「今回、キミに行ってほしいのは――」
  男が、手元の書類に目を落としながら言う。
  年の頃は30前後。組織の中でも若いほうに属するはずのその男は、それでも、彼の言
  葉に耳を傾けているシンジよりはずっと年上だった。
「チッタという村だ。オクサス地方にある、小さな農村だな」
「オクサスの、チッタ・・・」
  呟いて、シンジは素早く、脳裏にネルフの地図を描き出す。
  広大な国土に走る山脈、河川、そして街や村と、それらに通じる街道は、ほとんどそれ
に書き込まれているという自信があった。――チッタの村といえば、このエクバターナの
街から大陸公路を東へ歩いて、だいたい一週間ほどの距離にある村だ。
「そうだ。少しばかり遠いが、頼まれてくれるか?」
  一昨日帰ってきたばかりだというのに済まないが――、などと付け加えつつも、男は眉
を少しも動かさずに聞いてくる。
  だが、シンジはあっさりと頷いて返した。
「はい、構いません。帰ってきて2、3日のうちに出発なんて、いつものことです。もう
慣れました」
  それに、この街は好きじゃありませんから――。と、心の中だけで、そう付け足す。
「そうか、助かる。・・・今回も、契約のほうは既に済ませてある。キミはいつものよう
に商品を買い取って来てくれればいい。これが手付け金を差し引いた、残りの代金だ」
  言いながら、男は小さな布の袋を差し出してくる。
  受け取って中身を確認すると、そこには5枚の金貨が鈍い輝きを見せていた。
「それと、一昨日、キミが仕入れてきたやつだが――」
  と、男が何気なく口にした言葉に。
  シンジの身体は、瞬間、硬く強張った。
(そんなの、聞かせないでくれッ)
  心が、確かに、そう叫ぶ。
  しかし、身体のほうは、それに反応しなかった。じっと袋の中の金貨を見つめたまま、
男の言葉を遮ることも、耳を両手でふさぐこともしてくれない。
 男が、言った。
「――あれは、うまくエヴァの規格に合致したそうだ」
「・・・そう、ですか」
  シンジは身体から力を抜くと、目の前に立つ男の瞳を、いま初めて正面から見た。
  途端に、部屋の温度が2、3度、下がったかのような感覚が襲ってくる。
  男の目には、感情の欠片すら浮かんではいない。
  これが、組織の人間の目なのだ――。シンジはそう思った。
「ネルフは、あれを5割り増しで買い取ってくれた。キミへの報酬も既に用意できている
から、いつものところで受け取ってくれ。ついでに、今回の仕事の詳しい資料も、一緒に
預けてある」
  無表情に男が言う。シンジは目を反らすようにして、頷いた。
「分かりました。それでは、ボクはこれで・・・」
  失礼します、と小さく会釈して踵を返すと、早足で部屋の入口に向かう。
  今はただ、一刻も早く、この男の前から立ち去りたかった。
「今回のも”当たり”であることを祈ってるよ」
  背後から、男の声が聞こえてくる。
  シンジはそれに振り返ることなく、部屋を後にするのだった。



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  マルドゥックの商人(前編)
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  日差しよけのフードを目深に被って、シンジは一人、街道を東へと歩いていた。
  エクバターナを発ってから9日目。本来ならば既に目的地に到着していなければならな
いはずの日数が経過している。
  だが、シンジは旅を急いでいなかった。
  むしろ、このまま歩き続けていたいとすら思っていた。
  いっそのこと永遠に目的地に着かなければ、それでもいい。いや、そうであれば、どれ
だけ幸せなことだろう・・・。
  荷物の重量よりも遙かに重い憂鬱を肩に担いで、ただ黙々と歩み続ける。
  そんなシンジが遠く後ろから聞こえてくる雑音を耳にしたのは、太陽がその日、一番高
くに昇った頃のことだった。
 立ち止まって、背後を振り返る。
  200ガズほど後方のなだらかな丘の頂上に姿を現したそれは、中型の幌馬車だった。
ゆっくりとした速度で、それはこちらに向かってきている。
  街道の道幅は、馬車と人が安全に並んで通れるほど広くはない。それ故、シンジの方が
馬車に道を譲らねばならなかった。
  街道の脇には、膝の高さにまでの草むらが広がっていた。
  その中に入って歩き始めたシンジだったが――、やがて、思った。後ろから来るあの馬
車には、自分を追い抜くつもりなど無いのではないか、と。それが立てる音からするに、
馬車はこちらに近づいてくるにつれ、だんだん速度を緩めているのは間違いないようだっ
た。
  その幌馬車がシンジに追いつき、並んだのは、本当にしばらくしてからだった。
「ちょいと、そこのお若いの」
  のんびりとした声が、馬車の上から発せられた。
  軽く見上げてみれば、人懐こそうな笑みを浮かべた老人が一人、御者台から反対にこち
らを見下ろしている。
  シンジは立ち止まり、マントと一体となっているフードの中から用心深げに応じた。
「ボクに、何か?」
「ああ、ちょいとな。お主、そんなにトボトボとした足取りで、いったいどこへ行くのか
ね?」
「・・・何故、そんなことをお尋ねになるのです?」
  シンジはそう訊ね返した。マントの下では、右手が腰の左に下げた剣の柄に触れている。
相手の返答次第で、いつでも抜き放つことができた。
  だが、老人はそれに気付いた様子もない。
「なぁ、どうじゃろう」
  と、満面の笑みを浮かべたまま、提案してきた。
「このまま街道を東へ向かうつもりなら、お主、ワシらの馬車で一緒に行かぬか? こん
なご時世じゃ。旅も一人では心細かろう」
「いえ、結構です」
  シンジはニコリともせず、首を横に振る。
「まぁ待てッ、待てというに」
  再び歩き出しかけたシンジを、老人が慌てて引き留めた。
「心配せんでもよい。お主に恩を着せてカネをせしめようなどとは、これっぽっちも思っ
とらんよ。ワシらはな、ほれ、ジジイとババアの二人旅だもんで、どうにも退屈での。話
相手が欲しいだけなんじゃ。のぉ、婆さんや」
  そう言って、老人は後ろを振り返った。すると幌の中から、柔和な表情をした老婆がヒ
ョイと顔を覗かせて言う。
「爺さんの言うとおりじゃ。それにお前さん、見たところ、だいぶ旅にくたびれている様
子。人の親切は、素直に受け取りなさるがええ」
「ほれ、婆さんもこう言っとる」
「お気遣いは有り難いのですが、ボクは・・・」
「若いもんが遠慮なぞするもんじゃない。いいから、さあ、乗りなさい」
「・・・」
「ほれほれ、何も、取って食いやせんて」
  身振り手振りで急かしてくる老人の姿に、シンジはようやく、口元をほころばせた。
  この老夫婦は、本当に親切なだけさ。そう判断してもいいだろうと、シンジは思った。
彼らの言葉は、他意があるようには聴こえなかったからだ。
  それに――、と、自分に言い訳をするように考える。
(旅も、予定よりかなり遅れてしまってる。今は、やむを得ない、か)
「・・・それでは、お言葉に甘えて」
  シンジは申し訳なさそうに言うと、御者台の老人に一礼した。
「街道の途中までですが、ぜひ、ご一緒させて下さい」
  すると、御者台の老人は、満足そうに大きく頷いた。
「そうそう、それでいいんじゃよ。いやいや、感謝など、してくれるには及ばんよ。ワシ
も若い頃はよく旅をしたが、見知らぬ人様には、よく世話になったものじゃからの。さぁ、
乗った乗った」
  そう言って、シンジが馬車に乗り込むのを待ってから、その老人は手綱を馬の背にぴし
ゃりと叩きつけた。





