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 マルドゥックの商人(後編)
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  空を見上げたまま、シンジはしばらく風に身をさらしていた。目をつむり、全身で風を
感じる。
  が、やがて俯くと、自分たち運の悪さに失望のため息をこぼした。
「どうしたの?」
  簡単な朝食を終えたばかりのアスカが、座ったまま、シンジがしていたように空を見上
げる。
  昨晩はたまに月が顔を覗かせるほど天気は回復していたにもかかわらず、いま、空は再
びタールのような雲に覆われていて、どこにも晴れ間を見つけることは出来なかった。
  シンジは、諦めたように言った。
「南から吹いてくる風が、湿ったままなんだ」
「湿ってる? 風が・・・?」
  アスカは不思議そうに言うと、風の匂いをかぐように、鼻を小さくひくつかせる。
「そうかしら。アタシには、いつもと変わらないように思えるけど」
「ボクにはね、何となく分かるんだ。旅ばかりしていたせいで、いろんな風に触ったこと
があるから」
  ネルフの東部では、2、3年に一度だが、秋から冬にかけて、一日中、大雨の降ること
があった。南の海から流れてくる風が湿り気を帯びるのは、その前兆だと言われている。
 シンジは、そのことを口にした。
「今日でもう4日目だから、もしかすると、今日か明日にでも降り出すかもしれないな」
「えー、ヤなこと言わないでよ」
  アスカが不満そうに顔をしかめる。
  が、無論、シンジは嫌味で雨の予報をしたわけではなかった。
  簡単な雨具はあっても、荷物の中には水に濡れたら不都合な物が多いし、雨中の歩行は
体力を激しく消費する。また、いざというとき、火も起こすこともできない。
  旅人にとって水は貴重品であっても、その元となる雨は、はっきりとした敵だった。
  それ故、しばらくは旅を急ぐ必要があると、シンジはそう言いたかっただけなのだ。
「ここに来る途中、大陸公路に雨宿りの出来そうな洞窟があった。降り出してしまう前に、
そこまで頑張って歩こう」
「そうねぇ・・・」
  アスカはもう一度、憂鬱そうに空を見上げてから、旅の準備を整えるシンジを、手錠を
はめたままの手で不器用に手伝った。



