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 私を愛してと彼女は言った(後編)
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「・・・ゴメン、よく聞こえなかった。なに?」

耳から外したイヤホンを手に、シンジは聞き返した。
部屋の入り口に立っているアスカが、少しムッとした表情で答える。

「だから、ちょっとチェロを弾いてみせて、って言ったの。あたしがコレで撮ってあげ
 るからさ」

そう言って彼女は、片手に収めたハンディカメラを、見ろ、と言わんばかりに掲げた。
それは、「今どき持ってない家なんて、どこにもない」と、彼女が今日買ってきたばか
りの新品である。

「・・・なんで?」

「なんでって、そりゃ・・・。試し撮りよ、試し撮り。いざって時になってから不良品
 だったなんてことが分かったりしたら、イヤでしょう」

「だったら別に、僕じゃなくても・・・。ベランダから見える風景だとか、ペンペンだ
 とか、何だっていいんじゃない?」

「う、うっさいわねぇ。外はもう暗くなりかけてるし、それに、これ、どのくらいの音
 質で撮れるのか、聞いてみたいのよ」

「それで、チェロ・・・? うーん、別にいいけど、今じゃなきゃダメなの?」

これから夕飯の仕度をするつもりだったのに――、とシンジは思った。
夕食が遅くなったりすれば、文句を言うのはアスカなのだから。

「もち、今すぐ。んじゃ、さっさと用意してきてよね〜」

言いながら、彼女は部屋を出ていってしまう。

「そ・・・」

シンジは反論しようと口を開きかけたが――。
仕方なく諦めて、彼女の命令に従うことにしたのだった。そんなに時間がかるわけでは
ないだろうし、何より、彼女は一度こうしろと言い出したら、なかなか退いてくれない。

仕方ないなぁ、とぼやいて、チェロの入ったケースを手にすると、シンジは部屋を後に
した。

リビングルームの中央には、キッチンから持ってきた椅子が1つ、アスカの手によって
セッティングされていた。

その正面では、彼女が膝の高さのテーブルの上にカメラを置いて、何やら真剣にボタン
を操作している。

『カメラをいじるときって、みんな、あんな顔になるのかなぁ・・・』

カメラ好きの友人がよく見せる表情と目の前の少女の表情とを重ねてみて――。
シンジは演奏の準備をしながらも、思わずにやけた笑みを浮かべていた。

「簡単な曲でいいよね?」

「うん。何でも好きなの、やってちょうだい」

「もう始めていいの?」

アスカは指で輪を作り、OK、と示している。

シンジはうなずくと、おもむろにチェロを弾き始めた。
曲は、バッハをアレンジしたもの。暗譜でいきなり弾けるレパートリーは少なかった。

『さっき、音質も確かめたいとか何とか、アスカは言ってたけど・・・』

不思議だった。なぜハンディカムなどで、音質にこだわる必要があるのだろう。

横目で、アスカを盗み見る。と、頬杖をついた彼女のやわらかな瞳と、まともにぶつか
ってしまった。宝石のような、ブルーの瞳。――シンジは慌てて、目を逸らした。

『・・・でも、やっぱり、本当に音質を確かめたいだけなのかもね』

目を伏せつつ、やはりそう思い直す。

使徒の驚異は既に去り、エヴァも全て失われていた。というのに、何故か未だ日本に留
まり、以前と同じように自分たちと同居している少女――。彼女がその蒼い瞳の奥で何
を思っているのかなど、シンジに読みとることはほとんど不可能だった。

最近はむしろ、ふと思いやりのあるところを見せてくれたかと思えば、突然ワガママを
言って困らせてくれたりと――。益々、よく分からなくなっていたりする。

ただ、それでも、シンジに断言できることがあった。

――そんなことは、とても些細な問題なのだ。

2人きりの演奏会。
それ自体が、何かの答えになっているようにも思える。

だから、シンジはこうしてチェロを弾いているのだった。少しも手を抜くことなく、心
を込めて・・・。

そして――、そんなチェロ演奏が、あと少しで終わろうというときだった。

弦を抑えていたシンジの左手。それが突然、持ち主の意思を無視して、勝手に動いた。
何か温かいものに手が優しく包み込まれ、それに動かされたというような感覚が、腕の
神経には伝わっていた。

結果として、指先が本来抑えるべきとは違う場所を抑えてしまう。

シンジが、おや、と思ったときには、既に右手で引いた弓がその弦と擦れ合っていた。

――思い切りズレた奇妙な音が、リビングルームに響き渡る。

がくっ、とアスカの頬杖が外れたのが、視界の隅に映った。

『な・・・!?』

自分でも驚いたせいで、シンジも一瞬、動作がピタリと止まってしまった。
が、すぐに、キリのいい1小節前から曲を弾き直す。

『うまく弾けてたのに・・・!』

我ながら会心の出来と言ってもいいくらいだったのだが、最後の最後で間違えてしまう
なんて・・・。

シンジは残念に思いつつも、今度は最後まで、うまく弾き終えた。

「おっかしいなぁ・・・」

最後の音の余韻が冷めるかどうかのところで、シンジは言っていた。

「いつもなら、あんな簡単なところで間違えないんだよ?」

それを聞いて、アスカがケラケラと笑い声を上げる。
笑いながら彼女がしてくれた拍手は、ぱちぱちぱち、と、たったの3回。それはまるで、
間違ったことを喜んでくれているようで・・・。
シンジは余計に、悔しくなった。