  馬車の幌の中に入ったシンジは、家財道具と思われる荷物の間で、老婆と向かい合うよ
うに腰を下ろした。
  そして、日差しよけのフードを取ったとき――。
「何と、お主、髪の毛まで黒いのか」
  老婆が目の前で、驚きに目を見張った。
「え、ええ」
  自分でも今さら気付いたかのように、シンジは額の生え際に手を当てると、軽く髪をか
き上げる。
  短く刈ってはあるその頭髪は、月無き夜の闇のような黒色をしていた。双眸の瞳の色も、
それと変わらない。
  だが、この国の人々は皆、明るい色彩の髪と瞳を持っていた。シンジのような人種を目
にすることは、まず無いといっていい。
  そのため、老婆が驚いたのも、何ら不思議なことではなかった。
「おお、これは珍客じゃ」
  御者台の老爺も、振り返って言ってくる。
「ワシも長いこと生きてきたが、初めてお目にかかる」
「お前さん、まさか、絹の国(セリカ)から旅をして来なすったのかね?」
  遙か東方にある国の名を、老婆は口にした。まさに興味津々といった表情で、シンジを
見つめている。
「いいえ――」
  シンジは慣れた様子で、答えを返した。
「そうではありません。ボクの父が、東国の生まれだっただけです。絹の国よりもずっと
東にある、小さな島国で・・・」
  ほぅ、と老婆が相づちを打つ。絹の国よりも更に東の世界のことなど、実のところ、想
像もつかないに違いなかった。
「でも――」
  と、シンジは続けた。
「ボクはこの国で生まれたと聞いています。家があるのもエクバターナです。そこから旅
を続けてきました」
「それは、何とまぁ・・・」
  それを聞いて、老婆は余計に大きく目を見開いた。
「あのエクバターナに住んでいるとはのォ。これはますます珍妙じゃて・・・。いや、珍
妙などとは、口が悪かったかの。許しておくれ」
「いいえ、構いません。仰るとおりですから」
  シンジは苦笑いを浮かべた。あの街に住んでいる者には、確かに”まとも”な人間はい
ないという自覚があった。
「それで、どこまで行きなさるのじゃ?」
  そう問いかけてきたのは、御者台にいる老爺だ。シンジは、そちらに顔を向けて答えた。
「はい。ボクは、チッタの村へ向かうところでした。ですから、そこへの別れ道のところ
で降ろしていただければ・・・」
「ああ、分かった。おやすい御用じゃ。しかし、チッタとは、ずいぶんとまぁ、へんぴな
所へ行くのじゃな」
「そんなところへ一体、何をしに行くのかね?」
  間を置くことなく、目の前の老婆が問うてくる。
「それは、その・・・」
  とっさに、シンジは答えることができなかった。知らず、視線が老婆から外れて、馬車
の外の景色へと移る――。
  そして、言葉を選びつつ、シンジは答えた。
「とある商品を、買い付けに。ボクは商人ですから・・・」
「ほぅ、その若さで商人を。お主、歳は幾つじゃ? 15か? 16か?」
「・・・17です」
「そうかそうか。そういえば、チッタの村というと、オクサスの外れ。となると、お主、
薬草を仕入れに行くのじゃな? あの辺りはパナキア草の栽培が盛んな地・・・」
  と、そこで不意に、目の前の老婆は口をつぐんだ。何かを思い出したのか、皺だらけの
口元に、やはり皺だらけの手をあてる。
  その思案げな表情のまま、彼女は再び口を開いた。
「・・・いや。今年の薬の値が異常に張っていたのは、確か、夏の寒波でオクサスの収穫
が全滅したせいではなかったかな。お前さん、今あの村に行って、はたして薬草が買える
のかね?」
「え、ええ・・・。それは、まぁ・・・」
  心配そうに問うてくる老婆に、シンジは愛想笑いを浮かべて、曖昧な言葉を返した。
  ふむ、と老婆が頷いて言う。
「となると、どこかに生き残ってた畑があったのじゃな。そいつは、手に入れて売りさば
くことができれば、さぞかし高値に・・・。いや、まぁ、いい。この話は、もうやめると
しよう」
「・・・すみません」
  シンジは老婆に頭を下げた。自分が『そのことは聞かないでくれ』というような顔をし
ていたに違いなかったからだ。
  老婆は、明るく微笑みながらひらひらと手を振った。
「いやいや、かまわんよ。よほどの儲け話なのじゃろうが、ワシらにはとんと興味のない
ことじゃからの」
「・・・」
 シンジは、外の景色に目を移した。
  小刻みに揺れる馬車は、老人二人とシンジを乗せて、人の歩みよりも少しばかり速い速
度で街道を東へと進んでゆく。
  自分たちの矢継ぎ早の質問に少年が疲れたとでも思ったのだろうか。老夫婦は、それか
ら何も聞いてこようとはしなかった。
「あの・・・。お婆さんたちは、どちらへ行かれるのです?」
  しばらくして、今度はシンジの方から何気なく訊いてみた。黙り込んでいては、やはり
