろに隠れていたシンジは、むんずとアスカに手首を捕まれると、スタスタと連
れられて行った。

「アスカ・・・ありがとう・・・助かったよ。」

「もっ! ほんっとアンタって、アタシがいないと駄目ねぇ。」

「うん・・・。」

「アタシがいなくなったら、どうすんのよっ!」

「そんなの・・・・・・・・・・・困るよ・・・。」

「しょうがないわねぇ。」

おどおどするシンジだったが、アスカは少し嬉しそうにその様子を見ながら、授業開始
のチャイムが鳴る校舎の階段を駆け上がって行くのだった。

<シンジの家>

もうすぐグループの研究発表会があるので、今日はクラスメートの男子2人と女子2人、
そしてアスカが、シンジの家に集まっていた。

「おい、碇。なんだよ、あれ?」

クラスメートの男子の1人が、勉強机の上に掛けられている古いカレンダーを張り合わ
せて作った、大きな紙の袋の様な物を指差す。

「あぁ、なんでもないよ。」

「気になるな。見せろよ。」

「あれは・・・。」

「アンタっ! サボってないでさっさと発表用紙作りなさいよっ!」

女子が一生懸命に色を塗って発表用紙を作っているにもかかわらず、先程から雑談ばか
りする男子に、アスカが文句を言う。

「わかってるよ・・・。ちょっと見るだけじゃないか。」

そう言って、紙の袋を見ようと立ち上がり掛ける男子生徒。

「それより、早くした方がいいと思うよ? ほら。」

「え?」

シンジに目配せされ振り返った男子生徒は、アスカを始めとする女子にギンと睨み付け
られていた。

「ははは・・・。」

「アンタ達っ! いい加減にしないさいよっ! さっさと、色塗りなさいっ!!」

とうとうキレたアスカは、すっくと立ち上がり男子達を指差して大声を張り上げた。さ
すがにびっくりした様で、その男子もそれから真面目に発表用紙を作るのだった。

<学校>

昼休み、シンジはトウジとケンスケと一緒に、屋上でたむろっていた。ケンスケが、新
しいカメラを買ったというのだ。

「見てくれよっ! これがこないだ発売されたばかりの奴さっ!」

自慢気に、ピカピカのカメラを見せるケンスケ。カメラが光を放つと同時に、ケンスケ
の眼鏡も光を放った。

「ねぇ、ケンスケぇ。もう身体がもたないよぉ。」

「何言うとんやっ。こないなカメラ見せられて男なら黙っとたっらあかんでっ。」
「なんだよ碇っ! 裏切るつもりか?」

「そうじゃないけど・・・。」

この間も覗きをして袋叩きに合った上、アスカにこっぴどく怒られたばかりだ。シンジ
は、いまいち乗り気がしない。

「ワイらも、約束は守って惣流の着替えは覗いてへんやろ?」

「当り前だよっ!!!!!」

「ほんなら、お前もワイらの友情に付き合えやっ。」

「でも、こないだ怒られたとこじゃないか。」

「ほないなことで、諦めとったら男やないっ!」
「そうだぜ碇っ。男は写真とミリタリーだっ!」
「そうそうっ! ミリタリーはええけど、やっぱ男やったら覗きくらいせなあかんっ!」