「でも、かえって良かったわよ。あんたらしい、間の抜けてる画が撮れてさ」

「・・・ちぇ」

「あははっ、その悔しそうな表情! それも撮っときましょうかね?」

「ああ、もう、やめてよ・・・」

と言いつつも、どうせ彼女は聞いてくれっこないので、勝手に撮らせておきながら――。

「いったい、何だったんだろう。さっきの・・・」

何かの芸まで見せてあげる義理もなく、シンジはただ、勝手に動いてくれた左手を、閉
じたり、開いたりしてみた。

腕をつったような痛みもなく、筋肉にも筋にも、おかしいところは何もない。

そこには、弦を抑えるために指先の皮が少し固くなった、持ち主の少年にとってはごく
当たり前の左手があるだけだった。
誰かの手か何かに優しく包み込まれたような感触は、今はもう、消えている。

『不思議な感じだったよなぁ・・・』

まるで原因が分からなかった。手に異常は見当たらないし・・・。人間にはあんなこと
もあるのだろうと思って、それで片付けるしかなさそうだ。

『・・・そうだ。もしかしたら、母さんにイタズラされたのかも』

最近あまり弾いてあげてなかったから――。と思いつつ、シンジはそっと、チェロに手
をおいた。

少年の左胸に優しく抱きかかえられているそれは、彼の亡き母親が残した、たったひと
つの形見なのだった。



                  ◆



「あれっ」

翌朝。スニーカーに右足を入れた途端、靴ひもが、ぶつり、と千切れた。

「・・・おっかしいなぁ。まだ新しいヤツだったのに」

やれやれ、とシンジは玄関に腰を下ろした。下駄箱にあった他の靴からひもだけを抜き
取って、それを新たに結び直す。

そうしている間に、後から遅れて玄関にやって来たアスカが、脇でさっさと靴を履き終
えてしまった。

「あぁぁ! もうっ! 早くしなさいよっ。遅刻しちゃうでしょっ!?」

急いで靴にひもを通しているシンジの頭上に、そんな彼女の怒声が降ってくる。

「遅刻しそうなのは、アスカのお風呂が長すぎたせいじゃないかぁ」

と、顔を上げて反論するも、彼女は既に玄関の外へと飛び出していた。

「まったく、もう・・・」

ぼやくと同時に、シンジは靴ひもを結び終える。

マンションの廊下を急いで、アスカが待たせてくれていたエレベーターに飛び込むよう
に乗ってから――。

「走って行かないと、遅刻しちゃうね」

やんわりと、シンジは言った。途端に、アスカがギロリと睨みつけてくる。

「なぁに? あたしのせいだって言いたいの?」

「そんなつもりで言ったんじゃないよ・・・」

ふんっ、とアスカはそっぽを向いてしまった。今朝は、やけに機嫌が悪い。

腕時計の針は、8時12分を指していた。学校には、彼の足で走って間に合うかどうか
の時間だ。・・・ため息が、ひとつ、漏れた。

「しばらく時間が止まっててくれたりしないかなぁ」

「・・・あんた、相対性理論って知ってる?」

呆れ顔で、アスカが言ってきた。難しそうな言葉に、シンジは困った顔をしてみせるし
かない。

「聞いたことはあるけど・・・。それがどうしたの?」

そのとき、エレベーターの扉が開いた。アスカが前を向いて駆け出す。自分のぼやきと
相対性理論とやらが一体どういう関係にあるのかは、どうやら説明してくれないらしい。

『相対性理論だなんて難しいこと、アスカだって知らないんじゃないか・・・
?』

彼女に並んで走りつつ、シンジは小さく頬を歪ませた。

その歪んだ頬で風を切る感触は、しかし、とても心地よいものだった。

それは、忘れかけていた感覚――。

『こうしてアスカと走るなんて、ずいぶん久しぶりだもんなぁ・・・』

思えば、ほんの少し前まで、彼女は酷い状態だったのだ。
身体も心も、本当にボロボロだった。病院のベッドに寝たきりになったまま、自分の殻
に閉じこもっていたことすらあったのに・・・。

ところが今、自分と一緒に駆けている少女の、この元気の良さといったら!

よくも立ち直ってくれたものだと、シンジは心底、感心していた。

入院していた頃も色々と世話を焼いたつもりではあったけれど、自分の助けなど、彼女
はまるで必要としていなかったのではなかろうか。

――などと思いながら、彼女の横顔を盗み見る。

手を伸ばせばすぐ届くところで、栗色の髪が一瞬ごとに揺れて、陽の光に美しく輝いて
いた。

シンジは不意に、胸がじんわりと、染みるように熱くなってくるのが分かった。
羽が生えたように、心が軽くなる。

遅刻しそうなことも忘れて、跳ねるように、シンジは駆けた。

心だけでなく、身体までもが、本当に軽く感じられた。

そして、それからすぐのことだった。――比喩などではなく、いつもより実際に身が軽
いのだと気付いたのは。

「あ!」

思わず、立ち止まる。

「・・・どうしたのよ?」

アスカが怪訝な顔で、振り返ってきた。・・・冷や汗が、背中を這うように流れた。
軽くバンザイをする格好で、答える。

「お弁当・・・」

「が、どうしたの? って、あんた、まさか・・・!」

「うん。忘れて来ちゃった・・・。たぶん、台所か玄関に。慌ててたから・・・」

「ばっ、ばかシンジ! 何してんのよっ!?」

アスカの顔が、引きつった。
それを見たシンジの顔も、引きつった。彼女の表情が、次のセリフが「取りに帰れ!」
であることを予告していたからだ。
シンジはとっさに、それだけは勘弁して! と、目で訴えかけた。

