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  幽霊になった少女(後編)
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その日、葛城家で頻発していた怪現象の調査に来ていたリツコは、結局、何も得ること
のないまま失意のうちに葛城家を去っていった。この家の主であるはずのミサトも、当
然のように彼女の後に付いてネルフ本部へと戻ってゆく。

ひとり残されたアスカは、言葉もなく・・・ほとんど呆れながら、彼女たちを見送った
のだった。

・・・マナは、その後しばらくたってから帰ってきた。玄関からではなく、ベランダ側
からひとりで入ってきたことからすると、今日1日シンジと一緒だった、というわけで
はなさそうだ。

「たっだいま〜」

と言ってから、マナはアスカの奇妙な行動を見て、眉をひそめた。

「アスカ? なに・・・してるの?」

アスカは、四角くて黒い、手のひらほどの大きさの箱・・・リツコが幽霊探知機といっ
ていたものだ・・・を、マナの方へと差し出しているのだった。

その箱を、アスカはマナに近づけたり、彼女から離したりしてみた。が、ラジオのチュ
ーナーが合っていないようなザーザーという音が一定の音量で流れてくるだけで、彼女
に反応している様子など全然ない・・・。

「な、なんでもないのよ。ちょっと、このラジオがね、壊れてるみたいで・・・」

愛想笑いと少しばかりの冷や汗を浮かべつつ、アスカは、手にしていた幽霊探知機とい
う名前のガラクタを背中に隠した。

「・・・変なアスカ」

マナが不思議そうに首を傾げる。

アハハ・・・とうわずった笑い声をあげながら、アスカは思った。リツコに頼らなくて、
やはり正解だった、と。・・・まったく、そんなことをしていたら、話がややこしくな
るだけだった!

「ね、ねぇ、そういえばさ。マナ、あんたの未練って、何なの?」

「ん、未練? あたしの? なんで?」

「なんでって、それは・・・」

まさか「とっとと成仏してもらいたいから」だとは、さすがに面と向かっては言いづら
い。アスカはできるだけ優しげな笑顔を作って言った。

「だ、だってほら、未練があると、つらいでしょ、幽霊って。だから、この心優しいあ
 たしがね、あんたの未練を晴らしてあげようってわけなのよ」

「え、ホントに!?」

彼女は、表情をパァッと明るくさせた。

「わぁ、アスカって優しいね!」

「う、うん、まーね・・・」

素直に喜ばれて、アスカは少し戸惑った。実のところ、ちょっぴり後ろめたい気がしな
いでもない。でも、よく考えてみれば直接的には彼女のためになることなのだから・・
・と自分自身を納得させて、改めて問いかける。

「んで、何が未練なの?」

「えっと、それがねぇ・・・」

マナは、あごに人差し指を当てて考え込んだ様子のまま、天井の近くを漂いはじめた。

何を考えることがあるんだろう?
まさか『何もない』なんて言い出すことはないと思うけれど・・・。

そんなことになれば、アスカに打つ手はなくなってしまう。

不安に思い始めたとき、マナがニヤリと笑って小さくうなずいた後、訊ね返してきた。

「アスカってさ、遊園地、シンジと2人で行ったことある?」

「は? 遊園地? あいつと2人でなんて、あるわけないでしょ」

「そう。じゃあ・・・あのね、アスカ。あたし、シンジと一緒に遊園地でパァーッと遊
 んでみたい」

「・・・はイ?」

あまりにも意外な要求に、アスカはすっとんきょうな声をあげた。
マナはニコニコしながら続ける。

「ほら、あたしって、戦自の少年兵だったでしょう? だから、訓練だの秘密保持だの
 で施設に拘束されてばっかりだったし、そのせいで遊園地なんて自由に行かせてもら
 えなかったから。一度でいいからそんなところでシンジとデートしたいなぁって思っ
 てたのよね」

「シンジとデートって・・・」

いやはや、そんなことだったとは。完全に呆れながらつぶやいた直後、アスカはとてつ
もなく恐ろしいことに気が付いた。

「で、でも、マナ。それってやっぱり、この間みたいに、あたしの身体を使うことにな
 るんじゃ・・・?」

「うん」

あっさりとマナはうなずいてくれる。アスカはうめいた。

「・・・あたしに、シンジと、デートしろってぇの!?」

「デートするのは、アスカじゃなくて、あたし。あたしが、アスカの身体を借りて、シ
 ンジとデートするの」

「・・・ほとんど同じことよっ」

そんなの冗談じゃない! とんでもない話だと、アスカは思った。

「うーん、じゃ、他のことにしましょっか?」

マナがいたずらっぽく言う。アスカは思わずつばを飲み込んだ。

「あ、ちょ、ちょっと、待って・・・」

シンジとのデート。
よくよく考えてみれば・・・これほど簡単に実現させることのできそうな願い事など、
他にないような気もする。実際に叶えることのできる望みというのは、そうでないもの
より遙かに希少価値が高いに違いないのだから。

身体を貸すこと自体は、この前と同じならば特に問題ないだろう。リツコの言ってたこ
とも気になるが、1日くらいなら、たぶん、きっと大丈夫。
・・・よし。ここは、彼女に成仏してもらうためだ。

アスカは思い切って覚悟を決めると、無意識のうちに床の一点をにらみつけていた視線
をマナに向けて、言った。

「わ、わかったわ・・・。あんたの言うとおりにしてあげる。でも、1日だけよ? そ
 れでいいでしょ?」


                  ◆


翌週の日曜日になった。

マナの鼻歌を聴きながら、アスカはなんとなく、周囲の様子を意識してみた。

前方に高くそびえているのは、ジェットコースターのレールの一部だ。高低差・スピー
ドともに、日本で最高のものらしい。その手前には、いかにもメルヘンチックなメロデ
ィーを奏でながら回っているメリーゴーランド。そこから十数メートルほど離れた場所
に、そこそこの広さの植え込みがあって、その周りに3人がけのベンチが並んでいる。
自分が腰を下ろしているのは、そのベンチの1つだった。

他にも大勢、子供づれの夫婦やら、パンフレットを仲良くのぞき込む大学生くらいのカ
ップルやら、ソフトクリームをそれぞれ手にした姉弟やらが、周りのベンチを利用して
いる。