                  ◇  ◆  ◇



  その日、二人は、無理をしない程度にペースを早めて歩いた。
  旅慣れていないと思われたアスカだったが、脚は強いようだった。履いている靴も、丈
夫そうな革靴である。
  ただ、シンジに従う彼女は、昨日に比べて寡黙だった。そういえば、昼を過ぎてからは
録に会話もしていない。話題が尽きたせいかもしれなかったが、シンジは彼女の体調のほ
うを心配した。
(やっぱり、疲れたのかな・・・?)
  歩くのが少し、早すぎたのかもしれない。
  そう思って速度を弛めたシンジに、アスカが言った。
「ねぇシンジ。もっと急いだほうがいいんじゃないの?」
「でも、疲れてないか?」
「心配してくれてアリガト。でも、アタシなら平気よ。だから、もう少し急ぎましょ。泥
の中を歩くのなんて、嫌だもの」
  アスカが笑って答える。彼女の屈託のない笑顔に、「そうか」と微笑み返そうとしたシ
ンジの頬が、硬く引きつった。
(ボクは今、この子に笑いかけようとしたのか・・・?)
  シンジは、気付いた。それまで笑顔を作ることを忘れていた自分に。
  そして、アスカに対して好意を抱いている自分にも――。
  しかし、その発見は、決して甘く酔えるものではなかった。心に広がったのは、むしろ
暗澹とした思いだった。最悪の事態だと、頭のどこかで警告が鳴っていた。
「ほらほら、急ぐんじゃないの?」
  そう急かしてくるアスカの明るさが、余計に心を重くする。
「・・・うん、わかってる」
  わざと無機質に応えて、シンジはやや歩調を早めた。
  時間は、どんどん過ぎて行く。一歩一歩、自分たちはエクバターナに近づいている。
  心に、憂鬱な気分が降り積もる。
  低く低くたれこめた、この灰色の空のように、シンジの心もずっしりと重かった。
  歩き続ければ、いつかはエクバターナに着く。
  そこで、アスカとは別れなくてはならない。
  その後、この少女を待っているのは、エヴァの『一部品』としての扱いだった。
  一方で、自分は、再び『商品』を仕入れるための旅に出ることだろう。
  こんな旅をあとどれだけ繰り返せば――あと何人の子供たちをネルフに売り渡せば、自
分はもう一度、日の当たる場所へと出られるのだろうか・・・。
(いや、本当は、分かってるんだ)
  心の中で、シンジは首を振った。
(マルドゥックの商人には、日の当たる場所なんて、どこにもありはしない)
  ――そうさ。それを承知で、ボクはマルドゥックに入った。そんなボクに、幸せを願う
権利なんてない。そんなの誰が認めてくれるものか。
(そうかもしれない。ボクが辛い思いをしてるのは、まさに自業自得ってヤツなんだろう。
でも、もうこれ以上、他人を不幸にはしたくない)
  ――不幸せかどうかなんて、誰が決める? 何が幸せかを考えもせずに、そんなことが
言えるのか?
(そんなの関係ない。ネルフに売られた・・・いや、お金と引き替えに親に捨てられてし
まった子供が不幸せだということは、はっきりと、ボクにも分かるんだ)
  ――キレイ事を言うな。ボクが心配してるのは、アスカだけなのさ。彼女に、ネルフで
酷い目にあってほしくないだけなんだ。今まで沢山の子供たちをネルフに売り払ってきた
くせに、彼女だけは助けたいだなんて、勝手すぎる願いじゃないか。
(それは、確かに、その通りだ。たとえアスカ一人を逃がしたとしても、他の子供たちが
救われるわけでもない)
  ――それなら、悩むのはもうやめろ。このままいつものように、エクバターナまで旅を
続ければいい。
(でも、もう終わりにしたいんだ。後悔してばかりの日々なんて、もうたくさんなんだ)
  ――仕方がないじゃないか。それとも、マルドゥックを辞めるか? それが何を意味す
るのか、分かってるじゃないか。
(分かってる。連中は、話し合いの通じる相手じゃない。戦いになったら、ボクはヤツら
に殺されてしまうかもしれない)
  ――だったら、やはり仕方がない。このままエクバターナへ彼女を連れていく以外に、
道は残されていない。
(仕方がない、か・・・)
  ――そうだ。こんな曇り空にだって慣れる日が、いつかきっと来る。それまで我慢すれ
ば、この仕事を辛く感じることもなくなるさ。
(でも、そうじゃない。それは間違いなんだ! 仕方がないとか、どうしようもないとか、
そう思って諦めるとき、ボクは逃げていたんだ。アスカに出会って、やっと、そのことに
気付いたんだ!)
「・・・ねぇ、アスカ」
  シンジは立ち止まると、振り返って、彼女の瞳を見つめた。
「なぁに?」
  アスカが応える。
「ちょっと、聞いて欲しいことがあるんだ」
「いいけど、なに? 改まっちゃって」
