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 私を愛してと彼女は言った(前編)
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秒針の1回りが、長針の幾回りにも等しい重さを持っていた。

濡れた髪を乾かすのもそこそこに中学校の制服に着替えて、コップ一杯の牛乳を飲む。
今朝の朝食は、それだけだ。

そして、中身を確かめもせずに、学生鞄を手にしていた。

――ここしばらく味わったことのない、慌ただしい朝だった。

そんなアスカの目の前で、シンジが玄関に座り込み、足下でごそごそと手を動かしてい
る。どうやら靴ひもをうまく結べないらしい。

「あぁぁ! もうっ!」

いつまでもその場に腰を下ろしていそうな彼に、アスカは声を荒げた。

「早くしなさいよっ。遅刻しちゃうでしょっ!?」

と、発破をかけた次の瞬間には、翔ぶように玄関の外へと駆け出している。一足先に行
って、エレベーターを呼んでおこうと思ったのだ。

下りのボタンを、叩くように押す。するとエレベーターの扉は、すぐに開いた。
慌てる必要はなかった・・・。

それから扉を手で押さえ、待つこと十数秒。早足でやってきた少年を乗せて、エレベー
ターは動き出した。

「走って行かないと、遅刻しちゃうね」

全く危機感を感じさせない調子で、シンジが言った。
その口調に嫌味は含まれていなかったが、アスカは、ジロッ、と彼をにらみつけた。

「なぁに? あたしのせいだって言いたいの?」

「そんなつもりで言ったんじゃないよ・・・」

「ふんっ」

と、機嫌を損ねたように、鼻を鳴らしてみせる。――が、本当のところ、自分のせいで
2人が遅刻しそうなのだということは、アスカにもよく分かっているのだった。

腕時計に目をやれば、長針と短針がほぼ一直線になっている。

1時間目の始業のベルが鳴るのが、8時20分。それから2、3分程で大抵の先生は教
室にやって来る。
そして、今現在は8時12分ちょうど。この腕時計は学校のベルに合わせているから、
誤差は計算に入れなくていい。
家から教室までは、のんびり歩いて15分ほどの距離だから・・・。

結局――、軽く走って間に合うかどうかという時間だった。

「しばらく時間が止まっててくれたりしないかなぁ」

シンジがため息とともにぼやいた。その無茶な発想に、アスカは呆れた。

「・・・あんた、相対性理論って知ってる?」

「聞いたことはあるけど・・・。それがどうしたの?」

――エレベーターの扉が開いた。
アスカは、彼の問いを無視して駆けだした。一般相対性理論など説明しても、そう簡単
には理解してくれないだろうから。

遅れてエレベーターの中から飛び出したシンジも、すぐに横に並んできた。

2人並んでマンションのロビーを通り抜け、緩やかなスロープを駆け下りる。

『授業に遅れたって、本当は構わないんだけどねぇ・・・』

どこか言い訳のように、アスカは心の中でつぶやいた。

少年のほうはともかく、自分は既にドイツの大学を卒業している以上、今さら中学校へ
通う必要などは、これっぽっちもないはずだった。

授業の内容だって、特に理系科目では、彼女からしてみれば凄まじく幼稚なことばかり
やっている。他方、文系科目には、これといって興味がない。

だから、正直なところ、学校へは昼寝をしに行くようなものなのだ。

にもかかわらず、なぜ、授業に遅れまいと、こうして走っているのかというと――。

『それはきっと、日本人って、ヘンに几帳面なところがあるから・・・』

そして、そんな日本人の血というものが、自分にも確かに流れている。

つまりは、そういうことなのだ。――と、あっさりアスカは答えを出した。

もちろん分かっている。ひどく曖昧で、いい加減で、非科学的な答えだ。人に言えば笑
われてしまうに違いない。・・・妙に納得してしまう人も、もしかしたらいるかもしれ
ないが。