とりあえず、視界の中にあるのは、そんな光景。

日本一の規模の誇るこの遊園地に、アスカ・・・の身体を乗っ取ったマナはいた。
シンジも一緒にいる。ただ、彼は今、『アスカ』の命令でアイスクリームを買いに行か
されていて、彼女たちのそばにはいなかったが。

この遊園地は、第2新東京市の郊外にあった。1日だけとはいえ、エヴァのパイロット
3人中2人までもが第3新東京市を離れているわけだ。最近は使徒が来ていないからと
いっても、普通なら許されることではない。

このような行動をミサトが許可してくれたのは、マナが彼女の枕元に立つか何かして脅
したからだろうと、アスカは察していた。彼女は何も言っていないが、間違いあるまい。
・・・ミサトの執務室へ行って渋々と許可を求めたとき、恐怖に引きつった彼女の顔を、
アスカはふと思い出した。

と、マナが空を見上げた。アスカの意識にも、明るい青空と白い雲のコントラストが飛
び込んでくる。

11月も終わろうとしているのに・・・。

ドイツの空との違いに、アスカはそんなことを思った。

ここに来る前、彼女の住んでいたところでは、この時期は冬の季節だった。空はいつも
曇っているし、昼がとても短い。だが、ここ日本では、この時期になっても空は遙かに
高く、気温のほうも半袖で充分に足りるほど暖かなのだった。セカンドインパクト以前
のこの国は、豊かな四季に恵まれていたらしいけれど・・・。

そして今も、頭上に広がる空はこうして気持ちよく晴れ渡っていて、微風が陽の厳しさ
をかなり和らげてくれている。デートをするには都合が良すぎるほどの、理想的な天気
だ。

が、しかし・・・そのことを素直に喜ぶことのできないアスカは、不満げな声をあげた。

「ねぇ、マナ・・・」

いつぞやの夕食のときのように、身体を乗っ取られてはいても、声だけは出そうと思え
ば出すことができるのだった。
マナが鼻歌を止めて・・・アスカが口を動かしたせいで止めさせられたのだが・・・返
事をしてくる。もちろん、同じ口を使って。

「ん? なぁに?
 ・・・そういえば、あんた、シンジのことは諦めたようなことを言ってたわよね?
 え? あたし、そんなこと言ってないわよぅ。
 言ってたわよ、絶対に!
 そうだったかしら?
 そうよ! それが、どーしていつの間にか、シンジとデートしたいってことになって
 るわけ!? 何か釈然としないなと思ってたら、それが理由だったんだわ・・・!
 文句言わなくたっていいじゃない。デートしてるのはアスカの身体なんだからさ。ア
 スカだって嬉しいでしょ?
 っんなわけないでしょうがぁっ! あたしは・・・」

アスカの口から、マナとの会話がつむぎ出される。・・・隣のベンチからじっとアスカ
のことを見つめていた小さな子供が、母親に何かを注意されたようだった。

「あたしは、あんなバカのことなんあ、シンジが帰ってきたわよ!」

マナが、アスカが言い終わるのを待たず、セリフの途中で急にしゃべった。2人は舌を
噛みそうになった。

「はい、アスカ」

小走りに駆け寄ってきたシンジが、チョコレート味のソフトクリームを手渡してくる。
マナは満面の笑みで、それを受け取った。

「ありがと、シンジ」

「あ、いえ、どういたしまして・・・」

どこか引きつった笑みを浮かべながら、シンジが応える。

マナはやがて、手にしたアイスを食べ終わると、すでにそれを食べ終えてぼんやりとし
ていた彼の袖を引っぱって、言った。

「ねぇ、次は、あのジェットコースターにチャレンジしましょうよ」

「あれに!? あ、ああいうのは僕、ちょっと遠慮したいかな、って・・・」

つれない答えに、マナは頬を膨らませた。

「じゃ、なぁに? ああいう怖い乗り物に、か弱い女の子1人で乗れっていうの?」

「え、あ、いや、そういうわけじゃ・・・」

「じゃあ、お願い、シンジィ〜。一緒に乗ろうよ〜」

「う・・・」

可愛らしくねだってくる彼女に、彼は一瞬、完全に引きつった表情を見せた後・・・抵
抗する力をなくしたように言った。

「わ、わかったよ、乗るよ。・・・僕も」

「やった〜」

マナは、にぱっ、と音がしそうな笑みを浮かべて、ベンチから立ち上がった。

「やっぱ身体がないと、あの手の乗り物って面白くないのよねぇ」

「え?」

「ううん、ただの独り言」

そう言うと、例の鼻歌を歌いつつ、先に歩き出す。

遅れて腰を上げたシンジは、彼女の背中へと何だかやつれたような視線を送りながら、
心の中で首を傾げた。

やっぱり、ヘンだよ・・・。

目の前を行く少女の後ろ姿は、見慣れたアスカのものであることに違いない。
けれど、話し方とか、ちょっとしたしぐさとかが・・・。なんだか、ぜんぜん彼女っぽ
くないのだ。

だいたい、最近のアスカは、どうもおかしい。たまに独り言を言うようになった。
それに今日だって、何のためにわざわざこんな遊園地まで僕を付き合わせているのだろ
う?

確か「文句を言わずに黙って付いてこないと、あんた、死ぬわ」のような脅し文句だっ
たか・・・。それを口にしたときの、彼女のあの目は本気だった。だからこうして、仕
方なくついて来てはみたけれど、でも・・・。

「これって、まるでデートじゃないか・・・?」

アスカが僕をデートに誘った? そんな、バカな! ・・・いや、だけど・・・だが、し
かし・・・。

・・・と、混乱しているシンジを置いて、マナの足はトコトコと先を行く。

彼の目の前では黙っていたアスカだったが・・・そういう約束だったのだ・・・ひとり
になったようなので、我慢できなくなったように口を開いた。

「ちょっと、マナ!
 ん、なぁに?
 もっとシンジをさ、奴隷というか家来というか、子分っぽく扱わないと、怪しまれる
 んじゃない? ものを頼むときも『お願い〜』とかじゃなくていいのに・・・。
 そんなことないわよぅ。今の調子でも、ぜんぜん問題ないってば。『バカシンジ』な
 ぁんて怒鳴られるより、彼も嬉しいに決まってるわ。
 そ、そう? あまり嬉しがってるようには見えないけど・・・。
 あーほらほら、シンジが追いついてきたみたいよ。アスカは黙っててね。じゃないと、
 かえって怪しまれるでしょ。
 う、うぅぅ〜・・・」