「あのさ・・・」
  と、言いかけて――。
  シンジは、ハッと口をつぐんだ。
「・・・ッ!?」
  金属の擦れる微かな音が、鼓膜を通じて、針のように神経をつついてきていた。
  それも一つや二つではない。十は下らないほどの数の音が・・・。
「どうしたの・・・? 急に怖い顔して」
「静かにッ」
  鋭く囁いて、アスカを黙らせる。
  そしてシンジは、辺りに目を配ると同時に、聴覚にも神経を集中させた。
  右手前方の森の中から、それらの音は、そろそろと近づいてくる。しかも、不器用に草
木を踏みしめる様からして、それらは獣の足音などではなかった。
  シンジは、緊張した。
(山賊か・・・?)
「ねぇ、どうしたの?」
  シンジのただならぬ様子に、アスカも頬を強張らせる。
「アスカ。この辺りに、山賊とかは出たりするか?」
  シンジが訊ねると、アスカは首を横に振った。
「いえ。まだ村に近いし、ここらじゃ聞いたことないけど・・・。まさか、いるの?」
  ぎょっとした表情で、アスカは周りを見渡す。
  シンジは、前方の森に向かって叫んだ。
「そこに潜んでるのは分かっている。出てきたらどうだッ」
  するとそこに、鬱蒼と茂った草木の間から続々と、片手に抜き身の剣やら鍬やらをぶら
下げた男たちが現れた。狩人などでないことは、一目見てわかる。そして友好的な態度で
もないとなると、やはり山賊としか考えられない。
  シンジは周囲への警戒を怠っていた自分に歯がみしながら、拳を握った。
(12人。それと後方に8人か。くそッ)
  後方の森の中からも、その仲間と思われる連中が現れていた。気配だけで、シンジは正
確にその人数を把握する。
「・・・ッ」
  背中のすぐ後ろで、アスカがようやく、息を飲んだ。
  賊の頭と思われる悪党面の男が一人、シンジとアスカのほうへと進み出てくる。
  と、その男が笑い声と共に言った。
「へっへっへ、ガキが二人でデートかぁ?」
  それに追従するように、周りの連中もゲラゲラと下卑た笑い声を上げる。
「ボクはマルドゥックの者だ」
 シンジは懐から取りだしたペンダント――マルドゥックの紋章を掲げて見せながら、決
然と言い放った。
「分かっているだろう? ボクたちに危害を加えれば、お前たち、組織から狙われること
になるぞ」
「おい、聞いたか? このガキ、マルドゥックの野郎だとよ」
 驚いた様子で、男が仲間を振り返る。賊たちは呆けたように、シンジを見つめた。
 うまく切り抜けられるかと思った、次の瞬間。その目論見が外れたことを、シンジは知
った。
「そりゃいい」
「オレたち、今日はツいてるぜ」
 口々に、賊たちが言う。
「そこの女と金だけで済ましてやろうと思ってたが――」
 進み出ていた男が、凄みをきかせながら言った。
「それを聞いちゃ、そういう訳にもいかねぇな」
「なんだって・・・?」
「おい、マルドゥックの坊主。よく聞いとけ。オレたちは何も、生まれたときから賊をや
ってたわけじゃねぇ」
 眉をひそめるシンジに、その男は憎々しげに言い放った。
「半年ほど前までは、畑を耕したりしていたさ。だがな、その村は、ただの灰になっちま
ったんだ。何故だと思う? ・・・それはな、ネルフとゼーレのごたごたに巻き込まれた
せいさ。おかげで俺たちもこのザマだ。ネルフの片棒をかつぐお前らマルドゥックの連中
も、許しちゃおけねぇ。その恨みを、今ここで晴らしてやるぜッ」
「脅したって逆効果じゃないのよ・・・!」
 アスカが、シンジの袖を引っぱって言った。
「シンジ、ねぇ、どうするの!?」
 それは怒ったような口調だったが、恐らく不安の裏返しなのだろう。
 シンジは彼女を振り返り、優しく訊ねた。
「アスカ、キミは森の中を走れるか?」
 アスカは戸惑いつつも、その問いに頷いた。逃げ道のことなのだろうと、その瞳には理
解の色が見て取れた。
「そ、それは多分、大丈夫。ここの森は見た目ほど深くないし、森の中では、よく遊んだ
から」
「そうか。じゃあ、やっぱり、キミをエクバターナまで連れていくことは出来そうにない
よ」
 微笑みとともに、シンジはあっさりと決断を下した。ハプニングに出会ったせいで、迷
いや躊躇いの気持ちは、自分でも簡単すぎると思うほどに、綺麗に消え失せていた。
「え・・・!?」
 シンジは懐から取りだした鍵で、素早くアスカの手錠を外して言う。
「キミは一人で、森の中を走って逃げろ。ボクがこいつらの相手をしてる間に」
「シンジ・・・!?」
 信じられない、と言いたげな瞳を、アスカはシンジに向けた。
「でッ――、でも、そんなこと言ったって、アンタ、その腰に吊してる剣、使えるの?」
「こういう状況になっちゃ、使わざるを得ないさ。さぁ、ここでお別れだ」