「うーーーん・・・。」

悪友2人に囲まれたシンジは、結局今日は女子テニス部の覗きに行くことになってしま
った。

<通学路>

今までの度重なる失敗で学習したのか、今日は追い掛けられずに帰ることができたシン
ジは、1人通学路を歩いていた。

「おいっ! 碇っ!」

「あっ!」

名前を呼ばれたので、ふと顔を上げると先日のサッカー部の上級生3人が、行く手を遮
っている。

「お前っ! あれ程言ったのに、昨日も惣流さんと一緒に帰ったそうじゃないかっ!?」

「あ、あの・・・・。」

「ちょっと話があるっ。来いよっ。」

「ぼ、ぼく・・・今日は忙しいから・・・。」

「すぐ済むさ。ちょっと、話があるだけだ。」

「でも・・・。」

「来いつってんだよっ!」

<アスカの家>

今日シンジは、トウジ達と何か用事があるということだったので、アスカは先に家に帰
って弁当箱を洗っていた。

「フンフンフン。」

奇麗に洗われた紫色の弁当箱と赤色の弁当箱から水分を拭き取り、いつもの場所に置い
て手を拭く。

アタシがいなかったら、お弁当も食べれないんだからねっ。
アイツは、アタシがいなかったらなーんもできないんだから・・・。

そんなことを考えながらダイニングテーブルに座ったアスカは、エプロンを外し椅子に
掛けると、両肘をテーブルに付いて昔を思い出す。

「へへへ〜。」

ピンポーン。

1人薄気味悪い笑顔をニヤニヤとだらしなく浮かべていたアスカの耳に、突然チャイム
の音が聞こえてきた。

ドンドンドン。

それと同時に、玄関のドアを叩く音がする。義理の父も母も今は家にいないので、アス
カは何事かと急いで玄関に出て行った。

「はーーい。」

「惣流さんっ!? 惣流さんっ!?」

「はいはい。今、開けるわよぉ。」

扉を開けると、そこには同じクラスのテニス部の女子が血相を変えて立っていた。

「碇くんが、わたし達の着替えを撮ってたのっ! 相田をとっちめてわかったのよっ!」

「えーーーーっ! またぁぁぁっ!」

情けないといった顔で、がっくりと頭を垂れるアスカ。

「でも、シンジはいないわよ?」

「その碇くんだけどっ! みんな探してたらっ! 河原でっ! 上級生に殴られてるわっ!」

「えっ!!!!!」

アスカは、クラスメートの女子の横を擦り抜けると、家の鍵も閉めず一目散に駆け出し
て行った。

<河原>

サッカー部の3年生に河原まで連れて来られたシンジは、橋の下で蹴られ丸くなってい
た。

「い、痛いよ・・・。」

「2度と惣流さんに近づくなっ! ボケがっ!」

「許してよっ! もう許してよっ!」

「こないだも、そう言った癖にっ! 調子乗りやがってっ!」

ドカドカ。

「ぼくが、何したんだよぉぉ。もう許してよぉぉ。」

身体を丸くして、ただただ蹴られる痛みに耐えるシンジ。しかし、サッカー部の上級生
は、鍛えた足で容赦無くシンジをサッカーボ−ルの様に蹴り飛ばす。

「こいつの顔、見れないくらいにボコボコにしてやろうぜっ!」
「パンクしたボールみたいになったら、おもしろいな。」
「逆に膨らむかもよ。わははははははっ!」

「アスカぁぁぁ。」

「まだ、惣流さんの名前を言うかっ!」
「ぶっ殺してやれっ!」

ドカドカドカ。

シンジは必死で身体を丸くしてアスカが助けにくるのを待ちながら、無抵抗で痛みに耐
え続けた。

<土手>

冬は日が暮れるのが早い。既に暗くなり始めた夕暮れの土手の上を、アスカは全力で河
原に向かって走っていた。

待ってなさいよっ! シンジっ!
今行くからねっ!

「はっはっはっ!」

土手の先に見える橋の袂で、幾人かの人影が動いて見える。おそらくは、あれがシンジ
とサッカー部の連中だろう。

「シンジっ!!!」

わき目も振らず走っていくと、夕闇の中にだんだんと蹴り倒されているシンジの姿が、
見えて来る。もう目前だ。

「あいつらーっ! よくもシンジをーーっ!
  今行くわよっ! シンジっ! 待ってなさ・・・ん? キャーーーーーーーーっ!」

ドスンっ!! バッシャーンっ!!