老人たちに悪いような気がしたのだった。
「ご老人の二人旅というのも、かなり珍しいものだと思うのですが。ただでさえ、陸路を
旅する人は少ないというのに・・・」
「ほっほっほ、確かにの」
  老婆が笑う。すると、御者台の老爺が振り返って言った。
「ワシらはな、コートカプラまで行くところなんじゃよ」
「コートカプラ、ですか・・・」
  広大な大陸の中央を東西に横断する一本の街道を、自分たちは今、東へと進んでいる。
  その街道は全長800ファルサングにも及ぶ長大な交易路で、人々には大陸公路という
名称で呼ばれていた。
  この大陸公路を、このままあと5日ほども東へ進めば、カーヴェリー川を越える。コー
トカプラは、そこから2、3日ほど南東に進んだところにある街だった。
  ちなみに、シンジの目指すチッタの村は、あと2日ほど東へ進んだところで街道を外れ、
丸1日北上したところにある――はずだ。
「コートカプラでは、息子夫婦が宿屋をしておっての。これからは、そこで世話になろう
と思うとる。わしらの住んでいた家は、こないだ、焼かれてしもうてな」
「家を、焼かれた・・・?」
  穏やかでない事態を耳にして、シンジの表情が強張った。
「あの、それは、まさか・・・」
「ああ。ゼーレとネルフのごたごたに巻き込まれてしもうた」
「・・・やはり」
  がっくりと、シンジは肩を落とした。
「じゃが、運良く、ワシらは村から出ておっての。こうして命だけは無くさずにすんだ」
  老爺の言葉に、老婆が大きく頷く。その大げさな仕草は、まるでシンジを元気付けよう
とするかのようにも見えた。
「まったく、ゼーレもネルフも、とっととケリをつけて欲しいもんじゃよ。どちらが勝っ
ても一緒じゃ。ワシらにとっちゃ、何も変わりゃせんのにの・・・」
  と、老婆が哀しげに言う間に、シンジは手早く自分の荷物を手に取っていた。そして、
御者台の老人に声をかける。
「あの、ボク、ここで結構です。馬車を停めていただけませんか?」
「なに?」
  突然の申し出に、老夫婦は驚いた表情を見せた。
「突然、停めてくれとは、いったい何故かね?」
「それは、その・・・。ボクには、あなた方と旅路を共にできる資格がありませんので・
・・」
「シカク? 何を言うとるんじゃ? ワシらが何か、気に触ることでも言うたかの?」
  老爺が、不思議そうに聞いてくる。シンジは首を横に振った。
「いえ。そんなことは、ありません」
「そうか。ならば、このままワシらと共に行けばよいじゃろう? チッタへの別れ道まで
は、もうすぐじゃ」
「あの・・・。ボクは、実は・・・」
  やむなくシンジは、胸元から、一つのペンダントを取りだして見せた。
  瞳を形取ったような不気味な紋章が、それには刻まれている。
  それは、マルドゥックの商人であることの証だった。
「・・・ッ」
  それを目にした老人たちは、二人とも、そろって驚愕の表情を浮かべた。
  と、次の瞬間、老爺のほうが声を荒げて問い詰めてくる。
「そ、それは、本物か!? 若いのッ」
「・・・はい」
  うなだれるようにして、シンジは頷いた。
「お、お、お前たち、マルドゥックの連中に、わしらの孫たちは・・・ッ! いや、とに
かく馬車から降りてもらおうか。悪いが、今すぐにだ」
  老爺の態度が一変した。冷たくシンジに言い放つと、荒々しく手綱を引き、馬車を停止
させる。――それは、予想通りの反応だった。
  シンジは馬車から降りると、老人たちに向かって頭を下げた。
「ここまで、有り難うございました。コートカプラまで、どうかご無事で・・・」
  老人たちは何も応えを返してこない。彼らはもはや、罵りの言葉すら口にしようとも、
シンジと目を合わせようともしなかった。
  蹄と車輪が進む音を立てながら、馬車はみるみるうちに遠ざかってゆく。
  それを、シンジは唇を噛んで見送った。彼らが自分に向けた憎しみの視線は、しばらく
は忘れることができないだろうと思いながら。
  僅かな時間だったとはいえ、久しぶりに他人から親切を受けた後だったことが、余計に
心を痛めつける。
(やっぱり、安易に他人とかかわり合いになっちゃいけない・・・)
  もしかすると、黙っていればよかったのかもしれない。マルドゥックの紋章など、見せ
なければ良かったのかもしれない。
  しかし、シンジは身をもって知っていた。たとえ己の身分を隠してあの老人たちと一緒
に居続けたとしても、より惨めな思いをするだけだということを。
  溜息を一つもらして、再び徒歩で、大陸公路を東へと向かう。
 いつの間にか、空が灰色の雲に隙間もないほど覆われているのに気付いて、シンジは被
りかけたフードを取り払った。
  南から吹いてくる風は、じめじめと湿っているように思われた。