「何をブツブツ言ってやがるッ」
 こちらに恐怖の色が見られないのが不満なのかもしれない。賊の一人が、苛立ったよう
に声を上げた。
 だが、それすらも無視して、シンジは早口で、しかし落ちついた口調で、アスカに告げ
る。
「可愛そうだけど、もうチッタへ戻っちゃダメだ。絶対に。あの村には真っ先にマルドゥ
ックの手が伸びてくるから。だから、このまま南へ下って、大陸公路に出たら西へ進め」
 つまり、エクバターナとは反対の方角へ逃げろと、シンジは言っているのだった。
「わ、わかったわ」
 アスカが小さく頷く。
 彼女に微笑みかけて、シンジは山賊たちの動きに神経を集中しようとした。――が、そ
れは、失敗に終わった。
 アスカが突然、首に腕を回すようにして飛びついてきたのだ。
 ぐらり――、とシンジはよろめいた。
「ア、アスカ!? ななな何を・・・!?」
 予想だにしていなかった事態に口をパクパクさせる彼の耳元で、彼女が囁く。
「ありがと」
 次の瞬間、身を翻したアスカは、野兎の如く、茂みの中に飛び込んでいた。その後ろ姿
は未練など微塵も感じさせぬまま、ほとんど一瞬にして森の木々に隠れて見えなくなる。
 シンジも唖然とするほどの素早さだった。
「ま、待てっ」
「そう簡単に逃がすか――」
 と、賊が2、3人、彼女を追いかけようと足を踏み出したとき。
「動くなッ!」
 シンジの低く凄みのある声が、その場にいた全員を金縛りにした。
 動いたら殺される――。全員がそう信じたほどの殺気が、その一言には込められていた。
 数舜後、金縛りから賊たちが逃れたとき、少女の姿は、すでに見る影もなくなっている。
賊たちは舌打ちをしつつ、全員がシンジに刃を向けた。
 山賊らしく、彼らの得物は一様ではなかった。大剣を持つ者もいれば、マサカリを持つ
者もいる。
(よし――!)
 シンジに、闘志が沸き上がっていた。男としての覇気が一気に蘇ってきたように、自分
でも思えた。
(やってやるさッ!)
 賊たちを睨みつける目つきも鋭く――。しかし次の瞬間、それはフッとした笑みに緩ん
でしまう。
 アスカに抱きつかれた際、知らぬ間に、腰に下げていた革袋――金貨や銀貨を入れてい
たものだ――を盗られていたことに、今、気がついたからだった。
(まったく、しっかりしてる・・・)
 これだけの機転や図々しさを持ち合わせてるなら、遠くの土地に行っても何とかやって
いけるに違いない。そう、信じたかった。
「お、おいっ、このマルドゥックのガキだけでも、さっさとやっちまおうぜっ!」
 背後で、賊が一人、そう叫ぶ。
 シンジは剣のつかに手をかけた。刀身が軽く反っている東洋の剣である。
 身体を斜に構えて、肩幅以上に足を開き、腰を溜める。
 その格好のまま、微動だにしない。
 そして――。
「てぁぁッ!」
 叫びつつ、目の前にいた賊が一人、無造作に切りかかってきた。
 森のどこかで、鳥が一羽、甲高い鳴き声を上げて空に飛び立つ。
 瞬間。
「たッ!」
 シンジは気合いと共に抜刀した。
 刃は弓状の閃光となって、賊の体を切り上げる。
「ぐ――」
 賊は微かに呻いただけだった。断末魔すら発することもなかった。
 刀を振りかざしたままの格好で、シンジの手前に、どさり、と崩れ落ちる。
 その時には既に、シンジは刀を鞘に納め、もとの抜き打ちの体勢に戻っていた。
「な・・・!?」
 あまりの剣速の速さに、背後から襲いかかろうとしていた山賊たちは、たたらを踏んだ。
「なんだ!? お前、今、何をしやがった・・・!?」
 そう問いかけるのは、剣筋が見えなかった者だろう。
 賊たちの顔色が、変わっていた。
「・・・」
 シンジは無言のまま、何も応えない。
 彼が用いたのは、居合いという、東洋の抜刀術だった。
 剣の速さを極めようとする刀術は、この大陸にも無いわけではない。が、居合術のよう
に、抜刀した瞬間に勝負が決まるような異常なまでの速さを持つものは、この大陸におい
ては皆無であった。
(あと前方に11、後方に8。弓矢を持ってる者はゼロ。注意すべきはナイフだけだ)
 何年ぶりかに人を斬った腕の感触が、全身を火照らせていた。
 心臓が、音を立ててうなっていた。
 だが、この程度の緊張ならば、どうってことない。かえって、身体の切れを鋭くしてく
れるはずだ――。そう考えて、剣のつかを静かに握り直す。
(大丈夫。ボクは冷静だ。何も恐れちゃいない)
 他人の命を奪うことに対する躊躇いは、今は、失せていた。
 生き残ってみせる。その思いが、身体を激しく突き動かそうとしていた。
 大きく、深く、肺に空気を吸い込む。
 それを一気に吐き出すと同時に、シンジは翻転し、賊たちの中へと切り込んでいった。