「さっさと引き返して、取って来るのよ!」

瞬時に訴えは却下されてしまう。あるいは、そもそも通じていなかったのか・・・。
どちらでも同じことだったが。

それでも、シンジは抵抗を試みた。試みざるを得ない事情もあった。

「え〜」

「え〜、じゃなーい!」

「あ、あのさ、今日は購買のパンで我慢しようよ。ね・・・?」

「イヤよ! 絶対にイヤ!」

「でも、今から取りに帰ったら、絶対に遅刻しちゃうよ。そしたら・・・」

不幸なことに、1時間目は世界史なのだ。先生は学校一厳しいことで有名な人で、遅刻
した生徒を、当たり前のように廊下に立たせてくれた。

「1日くらい遅刻したって、かまわないでしょ!」

容赦のないことを、彼女は言ってくる。

「で、でもさぁ・・・」

「だあぁぁっ! もうっ! つべこべ言ってる間に、取って来たらいいでしょーが!」

「・・・わ、わかったよぅ」

そんなに怒鳴らなくたっていいじゃないかぁ、と思いつつ、ほとんど泣きそうになりな
がら、シンジは渋々きびすを返した。来た道を、再び戻り始める。

1日中、ずっと機嫌の悪いアスカと一緒にいるよりは、たった1時間だけ廊下に立たさ
れる方が、幾分かはマシだろうという――。悲しい決断だった。

「あーあ、もう、ツいてないなぁ・・・」

少し行ったところで振り返ってみれば、アスカの姿は、自分とは反対の方向へと、どん
どん遠ざかっていた。彼女の背中からは、未練など微塵も感じられない。

最近になって、たまに優しいところを見せてくれる彼女に、その場で待っていてくれる
のかもしれないという奇跡を、実はほんのちょっぴりだけ期待していたのだが・・・。

――家まで戻れと言われた時点で、そんな希望は捨てるべきだった。

奇跡はやはり奇跡のまま、角を曲がって、とうとう見えなくなってしまう。

その時になってようやく、と言うべきか、シンジの胸には理不尽な思いが湧いてきた。

「ちぇっ、ずるいよ。だいたい、アスカの長風呂がいけないんじゃないか・・
・」

だが、今更ぼやいても仕方のないことではあった。唇を尖らせても、それを向ける人間
は、もうそこにはいない。

――我が家に帰り着くと、シンジはまっすぐに台所へと向かった。

家の中に、人の気配はなかった。いつもなら1人、保護者であるミサトがいるはずだっ
たが、彼女は松代に出張中とかで、昨夜は帰ってきていなかった。
ペンペンもまだ目を覚ましていない。

そして、キッチンテーブルの上には――。

「はぁ・・・。やっぱり・・・」

2人分の弁当が入れられた乳白色の巾着袋が、置かれたままになっていた。

壁の時計に目をやれば、もう8時19分。

遅刻は確定である。が、それでもできるだけ急いで行った方がいいだろうと、シンジは
生真面目に考えた。

水道水をコップ一杯飲んで喉の渇きを癒し、弁当の袋をつかむ。

そして、勢いよく玄関を飛び出して――。

「うわっ!」

人とぶつかりそうになって、衝突寸前で立ち止まった。女の子が1人、家の玄関のすぐ
正面に立っていたのだ。

「初めまして。碇さん」

その少女は、ぺこり、と小さくお辞儀をしてきた。ポニーテールにした栗色の髪が、ぴ
ょん、と背中で軽く跳ね上がる。

シンジは驚いて、目をパチクリさせた。
というのも――、その女の子が、アスカにとてもよく似ているからだった。まさに瓜二
つ、と言ってもいいそっくりさんが、目の前に立っている。

もっとも、彼女の背丈は、シンジよりも頭半分ほど小さい。歳は、小学校の5、6年生
くらいだろうか。
アスカが一人っ子だと知っていなければ、きっと彼女の妹だと信じたに違いなかった。