  翌日になって、シンジは、街道から北に別れる小道へと入った。
  道は、森の中へと吸い込まれるように続いている。
  その道幅は、人が横に5、6人ほど並んで通れる程度ものだった。ここを馬車で通るこ
とは難しい。
  深い森の中に開けた場所を見つけては、そこで野宿をしつつ、シンジは北へと歩き続け
た。
  そして、三日目の昼。
  森を抜けたシンジの目の前に、畑に囲まれた、寂れた村が姿を現した。
(チッタの村、か・・・)
  今日でもう何度目かのため息が、口から零れ出る。
  だが、頭を一つ振ることで引き返したくなる気持ちを抑えると、シンジは村の中を通り、
外れの一軒家へと足を向けた。
  狭い村であった。途中で幾人か、村の男たちともすれ違う。
  地方の村というのは、そこだけで閉じたコミュニティを形成しているのが通常だった。
この村も例外ではなく、村人たちの、よそ者のシンジを見る目つきには、それなりのもの
が含まれていた。――が、それは、特に気になるものではない。
  そんなことよりシンジの気を引いたのは、出会う村人がほとんど全員、働き盛りの男た
ちであるという事実だった。
  本来、この地方では、今ごろの季節、この時間、彼らは畑の収穫で忙しいはずなのだ。
しかし、見たところ、そうではないらしい。と、いうことは・・・。
  暗澹たる思いを胸に、シンジは歩いた。
  歩きつつ、心を、感情を押し込めようとする自分がいた。
  心と体が、少しずつ離れていく感じ。
  そう言えば、今回でもう幾度目の仕事なのだろう・・・。
  やがて、目的の家に着いたころには、シンジの心に躊躇いは残っていなかった。
  玄関の戸をノックする。
  すると、十秒も待つことなく戸が開き、薄暗さの中から、青い瞳をした男性が半身をの
ぞかせた。
  その男に軽く頭を下げて、シンジは言った。
「こんにちは。ラングレーさんのお宅は、こちらでしょうか」
「ああ、そうだが・・・」
  男はさも珍しそうに、シンジの漆黒の瞳を凝視した。
「・・・キミは?」
「ボクは、マルドゥックの者です」
  シンジはただ、そう告げた。
  途端に、男の顔から血の気が引く。
  3つめの呼吸をしても、男が絶句したまま、それ以上の反応を示さないのを見て、シン
ジはやむなく続きを口にした。
「今から半月ほど前になるかと思います。うちの買い付け担当の者が、こちらにお伺いし
たはずなのですが」
  男が我に返って、言った。
「と、いうことは、キミが・・・?」
「はい」
  頷いて、シンジは淡々と、旅の目的を告げた。
「今日は、お嬢さんを引き取りに上がりました」
「・・・」
  男は、ただ「まさか」という目つきで、シンジを見つめた。
  無理もない。シンジはそう思った。
  マルドゥックの商人を名乗るには、自分はあまりにも若すぎるのだ――。
「嘘ではありません。証拠に、これを」
  言いながら、シンジは手のひらを広げて見せる。
  そこには、3枚の金貨が乗っていた。普通に暮らしている一般庶民にとっては、金貨な
ど滅多に目にするものではない。その金貨が3枚ともなれば、かなりの大金だった。
「もちろん、これは見せ金です。お約束通り、代金は金貨を5枚、お支払い致します。と
ころで――」
  言いながら、シンジは金貨を袋に放り込む。
「お嬢さんは、いらっしゃいますね?」
「・・・あ、ああ。娘なら、中にいる。・・・入ってくれ」
  男はそう言い残して、自分は奥の部屋へと消えていく。彼が強く唇を噛んでいたのを視
て見ぬ振りをして、シンジは家の中に入った。
  煉瓦作りの暖炉。樫の木のテーブル。それを取り囲む3つの椅子。特に目に付く装飾品
もなく、あるのはどれもこれも、古びたものばかり――。
  素朴で質素な生活。そんな匂いのする部屋だ。
  しかし、シンジは知っていた。この村の産物であるパナキア草が、夏の寒波で全滅した
ことを。
 この一家も、飢えに苦しんでいたに違いない。
  そして、あの男は、自分の娘を売ることを決意した・・・。
(たったの金貨5枚で、だ)
  胸に沸いてくる苦い思いを、シンジは止めることができない。
 代わりに、首を振って、心の中で自分に言い聞かせていた。
――あの人を責めちゃいけない、と。
  男の選択をとやかく言う資格など、自分には欠片も有りはしないのだから。
  金貨の入った袋をテーブルに置きながら、シンジは思った。
(これだけあれば、1年か2年は、生活に不自由しなくて済むはずだ。結構な代償じゃな
いか。もしボクが奴隷商人だったら、せいぜい銀貨5、6枚なんだから――)
  と、その時。
  先ほどの男が、奥の部屋から再び姿を現した。
  脇には一人の少女を伴っている。農家の娘だとは思えないほど華奢な体付きをした少女
だった。
「これが、娘のアスカだ」
  男は、少女の肩に手を回して、そう言った。
「・・・確かに、間違いありませんね」
  その少女が、エクバターナで見てきた写真と同一人物か否か、シンジは事務的に観察す
るよう努めた――はずだったが、心の中で、感嘆の声を挙げてしまう。
(きれいな子だ・・・)
  背中まで伸ばした栗色の髪。整った目鼻。そして、澄んだ湖面のような瞳が、シンジの
目をほんの一瞬、釘付けにした。
  身に付けている服は、さすがに粗末なものだった。が、その顔立ちは、写真で見るより
も、ずっと美しい。
  ――と、思った瞬間。
「ちょっと、アンタ!」
  突然、その少女が放った大声に、シンジは軽く後ろにのけぞった。そのアスカという名
の少女は、形の良い眉を跳ね上げて、なおも続ける。
「遅かったじゃないのよッ。迎えに来てくれるの、だいぶ前から待ってたのにさ。だいた
いアンタみたいなガキが、本当にマルドゥックの商人なんてやってんの!?」
「アスカ・・・」
  男が、弱々しくも少女を嗜める。すると少女は素直に口をつぐみ、それ以上、何も言わ
なくなった。
(な――、何なんだ!?)
  シンジは、すっかり面食らっていた。
  が、はたと我に返って言う。
「お、お迎えに上がるのが予定より遅れてしまったことについては、謝ります。それと、
ボクは間違いなくマルドゥックの者です」
  そう言って、首にぶら下げたペンダントを、軽く掲げて見せる。アスカという少女より
も、むしろ彼女の父親のほうに、シンジはそれを示した。
「失礼しました。本当なら、これを最初にお見せすべきだったのに」
  胸に広がる苦々しさに堪えながら、シンジは言った。・・・マルドゥックの紋章を示し
て名乗ることの抵抗感は、何度やっても慣れることはない。
  少女は、それで納得したのかどうなのか、ふん、とそっぽを向いた。
「ところで、旅の準備は出来ていますか?」
  気を取り直して、シンジは少女と父親の二人に訊ねた。
  もし返答に躊躇が見られるようなら、半日ほどの猶予を与えるつもりだった。何も今回
が特別なわけではない。いつも、シンジはそうしてきたのだ。・・・売られる子供とその
家族にとっては、ほんの気休めにしかならないと分かっていても。
  しかし――。
  少女のほうが、元気よく首を縦に振った。
「準備なら出来てるわ。バッチリね」
「そう、ですか・・・」
  ならば仕方がない。と、シンジは足下に降ろしていた荷物を手に取る。
「では、出発しましょう。ラングレーさん、お代はそのテーブルの上の袋に入っています
ので、ご確認ください」
  男は何も答えない。ただ今にも泣きだしそうな表情で、己の足下を見つめたまま、金貨
の入った袋には目をくれようともしなかった。
(今ごろになって後悔しても・・・)
  シンジはそんな男の姿を一瞥すると、黙って振り返り、入口の戸を開ける。
  部屋に差し込む日差しはない。空は低く低く、たれこめていた。
「じゃあ、行ってくるわね。パパ」
「アスカ・・・。すまない・・・」
「ううん、そんなこと言わないで。あたし、パパのこと、ちっとも恨んでないからね。そ
れどころか、すごく感謝してるの。本当よ・・・?」
  少女を残して一足先に外へ出ると、シンジは無言で、後ろ手に戸を閉じた。
  背中の戸の向こう側からは、男のすすり泣く声が、小さく漏れてだしてくるのだった。