でも、他の理由を探そうと思えば、心の中には、また別の答えを見つけることができた。
そのことも、彼女は知っていた。

ただ、自分でも気付かないふりをしているだけなのだった。

隣では、黒髪の少年が、ただ息を弾ませながら駆けている。

いったい何を思っているのか、彼の漆黒の瞳には、どこか優しげな微笑みが浮かんでい
た。



                  ◆



マンションを出てから、2、3分ほども走っただろうか。
脇を走っていたシンジの足が、不意に止まった。

あ、という彼の声が、背中に聞こえる。
怪訝に思い、アスカも駆け足を止めて振り返った。

「どうしたのよ?」

シンジは見るからに「しまった」という顔をしていた。肘を曲げ、両の手のひらを開い
て、軽く肩まで持ち上げるような格好をしている。

「お弁当・・・」

と、ただその一言だけを、彼は言った。

「が、どうしたの? って、あんた、まさか・・・!」

「うん。忘れて来ちゃった・・・。たぶん、台所か玄関に。慌ててたから・・・」

「ばっ、ばかシンジ! 何してんのよっ!?」

アスカは慌てた。毎朝、シンジが2人の弁当箱を運んでいるのだ。その彼が弁当を忘れ
たということは、当然、自分のも――。

3時のおやつを決めるよりも簡単に、そして瞬時に、アスカは審判を下した。

「さっさと引き返して、取って来るのよ!」

お弁当を諦めるという選択肢は、彼女が考え及ぶ世界の、地平線の遙か彼方にあった。

「え〜」

シンジが渋い顔で、不満の声を上げる。

「え〜、じゃなーい!」

「あ、あのさ、今日は購買のパンで我慢しようよ。ね・・・?」

「イヤよ! 絶対にイヤ!」

「でも、今から取りに帰ったら、絶対に遅刻しちゃうよ。そしたら・・・」

「1日くらい遅刻したって、かまわないでしょ!」

「で、でもさぁ・・・」

「だあぁぁっ! もうっ!」

しつこく粘る少年に、アスカは一層、声を荒げた。ほとんど胸ぐらを掴みそうな勢いで
ある。

「つべこべ言ってる間に、取って来たらいいでしょーが!」

「・・・わ、わかったよぅ」

――やっと、諦めたらしい。
シンジは泣きそうになりながら踵を返して、来た道を、再び駆け足で戻っていった。

遠ざかっていく背中を見やりつつ、アスカは小さく溜息をもらした。

「ったく・・・。ほんっと、どうしようもなくドジでマヌケなんだから・・・」

そして、思った。――あのときのアレは、何だったのかしら、と。

ゼーレの量産型エヴァとの戦い。
あれから、1ヶ月ばかりが過ぎていた。・・・いや、まだ1ヶ月しか経っていないと言
ったほうが、正解なのかもしれない。

アスカの脳裏には、そのときの凛々しかった少年の姿が浮かんでくるのだった。

瀕死の自分を守りながら、必死に戦っていた彼。
群がってくる敵を片っ端から千切っては投げ、千切っては投げて、それから・・・。
それから・・・? どうしたっけ?

『ああ、そうだ。あたし、途中で気を失っちゃったんだわね』

覚えていないのも当然だった。
聞いた話では、その後、とりあえずサードインパクトは無事に回避されたとか何とか。
補完計画とやらが、どうにかなっちゃったとか。――どうでもいいことだった。

ただ、目が覚めた後のことなら、しっかり覚えている。

病院のベッドに臥せた彼女を、その少年が親身になって看病してくれたこと。

ベッドの上のアスカは、彼に対しては突っぱねてばかりで、感謝するようなそぶりなど
片鱗も見せたことはなかった。なのに、彼ときたら、不器用なりにも精一杯、彼女に対
して気を遣ってくれて・・・。

そんな彼の態度に、これが優しさというものかと、感動すらしてしまったのだ。

――が、しかし。

と、ほんわかとなりかけた心地を、半ば無理矢理に引きずり戻す。

もしかすると、あれは全部、まぐれか何かだったのだろうか。
自分の勘違いだったとか・・・。頭の怪我による記憶障害だったとか・・・!?