  幾度となく、絶叫が森に吸い込まれていった。
  そこにあるのは、凄惨な光景といえた。
  シンジは駆けていた。
  疾風の如く、山賊どもの間を縦横無尽に。
  走っては切り、走っては切る。
  今また、突き込まれた槍を紙一重で交わすと、一瞬にして二人を切り捨てる。
「てぇーッ」
  何人目かの男が、半ば恐慌を起こしつつ振りおろした剣は、無人の空間を切った。
  シンジが刀を横に凪ぎ払う。
  それは十分に、男の胴を切り裂いた。
  瞳の輝きを失いながら、その男の伸ばした剣先が、偶然にもシンジの左腕をかすめる。
鋭い痛みが、神経を走りぬける。が、頬をしかめるだけで、シンジはそれに堪えた。
(ただのかすり傷だッ)
  そして、左から襲いかかってくる敵のほうへと、自らも突っ込んでいく。
  きいぃぃん。
  刃のすりあう音が鳴った。シンジの斬撃を、男は辛うじて受け流したのだ。
  だが、そのとき。
  シンジは微かによろめいた。視界が、ゆらゆらと波動している。
(しまった・・・)
  先ほど、左腕に受けた刀。あれに毒が塗られていたのか・・・!
  愕然としながらも、シンジの速さは衰えなかった。ほとんど本能のまま、男の脇を駆け
抜け、身体をひねりつつ、無防備な背中を逆袈裟に切り上げる。
  男は奇声を発してのけぞると、一瞬後には壊れた人形のように地に崩れ落ちた。
  そして――。
 ――。
  森の中に再び、冷たい静寂が戻っていた。
  その場に立っている人間は、もう、シンジ以外にはいない。
「終わった・・・」
  息をつくや否や、シンジはすぐに左の袖を半分切り裂いた。傷口に口を付けて毒と血を
吸い出し、吐き出す。それ以上は、処置の施しようがない。
  やがてシンジは刀をさやに収め、それを片手に、ふらつきながらも南へと歩き出した。
  だが、十歩も行かないうちに、足が動かなくなる。
  それでも気力を振り絞り、身体を前に進めようとする。
  ぐらっと、視界が暗転する――。
  混濁する意識の中で、シンジは思った。
(・・・ここで、ボクは死ぬのだろうか)
  視線が、地面と同じ高さになっていた。頬には微かに、ざらついた土の感触がある。も
がこうと手足に力を入れても、それらはまるで他人のものであるかのように、言うことを
聞いてくれなかった。
(もう、ダメか。・・・でも、これが当然の報いなんだ。マルドゥックの商人なんてやっ
てたんだから)
  ふぅ、と、シンジは吐息した。
  息と一緒に魂までも吐き出してしまったかのように、意識が、次第に薄れてゆく。
  だが、それは不思議と恐怖を呼ぶものではなかった。
  むしろ、シンジの心は、奇妙に温かいもので満ち足りていた。
  ひとりの少女を自由の身にしてやれたのだという、満足感があった。
(そうさ。これでよかったんだ。ボクは、人生の最後に、道を誤らずに済んだんだ)
  彼女の、あの明るい笑顔を思い浮かべると、シンジの胸は切ないほど哀しく、だが、心
は不思議な温かさに包まれる・・・。
  ただ、一つ、心残りもあった。
  貴重なエヴァの適格者。マルドゥックが、それを易々と諦めるはずはない。
  アスカの身には、いつか、マルドゥックの手が伸びることだろう。
(頼むから、無事に逃げ切ってくれよ)
  そう願ったのを最後に、シンジの意識は、すぅーっと闇に落ちていった。