「ねぇ、アンタ。ほんとに大丈夫なの?」
  村を出たところで、少女が、そう問うてきた。彼女は今、シンジの数歩後ろを着いてき
ている。
「大丈夫って・・・、何が?」
  振り向いて、シンジは問い返した。
  そのベルトには、一本の丈夫な縄がくくり付けられていた。長さ2ガズほどのその縄は、
少女の手錠へと繋がっている。『商品』が逃げ出してしまわないための措置だった。
「だから、アタシをエクバターナまで、ちゃーんと無事に連れてってくれるわけ?」
「もちろんさ。ボクはキミを――」
  ネルフに売らなくちゃいけないんだ。シンジはそう言い捨てようとして、口をつぐんだ。
それは、少女にとって過酷な言葉だろうと思ったから。
「本当に大丈夫かしらねー」
  酷く疑わしげな視線とともに、少女が言う。
「アンタみたいなのと一緒じゃ、途中で山賊やら何やらに襲われたりしたら、かなり心配
なんだけど」
「・・・キミはボクのことを、まるで子供みたいに言うけれど」
  シンジは歩みを止めて体ごと振り返ると、馴れ馴れしい口をきいてくる彼女をにらみつ
けた。半分は脅しで、残り半分は、本気だ。
「こう見えても、ボクは17だ。それに、キミよりずっと旅に慣れてる。よけいな心配は、
しなくてもいい」
「ふーん、へぇー、アンタ、17なんだ。アタシとあまり変わらないのかと思ってたわ」
  少女は、怖じ気づいた様子などなく言った。
「ま、どちらにしろ、まだまだ子供よね」
「・・・」
  自分より3つ年下の少女に挑発されて、シンジは不快に頬をゆがめた。が、いちいち相
手にするのも大人げないように思える。
 結局、シンジは溜息を一つもらしただけで、再び前を向いて歩き出した。
 ――振り返っても、村は既に見えなくなっていた。
 大陸公路に出るために、二人は、鬱蒼と茂った森の中の道を南へと下った。
  ただ黙々と、重い雰囲気のまま――などでは、決してなかった。
  シンジはともかく、アスカのほうは明るく、実によく口を動かしていたからだ。
「ねぇ。そういえば、アンタの名前、まだ聞いてなかったわね」
  不意に、そんなことを言い出したりする。
「ね。何て言うの? あたしは、アスカ。アスカ・ラングレー。いい名前でしょ。アンタは?」
「ボクの名前なんて、キミが知る必要はない」
  素っ気なく、シンジは答えを返した。
  少女の名前すら、シンジは覚えるつもりなどなかった。覚えても仕方のないことだった。
『商品』とは、例外なく、エクバターナに着くまでの付き合いにすぎないのだから。
「そういうわけにはいかないでしょ」
  と、頬を膨らませてアスカが言う。
「これから何日も、二人きりで旅をするんだから、名前くらい知っていたいわよ。ねぇ、
教えなさいよ」
「・・・」
「教えなさいって」
「・・・」
「教えなさいってば! あー、あー、わかった、口に出せないほど変な名前なのね? あは
ははっ」
「シンジだ」
  鬱陶しくなって、シンジは答えた。アスカは聞こえなかったのか、笑うのを止めて、も
う一度問うてくる。
「え、なに?」
「・・・シンジ。姓はない」
「ふーん」
  シンジ。シンジ。と、彼女は口の中で2、3度、繰り返した。そして――、
「やっぱりヘンな名前じゃないの」
  そう言って、再びケラケラと笑い出す。
(ヘンなのは、キミじゃないか・・・)
  シンジは、多分に戸惑いを覚えていた。怒りの感情など、もはや一滴も湧いてはこない。
  これまで連れて旅した『商品』たちは皆、一様に暗い顔をして、シンジの後を着いてく
るだけだった。彼女のようにペラペラと口を動かすような子供など、一人たりともいなか
った。ましてや、陽気に笑い声を挙げる少女など。
 だが、それは仕方のないことだった。
 ネルフに売られた後、そこでどのような目に合うのかを、彼らは話に聞いているはずだ
ったから。
  そして何より、彼らは皆、家族に売り捨てられてしまった子供たちだったから。
  ――それなのに。
  このアスカという少女は、一体、何なのだろう。
  今まで連れて歩いたことのあるどんな子供たちとも、彼女は様子が違っていた。
  脇を見やれば、とても生き生きとした表情で歩く少女がいる。――そういえば、数時間
前までは2、3歩ほど遅れて着いてきていたのに、今やほとんどシンジと並んでいた。
  両手首を手錠に拘束されていることが、何かの間違いではないかとすら思えた。
「なに? アタシの顔に何かついてる?」
  アスカが、シンジの視線に気付いた。聡明そうなブルーの瞳が、向けられる。
「いや、何でもない」
  シンジはぶっきらぼうに答えて、顔を背けた。
  そして、知らぬうちに彼女の横顔に見とれていた自分に対して、心の中で舌打ちするの
だった。