それは、かなりイヤすぎる。

『ホント、しっかりしてよね、シンジ・・・』

彼が、肝心な場面では頼りがいのある一面を見せてくれる男の子なのだということは、
チルドレン時代に何度も目の当たりにして、知っていた。
それはそれでいいのだけれど、ただ、やっぱり、もう少しだけ、日頃からテキパキして
欲しいというか、何というか。

『ま、あたしがこれから、少しずつ教育していけばいいか。それに・・・』

あのおっとりしたところが彼の長所なのだと、確かに言えなくもないことはないのだ。

いや、そもそも、自分は少し考えすぎなのかもしれない。たかがお弁当を忘れてきただ
けのことで・・・。

――などと思いつつ。彼女の左右の脚は、既に駆け足を始めていた。

もちろん、シンジを追いかけるようなことはしていない。アスカが走っているのは、中
学校へと続く道である。

・・・が、そのペースもあまり長く続かずに、駆け足はだんだん遅くなっていた。

そして、とある交差点の角で、ついには完全に止まってしまう。

「・・・そういえば、今日の1時間目って――」

今日の曜日と時間割表とを、頭の中で照らし合わせる。

『世界史・・・』

途端に、まずい、という思いが、アスカの胸に拡がった。

世界史の担当講師が、問題だった。
初老の男で、頭が固そうな風貌をしていて・・・。そしてその正体は、そんな風貌以上
に頭の固い人物なのだ。

始業のベルが鳴る時間には、必ずと言っていいほど教卓に座っているし、授業に遅刻し
た生徒を廊下に立たせるなんてことも、ざらにあるのだから・・・。
当然、生徒にも、すこぶる評判が悪かった。

先ほど、シンジが妙に、家に引き返すのを嫌がっていた理由・・・。

腕時計を見る。そしてアスカは、眉根を寄せた。

『キビシイわね・・・』

廊下に立たされたくないなら、今すぐにでも、全力で走って行かねば間に合う
まい。
始業のベルが鳴る8時20分までは、もう、あと何分もなかった。

決心するのに要した時間は、ほんの数舜。

「よりにもよって、こんな日に忘れ物するなんて・・・!」

軽く舌打ちすると、アスカは――、その交差点の角で、少年を待つことにした
のだった。

「んっとにっ、もうっ。あのバカッ!」

小さく罵ってから、アスカは、すーっと、大きく息を吸い込んでいた。

みずみずしい朝の空気が、肺をいっぱいに満たしてくれる。

今度は意識しながら、はーっと、それをゆっくり吐き出した。

そうすれば、心の中でチクチクとしていた何かが、呼気と一緒に身体の外へ出ていって
しまうのだ。

「・・・でも、まぁ」

天を仰げば、抜けるような青空が広がっている。風が、頬を撫でていく――。

「2人で廊下に立つなんてのも、たまには面白いかもね。・・・うん、楽しそ
うだわ」

そんな自分でもよく分からない考えに、知らず、笑みが零れるのだった。



                  ◆



目の前には、通学路にあるからと自分達もよく利用する、2階建ての文房具店があった。
まだ開店しておらず、灰色のシャッターが降ろされている。

人も車も、この時間にはさほど多くはなかった。

が、アスカは車道側へ退いて、道を大きく開けた。

しばらくして、目の前を、ジョギング姿の老人がのろのろと通り過ぎていく。
なんだか、見ているほうが心配になってしまうような足どりだった。

『あれって、本当に健康に良いのかしらねぇ・・・?』

その後ろ姿にしばし目をやってから、アスカは、別の方角に目を向けた。

――シンジはまだ、その姿を見せない。

人でも何でも、何かを待っている時間というのは、意外に長く感じるものなのだ。
と、分かってはいたが、そのことをアスカは既に、頭の中で3回ほど再確認していた。

そして、無意識に腕時計を見やり、4回目の確認をしようとしたとき。

『・・・ん?』

不意に、心臓の鼓動が速いテンポで打ち始めた。

思わず、左胸を軽く押さえる。
と同時に、見知らぬ他人に髪の毛を撫でられたときのような不快感が、ぞわっ、と背筋
を駆け抜けた。

『なに・・・?』

別に、イライラしていたわけではない。それなら動悸はしないだろう。

体調がどこか悪いのかといえば、そうではなかった。

何か漠然とした、胸さわぎを感じている・・・?