  不意に。
  身体の中心で、心臓が、トクン、と鳴った。
  縮こまっていた魂が弾けるように広がり、身体の隅々にまで行き渡る。
  そしてシンジは、まず、瞬きをした。
  視界に映っているのは、鬱蒼と茂った森の木々と、その枝葉の間から眩しく漏れてくる
陽の光。――天国や地獄などでは、ないようだった。
「・・・生きてる、のか?」
  上半身を起こして、シンジは周りを見渡した。信じられない、という思いと共に。
  肩までかけられていた毛布が、腹にずり落ちる。その毛布は、見覚えのあるものだった。
  右手が、無意識のうちに左腕に触れていた。
  刀傷を負ったその箇所には、丁寧に布が巻かれている。
「いったい、誰が・・・」
  ふと、青臭い匂いが鼻を突く。
  匂いの元は、枕元に置いてある木製の器だった。毛布と同じく、シンジが携帯していた
ものだ。中には、すりつぶされた草か何かのような、濃い緑色をした、ドロドロしたもの
が残っている。
  それは薬草に違いなかった。
  小さなせせらぎの音が、遠くから聞こえてくる。
  そこへ行ってみようとシンジが立ち上がろうとした、その時。
「あっ、気が付いたのね」
  明るい声と共に、木々の向こうから姿を現した人影があった。
「ア――!?」
  シンジはただ、大きく口を開けた。
「あんた、ツいてたわねぇ」
  言いながら、ひとりの少女が、跳ねるような足どりで近寄ってくる。
  シンジは、叫んだ。
「アスカ!?」
「パナキア草が、すぐ近くに野生してたの」
  こちらを無視して、彼女は言った。
  パナキア草とは、この地方で取れる、有名な毒消し草の名であった。万能薬と呼ぶ者も
いる。傷口に塗り込んでも、または服用しても、その効用を発揮するからだ。
  傍にしゃがみ込んだアスカの片袖がなくなっていることに、シンジは気が付いた。彼女
は自分の袖を裂いて、包帯代わりにしてくれたのだ。
「まったく、奇跡よね。村の畑にあったやつは全滅しちゃったのに・・・。パナキアの葉
がなかったら、たぶん、アタシでも助けられなかったわ」
  そう言うと、アスカはシンジの左腕の布を解き、新たに清潔そうな布を巻きはじめる。
  彼女のすることを、シンジは呆然としながら、すっかり他人事のように眺めていた。
「それに、この毒も多分、単なる即効性の痺れ薬だったんでしょうね」
  やれやれ、といった感じで言うと、アスカはシンジの瞳をのぞき込んだ。
「で、どう? 身体のほうは、もう大丈夫?」
  急に接近してきた彼女の瞳の中に、シンジは自分の瞳を見た。
  そこでようやく、ハッと我に返る。
「ど――、どうして、戻ってきたのさ!? 逃げろって言ったじゃないかッ!」
「文句は言わないの! アタシが戻ってこなきゃ、アンタ、死んでたかもしれないんだか
ら」
「キミは、バカか!?」
「んまーッ! 酷いじゃないの! 命の恩人に向かって、バカとは何よ、バカって!」
「大バカじゃないかッ!」
  アスカの抗議の声をかき消すような大声で、シンジは怒鳴っていた。
「ボクの命の恩人になったからって、キミに何の得がある!? もう一度、逃がしてくれ
るとでも思ったのか? ボクはマルドゥックの商人なんだ。そんなはずは無いだろう!? 
さっきは足手まといだったから逃がしてやっただけなんだ!」
  息をつかずに、シンジはまくし立てる。
  アスカは、何も言ってこない。ただ、シンジの腕に布を巻いていた。
「それとも、そんなにネルフに売られてしまいたいのか!? ネルフがどんなところなの
かは、キミも知ってるんだろう? エクバターナにキミを連れていったら、ボクは、ボク
は・・・ッ」
  シンジはそこで、一つ二つ、せき込んだ。
「ボクは・・・」
  再び、口を開いたとき。
  何を怒鳴ろうとしていたのか、怒りの原因は何だったのか・・・、シンジは、自分でも
分からなくなっていた。
  心の中には、ただ暴風雨が吹き荒れていた。
  シンジは無言で、その嵐が静まるのを待った。アスカも何も言い返してくることなく、
シンジの左腕に、ただただ布を巻いている。
「ありがとう・・・。あのさ、アスカ・・・」
  彼女が包帯代わりの布を巻き終わったとき、ぽつり、とシンジは話し出した。
  穏やかな口調が意外だったのか、アスカが驚いた表情を見せた。
  そんな彼女の瞳を見返して、シンジは言った。
「ボクもね、実は、親に売られた子供だったんだ」
「え・・・」
「あれは、ボクがまだ5歳のときだった」
  シンジは、静かに語りだした。
  目をつむれば、それだけで、心は時を十数年さかのぼることができた。
  白と黒と、そして灰色の風景。
  その中で、自分は、わんわんと大声で泣き喚いていた。涙の向こうに、だんだんと遠ざ
かってゆく父の背中を見ていた。
  不安と悲しみで、胸が張り裂けそうになっていた。
  ――それが、シンジの記憶の始まりであった。
「ただ、ボクが売られた先は、マルドゥックでもネルフでもなくてね。東の果てにある島
国の、とある組織だった」
  そこでシンジは下男として、一人の隠居した老人の世話をして暮らすことになった。
  その老人を、シンジは「先生」と呼んだ。彼の下で、様々なことを学ぶこともできた。
  苦労も色々とあったが、それでも平穏といえる日々が過ぎていった。
  父親からの便りをシンジが手にしたのは、それから8年後のことだ。まるで老人の死を
待っていたかのように、それは遙か西方の土地から、シンジの下に届けられた。
  ネルフという国へ来い。おまえの力が必要なのだ――。父からの手紙には、ただ、そう
記してあった。
  自分を捨てておきながら、今さらこんな便りをよこすとは、どういうつもりなのだろう。
  頭に血が上ったシンジは、手にしていた手紙を引き裂いて――。
  そして、ネルフへと旅立ったのだ。
  やはり、会いたかった。会って、それからどうするのかは、自分でも分からなかったが。
  だが、とにかく父親の顔を見たいという思いは、確かなものだった。
  長い旅を経て、シンジがエクバターナにたどり着いたとき、ネルフはゼーレの攻撃を受
けている最中だった。
  シンジは、何の説明もなしに、エクバターナの地下にあるエヴァの前に連れてこられた。
  父親と10年ぶりの再会を果たしたのも、その場所だった。
「そこで、父さんはボクにただ一言、こう言ったんだ。エヴァに乗って戦え、ってね」
「た・・・、たった、それだけ?」
 アスカの質問に、シンジは首を縦に振った。
「そんなの、ボクは御免だった。父親らしい言葉をかけてくれなかった父さんに、逆らっ
てみたかったのかもしれない。でも、それ以上に、戦うのが怖かったんだ。ゼーレとの戦
いの凄まじさを、そこに来る途中で目にしていたから。でも、ボクがエヴァに乗らなけれ
ば、代わりに、怪我をした子が乗せられることになってさ・・・。レイっていう女の子だ
った。身体中に包帯を巻いてて、動くのもやっとっていう程の、酷い怪我をしてた」
「そんな・・・」
  暗く沈んだ声で、アスカが呟く。
「それなのに、ボクは、エヴァに乗るのがとにかく怖くて、身体がどうしようもなく震え
ちゃってさ・・・。結局、エヴァには乗れなかったよ。ボクは、あのレイって子を、その
まま見殺しにしたんだ」
  シンジは、膝の上に置いた手の甲を見つめながら、続けた。
「この国を出ていこうとしたボクにね、マルドゥックが声をかけてきた。組織の一員にな
らないか、って。ボクは断らなかったよ。むしろ、積極的に入れてくれって頼んだ。そう
してマルドゥックの商人になって・・・、今まで、この国のあちこちから子供を買って、
ネルフに売ってきた。そうすることで、世の中に復讐してるつもりだったんだ。みんな不
幸になってしまえばいいって思ってた。父さんに捨てられたボクや、あのレイって子みた
いに、不幸になってしまえ、って。・・・軽蔑するだろう? ボクは可愛そうな人間なん
だって、自分で思い込んでいたんだ。そんな理由で、今までずっと、たくさんの人に酷い
ことをしてきたんだ。ボクは臆病で、卑怯で、弱虫で・・・」
  嗚咽を隠しながら、シンジは思いを振り絞るように、言った。
「・・・でも、もうイヤなんだ。マルドゥックの商人なんて仕事は、もう続けたくないん
だ。人に優しくしたい。優しくされたい。アスカ、キミのように、ボクも明るく笑ってみ
たい。前向きに生きてみたいんだよ・・・」
  そう言い終えると同時に、シンジは膝を抱えるようにして、とうとう泣きだしてしまっ
た。
  アスカは、何も言葉をかけてこなかった。
  シンジが泣きやむまで、彼女はただ黙して、静かに寄り添っていた。
  いつの間にか、腕が、シンジの肩を抱いている。
  そこから伝わってくる温もりの優しさに、シンジの目からは、余計に涙が溢れ出してく
るのだった。