「そう言えば、ねぇシンジ。エクバターナって、どんなところなの?」
  そんな問いをアスカが口にしたのは、太陽が沈む時間になって、辺りも暗くなり始めた
頃のことだ。
「ねぇねぇッ」
  と、青い瞳に興味津々といった輝きを乗せて、身体を近づけてくる。
「ウワサで聞いた話なんだけどさ、何でも、空まで届きそうなくらい、おーっきなお城が
あるんですって?」
  両手を胸まで持ち上げて、彼女は言う。本当は両手を頭の上まで持ち上げたかったのだ
ろうが、手錠がガチャリと音を立てて、それを阻んだ。
「そんで、地下には大昔の遺跡がゴロゴロしてるって聞いたんだけど。ねぇ、それ、本当
なの? 移籍ってどんな感じなのかしら」
「・・・」
「なによぅ、黙ってちゃ分からないじゃないの。・・・じゃあ、これはどう? エクバタ
ーナに責めてくるゼーレの怪物って、すっごく大きくて、目から炎を出すとか。遠くにあ
る村でも、あっという間に灰にしちゃうんでしょ?」
「・・・」
「それで、ネルフも、それに負けないくらい大きい人形を使って対抗してるのよね? ネ
ルフに売られた子供って、その人形に乗せられるんでしょ? あたしも乗れるかしらね? 
何だかちょっと楽しみだったりするの」
  弾んだ口調でそんなことをいう彼女に、シンジはとうとう、我慢が出来なくなった。
(エヴァに乗るのが楽しみ、だって!?)
  彼女に語りかけようとしたシンジの唇が、自然と動く。
「アスカ――」と。
  しかし、その名を口にした途端、シンジはすぐ喉にまで出かかっていた言葉を忘れた。
  少女の名前を呼んでしまったことに、自分でも驚いたのだ。
(ボクは、マルドゥックの商人なんだぞ――!?)
  そして、この少女はただの『商品』なのだ。名前など、商品にはないはずなのに。
  論理で組み立てられない苦々しさが、口の中に広がっていた。
「・・・なに?」
  こちらをのぞき込むようにして、アスカが先を促してくる。
  シンジは口元に苦々しさを残したまま、言った。
「キミは、何も分かっちゃいないんだ。ネルフはキミが考えてるようなところじゃない。
あそこは、酷いところだ。うまくパイロットになれるとは限らないし、もしなれたとして
も――」
「ぱいろっと、って?」
  シンジの言葉を遮って、アスカが聞いてくる。
「パイロットっていうのは、つまり、キミの言う『人形』の操縦者のことさ。ちなみに、
その人形は、ネルフでは『エヴァ』って呼ばれてる」
「ふーん・・・」
  ――エヴァ。エヴァンゲリオン。
  久々に口にしたその名を、心の中で反芻する。
  胸の辺りに、何か冷たいものが広がってゆく・・・。
  エヴァンゲリオン。
  一つの村を瞬時にして灰と化しうるほどの戦闘力を持つそれは、エクバターナの地下か
ら発掘された超古代の人造人間なのだというような話を、シンジはかつて聞いたことがあ
った。今も発掘され続けており、ネルフは今、それを十体ほど有しているという。
  神経を接続することで初めて操縦可能になるエヴァは、その特殊な操縦方法ゆえに、誰
もが乗りこなせるわけではなかった。そのパイロットたりうるには、もって生まれた適格
性が必要とされた。
  血液の一滴、あるいは髪の毛の一本さえあれば、適格性は判断できるというが、詳しい
ことはシンジには分からない。
  とにかく、マルドゥックはその『適格性』を有する子供達を、国のあちこちから買い取
って集め、そしてネルフに売っているのだった。――エヴァの『部品』として、だ。
  マルドゥックの商人がただの奴隷商人と区別されているのは、正にこの点にあった。
  ただ、マルドゥックに適格性ありとされた子供であっても、どういうわけか、うまくエ
ヴァに受け入れられるのは、そのうちの半分にも満たなかった。結果、エヴァのパイロッ
トとなった子供たちは、ネルフの兵士となり、そのほとんどはゼーレとの戦いで命を落と
していく。薬物の投与によって、廃人となる者も多かった。
  そして一方、エヴァに乗ることのなかった子供たちには、より過酷な運命が待ち受けて
いた。彼らは奴隷商人に、あるいは、美しい少女ならば好色な金持ちや堕落した貴族ども
に、再び売り払われてゆくのだ・・・。
  ネルフとは、そういう組織なのだった。
「ねぇシンジ」
  アスカの呼びかけで、シンジの思考は中断された。何だ、という目を向けると、彼女は
あっけらかんとして言う。
「アタシ、のど乾いた」
「・・・」
  シンジは瞬きすると、まじまじと、アスカの顔を見つめた。
  この少女はよほど度胸が座ってるのか、それとも単に自分の置かれている立場というの
を全く理解していないだけなのか・・・。いや、多分、後者に違いない。
「悪いけど、そのお水、少しくれない?」
  シンジが右腰に下げている、飲み水の入った革袋を指差して、アスカが言う。
「どうしてだ?」
  そう訊ねるシンジの声は、かすれていた。
「は・・・?」
  アスカがキョトンとして答える。
「だから、のどが乾いたって言ったじゃ・・・」
「そのことじゃない」
  シンジは首を横に振って、彼女の言葉を遮った。
「ボクは、不思議なんだ。キミはあの父親に売られたんだぞ? 別れるのは辛かったんだ
ろう? ・・・なのに、どうしてそんなに明るくしていられるんだ?」
「どうして、って――」
  答えるアスカの表情は、笑顔のままだ。
「だって、あたし、マルドゥックに買われて、嬉しいんだもの」
「嬉しい――!?」
  シンジは唖然として、アスカを見つめた。アスカはそれを、軽く受け流す。
「シンジは、アタシは父さんに捨てられたんだって思ってるんでしょ? でも、そうじゃ
ないのよ。アタシが、父さんに頼んだの。マルドゥックに売ってちょうだい、って」
  シンジは、絶句した。のどが、つまった。
  そんなシンジに、アスカが、ほら、と袖を巻くって見せる。
「こんなに細い腕じゃ、畑仕事もろくに手伝えなかった。綺麗だね、とか言って誉めてく
れる男の子もいたけどさ。アタシは、綺麗な腕なんかより、ママやパパを助けることので
きる、力のある腕が欲しかったわ。でも、今年は夏の寒さで畑が枯れちゃったからね。腕
力なんかがあっても、何の役に立たないでしょ? そんなとき、このアタシが役に立てた
んだもの」
「・・・」
  彼女の言うことに、シンジはただ唖然と立ち尽くすしかなかった。
「それだけじゃないのよ」と、アスカは続ける。
「大陸公路を旅できるなんて、何だかステキじゃない。こんな機会、滅多にないしね。し
かも、エクバターナに着いたら色々と珍しいものが見られるんでしょう? そう思ったら
さ、この見慣れてるはずの森も新鮮に見えてきて・・・。何だかうまく言えないけれど、
まぁ、そういうことよ。分かった?」
  分からなかった。
  シンジには、まるで理解することが出来ない。
(親に売られて嬉しいだって!? エクバターナへの旅が楽しい、だって・・・!?)
「そんなことより・・・」
  アスカが、別人のように疲れた口調になって言った。
「その水、くれないの? 喉がカラカラなんだけど」