気が着くと、鞄を持つ手も軽く震えていた。

『・・・なんなのよ』

空が落ちて来るんじゃないかとも思えるような、これほど不安な気分に、しかも突然、
襲われたのは、初めてのことだった。

――自分も何か、忘れ物をしているのかもしれない。

そう思って、アスカは学生鞄を確かめてみた。

中には、ペン入れとメモ帳と・・・。他に大した物は入っていない。
教科書やノートPCの類は、全て学校の机の中に入れっぱなしのはずだった。
忘れ物をしているとは、思えない。

しかし、そのことを確認してみても、妙な不安感は胸から立ち去ってくれなかった。

正直言って、気味が悪い。
何となく、この場から離れようと思い、周りを見渡す。と――。

こちらに向かって走ってくるシンジの姿が目に入った。

『やっと戻ってきた・・・!』

少年の手には、いつもお弁当を入れている袋が、確かに握られている。

心は未だに波立ったままだったが、きっと何かの気のせいだろうと、アスカは懸命に頭
からそのことを追い払った。
まるで原因が分からないのだから、気に病んでも仕方がないだろう。

シンジが、嬉しそうな顔をして駆け寄ってくる。アスカは頬を膨らませて迎えた。
それは多分に、照れ隠しであった。

「お待たせ」

シンジはさすがに息を切らしていたが、それでも笑顔で言ってきた。
わざわざ家まで引き返させられたことは、根に持っていないように見える。

そんなところが彼の良いところだ。と、心の中だけで、自分でも気付かない微笑みを浮
かべつつ――。

「おっそすぎ!」

アスカは、目一杯、声を荒げていた。

「おかげであたしまで、もう完全に遅刻じゃないのよ」

「ゴメンゴメン。これでも、ずっと走ってきたんだけど」

「ホントにぃ?」

「ホントだよ」

「まぁ、いいわ。どちらにしろ、この埋め合わせは、いつか必ずしてもらうからね!
 しっかり覚えときなさいよ!」

そう言って睨みつける。
すると、シンジの笑顔に、さっと影がさした。眉を寄せて、こちらの眼から視線を逸ら
してしまう。

「ん・・・?」

だいぶ過剰な反応を見せる彼に、自分は少し言い過ぎたのだろうかと、アスカ
は思った。

だが、そうではないらしかった。
彼は視線を逸らしたのではなく、アスカの背後に注意を向けているのだ。

と、気付いた瞬間。

シンジが、「あ」の形に口を開けた。
キーッという、耳をつんざくような音が、背後でした。

「危ないっ!」

シンジが、叫んだ。

振り返りかけたアスカの身体を、彼が両腕で、左へと強く押しのける。

「っ!?」

アスカは、自分の身体が左横に投げだされたのを感じた。ぽーんと、宙に浮くのが分か
る。華奢な少年の体格からは想像しがたい、もの凄い力だった。

2、3メートルほどの距離を飛んで、次の瞬間には、彼女は地面に腰を打ち付けていた。
痛みに、瞬間、悲鳴を上げることもできない。

刹那――。

大きな銀色の固まりが、視界を遮った。それは右から左へと、もの凄いスピードで、す
ぐ目の前を横切っていく。体勢を崩しているシンジの体が、それに飲み込まれて――。

ドガシャンッ!

唐突に現れたそれは、文房具店のシャッターに激突して、大きな音を響かせた。

アスカはとっさに縮こまり、両腕で頭をかばっていた。

『なっ・・・!?』

物理的な衝撃は、アスカに襲いかかってはこなかった。
が、あまりにも突然のことに、彼女は身を固くしたまま、動くことができなかった。息
さえも、必死に止めていた。

『なんだったの・・・!』

本当に、あっという間の出来事。

銀色の固まりというのは、大型トレーラーの車体だった。それが、ちょうど自分たちの
いた歩道に乗り上げてきたのだ。

そのこと自体は、理解というレベルにも達しない意識のままで、瞬時に脳裏に閃く。

だが――。

シンジ?