「・・・あ、こちらこそ、初めまして」

ワンテンポ遅れて、とっさにシンジもお辞儀を返す。そして、次の瞬間には思い出して
いた。――のんびりと立ち話をしている暇など、自分には無いのだということを。

「あの、何か用かな? 悪いけど、僕、ちょっと急いでるんだけど・・・」

申し訳なさそうに言う。すると少女は微笑み、うなずいた。

「そうでしたね。急ぎましょう」

「・・・え?」

きょとんとしたシンジを置いて、少女はマンションの廊下を、すたすたとエレベーター
のある方へ歩いて行った。

もしかして自分と同じ中学校の生徒なのだろうかと、シンジは一瞬、考えた。
が、彼女が私服姿であるのを見て、すぐにそれを否定する。

『なんなんだ・・・?』

怪訝に思いはしたが、とりあえず、シンジはその少女と一緒のエレベーターに乗り込ん
た。自分と同じエレベーターに乗らないでくれなどとは、まさか言えない。

「あの、碇さん――」

と、彼女がキラキラとした瞳で、シンジを見上げてきた。

「私、本当に嬉しいんです。こうして、あなたと無事にお会いできて」

「え? ああ、そうなの・・・?」

「はい。いつか2人でお話しできたらいいなと、ずっと思っていました」

そうか、とシンジは思った。この少女は、シンジがエヴァのパイロットであったことを
知っているのだ。

「そうなんだ。どうも、ありがとう・・・」

そう言って、ぎこちなく愛想笑いを浮かべる。
世界を救った英雄か何かと勘違いされて、シンジは快感に浸ることはなくとも、特に気
を悪くしているわけではなかった。

『でも、サインして、ってのだけは、やめてよね』

握手くらいなら構わないけれど――、とシンジが心の中で頼みかけるや否や、少女が口
を開いた。

「それで、お願いがあるんですけれど・・・」

――どうか握手ですように。

と、とっさにシンジは祈っていた。格好良くペンを走らせることのできるアスカと違っ
て、サインというのは苦手なのだ。

「・・・少しの間、これ、持っていて頂けませんか?」

ところが、彼女は明るくそう言って、赤い箱を差し出してくるだけだった。ペンと色紙
ではない。それは手のひらに乗るくらいの、小さな立方体の箱だった。

「うん・・・?」

ほとんど押しつけられるような感じで、シンジはそれを手にした。

何の金属でできているのか、その箱はひんやりと冷たく、意外と重たかった。
表面には複雑な文様が刻まれていて、小さな溝が本体と蓋とを分けている。

危険なものではなさそうだったが、プレゼントというわけでもないらしい。

「・・・なんなの? これ」

「別に危険なものではありません。それが今、碇さんのパーソナルパターンを読みとっ
 ているんです。後で、時遡流に同調していただく必要がありますから」

「・・・は? どうちょう、って?」

「何のことかは、後でのお楽しみですわ」

少女はただ、そう答えた。少し翠がかったブルーの瞳には、優しげな微笑みをたたえて
いる。

「あ、そう・・・?」

――エレベーターが1階に着き、ドアが開いた。

「さぁ、碇さん、走りましょう」

「えっ、う、うん・・・」

そして2人は、走り出した。

マンションのロビーを抜け、緩やかなスロープを駆け下りながら――。
シンジは器用に、首をひねっていた。

隣を見れば、先ほど会ったばかりの少女が、当然という顔で並んで走っている。
彼女は腕時計に目をやっていたが、こちらの視線に気付くと、嬉しそうに微笑んできた。

『・・・何だか、ヘンな子だなぁ』

シンジは、思った。
エヴァのパイロットとしての自分のファンだろうと思っていたが、そうした挙動もない。

ヘンな子、とはいっても、頭のネジが緩んでいるわけではないようだった。彼女の理知
的な瞳が、それを物語っている。

ただ、どこか世間離れした雰囲気をまとっている、とでも言えばいいだろうか。
年齢の割には大人っぽい言葉遣いにも、シンジは特に違和感を感じなかった。

そして、まるで邪気の無い、天使のような笑顔。天国から人間界に修行に降りてきたの
だとか言われたら、思わず頷いてしまいそうな・・・。

『・・・そうだ。この子、なんで僕と一緒に走ってるんだ?』

まさか本当に、人間界で修行するため・・・、ではないだろう。

「あのさ、君、小学校は、もう始まってるんじゃない? 行かなくていいの?」

ランドセルも鞄も持たず、手ぶらで走っている彼女に、シンジは訊ねた。

「学校ですか? はい。私は、いいんです」

「へぇ。じゃあ、今日は休みなんだ。羨ましいな」

「いえ、そういうわけではないのですが・・・。ええっと、私のいたところでは通信教
 育が普及していて、校舎に通うのは月に数回だけで済むので・・・」

「月に数回? 小学校で通信教育なんて、初めて聞いたよ」

「そのうち日本でも、ほとんどの小学校がそうなりますよ」

「そうかなぁ・・・。でも、そうなるかもね」

などと、適当に相づちを打ちながら、シンジは――。

『・・・どうしてだろう?』

初対面の少女と違和感なく会話している自分に、どこか違和感を感じていた。
人見知りする性格なのに、こういうことは珍しい。

そもそも、この子とは、どこかで会ったことがあるような、ないような・・
・。

『この子、アスカと似てるからかな?』

シンジは、隣を走っている少女に目をやった。

――もし11、2歳くらいのアスカがいて、髪をポニーテールにすれば、外見はちょう
ど彼女のようになるに違いない。・・・中身はともかく。

『うん、すっごくよく似てるからね。きっとそうだ・・・』