・・・我慢だ。

アスカは耐えた。

シンジとの初めてのデートらしいデートが、こんな形になってしまったなんてって、そ
んなことじゃない! 間違えた。もとい、身体を乗っ取られてとはいえ、バカシンジな
んかとデートする羽目になるなんて!!
だが、これでマナが成仏してくれさえすれば、同居人が・・・いくらバカシンジとはい
え・・・幽霊に憑かれて死ぬなどという、イヤな思いをせずに済むではないか。
彼には生きてもらって、自分の召使いとして色々と仕事をしてもらわねばならないのだ。
それに、彼の命を救うことは、エヴァのパイロットとしての義務でもある。
だから、今日だけ。今日だけは、我慢するしかない・・・。


                  ◆


彼女たちが第3新東京市の我が家へと帰り着いたときには、もうすっかり真夜中になっ
ていた。

その日、遊園地を離れて家路に就いたのは、ジェットコースターの後もいろいろと遊び
回って、ほとんど全てのアトラクションを乗り尽くし、遊園地内のレストランで夕食も
済ませ、ついでに夜空に打ち上げられる盛大な花火を見物してから、ようやくのことだ
った。

「あー、今日はすっごく楽しかったわね、アスカ」

「そ、そうね・・・」

よそ行きの服を脱いで、ぐったりとベッドにうつ伏せになったアスカは、その思いとは
裏腹に、とりあえず口ではマナに同意してみせた。

「でも、こんなに精神的に疲れたのは、ホント久しぶりだわ・・・」

今日は、思っていた以上に大変な1日だった。・・・とはいっても、別に遊び疲れたか
らではない。マナが自分の身体で、何かとんでもない暴挙をしでかしてくれるのではな
いか・・・例えば、観覧車でシンジにキスを迫ったり、お化け屋敷で怖いだの何だのと
抱きついたりするのではないか・・・と、ハラハラしっぱなしだったからだ。

そのことを口にすると、マナは小さく笑った。

「アスカのそれは、ハラハラじゃなくて、ドキドキじゃない?」

「はぁ? どう違うの? ・・・もう、とにかく心臓に悪かったわ。ぶっ続けであのジェ
 ットコースターに乗ってたほうが、まだずっとラクだったわよ、たぶん」

「えへへ、ゴメンねぇ。でも、おかげで今日は楽しめたわ。身体があるってのは、やっ
 ぱ気持ちいいわねぇ」

彼女はとても嬉しそうに、そう言った。

どうやら今日は、充分に満足してくれた様子だった。このまま気持ちよく成仏してくれ
るなら、まぁ『めでたしめでたし』の範ちゅうに入るだろう・・・。

そう考えれば、元気も沸いてくるというものだ。アスカは自分でもちょっとした達成感
を覚えながら、明るく言った。

「じゃ、そろそろお別れね。あんたと会えなくなるのは、あたしもちょっと寂しいけれ
 ど・・・」

「お別れ? って、アスカ、どっか行っちゃうの?」

「そうじゃなくて・・・」

どこかへ行ってしまうのは、自分ではなくマナのほうだ。・・・が、そう言えば、成仏
してくれそうな気配というものが、なぜか彼女からはまるで感じられない。
アスカは不安そうに訊ねた。

「・・・もしかして、まだ未練が晴れてないの? マナ」

「え? 未練って、何のこと?」

彼女はきょとんとした表情で訊ね返してくる。

「何のことって・・・。だって、あんた、シンジと遊園地でデートしたいって・・・」

「そうよ。でも、あたし、それが未練だなんて、いつ言ったかしら?」

「それは、ちゃんと、あのとき・・・」

言いながら、アスカは、以前の彼女とのやり取りを思い返してみた。

「た・・・確かに、それが未練だとまでは、言ってないけど・・・」

「あぁ、そういえば、あたしの未練が知りたいみたいだったわね、アスカは」

「そ、そんな・・・!」

「そうだ、じゃあ、今日のお礼ってことで、特別にあたしの未練、教えてあげるわね」

アスカの愕然とした表情に気付いているのかいないのか、特にそのことを気にした様子
も見せずに、マナはニコニコと続けた。

「あのねぇ、あたしの未練っていうのは、一言で言えば、14歳なんていう若さで死ん
 じゃったことかしら。まだまだ人生これからだったのにね。戦自の施設でも訓練とか
 ばっかりさせられてたし・・・って、これは言ったっけ? だからね、あたし、せめ
 て青春とか自由とかってのをたっぷりと味わってからじゃないと、死んでも死にきれ
 ないなぁって思ってたの」

そのセリフの意味するところを理解するにつれ、アスカは全身から力が抜けていくのを
感じていた。もはや罵声を口にする気力もない。

「でも、アスカが今日みたいに協力してくれるんだったら、それも叶いそうねぇ」

そう言って、マナはニッコリと微笑んだ。

「というわけで、これからもよろしくね、アスカ」

「そ、そ・・・」

アスカは横顔を枕に突っ伏して、弱々しくうめき声を上げるのだった。

「そんなの、詐欺よぉぉぉ〜〜」


                  ◆


カレンダーのページがめくられて・・・12月に入ってから幾日かが過ぎた、とある日
のこと。

その日、期末試験がもう間近ということもあって、アスカは机に向かって国語の教科書
を開いていた。日本語の勉強をしているのである。

負け惜しみではなく、今さらテストの点数や偏差値などには全く興味がなかったが、や
はり日本に住んでいる以上は、日本語の読み書きが上手くなるに越したことはない。学
校で試験があるというのは、気持ちの上で、勉強をするのにいい機会というわけだった。