シンジだけを見て走っていたアスカは、突然身体が宙に浮いたかと思うと、身体に強烈
な痛みと、冷たい感覚を感じた。

「いたたたた・・・・。」

バシャ。

ずぶ濡れになったアスカが、痛いお尻を摩りながら見上げると、星の見え始めた冬の空
が、丸い穴の上に見える。どうやら工事中の深い下水管に落ちてしまった様だ。

「いったぁぁぁ。はっ! シンジっ! 早く行かなくちゃっ!」

慌てて上ろうとしたアスカだったが、あるであろう場所に梯子が無かった。どうやら、
錆びた何かで撤去されている様だ。

「ど、どうしよう・・・。」

昨夜の雨で下水道の水が増しており、腰の上まで水に浸かっている。この寒空の下、ど
んどん体温を奪われていくアスカ。

「シンジぃ・・・またやっちゃったよ・・・。シンジぃぃぃーーーーーっ!!!」

<河原>

もう目前までアスカが走ってきていたので、シンジはその姿を見ながら蹴り上げられる
痛みに絶えていた。

アスカ・・・。

そして、いよいよ橋の反対側にアスカが差し掛かろうとした瞬間、スッと視界からアス
カの姿が消えてしまった。

「あっ! あぁぁぁーーーーーーーーーっ!!!!」

もう、目の前まで来ていたアスカが、突然居なくなってしまったのだ。消えた時の様子
からして、どこかに落ちてしまった様だ。

「ア、アスカがっ! アスカがぁぁぁぁぁぁっ!!!」

「えっ? 惣流さん?」

蹴り倒されていたシンジが、勢い良く立ち上がる。上級生達も、アスカが来たことを知
りまずいという顔でお互いを見合わせた。

「ちっ! 今日はこのくらいで許してやるぜっ!」
「行こうぜっ!」

しかし、シンジはそんな上級生にかまわず、一目散に走り出した。

「どいてくれっ! アスカがっ!」

「おいっ!」

ドスン。

無我夢中で走り出すシンジに、体当たりされた上級生はその場に転んでしまった。

「なにしやがるっ!」

「どけよっ! 邪魔なんだよっ! アスカーーーっ!!!」

しかし、その時のシンジの鬼気迫る気迫に押された上級生は、それ以上何も言うことが
できず恐れすら感じて、走って行くその姿をただ見ていることしかできなかった。

                        ●

10年前・・・。

「まったくもっ! 情けないわねぇっ! 来なさいよっ!」

「うん・・・。」

4歳のアスカはシンジの手をむんずと掴むと、何度も叱り飛ばしながら、公園へ向かっ
て走っていた。

「何処で、おもちゃ取られたのよっ!」

「あっち・・・。あっちの公園。」

幼いアスカは、おもちゃを取られたという場所に、シンジに導かれながら短い足を一生
懸命動かして走っていた。

「もうっ! チンヂは、アタシがいないと何もできないんだからっ!」

「ごめん・・・。」

もう少しで、シンジがいつも遊んでいる公園である。アスカは、少し近道をしようと、