心の中で肯いて、そんなふうに自分で自分を納得させる。

――が、肝心なことを訊きそびれたままであったことに、シンジは思い至った。
そういえば、まだ名前すら聞いていない。

「・・・ところでさ、どうして君は、僕と一緒に走ってるの?」

その疑問を、今度は直接、口にした。少女は相変わらずの笑顔で答えてくる。

「私が走っている理由は、その時になってからお話しします。そうしたほうが信じてい
 ただけるでしょうから。でも、うふふ、きっと驚かれますよ?」

「へ?」

シンジの片頬が歪んだ。――さっぱり、分からない。

「あなたとお会いする方法とか時間とか、いろいろ選択肢はあったんです」

今の言葉をフォローするつもりなのか、彼女は少し早口で、まくし立てるように言った。

「ですが、時空連続体が崩壊する危険を考えると、今朝のこの時間が限界でした。日常
 の中で宇宙規模のカオスが形成される可能性も馬鹿にはできませんし・・・」

「・・・?」

「かといって、現場でただ待っているのも芸がないかな、って。ほんの少しだけでも、
 碇さんと何かお話してみたかったものですから・・・。結局、多少の危険を伴ってで
 も、こうして一緒に走るのが最善の手段だという結論に・・・」

「あ、あのさ・・・」

顔に『完全に理解不能』の文字を書いて、シンジはそれを彼女に見せた。

「ゴメン。何の話なのか、ちょっとよく分からないんだけど・・・」

「あ・・・。いいえ、こちらこそ、ごめんなさい。私ったら、碇さんの前で、ちょっと
 興奮しちゃってるんだわ」

エヘへ、と彼女は照れくさそうに、頬を赤くして微笑んだ。
まるで分からなかったが、シンジも無意識に、その笑顔につられて苦笑を返していた。

「そうだわ。その箱、もう結構です。どうもありがとうございました」

「ああ、うん・・・」

エレベーターの中で手渡された紅色の箱を、シンジは差し出された手のひらに乗せた。

結局、それが何なのかは、教えてくれないようだった。



                  ◆



やがて2人は、とある丁字路にさしかかった。

その角を曲がったところで、少女が立ち止まって、言った。

「あそこだわ。間違いない」

「・・・何が?」

シンジも駆け足をやめて、息を付きながら、いちおう尋ねてみる。
彼女は、道路の先を見つめていた。

「ん・・・?」

彼女の視線を追うようにして、シンジもそちらを見た。
ここから3、40メートルほど行ったところには、交差点があって・・・。

「あれ・・・? あそこにいるの、アスカだ」

その交差点の手前に立っている彼女の姿を、シンジは見つけた。
途端に、頬が自然とゆるんでいく――。

「なんだ、ハハッ。僕のこと、待っててくれたんじゃないか」

小さく笑い声を上げて、シンジは再び走り出した。それまで走りっぱなしだったことに
よる疲れなど、どこかへ飛んでいってしまったかのように、足は軽やかに動いてくれた。

ふと、少女が着いてくる気配がないことに気付く。
どうしたのだろうと、振り返ってみれば――。

「あれ?」

彼女の姿はもう、どこにも見えなくなっていた。
おそらく今の丁字路で、こっそりと引き返したのだろう。――が、それにしても。

『・・・あの子、結局、何がしたかったんだろう?』

多少疑問に思いはしたものの・・・。とはいえ、わざわざ引き返してまで確かめようと
いうつもりにもなれず、シンジは、前を向いて走り続けた。
すぐそこで、アスカが自分のことを待っていてくれたからだ。

駆け寄ってみれば、案の定、彼女は不機嫌そうな表情を浮かべている。

「お待たせ」

シンジは、おどけて声をかけた。

「おっそすぎ! おかげであたしまで、もう完全に遅刻じゃないのよ」

「ゴメンゴメン。これでも、ずっと走ってきたんだけど」

「ホントにぃ?」

「ホントだよ」

と、そのとき――。
彼女の肩越しに、こちらに向かってくる大型トレーラーが目に入った。そのトレーラー
はどんどん、交差点に近づいている。

『・・・あれ?』

おかしい、とシンジは思った。
信号は赤なのに、あの車は何故か、スピードを落とす様子がない。居眠り運転でもして
るのか、もしかすると、ブレーキでも壊れているのか・・・。

「・・・らね! ・・・なさいよ!」

アスカが何か言っていた。が、既にシンジの耳には入っていなかった。
そのトレーラーがとうとう赤信号を無視して、交差点に進入してきたからだ。

横から交差点に入ってきた軽自動車。それがトレーラーの側面にぶつかりそうになって、
急ブレーキをかけた。キーッという音が、辺りに響く。

僅かに蛇行したトレーラーが、進路をシンジたちのほうへと向けてきた。

危ないっ! と、シンジは叫んでいたかもしれなかった。

振り向こうとしたアスカの身体を、両手で思い切り右のほうへ押しのける。

自分はその反動で左側に飛び退く。――つもりだった。が、アスカが思っていた以上に
軽かったため、膝がカクンと前に折れ、つんのめるようになってしまう。

「・・・っ!!」

トレーラーの銀色はもう目の前まで迫っていて、視界を埋め尽くすかのようだった。

頭の中が、真っ白になる。

シンジは思わず目を閉じて――。

「・・・」

膝を地面について――。

「・・・」

両手を、がっくりと地面についた。

「・・・」

アスファルトの地面の冷たさが、ひんやりと、手のひらに伝わってくる。

「・・・あ、あれ?」

疑問符が、口から零れ出た。

痛みがやってくるのが、あまりにも遅すぎる。
というより、そもそもトレーラーがぶつかってくる気配がない・・・?