シンジは今日も、どこかへと出かけていた。どこへ行っているのかは知らないが、もし
かすると、3バカトリオで試験の対策会議でも開いてるのかもしれない。
もう1人の同居人で、アスカたちの一応の保護者であるミサトも、家にはいなかった・
・・というより、彼女はここ数週間ネルフ本部に逃げたまま、この家によりついていな
い。ネルフ本部ではよく顔を合わせるのだけれど。

そんなわけで、いま、この葛城家にいるのは、アスカの他にはペンペンと、もうひとり
・・・幽霊を『ひとり』と数えていいのかどうかはともかく・・・マナだけだった。
彼女がアスカの前に現れてから、はや1ヶ月が過ぎようとしている。

「ねぇねぇアスカ。勉強中、悪いんだけど」

「んぁ? あのさ、これ、なんて読むの?」

いいタイミングで話しかけてきた、といった感じで、アスカは開いた教科書をマナに見
せると、人差し指で、とある漢字3文字を指し示した。
マナがそのページをのぞき込んで言う。

「どれどれ? ・・・ああ、それはね、”すきすきじじい”って読むのよ」

「ふーん、すきすきじじい、ね。何が好きなのかしら・・・。ん? なにヘンな顔して
 んのよ、歯でも痛いの?」

「ご、ごめん、何でもないから、気にしないで。あのさ、それより、これ見てよ」

と言いつつ、彼女は1枚の紙を差し出してくる。何だろうと思いながら、アスカはその
紙を受け取った。・・・左上に小さくURLが書かれていることからすると、どこかの
ホームページをプリントアウトしたもののようだ。

ベートーベン、第九、定期演奏会・・・。

絵のない、地味な紙面にざっと目を通したら、そんな単語を拾うことができた。どうや
ら、コンサートの広告らしい。

「あたしね、それ、年末には毎年、聴きに行ってたの」

「ふーん。で? これが、どうかしたの?」

「アスカも一緒に行かない?」

「えー。あたし、あんまり興味ないんだけど」

アスカは嫌そうな顔で、やはり嫌そうに言ったが、マナも諦めずに誘ってくる。

「じゃあ、こういうのって行ったことないんでしょ? 1度でいいから、行ってみると
 いいわ。そしたら好きになるかもしれないじゃない? あたしも友達に誘われて行く
 ようになったんだけどさ。ちゃんとしたホールで聴いたら、きっと感動するわよ」

「うーん。でも、ねぇ・・・」

そう言われても、はいそうですか、という気にはなれない。

だいたい、死んでしまったのだから『歓喜の歌』どころではないだろうに・・・。

そう思いながら、アスカは再び手元の紙面に目を戻して、考える『ふり』をしてみせた。
コンサートの日付は、1週間後のものとなっている。その頃にはちょうど期末試験は終
わっていて、学校も休みに入っているので、それを理由に断ることもできそうにない。

「ねぇ、行きましょうよぅ。あたしも身体があったほうがいいし・・・」

「うーん・・・って!?」

アスカは顔を上げて、マナを見た。

「もしかして、また、あたしの身体を使うつもりなの!?」

「うん」

当然だとでも言わんばかりに、彼女は首を大きく縦に振った。

「身体がないと、本当の音の良さって分からないもんなのよ。微かに感じる空気の振動
 っていうのが、意外と大切だったのよねぇ。あたしも身体をなくしてから気付いたん
 だけど」

「それは、そうなのかもしれないけど・・・」

「そうなのよ。アスカには想像できないでしょうけど、幽霊になっちゃったら、なんだ
 か音が身体を素通りしていくような感じで・・・。だから、ね、一緒に行って、身体
 貸してよ。お願い!」

と、手のひらを併せて拝みこんでくるマナを見て・・・アスカは、ふぅっと溜息をつい
た。

どうせ、嫌だと言っても聞き入れてはくれないだろう。今回も「呪ってやる」だの「夢
に出てやる」だの「耳元でひたすらお皿の数を数えてやる」だのと、色々と駄々をこね
るに違いない・・・。

でも、ちょっと待ってよ? と、アスカは思った。

再び、手にしている広告に目を落とす。このコンサートがあるのは1週間後。しかも、
日本でも有名な楽団によるコンサートだ。と、いうことは。
今からでは、チケットを手に入れようとしても、もう間に合わないはず。
マナはどこへでも自由に出入りできるけれど、生身の身体を持つ自分は彼女のようにい
かない。入場券というものが必要なのだ。
が、どうやらこの幽霊は、そこまで考えが回らなかったらしい。ふふふ・・・。

「ねぇ、マナ」

口元の笑みを隠しつつ、アスカは椅子ごと彼女に向き直ると、その上であぐらを組んで、
余裕をもって話し出した。

「そういうことなら、あたしも一緒に行ってあげたいんだけど・・・」

「ホント!?」

「うん、でも・・・」

あたしの入場券がないでしょ? と、言いかけた瞬間、マナの歓喜の声が、それを遮っ
た。

「やったぁ! ありがとアスカ! チケットのことなら心配しなくていいからね。あたし
 もうっかりしてたけど、ちゃんと昨日の夜、葛城さんを脅し・・・じゃなくて、丁寧
 にお願いして、ネルフの権限で手配してもらってるの」

「・・・うそ」

か細い声で、アスカはつぶやいた。その様子には気付いていないかのように、相変わら
ずマナは嬉しそうに続ける。

「んもう、バッチリよ。たぶん今日中に電話がかかってくるんじゃないかしら。来週の
 その日の予定は空けといて、って」

「・・・」

「そうそう、ちゃんと、シンジの分も頼んでおいたからね。彼って、こういうの好きそ
 うでしょ?」

「・・・」

「あっ、ほらほら、ちょうど電話だわ。きっと葛城さんからよ。さっすがネルフの作戦
 部長、もう手配してくれたのねぇ」

「・・・」

唖然とするアスカの指の間から、そのコンサートの広告の紙が抜け落ちて・・・はらり、
と床に着地した。


                  ◆


それから1週間後。『第九』のコンサートの日になった。

期末テストも、特に何事もなく終わった。何事もなく、というのはもちろん、点数はと
もかくとして、ということだけれど。
試験の問題用紙には、まだまだアスカの読めない漢字もたくさんあったが、そこらへん
の回答欄には適当にドイツ語を書いて済ませたのだった。