電撃が走るように、その疑問が浮き上がった。

シンジはっ?

自分を突き飛ばした後、彼はどうした? 一歩も動けなかったのではないか・・・!?
トレーラーに体当たりされたようにも、見えたけれど!?

見れば、自分達が立っていた場所は、銀色の車体が完全に占領している。

文房具店のシャッターは、よほど丈夫なものだったのだろう、その身を僅かにへこませ
ただけで、その衝突による衝撃をくい止めていた。

それらのことを意識するかしないかのところで、アスカは地面に目を移して――。
大きく、目を見張った。

少年の身体が、シャッターと車体に挟まれる寸前のところで、うつ伏せに倒れているの
だ。辺りには、粉々に割れた車のガラスが、雪のように薄く散らばっている。

赤い染みが、アスファルトの地面にじわじわと広がっていく・・・!

アスカの全身に、細かく震えが走った。

「シ、シッ・・・」

胸が、喉が、痙攣していた。

それでも無理矢理、つばを飲み下す。

そして、全部の神経を引きちぎるように、彼女は絶叫した。

「シンジィィィッッ!!」



                  ◆



手術中の赤いランプ。

それが点いてから、もう何時間たったのか、アスカには分からなかった。

手術室の手前の廊下に、彼女はいた。
長椅子に座ったまま、岩のように、じっと身動きをしていない。

両手の指と指とを組み合わせ、それを額に当てるようにして俯いていた。
傍目からは、何かに祈りを捧げているように見えることだろう。

廊下の反対側には、ミサトが、そんなアスカを見下ろすようにして、壁に背を預けてい
た。

昨日から、ミサトは松代に出張していたはずだった。にもかかわらず、彼女がすぐに駆
けつけることができたのは、ネルフのヘリが「そこにあったから」だという。
どうせ無茶をやったのだろうが、公私混同だとか職権濫用だとかは、アスカは口にしな
かったどころか、思い当たりすらしなかった。