『それに、この音楽は・・・?』

何かのメロディが、シンジの耳には小さく聞こえていた。それは雲の上の世界で流れて
いてもおかしくないような、静かな、そして穏やかな旋律で・・・。

『もしかして、ボク、し――、死んじゃったことに気付いてないんじゃ・・・!?』

四つん這いになったまま、理不尽な考えを抱きつつ――。
ギュッとつむっていた目を開けて、地面を見た瞬間だった。

「ありがとうございました」

澄んだ声がした。聞き覚えのある声色だった。

「・・・え?」

声は、向かって左側から発せられたようだった。

そちらに目を向ければ――。

数歩という距離に、つい先ほど、そこの丁字路で姿を消したはずの少女が、微笑みを浮
かべて立っているではないか。

「ありがとうございました。私を助けて下さって。まずは、お礼を」

彼女が言った。シンジは訳も分からず、呆然となった。

「き、君は、さっきの・・・?」

「ええ。お久しぶりです、って言うのもヘンですね。とりあえず今は、碇さん、そこか
 ら離れて下さい。その場所は、危険ですよ?」

「え・・・?」

シンジは首を回して、正面に目を戻した。

――すぐ目の前では、トレーラーのバンパーが銀色に鈍く輝いている。
前輪が歩道に乗りあげてきてはいたが、それ以上、それは進んでくることもなく――。

「え、え・・・?」

ぱっ、と右を見ると――。
自分が突き飛ばしたはずのアスカが、表情をピクリとも動かさずに、固まっていた。
今にも地面に尻餅をつこうという格好のまま、身体をほとんど、宙に浮かせたままで!

「え、え、え・・・!?」

不自然な状態でその動きを止めているのは、トレーラーとアスカだけではなかった。
きょろきょろと見渡せば、道路を走っているはずの車やオートバイや、他に、歩道を行
く人も犬も自転車も・・・。

「そ、そんな・・・」

全てが、彫像のように固まっていた。

動いているのは、シンジと、彼に声をかけてきた少女だけ――。

冷や汗が、ひとつ、シンジの頬を垂れた。

「こ、こ、こっ、これっ、どうなってるの? 止まってる? 止まってるよ・・・!?」

「ええ。時が止まっています。正確には、私たち2人が、時間が流れるのと同じ速度で、
 その流れを反対方向へと遡っているのですが」

「さ、遡って・・・!?」

頭の中はすっかり混乱していて、彼女の説明らしきセリフも、全く理解できなかった。

――なんで、自分たちだけが喋ったり、動いたりしているんだ? なぜ? どうして!?

「さぁ、碇さん。今のうちに、こちらへいらして下さい。私たち、いつまでもこの状態
 でいられるわけではありませんから」

「あ・・・。う、うん・・・」

頷いて、シンジは立ち上がった。手足が、自分のものではないようだった。

少女は、正面のトレーラーに向かって左の方、つまりアスカとは反対方向に立っている。

シンジは、足下に落ちていた鞄と弁当の入った袋を拾って、ぎくしゃくと、言われた通
りに、彼女の側へと歩み寄っていった。

その途中、軽く振り返って、トレーラーの大きな車体を視界に捉える。

『こんなのに体当たりされてたら・・・』

――とてもではないが、無事ではいられまい。
今さらのようにゾッとして、思わず身震いしながら・・・、シンジは、言った。

「そ、そうだ。ねえ、このトラック運転してる人も助けてあげなきゃ。アスカも、もっ
 と安全な場所に移して・・・」

「いいえ。できる限り、他の物に干渉なさらないで。それに、心配なさらなくても大丈
 夫です。衝突しても運転手は軽い怪我で済みますし、彼女はかすり傷一つ負いません
 から」

「そ、そうなの・・・? だったら、うん、いいんだけど・・・」

シンジは少女の傍に歩み寄ってから、ぐるっと、周りを見回した。

車道では、そこに十幾つかある車輌が、全て停車していた。赤信号があるわけでもない
道のど真ん中で、だ。――1台の例外もない。

人間や動物たちも、似たようなものだった。

マネキンのように、片足を不自然に上げたままの人がいる。携帯電話を片手に、口を開
けっ放しにしている人もいた。

止まっていてもバランスを失わない自転車。空中で羽を広げたまま、落ちてこない鳥。

それまで吹いていた風も、今はピタリと止んでいて、道路脇の柳は僅かに揺れたまま、
写真の中の物体であるかのように固まってしまっていた。

明らかに不自然な光景・・・。ちょうどビデオを一時停止したような、そんな世界が、
目の前には広がっていた。

これは夢なのか、幻なのか、それとも確かな現実なのか・・・。

「なんだか、みんな・・・。僕たち以外は、時間が止まっちゃってるみたいだ・・・」

自分たちの話し声以外、物音ひとつしていない。――いや。
ただ唯一、陶器のコップを指で弾いたような、柔らかくも張りのある旋律が、先ほどか
ら辺りに流れているだけで・・・。