「だって、日本語で答えなくちゃダメなんて、どこにも書いてなかったでしょ?」

そう言って、アスカは胸を反らした。隣を歩くシンジが呆れ顔で言う。

「そりゃ、そうだけどさ。それって国語のテストじゃないか。だいたい、縦書きの回答
 欄に、どうやってドイツ語を・・・」

「ま、どちらにしろ、正しい答えを書いたわけじゃないんだけどね。なんてったって、
 問題が読めなかったんだから」

「・・・」

よく晴れた日の昼下がり。

コンサートのある会場は、第3新東京市の郊外にあった。開演は午後の2時。
昼食を終えてから家を出た2人は、いったん第3新東京駅まで出て、そこで乗ったバス
に数分揺られたあと、歩いてその会場を目指していた。もちろん、マナも一緒だ。

そのマナが、アスカに声をかけた。

「そういえば、アスカ、『すきすきじじい』の読みは出た?」

「出たわ。それは、ちゃんと解けたわよ」

「えへへ、あたしのおかげね!」

「何が出たって?」

「ん、ちょっとね、こっちの話」

「そ、そう・・・」

アスカの独り言にも慣れたのか、シンジはもう、あまりかまってこなくなった。
あまり他人の内心に踏み込んでこない、彼のそんな態度は、ある意味好都合なことでは
あったが、いったい内心では何と思われていることやら・・・。

「あ、あそこだね」

シンジが言った。目的の会場が見えてきたのだ。
と、そのときだった。唐突に、マナが小さく叫び声をあげた。

「あれは・・・うそ!」

何事かと見てみれば、彼女は口元に手を当てて、ひどく驚いた様子で会場の入り口付近
へと目をやっている。

「どうし・・・」

とアスカは言いかけて、はっと口をつぐんだ。シンジの前での『独り言』も、あまり多
すぎると、さすがに困ったことになってしまう。
彼が何も気付いていないのをみると、アスカは黙って、マナの視線を追った。

その先にいるのは、どうやら自分達と同年代の男の子のようだった。さっぱりとした紺
色のジャケットと草色の長ズボンを着ている。・・・アスカの見たところ、特に目立つ
少年でもない。

とすると、知り合いなのかしら。アスカがそう思ったとき、マナが鋭い視線を向けて言
ってきた。

「・・・アスカ!」

「な、なに?」

「身体、借りるわよ!」

「えっ、ちょ、ちょっ!?」

マナは有無を言わさずに突然、アスカの身体に入り込んでくると、会場の入り口付近に
いるその少年を目指して、一目散に走り出した。

「あ、アスカ!?」

背後で、シンジが困惑した声をあげる。

説明もなしに身体を乗っ取られたアスカは、あまりに突然のことで、怒りよりも驚きの
感情のほうが先に立った。

「マナッ、急にどうしたのよ!?
 アスカはしばらく黙ってて、お願い!
 そんなっ、いったい、どうして!?
 いいから、とにかく何も言わないで! お願いだからっ!!」

マナの出す声は、さすがのアスカも黙らざるを得ないほどに緊迫したものだった。彼女
がこれほどに鋭い声を発したのは、初めてのことだ。

アスカの身体を操るマナは、全力で少年の下へと駆けてゆく。

その少年の顔がはっきりと分かるようになったとき、アスカは、はっと思いだした。

あの人は・・・そうだ、きっと、間違いない。

あの日、富士山のふもとでN2爆雷の光の中に消えたのは、マナだけではなかった。
彼女の他にも、もう一人、ロボットを操縦していた男の子がいたのだった。
名前は知らないが、彼女が駆けてゆく先にいるのは、その男の子だ・・・!

その少年は、マナがアスカの身体を操っていることを、もちろん知らない。
彼女がどうやら自分に向かって走ってきているようだということに気付いて、戸惑って
いるようだった。

マナは少年の目の前で立ち止まり、必死の表情で声をかけた。

「あ、あの・・・!」

やや戸惑った様子のまま、少年はマナを見て、小さく首を傾げた。平均よりやや浅黒い
肌の色をしていて、間近で見ると、その顔立ちはシンジに負けないくらい端正で・・・
しかし彫りは深く、どこかたくましさが感じられた。

マナ、いったい、どうするつもりなの・・・?

アスカはハラハラしながらも、今はただ黙って彼女のすることを見守るしかない。

もしかすると、自分の正体を明かすのだろうか。シンジにすら黙っていたのに。
そうだ、そもそもこの人は、マナの何なのだろう?

そのとき・・・。
マナが、きつく閉じていた唇を開いた。

「ちょっと、お尋ねしますけど・・・」

そう言って、彼女は・・・足下に視線を落として、そのまま再び黙り込んでしまう。

早まる胸の鼓動は自分のものなのか、それともマナのものなのかが、既にアスカには分
からなくなっていた。

「・・・なに?」

しばらくして、少年が先をうながした。マナは顔を上げて彼の目を見つめ、意を決した
ように言った。

「あなたは、死んだ人は・・・その人の魂は、どうなると思いますか?」

はぁ!? マ、マナ、いったい何を言い出すのかと思えば・・・!

「は!?」

その少年も、さすがに絶句したようだった。アスカはもう、恥ずかしさで頭がいっぱい
だった。

こんのバカ幽霊! あたしの身体だからって、何をワケの分からないことを・・・!