「・・・大丈夫よ」

もう何度目か。ミサトが、優しく言った。

先ほどから、彼女はそればかり繰り返しているように思えた。アスカに語りかけている
ように聞こえるが、それよりも、おそらく自分に言い聞かせているのだ・・・。

「大丈夫よ、アスカ。いくら重傷だとか言っても、シンジくんは、あの使徒との戦いを
 生き抜いた、強運の持ち主なんだから」

「んなこた分かってるわよ」

アスカは顔を上げ、彼女に笑いかけると、おどけた口調で返した。

「だから、もう少し静かにしててよね。今、あいつにどんな文句言ってやろうかって、
 一生懸命考えてるとこなんだから」

「・・・文句?」

「そうよ」

呆れたように、肩をすくめてみせる。

「あたしなら自分で避けることができたのにさ、あのバカは、余計なことをして・・・。
 他人を気にかけてる余裕があったら、まず自分をどうにかしなさいってのよ」

「・・・そうかもね」

と、ミサトは微笑み返してきた。
――誰が見ても、作り笑いだと分かるような笑顔で。

彼女は、アスカの隣に腰を下ろした。

「・・・本当は、一発、がつんって殴ってやらないと、気が済まないんだけど」

「でも、アスカ。あの子、怪我してるんだから、手は出しちゃダメよ」

「わかってるわよ。それは、怪我が治ってからの楽しみにしておくわ」

「うーん・・・。シンちゃんも災難ねぇ」

「・・・」

どこか遠くから――。

救急車のサイレンのうねりが、近づいてきた。

程なくして、それは、ふっ、とかき消える。

アスカは、気が付けば、きつく奥歯を噛みしめていた。
得体の知れない何かに、必死に耐えていた。

隣で、ミサトが腕を組む。
そしてそれきり、彼女も動かなくなった。

凍り付いたような静寂が、そこに拡がった。

あたかも、時間が止まってしまったかのように。

言葉が出せなくなるほどに、静けさは重くのしかかってきた。

その重圧を、アスカは有り難いと感じていた。
心を凝縮して、とある一点に押し込もうとするような作業には、厳粛ともいえる静寂が
必要だった。

「・・・飲み物、いらない? 何か買ってきましょうか?」

沈黙に耐えられなかったのか、ミサトが優しげに声をかけてくる。
言われて、喉がカラカラに乾いていることに、アスカは気付いた。が、小さくかぶりを
振って答える。

「いい。いらないわ」

「そう・・・?」

「・・・」

不意に、アスカは立ち上がった。

「お手洗い」

どこ行くの、と目で問うてくるミサトに一言告げて、どこかおぼつかない足どりを自分
でも意識しながら、廊下を歩く。

そこで入った洗面所は、とても明るく、眩しいほどで、そして清潔そうに見えた。

自分以外に、人の姿はない。

アスカは用を済ますわけでもなく、ただ、洗面台の鏡をのぞき込んだ。
そして、そこに映る自分を見つめる。

もともと白い肌ではあったが、まるで今は血の気がなかった。不気味なくらい真っ青な
顔が、そこにあった。

彼女は洗面台に手をつくと、力無く、頭を垂れた。目を閉じて、そして喉の奥から声を
絞り出すように、言う。

「どうか・・・」

口にしなければいけない。そうでなければ、通じないのかもしれない。
そう思ったから――。

「どうかお願い。ファースト・・・」

心を込めて、祈る。想いにも力があることを信じて。
真に純粋に願うならば、それは絶対に叶うのだと――。

「お願いだから、シンジを無事に帰して。連れていかないでね・・・。お願い・・・」



                  ◆



アスカは、自分の部屋に帰っていた。気がついたら、そこにいたのだ。

ミサトが連れてきてくれたとしか思えなかった。病院から家に帰ってくるまでの記憶が、
全く無いのだから。

中学校の制服も、着たままだった。ベッドの上で、壁に背を預け、膝を抱えている。
そして何をするでもなく、ぼぅっと、ただ宙を見つめていた。

いつしか日は落ちて、窓の外の世界はもう、闇に包まれていた。

対照的に、部屋の中は明るい。――だが、それも、どこか空虚な明るさだった。

その部屋の蛍光灯を付けたのは、ミサトだった。
彼女は先ほど、ベッドの端に腰掛けて、何やら話をしていった。

しかし、彼女の言葉は、何一つ、頭に入って来ることはなかった。
自分が何と答えたのかも、アスカはまるで覚えていない。

ただ、いつもの快活な口調とは、まるで違うミサトの声。それが、彼女が無理をして感
情を抑えているのだということを、教えてくれていた。

そして、ミサトの表情。その片隅に現れていたのは、きっと安堵の思いなのだろう。
残された少女が狂乱でもしたらどうしようかと、彼女はひどく心配したに違いなかった。

『マヒしてるんだわ・・・。あたしは』

思いにもならない靄のような思考で、アスカはそんな言葉を脳裏に走らせた。

自分はもはや、痛みもまともに感じられないのではないかという、そんな予感だけがあ
った。

はぁ、と小さく、空気を吐き出す。

母親は、自分がまだ幼いときに死んでいた。だが――、そのときは、今まさに自分を襲