少女が、どこか面白そうに応えた。

「私が、私たち以外の時間を止めたんです。この宇宙では、相対的にみて、碇さんと私
 の時間だけしか流れていません」

「時間を、止めたって・・・。で、でも、どうやって!?」

「それは、この装置のおかげです」

少女が、自分の胸に視線を落とした。
その時ようやく、彼女が小さな紅色の箱を胸に抱いていたことに、シンジは気が付いた。

「それって・・・。さっきの・・・」

見覚えがあるも何も、その箱は、彼女と2人で走っている間、シンジが彼女に持ってい
てくれと頼まれたものだった。今は蓋が開いたようになっていて、虹色の輝きがその中
を満たしている。

そして、先ほどから耳に聞こえているメロディ――。その発生源が、彼女の手の中にあ
る、その箱だった。

ポロロンポロポロン――と。その音色は、まろやかに澄んでいる・・・。

それを見て、シンジは、電子オルゴールみたいだなと、ただ単純に思うしかなかった。
もちろん、少女の言うことを信じるならば、ただのオルゴールなどではなく、それこそ
魔法の道具なのだが。

「どんな仕組みなのかは、訊かないで下さいね? 実は私にもよく分からないんです」

「・・・そ、それより、君は、いったい、だれ? どうしてそんな物を持ってるの?
 なんで、僕を助けてくれたの?」

「ええ。時間は限られていますが・・・」

少女は頷いて、そんな風に切り出した。

「これから、それをお話しします。私が未来から、あなたの命を救いに来た理由を」

「・・・みらい?」

「はい。私は2163年――、今から約150年後の未来から、この時代まで、時を
 遡ってやって来ました」

「ひゃっ――150年後・・・!?」

愕然として、シンジは言った。が、その声も、まるで他人が発したものであるかのよう
に、頭の中には響いていた。

『そんなのウソだ・・・。とか、普通なら思うんだろうけど・・・』

でも――。とシンジは思った。

彼女の言葉を信じないのなら、他にどんな答えがあるというのだろう?
見渡す限り、ありとあらゆるモノの動きが、時間が、確かに止まってしまっている、こ
の世界の中で。

「わ、わかった。うん、信じるよ。君は150年後の、未来の人なんだ・・・」

こくこく、とシンジはうなずく。口元をほころばせて、少女は続けた。

「この時代、ひとりの科学者が、時の研究を始めました・・・」

彼女の胸の中では、オルゴールがポロンポロンとメロディーを奏で続けている。
そのテンポは、だんだんと遅くなっているようだった。

「そのとき既に、時間を遡る手段のおおよそのイメージを、その科学者は脳裏に描いて
 いたといいます。それは、碇さん、あなたのチェロ演奏からインスピレーションを得
 たものだそうです」

「ぼ・・・、僕の、チェロ?」

シンジは驚くと同時に、内心、首を捻った。

「なんのことか、よく分からないんだけど・・・」

「時は遡行性を持っています。ベクトルを反転させる時空の鍵穴。それと唯一共鳴しう
 る鍵。その鍵のあまりにも複雑な形状を解くヒントが、特定の波長を持った、たった
 1つの音にありました。その音を、あなたのチェロが偶然、奏でたんです」

「そ、そうなの? でも、全然、僕には思い当たらないけど・・・。僕のチェロなんて、
 大したことないのに」

「いえ。実際、それは何の変哲もない、ごく普通の音でした。誰が聴いても、それだと
 は全く気付かないような。・・・彼女だけが、それを耳にしたときに閃くことがあっ
 たのですね」

「彼女・・・? その人が、時の研究を始めたっていう科学者? 女の人だったんだ」

「そうです。そして、ある程度研究が進んだとき、彼女は悟りました。時の遡航術の完
 成には、それこそ膨大な時間が必要なのだと。たった1世代では、それは不可能なこ
 とだった。そこで、彼女は密かに、封印されたネルフのクローン技術を用い、複製し
 た自己に研究を続けさせました」

「クローン!?」

その単語に、シンジは頬を叩かれたような思いだった。同時に、意識のある箇所にかか
っていた靄が、さぁっと晴れていく。――喘ぐように、シンジは言っていた。

「クローンって、ちょ、ちょっと、待って!? 君は、すると、まさか・・・」

「ええ。時の研究を始めた科学者というのは、そこにいるアスカです。この事故であな
 たが死んでしまった歴史を変えるために、彼女は時の遡行を試みました。やがて時空
 の秘密を解き明かしたのが、2人目の彼女。そして、3人目が、この私なんです」

どさっ――、と、シンジの足下で音がした。
学生鞄と弁当袋とが、それぞれ左右の手からすり抜け、地面に落ちた音だった。

「ア・・・、アスカが・・・? 本当に、君は、アスカなの・・・?」

その問いは、揺れていた。
単純な驚きではない――、自分でも理解しがたい灼熱の想いが、胸に渦巻いている。

少女が、肯いて言う。

「1人目のアスカのココロ、たったひとつの魂を、私は引き継いでいます。この肉体は
 彼女の遺伝子情報を模写した、個々の魂の入れ物にすぎない。本来ならば記憶の継承
 はありえないはずでした。ところが・・・」