  その翌日。
  森を抜けた二人は、肩を並べて大陸公路の空を仰いでいた。
  幸運にも、雨雲は現れなかった。所々、僅かに雲がかかってはいるものの、頭上には颯
爽とした青空が広がっている。
「シンジの天気予報、外れたわね」
  アスカが言う。
  空の青を宿したような彼女の瞳には、シンジをからかうような色が見て取れた。
  ――彼女の両手首には、既に手錠はない。
「うん」
  シンジは苦笑を浮かべつつ、頷いた。
  指先で、軽く頬を掻く。
「雨なんか一滴も降りそうになくなっちゃったな。なんでだろう?」
「・・・今のシンジって」
  アスカが、妙にしみじみとした口調で言った。
「何だか、すごく活き活きとして見えるわ」
「ん・・・? そうかなぁ」
  照れたように、シンジは笑った。
  アスカに感謝する気持ちは、真実のものだった。
  この清々しい気分は、何年ぶりか――、もしかすると、生まれて初めて味わうものかも
しれなかった。
  草木が、風が、空が、世界が、違って見えた。
  すべてが陽気で新鮮で、優しかった。
  人の目に映るのは、やはり、自分のこころの景色なのだと思う――。
「さて」
  シンジは、東西に走る街道の一方――自分の影の伸びていく方向を指し示した。
「こっちが西。エクバターナは、この先にある。だから、アスカが行くのは――」
  と、今度はくるりと反対側に向き直って、そちらへ指先を伸ばす。
「こっち側、東だ」
  アスカは東へ。
  そして、シンジは西へ。
  二人はこの場所で別れて、それぞれ正反対の方角へと旅を続けることになった。
  シンジは、アスカをエクバターナとは反対方面へと逃がしながら、自分はマルドゥック
と交渉するために、エクバターナへと向かうことにしたのだ。
  昨日、この案をシンジから聞いたとき、アスカは首を横に振って反対した。
「そんなの無茶だわ! アンタも逃げればいいじゃないの」
  そう言ってから、彼女は付け加えたのだった。頬を桃色に薄く染めて、小さな声で。
「アタシと、一緒にさ」と。
  だが、彼女のその言葉も、シンジの決意を鈍らせることはなかった。
「それは、できないよ。マルドゥックとは、ケリをつけておく必要がある。そうでなくち
ゃ、二人とも一生、組織に追われる身のままだ。そんなの、アスカは嫌だろう?」
  組織を脱退するいくつかの方法のうち、最も後腐れのない道を、シンジは選んだ。
  もし交渉が決裂した場合には、刃を交えてでも、アスカへの追っ手をくい止めるつもり
でいた。
  いくつかの旅の必需品をアスカに分け与えた後、最後に、シンジは一つの革袋を差し出
した。
「これは、キミが持っていってくれ」
  袋は、ずっしりと重い。かなりの大金が、中には入っていた。これだけで、その気にな
れば一年か二年は旅を続けられるだろう。
「これって・・・」
「うん。昨日、キミが盗っていったのとは、別のやつだよ。中身は自由に使ってくれてい
い。これが命を助けてくれるときもあるだろうから」
「ええ・・・。ありがとう」
  両手で大切そうに受け取った金袋を、アスカは神妙な面持ちで見つめる。
  急にしおらしくなってしまった彼女に、シンジは言った。
「ここから東へ行けば、カーヴェリー川っていう大きな川があるのは知ってるだろう? 
それを渡った先に、南へと分かれる道がある。その別れ道を行けば、コートカプラってい
う街にたどり着くんだ。それで・・・」
  そこで言い淀んだシンジだったが、やがて決意して、続きを口にした。
「その街で、半月だけ、ボクが追いつくのを待ってて欲しい。それまでに、マルドゥック
とは決着を付けてくるから。・・・もちろん、キミが嫌でなければ、の話だけど」
  すると、アスカは瞳を輝かせた。
「嫌だなんて、そんなことないわ。わかった。そこで待っててあげる」
「ありがとう・・・。ただ、ボクを待ってるのは、本当に今年一杯まででいいからね」
  シンジは笑顔を向けつつも、そう言って念を押した。
「年が明けてもボクから何の連絡もなければ、キミ一人で、できるだけ遠くの土地に逃げ
るんだ。例えば・・・、いや、どこへ行くかは、ボクも知らない方がいいな。でも、まぁ、
心配しなくていいよ」
  曇り空の表情に逆戻りしそうになったアスカを元気づけようと、シンジは彼女の肩を、
ぽん、と叩いた。
「そんなことには、きっとならないから。万が一、組織と戦う羽目になっても、絶対に負
けやしないさ。ボクが東洋の島国で一緒にいた先生っていうのが、実はフーマの頭領をや
ってた人でね」
「・・・ふーま、って?」
「あー、えっとね、フーマっていうのは、シノビの一族で――、って言っても分からない
か。要するに、ボクの先生は、世界一の暗殺者だった人なんだ。その人に10年間くらい、
色々と厳しく仕込まれたからさ。・・・こんなこと、ホントは自慢にならないんだけど。
だから、大丈夫。なぁに、昨日はちょっと油断しただけさ」
「・・・そうよね。ええ、信じてるわ」
  微笑みを浮かべて、そう答えるアスカの声は、まだ微かに湿っていた。だが、すぐに明
るく気を変える。
「でも、本当に、年が明けるまでしか待っててあげないからねッ。だから、絶対に、無事
に迎えに来てくれるって約束して。アタシ、シンジに買われちゃったんだもん。だから、
アンタのこと、ずっと待ってるから・・・」
  シンジは、頷いた。
  彼女の台詞の矛盾には気付いていたが、あえてそれを口にする必要はないと思った。
  ただ、焼けたような胸の熱さが、もう一度、シンジを力強く頷かせていた。
「うん、約束する。必ず、迎えに行くよ・・・!」
  そして――。
  互いにしばしの別れの言葉を口にしてから、シンジはアスカと別れて、ひとり、西へと
歩き出した。
  マルドゥックにただ一人、反旗を翻す――。
  それは、大胆などという言葉は通り越して、無謀としか言いようがないことだろう。
  だが、シンジは胸を張って歩いた。
  心に全く不安がないといえば嘘になる。しかし、後悔の念だけは、かけらもない。
  しばらくすると、アスカの姿も小さくなり、丘の向こうに隠れて見えなくなった。
「・・・そうだ」
  ふと呟き、シンジは懐に手を入れた。
  そこにあったものを手に握り、腕を大きく振りかぶって、勢いよく空へと放り投げる。
  陽の光を浴びて宝石のように輝くそれは、あのマルドゥックの紋章だった。