っているような、これほど激しい欠落感は無かったはずだ。

痛みすら感じられない。

自分自身の肉体の一部が引きちぎれてしまったかのような錯覚。
体が渇きを訴えるような、そんな感じ・・・。

それは、耐え難い悲しみなどというものよりも、もっと苦しいものに違いなかった。

だって、あんな別れを、誰が想像できただろうか。

さよならも言えなかった。

唐突で・・・。唐突すぎて、あんな別れ方なんて、絶対に想像できなかった・・・。

「シンジ・・・」

つぶやいて、アスカはふと、ベッドの枕元に視線を移した。
そこでは、液晶付きのハンディカメラが、鈍い光沢を放っていた。

腕を伸ばして、それを手に取る。

再生ボタンを押せば、小さな液晶画面の中に、やはり小さく、少年の姿が蘇った。

新しく買ったカメラの性能を試すのだと言って、チェロを弾かせたときの映像。
そこに映っている光景は、ほんの昨日のものなのだ・・・。

『簡単な曲でいいよね?』

『うん。何でも好きなの、やってちょうだい』

『もう始めていいの?』

そう確認しすると、シンジは、ビデオの中でチェロを弾き始めた。

やわらかなチェロの調べが、静寂が支配していた部屋の中へと流れる。

アスカは、シンジの姿をなぞるように、そっと、液晶画面に触れた。
録画されていることを意識しているのか、彼の表情は強張っていて、どこか怒っている
ようにも見えた。

「ゴメンね、シンジ、ゴメンね・・・。あたしのせいよね・・・」

じわりと、少年の姿が滲んだ。視界が、涙に覆われた。

今朝、登校途中で、家に帰らせていなければ。
自分のお弁当くらい、自分で持っていたら。

あの時、ああしていたら。いや、そもそも、こうしていたら・・・。

過去の出来事を避ける術など、無限にあった。
それが限りなく思い浮かんでは、後悔の念となって胸の中を駆けめぐる。

「あたしは・・・。いつも身勝手で、わがままばかり言ってて、あんたのことを怒鳴っ
 てばかりいて・・・」

彼の前では、本当に、どうしようもない女だった・・・。
なのに、彼は、そんな自分をかばって――。

「・・・帰ってきてよぅ」

そう口にした途端、激しい感情が一気に胸の空洞を満たした。渦はその場所から溢れだ
して、いともあっさりと、心の全てを飲み込んでしまう。

堰を切ったように、ぼろぼろ涙が零れ落ちた。

「帰ってきてくれなきゃ・・・、あんたがいてくれなきゃ、あたし、あたし・・・。
 ねぇ、お願い、帰ってきて・・・」

涙と鼻汁で、自分の顔がべとべとになっているのがわかった。
倒れ込むようにして、枕に顔を押しつける。

溢れ出る涙はいつまでたっても、枕を濡らすことを止めようとしなかった。

激しくしゃくり上げるアスカの傍らで、ビデオのスピーカーは、チェロの旋律を流し続
けていた。

やがて、曲が終わりにさしかかった頃――。

不意に、それまで流暢にメロディーを奏でていたシンジのチェロが、頓狂な、だいぶ外
れた音を鳴らした。その瞬間――。

『・・・っ!?』

アスカの背中が、大きく震えた。

閃光が脳裏に閃いて、ひとつの明確な、奇妙な像を結んでいた。
だが、瞬時に、それは霧散してしまう。

チェロを弾き間違えたシンジは、一瞬の間を置きはしたものの、すぐに間違えた箇所を
弾き直したようだった。

――そして、演奏が終わった。

『おっかしいなぁ・・・。いつもなら、あんな簡単なところで間違えないんだよ?』

ビデオの中で、シンジが不満げに弁解している。

枕に顔を埋めながらも、彼の言葉にじっと耳を澄ませている自分に、アスカは気が付い
ていた。

涙も、既に、止まっている。

『さっきのは、いったい・・・』

脳裏に鮮烈な残像を焼き付けていった、ひとつのチェロの音。

意味を持っているような、全く意味など無いような、複雑で奇妙なイメージ。

――何かが、分かりかけている・・・。

吹き荒れていた心の中の嵐は、今は不思議と、静まり返っていた。

                                 《つづく》


マナ:ご投稿ありがとうございました。あぁ・・・シンジぃぃぃ。

アスカ:アタシのせいよ。アタシがいけないのよ・・・。

マナ:そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。

アスカ:だって・・・だってぇっ!

マナ:大丈夫よ。きっと助かるわ。

アスカ:ミサトも同じこと言ったわよっ! でもっ! あの怪我みたっ!?

マナ:そう信じるしかないじゃない・・・。

アスカ:シンジぃぃぃ・・・。
作者"アヴィン"様へのメール/小説の感想はこちら。
avin@pop06.odn.ne.jp

感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構
ですので、ぜひとも作者の方に感想メールを送って下さい。

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