「と、ところが・・・?」

「・・・ところが私は、この身体に魂が宿ったときから、碇さん、あなたのことを知っ
 ていたんです。あなたのことが好き。共に生きたい。心から、そう思いました」

「・・・」

シンジの眼が、瞬いた。漆黒の瞳の色が、少女のブルーの瞳を見つめた。

・・・見つめながら、口の中に、言葉が生まれそうになっていた。

しかしそれは、次にはうやむやになって、消えた。
何と応えようとしていたのか、自分でも理解できないまま・・・。

感情では、何かが分かりかけているのに――。

「お話ししたかったことは、それだけです。・・・名残惜しいですが――」

彼女は目を伏せるようにして、胸に抱いている不可思議なオルゴールを見やった。

「そろそろ、お別れです。このオルゴールが止まれば、私たちの時の流れは元に戻りま
 すから」

「も・・・、もう、未来に帰っちゃうの?」

彼女が持つオルゴールの旋律は、一秒ごとに遅くなっている。
それはもう間もなく、メロディを奏でるのを止めてしまうだろう。

「いいえ。この事故であなたが死んでしまうのを、私は阻止しました。1人目の私が時
 を超えようとする動機は失われたんです。ですから、時間を遡ったこの私は、存在自
 体が許されなくなります」

「許されなくなるって・・・。それって、まさか、き、消えちゃうってこと?この世
 から!?」

「はい。でも、その前に・・・」

少女は一歩踏み出すと、シンジのすぐ目の前に立った。潤んだ瞳で、軽く見上げてくる。

「ごめんなさい」

彼女はそう、つぶやいた。

「・・・え?」

動悸が、ひとつ、高鳴る。

そして――。

「・・・!」

シンジは思わず、呼吸を止めた。

まぶたを閉じた少女の顔が、視界一杯に拡がっていた。

そして、唇には、彼女の肌の感触が――。

それを意識した瞬間、シンジの時間までもが、止まりかけた。

だが、完全に止まりはしなかった。
真っ白になる寸前の意識に、微かに哀調を帯びたメロディが流れこんできたからだ。

2人の胸の間で、オルゴールは緩やかに、澄んだ音色を奏でていた。
それはまるで、硬直した心を、優しく溶かしてくれるかのようで・・・。

『・・・温かい』

シンジは、そっと、まぶたを閉じた。

肘を折って、彼女の二の腕に指先で触れる。それは、無意識の仕草だった。

『女の子の唇って、やっぱり、温かいんだ・・・』

時の止まった世界の中で・・・。
自分も彼女も、全てが夢か幻なのだと――。そう信じてしまえそうなくらい、ぼんやり
とした意識で。

『・・・でも、そうだよ。だって、この子はアスカなんだもの・・・』

シンジは、思った。

だから、この温もりだけは、永遠に変わらない真実なんだ、と――。

「・・・っ」

少女が、顔を離した。そのまま静かに、後ずさる。

2人の距離が、さらに1歩、ひらいた。

オルゴールは彼女の胸の中で、1つ1つの音を、弱々しくはじいていた。

・・・ポロン、・・・ポロン、と。――もう、止まってしまう。

「どうか、お願いします。碇さん」

少女が、言った。ブルーの瞳の内に、信頼の光を抱きながら。

「私を愛して。きっと、幸せにして下さいね」

・・・ポロン。

・・・。

――。

風が、ひとつ、耳元で啼いた。

少女の姿が、何百何千何万という細かな光の粒となって、散るように空に舞い上がる。
刹那――。

ドガシャンッ!

本来の勢いを取り戻したトレーラーが、文房具店のシャッターに激突した。
固いもの同士がぶつかる低い音。ガラスの砕ける高い音。それらが混じり合って、周辺
にいる人々の鼓膜を叩いた。

そして、そのすぐ傍らで――。

微動だにしないまま、シンジは空を見上げていた。

瞬きを忘れて・・・。息することさえも、忘れて。

沢山の小さな光が、幾筋もの光の糸を残して空へ空へと舞い上がり、天ににじんでは消
えてゆく。

シンジは、その光の滝がゆるやかに昇っていくのを、ただただ見つめていた。


                                 《おわり》


マナ:シンジ・・・助かったのね。

3人目のアスカ:これでアタシの役目も終わったわ。

マナ:でも、あなた消えちゃっていいの?

3人目のアスカ:それがアタシの役目だから。

マナ:そう・・・やっぱり、クローンっていうのは悲しい技術なのね。

3人目のレイ:そう? わからない・・・たぶん私は3人目だから。

マナ:キャーーーッ! 急に出てこないでよっ!

3人目のレイ:”3人目”って聞いてつい・・・さよなら。

マナ:な、なんだったのよ・・・今のは・・・。

3人目のアスカ:それじゃ、アタシもそろそろ・・・。

マナ:消えちゃうの?

3人目のアスカ:ええ。もう、アタシの存在理由はないでしょ。

マナ:そんなことないわよ。あっ! そうだわっ! いいことがあるの。

3人目のアスカ:え?

マナ:まだこの時代には、魂の入れ物があるのよ。わたしも幽霊になった時、利用したのよ?

3人目のアスカ:そうなの?

マナ:ほらほら、丁度綾波さんも来てたから、相談しに行きましょ。

1人目のアスカ:アンタ・・・勝手に何を・・・。(ーー;;;;
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