 ――焚き火の明かりが、二人の頬をオレンジ色に照らしていた。
  シンジが昨日、村へ来るときに野宿したのと同じ場所で、二人は夜を明かすことになっ
た。石を集めて作った簡単な釜も、昨日と変わらぬ状態で残っていた。
  食事は、既に終えていた。僅かな干し肉と硬いパン、それに水筒の水という質素なもの
だったが、旅をしてる間はこれが普通であった。
「素直に手錠を外してくれたら、山菜を採ってきてあげたのに・・・」
  やや遠慮がちに愚痴るアスカに、シンジは眉と頬を歪めた。
  アスカの言葉が気に触ったのではない。胸の中で大きくなっている何かに対して、やる
せなさを感じたのだ。
「その手錠は、エクバターナに着くまで外すことはできないんだ。そういう決まりになっ
てるから・・・。さぁ、もうそろそろ寝よう」
  荷物の中から携帯用の薄い毛布を取り出すと、それをアスカに放ってやる。
「キミはいつも、朝、どのくらいに起きてる?」
「別に、普通よ。お日様が昇る少し前」
「じゃあ、明日はそれよりも長く寝てていい。今日は歩きっぱなしで疲れただろうから」
  そう言ってから、シンジは眉根を寄せた。
  アスカが、返事の代わりに、クスクスとした笑い声を口の中で殺すようにして上げてい
たからだ。
「・・・何がおかしい?」
「だって、何だか面白くて」
「だから、何が・・・?」
  シンジにはさっぱり分からない。アスカは、含み笑いを残したまま言った。
「あのね、アタシ、実を言うと、ちょっと心配だったのよ。迎えに来るマルドゥックの人
って、どんな怖いオジサンなのかしら、って。なのに、フタを開けてみたら、ぜんぜん軟
弱そうなヤツが来てくれたんだもの」
「・・・」
  軟弱そうだ、などと笑われても、不思議と反発心は生まれなかった。
  シンジはただ、二人の間にある焚き火の揺らめきを見つめた。
  炎の弾ける音が、森の暗闇に吸い込まれていく・・・。
「でも、目と髪の毛が真っ黒なのには、ちょっと驚いたけどさ」
  アスカが変わらぬ調子で言った。
「眉毛も黒いから、その髪、染めてるわけじゃないんでしょ? 世の中には、アンタみた
いな人もいたのね」
「ボクが数年前まで暮らしてた国では、これが普通だった。キミみたいに色の付いた瞳の
人間の方が、ずっと珍しかったんだ」
  シンジは言った。
「ふーん。・・・じゃあ、今度はアタシが聞くけど、アンタって、どうしてそんなにアタ
シに優しくしてくれるの?」
「や――!?」
  彼女の言葉に、シンジは愕然とした。心臓が、音を立てて跳ねていた。
「優しくしてる、だって!? このボクが、か!? キミはやっぱり、何も分かってないん
だ」
  シンジは怒鳴りかけた。
「ボクはマルドゥックの人間だぞ!? たった金貨数枚でキミを買って、あのネルフに高
く売りつけて、カネを儲けようとしているんだ。それなのに、よくも優しいだなんてこと
が――」
「だって」
  と、アスカはその頬に笑みを浮かべたまま、シンジの言葉を遮って言う。
「今日、昼のあいだ、ずっとあたしに歩調をあわせてくれてたでしょ? この手錠も緩め
にしてあるし。水だって、シンジの分までアタシに分けてくれたじゃない」
「それは、キミが商品だからだ。ボクはキミを、少しでも高くネルフに売ろうとしてるだ
けさ」
「ふ〜ん」
  と、アスカがつまらそうに鼻を鳴らす。シンジは痛みに似た何かを、胸に感じた。
「・・・もう、寝よう」
  顔を伏せて言うと、足下の枝を焚き火に足す。
 アスカに背を向けるようにして地面に横たわり、毛布にくるまると、シンジは背中の彼
女に声をかけた。
「その手錠は邪魔だろうけど、外すことは出来ないんだ。我慢してくれ」
「はいはい。お気遣い、ありがとうございます。・・・明日も、今日みたいな調子でお願
いね」
  アスカも欠伸を残して、ごそごそと毛布をかぶる。
「ねぇ、そういえば、夜のあいだ、寝ずの番はしなくていいの?」
「いい。妙な気配があれば、ボクがすぐに起きるから」
「そうなの? なら、いいんだけど・・・。じゃ、おやすみなさい」
「・・・おやすみ」
  それぞれの挨拶が、夜のとばりに、すぅっと消える。
  シンジは毛布に顔をうずめて、目を閉じた。