田んぼの中を突っ切って行くことにした。

「あしゅかぁぁぁ。田んぼに入っちゃ駄目って、母さんが言ってたよぉ?」

「おもちゃ取った子が、帰っちゃったらどうするのよっ!」

「うん・・・でも・・・。」

「チンヂは、アタシに任せとけばいい・・・きゃーーーーーーーーっ!」

その時、突然シンジの前を走っていたアスカの姿が消えた。

「あしゅか?」

「わーーーーーーーーーんっ!! 」

シンジがアスカが消えた場所を覗き込むと、そこには深い穴が開いており、身体の小さ
なアスカはすっぽりと落ちてしまっていた。

「あしゅかぁ? 大丈夫?」

「わーーーーーーーーーんっ!! 」

アスカは、首まで水に浸かっており、寒空の下震えながら泣いているばかりだった。シ
ンジも、手を差し出したりしてみるが、腕1つ分程長さが足りず届かない。

「あしゅかぁ? 泣かないで・・・。あしゅかぁ。」

「わーーーーーーーーーんっ!! 」

「あしゅか・・・。あしゅかは、泣いちゃやだ・・・。」

シンジは、そのままドボンと氷の様に冷たい水が溜まる穴の中に飛び込んだ。

「あしゅか。もう大丈夫だよ。泣かないでね。」

冷たい水に身を浸し、寒さに震えながら泣くアスカの頭を撫でてやると、シンジは水に
頭から潜ってアスカを肩車する体勢で水の中で立ち上がった。

「ほら、あしゅか。これで出られるだろ?」

「ぐすっ。・・・うん・・・でも、チンヂは?」

「早くおうちに帰って着替えないと、お熱出ちゃうよ?」

「だってっ! チンヂはっ!?」

「母さんを呼んできてくれるまで待ってるよ。」

シンジは、アスカを穴から押し上げながら、冷たい水に首まで浸しブルブルと震えなが
らも、笑顔で微笑んだ。

                        ●

<下水管の中>

腰の上まで冷たい水に浸したアスカは、寒空の中じっと上を見上げていた。

「シンジぃぃぃ。寒いよぉ。シンジぃぃぃ。」

水の冷たさに身体が震え、足の先の感覚が無くなってくる。そんな中、アスカは他には
何も考えず、ただシンジの名前を呼びながら星の見える下水管の口を見上げ続けていた。

「シンジぃぃぃぃ・・・。」

「アスカっ! アスカっ!!」

その時、突然声が聞こえたかと思うと、余程急いで走って来たのか、息を切らせながら
シンジが下水管の中に顔を覗かせてきた。

「アスカっ!!!!」

「シンジっ!! シンジっ!!」

シンジは急いでアスカに手を差し伸べて来る。アスカはすぐに背伸びをしてその手を掴
もうとしたが、その途端足の先に激痛が走った。

「いたっ!」

「えっ! どうしたのっ!?」

もう少しで手が届くという所で、指の先だけが触れてアスカの手が降りて行く。

「足が、足が痛いよ・・・。背伸びできないよぉ・・・ぐすっ。」

涙目になっていくアスカ。

「あぁぁぁっ! アスカっ! 泣いちゃ駄目だっ!!!」

ドボンっ!