今すぐにでもこの場から立ち去りたいが、悔しいことに身体が言うことを聞いてくれない。

だが、少年のほうは、マナの必死の眼差しを受けて何か思い当たることがあったのだろ
う。彼女の瞳を・・・今は蒼い、マナの瞳を・・・やがて真剣な眼差しで見つめ返して、
訊ね返してきた。

「死んだ人の、魂が?」

「はい」

少年は少し躊躇ったあと、口を開いた。

「死んだ人の魂は、生きている人の心の中で、生き続けている・・・」

真顔でそう言ってから、くすっと笑って、少年は手で頭をかいた。見知らぬ女の子に対
して口にした自分のセリフに、照れているように見えた。

「・・・と、俺は思うけど」

その答えを聞いて、マナは再び、うつむいた。

胸が熱い想いで満たされて・・・それが、アスカにもはっきりと伝わってくる。そして、
マナが小さく微笑んだのも、アスカには分かった。

「・・・ありがとう、ムサシ」

マナはそうつぶやいた次の瞬間、少年に背を向けて走り出した。

「・・・マナ!?」

少年の声が、背中から確かに聞こえてきた。しかし、彼女は立ち止まらない。
まるでその少年から逃げ出すかのように、全力で走り続けた・・・。


                  ◆


それから、どれほど走っただろうか。

街の郊外を抜けて、周りに緑が多くなってくると、とうとう街とはいえないところまで
来てしまったのがわかった。

ゆるやかな、しかし長い長い坂を駆けのぼってゆく。と、不意に舗装された道を外れて、
人気のない公園に入ったとき、アスカが根を上げた。

「はっはっはっ、ちょっと、マナッ、もうっ、ダメ! 走るの、やめてよぅ!」

息も切れ切れに口にすると、ようやくマナは走るのを止めて、立ち止まってくれた。
彼女が身体からすっと抜け出す。途端に、アスカは膝に手をついて、かがみ込んでしま
った。

「はぁはぁ、一体、どういうことか、説明してよね」

アスカは宙に浮いているマナを見上げて、息を整えつつ言った。

「さっきのムサシって男の子、確か、あのロボットのパイロットだった人でしょ? あ
 のとき、マナと一緒に死んだはずの。でも・・・あの人は、幽霊じゃなかったわ」

「・・・」

しばしの沈黙の後、マナはつぶやくように話し始めた。

「彼は・・・ムサシはね、あのとき、あたしを脱出用のカプセルで逃がそうとしてくれ
 たの。1人しか乗ることのできない、脱出カプセルで。だけど、あたしがとっさに、
 ムサシをその中に引き込んで、入れ替わって・・・」

「・・・彼のほうが、生き残った・・・」

「うん。・・・でも、よかった。無事に脱出できてたんだわ。まさかあんな所で会える
 だなんて、思ってもみなかった。もし生きてたとしても、どこかもう遠い街に行っち
 ゃったんだろうって思ってたのに」

「マナ・・・」

ムサシというあの少年が、何故あんな場所にいたのか、アスカにも全く見当がつかなか
った。アスカに分かったのは、ただひとつ。あの少年は、マナにとって自分の命を投げ
出してまで助けるに値する人だったという、そのことだけだった。きっと、恋人なんて
安っぽい言葉では言い表せないような、そんな人だったのだ・・・。

沈黙するアスカに、マナはいつもの軽い調子で言った。

「アスカ、あたし、もう行くわ」

「行く、って・・・」

どこへ? という言葉が喉の奥まで出かかったが、慌ててそれを飲み込む。彼女の言い
たいことが分かったからだ。アスカは、思わず両手を広げた。

「冗談でしょ!? だって、まだ未練が・・・あんた、言ってたじゃない。青春を満喫
 するんだ、みたいなことを」

慌てて言うアスカに、マナは微笑んだ。

「アスカって、やっぱり優しいわね・・・。お礼に、あたしの未練、教えてあげましょ
 うか?」

「えっ!?」

どういうこと? と、一泊おいて訊ねたアスカに、彼女は穏やかに答えた。

「あたしね、セカンドインパクトのすぐ後に生まれた人間なのに、結局、この世界で何
 もできなかった自分が悔しかった。・・・羨ましかったのよ。あなた達、エヴァのパ
 イロットが」

「あたし達が、羨ましかった? ・・・そんなに、ロボットのパイロットになりたかっ
 たの?」

「ううん・・・。そういうわけじゃなくて」

彼女は、首を横に振った。一言一言、自分に言い聞かせるように言う。

「パイロットには、なれなくてもよかった。・・・そう。別にね、何でもよかったのよ。
 自分がこの世界に生まれて、生きて、それで一生懸命、頑張ってたんだっていう証に
 なるものだったら、何だってよかったんだと思う・・・。死んじゃってから、あたし、
 ずっとそれを探してた。見つけたかった」

「マナ・・・」

彼女の名前をつぶやきながら、アスカは、その気持ちを分かろうとしてみた。

先ほど、マナがムサシに問うたことの意味。その答えに込められた想い。
彼女がまだ生きていた頃に、この世界でしたかったこと。
幽霊になってしまった彼女が、探していたもの・・・。

「・・・それを、見つけることができたのね?」

アスカが訊くと、マナは静かに微笑んだ。

「うん。だから、ね、アスカ。幽霊なんて中途半端なままでいるのは、もう終わりにす
 るわ」

そう言う彼女の微笑みを、アスカは目を細めてまぶしそうに見つめながら、ひとつ訊ねた。

「ねぇ、シンジは? ・・・あいつには、何も訊かなかったの?」

「ええ・・・。アスカにも、きっと分かってたでしょう? シンジは、あたしのことを
 忘れようとしてたもの。でも、あたしとの思い出が辛いのなら、仕方がないわよね」

微笑を浮かべたままマナがそう言うと、アスカは首を横に振った。

「ううん、そうじゃない。それは違うわ」

「違う? ・・・どうして?」

マナが不思議そうに訊ねてくる。

「それは、その・・・」

そう言ったきり、アスカは言葉に詰まった。思わず『違う』などと言ってしまったけれ
ど、どうして、と訊かれても・・・。

自分でも驚くべきことだったが、とっさにそう思ったことは嘘ではなかった。
シンジは、彼女のことを忘れようなんてしていない。
でも、どうしてそう思ったのだろう? どうして・・・?