  夜中にふと、シンジは目を覚ました。静かな夜だ。だが――。
  ・・・ッ、・・・グスッ。
  耳に忍び込んでくる、微かな音がある。
(・・・アスカ?)
  シンジはゆっくりと体を起こして、闇に目を凝らした。
  アスカは、こちらに背中を向けるようにして横になっている。
(泣いて、いるのか?)
 まだ半分以上ぼやけている思考のまま、シンジは呟いた。
「アスカ・・・?」
  と、思わず小声で囁きかけてから、何故か”しまった”と思う。
 シンジは、はっとして口をつぐんだ。
  ・・・グスッ、グスッ。
  返ってくるのはやはり、すすり泣きの音だ。
  音を立てないように膝を立て、ゆっくりと立ち上がると、彼女のそばに歩み寄る。
(悲しそうな素振りなんて、昼間は少しも見せなかったのに・・・)
  野暮だと思いつつも、興味を抑えることはできなかった。
  シンジは腰を落として、少女の寝顔をのぞき込む。
  それを待っていたかのように、雲に隠れていた月が、頼りなくも一瞬だけ顔を覗かせた。
  ――彼女の閉じられたまぶたの隙間で、小さな光が、星の煌めきのように輝いていた。
  シンジは、思った。
(この子の涙を買うことなんて、どんな金持ちにも出来ないんだろうな・・・)
  世の中には、こうして、確かに存在しているのだ。
  金では決して手に入れることのできないものが。
  この子を売ったあの男は、どうしてそれに気付かなかったのだろう・・・。
  見れば、アスカの毛布が肩からずり落ちている。肩までかけ直してやろう――。そう思
って伸ばしたシンジの手が、宙でピタリと制止する。
「ママ・・・」
  アスカが、ポツリ、とつぶやいていた。新たな涙の一粒とともに。
  ほんの、小さな一言。
  だが、それはまるで鋭い電流のように、シンジの身体を貫いていた。
(何も分かってなかったのは、ボクのほうだったんだ・・・)
  シンジは、悟った。
  アスカが見せていた笑顔。しおれた花すら蘇らせてしまいそうな、あの生き生きとした
笑顔の向こうには、やはり人並みの不安が横たわっていたのだ。明るく微笑みながらも、
心の中ではそれを噛みしめていたに違いない・・・。
  少女の頬に、手を伸ばす。
  そこ触れてみたい、という欲求があった。
  涙の粒に、あとほんの少しで、指先が届く。
  彼女の淋しさ、彼女の孤独、彼女の絶望に。
(でも――)
  手を引っ込めて、改めて毛布をそっとかけ直してやると、シンジは元いた場所へと戻り、
横になる。
(ボクに何がしてやれる? ・・・ボクなんかには、もうどうすることもできない)
  彼女はマルドゥックに売られてしまった。
  自分が、彼女を買ってしまったのだ。
  手錠を外して、逃がしてやろうか――。そんな思いが、頭をよぎる。
  しかし、それは一瞬のことだった。
  そんなことをしても無駄に終わることを、シンジは知っていたからだ。
  たとえ彼女を逃がしてやったとしても、マルドゥックが追ってくる。貴重なエヴァのパ
イロット適格者を、組織がそう簡単に見逃すはずもない。
  それに、彼女だけではない。組織を裏切った自分も、追われる身となってしまう。
  ・・・グスッ、グスッ。
  少女の小さなすすり泣きの声が、雨音のように心に染み込んでくる。
  シンジは絶望的に、目を閉じた。
  ――まただ。
(・・・また?)
  ――そうだ。また、そうやって逃げようとする。
(そんなことはない。アスカから逃げたりなんか、ボクはしていない)
  ――違う。ボクは、ボク自身から逃げてるんだ。
(ボク、自身から?)
  ――分かってるんだろう? 彼女に惹かれ始めている自分が怖いんだ。エクバターナに
着けば、彼女とは別れなくちゃならない。その時、別れが辛くなるのが怖いのさ。
(でも、それは仕方のないことだ。ボクはマルドゥックの商人で、彼女はその商品なんだ
から。仕方のないことなんだ・・・。彼女のことが好きか嫌いかなんて関係ない。ボクに
は選択肢はないんだ。だから、逃げてなんかいない)
  ――逃げてるのさ。だって、終わりにしたいと思ってただろう? 人を不幸にばかりす
るこんな仕事は辞めにしたいって、そう思ってたじゃないか。
(それは・・・)
  ――ボクにもできることがある。いま、ボクだけが彼女にしてやれることがある。
(だけど・・・)
  ――彼女を逃がしてやるんだよ、ボクの手で。アスカを自由の身にしてあげるんだ。
(でも、そんなことをしてみろ。掟に従って、ボクも組織から追われることになる。連中
の恐ろしさを、ボクはよく知っている。戦いになったら、ボクは殺されてしまう)
  ――殺されやしない。ボクなら勝てる。きっと勝って、うまく逃げおおせてやるさ。
(そんなの無理だ。絶対に)
  ――無理じゃない。一度くらい、死ぬ気で戦ってみてもいいじゃないか。
(死んだって、ボクには無理なんだ・・・)
  ――無理じゃない!
「無理だよッ!」
「そうか」
「・・・ッ!?」
  雷撃のように、その一言が全身を貫いた。
  見上げれば、冷たい目をした男が一人、自分を見下ろしている。
  あれは? ・・・そうだ。父親だ。
「ならば、お前には用はない。帰れ」
「父さん・・・!」
  父は既に、こちらを見ていない。手元の機械に向かって、誰かに命令していた。
「レイを呼べ」と。
  レイ? レイって、あの女の子の名前じゃないか。 生きてたのか!?
  いや。そんなはずはない。彼女は――。
  彼女は、死んでしまったんだ。
  そうさ。だから、これは夢だ。
「シンジ君、見て。あなたが乗らなければ、あの子が乗せられるのよ!?」
  背後には、責めるような口調で言う女性がいた。
  目の前には、自分と同い年ほどの少女が、ベッドに乗せられたまま運ばれてくる。
  少女は身体中に傷を負っているのだろう。手足に包帯が、見た目にも痛々しかった。
  起きあがろうとする少女のつぶらな瞳が、苦悶に歪んだまま、正面から自分を見つめた。
  瞳の色は、オレンジに近い赤だった。
  その赤い輝きは、何かを訴えかけてくるようで――。心に、痛くて――。
「で、でも・・・」
  目を背けるようにして、うめきながら横を見る。巨大な、まさに鬼のような顔が、そこ
にはあった。
  ――エヴァンゲリオン。
(これに乗って、戦えだって? なんで、そんなことを言うのさ!? どうして、ボクがや
らなくちゃいけないんだ!?)
「あなたになら、きっと出来る。うまくエヴァを動かせるわ」
「どうして、あなたにそんなことが・・・」
「私だけじゃない。ここにいるみんなが、あなたに期待してるわ。だから、決めて、シン
ジ君。男らしく戦うのか、それとも、あの女の子に全てを押しつけて、自分はノコノコと
逃げ出すのか」
「ボクは・・・」
  膝が、細かく震えだす。
「ボクは・・・、ボクは・・・ッ」
  ガクガクと、震えは止まらない。
  ボクには、無理だ。どうしてボクなんだ。怖い。嫌だ。怖い。
  喉がいっぱいに引きつった音を立てて――、膝が、落ちた。
  涙が、頬を伝う。
  何も、考えられない――。
「ボクは・・・ッ」

                                   《つづく》


マナ:無理しちゃってぇ。

アスカ:なにがよ。

マナ:本当は売られちゃって、辛かったんでしょう?

アスカ:辛くなんかないわっ。

マナ:素直じゃないわねぇ。悲しい時は泣いた方がいいわよ?

アスカ:悲しくなんかないって言ってるでしょっ!

マナ:そんなはずないでしょ。お父さんやお母さんと別れてあんな所に売られたら誰だって悲しいわよ。

アスカ:アンタもしつこいわねぇ。

マナ:たった金貨5枚の為に娘を売らなきゃいけないなんて、悲しい世の中ね。

アスカ:ったく。よーく聞きなさいっ!

マナ:なに?

アスカ:売られ様が売られまいが、アタシはシンジの側にいれたらいいのっ! 登場もしてないアンタこそ可愛そうだわっ!

マナ:ムッ!

アスカ:後編もたーっぷりみせつけてあげるわねーーっ! ムフフフフフ。(*^^*)

マナ:結局・・・それが言いたかったのね・・・。(ーー)
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avin@pop06.odn.ne.jp

感想は新たな作品を作り出す原動力です。1行の感想でも結構
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