シンジは有無を言わさず、雨で水かさの増した下水管の中に飛び込むと、アスカを肩車
する形で立ち上がった。

「どう? これで、届く?」

「うん・・・。ちょっと待って・・・。」

マンホールから手が出たアスカは、傷めた足にあまり負担を掛けない様に、体を地上に
出して行く。

「シンジっ。ちょっと待ってね。」

そして、体勢を整え直したアスカは、下水管の中で上を見上げていたシンジに手を差し
出し、引き上げてやる。

「よいしょっ! よいしょっ!」

アスカに引き上げられながら、下水管から出て行くシンジ。

「はぁぁぁ。」

ようやくシンジが地上に出てきた所で、アスカは尻餅をついてその場に座り込んだ。

「ありがとう。アスカのおかげで出れたよ。」

「アンタも重くなったわねぇ。ほんと、アンタはアタシがいないと何もできないんだか
  らっ!」

「うん・・・。」

「さっ、帰るわよっ! イタっ!」

自分の足を傷めていたことを忘れて、立ち上がろうとしてしまったアスカは、足首に激
痛を感じてその場に座り込んでしまう。

「立てないの?」

「うん、ちょっと痛い。」

「そう・・・じゃ、乗ってよ。」

シンジはそっと背中を向けて腰を降ろすと、アスカを背負って立ち上がる。そのシンジ
の背中が、アスカの冷えた体を温めてくれる。

「シンジ・・・。」

「すぐ家だから。大丈夫だよ。」

「うん・・・。ねぇ、シンジぃ?」

「なに?」

「前にも、こんなことあったね。」

「そうだね。」

「アタシが、アンタのおもちゃ取り返しに行こうとしてさ・・・。」

                        ●

10年前・・・。

「チンヂがっ! チンヂがっ!」

アスカは大泣きしながら、ユイを連れて田んぼまで走って来ていた。この寒空の下で、
シンジが水の溜まった穴にいると聞いたユイは、顔を真っ青にして走って来る。

「あそこっ! あそこにチンヂがっ! アタシを助けて、代わりに入っちゃったのぉーっ!
  わーーーーんっ!」

案内されて来たユイが穴の中を覗き込むと、顔を真っ青にして血の気を完全に失ったシ
ンジが、冷たい水の中でぐったりとしていた。

「シンジっ!」

慌ててユイがシンジを穴から引っぱり出すと、シンジは高熱を出しており頭は熱く身体
は冷え切って冷たくなっていた。

「シンジっ! シンジっ!」

うっすらと目を開けるシンジ。

「・・・母さん・・・あしゅかは?」

「チンヂーーーっ!」

この時アスカは幼いながらも、自分を助ける為にシンジが死にそうになっているという
ことだけはわかった。

「あしゅか・・・良かったね・・・。」

「チンヂーーーっ!」

自分を見て泣き喚くアスカに、シンジは笑顔を見せてそのまま目を閉じぐったりとして
しまった。

                        ●

アスカはシンジの背中で揺られながら、まだ幼かった日の自分にとって1番大切な思い
出を、その脳裏に巡らし続ける。

「あの後、シンジったら肺炎になって入院しちゃったのよね。」

「らしいね。気がついたら、病院だったからよくわかんないや。」

「アタシが、千羽鶴を折ってあげたから助かったのよっ! 感謝しなさいっ!」

「うん・・・そうだね。」

「そうよっ! アンタは、アタシがいないと何もできないんだからっ!」

「うん、わかってる。」

ゆらゆらとシンジの背中で揺られながら、アスカはその広さと温もりに心が休まるのを
感じる。

「それはそうと、アンタのことテニス部の女の子達が探してたわよ?」

「えっ! あ、あれはっ! 違うんだっ! アスカっ!」

「まぁ、いいわ。今日は許してあげる。」

「ごめん・・・。」

「明日は知らないけどね。」

「えーーーーっ!」

「アンタがやったことでしょ。徹底的に、やられなさい。」

「そんなぁ。今度はラケットで、叩かれるよぉぉ。」

「ほんと、アンタってアタシがいないと、何もできないのね。」

「うん・・・。」

溜息をつきながらアスカが顔をあげると、いつしか道の向こうに自分達の家のあるマン
ションが見えてきていた。

ほんと、情けないんだからぁ。
でも・・・。

明日のことが憂鬱なのか、とぼとぼと歩くシンジの背中をいとおし気に、アスカはぎゅ
っと抱きしめる。

アタシが作れなかった最後の一羽。
いっつも最後の最後で・・・アタシに足りない最後の一羽。

                        ●

10年前・・・。

シンジが入院した後、アスカは義理の母親に聞いた千羽鶴を必死で折っていた。

チンヂっ!
これができたら、助かるからねっ!
待ってんのよっ!

そろそろ夜が明けようとしている。アスカは生まれて初めての徹夜をしながら、一生懸
命鶴を折り続けた。

翌日、まだシンジの意識は回復しなかった。

アスカの両親が見舞いに行っている頃、アスカはいつの間にか眠ってしまっていた。そ
の横には、まだ500羽にも満たない鶴が山になって詰まれている。

ガタン。

両親が見舞いから帰って来たのだろう。玄関の扉が閉まる音がした。

「あっ! チンヂはっ?」

「あら。アスカちゃん、起こしちゃった?」

「チンヂはっ?」

「まだ、ねんねしたまんまだったわ・・・。」

「チンヂっ・・・。」

アスカは眠い目を擦って、また鶴を降り始めた。
夕食も碌に食べず、ただひたすら鶴を1羽1羽折っていく。

さすがに2日目。幼いアスカは、眠気には勝てず。その日は10時頃に、折り掛けの鶴
を手にしたまま眠ってしまった。

「あらあら。シンジ君、早く良くなってくれるといいけど・・・。」

アスカの義理の母親は、そんなアスカをベッドに連れて行き、暖かい布団の中で寝かせ
てやった。

                        :
                        :
                        :