アスカは眼を閉じて、必死に考えた。

それは・・・そう。
あのとき、彼の目が、そう言っていたからだ。

閉じたまぶたの裏に、あの日の光景が蘇ってくる。

芦ノ湖の湖畔。すぐそばから聞こえてくる、小さなさざ波の音。
目の前の火は、いま、小指の先ほどの大きさになった。もう間もなく消えてしまう。
そのペンダントは? 湖に沈める?
シンジが辛いことは分かっていたから、できるだけ優しく訊ねたつもりだった。
『でも、これは、マナの形見だし・・・』
手のひらに乗せたペンダントに目を落として、彼はそう答える。
そんな彼の、憂いを帯びた漆黒の瞳を見つめて、自分は溜息をついたのだった・・・。

「うん・・・」

小さくうなずくと、アスカはマナに微笑みかけた。

「やっぱり、そうだわ。だって・・・」

そして、一瞬だけ考えてから、言う。

「だって、シンジって、目がきれいでしょ?」

その答えに、マナはぱちぱちと目を瞬かせた。

「ね? だから、マナ。あんたとの思い出なら、あいつの胸の中に、きっと大切にしま
 ってあるわ。それから・・・」

アスカは、自分の胸に手をおいた。

「もちろん、あたしの胸の中にも。死ぬまで、ずっと」

「アスカ・・・」

マナは再び、優しく微笑んだ。青い空と白い雲を背景に、その笑顔はきらきらと輝いて
見える。アスカは、何か温かいもので心が満たされるような思いだった。

「・・・ありがとう、アスカ」

「ううん、いいのよ、お礼なんて。水くさいじゃない」

込み上げてきたものを辛うじて抑えると、照れたように笑ってみせた。
悲しい顔で別れるのは嫌だったし、なにより今は笑顔でいるべきだと、アスカは思った。
だって、マナもいま、笑っているではないか。いかにも幸せそうに。

「・・・じゃあ、あたし、もう行くね。アスカはこれからも頑張って。生きてると色々
 大変でしょうけど・・・。あたし、ずっと応援してるから。シンジとも上手くいくよ
 うに祈ってるわ」

「あ・・・あのね、あたしは別に、あんなヤツ・・・」

「あんまり意地を張りすぎると、そのうち逃げられちゃうよ?」

いたずらっぽく言う彼女に、アスカは苦笑した。結局、彼女はそのことを頑固に決めつ
けたまま、最後までこちらの言うことを聞いてくれなかった・・・。

「・・・そうね、気を付けるわ」

観念したように言うと、マナは満足そうにうなずいた。

「それじゃ、元気でね、アスカ。あたしの分まで、ずっと長生きしてよね・・・」

言いながら、彼女はゆっくりと地上から離れてゆく。その姿も薄くなっていって、次第
に空の青が透けて見えてきた。

「さようなら・・・」

その言葉とともに、彼女はすうっと、青空に溶け込むように消えた。

その場所にひとり残されたアスカは、彼女の消えた場所を見上げたまま・・・顔の横で、
手のひらを小さく振るのだった。


                  ◆


人気のない公園に、風が優しく吹きぬけた。

太陽は、もうだいぶ低いところに位置している。

マナと別れた公園は山の中腹にあって、アスカはまだ、そこにいた。あれから少しばか
り歩いたところに木製の長いベンチが設けられていて、今はそれに腰掛けている。その
場所からは、柵越しに第3新東京市がよく見渡せた。

結局、行きかけていたコンサートには間に合わないだろうと思って、すっぽかしてしま
った。シンジは楽しみにしてたみたいだったから、きっと1人でも行ったことだろう。
今頃は家に帰って、夕食の支度でもしているかもしれない・・・。

「アスカ?」

そのとき背後からした声に、アスカはパッと振り返った。そこには、額に汗を浮かべた
黒髪の少年が立っていて・・・疲れ切った様子でこちらを見ている。

「シンジ・・・」

アスカは驚いたような、呆れたような声を出した。

「いったい、どうして・・・。あんた、ちょっと、こんな所で何してんのよ?」

「何してんのって・・・それは、僕のセリフだよ。あれからアスカのこと、あちこち探
 し回ったんだよ? なんだか・・・その、普通じゃないみたいだったから。突然、必
 死に走り出して」

「・・・シンジ」

胸の奥から沸き上がってくる、確かな想い。・・・でも、それを押し隠しつつ、嬉しそ
うな声にならないよう注意しながら、アスカはぶっきらぼうに言った。

「あたしは別に、何でもないわよ。さっきは、ちょっとね、走りたかっただけ」

「は、走りたかった、だけ!?」

「そ。・・・でも、そしたら、あのS席のチケット無駄にしたの? バッカねぇ。せっ
 かくだったんだから、あんただけでも行ってくればよかったのに。あたしなんかほっ
 といてさ。もったいない」

「無駄にするも何も、券はアスカが持ってたんじゃないか。僕の分も」

「あ・・・! あ、あはは、そういえば・・・。ごめんごめん、すっかり忘れてたわ」

「忘れてたぁ!? ぼ、僕って、いったい・・・」

シンジは、カクン、と肩を落として、泣きそうな表情になった。

「男なら細かいことは気にしないの! ほら、ここ、座んなさいよ」

アスカは苦笑しながらそう言って、自分の隣をポンポンと叩いた。そこにシンジがおず
おずと座るのを見届けてから、第3新東京市の街並みに目を戻す。

遠く彼方には微かな稜線を描く山並み。綿雲は夕焼け色に染まりつつあって・・・。
くすんだオレンジ色の光が、空の青に混じり合い、淡いパープル色に空を染めてゆく。
太陽は時間をかけてゆっくりと沈んでいき、じわじわと大地との距離を縮めていた。
それが作り出したビルの影には、すでに街灯の明かりが小さく光っている。

しばらくの間、2人はそのまま、目の前に広がる光景を見つめていた。

「生きてるってさ、それだけで素敵なことなのねぇ・・・」

自分の髪をそよがせる、やわらかな風の心地よさを感じながら、アスカは小さくつぶや
いた。

「え? なに?」

「ねぇ、シンジ」

アスカは彼に向けて片手を差し出すと、その手のひらを上に向けた。そして、何かをつ
かみ取るかのように、それをギュッと握り締めてみせる。

「あたしたち、これからも精一杯、生きましょうね!」

「・・・アスカ?」

怪訝な表情の彼に、アスカはとびきり勝ち気そうな笑顔を向けた。すると、どこか安心
したような、優しい微笑みが返ってくる。

「そうだね・・・使徒なんかに負けないように」

それを聞いたアスカは、足を大きく振り上げて、その反動で元気よく立ち上がった。

「さぁ、そろそろ帰りましょっか」

シンジの笑顔を見下ろして言う。
うなずいてベンチから腰を上げた彼が、ズボンの腰を手ではたきつつ返事をした。

「うん。もうこんな時間だからね・・・。あ、そうだ。帰るついでに、夕御飯の材料、
 買ってかなきゃいけないんだった」

「ふーん、わかった、一緒に付き合ってあげる。で、今日の晩ご飯は、なぁに?」

「何にしようか。まだ決めてないんだけど・・・。何かリクエスト、ある?」

「リクエスト? そうねぇ、何がいいかなぁ・・・」

日本にやってきてから、なぜか急に増えだした好物の数々。それらの味や食感を次々と
脳裏に思い描きつつ、シンジと肩を並べて歩きながら・・・アスカは、今はもうすっか
り茜色に染まりきった空を見上げた。