                                 Written by Avin
























「まさか、そんな・・・。ウソだろう?」
  シンジは愕然として、呟いていた。
  しかし、それを耳にした者は、誰もいない。
  彼の御する、一頭の馬が牽くだけの小さな荷馬車は、大陸公路のうねうねとした道の上
にあって、今は、馬を休ませるために停車していた。コートカプラを発ったのは、一昨日
のこと。今のところ街道は平坦だが、このまま東進すれば、もうすぐ山岳地帯に差し掛か
る。
  街道の脇には、青々とした草原が広がっていた。
  生えている草は、足首までの高さしかない。
  その草原の中に静かに佇んで、ひとり、こちらを見つめる少女がいた。
  出会ったとき苦悶に歪んでいた少女の表情は、いま、うっすらと微笑みを浮かべている。
「レイ・・・。どうして、ここに・・・?」
  シンジは御者台から、思わず立ち上がった。
  その時、何に驚いたのか、梢にとまっていた鳥たちが一斉に空に向けて飛び立つ。
  シンジがそちらに目を反らしたのは、ほんの瞬き程度の時間だった。
  だが、一瞬後、元の場所に目を戻したとき――。
  少女の姿は、消え失せていた。
  シンジは、激しく目を瞬かせた。
(・・・幻覚、だったのか?)
  そう。彼女は、死んでしまったはずだった。
  例え生きていたとしても、こんな所にいるわけはない。
  それに、草原の中に身を隠せる場所など、どこにもありはしないのだ。
(でも、幻覚にしては・・・)
  シンジは思った。ただの幻覚が、意識にこれほど明瞭な残像を残してゆくだろうか――。
  呆然と立ちすくんだままのシンジに、背後から声がかかった。
「ねぇ、どうしたの? 何かいるの?」
  荷台でうたた寝をしていたアスカだった。目を覚まし、御者台で立ち上がっていたシン
ジを見て不審に思ったのだろう。目を擦り擦り訊ねてくる。
「んん、いや、なんでもないよ・・・」
  シンジはそう答えて、腰を下ろした。そして、ポツンと付け加える。
「いま、ちょっとね、お別れをしてたんだ」
「・・・おわかれ?」
  アスカは首をめぐらして、きょろきょろと辺りを見た。
  当然と言うべきか、馬車の中にも外にも、二人の他には誰も見当たらない。
「お別れって、いったい、誰に? ・・・アタシに?」
「そうじゃないよ。そうじゃなくて、たぶん・・・」
  シンジは振り返る。
 そして、奇妙な視線を向けてくるアスカに、照れたような笑みを見せた。
「たぶん、可哀想だったもう一人のボクに、じゃないかな」

                                   《終わり》


マナ:逃げないのに、どうしてお金を取ったの?

アスカ:うーん。最初は言われた通り逃げ様としたんだけど、シンジのことが気になってどうしても進めなかったの。

マナ:ほっとけなくなったのね。

アスカ:森の中から、心配になって見てたらシンジ怪我しちゃうし。

マナ:よく都合良く薬草があったわねぇ。ま、おかげでシンジ助かったんだけど。

アスカ:あ、あれウソウソ。痺れ薬くらいだったから、ほっといても大丈夫だったの。

マナ:へ? じゃ、アスカが命を救ったってのは?

アスカ:命の恩人ってことにしときたかっただけぇ。(^^)v

マナ:どうして、そんな嘘つくのよ。

アスカ:決まってるじゃんっ! 貸しを作っておく為よっ!

マナ:貸し? 何の為に?

アスカ:アタシは命の恩人よっ! その恩人が「結婚してっ!」って頼んだら、きっとシンジは断れないわっ!(^O^)

マナ:・・・・・・それってほとんど押し掛け女房。(ーー)
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