「あら?」

まだ夜が明けきらぬ朝方、アスカの母親が目を覚ますと、いつも隣で寝ているアスカの
姿が無かった。

「アスカちゃん?」

トイレにでも行ったのかと、そっと寝室の扉を明けてリビングへ出て行くと、そこには
一生懸命に鶴を折り続けるアスカの姿があった。

チンヂっ!
もうすぐ千羽よっ!
もうすぐよくなるわよっ!

冬はまだ暗い5時。アスカは、パジャマの上から自分のジャンパーを着て、1羽1羽を
丁寧に幼い想いを込めて、自分にも数えられる様に10羽を束ね更に100羽を束ねて
千羽鶴を折り続けた。

<病院>

その日の昼、アスカは眠たい目を擦りながら、必死で折った千羽鶴を持って、母親と一
緒に見舞いに来た。

「う・・・うーーーん。」

アスカが部屋に入って来た時、シンジが目をしょぼしょぼさせながら声を上げる。ユイ
が、その身体を揺さぶると、シンジは2日振りにゆっくりと目を開けた。

「あっ、母さん。ゴホゴホ。」

「シンジ・・・良かった・・・。」

「母さん? あしゅかは?」

「え? あぁ、アスカちゃんね。いるわよ。」

ユイがシンジの視線の先から身体をずらすと、目の前には今にも泣きそうな顔で千羽鶴
を持ったアスカが立っている。

「あっ、あしゅかだ。」

「うっうっ・・・バカチンヂのくせにっ! バカチンヂのくせにっ! 」

シンジが気付いたのを見たアスカは、今にも泣きそうな顔で近づいて来る。

「わっ! あしゅか、どうしたのっ!」

「あんなことして、死んじゃったらどうすんのよっ! うわーーーんっ!!」

「あぁぁぁっ! あしゅかっ! あしゅかは、泣いちゃ駄目だっ。」

シンジは慌ててベッドから飛び降りると、アスカの前に立って両腕を開いたり跳んだり
して、元気な所を見せ様とする。

「ほら、ぼくは大丈夫だよ。ねっ。だから泣かないで。ゴホゴホ。」

まだ熱の高いシンジが、ベッドから飛び降りたのを見たユイは、慌ててシンジを抱き上
げる。

「こらこら。まだ起きちゃいけません。」

「だって、あしゅかが・・・。」

「ぐすっ・・・チンヂ・・・これ・・・。」

ベッドに寝かされるシンジに、アスカは涙を浮かべながら、2日がかりで折った千羽鶴
を手渡す。

「これ? 何?」

「ママが教えてくれたの。これ作ったら、チンヂが治るって。」

「そうだったんだ。ぢゃ、あしゅかのおかげだね。」

「そうよっ。アタシのおかげなんだから。チンヂは、アタシがいないと病気も治らない
  んだからっ!」

「うん・・・。」

それからシンジは退院するまで、ベッドの枕元に掛けられた千羽鶴を毎日毎日眺め続け、
いつもいつも嬉しそうにその数を数えていた。

                        :
                        :
                        :

そして、10年たった今。

シンジの部屋の机の上には、色あせしない様に古いカレンダーで作った袋に包まれて、
今でもその千羽鶴が飾られている。



その千羽鶴の一番下には、赤い1羽の鶴が他とは少し違う糸で吊られている。



アスカは知っていた。

あの時、自分が折ったと思っていた千羽鶴は、実は999羽しか無かったことを。
最後の一羽・・・自分にできなかった最後の一羽を、シンジが後で付けてくれたのだと。


自分に足りない、最後の一羽。
それを、いつもシンジが折ってくれるのだと・・・。

fin.
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