鳥たちが頭上をゆっくりと通り過ぎて、街の空へと羽ばたいてゆく。
まるで夕焼けの下へ帰ろうとしているみたいだと、アスカは思った。

                                 《おわり》
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♪ おまけエピソード 『欲しければ、分けてあげる』
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「カッコよく消えてはみせたけれど・・・」

茜色の空にゆらゆらと漂いつつ、マナはあごに人差し指をあてて、憂鬱そうに首を傾げ
た。いったん消した姿のほうは、とりあえず今は実体化させている。

「成仏って、どうやったらできるのかしら・・・?」

アスカと別れた後、しばらくの間いろいろと試してはみたのだ。
が、どうやっても、うまく成仏することができない。・・・何故なのかは、彼女自身に
も全く分からなかった。

「ちょっと困っちゃったわねぇ・・・」

再びアスカのところへ戻ろうかとも考えたが、あまりにも爽やかな別れ方をしてしまっ
た手前、それはさすがに気恥ずかしいものがある。
とはいえ、『この世からの消え方』を教えてくれそうな者にも、全く心当たりがない。

ハァ、と溜息をついた直後、マナは・・・我が目を疑った。

見覚えのある1人の少女が、いま、目の前をすーっと通り過ぎてゆこうとしているのだ。

「・・・!」

驚きのあまり、声も出ない。

その少女が着ているのは、アスカたちと同じ中学校の制服だった。
ショートカットにした明るい空色の髪の毛は、夕焼けの陽を受けて、にじんだピンク色
に輝いている。

マナは喉の奥からしぼり出すようにして、彼女の名前をつぶやいた。

「綾波さん・・・!?」

思わず、下を見る。大地は足の下、遙か下方にあった。
ぱっ、と綾波レイに目を戻す。彼女は片手にコンビニのビニール袋をぶらさげていて、
その中に透けて見えるのは・・・たぶん、お弁当のようだけれど・・・。

「あ、あの、ちょっと、綾波さんっ!?」

マナは、目の前を通り過ぎていったレイの背中に、叫ぶように声をかけた。
すると彼女はゆっくりと振り返って、静かに返事をしてくる。

「なに?」

「えっ!? えっと、その、綾波さんも、幽霊になっちゃったの?」

「幽霊? 違うわ。『れい』は『れい』でも、私は綾波レイ」

「幽霊じゃない、って・・・」

それが本当かどうかを確認しようと、マナはじーっとレイを凝視した。

・・・確かに、自分とは違って、ちゃんとした生身の身体のようだ。
彼女は、まだ生きている。・・・生きているのに、飛んでるのだ、空を!!

「・・・」

マナは胸が苦しくなって、喘ぐように口をパクパクさせた。久々に驚かす側から驚かさ
れる側へと回ったのだ。その衝撃は、それはもう、とてつもなく大きい。
そんな彼女に、レイは淡々と語りかけてきた。

「あなた、身体がないのね」

「え!? ええ・・・。あ、あたしって、ほら、いちおう幽霊だから・・・」

「カラダ。魂の入れ物、ヒトの記号。肉体。肉はキライ。でもニンニクは好き」

「・・・え? あの・・・」

「欲しければ、1つ、分けてあげる」

「・・・は?」

「魂の入ってない身体なら、ネルフにたくさん余ってるの」

「・・・へ?」

「結構、管理がいい加減だから。1つくらいなら、バレないわ」

「・・・ほぇ?」

クアァ・・・。クアァ・・・。

間延びしたカラスの鳴き声が、2人のすぐ足下を、のんびりと通り過ぎてゆく。

「・・・じゃ、私、行くから」

つぶやくように言うと、レイはきびすを返して、すぅーっと、再び音もなく飛
び始めた。

その背中をしばし呆然と見送っていたマナだったが、やがて我に返ると、彼女を呼び止
めようと叫び声をあげた。

「あっ、綾波さんっ!? ちょ、ちょっと待って・・・」

しかし、レイは振り返ることなく、どんどん遠ざかっていってしまう。

慌てたマナは、急いで彼女のあとを追いかけ始めた。
もしかすると楽しいことになるかもしれないなと、胸をワクワクさせながら・・・。

                               《おしまい♪》


アスカ:マナが成仏しちゃって、このコーナーも静かになったわねぇ。

マナ:こんにちはぁ。

アスカ:(ビクッ)ファ、ファースト・・・なにしてんのよ?

マナ:あっらぁ、わたしよ。マナよ。

アスカ:はぁ?

マナ:綾波さんに、体1つ貰ったの。へへへ。

アスカ:げっ! な、な、なんですってーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!

マナ:うーん、生き返っちゃったのかしらぁ?

アスカ:い、いままでのアタシの苦労は・・・。あの、しんみりしたエンディングは・・・。(TT)

マナ:これからも、よろしくねぇ。

アスカ:まぁ、これで枕元でお皿を数えられなくても済むからいいか・・・。

マナ:綾波さんの体って便利なのよぉ。ほらっ!

アスカ:(ズベシっ!)いっ! いったーーーーーーーっ!!!

マナ:ほら、ATフィールド作れるのよ。便利でしょう。きゃはははは。

アスカ:・・・・・・ちょ、ちょっと待った。そんなの、使うなんて反則よっ!

マナ:シンジにちょっかいだしたら、こうだぞーーーーー(ズベシっ!)。きゃはははは、たーのしっ!

アスカ:いっ、いたいじゃないのよっ! うぅぅぅ・・・これは、なんとかしなければ・・・。(ーー;;;
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